女倶して内裏拜まん朧月 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)
女倶(ぐ)して内裏拜まん朧月
春宵の惱ましく、艷かしい朧月夜の情感が、主觀の心象においてよく表現されてる。「春宵怨」とも言ふべき、かうしたエロチカル・センチメントを歌ふことで、芭蕉は全く無爲であり、末流俳句は卑俗な厭味に低落して居る。獨り蕪村がこの點で獨歩であり、多くの秀れた句を書いてゐるのは、彼の氣質が若々しく、枯淡や洒脱を本領とする一般俳人の中にあつて、範疇を逸する靑春性を持つて居たのと、かつ卑俗に墮さない精神のロマネスクとを品性に支持して居た爲である。次にその類想の秀句二、三を掲出しよう。
春雨や同車の君がさざめ言
筋かひにふとん敷たり宵の春
誰が爲の低き枕ぞ春の暮
春の夜に尊き御所を守る身かな
注意すべきは、これらの句(最後の一句は少し別の情趣であるが)を見ても解る如く、蕪村のエロチツク・センチメントが、すべてみな主觀の内景する表象であつて、現實の戀愛實感でないことである。この事は、彼の孤獨な傳記に照して見ても肯けるし、前に評釋した「白梅や誰が昔より垣の外」や「妹が垣根三味線草の花咲きぬ」やを見ても、一層明瞭に理解され得るところであらう。彼のかうした俳句は、現實の戀の實感でなくして、要するに彼のフイロソヒイとセンチメントが、永遠に思慕し郷愁したところの、靑春の日の惱みを包む感傷であり、心の求める實在の家郷への、リリツクな咏嘆であつたのである。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。引用の四句は底本ではポイント落ち。]