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2013/12/31

memento mori

中島敦 南洋日記 十一月二十三日

        十一月二十三日(日) 晴、

 朝六時半朝食、坂(酒)井氏來、茨木氏と同道タタッチョに赴かんと、南貿前に行くに、バス故障にて發せず。徒歩にて行く。坂井氏は自轉車。八時公學校着、チャムロ靑年團の訓練を見、國語練習所の授業を見る。チャモロはなべて、色の黑さ薄く、容貌の整へるもの多し、加特力教會を見る。茨木氏と道傍にて鰹一尾を購め、校長川村氏の臺所に持込む。一時晝食。午睡。三時十分過バスに乘りサヷナ高原に向ふ。海沿の坦々たる砂道を行く。枯椰子。蘇鐡。鐡木よりタンニンを取る工場。荒廢せる甘庶畑の趾。タルガ小學校のあたりより道漸く上りとなる。り、海の眺望、次第に開け行く。兩側に興發の廢棄せる甘庶畑通る。雜草。所々纖維をとるサイザル(?)栽培さる。運轉手は島民青靑年、車掌は邦人の娘。シナパールに着くに、沖繩縣人會とかにて、合歡の木蔭にて相撲をとり、それを人々集り見る。國民學校長に挨拶さる。道漸く高原に入り、冷氣を催す。猩々草の朱。晝顏の淡紅。戰場ケ原の如き風景あり。羊齒類多し。四時サバナ着。燐鑛發掘を見る暇なく、直ちにバスは歸途に着く。内地の秋の原野を行くが如き爽かさなり。白き斷崖に攀援植物まとひつき、南洋には珍しき風景。昨日と同じく、落日に照らされたるタタッチョ海岸の藍碧の波濤を見つゝ五時、ソンソンに歸る。郵船の人に明日の切符のことを賴む。五時半食事、ここにも、又、鰹あり。夜は郵便局迄葉書投函に行く。内地の田舍の街の夜の如し。床屋。浪花節の蓄音機。わびしげなる活動小屋に黑田誠忠錄。切符賣の女。その前にしやがんで、トーキーの音だけ聞く男二人。幟二本、海風にはためく。昨夜と同じく茨木氏宅にてラヂオを聞き八時半歸る。

[やぶちゃん注:「南貿」南洋貿易株式会社。九月二十九日に既注。

「チャムロ靑年團」と「チャモロ」の表記違いはママ。「十一月二十二日(土)」に注したように問題ない。

「サヷナ高原」サバナ高原はロタ島のほぼ中央部にある標高四九六メートルの本格的な高原地帯で、熱帯であるにも拘わらず一年を通して涼しい。ここには海辺に見られるような椰子の木などの典型的な熱帯植物は植生しておらず、松の木や薄の類などが生える。タロイモやホット・ペッパーなどの農作物が数多く栽培されて、ロタ島の野菜供給地でもある。現在、頂上は公園になっており、平和記念碑が建つ。参照した青梅市トライアスロン協会公式サイトの「ロタ島 ROTA(北マリアナ諸島)」によれば、この高原に上る道は二本あるが、『観光には飛行場側から上り、ソンソン村側へ下りる方が途中からの眺めが数段よい。但し、夜間はゲートが閉められ、立ち入り禁止となる』とあって、敦が下ったルートの美観が知れる(但し、引用元には二〇〇九年現在、ソンソン村側へ下る道は閉鎖されているとある)。

「鐡木」マメ科タイヘイヨウテツボク Intsia bijuga か。「全国木材チップ工業連合会」公式サイト内(上位ページはそこに繋がっている)の「ボゴール植物園で見られる樹木」の中に『小中高木、時に大高木になる。板根がある。樹皮は黄土色、皮目密。マングローブの後背林』を形成し、『葉は、羽状複葉、小葉は卵形』、『果は、豆状長楕円形』で、『材は、鮮黄色から赤褐色に変わる。緻密で耐久性があり、高級建築、家具、器具の柄、楽器などに使う』とあり、『マダガスカル、オーストラリア北部、熱帯アジア、太平洋諸島に分布。メルバウ、イピルなどと呼ばれる』とある。他に「鉄木」と称するものには、セイロンテツボク Mesua ferrea と ウリン(ボルネオテツボク) Eusideroxylon zwageri があるが、残念ながらいずれもタンニンが採れるという記載を発見出来ていない。識者の御教授を乞うものである。なお、セイロンテツボク Mesua ferreaは世界で最も重い木材として知られており、その比重は千百二十二キログラム毎立方メートルに達するという(この部分のみウィキ木」(但し、曖昧さ回避のページ)に拠る)。

「南發」は南洋開発の初期に製糖業を主導した南洋興発株式会社のことであろう。但し、当時は「南興」と約すのが一般的であったようだ。先の九月二十八日」の「南洋拓殖會社」南洋拓殖株式会社(南拓)の注参照されたい。

「サイザル」単子葉植物綱クサスギカズラ目クサスギカズラ科リュウゼツラン亜科リュウゼツラン属サイザルアサ Agave sisalana。アサ(麻)の仲間ではないが、歴史的に最も使われてきた繊維である麻にちなんでサイザルアサと命名された。「サイザル」は以前よくこの繊維が船で積み出しされていたユカタン半島のサイザル港に因む。長さ一・五~二メートルの剣のような形の葉からなるロゼットを形成し、不稔性で分枝によって増殖する。若い葉の縁には細かい鋸歯があるが、成熟ともになくなる。サイザルアサは実をつけない雑種であるが、原種はよく分かっていない。原産地であると考えられているメキシコのチアパス州に固有の小規模農産物の調査結果によると、Agave angustifolia Agave kewensis の交雑種ではないかと考えられている。十九世紀にサイザルアサの栽培は世界中に広がった。現在ではフロリダからカリブ諸島、ブラジル、タンザニアを中心とするアフリカ各国、アジアなどで栽培され、中心的な繊維作物となっている。ダーツ(ハード・ダーツ)の的を造る材料としても知られる(以上はウィキサイザルアサ」に拠る)。

「猩々草」ショウジョウソウ Euphorbia cyathophora 十月十五日の同注参照。

「燐鑛」化学肥料の原料となるリンを多量に含むリン酸塩鉱物を主成分としたリン鉱石。ロタ島で採れるそれは珊瑚礁に海鳥の死骸・糞・餌の魚・卵の殻などが長期間(数千年から数万年)堆積して化石化したグアノ(guano)であろう。グアノの主要な産地は南米(チリ・ペルー・エクアドル)やオセアニア諸国(ナウル等)である。グアノの語源はケチュア語(ケチュアは旧インカ帝国(タワンティンスーユ)を興した民族)の「糞」でスペイン語経由で英語に入ったもの。グアノには窒素質グアノと燐酸質グアノの二種があり、前者は降雨量や湿度の低い乾燥地帯に形成されたもので、多くの窒素鉱物を含有する。後者は熱帯・亜熱帯など比較的降雨量・湿度の高い地域に形成され、長年の降雨によって窒素分が流出してリン酸分が濃縮されたものである。孰れも近代化学工業に於ける化学肥料には欠かせぬものであった。特に南洋の島嶼に多かった燐酸質グアノは、リン鉱石が発見されるまでは最も主要なリン資源であった。乱採掘によって資源が枯渇したこと、窒素肥料の原料が後にチリ硝石、更には二十世紀初頭のドイツで開発された化学的窒素固定法へと移って行ったことによって衰退した(ここまではウィキグアノ」に拠った)。当時のロタを含むリン鉱石については、「社団法人太平洋諸島地域研究所」公式サイトにある小川和美(かずよし)氏の「太平洋島嶼地域におけるリン鉱石採掘事業の歴史と現在」という論文に詳しい。

「攀援植物」九月十日の「攀援類」の注を参照。

「郵船」日本の大手三大海運会社の一つで、三菱商事とともに三菱財閥(現在の三菱グループ)の源流企業である日本郵船株式会社のことであろう。

「黑田誠忠錄」新日本映画研究所原作で衣笠貞之助監督になる松竹映画。昭和一三(一九三八)年公開。]

