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2013/11/26

耳嚢 巻之七 女の一心群を出し事

 女の一心群を出し事

 いつの比(ころ)にや、本町(ほんちやう)に伊勢やといへる相應の町人有しが、一子甚放蕩者にて親族の異見を不用(もちひず)、やがて親元を欠落(かけおち)して、長崎奉行の供をして崎陽へ至り、彼地にて持病の止(やみ)がたく、同所の藝者といふべき女子に深くなじみ、如何せし哉(や)、主人交代にも暇を取、彼地に殘(のこり)、借屋をかり少しの家業なして彼藝者を妻となしけるが、一兩年も立ぬれば頻りに江戸表へ歸り度、いにしへの不屆(ふとどき)をも後悔なし、兎角に歸り度思へど妻を連(つれ)ては長崎をも出がたく、如何なすべきやと思ひしが、思ひせまりて彼(かの)妻を置去(おきざり)にして夜に紛れ長崎を立出で、所詮女の身にて遠國波濤參りがたきと江戸表へ下りける。妻は跡にて我も跡追缺(おひかけ)て行(ゆか)んと、乍去(さりながら)道中非人にならでは所詮ゆかれじと、少し氣違(きちがひ)の樣子になし、いろいろ道中難儀してとふとふ江戸へ來りし。彼本町いせ屋といへるを兼て聞し故尋(たづね)て門(かど)に立(たち)ければ、いせ屋の若き者、見苦敷(みぐるしき)非人物もらひの所爲(しよゐ)なるやと咎めしかば、若旦那に御目に懸り度(たき)よし申しける故、いよいよ手代ども憤り、其方如き非人に若旦那の知る人有べきやと叱りければ、おん目に掛りさへすればわかる事也とて何分不立去(たちさらず)。夫よりたゝけ抔罵り物騷ぎ成りし故、彼息子兼て親類の侘にて親元へ立歸り、古しへに替(かはり)をとなしく成り、彼非人を見れば長崎にてめとりし妻たる故に大きに驚き、今は隱すべき樣なければ、兩親へしかじかの譯語りければ、かく深切の情有(ある)女ならば先(まづ)ひそかに勝手の方へ呼入(よびいれ)よとて、勝手の方へ廻し尋(たづね)ければ、長崎を立出(たちいで)、千辛萬苦(せんしんばんく)を凌ぎ慕ひ來りしと言ゆへ、先(まづ)湯をつかひ髮取(とり)あげさせければ、爰(これ)も息子の迷ふも斷(ことわり)、絶世の美人といふべき。父母も彼ㇾが樣子、且(かつ)心底の切なるを感じ大きに悦びけるが、爰(ここ)に一ツの六ケ敷(むつかしき)一段有しが、次のケ條に記(しるす)。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。連続した話を前後篇二話分で九十八、九話というのは、最後の最後、ちょっと汚いよ、鎮さん!
・「本町」岩波の長谷川氏注に、『中央区日本橋本町』とする。ウィキの「日本橋本町」によれば、この地域は徳川家康の江戸入府以前には福田村ともまた洲崎とも呼ばれていたが、天正一八(一五九〇)年に町地として開発されて以降、寛永の頃には既に京・大坂より大店が進出、商業地域として大いに発展を遂げた。本町という町名は江戸の中で最初に造られた大元(おおもと)の町という意味。江戸時代には『薬種問屋や呉服屋をはじめとして色々な種類の商店が多く集まった。戯作者の式亭三馬は当時の本町二丁目に住んでいて本町庵と号し、戯作を書くかたわら商売を営んでいた』。幕末から明治初期にかけて活躍した歌舞伎作家三代目瀬川如皐(じょこう)も本町四丁目の呉服屋出身である、とある。
・「主人交代」本話柄の年代は特定出来ないが、「卷之七」の執筆推定下限の文化三(一八〇六)年以前のそれほど遠くない時と考えるなら、長崎奉行は定員二名で、その内、一年交代で江戸と長崎に詰め、毎年八月から九月頃に交替した。

