秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉
本日二〇一三年十一月 一日
陰暦二〇一三年九月二十八日
秋深き隣は何をする人ぞ
ある人に對し
秋ふかし隣はなにをする人ぞ
[やぶちゃん注:元禄七(一六九四)年、芭蕉五十一歳。同年九月二十八日の作。
第一句目は「笈日記」、第二句目は「六行会」(野坡他編)のもの。「笈日記」には、
明日の夜は芝柏が方にてまねきおもふよしにてほつ句つかハし申されし
という前書がある。前に示した「月澄や狐こはがる兒の供」と同日、西横堀東入ル本町にあった薬種商で門人であった之道宅での吟と推定されている。安藤次男の「芭蕉」によればこの時、芭蕉は之道の家に滞在していたらしい(その直前までは之道に対立していた洒堂宅にいた)から、自然な時間的推移から考えると、前の畦止亭の句会を引き上げたその夜の作か(句想の体験は行く前の昼とも考えられる)。「笈日記」の前書から、翌日の夜には門人芝柏亭での連句の会が予定されていたが、恐らくは体調の不良を既に感じていた(後述)彼は出席を諦めた。従って本句は、その欠席を詫びて前日夜(若しくは当日朝)に芝柏に送った異例の欠座の挨拶句ということになる(安藤も「芭蕉」でそう検証している)。幾つかの資料では「大坂芝柏亭興行」とか「芝柏亭」と前書するが、この翌二十九日は夜になって芭蕉は激しい下痢症状を発しており、実際の興行はなかったものと考えられ、安藤によれば『流会となったか。顔ぶれも興行記録も伝わっていない』とある。
安藤はまずは無礼をかけた座の連衆を「隣」に読み、次の「隣」の景に「源氏物語」の「夕顔」の面影を感じてここに恋句の香を立たせてもいると読む(これは知られた「猿蓑」の「はつしぐれ」の巻の先例を引いて分かり易く解説しており、違和感なく受け入れられるものである。無論、私は安藤の評釈に逢う前にこの句と「夕顔」を結び付けて解釈していた訳ではない)。そして、しかし『そういう句作りの楽みを知った男が、ただ何となく晩秋の気分にひたっていられるはず』はなく、この句を詠む芭蕉には同時に『既に不吉な予感があった』に違いない、「夕顔」も見えれば、『「秋深き隣」には、冬隣も春隣も見える。恐れも希望も現れている句だった』のだと述べている。言い得て妙とは、まさにこのことだ。安藤は聴く者を聊か飽きさせるような博覧強記の波状攻撃の果てに、しかも必ず、「鬼」に入ることを忘れないのである。そここそが私の好きな所以である。
この翌二十九日を境に、芭蕉の様態は日を経るに従って悪化していった。]
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