萩原朔太郎 短歌 六首 明治三六(一九〇三)年十二月

人の世のわが身なればか秋なればか夜ごろ哀歌(あいか)と聞く潮の聲

わが歌のわれとかぼそうなるを見てこころもとなく泣く夕べかな

人の身は問ふもうれたし己が身はかへり見するにえ堪へじよ秋

寂光(じやくくわう)や瞳さへぎるうすあかり情(なさけ)からせし秋のたはぶれ

黑髮(くろかみ)のながきが故の恨にて世をばせめにし吾ならなくに

草花にほそうそゝぎし涙さへ君が小袖に堪へざらましを

[やぶちゃん注:『白百合』第一巻第二号・明治三六(一九〇三)年十二月号の「哀歌」欄に「萩原美棹(前橋)」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十七歳。
 『白百合』はこの年、『明星』にあきたらず新詩社を脱退して東京純文社を興した相馬御風・前田林外・岩野泡鳴らが発行した文芸誌。確かにこれらの短歌は『明星』のストレートで馬鹿正直な浪漫主義に一回捻りしたようなリズムと語彙を持っているように私には感じられる。
 「うれたし」は「慨し」。「心痛(うれいた)し」の音変化で、憎らしい、いまいましい、嘆かわしい、の意。]

石くれ  八木重吉

石くれを ひろつて

 

と視、こう視

 

哭(な)くばかり

 

ひとつの いしくれを みつめてありし

 

 

ややありて

 

こころ 躍(おど)れり

 

されど

 

やがて こころ おどらずなれり

泪  八木重吉

泪(なみだ)、泪(なみだ)

 

ちららしい

 

なみだの 出あひがしらに

 

 

もの 寂びた

 

哄(わらひ) が

 

ふつと なみだを さらつていつたぞ

鬼城句集 冬之部 來山忌

來山忌   殘菊や今宮草の古表紙

[やぶちゃん注:「來山忌」江戸時代の俳諧師小西来山(こにしらいざん 承応三(一六五四)年~享保元(一七一六)年)の忌日で陰暦は享保元年十月三日(グレゴリオ暦一七一六年十一月十六日。通称は伊右衛門。満平・湛翁・湛々翁・十萬堂等の号を持つ。現在の大阪淡路町に薬種商の家に生まれ、父と親しかった西山宗因門の前川由平に学び、後に宗因門となった。延宝三(一六七五)年頃には宗匠として門弟をとっていたとされ、延宝六(一六七八)年に満平の号で井原西鶴編の俳諧撰集「物種集(ものだねしゅう)」に入集した。延宝八(一六八〇)年頃には来山に号を改めている。天和元・延宝九(一六八一)年に最初の撰集「大阪八五十韻」を刊行した。活動のピークであった元禄三(一六九〇)年頃は当時の大阪の宗匠の中でも代表的な俳人として活躍した。元禄五年には自身の独吟表六句を巻頭に配して知友門弟の句を所収した「俳諧三物(はいかいさんぶつ)」を刊行したが以後に自ら撰した集はない。この頃より雑俳点者となり元禄十年以降は彼の加点が加えられたもおが著しく増加しており、生前に刊行された雑俳書は約百三十部確認されているが、その内、来山点の載るものは五十部に及んでいる。俳諧から雑俳の流行へと移行する元禄前後の俳壇変動をそのままに体現した俳人と言える。「近世畸人伝」巻之三にその名が見え、浪華の南今宮村に住し、酒を好み、洒脱磊落な人柄であったとする。大晦日、門人より雑煮の具を送られたが、その日のうちに酒の肴にしてしまった折りの句、

 我が春は宵にしまふてのけにけり

が載る(以上はウィキ小西来山及び「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。晩年は、一説に「お奉行の名さへ覺えず年暮れぬ」の句で奉行を愚弄したとして大阪から追放され、今宮村(現在の大阪府大阪市浪速区恵美須附近か)に十萬堂という庵を建てて移り住んだという。本句の「今宮草」は正続二冊の彼の句集である。代表句は「俳句案内」の「小西来山」で小西山の句纏まって読める。「近世畸人伝」によれば、

 來山はうまれた咎で死ぬる也それでうらみも何もかもなし

を辞世とするとある。]

鬼城句集 冬之部 蕪村忌

蕪村忌   蕪村忌やさみしう挿して正木の實

 

[やぶちゃん注:蕪村忌は天明三年十二月二十五日で、グレゴリオ暦一七八四年一月十七日。享年六十九。「正木」はニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus。秋に果実が熟すと裂開して橙赤色の仮種皮に被われた種子があらわれる(ウィキマサキ」の「果実と種子(一月)」画像)。]

鬼城句集 冬之部 芭蕉忌 

芭蕉忌   芭蕉忌や弟子のはしなる二聾者

      芭蕉忌やとはに淋しき古俳諧


[やぶちゃん注:芭蕉忌は元禄七年十月十二日で、グレゴリオ暦一六九四年十一月二十八日。享年五十一。因みに鬼城は昭和一三(一九三八)年九月十七日没で享年七十四であった。]

鬼城句集 冬之部 維摩會

維摩會   維摩會にまゐりて俳諧尊者かな

 

      維摩會や默々としてはてしなき

 

[やぶちゃん注:「維摩會」は「ゆいまゑ(ゆいまえ)」と読み、維摩経を講ずる法会。十月十日から七日間、奈良の興福寺で行われる。維摩講。現在、この日程であるにも拘わらず(伝統的保守的な歳時記観では十月は三秋(晩秋)である)、歳時記では冬とし、「大辞泉」では本句を例文として掲げてある。興福寺は法相宗(ほっそうしゅう)の大本山である。法相宗は唯識宗・慈恩宗とも言い、中国十三宗及び日本南都六宗の一つ。「瑜伽師地論(ゆがしじろん)」や「成唯識論(じょうゆいしきろん)」等を根本典籍とし、万有は識、即ち心の働きに拠るものとして、存在の「相」を究明することを目的とする。玄奘三蔵の弟子であった基(き)を初祖として本邦には白雉四(六五三)年に道昭が伝えた。平安時代までは貴族の強い支持を受けた宗派で、現在はこの奈良の興福寺と薬師寺を大本山としている。この「人事」の最初の部立、作者鬼城(曹洞宗)が「お命講」(日蓮宗)・「報恩講」(浄土真宗)・「十夜」(浄土宗)・維摩會」(法相宗)と四連発させて、さながら仏教博物誌の様相を呈しているは面白い。一句目の「俳諧尊者」の自身への皮肉もまた面白い。]

鬼城句集 冬之部 十夜

十夜    お机に金襴かけて十夜かな

 

      僧の子の僧を喜ぶ十夜かな

 

[やぶちゃん注:「十夜」は浄土宗で旧暦十月六日から十五日まで十日十夜行う別時念仏(念仏の行者が特別の時日・期間を定めて称名念仏をすること)のこと。十日十夜別時念仏(じゅうにちじゅうやべつじねんぶつえ)が正式な名称で、十夜法要とも言う。天台宗に於いて永享二(一四三〇)年に平貞経・貞国父子によって京都の真如堂(正式には真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)。京都市左京区にある天台宗寺院)で始められたものが濫觴とされるが(現在でも真如堂では十一月五日から十五日まで十夜念仏が修せられている)、浄土宗では明応四(一四九五)年頃に、鎌倉の光明寺で観誉祐崇が初めて十夜法会を行ったのを始めとする。十夜は「無量寿経」巻下にある「此に於て善を修すること、十日十夜すれば、他方の諸仏の國土において善をなすこと、千歳するに勝れたり」という章句による(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。既に見た通り、鬼城は曹洞宗を宗旨としており、この前が日蓮宗の「お命講」と浄土真宗の「報恩講」であるから、これ以上、鬼城の宗教意識を殊更にディグすることには価値がないと判断する。]

鬼城句集 冬之部 報恩講

報恩講   道端の小便桶や報恩講

 

[やぶちゃん注:「報恩講」は浄土真宗の宗祖とされる親鸞の祥月命日の前後に宗祖に対する報恩謝徳のために営まれる法会。本願寺三世覚如が親鸞の三十三回忌に「報恩講私記(式)」を撰述したことを起源とするとされる。浄土真宗の僧侶門徒にとっては年中行事の中でも最も重要な法要で荘厳(しょうごん)も最も重い。各本山で営まれる法要は「御正忌報恩講」と呼ばれ、祥月命日を結願(最終日)として一週間に渡って営まれる。別院・各末寺・各一般寺院に於いては「お取越」若しくは「お引上」と呼ばれて「御正忌報恩講」とは日程を前後にずらして一~三、五日間で営まれ、門徒のお内仏(仏壇)でも所属寺院(お手次寺)の住職を招いて「お取越」「お引上」として営まれ、これは「門徒報恩講」とも呼ぶ。このように日付をずらすのは、総ての僧侶門徒は御正忌報恩講期間中に上山(本山参拝)するのが慣わしとされるためである。浄土真宗の宗派別の御正忌報恩講の日程は以下の通りである。

