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2013/11/18

耳嚢 巻之七 諸物傳術の事

 諸物傳術の事

 

 世に吸酸(きふさん)の三聖とて、釋迦孔子老子をさして、三人甕(かめ)をとり廻し立(たて)るを畫く。山本宗英來りて、此程東披懿跡(いせき)の圖迚、元趙子昂(てうすがう)が著書なせるを見しに、右甕の側に立る三人は、蘇東披黄山谷(くわうさんこく)佛印の三人也。何れも宋人(そうひと)にて子昂の哥曲の文も有(ある)由。左も有べき。世の諺語(げんご)を爰に記す。畫家抔にてもやはり孔老釋と心得認來(したためきたり)し由、狩野法印申けると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。まずプレ学習としてグーグル画像検索「三聖吸図」でそれらを見た後、解説が詳しい熊谷市公式サイトの真言宗妻沼聖天山の「聖天堂の彫刻3 三聖吸酸」を読んでみよう。

・「吸酸の三聖」「三聖吸酸図」のこと。略して三酸図(さんさんず)とも言い、東洋画の画題である。儒教の蘇東坡・道教の黄山谷・仏教の仏印禅師の三人が、桃花酸(とうかさん)という極めつけの酸っぱい名酢を舐めて眉を顰めている図で、儒・道・仏の三教一致を主題としたしたものである。孔子・老子・釈迦として描かれることもあるが、これについて底本の鈴木氏注には、『互にそしり会うことを諷するもの』と注され、その後に大田南畝の「南畝莠言」上から以下を引用されておられる。「南畝莠言(なんぽしゅうげん)」は門人文宝亭の編になる文化一四(一八一七)年刊の世事・風俗・文学多方面に亙る有職故実の考証本(二巻)で引用部は恣意的に正字化した。

『世に醋吸の三聖の圖といふものありて、老子孔子釋迦のかたちを畫けり、按ずるに趙子昂が東披懿蹟の圖といふもの一卷あり、その中に云、東披黄門黄魯直とゝもに佛印をとひし時、佛印いはく、吾桃花醋を得たり、甚美なりとてともになめてその眉を顰む、時の人稱して三酸とす、然れば東坡山谷佛印をあやまりて、老子孔子釋迦といふなるべし。僧横川が京華集に、三教吸ㇾ醋圖詩云翁々乞ㇾ醋到其隣、顰ㇾ膞忍ㇾ酸寒迫ㇾ身、李白題ㇾ詩妙於廟、擧ㇾ盃邀ㇾ月影三人、しからば此項より誤來る事多し』

本文にも出る語が多いが、ここで簡単に注すると、「懿蹟」は立派な行跡の意。「黄門黄魯直」は後注する黄庭堅のこと。「桃花醋」は「とうかす」でと読み、桃の花の様に薄らと紅い色を帯びた酢の名。桃花酸。「京華集」は室町中後期の五山文学を代表する臨済僧横川景三(おうせんけいさん 永享元・正長二(一四二九)年~明応二(一四九三)年の漢詩文集。別名「補菴京華集」。但し、ネット上の影印で管見したが私の調べ方が杜撰なものか、当該箇所を発見出来ない。しかもこの引用箇所の意味も今一つ不審な箇所がある(「顰膞」「妙於廟」の「妙」の部分)ので、識者の御教授を乞うものである。李白の詩は陶淵明の「影答形」「形贈影」をインスパイアした「月下獨酌」の冒頭の、

 花間一壼酒

 獨酌無相親

 舉杯邀明月

 對影成三人(以下略)

  花間 一壺の酒

  獨酌 相ひ親しむ無し

  杯を擧げて 明月を邀(むか)へ

  影に對して 三人と成る

の部分である。因みに私は寧ろこの「三酸図」というイメージに、淵明のそれのように現実の惨めな個としての己の肉体、それと対峙するところの内在する超俗的なものを希求する魂、そして月光に照らされた影法師との「三」であるように感じた。

