死蠟と靑猫 萩原朔太郎 (「石竹と靑猫」初出形)
死蠟と靑猫
みどりの石竹の花のかげに ひとつの幻の屍體はねむる
その黑髮は床にながれて
手足は力なく投げだされ 寢臺の上にあほむいてゐる。
この密室の幕のかげを
ひそかに音もなくしのんでくる ひとつの靑ざめたふしぎの情慾
そはむしかへす麝香になやみ
くるしく はづかしく なまめかしき思ひのかぎりをしる。
ああ いま春の夜の灯かげにちかく
うれしくも屍蠟のからだを嗅ぎてもてあそぶ
やさしいくちびるに油をぬりつけ すべすべとした白い肢體をもてあそぶ。
そはひとつのさびしい靑猫。
君よ 夢魔におびえて このかなしい戯むれをとがめたまふな。
[やぶちゃん注:『日本詩人』第二巻第七号・大正一一(一九二二)年七月号に掲載された。「あほむいて」「戯むれ」(新字に近く(へん)は実際には「虛」)はママ。「うれしくも屍蠟のからだ」の「蠟」は底本では「臘」であるが、標題の正字から見ても誤植と断じて訂した。後に詩集「蝶を夢む」(大正一二(一九二三)年七月新潮社刊)に再録する際、標題を「石竹と靑猫」と大きく改変した。微妙な部分で異なるので、掲げておく。
石竹と靑猫
みどりの石竹の花のかげに ひとつの幻の屍體は眠る
その黑髮は床にながれて
手足は力なく投げだされ 寢臺の上にあふむいてゐる。
この密室の幕のかげを
ひそかに音もなくしのんでくる ひとつの靑ざめたふしぎの情慾
そはむしかへす麝香になやみ
くるしく はづかしく なまめかしき思ひのかぎりをしる。
ああいま春の夜の灯かげにちかく
うれしくも屍蠟のからだを嗅ぎてもてあそぶ
やさしいくちびるに油をぬりつけ すべすべとした白い肢體をもてあそぶ。
そはひとつのさびしい靑猫
君よ夢魔におびえて このかなしい戲れをとがめたまふな。
私は標題を含め、断然、初出の方がよいと思う。]
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