・浄土真宗本願寺派(お西)/真宗高田派

   一月  九日より十六日まで

・真宗浄興寺派

   十月二十五日より二十八日まで

・真宗大谷派(お東)/真宗佛光寺派/真宗興正派/真宗木辺派/真宗誠照寺派/真宗三門徒派/真宗山元派

  十一月二十一日より二十八日まで

・浄土真宗東本願寺派

  十一月二十三日より二十八日まで

・真宗出雲路派

  十二月二十一日より二十八日まで

このように各派によって日程が異なるのは、親鸞が入滅した弘長二年十一月二十八日(グレゴリオ暦では一二六三年一月十六日)を旧暦の日付のままに新暦の十一月二十八日の日付で行われる場合と、新暦に換算した一月十六日に営まれる場合とがあることによる(真宗出雲路派は月遅れの形を採っている。以上はウィキの「報恩講に拠った)。これらの日付を見ると、真宗浄興寺派以外は冬の季語として問題ないことが分かる。言っておくが、自由律俳句から始めた私は季語などどうでもいい人間であり、季語の不審を云々しているのは季語存在そのものへの根源的な不信感が存在するためである。本句の眼目は報恩講のために特に置かれたに違いない道端の小便桶の情景そのものにあるのであって、報恩講はホリゾントに過ぎぬ(前の注で示した通り、鬼城の、少なくとも村上家の宗旨は曹洞宗であって真宗ではない)。それを信仰の優しさと見るか――その場限りの仕儀に対する馬鹿げた滑稽と見るか――それとも、宗教の儚さに対し、厳として存在するところの、なみなみと金色(こんじき)の尿(すばり)を湛えた小便桶の実在の重量ととるか――それはひとそれぞれであってよい――。]

鬼城句集 冬之部 人事 お命講

  人事

お命講   お命講や立ち居つ拜む二法師

[やぶちゃん注:「お命講」は「御命講」で「おめいこう」と読み、御会式(おえしき)のこと(会式は法会の式の略)。日蓮宗及び同系統の寺院及び信徒によって宗祖日蓮の通夜に当たる十月十二日と忌日である十三日の両日に営まれる祖師報恩の法会を指す。十二日には信者は万灯をかざして太鼓を敲き、題目を唱えて参拝する。御影供(おめいく)。御命講は御影供(みえいく)を拝むという意の御影講(おえいこう)から転訛したものらしい。浄土真宗他の他宗での御会式はあるが、それを「お命講」とは普通は言わないと思われ、この句は鬼城が日蓮宗徒であったかのようにも思わせるのだが、少なくとも鬼城の墓は高崎市若松町の龍廣寺にあって同寺は曹洞宗である。しかも季語としては現在、歳時記や辞書には日蓮宗のそれに合わせて秋とするから、この部立はおかしい。師の虚子の墓は鎌倉の寿福寺にあって同寺は臨済宗であるから、宗教絡みの季語にはいい加減だったものか? 識者の御教授を乞う。]

鬼城句集 冬之部 枯野 / 冬野 / 水涸 / 山眠

枯野    烟るなり枯野のはての淺間山

 

      大鳥の空搏つて飛ぶ枯野かな

 

      一軒家天に烟らす枯野かな

 

冬野    積藁に朝日の出づる冬野かな

 

水涸    沼涸れて狼渡る月夜かな

 

山眠    石段に杉の實落ちて山眠る

2013/12/30

北條九代記 鎌倉軍勢上洛 承久の乱【十三】――幕府軍進発す

 

本年最後の、ハマったテクスト注釈となった。



      ○鎌倉軍勢上洛

 

さる程に、大名小名集まりて、軍の評定ありける所に、武蔵守泰時申されけるは、「是ほどの御大事、無勢にては如何あるべき。兩三日も延引せられ、片邊土(かたへんど)に居住する若黨冠者原(わかたうかんじやばら)をも、召倶し候らはばや」と申されければ、權〔の〕大夫義時申されけるは、「君の御爲に忠のみ存じて不義なし。人の讒(さかしら)に依つて、朝敵と仰せ下さるゝ上は、假令(たとひ)百千萬騎の勢を倶したりとも、天命に背く程にては、君に勝ち參(まゐら)すべきや。只運に任すべし。早疾(はやとく)上洛あるべきなり」と軍の手分をぞ定められける。明くれば五月二十一日、藤澤左衞門尉淸親(きよちか)が本(もと)に軍立(いくさだち)し、翌日未明(びめい)に打立ち給ふ。先陣は相摸守時房、二陣は武蔵守泰時、三陣は足利武藏〔の〕前司義氏、四陣は三浦駿河守義村、五陣は千葉介胤綱とぞ聞ける。相隨ふ輩には、城(じやうの)入道、毛利(まうりの)蔵人入道、少輔(せうの)判官代、駿河〔の〕次郎、佐原(さはらの)次郎左衞門尉、同三郎左衞門尉、同又太郎、天野(あまのゝ)左衞門尉、狩野介(かのゝすけ)入道、後藤左衞門尉、小山新左衞門尉、中沼五郎、伊吹(いぶきの)七郎、宇都宮〔の〕四郎、筑後(ちくごの)太郎左衞門尉、葛西(かさいの)五郎兵衞尉、角田〔の〕太郎、同彌平次、相馬(さうまの)三郎父子三人、國分(こくぶの)三郎、大須賀(おほすかの)兵衞尉、佐野(さのゝ)小次郎入道、同七郎太郎、同八郎、伊佐大進(いさのたいしん)太郎、江戸〔の〕八郎、足立(あだちの)三郎、佐々目(さゝめの)太郎、階(はしの)太郎、早川平三郎、丹(たん)、兒玉(こだま)、猪俣(ゐのまた)、本間、澁谷、波多野(はだの)、松田、河村、飯田(いひだ)、土肥(どひ)、土屋、成田伊藤、宇佐美、奥津(おきつ)を始として、都合其勢十萬餘騎、東海道をぞ押上(おしのぼ)る。東山道の大將軍には、武田(たけだの)五郎父子八人、小笠原(をがさはらの)次郎父子七人、遠山左衞門尉、諏訪(すはの)小太郎、伊具右馬允(いぐのうまのじよう)入道を始めとして
、其勢都合五萬餘騎なり。式部丞朝時(しきぶのじようともとき)は四萬餘騎を率(そつ)して、北陸道より攻上(せめのぼ)る。鎌倉には大膳〔の〕大夫入道、宇都宮〔の〕入道、葛西壹岐(かさいいきの)入道、隼人(はやとの)入道、信濃(しなのゝ)民部大輔入道、隱岐(おきの)次郎左衞門尉是等を始として、御留主(おんるす)をぞ勤めける。親上(のぼ)れば、子は留(とゞま)り、子息上れば父殘り、兄弟までも引分けて、上留(のぼせとゞ)むる心あり。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【十三】――幕府軍進発す〉ここは各パートで分離して示す。

 

「片邊土に居住する若黨冠者原」関東の田舎に居住するところの若き壮士や元服したての若者ら。

 

「藤澤左衞門尉淸親が本に軍立し」清近とも書く(後掲する「吾妻鏡」参照)。奥州戦を戦った頼朝以来の重臣である。ここで泰時のみが彼の家に前日の二十一日夜に出陣し、翌二十二日未明に全軍の進発となっているのは、先鋒将軍である泰時が父義時に兵力増強のための進発延期の進言に対して怒り心頭に発し(後掲「承久記」で『大にいかりて』とある)、『時日を移すべきにや。早上れ、疾く打ち立て』(「承久記」)と、恐らくは泰時や他の幕閣にとっても想定外の性急な支持を出したため、出立を占った陰陽師(彼も困ったに違いない)によってなされた先鋒武将のみの方違えの応急措置と私は判断する。但し、後で検討するが「吾妻鏡」ではかなり違って、泰時は発言せず、進発を促すのは二人の温帯、大江広元と三善善信である。私は最終的にこれは「承久記」の作者の作話であると考えている。

 

「城入道」安達景盛。以下、これらの参戦した武士たちは「承久記」でも慈光寺本と極端に記載が異なり、また、「吾妻鏡」とも異同が多いので今回に限り、この「北條九代記」記載限定で、不詳の連打も厭わずに多くの資料を管見しながら、これはと思う同定者を施してみた。識者の御援助御協力を求むものである。

 

「毛利蔵人入道」毛利(大江)季光。大江広元四男。

 

「少輔判官代」大江佐房(すけふさ 生没年不詳)。京都守護大江親広の長男で広元の孫。父親広は後鳥羽上皇方に就いた。

 

「駿河次郎」三浦泰村。義村次男。

 

