旅に病んで夢は枯野をかけ𢌞る 芭蕉 ――本日期日限定の膽(キモ)のブログ記事――319年前の明日未明に詠まれたあの句――
本日二〇一三年十一月 十日/明日二〇一三年十一月十一日
陰暦二〇一三年 十月 八日/明日二〇一三年 十月 九日
病中吟
旅に病んで夢は枯野をかけ𢌞(めぐ)る
旅にやんで夢は枯野をかけまはる
旅にやみて夢は枯野をかけめぐる
旅に病んで枯野を𢌞る夢心
[やぶちゃん注:元禄七(一六九四)年、芭蕉五十一歳。同年十月九日午前二時頃の作。
第一句目は「笈日記」、第二句目は「芭蕉翁行狀記」(路通著)、第三句目は「和漢文操」(支考編)より。第四句目については、「笈日記」に(以下、国立国会図書館デジタルライブラリーにある大正一五(一九二六)年春陽堂刊「俳人叢書」第四編を底本とし、一部に読みを加え、踊り字「〱」「〲」は正字化し、一部に字空けを施した)、
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此夜深更におよびて介抱に侍りける呑舟をめされて、硯の音のからからと聞こえければ、いかなる消息にやと思ふに
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として第一句を掲げ、その後に、
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その後支考をめして 〽なをかけ𢌞る夢心 といふ句づくりあり。いづれをかと申されしに、その五文字はいかに承り候半(さふらはむ)と申(まうさ)ば、いとむつかしきことに侍らんと思ひて、此句なにゝかおとり候半と答へける也。いかなる不思議の五文字か侍らん、今はほいなしみづから申されけるは、はた生死の轉變を前にをきながら、ほつ句すべきわざにもあらねど、よのつね此道を心に籠(こめ)て、年もやゝ半百に過(すぎ)たれば、いねては朝雲暮烟(てううんぼえん)の間(かん)をかけり、さめては山水野鳥の聲におどろく。是を佛の妄執といましめ給へる、たゞちには今の身の上におぼえ侍る也。此後はゞ生前の俳諧をわすれむとのみおもふはと、かへすがへすくやみ申されし也。さばかりの叟の辭世は、などなかりけると思ふ人も世にはあるべし。
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と記し、また、「枯尾華」(其角編)にも(伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」に載るものをベースに、文字・記号を一部変更、一部に読みと字空けを施した。下線は私が引いた)、
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ただ壁をへだてて命運を祈る聲の耳に入りけるにや、心細き夢のさめたるはとて 〽旅に病(やん)で夢は枯野をかけ𢌞る また 枯野を𢌞るゆめ心 ともせばやともうされしが、是さへ妄執ながら、風雅の上に死(しな)ん身の道を切に思ふ也、と悔まれし。八日の夜の吟なり。
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とある、今一つの別案である。
以上の支考の叙述は如何にもな師を慮ったかのような「孰れもよろしいかと存ずる」と台詞で逃げを打ったように見え、其角の話も合わせると、芭蕉は死を予感しながらしかもなお、孤独な風狂の妄執を自らに引き受けた、といったまさしく小説仕立てとなっていて、かの芥川龍之介が「枯野抄」で銀のピンセットでテッテ的に摘まみ尽くしたのも、私には存外頷けるものがある(リンク先は私の電子テクスト。この「笈日記」自体を芥川は創作時の参考にしている。但し、龍之介が大幅に依拠した文曉の「花屋日記」は完全な偽書である)。
