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2013/11/05

耳嚢 巻之七 大盜人にともなひ歩行し者の事

 大盜人にともなひ歩行し者の事

 田安の御屋形(おやかた)にかろき者勤(つとめ)し忠七といへる者は、若き時甚だ放蕩なりし。予しれる者に咄しけるは、若き時放蕩にて父母兄弟にも見限られて、無據(よんどころなく)淺草日本堤(にほんづつみ)の下へ出て紙漉(かみすき)に雇(やとは)れけれど、元より不身持(ふみもち)ゆへ酒食に錢を費し、或る日土手へ出て涼み思はず芝はらに臥(ふし)たりしに、人通りに目覺(さめ)たば粉抔□て居しに、千住の方より三度笠をかむりて、飛脚ともいふべき者荷をかつぎ來りしが、懷中もの取落(とりおと)し行過(ゆきすぎ)しを呼懸(よびかけ)して教へけるを、忝しと立歸り拾ひ取(とり)、日も暮(くれ)たりしが彼(かの)者も多葉粉吸付(すひつけ)て休みて、扨御身はいづ方にて何のたつきなすやと尋(たづね)しに、しかじかの身のうへ也と語りければ、かく賴(たより)なき身のうへならば、我にしたがひ荷を助け持(もち)くれんや、我はいせの方へ參る者也と語る。望處(のぞむところ)と直(ぢき)に請合(うけあひ)ければ、道中にひとへ物(もの)抔調へ、髮月代(かみさかやき)など念比(ねんごろ)に世話して東海道へ掛りしに、或(ある)泊りにて、何をか隱さん、我は子細ある者也、道中にて相應の仁躰(じんてい)の連(つれ)なければ、目を付(つく)る者もあるべしと御身を道中連(づれ)になせし也、其身(そのみ)町人の商人の用向にて上方へ登り候躰(てい)に致(いたし)、上方近くの宿に泊りしが、何れの町家よりの登(のぼ)せ金(がね)にや、又武家の登金(のぼせがね)にや、拂曉より荷物指運(さしはこび)、甚だ嚴重の躰(てい)を見て、彼(かの)忠七をいざなゐ鈴鹿山邊の方に入(いり)て、忠七は此(この)所暫く待(まつ)べしと、夜深(よぶか)に右山を出て、其身持(もち)し荷物をば忠七に預(あづけ)て往來へ立出しが、暫くして燈灯(ちやうちん)をともし通る者見へけるが、何か大騷ぎの樣子にて彼(かの)燈灯も消(きえ)しが、立騷ぎて先の方へ走行躰(はしりゆくてい)なりしが、彼(かの)男忠七が旁(かたはら)へ來り、懷中より金子五六百兩斗(ばかり)取出し荷を拵(こしら)へ、金子忠七へもあたへ、御身も是より中山道を江戸へ歸るべし、我は西國へまかる也と直(ぢき)に立別(たちわかれ)しが、忠七も無難(なんなく)江戸へ歸りて、彼(かの)紙すきの元へ立歸り、かゝるあやしき事にこりて家業も精を入けるが、或時紙漉の親かた、いづ方へ至りしぞと尋し故、かゝる者にいざなわれおそろしきと語りければ、夫(それ)は大盜人(おほぬすつと)なるべしと右親方申(まうし)けるが、無程(ほどなく)彼者町中引廻(ひきまはし)通りしを見て、彌(いよいよ)おそろしく身をちゞめつゝしみ居たりと語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。後文から見れば男が荷を落したのも忠七の心性の「正直さ」を測ったもの、忠七を積極的に脅して従わせるような粗野な凶悪さを一回も示していないこと、明確ではないが、犯行時に殺生に及んでいない可能性があること、闇を自在に歩けるすこぶる特殊な視力その他を有すること――私はちょいと雲霧仁左衛門を思い出してしまった。