「佐原次郎左衞門尉」相模三浦氏三浦大介義明の末子十郎義連を祖とする佐原光盛。

 

「同三郎左衞門尉」佐原光盛の従兄弟佐原秀連か。

 

「同又太郎」佐原義連の秀泰か。

 

「天野(あまのゝ)左衞門尉」承久の乱で活躍した中に天野政景がいるが、左衛門尉ではない。

 

「狩野介入道」工藤茂光の子で頼朝側近であった狩野宗茂か。

 

「後藤左衞門尉」後藤信康。「吾妻鏡」の比企一族征討軍の中に出る。

 

「小山新左衞門尉」小山朝政の子小山朝長。

 

「中沼五郎」不詳。「承久記」慈光寺本の泰時配下に「中間五郎」という名があり、院宣の送付先にこの名が出、新日本文学大系の注には、『豊前国下毛郡の中間氏の人か』と注する。

 

「伊吹七郎」不詳。

 

「宇都宮四郎」宇都宮成綱の子鹽谷朝業(しおやともなり)を指すが、彼は実朝暗殺後、出家して信生と号し隠遁、法然の弟子証空に師事して京で暮らしたとウィキの「塩谷朝業」あるので不審。

 

「筑後太郎左衞門尉」筑後知重か。

 

「葛西五郎兵衞尉」頼朝直参の御家人葛西清重か。

 

「角田太郎」千葉介胤正の女婿角田胤親か。

 

「同彌平次」角田弥平次は上総介広常の弟相馬常清の子孫とされる。

 

「相馬三郎」不詳。

 

「國分三郎」不詳。

 

「大須賀兵衞尉」平良文流千葉氏の大須賀氏初代惣領大須賀胤信の子弟か。

 

「佐野小次郎入道、同七郎太郎、同八郎」不詳。新古典文学大系の慈光寺本に泰時配下に『佐野左衞門政景』の名を載せ、その注に、『藤原氏藤成流、下野国の佐野氏か。吾妻鏡に宇治橋合戦で負傷した人として、佐野七郎入道の名がある』とある。確かに「吾妻鏡」第二十五の承久三(一二二一)年六月十八日の条の、「宇治橋合戰に手負の人々」の十四日の条に、その「佐野七郎入道」という記録はある。

 

「伊佐大進太郎」伊佐為宗またはその子息。伊佐為宗は藤原北家山蔭流で伊達氏の祖とされる常陸入道念西の息子。常陸国伊佐郡(現在の茨城県筑西市)を本領とした。妹の大進局が源頼朝の妾となり、頼朝との間に男子(貞暁)を生んでいる。文治五(一一八九)年に源頼朝が藤原泰衡追討のために行った奥州征伐では弟の次郎為重・三郎資綱・四郎為家とともに従軍、八月八日に奥州方の最前線基地信夫郡石那坂の城砦を攻略、佐藤基治など敵十八人の首を取って阿津賀志山の経ヶ岡にその首を梟したという。この奥州合戦の戦功により、伊佐為宗の一族は頼朝から伊達郡を賜った。為宗は伊佐郡に留ったが、念西と為宗の弟などが伊達郡に下って「伊達」を称し、伊達氏の祖となった。以上、参照したウィキの「伊佐為宗」には、但し書きで、「吾妻鏡」の六月十四日の条にあるこの「大進太郎」の戦死記載を為宗本人とする説と、その子息であるとする説があるとする。「吾妻鏡」の当該記載によれば宇治川渡渉時の溺死である。

 

「江戸八郎」江戸長光か。

 

「足立三郎」不詳。かく称する人物は「吾妻鏡」に複数出るが、年代的にピンとこない。

 

「佐々目太郎」不詳。

 

「階(はしの)太郎」不詳(後の「承久記」の私の注を参照されたい)。

 

「早川平三郎」不詳。

 

「丹」丹党。武蔵七党の一つで、秩父から飯能を勢力範囲とした同族的武士集団。平安時代に関東に下った丹治氏の子孫と称する。丹氏・加治氏・勅使河原氏・阿保氏・大関氏・中山氏などを称した。以下、武蔵七党関連は主にウィキの「武蔵七党」に拠ったが、一部のはそこからさらに個別にリンクした記載も参考にしたが、その注記は略した。

 

「兒玉」児玉党。武蔵七党の一つで、武蔵国児玉郡(現在の埼玉県児玉郡)から秩父・大里・入間郡及び上野国南部周辺を勢力範囲とした一族。元々の本姓は有道氏。他に児玉氏・庄氏・本庄氏・塩谷氏・小代氏・四方田氏などを称した。本拠地を現在の本庄市に置いて、武蔵七党の中でも最大の勢力を誇った。

 

「猪俣」猪俣党。武蔵七党の一つである横山党の一族(横山義隆の弟の時範(時資)が猪俣姓を名乗った)。武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町)の猪俣館を中心として勢力を持った武士団。猪俣氏・人見氏・男衾氏・甘糟氏・岡部氏・蓮沼氏・横瀬氏・小前田氏・木部氏などを名乗る。保元の乱・平治の乱及び一ノ谷の戦いで活躍した猪俣小平六範綱と岡部六弥太忠澄が知られる。

 

「本間」本間氏は武蔵七党の一つである横山党の海老名氏の流れを汲む一族。鎌倉時代から戦国時代まで佐渡国を支配した氏族で、名は相模国愛甲郡依知郷本間に由来する。鎌倉時代初期に佐渡国守護となった執権北条氏の支流大佛氏の守護代として佐渡に入った本間能久より始まるとされる。雑太城を本拠として勢力を伸ばし、幾つかの分家に分かれた(ウィキの「本間氏」に拠った)。

 

「澁谷」渋谷氏は相模国高座郡渋谷荘に拠った一族。現在の神奈川県大和市・藤沢市・綾瀬市一帯に勢力を持ち、現在の東京都渋谷区一帯も領地としており、後に分家が在住した(ウィキの「渋谷氏」に拠った)。

 

「波多野」ウィキの「波多野氏」によれば、平安末から鎌倉にかけて摂関家領であった相模国波多野荘(現在の神奈川県秦野市)を本領とした豪族。坂東武士としては珍しく朝廷内でも高い位を持った。前九年の役で活躍した佐伯経範が祖とされ、河内源氏の源頼義の家人として仕えていた。経範の父佐伯経資が頼義の相模守補任に際して、その目代となって相模国へ下向したのが波多野氏の起こりと考えられている。経範の妻は藤原秀郷流藤原氏で、のちに波多野氏は佐伯氏から藤原氏に改め、藤原秀郷流を称している。秦野盆地一帯に勢力を張り、河村郷・松田郷・大友郷などの郷に一族を配した。経範から五代目の子孫波多野義通は頼義の子孫である源義朝に仕え、その妹は義朝の側室となって二男朝長を産み、保元の乱・平治の乱でも義朝軍として従軍しているが、保元の頃に義朝の嫡男を廻る問題で不和となって京を去り、所領の波多野荘に下向したという。義通の子波多野義常は京武者として京の朝廷に出仕し、官位を得て相模国の有力者となる。義朝の遺児源頼朝が挙兵すると、義常は頼朝と敵対し、討手を差し向けられて自害した。義通のもう一人の子である波多野義景、孫の波多野有常は許されて鎌倉幕府の御家人となっている。有常は松田郷を領して松田氏の祖となったとあり、この「波多野」はこの義景・有常らの子孫と思われる。

 

「松田」松田氏は相模国足柄上郡松田郷(現在の同郡松田町)に発祥した、前に注した藤原秀郷流波多野氏一族の氏族。鎌倉時代には相模国内に残存した波多野氏一族を統合する惣領家であったと考えられている(ウィキの「松田氏」に拠った)。

 

「河村」河村氏は相模国足柄郡河村郷(現在の足柄上郡山北町)に発祥した前の松田氏と同じ波多野氏一族の氏族。サイト「戦国大名研究」の「河村氏」によれば、『相模の武士波多野遠義の子秀高から始まる。秀高は父から同国足柄郡上河村郷などの所領を譲られ、そこを本拠として河村氏を称した。本宗の波多野氏は源氏に従っていたが、秀高の子義秀は源頼朝の挙兵に応じなかったため、本貫地を失い大庭景義の計らいで斬罪を免れた』。その後、『義秀の弟千鶴丸は十三歳であったが、文治元年(1185)の奥州藤原氏の討伐に参陣を許されて、同国阿津賀志山の戦に功をたて、頼朝の命で加々美長清を烏帽子親として元服し河村四郎秀清と名乗った』。『戦後の論功行賞で、秀清は岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯と茂庭の地、そして摩耶郡の三ヶ所に所領を賜った。秀清はこの三ヶ所の内どこに居を定めたかについてははっきりしないが、茂庭の地が中間地であることから、有力視されている。また、秀清は備中国川上郡の成羽の地に所領を得て鶴首城を築いたともいい、さらに斯波郡の大巻にも大巻城を築いたとも伝えられている』。『以後、河村氏は北条執権政治のもとでは本宗の波多野氏とともに北条氏に従い、秀清は「承久の乱」に武家方として功をたてるなど活躍をしていることから奥州の所領には長くとどまらなかったようだ。奥州には、その子や一族の時秀の子貞秀らが配置され、その子孫が河村氏の分流として北上川東岸一帯に広まった。大萱生・栃内・江柄・手代森・日戸・渋民・川口・沼宮内の諸氏がそれである』とある。

