日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 14 隅田川川開き
私は「河を開く」というお祭に行った。この正確な意味は聞かなかった。このお祝は隅田川で行われるので、東京中の人が何千人となく川の上や河岸の茶店に集って来る。我々三人は晩の八時に加賀屋敷を出た。この晩の人力車の走りようは、およそこれ程無鉄砲なことは無い位であった。そもそも出発したのが遅かったのだが、往来は人が一人残らず手に持っている紙提灯の、薄暗い光を除いては暗く、おまけに車夫は急いでいたので、全速力で走りながら、人々に通路をあけさせる為に「ハイ、ハイ、ハイ」と叫び続けるのであった。狭い所を無理矢理に通ったの通らぬの! 先に行く人力車が止ると、後のがそれにぶつかった。我々は曲り角を急にまがり、狭い通りを近路し、すべての人力車を追い越した。川の光景には思わず茫然とした。広い川は見渡すかぎり、各種のボートや遊山船で埋まっていた。我々はある大名の庭を横切ることを許されていて、この家の召使いが我々のために河の端に椅子を持って来て呉れた。数分間坐っていた上で、我々はもっと近く見物することにきめたが、恰度その時一般の舟が、客を求めながら、河岸に沿って静かに近よった。我々が乗ると、間もなく舟は群衆の真中まで漕ぎ出た。この時我々の眼前に展開された光景以上に不思議なものは、容易に想像出来まい。ありとあらゆる大きさの舟、大きな、底の四角い舟、日除や天蓋を持ったのが多い立派な伝馬船……それ等はいずれも、日除の端につるした、色鮮かな提灯の光で照らされている(図110)。そして舟の中央には必ず敷物がひろげてあり、その上では大小とりどりの皿や酒徳利をならべたのを取巻いて、家族が友人と共に坐り、芸者達は三味線をかき鳴して、奇妙な作り声で歌を歌う。広い川はかくの如き、提灯で照らされた舟で完全に被われている。ある舟では物静かな酒盛が行われ、すべての舟に子供が乗っており、そしてどちらを向いても、気のよさと行儀のよさとが見られる。河の向う岸では橋に近く光輝燦爛(さんらん)たる花火が発射されつつあり、我々はこの舟の迷路の中で、衝突したり、後退したり、時に反対の方向に転じたりしながら、一時間ばかりかかってやっとそこへ行くことが出来た。舟の多くが只水に浮んでいるのに、岸に着こうとしたり、又は他の場所へ行こうとして、我々と同じような難境にあった舟もあったが、それにも拘らず、荒々しい言葉や叱責は一向聞えなかった。近く寄って見ると、十人ばかりの裸体の男が、大きな舟に乗ってローマ蠟燭を発射したり、複雑な性質の花火を仕掛けたりしている。その有様には、まったく肝をつぶした。これは実に忘れられぬ光景であった――光に輝く男達の身体には火花が雨のように降りそそぎ、振りかえると花火の光輝に照らされた舟の群が水に浮んで上下し、新月は徐々に沈み、星は稀に見る光を放って輝き、川はすべての大さと色彩との何万という提灯の光を反射しながらもなお暗く、舟の動揺によって幾条の小川に別たれている――。乗船した河岸に帰ろうとして、我々は反対の方向に進む多くの舟とすれちがった。船頭達は長い竿で、舟を避け合ったり、助け合ったりしたが、この大混雑の中でさえ、不機嫌な言葉を発する者は一人もなく只「アリガトウ」「アリガトウ」「アリガトウ」或は「ゴメンナサイ」だけであった。かくの如き優雅と温厚の教訓! 而も船頭達から! 何故日本人が我々を、南蛮夷狄(いてき)と呼び来たったかが、段々に判って来る。
[やぶちゃん注:『「河を開く」というお祭』原文は“a festival known as "Opening of the River."”。両国(隅田川)の川開きである。川開きの「正確な意味」は、納涼開始を祝うとともに水難者の供養や水難事故防止を願っての水神祭をも兼ねた民俗である。隅田川の場合は、大飢饉とコレラの流行によって江戸で多くの死者が出た享保一七(一七三二)年に第八代将軍吉宗が大川端で催した「川施餓鬼」(死者の霊を弔う法会)に遡るという。享保十八年五月二十八日(グレゴリオ暦一七三三年七月九日)に幕府は前年にならって川施餓鬼とあわせて慰霊と悪病退散を祈願する目的で両国の川開きの日に水神祭を実施したが、その際に花火を打ち上げたのが現在の花火大会のルーツとされている。当時は二十発前後の花火で最初期の打ち上げは鍵屋が担当した(鍵屋の江戸での創業は万治二(一六五九)年で、その七代目鍵屋の番頭であった玉屋清吉(後に玉屋市兵衛)が暖簾分けで文化五(一八〇八)年に玉屋を創業して二業者体制となった。両者は異なる場所から交互に花火を打ち揚げたため、観客は双方の花火が上がったところで、よいと感じた業者の名を呼んだ。これが、花火見物でおなじみの「たまやー」「かぎやー」の掛け声の由来といわれている。江戸時代に評判がよかったのは玉屋の方とされ、「玉やだと又またぬかすわと鍵や云ひ」と川柳にもある。但し、玉屋は幕末の天保一四(一八四三)年に失火事故を起こして一部家屋が焼失、江戸処払いを命じられて一代限りで断絶してしまった。鍵屋の方は日本最古の花火会社「株式会社宗家花火鍵屋」として今も現存する。なお、それまで難しい技術とされていた同心円状に飛散する花火を明治期に普及させたのは鍵屋であるという)。両国川開きの花火大会は明治維新や第二次世界大戦などにより数度中断しており、特に昭和三六(一九六一)年(平凡社「世界大百科事典」は一九六二年とする)から一九七七年までは交通事情の悪化・隅田川の水質汚濁による臭害等により中断したが、昭和五三(一九七八)年に現在の「隅田川花火大会」に名称を変えて復活した。なお、この陰暦五月二十八日というのは曾我兄弟の仇討の日に当たっており、この日には曾我十郎祐成の愛人であった虎御前の涙雨とされる「虎が雨」の降るとされたことから、古えに於いては水に纏わる何らかの信仰を背景として始まった行事と推測される(以上はウィキの「隅田川花火大会」及び平凡社「世界大百科事典」の「川開き」の記載を参照した)。
「ローマ蠟燭」原文“Roman candles”。ローマ花火。円筒形の筒から火花や火の玉が飛び出すタイプのもので、我々がイメージする普通の筒状をした手持ちのそれを想起すればよい。地面に設置するタイプのものでも所謂、打ち上げ花火ではなく、花火がツリー状に噴射するものを指すように思われる。
「只「アリガトウ」「アリガトウ」「アリガトウ」或は「ゴメンナサイ」だけであった。」ここの原文は“only "Arigato," "Arigato," "Arigato," (Thanks,
thanks, thanks), or, "Go men na sai" (Excuse me).”である。
「南蛮夷狄」原文“barbarians”。]
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