・「大盜人にともなひ歩行し者の事」「おほぬすつとにともなひありきしもののこと」と読んでおく。
・「田安の御屋形」徳川御三卿の一つ、第八代将軍吉宗次男宗武が江戸城田安門内に屋敷を与えられたのに始まる田安家の屋敷。
・「淺草日本堤の下へ出て紙漉に雇れ」江戸初期から現在の雷門一丁目(現在の田原小学校付近)は屑紙の漉き返しを業とする人々が多く住んでおり、元禄年間(一六八八年~一七〇四年)になると浅草山谷周辺で古紙・襤褸切れなどを素材として漉き返した、落とし紙や鼻紙などに用いる「浅草紙」が盛んに製造されるようになり、後にはそうした低品質の紙をも「浅草紙」と呼称するようになった。江戸中期の川柳に、
 鼻をかむ紙は上田か淺草か
とある(信州上田は高級和紙紙漉産地)。また夏目漱石の「道草」の第六十九章にも、主人公健三が姉の態度に不快になって家を飛び出し、そぞろ歩きし、明治の郊外の急速な変貌ぶりに人事を絡めた深い感慨を抱くシーンにも登場する。私の好きな場面なので引用しておく(引用は岩波版新書版全集を用い、踊り字「〲」は正字化した)。
   *
 淋(さみ)しい心持で、姉の家を出た健三は、足に任せて北へ北へと歩いて行つた。さうしてついぞ見た事もない新開地のやうな汚(きた)ない、町の中へ入(はい)つた。東京で生れた彼は方角の上に於て、自分の今踏んでゐる場所を能(よ)く辨(わきま)へてゐた。けれども其處には彼の追憶を誘(いざな)ふ何物も殘つてゐなかつた。過去の記念が悉(ことごと)く彼の眼から奪はれてしまるた大地の上を、彼は不思議さうに歩いた。
 彼は昔あつた靑田と、その靑田の間を走る眞直(まつすぐ)な徑(こみち)とを思ひ出した。田の盡る所には三四軒の藁葺屋根が見えた。菅笠(すげがさ)を脱いで床几(しやうぎ)に腰を掛けながら、心太(ところてん)を食つてゐる男の姿などが眼に浮んだ。前には野原のやうに広い紙漉場(かみすきば)があつた。其所を折れ曲つて町つゞきへ出ると、狹い川に橋が懸つてゐた。川の左右は高い石垣で積み上げられてゐるので、上から見下(みおろ)す水の流れには存外の距離があつた。橋の袂にある古風な錢湯の暖簾(のれん)や、其隣の八百屋の店先に並んでゐる唐茄子(たうなす)などが、若い時の健三によく廣重(ひろしげ)の風景画を聯想させた。
 しかし今では凡(すべ)てのものが夢のやうに悉(ことごと)く消え失せてゐた。殘つてゐるのはたゞ大地ばかりであつた。
「何時斯(いつこ)んなに變つたんだらう」
 人間の變つて行く事にのみ氣を取られてゐた健三は、それよりも一層劇(はげ)しい自然の變り方に驚かされた。
 彼は子供の時分比田と將棊(しやうぎ)を差した事を偶然思ひだした。比田は盤に向ふと、是でも所澤の藤吉さんの御弟子(おでし)だからなといふのが癖であつた。今の比田も將棊盤を前に置けば、屹度(きつと)同じ事を云ひさうな男であつた。
「己自身(おれじしん)は必竟(ひつきやう)どうなるのだらう」
 衰へる丈(だけ)で案外變らない人間のさまと、變るけれども日に榮えて行く郊外の樣子とが、健三に思ひがけない對照の材料を與へた時、彼は考へない譯に行かなかつた。
   *
・「□て居しに」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『煙草など給(たべ)て居しに』。これで訳した。
・「登せ金」岩波版長谷川氏注に、『上方への送金』とある。