芭蕉は九月二十九日夜、激しい下痢症状を起こし、言葉を発することも出来ないほどに衰弱した。翌(この年の九月は小の月)十月一日に下痢二十余度、同二日三十余度、同三日三十余度と重い泄痢症状が持続し、三日には病床に伺候した弟子の手を握って放さず、悪寒と振顫、足先の冷感を訴えた。同五日、駕籠で之道亭から大坂南御堂前花屋仁左衛門の貸座敷に病床を移して、支考・素牛・之道・舎羅・呑舟・二郎兵衛らが看病に当たり、また膳所・大津・伊勢などの門人らに危篤の報が告げられた。同六日には、やや小康を得、床から起き上がって庭を見たりしたが、この時、既に憔悴し尽くして顔は枯木のように痩せ衰えていたという。
芭蕉の死因には諸説があり、当時は九月二十七日の園女邸の句会で供された茸の中毒と噂され、園女や門弟たちもそう信じていたとされるが、芭蕉だけが茸にあたったと考えるのは無理があり、彼の悪寒や頭痛を伴う症状は既にそれに先立つ九月十日晩方(前々日の九月八日に体調不良を押して伊賀を出発、前日に奈良を立って宵に大坂着という強行軍にも着目)から発症しており、それがまた波状的に繰り返し毎晩起っていることからも悪意に満ちた流言に過ぎないと思われる。「松尾芭蕉の病状より、病名を推定してください」というネットの質問に対する回答を参考にすると、一般に彼の命を奪ったと考えられる劇症型の下痢症状は食中毒か赤痢かと言われているものの、単なる食中毒にしては下痢・発熱・悪寒の持続期間が長過ぎること、この元禄二年に大阪では赤痢や腸チフスの流行は見られなかったことから、重度の心身疲労による免疫力低下に由来する、感染力はそれほど強くない感染性の腸炎の可能性か、感染症ではない潰瘍性大腸炎などが疑われているようである。後者についてみると、芭蕉には痔の持病があったが、現代では長い痔と思っていたものが実は潰瘍性大腸炎であったというケースがあって、芭蕉のように症状が収まったり強くなったりする緩解期と活動期が繰り返し起こる病態は潰瘍性大腸炎の所見によく似ているとある。何より接触した人々や看病人に同様の症状が出ていないとすれば、感染性の腸炎よりもこの潰瘍性大腸炎の疑いの方が濃くなる。そうした病態を長年放置し続け、しかも旅や門人間のいざこざに心労を重ねた結果として免疫力が低下、その状態で呼ばれた句会(園女邸に限らず数多い)で食べつけない、胃腸にストレスのかかり易い山海の珍味の類いを食した結果、何らかの菌又はウイルスに食物感染して食中毒に感染、しかしすでに腸の機能が衰えていたため、自然治癒力が働かず、度重なる下痢による脱水と栄養失調による体重減少で衰弱が進み、遂に死に至った――といった推定がリンク先の回答にはある。頗る首肯出来る推論であると私には思われる。
この八日の昼は下痢の回数も減じ、日中は静かに眠っていたらしいが、同夜四更暁八ツ時(十月九日の午前二時頃)にふと目覚め、看病に伺候していた呑舟に墨を磨らせて、この句を口述して認(したた)めさせた後、「病中吟」と前書させたという。結果として辞世扱いの句とはなったものの、しばしば誤解されているような「辞世」の句ではない。但し無論、この句が芭蕉の覚悟の句であったことは疑いようのない事実でもある。
多くの評者は口を揃えて俳聖芭蕉最期の絶唱とするが、鬼才安藤次男はいつものことながら、この句を『夢に見たそのままを句にした、とでも読んでおけばよいが、俳言のかけらもなさそうな句を、どうしてまた、人を呼んで特別に書取らせたりしたのだろう、と思う』と手厳しく始める(以下、「芭蕉百五十句」)。しかし、『「夢に」ではなく「夢は」とたしかに覚えた錯乱の感覚が、目醒めたあと面白かったのかもしれぬ。病めば、身体も思も不自由になるが夢だけは自由になる、と「軽み」の俳諧師は気付いたのかもしれぬ』と続け、もしかすると、彼はあの世へ行ったら大好きだった木曽義仲と『差(さし)で俳諧をやりたいものだ』と考えていたのではなかったか? と夢想し、さすればこの句は『さしづめ恰好の手土産になる、と俳諧師は考えたのではないか。幽明の境を迷いながら、いささか不出来な妄執の句をとっさの滑稽に転じるとは、なんともうまく生き方の辻褄を合せるものだが、招魂を据えた俳諧師の生死(しょうじ)のこの差引勘定に、後世はまったく気付いていないようだ』と、本句の評釈を終えている。凡百の事大主義的評釈よりもこのピリ辛系安藤節の方が遙かに「旅に病んで」の句の本質を(悔しいけれど)突いていると私は感じている。