 

「飯田」飯田氏は清和源氏の流れを汲むとする信濃国飯田荘を領した義基を祖とする姓。鎌倉時代の動静は不詳。「吾妻鏡」の承久の乱前後には飯田姓を見ない。

 

「土肥」相模国の土肥氏は中村荘司宗平次男実平が相模国土肥郷(現在の神奈川県湯河原町)を有したのが始まりとされる。実平は源頼朝の信任の厚い側近であったが、和田合戦に於いて和田方に就いたことから一時衰えていた。但し、このずっと後に実平の子孫土肥実綱が鎌倉将軍九条頼嗣や執権の北条時頼・時宗に仕えて活躍、土肥氏を再度興隆させている(以上はウィキの「土肥氏」に拠る)。

 

「土屋」土屋氏は坂東八平氏であった相模国中村荘司村岡宗平の子土屋宗遠が相模国中村荘((現在の小田原市中村原・中井町中村付近)において土屋郷司についた事に由来する。鎌倉時代には出雲国持田荘や出雲国大東荘、河内国茨田郡伊香賀郷の地頭を任官し、各地に勢力を伸張した(ウィキの「土屋氏」に拠る)。

 

「成田」成田氏出自には藤原氏説と武蔵七党の一つである横山党説がある。少なくとも鎌倉時代以前に武蔵国の北部に精力を張っていたとみられ、鎌倉時代には御家人になったと見られ、「吾妻鏡」では文治五(一一八九)年七月十九日の奥州藤原氏追討軍の「御伴の輩」の記載メンバーの最後の方に「成田七郎助綱」の名が見える。古文書からこの時の恩賞で成田氏は鹿角郡に所領を得たとされており、この承久の乱では宇治川の合戦で成田五郎と成田藤次が功を上げ、成田兵衛尉と五郎太郎が討死している(以上はウィキの「成田氏」を参照にし、「吾妻鏡」をも確認した)。

 

「伊藤」次に「宇佐美」氏が挙がっているのでこれは伊豆伊東氏か。

 

「宇佐美」サイト「戦国大名研究」の「宇佐美氏」によれば、『氏古代律令制のもとで、久寝郷と呼ばれたのちの伊東郷の北隣に宇佐美郷があった。いわゆる寄進地系荘園の一つで、開発領主は伊豆に栄えた工藤氏の一族であった。のちに久寝郷は南北に拡張され、宇佐美郷から河津郷まで含むようになったと思われる。それとともに、工藤氏の一族が分領するようになり、宇佐美郷には宇佐美氏、伊東郷には伊東氏、河津郷には河津氏が分領するようになった』。『宇佐美氏の初代は工藤祐経の弟とされる三郎祐茂で、鎌倉時代初期の武将であった。祐茂は、源頼朝に属して伊豆目代の山木兼隆を討ち、その後も多くの合戦に従って功労多く、頼朝二十五功臣の一人に数えられた。その後、頼朝に従って鎌倉へ入ると、そこに在住するようになり、頼朝に近仕した』。文治五(一一八九)年の『奥州征伐に加わり、翌六年には頼朝に従って上洛している。その子孫は『吾妻鑑』に多く散見し、『梅松論』や『太平記』にも登場するなど、かなり有力な在地武士であったことが知られる』とある。

 

「奥津(おきつ)」奥津(おくつ)氏は駿河国庵原(いはら)郡奥津(現在の静岡市清水区の一部と葵区及び富士市の富士川以西一帯)をルーツとする藤原南家流の一族。江戸期のこの清水にあった宿駅興津(おきつ)は、古くは「奥津(おくつ)」「息津(おきつ)」であったから、この読みは問題ない。

 

「武田五郎」甲斐武田氏第五代当主武田信光(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)。頼朝直参。当時の馬術・弓術に優れた弓馬四天王(他は小笠原長清・海野幸氏・望月重隆)の一人。

 

「小笠原次郎」やはり頼朝直参で弓馬四天王の一人であった小笠原長清(応保二(一一六二)年~仁治三(一二四二)年)。

 

「親上れば、子は留り、子息上れば父殘り、兄弟までも引分けて、上留むる心あり」武家の戦さに於ける一族滅亡を避けるための常套的な非情なる(「承久記」は『謀(はかりごと)こそ怖しけれ』と記す)戦略手段の一つであるが、それだけ、今回の戦いの勝敗の行方に対する深刻さが窺われると言える。 

 

 以下、ここでは最初に元とした「承久記」(底本の編者番号30~33)を示し(直接話法部分を改行した)、その後に幕府サイドの「吾妻鏡」の記載を、承久の乱勃発から幕府軍進発まで、一気に纏めて眺めてみたい。まずは「承久記」から。

 

 明ル廿日ノトク、權大夫ノ許へ、又大名・小名衆リテ軍ノ會議評定有ケルニ、武藏守被ㇾ申ケルハ、

 

「是程ノ御大事、無勢ニテハ如何ガ有べカラン。兩三日ヲ延引セラレ候テ、片田舍ノ若黨・冠者原ヲモ召具候バヤ」

 

ト被ㇾ申ケレバ、權大夫、大ニイカリテ、

 

「不思議ノ俗ノ申樣哉。義時ハ、君ノ御爲ニ忠ノミ有テ不儀ナシ。人ノ讒言ニ依テ朝敵ノ由ヲ被仰下上ハ、百千萬騎ノ勢ヲ相具タリ共、天命ニ背奉ル程ニテハ君ニ勝進ラスべキカ。只果報ニ任スルニテコソアレ。一天ノ君ヲ敵ニウケ進ラセテ、時日ヲ可ㇾ移ニヤ。早上レ、疾打立」

 

ト宣ケレバ、其上ハ兎角申ニ不ㇾ及、各宿所々々ニ立歸リ、終夜用意シテ、明ル五月廿一日ニ由井ノ濱ニ有ケル藤澤左衞門尉清親ガ許へ門出シテ、同廿二日ニゾ被ㇾ立ケル。

 

 一陣ハ相模守時房、二陣武藏守泰時、三陣足利ノ武藏前司義氏、四陣三浦駿河守義村、五陣ハ千葉介胤網トゾ聞へシ。此人々ニ相具ラル一兵ニハ、城入道・毛利藏人入道・少輔判官代・駿河次郎・左原次郎左衞門尉・同三郎左衞門尉・同又太郎・天野左衞門尉・狩野介入道・後藤左衞門尉・小山新左衞門尉・中沼五郎・伊吹七郎・宇都宮四郎・筑後太郎左衞門尉・葛西五郎兵衞尉・角田太郎・同彌平次・相馬三郎父子三人・國分三郎・大須賀兵衞尉・佐野小次郎入道・同七郎太郎・同八郎・伊佐大進太郎・江戸八郎・足立三郎・佐々目太郎・階〔見〕太郎・早川平三郎、サテハ奧ノ嶽ノ島橘左衞門尉、丹・兒玉ヨリ以下猪俣、相模國ニハ本間・澁谷・波多野・松田・河村・飯田・成田・土肥・土屋、伊豆國ニハ伊藤左衞門尉・宇佐美五郎兵衞・同與一、駿河國ニハ奧津左衞門尉・蒲原五郎・屋氣九郎・宿屋次郎、是等ヲ始トシテ十萬餘騎ニテ上ケリ。

 

 東山道ノ大將軍ニハ武田五郎父子八人・小笠原次郎父子七人・遠山左衞門尉・諏方小太郎。伊具右馬允入道、軍ノケン見ニ被指添タリ。其勢五萬餘騎。式部丞朝時、四萬餘騎相具シテ北陸道へゾ向ケル。

 

 東海道十萬餘騎、東山道五萬餘騎、北陸道四萬餘騎、共ニ三ノ道ヨリ十九萬餘騎ゾ上セラレケル。

 

