日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 10 人前でキスをしない日本人
人々が、屢々手をつなぎながら、一緒に歩いているのは、見ても気持がよい。婦人や子供は通常手をつないで歩く。大きくなった娘と、彼女のお母さんなりお祖母さんなりは、十中九まで手をつないで行く。お父さんは必ず子供と手をつなぎ、何か面白いことがあると、それが見えるように、肩の上に一向くさし上げる。日本人は一体に表情的でないので、我我は彼等に感情が無いと想像する。彼等は決して接吻(キス)しないものとされている。お母さんが自分の子に接吻するのさえ珍しいが、それとても、鼻を子供の首にくっつける位である。私は外山教授に人々、あるいは恋人同志が接吻するかどうか、正直に話して
呉れと頼んだ。すると彼は渋々、「うん、それはするが、決して他の人のいる所や、公開の場所ではしない」といった。私が彼から聞き得た範囲によると、日本人にとっては、米国人なり英国人なりが、停車場で、細君に別れの接吻をしている位、粗野で、行儀の悪い光景はない。これは、我々としては、愛情をこめた訣別か歓迎か以上には出ないのである。我我は、単に我々の習慣のあるもの――例えばダンスの如き――が、彼等にどんな風に見えるかを実認しさえすれば、彼等の同様に無邪気な風習が、我々にどんな風に思われるかを了解することが出来る。外山の話によると、彼がミシガン大学へ入学すべく米国へ行った時、最も不思議に思ったのは、停車場で人々がさよならをいっては接吻して廻り、学校の女生徒たちがお互に飛びついて行くことであったが、男がこんな真似をするに至っては、愚の骨頂だと思ったそうである。
[やぶちゃん注:私はこの外山の感覚と同様のものは、今も多くの日本人に残存している。そして私はそれを優れた我々の美意識であると真面目に思っている。
「彼がミシガン大学へ入学すべく米国へ行った時」既に注したが、外山正一(とやままさかず 嘉永元(一八四八)年~(明治三三(一九〇〇)年)は旗本幕府講武所歩兵指南役外山忠兵衛正義の子として江戸小石川に生まれ、十三歳で蕃書調所で英語を学び、文久四・元治元(一八六四)年には十六歳で開成所教授方になった神童であった。勝海舟の推挙により慶応二(一八六六)年に幕府派遣留学生として渡英、イギリスの最新の文化制度を学んだが、幕府の瓦解により明治二(一八六九)年帰国、一時東京を離れて静岡で学問所に勤めていたが、抜群の語学力を新政府に認められて明治三(一八七〇)年に再度、外務省弁務少記に任ぜられてアメリカに渡った。明治四(一八七一)年には現地の外務権大録になったが、直ちに辞職、ミシガン州アンポール・ハイスクールを経てミシガン大学に入学、折しも南北戦争の復興期であったアメリカで哲学と科学を専攻して、モース来日の前年である明治九(一八七六)年に帰朝したばかりであった。帰朝後は官立東京開成学校で社会学の教鞭をとっていたが、この明治一〇(一八七七)年に同校が東京大学に改編されると、日本人初の教授(文学部。心理学及び英語担当)となっていた(以上は主にウィキの「外山正一」に拠る)。彼がミシガン大学に入学した時は、それでも満二四、五歳であった。]
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