最後に、この日以降の芭蕉の事蹟について略述しておく。
〇翌九日 伺候していた去来・支考が、同年五月下旬から六月上旬、洛西嵯峨の落柿舎に滞在中、嵐山山麓を流れる桂川上流の清瀧渓谷で吟じた句の改作を告げられている。「去来抄」では(岩波文庫版頴原退蔵校訂「去來抄・三册子:旅寢論」を用いたが、踊り字「〱」は「々」に変え、読みをオリジナルに施した)、
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淸瀧や浪にちりなき夏の月
先師難波の病床に予を召(めし)て曰(いはく)、頃日(このごろ)園女が方にて、しら菊の目にたてゝ見る塵もなしと作す。過(すぎ)し比(ころ)ノ句に似たれバ、淸瀧の句を案じかえたり。初(はじめ)の草稿、野明(やめい)がかたに有(ある)べし。取(とり)てやぶるべしと也。然どもはや集々にもれ出侍れば、すつるに及ばず。名人の句に心を用ひ給ふ事しらるべし。
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とあり、支考の「笈日記」には(岩波文庫小宮豊隆校訂「花屋日記」の附録を用いた)、
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服用の後、支考にむきて、此事は去來にもかたりをきけるが、此夏嵯峨にてし侍る大井川のほつ句おぼえ侍るかと申されしを、あと答へて
大井川浪に塵なし夏の月
と吟じ申(まうし)ければ、その句園女が白菊の塵にまぎらはし。是もなき跡の妄執とおもへば、なしかへ侍るとて
淸瀧や波にちり込靑松葉
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この初案の齟齬については「大井川」を第二推敲形とする説もあるが、今栄蔵氏は新潮古典集成「芭蕉句集」で支考のそれを誤伝であろうと断じておられる。大井川は大堰(おおい)川で南丹市八木地区から亀岡市にかけての桂川の別名ではあるが、句柄から見て私も今氏の誤伝説を採りたい。
改案の理由は先に掲げた九月二十七日の園女亭での「白菊の目に立てて見る塵もなし」を得たから、「塵もなし」という俳言の落ち着き先は「白菊の」の句が勝ると考えたからであるといったニュアンスで語られているが、そこでも「旅に病んで」のエピソード紹介と全くステロタイプの「名人の句に心を用ひ給ふ」「是もなき跡の妄執とおもへば」という如何にもな演出の臭いが、私にはやや五月蠅く感じられる。
ともかくもこの「淸瀧や波にちり込靑松葉」という句は(改作であることを問題としないとすれば)実質上の芭蕉最期の発句ということになる点で銘記すべきものではある。
〇十日 暮方より容態が急変、支考の代筆で門人知友宛の遺書三通を書かせ、別に自筆で兄の半左衛門宛遺書を認めた。
〇十一日 夕刻、上方を旅行中であった其角が病床に参じる。同夜、門弟らに伽(とぎ)の句を作らせたのを最後としてその後、芭蕉はその冥終まで俳諧のことは一切語らなかったと伝えられている。
〇十二日 芭蕉の臨終は――「旅に病んで」の句を詠んだほぼ四日後――元禄七(一六九四)年の陰暦十月十二日(本二〇一三年では十一月十四日に相当)の申の刻(午後四時頃)であった。遺体は同夜、淀川を舟で伏見へ上った。
〇十三日 昼過ぎ、義仲寺(滋賀県大津市馬場)に到着、遺言に従って同寺境内にある源義仲の墓の横に葬られた。
因みに、
元禄七年 十月 八日
グレゴリオ暦一六九四年十一月二十四日
の当日の大坂での
月の出 昼十二時二十一分
月の入り 翌九日午前零時二十三分
であった(「暦のページ」による月没自動計算による)。
……暦に忠実であった芭蕉の立ち尽くした夢の中の枯野には……月の没した後の――皓々たる無数の――魂の星空が……無限に広がっていたことであろう…………]
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