 鎌倉ニ留マル人々ニハ、大膳大夫入道・宇都宮入道・葛西壹岐入道・隼人入道・信濃民部大輔入道・隱岐次郎左衞門尉、是等也。親上レバ子ハ留マリ、子上レバ親留マル。父子兄弟引分上々留ラルル謀コソ怖シケレ。

 

●「階〔見〕太郎」不詳。「北條九代記」はそのままで「階(はしの)太郎」と訓じているが、これは姓では「しな」とも読む。ネット上では岩手県岩手郡雫石町に多数みられるとある。新日本古典文学大系がこれを「階見」と補綴してあるのには何らかの根拠があるのだろうが、見当たらない。識者の御教授を乞う。なお「吾妻鏡」には人名索引を見ても「階見」は勿論、「階」で始まる姓も見当たらない。

 

●「ケン見」各種軍事作戦時の実地検分役としての検見(けみ)の謂いか。 

 

 次に非常に長くなるが、承久の乱の勃発である伊賀光季の誅殺から幕府軍進発までの一部始終を「吾妻鏡」で見る。巻二十五の承久三年(一二二一)年五月の条々である。今回は長いので、日毎に分割、長い箇所では書き下し文の改行ごとに簡単な注を挿入し、その後は「▼」入りの一行空きとした。

 

□承久三(一二二一)年五月十九日

○原文

十九日壬寅。午刻。大夫尉光季去十五日飛脚下著關東。申云。此間。院中被召聚官軍。仍前民部少輔親廣入道昨日應勅喚。光季依聞右幕下〔公經。〕告。申障之間。有可蒙勅勘之形勢云々。未刻。右大將家司主税頭長衡死去十五日京都飛脚下著。申云。昨日〔十四日。〕。幕下。幷黄門〔實氏。〕仰二位法印尊長。被召籠弓場殿。十五日午刻。遣官軍被誅伊賀廷尉。則勅按察使光親卿。被下右京兆追討宣旨於五畿七道之由云々。關東分宣旨御使。今日同到著云々。仍相尋之處。自葛西谷山里殿邊召出之。稱押松丸〔秀康所從云々。〕。取所持宣旨幷大監物光行副狀。同東士交名註進狀等。於二品亭〔號御堂御所。〕披閲。亦同時廷尉胤義〔義村弟。〕。私書狀到著于駿河前司義村之許。是應勅定可誅右京兆。於勳功賞者可依請之由。被仰下之趣載之。義村不能返報。追返彼使者。持件書狀。行向右京兆之許云。義村不同心弟之叛逆。於御方可抽無二忠之由云々。其後招陰陽道親職。泰貞。宣賢。晴吉等。以午刻〔初飛脚到來時也。〕。有卜筮。關東可屬太平之由。一同占之。相州。武州。前大官令禪門。前武州以下群集。二品招家人等於簾下。以秋田城介景盛。示含曰。皆一心而可奉。是最期詞也。故右大將軍征罸朝敵。草創關東以降。云官位。云俸祿。其恩既高於山岳。深於溟渤。報謝之志淺乎。而今依逆臣之讒。被下非義綸旨。惜名之族。早討取秀康。胤義等。可全三代將軍遺跡。但欲參院中者。只今可申切者。群參之士悉應命。且溺涙申返報不委。只輕命思酬恩。寔是忠臣見國危。此謂歟。武家背天氣之起。依舞女龜菊申狀。可停止攝津國長江。倉橋兩庄地頭職之由。二箇度被下宣旨之處。右京兆不諾申。是幕下將軍時募勳功賞定補之輩。無指雜怠而難改由申之。仍逆鱗甚故也云々。晩鐘之程。於右京兆館。相州。武州。前大膳大夫入道。駿河前司。城介入道等凝評議。意見區分。所詮固關足柄。筥根兩方道路可相待之由云々。大官令覺阿云。群議之趣。一旦可然。但東士不一揆者。守關渉日之條。還可爲敗北之因歟。任運於天道。早可被發遣軍兵於京都者。右京兆以兩議。申二品之處。二品云。不上洛者。更難敗官軍歟。相待安保刑部丞實光以下武藏國勢。速可參洛者。就之。爲令上洛。今日遠江。駿河。伊豆。甲斐。相摸。武藏。安房。上總。下總。常陸。信濃。上野。下野。陸奥。出羽等國々。飛脚京兆奉書。可相具一族等之由。所仰家々長也。其狀書樣。

 自京都可襲坂東之由。有其聞之間。相摸權守。武藏守相具御勢。

 所打立也。以式部丞差向北國。此趣早相觸一家人々。可向者也。

 

○やぶちゃんの書き下し文

 十九日壬寅。午の刻、大夫尉光季が去ぬる十五日の飛脚關東へ下著し、申して云はく、

「此の間、院中に官軍を召し聚めらる。仍つて前民部少輔親廣入道、昨日、勅喚に應ず。光季は右幕下〔公經(きんつね)。〕の告げを聞くに依つて、障りを申すの間、勅勘を蒙るべきの形勢有り」

と云々。

[やぶちゃん注:「午の刻」午後零時前後。この飛脚も推松(押松)とそれに従った胤義の私信を持った使者と同程度に俊足であることが分かる。そればかりか、次の段の西園寺公経の飛脚も二時間後に到着している。これらから考えると、「北條九代記」や「承久記」が推松を驚くべき速さであると評するのはやや眉唾と言わざるを得ない。特に「承久記」の推松を描写する後の展開などを見ると、明らかにこの推松をトリック・スターとして話柄の面白さを狙った印象が強いように私は感じる。]

 

   ▼

 

 未の刻、右大將が家司主税頭長衡(ちからのかみながひら)が去ぬる十五日の京都飛脚下著し、申して云はく、

「昨日〔十四日。〕幕下幷びに黄門〔實氏。〕二位法印尊長に仰せて、弓場殿(ゆばどの)に召し籠めらる。十五日午の刻、官軍を遣はして伊賀廷尉(ていい)を誅せられ、則ち、按察使(あぜちの)光親卿に勅して、右京兆追討の宣旨を五畿七道に下さるに由。」

と云々。

「關東の分の宣旨の御使、今日同じく到著す。」

と云々。

 

[やぶちゃん注:「未の刻」午後二時前後。

 

「右大將」西園寺公経。

 

「黄門〔實氏。〕」公経の子、中納言西園寺実氏。

 

「伊賀廷尉」伊賀光季。

 

「五畿七道」律令制で定められた地方行政区画である五畿(山城・大和・河内・和泉・摂津)と七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)。日本全国の意。]

 

   ▼

 

 仍つて相ひ尋ぬるの處、葛西谷山里殿(かさいがやつやまざとどの)邊りより之を召し出づ。押松丸(おしまつまる)と稱す〔秀康が所從と云々。〕。

 持つ所の宣旨幷びに大監物(だいけんもつ)光行の副狀(そへじやう)、同じく東士(とうし)の交名(けうみやう)註進狀等を取りて、二品亭〔御堂御所と號す。〕に於いて披閲(ひえつ)す。亦、同時に廷尉胤義〔義村が弟。〕が私(わたくし)の書狀、駿河前司義村が許に到著す。是れ、

『勅定に應じ、右京兆を誅すべし。勳功の賞に於いては、請ふに依るべし。』

の由、仰せ下さるの趣き、之を載す。義村、返報に能はず、彼の使者を追ひ返し、件(くだん)の書狀を持ちて、右京兆が許に行き向ひて云はく、

「義村、弟の叛逆に同心せず。御方(みかた)に於いて無二の忠を抽(ぬき)んずべし。」の由と云々。

 

[やぶちゃん注:「葛西谷山里殿」先に「鎌倉攬勝考」から示した通り、これは葛西清重定蓮の屋敷の通称であろう。

 

「大監物光行」源光行(長寛元(一一六三)年~寛元二(一二四四)年)。「大監物」は中務省直属官で諸官庁の倉庫管理と出納事務監察官の長。ウィキの「源光行」によれば、寿永二(一一八三)年、木曽義仲が占拠していた京にあった光行は平家方に就いた父光季の謝罪と助命嘆願のために鎌倉に下向、頼朝にその才能を愛され、幕府成立後は政所初代別当となり、朝廷と幕府との関係を円滑に運ぶために鎌倉・京都間を往復したが、一方では朝廷からも河内守・大和守に任命され、この承久の乱の際には去就に迷った結果、後鳥羽上皇方に従ってしまった。但し、この時も乱後にその才を惜しんだ人々の助命嘆願によって重刑を免れている。歌人として、また「源氏物語」の研究家として注釈書「水原抄」や河内本の本文校訂で知られる。