 閑話休題。さて鈴木氏は注の最後に『根岸氏も同書を読んだものか』と注されておられる。確かにその可能性を強く疑わせるほどに大田の言辞とこの「耳嚢」の記載には類似性が強く感じられるのであるが、しかし、そうすると不審が起こる。それは「南畝莠言」の刊行が文化一四(一八一七)年であることである。「耳嚢 卷之七」の執筆推定下限は鈴木氏によって文化三(一八〇六)年夏に推定されており、しかも根岸は同書の刊行前の文化一二(一八一五)年に亡くなっているからである。「南畝莠言」は大田の研究資料からの抜書きであるから、本記載もそれ以前に何か別な形で公刊されていたものであろうか? ここも識者の御教授を乞うものである。

・「山本宗英」底本鈴木氏注によれば、山本惟直(いちょく)。『宗安とも。寛政四年奥医となる。同年法眼に叙せらる』とある。寛政四年は西暦一七九二年。彼は父山本宗洪とともに滝沢馬琴の医学の師でもあった。

・「蘇東坡」蘇軾(一〇三七年~一一〇一年)北宋の政治家で詩人・書家。東坡居士と号したので蘇東坡とも呼ばれる。唐宋八大家の一人。二十二歳で科挙の進士科に及第して官界に入り、四十代の半ばまでは主に各地の知事を務めたが、新法党の王安石らの施策に反対して左遷、一〇八五年に神宗が死去して哲宗が即位、王が失脚して旧法派が復権すると蘇軾も中央復帰する。ところが今度は新法の良い部分を存続させることを主張する彼と新法全面廃止を掲げた宰相司馬光と対立、またしても左遷・追放された。波乱万丈の人生を生きた彼は中国の儒教・仏教・道教の三つの宗教哲学を自家薬籠中のものとなし、楽観的な姿勢で人生の苦しみに臨む解脱の境地を開いて常に理想を堅持した高潔の才人であった。

・「趙子昂」趙孟頫(ちょうもうふ 一二五四年~一三二二年)。南宋から元にかけての政治家・文人画家。字は子昂(すごう)、宋の宗室の出自で南宋二代皇帝孝宗の弟の家系。

・「黄山谷」黄庭堅(こうていけん 一〇四五年~一一〇五年)。北宋の詩人・書家。字は魯直(ろちょく)。号は山谷道人。師の蘇軾とともに「蘇黄」と並称される。江西詩派の祖。書は行書・草書に優れた。仏門に帰依すると同時に老荘思想にも傾倒した。

・「佛印」仏印了元(ぶついんりょうげん 一〇三二年~一〇九八年)。北宋の禅宗の高僧。儒家に生まれたが仏教に転身するも世襲であった官吏をも同時に勤め、僧俗二足の草鞋の生活をした。蘇軾の友人であった。「ぶっちん」とも読む。

・「諺語」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『諺誤』とする。この方が分かりが良い。

・「狩野法印」画家狩野惟信(かのうこれのぶ 宝暦三(一七五三)年~文化五(一八〇八)年)。狩野栄川長男。号は養川院・玄之斎。寛政二(一七九〇)年父の跡を受けて木挽町狩野家を継いだ。後に法印となった。江戸城障壁画や京都御所関係の絵事を多く手がけている(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 諸物伝承の際の誤謬の事

 

 世に吸酸(きゅうさん)の三聖と申し、釈迦・孔子・老子を配して、両三人が甕(かめ)の周りを取り囲んで立てる絵図なんどを描く。

 知れる奥医山本宗英殿が訪ねてこられ、申されたことには、

「このほど蘇東坡の遺蹟の図と申し、元は趙子昂(ちょうすごう)の書き著(あらわ)したる書画を見申したが、右甕の側に立てる三人と申すは、これ、蘇東披・黄山谷(こうさんこく)・佛印(ぶっちん)の三人で御座った。孰れも宋代の人にて、子昂にはそれに纏わる歌曲仕立ての文章も、これ、御座る。」

との由にて御座った。

 いや、まさしく、その通りで御座ろう。世に伝えるところの誤謬(ごびゅう)を正さんがため、特にここに記しおくことと致す。

 当今の画家の間などにてもやはり、これを孔子・老子・釈迦なんどと思い違い致いて、そのようなとんでもない絵図を平気で描く者も御座る由、かの奥絵師狩野法印殿も申しておられる、とのことで御座った。

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