■やぶちゃん現代語訳

 ひょんなことから大盜人(おおぬすっと)に伴って恐るべき一働きを味わった者の事

 今、田安の御屋敷に勤めて御座る軽(かろ)き身分の忠七と申す者は、これ、若き時にははなはだ放蕩者で御座った。
 以下は私の知り合いに、かの忠七が話したことで御座る。

……儂(あっし)は若い頃、放蕩の限りを尽くしまして、父母兄弟にも見限られて、よんどころなく、浅草は日本堤(にほんづつみ)の辺りへ転がり込んで、紙漉きに雇われてはおりやしたが……もとより不身持(ふみもち)で御座んしたから、酒食に銭を使い果たし、すっからかん……そんなある日のこと、紙漉きに嫌気がさして、仕事を早めにおっぽり出して、何気に土手へ出でて夕涼みがてら、ふと、その辺りの堤脇の芝原にごろんと寝転がっておりやした。…暫く致しやして、近くの堤の上を通る人通りに目覚めまして、すきっ腹に煙草なんど吸うて誤魔化しておりやしたところが……千住の方より、三度笠を被って、飛脚体(てい)の者が荷を担いで通りかかりやした。……と、その男、ふと懐中のものを落として行き過ぎやしたんで、
「おい、お前(めえ)さん! 何か、落したぜ!」
と呼び懸けて教えたところが、
「おっと! こりゃあ、忝けねえ!」
と立ち帰って拾い取るなり、すっと近づいて参りやして、
「……日も暮れてきやした、な……」
と、その男も横に坐って煙草を吸いながら一息つきやした。
 暫くしやすと、
「……さてもお前さんは、何処で何を生業(なりわい)と致いておられるんで?……」
と訊ねましたから、
「……お恥ずかし乍ら……かくかくしかじかの身の上にて……」
と語ったところが、
「……そうかい。……そりゃ気の毒な……かくなる身の上ならばこそ……一つ――儂(あっし)について荷持ちの助け人(っと)をして下さらんか? 儂はこれから伊勢の方(かた)へと参る者じゃが?……」
と語る。さればここぞ渡りに舟、
「――へえ! 望むところで!」
と直ちに請け合(お)うたんで御座います。……
 それからもう――道中にて単衣(ひとへ)物なんども買い調え、髪結いやら月代(かみさかやき)剃りなんどまで――これ一切合財、懇ろに世話して呉れました。……
 ところが東海道へかかりまして、ある泊まった旅籠で夜半のこと、男は徐ろに、
「……何をか隠さん……儂(わし)は子細ある者で、の。……この道中にて相応の仁体(じんてい)の連(つ)れないと……これ、いろいろと、ふふふ……目を付けて怪しむ者もあらんかと思うて、の……お前(めえ)さんを道中連れと致いた訳よ。……お前(めえ)さんを、これ――町人の商人(あきんど)の用向きにて上方へ登りますところにて御座い――という体(てい)に致いたは……そのためよ……ふふふ。……」
と何やらん、意味深なる笑みを浮かべて告げたんで御座いやす。……その笑みの笑ってはおらぬ眼の奥に見た冷たい一閃(いっせん)には……何やらん、慄っと致しましたものの……ここまで来ては、もうこの男の舟からは下りられませなんだ。……
 その後、上方近くの旅籠に泊りやしたが、その翌払暁のこと、その同じ旅籠より――これ、何れの町家よりの登(のぼ)せ金(がね)か、はたまたどこぞの武家の登せ金かは存じませぬが――はなはだ厳重なる警護にて、大きなる荷を指揮致いて運び出すのを、男は障子越しに眺めておりましたが、やおら、
「――さても忠七、参ろうか。……」
と、その荷の一行の後を秘かに追うようにして旅立ちまして御座えやす。……
 海道が鈴鹿山辺りの方に入った頃合い……もうその時分には、つけておりやした荷の列を尾根筋を先回りして遙か前で待ち伏せしておる体(てい)で、
「――忠七――お前(めえ)さんは、何もせず、ここで暫く待っていな。……」
と命ずると、男は自分が持っております荷物を我らに預け、真っ暗闇の往来を何の造作もなく進み出て行きやして御座えやした……まるで昼間の道を歩く如……すたすたと……
 暫く致しましますと、提灯(ちょうちん)を点(とも)して通る者がおるように見えましたが……
――ここにて突如!
――何か大騒ぎが起こった様子にて……
――その瞬間――かの提灯も――ふっと消えて――再び真っ暗闇となり……
――立ち騒ぐ声々だけが――夜陰の深山に――響き渡る!……
――何人か――先へ先へと堰切って逃げ去って行くような足音!……
……と!
……かの男が我らが傍らへ忽然と現われ出でて
……懐中より金子五、六百両ばかりも取り出だいては、あっという間に担い荷に拵えまして御座いました。
 男は法外な金子を我らへも持たせ、
「――お前さんもこれより中山道を江戸へ帰るが、いいぜ。――儂(わし)は西国へ行くぜ。――あばよ、達者でな――」
と申すが早いか、瞬く間に立ち別れまして御座いました。……
 我らはその後、ことものぅ江戸へ帰ることができ、かの元の紙漉きの親方の元へと立ち帰って平身低頭、ありがたい親方の温情にて、元の職へと復し、まんず、この恐るべき怪事に関わったことにまっことこりまして、紙漉きの生業(なりわい)にも精を入れて励みまして御座いました。……
 暫くしたある日のこと、紙漉きの親方が、
「……あの、お前(めえ)が、ふらっとおらんようになったあん時は、一体、何処へ行っておったじゃあ?」
と訊ねられましたによって、
「……実は……かかる者に誘われ……かくかくしかじか……いや、もう、肝も潰るる如き恐ろしきことにて御座いました……」
と正直にまことのことを告げましたところが、
「……お、お前! そ、それは、とんでもない大盜人(おおぬすっと)に、これ、違いないぞッ!……」
と、かの親方も申しましたが……
……ほどのう……かの男……江戸にて市中引き回しの上打ち首獄門と相い成り……儂(あっし)の目前を……縛られて通って行ったを現に見申した…………
……いやはや……あん時はいよいよ恐ろしゅうなって……身を縮めるように……知らんふりを致いて御座いました…………

と、語ったとのことで、御座った。

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