 

「東士の交名註進狀」関東武士の内で、今回の乱で院方へ推参した者の名前を記した報告書。

 

「二品亭」「御堂御所」北条政子の屋敷。「御堂」と呼ばれた勝長寿院内にあった。]

 

   ▼

 

 其の後、陰陽道親職(ちかもと)・泰貞・宣賢(のぶかた)・晴吉(はるよし)等を招き、午の刻〔初めて飛脚到來の時なり。〕を以つて卜筮(ぼくぜい)有り。

「關東、太平に屬すべし。」

の由、一同、之を占ふ。相州・武州・前大官令禪門・前武州以下、群集す。二品、家人等を簾下に招き、秋田城介景盛を以つて示し含めて曰く、

「皆、心を一にして、奉はるべし。是れ、最期の詞なり。故右大將軍が朝敵を征罰し、關東を草創してより以降(このかた)、官位と云ひ、俸祿と云ひ、其の恩、既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝の志、淺からんや。而るに今、逆臣の讒りに依つて、非義の綸旨を下さる。名を惜むの族(やから)は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代將軍の遺跡(ゆいせき)を全うすべし。但し、院中に參らんと欲する者は、只今、申し切るべし。」

てへれば、群參の士、悉く命に應じ、且つは涙に溺(しづ)みて返報申すに委(くは)しからず。只だ、命を輕んじ、恩に報ぜんことを思ふ。寔(まこと)に是れ、『忠臣、國危きに見(あらは)る』とは、此の謂(いひ)か。武家、天氣に背くの起こりは、舞女龜菊(かめぎく)の申し狀に依つて、攝津國長江・倉橋兩庄の地頭職を停止(ちやうじ)すべきの由、二箇度、宣旨を下さるの處、右京兆、諾(だく)し申さず。是れ、幕下將軍の時、勳功の賞に募りて定補(ぢやうほ)せらるるの輩(ともがら)、指(さ)せる雜怠(ざふたい)無くして改め難き由、之を申す。仍つて逆鱗甚だしき故なりと云々。

 

[やぶちゃん注:「相州」北条時房。

 

「武州」北条泰時。

 

「前大官令禪門」大江広元。

 

「前武州」足利義氏(文治五(一一八九)年~建長六(一二五五)年)。母は北条時政の娘時子で、正室は泰時の娘。北条義時・泰時父子を補佐し、晩年は幕府長老として重きを成した。

 

「溟渤」大海。

 

「幕下將軍の時、勳功の賞に募りて定補せらるるの輩、指せる雜怠無くして改め難き由、之を申す」頼朝さま将軍の御時、『論功行賞によって領地を安堵された者どものその地位は、かくすべき相応の不正・過失がない限りは、それを変改することは許されない』とはっきり明言致いております。]

 

   ▼

 

 晩鐘の程、右京兆の館に於て、相州・武州・前大膳大夫入道・駿河前司・城介入道等、評議を凝らす。意見區分す。所詮、足柄・筥根の兩方の道路を固關(こげん)して相ひ待つべきの由と云々。

 

[やぶちゃん注:「固關」厳重に閉ざして。ただ、面白いのは、この「固関」という語が本来は、律令制に於いて天皇・上皇・皇后の崩御や天皇の譲位、摂関の薨去、謀反などの政変などの非常事態に際して、「三関」と呼ばれた伊勢国鈴鹿関・美濃国不破関・越前国愛発関(後に近江国の逢坂関)を封鎖して通行を禁じることをいう語であることである。参照したウィキの「固関」にも『権力の空白に乗じて、東国の反乱軍が畿内に攻め込むことや反対に畿内の反逆者が東国に逃れることを阻止するための措置である』から頗る皮肉な用法と言えよう。]

 

   ▼

 

大官令覺阿、云はく、

「群議の趣き、一旦は然るべし。但し、東士一揆せずんば、關を守りて日を渉(わた)るの條、還つて敗北の因とたるべきか。運を天道に任せ、早く軍兵を京都へ發遣せらるべし。」てへれば、右京兆、兩議を以つて、二品の處へ申す。二品、云はく、

「上洛せずんば、更に官軍を敗り難からんか。安保(あぶ)刑部丞實光以下の武藏國の勢を相ひ待ち、速かに參洛すべし。」

てへれば、之に就き、上洛せしめんが爲に、今日、遠江・駿河・伊豆・甲斐・相摸・武藏・安房・上總・下總・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽等の國々に、京兆の奉書を飛脚し、一族等を相ひ具すべきの由、家々の長に仰する所なり。其の狀の書樣(かきざま)。

  京都より坂東を襲ふべきの由、其の聞へ有るの間、

  相摸權守・武藏守、御勢を相ひ具し、打ち立つ所なり。

  式部丞を以つて北國へ差し向く。此の趣き、

  早く、一家の人々に相ひ觸れ、向ふべき者なり。

 

[やぶちゃん注:「大官令覺阿」大江広元。

 

「群議の趣き、一旦は然るべし。但し、東士一揆せずんば、關を守りて日を渉るの條、還つて敗北の因とたるべきか。運を天道に任せ、早く軍兵を京都へ發遣せらるべし」この台詞、前に見た通り、「北條九代記」や元の「承久記」では、泰時が戦力の不安からビビって増兵確保のために進発延引を進言し(これ自体が実は泰時らしくないと私は思う)、怒り心頭に発した義時が叱咤直命する頗る芝居がかった台詞となっている(これもまた冷血無慚の策士義時らしくない)。私はどうも「吾妻鏡」の広元の冷徹な意見具申(延引して軍勢到着を待つというのは拙策であるというのは実はこの後にやはり広元発言として「吾妻鏡」に出るのである)。と、それを受けた冷たい顏の義時の即決、そしてそれを聴いてタッと立ち上がる壮士泰時という方が、自然でリアルな気がする。私は泰時贔屓である。

 

「京兆」義時。

 

「相摸權守」時房。

 

「武藏守」泰時。

 

「式部丞」北条義時次男で名越流北条氏の祖北条朝時(建久四(一一九三)年~寛元三(一二四五)年)。北条泰時の異母弟。参照したウィキの「北条朝時」によれば、和田の乱の前年の建暦二(一二一二)年五月七日、二十歳の時に将軍実朝の御台所信子に仕える官女佐渡守親康の娘に艶書を送り、一向に靡かないことから、業を煮やした末、深夜に彼女の局に忍んで誘い出した事が露見、実朝の怒りを買って父義時から義絶され、駿河国富士郡に蟄居していたが、この和田の乱で鎌倉に呼び戻されて奮戦したとある。この後、御家人として幕府に復帰、父義時は承久の乱でも『大将軍として朝時を起用する一方、小侍所別当就任、国司任官はいずれも兄の朝時を差し置いて同母弟の重時を起用するなど、義時・朝時の父子関係は複雑なものがあり、良好ではなかったと見られ』、朝時は『得宗家の風下に甘んじ』ざるを得なかった。その後の『名越流は得宗家には常に反抗的で、朝時の嫡男光時をはじめ時幸・教時らが宮騒動、二月騒動で度々謀反を企てている』とある。] 

 

□五月二十日

○原文

廿日癸卯。可抽世上無爲懇祈之旨。示付莊嚴房律師。幷鶴岳別當法印定豪等。亦行三萬六千神祭。民部大夫康俊。左衞門尉淸定奉行之云々。

 

○やぶちゃんの書き下し文

廿日癸卯。世上無爲(ぶゐ)の懇祈(こんき)を抽(ぬき)んずべきの旨、莊嚴房(しやうごんばう)律師幷びに鶴岳別當法印定豪(ぢやうごう)等に示し付く。亦、三萬六千神祭を行ふ。民部大夫康俊、左衞門尉淸定、之を奉行すと云々。

 

[やぶちゃん注:「世上無爲の懇祈を抽んずべき」世の無事を心から願う祈禱を一際、念を込めて行うよう。

 

「莊嚴房律師」退耕行勇。

 

「三萬六千神祭」神仙思想とごっちゃになった道教の影響下にある陰陽道では三万六千というとんでもない数の神がおり(「全訳吾妻鏡」の別巻の貴志正造氏の「用語注解」によれば、三万六千は陰暦の『百年の日数で、その日を支配する神を三万六千神という』とある)、それらを祀って災厄を祓うことを祈る祭儀。三日の潔斎の後、終夜奉祀を行う。]

 

