耳嚢 巻之八 座頭の頓才にて狼災を遁し事
座頭の頓才にて狼災を遁し事
下野(しもつけ)の者日光道中筋へ用ありて出(いで)しに、日も暮に及ぶ頃茶屋によりて酒抔始(はじめ)けるが、木挽體(こびきてい)にて大鋸(おほが)を腰にさし候者一人、座當一人一同茶屋に休み、彼是の雜談致(いたし)、右の内木挽と座頭は、是非けふの内、先き方へいかざればならずとて立出んとせしを、彼(かの)茶屋の者押止めて、此程は右道筋に狼多く出て害をなすと聞ければ、夜中行給ふこと不可然(しかるべからず)、迷惑ながら此茶屋に一宿なし給へと申(まうし)けれど、木挽座頭共誠に無據(よんどころなき)事にや、いなみけるに、彼野州(やしふ)の旅人も、三人同道に侯はゞ狼も害なかるべしとて終に立出しに、程なく日暮て野道にかゝりしに、あんに違はず狼一疋見えしが、其脇を拔(ぬけ)て事なく行違(ゆきちが)ひしに、また向ふを見れば狼數十疋群れ居て、或は吠え、又は物を搜す體(てい)にて中々通りがたく、こなたへ向ひ來(きた)る樣子ゆゑ、手頃なる木へ登りて三人ともうづくまり居しが、右狼たちさる體(てい)にも見へずと申合(まうしあひ)けるに、座頭木挽に向ひ、御身の腰にさし給ふ由の鋸(のこぎり)をかし給へとかり請(うけ)て、己が喜勢留(きせる)を持(もつ)て右大鋸を烈敷(はげしく)たゝきければ、かまびすしき音限(かぎり)なし。右音に驚(おどろき)しや、集りし狼いづちへ行けん、みな散り失(うせ)て難なく三人共志す所へ通りしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。ここで最初に出た狼は索敵の先遣であったことが分かる。狼の頓才も恐るべしである。
・「頓才」その場その時に応じて自在に働く知恵。臨機応変の才。気転(機転)の利く才。頓知の才。
・「酒抔始けるが」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『酒など給(たべ)けるが』で誤写が疑われる。
・「大鋸」「おが」とも読む。板挽き用の大形の鋸(のこぎり)。古く、二人挽きの縦挽き用のものが室町時代に中国から伝来し、江戸時代には一人で挽く前挽き大鋸(おおが)が出来て普及していた。
・「座當」僧体の盲人で琵琶・三味線などを弾いて語り物を語ったり、また、按摩・鍼などを生業とした「座頭」であるが、その場合は「ざとう」でこの表記では「ざたう」となってまずい。後に正しく「座頭」と書いており、誤写である。
■やぶちゃん現代語訳
座頭の機転にて狼の災いを遁れた事
下野(しもつけ)の者、日光街道の道中筋へ用のあって旅して御座った。
日も暮れに及ぶ頃、茶屋に寄って酒なんどを飲み始めたところが、そこへ木挽(こびき)職人体(てい)の大鋸(おおが)を腰にさして御座る者一人、さらに座頭一人が加わって、両三人一同揃って、少し長めにその茶屋にて休むことと相い成った。
かれこれと雑談致いて、さてもその三名の内、木挽と座頭は、これ、是非とも今日のうちに先き方へ赴かずばならぬと申したによって、されば三人にてともにと、茶屋を立り出でんと致いたところが、その茶屋の主人が、これを押し止(とど)めて、
主人「……実はこの頃、この先の道中筋に……狼が、これ、多く出でて人に害をなすと聴いて御座いますれば……夜中にそこを行きなさると申すは、これ、よろしゅう御座いませぬ。……茅舎なればご不快とは存じますが……どうぞ、是非、この茶屋に一宿なさるるがよろしゅう御座いましょう。……」
と、申した。
ところが木挽と座頭はともに、よほど、よんどころなき事情があったものか、
座頭「――ご好意は有り難く存じますが、これ、どうしても参らずんばなりませぬでのぅ。」
木挽「――儂(わし)もじゃ。」
と断ったによって、かの下野から参った旅人も、
旅人「三人同道にて御座れば、狼も、これ、容易には襲って参るまいぞ。」
と申し、結局、三人して茶屋を立った。
ほどのう、日も暮れて野道にかかったところが、案に違わず一疋の狼が現われた。――が、両三人、その脇を難なく抜けて行き違(ちご)うて御座った。
ところが――暫く致いて、また先を見ると――今度は狼が――数十疋も群れて御座った。
あるものは、おどろおどろい吠え声を、夜空に向かって細ぅ永(なご)ぅ叫び上げ続け……
またあるものは、涎を垂らし目を爛々と輝かせて、何やらん、物を捜さんとするさまにて素早く左右を徘徊して御座った。……
されば、恐ろしゅうてなかなかに通り抜くるに難(かた)く、両三名、道の真ん中に凍ったように立ち竦んで御座った。
ところが……そのうち……明らかにその狼の群れが……こちらへ向って来る気配なればこそ――近くにあった相応に大きなる木へ三名ともに登って、枝の股に蹲って震えて御座った。
ところが、狼どもはその木の下へと群がると、頻りに幹を登らんとし、また兇悪なる吠え声を立てては、不気味な眼を光らせてはうろつくばかり。さらに狼の数も増えてゆくようで御座った。
旅人「……い、一向に……こ、これ……」
木挽「……立ち去る様子は……ねえ、な……」
座頭「……そうで御座いますなぁ……」
と互いに木の上で言い合って御座ったところが、
座頭「――木挽きのお方。先におん身が腰にお差しになっておらるると申された、その鋸(のこぎり)……それを少しの間、拝借できませぬかのぅ。」
と申したによって、木挽きは鋸(のこ)を鞘から抜き、樹上で座頭へと手渡した。
座頭は借り受けると、幹に体をぴたりと寄せて、木の枝に跨って落ちぬように体を落ち着かせると、左手にて鋸(のこ)の柄を握り、それを暗天へ差し上げ、右手に自分の金煙管(かなぎせる)を持って、
――グヮン! グヮン! グヮン! グヮン! グヮガガ! グヮン!
……と、その大鋸(おおが)を激しく、しかもまた異様な乱拍子で叩き始める!
――グヮガ! ガン! グヮン! ガン! グヮガ! ガンガン!
……その喧騒!
――グヮン! グヮン! グヮン! グヮン! グヮガ! ガガ! ガン! グヮン!
……この世のものとも思われぬ奇音にして怪音!
――グヮラン! グヮラン! ガン! グヮヮン!…………
……さても暫く致いて、旅人と木挽が、ふと下を覗いて見たところが――このおぞましき音に驚いたものか――無数に集(つど)って御座ったはずの狼ども――これ、一体、何処へ行ってしもうたものやら――皆々、散り散りに、闇の彼方へ逃げ去ってしもうた後で御座ったと申す。
されば座頭と木挽と旅人の両三名、難なく、それぞれの志す所へと無事、その街道を抜けて行った申す。
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