紙燭して廊下通るや五月雨 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)
紙燭して廊下通るや五月雨(さつきあめ)
降り續く梅雨季節。空氣は陰濕にカビ臭く、室内は晝でも薄暗くたそがれて居る。その爲紙燭を持つて、晝間廊下を通つたといふのである。日本の夏に特有な、梅雨時の暗い天氣と、疊の上にカビが生えるやうな、じめじめした濕氣と、さうした季節に、さうした薄暗い家の中で、陰影深く生活して居る人間の心境とが、句の表象する言葉の外周に書きこまれて居る。僕らの日本人は、かうした句から直ちに日本の家を聯想し、中廊下の薄暗い冷たさや、梅雨に濕つた紙の障子や、便所の靑くさい臭ひや、一體に梅雨時のカビ臭く、内部の暗く陰影にみちた家をイメーヂすることから、必然にまたさうした家の中の生活を聯想し、自然と人生の聯結する或るポイントに、特殊な意味深い詩趣を感ずるのである。しかし夏の濕氣がなく、家屋の構造がちがつてる外國人にとつて、かうした俳句は全然無意味以上であり、何の爲に、どうしてどこに「詩」があるのか、それさへ理解できないであらう。日本の茶道の基本趣味や、芭蕉俳句の所謂風流やが、すべて苔やさびやの風情を愛し、濕氣によつて生ずる特殊な雅趣を、生活の中にまで浸潤させて藝術して居るのは、人のよく知る通りであるけれども、一般に日本人の文學や情操で、多少とも濕氣の影響を受けてないものは殆んどない。(すべての日本的な物は梅雨(つゆ)臭いのである)特に就中、自然と人生を一元的に見て、季節を詩の主題とする俳句の如き文學では、この影響が著しい。日本の氣候の特殊な觸感を考へないで、俳句の趣味を理解することは不可能である。かの濕氣が全くなく、常に明るく乾燥した空氣の中で、石と金屬とで出來た家に住んでる西洋人らに、日本の俳句が理解されないのは當然であり、氣象學的にも決定された宿命である。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「夏の部」より。太字「さび」は底本では傍点「ヽ」。「中廊下」は「なからうか(なかろうか)」と読み、屋敷や御殿内の両側に部屋や住居が並んだ廊下。]
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以上を以って本ブログ・カテゴリでの「郷愁の詩人與謝蕪村」の春夏秋冬の部の句評釈を総て公開した(一部、抜けているように思われる箇所はずっと以前に公開しているので、遡ってご覧戴きたい)。