■やぶちゃん現代語訳

 第一部 女の一心が群を抜いて祈願を成就させた事

 何時の頃のことで御座ったか、日本橋本町(ほんちょう)に伊勢屋と申す相応の町人が御座った。ところがその一子、これ、はなはだ放蕩息子にて、親族がしきりに異見するをも顧みず、勝手気儘のやりたい放題、遂には親元を出奔致いて、長崎奉行の供なんどになって崎陽へと至り、かの地にて、また放蕩の持病、これ、止み難く、同所の芸者の如き女子(おなご)に深く馴染んでしまい――果てはどうしたものか――附き従って御座った主人長崎奉行殿の交代となった日には、暇まを乞い請け、かの地に残って、借屋を借り、ちょっとした家業なんどをなして、かの芸者を妻と致いたと申す。
 ところが一、二年も経たぬうちに、頻りに江戸表へ帰りとうなり、かつての放蕩無頼をも後悔致いて、兎も角も帰りたい、帰りたいと思うように相い成った。
 しかし妻を連れては長崎をも出で難く、
「……さても……一体……どうしたら、ええもんか……」
と思い悩んでおったが、望郷の念、思い迫り、遂には、かの妻を独り置き去りにしたまま、夜陰に紛れて長崎を立ち出で、
「……所詮……女の身なれば……遠国の……荒木波濤を越えたる地には……とても参らるるものにては……これ……御座るまい……」
なんどと、得手勝手な納得など致いて、江戸表へと下ったと申す。
 さても妻は、夫の行方は常日頃の様子より察して御座ったによって、
「――妾(わらわ)も後を追うて駈けて参ります!」
と、走り出でた。が、
「……さりながら遙かなる道中、これ、非人にでもならいでは、とてものことに江戸へ辿りつくこと……叶(かの)うまい……」
と、少し風体や言動、これ、狂女の体(てい)となして……いや、もう、道中、難儀に難儀を重ねて……とうとう江戸へと辿りついたと申す。
 かねてより、かの夫が家は日本橋本町伊勢屋という聞いて御座ったゆえ、そこを尋ねて辿りついた、その門(かど)――これ、大層、立派なるお店(たな)――に立った。
 店先の掃除を致いて御座った伊勢屋の若き者が、
「こりゃあ! 見苦しの非人! 物貰いにでも来よったかっ! しっし!」
と見咎めたところ、ザンバラ髪で襤褸(ぼろ)を纏ったこの女乞食、あろうことか、
「――こちらの若旦那さまに――お目にかかりとう存じまする!」
と申したによって、それを聴きつけた店内の手代どもまで表に出でて、以ての外に憤り、
「こら! その方のごとき賤しい穢い非人が、若旦那さまの知ろうお人であろうはずが、あるまい! 帰れ! 帰れ!」
と叱りつけた。ところが、今度は、
「――一目……一目お目にかかりさえすれば……分ることにて御座いまする!」
と懇請して、いっかな、動こうとせぬ。
「気違いもここまでくると、呆れてものが言えねえ!」
「ちょいと懲らしめてやりやしょう!」
「そうさ……ちょいと脳天に喰らわしたって、正気を戻してもらおうかの!」
と、それより、
「われ! ホンマに小突くぞッ!」
なんどと罵って寄ってたかって脅したによって、店先は騒然となって御座った。
 さて、かの息子はといえば――江戸へ戻ると、かねてより好意を持って呉れて御座った親類の者に頼み込んで、本家へ丁重な詫びを入れたによって、やはり実の一人子なればこそ親も可愛いく、結局、親元へと立ち帰って、かつてとはうって変わって従順となり、その日も、店の外回りの仕事を終えてちょうど、お店(たな)へと戻って参ったところで御座った。
 と、店先でさんざんに小突き回されておった穢いなりのその非人を――よくよく見れば――これ、なんと!
――長崎にて娶ったかつての妻じゃ!
さればこそ大きに驚き、その風体の哀れに感ずればこそ、今となっては隠しようも御座いない、手代どもにはともかくも店端の軒下に休ませるように言いつけ、店へ飛び込むと、奥に御座った両親へしかじかの訳を、これ、正直に語って御座ったと申す。
 すると父母は、
「……かの長崎から女子(おなご)独りで追って参ったとは……それほどまでに切なる情を持ったる女子(おなご)ならば……まあ、まずは人目を避けて、勝手口の方(かた)より呼び入るるがよい。……とくと逢(お)うてみようぞ。……」
と申した。
 されば勝手の方へと回し、屋敷内へと導くと、女は、地べたに三つ指をつき、
「……長崎を立ち出で……千辛萬苦(せんしんばんく)を凌ぎ……お慕い致いてここまで参り越しまして……御座いまする。……」
と殊勝な挨拶を致いたによって、父母は、
「……さあさ! まずは湯を遣い、髪を結い直しなど致いてから……」
と下女に命じ、湯を沸かすやら、髪結を呼び寄せるやら……
……さてもかくして落ち着いたるその女子(おなご)を見たる父母は、これ、言葉も出でぬ!
――これは!
――息子の迷うたも理(ことわ)りじゃ!
――いや、もう! 絶世の美人ともいうべき女性(にょしょう)!
なので御座った。
 かくして父母も、この女性(にょしょう)の風情はもとより、何よりも心底(しんてい)の切なる、我が子への愛憐(あいりん)の情を汲み取り、これまた大きに悦んで御座ったと申す。……
 ただ、ここに一つの、難しき事態が出来(しゅったい)致いた――という更なる一段が御座るが――これはまた――次の箇条に記すことと致そう。(続く)

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