耳囊 卷之七 夢中鼠を吞事
夢中鼠を吞事
文化三年の夏の比(ころ)、番町邊布施金藏成よし、御番衆晝寢して足腰を小僧にもませ、とろとろと眠りし夢に、魂(たましひ)口より出ると見て大きに驚き、つかみ捕へて口へ押込呑(おしこみのみむ)と思ひしが、咽喉(のど)のあたりかきさばく如く甚(はなはだ)苦るしければ、人を呼(よび)しに下女抔來り、いかゞなし給ふやとさゞめきしに、湯を乞(こひ)、漸く落付し樣子ゆへ家内、如何なし給ふやと尋(たづね)ければ、かくかくの夢を見て大きにくるしみしに、去(さ)るにても小僧は如何なしけるやと叱り尋ければ、小僧は次の間に住居(すみゐ)たりける故、いかなる事哉(や)と尋ければ、人より南きん鼠を貰(もらひ)寵愛せしに、旦那の腰を打寢給ふ故、側にて取出し放し慰(なぐさめ)し處、旦那枕元へ右鼠至りしを、無悲に旦那とらへて吞み給ひぬゆへ歎く由申(まうし)けるにぞ。扨は魂と思ひ吞(のみ)しは鼠なるか、いづれも驚(おどろき)、一笑なしぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:異類奇譚(こちらは寧ろ動物ご難の珍譚であるが)で軽く関連。――「夢中」で鼠を呑む――この標題は洒落ででもあるだろう。
・「文化三年の夏」鈴木棠三氏が本「卷之七」の執筆推定下限を文化三(一八〇六)年夏とする根拠の一つ。
・「御番衆」ここは広義の武家に於いて宿直警固などに当たる武士。
・「小僧」雑用に使役するために雇った少年。
・「南きん鼠」南京鼠。哺乳綱ネズミ目ネズミ上科ネズミ科ハツカネズミMus musculus 。参照したウィキの「ハツカネズミ」によれば、本邦では江戸時代から愛玩動物として『白黒まだらのハツカネズミが飼われていた。この変種は日本国内では姿を消してしまったが、ヨーロッパでは「ジャパニーズ」と呼ばれる小型のまだらマウスがペットとして飼われており、DNA調査の結果、これが日本から渡ったハツカネズミの子孫であることがわかった。現在は日本でも再び飼われるようになっている』とある。体色は変異に富み、白色・灰色・褐色・黒色とあるが、辞書で「南京鼠」を引くと、ハツカネズミの飼育用白変種で実験用・愛玩用とある。ここはやはり「こゝろ」の先生ではないが、「純白でなくっちゃ」。
・「無悲に」底本には右にママ注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『むざんにも』(無惨にも)とする。こちらで訳した。
■やぶちゃん現代語訳
夢中で鼠を呑む事
文化三年の夏の頃、番町辺りに住もう布施金蔵(ふせきんぞう)とか申す者の話。
御番士の一人が、当直(とのい)明けなればとて、昼寝をし、足腰を小僧に揉ませ、とろとろと眠りかけたその夢に……
……魂(たましい)が口より出づると見えた……されば……夢中にあって大いに驚き……無我夢中で摑み捕え……やっとのこと、口の中へと押し込んで……ゴックン!……と呑んだ……
……と思うたら――咽喉(のんど)の辺り――何やらん、内側より出でんとして掻き毟る如く!――以ての外に苦るしゅう御座った……
と、ここで目が醒めて御座ったれど、いっかな、咽喉(のんど)の、
――グワッフ! グワッフ! ググ! グワッフ!
として、一向に治まらざるによって、人を呼んだところが、下女なんどの参って、
「如何なされましたかッ?!」
と訊ぬるも、兎も角も声も出でず、慌てうろたうるばかり。
やっと御番士の湯を乞う手真似に合点致いて、下女がすぐに白湯(さゆ)を呑ませたところ、漸く落ち付いて御座った様子なれば、家内、集まって参った他の家士ら、
「……一体全体、如何なされた?」
と質いたところ、
「……い、いや、もうかくかくの夢を見申し、いや、大きに苦しみまして、の……いや……それにしても……我らの傍におったはずの小僧は……これ、さて……何処にどうしておったものかッ?……」
と、どなり散らして捜いたところが、小僧はすぐ次の間にちんまりと坐って、何やらん、しくしくと泣いて御座ったゆえ、
「如何が致いたのじゃッ?!」
と糺いたところが、
「……先(せん)にさるお人より……南京鼠を貰(もろ)うて可愛がっておりましたに……旦那さまのお腰をお揉み申しておりますうち、お眠りになられたゆえ……側に鼠を取り出だして放っては遊んでおました……ところが……旦那さまの枕元へ……その鼠が……ととととっと……走って参りましたところが……無惨にも……半眼になった不気味な旦那さまは……鼠をむんずと摑むと……そのまま……ぱくっと……お呑みなさってしまわれた……さればこそ…鼠の哀れで……泣き悲しんでおるの御座います……」
と申した。
かの御番士、茫然と致いて、
「……さ……さては魂(たましい)と思い込んで呑んだは……これ……ね……鼠なるかぁ?…………」
と周囲の者ども、孰れも驚き、いや、大笑い致いて御座った。
« 中島敦 南洋日記 十月十九日 東條内閣成立翌日 | トップページ | 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 11 日本の祭り »