□五月二十一日

○原文

廿一日甲辰。午刻。一條大夫賴氏自京都下著〔去十六日出京云々。〕。到二品亭。宰相中將〔信能。〕以下一族。多以雖候院中。獨不忘舊好。馳參云々。二品乍感悦。尋京都形勢。賴氏述委曲。自去月洛中不靜。人成恐怖之處。十四日晩景。召親廣入道。又被召籠右幕下父子。十五日朝。官軍競起。警衞高陽院殿門々。凡一千七百餘騎云々。内藏頭淸範著到之。次範茂卿爲御使。被奉迎新院。則御幸〔御布衣。〕。與彼卿同車也。次土御門院〔御烏帽子直垂。與彼卿二品御同車。〕。六條。冷泉等宮。各密々入御高陽院殿。同日。大夫尉惟信。山城守廣綱。廷尉胤義。高重等。奉勅定。引率八百餘騎官軍。襲光季高辻京極家合戰。縡火急而。光季并息男壽王冠者光綱自害。放火宿廬。南風烈吹。餘烟延至數十町〔姉小路東洞院。〕。申尅。行幸于高陽院殿。歩儀。攝政供奉。近衞將一兩人。公卿少々參。賢所同奉渡。同時。火起六角西洞院。欲及閑院皇居之間。所令避御也〔御讓位以後初度。〕。又於高陽院殿。被行御修法。仁和寺宮道助并良快僧正以下奉仕之。以寢殿御所爲壇所云々。」今日。天下重事等重評議。離住所。向官軍。無左右上洛。如何可有思惟歟之由。有異議之故也。前大膳大夫入道云。上洛定後。依隔日。已又異議出來。令待武藏國軍勢之條。猶僻案也。於累日時者。雖武藏國衆漸廻案。定可有變心也。只今夜中。武州雖一身。被揚鞭者。東士悉可如雲之從竜者。京兆殊甘心。但大夫属入道善信爲宿老。此程老病危急之間籠居。二品招之示合。善信云。關東安否。此時至極訖。擬廻群議者。凡慮之所覃。而發遣軍兵於京都事。尤遮幾之處。經日數之條。頗可謂懈緩。大將軍一人者先可被進發歟者。京兆云。兩議一揆。何非冥助乎。早可進發之由。示付武州。仍武州今夜門出。宿于藤澤左衞門尉淸親稻瀬河宅云々。

 

○やぶちゃんの書き下し文

廿一日甲辰。午刻、一條大夫賴氏、京都より下著し〔去ぬる十六日出京すと云々。〕、二品亭へ到る。宰相中將〔信能。〕以下の一族、多く以て院中に候ずと雖も、獨り舊好を忘れず、馳せ參ずと云々。

二品感悦し乍ら、京都の形勢を尋ぬ。賴氏、委曲を述ぶ。去ぬる月より洛中靜かならず。人、恐怖を成すの處、十四日の晩景、親廣入道を召す。又、右幕下父子を召し籠めらる。十五日の朝、官軍競ひ起こり、高陽院殿(かやのゐんどの)の門々を警衞す。凡そ一千七百餘騎と云々。

内藏頭淸範、之を著到(ちやくたう)す。次いで範茂卿、御使として、新院を迎へ奉らる。則ち御幸す〔御布衣(おんほい)。〕。彼の卿と同車なり。次で土御門院〔御烏帽子直垂。彼の卿二品と御同車。〕、六條、冷泉等の宮、各々密々に高陽院殿に入御す。同じ日、大夫尉惟信、山城守廣綱、廷尉胤義、高重等、勅定を奉(うけたまは)り、八百餘騎の官軍を引率して、光季の高辻京極の家を襲ひて合戰す。縡(ここ)に、火急にして、光季幷びに息男壽王冠者光綱自害し、宿廬(しゆくろ)に火を放つ。南風烈しく吹き、餘烟數十町に延び至る〔姉小路東洞院。〕。申の尅、高陽院殿に行幸したまふ。歩儀(ほぎ)。攝政、供奉す。近衞の將一兩人、公卿少々參ず。賢所(かしこどころ)同じく渡し奉る。同時に、火、六角西洞院に起こり、閑院、皇居に及ばんと欲するの間、避けしめ御(たま)ふ所なり〔御讓位以後、初度〕。又、高陽院殿に於いて、御修法(みしゆはふ)を行はらる。仁和寺宮道助(だうじよ)幷びに良快僧正以下、之を奉仕す。寢殿を以つて御所の壇所(だんしよ)と爲すと云々。

 

[やぶちゃん注:「一條大夫賴氏」公卿一条頼氏(建久九(一一九八)年~宝治二(一二四八)年)は。一条高能三男。従二位皇后宮権大夫。ウィキの「一条頼氏」によれば、建保三(一二一五)年、叙爵(従五位下叙位)、建保五(一二一七)年、侍従に補せられた。後に北条時房の娘を室に迎え、この承久三(一二二一年)年には嫡男能基が誕生していた。承久の乱では叔父信能及びその兄弟であった尊長らが後鳥羽上皇に積極的に与したのに対し、彼は北条氏の縁者であることから身の危険を感じ、速やかに京都を脱出して鎌倉へ逃れたのであった。乱後、叔父らは処刑されたが、頼氏は貞応二(一二二三)年に右衛門権佐に任ぜられている。後は順調に昇進、嘉禎二(一二三七)年には従三位に叙せられて公卿に列した。暦仁元(一二三八)年に正三位皇后宮権大夫、仁治元(一二四〇)年には左兵衛督に任ぜられて宝治元(一二四七)年には従二位に叙せられた。二人の息子の室も北条氏から迎えて鎌倉幕府に出仕させ、貞応三(一二二四)年の伊賀氏の乱においても叔父一条実雅には加担せず、引き続き北条氏を支持することで家格の維持に務めた、とある。

 

「高陽院殿」桓武天皇の皇子賀陽(かや)親王の旧邸宅で平安京左京中御門の南、郁芳(ゆうほう)御門や冷泉院の東北にあった。現在の京都御所の東南直近の上京区京都府庁周辺に相当する。

 

「内藏頭淸範」藤原清範なる人物であるが、これは後鳥羽院の判官代で北面の武士から和歌所寄人に至った歌人で能書家であった藤原清範とは没年から別人で、詳細は不詳。

 

「新院」順徳院。

 

「布衣」平服。

 

「姉小路東洞院」光季の屋敷は京の東西中央を通る四条大路の三筋下がった五条大路の一本北の高辻小路と平安京の最北の南北路である東京極大路の接する附近、現在の河原町五条交差点の北附近であるから、姉小路東洞院(現在の地下鉄烏丸大池駅附近)までは直線距離で一・七キロメートルほどであるから、この「數十町」(十町は一〇〇九メートル)は誇大過ぎる。

 

「申の尅」午後四時前後。

 

「高陽院殿に行幸したまふ」「行幸」とあるから仲恭天皇。

 

「歩儀」徒歩。

 

「賢所」賢所は宮中で三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を祀る場所。ここは八咫鏡そのものを指す。

 

「六角西洞院」現在の中京区西洞院六角町附近で烏丸大池の直近であるから、先の延焼が再燃したものであろう。

 

「攝政」九条道家。

 

「御讓位以後、初度」皇居外に出て、里内裏に移ったのは初めてであったことを言う。]

 

   ▼

 

今日。天下重事(ちようじ)等、重ねて評議す。住所を離れて官軍に向ひ、左右(さう)無く上洛すこと、如何に思惟(しゆい)有るべきかの由、異議有るの故なり。前大膳大夫入道云はく、

「上洛を定める後、日を隔つに依つて、已に又、異議出來(しゆつたい)す。武藏國の軍勢を待たしむの條、猶ほ僻案(へきあん)なり。日時を累(かさ)ぬるに於いては、武藏國の衆と雖も、漸く案を廻らし、定めし變心有るべきなり。只だ、今夜中に、武州一身と雖も、鞭を揚げられば、東士、悉く雲の竜に從ふべきがごとく者なるべし。」

てへれば、京兆、殊に甘心す。但し、大夫属入道善信は宿老たり。此の程、老病危急の間、籠居す。二品之を招き示し合はすに、善信云はく、

「關東の安否、此の時に至り極り訖んぬ。群議を廻らさんと擬すは、凡そ慮(りよ)の覃(およ)ぶ所なるも、軍兵を京都へ發遣する事は、尤も遮幾(しょき)するの處なり。日數を經るの條、頗る懈緩(けくわん)と謂ひつべし。大將軍一人は先づ進發せらるべきか。」てへれば、京兆云はく、

「兩議の一揆、何ぞ冥助に非るか。早く進發すべし。」

の由、武州に示し付く。仍つて武州、今夜、門出し、藤澤左衞門尉淸親が稻瀬河の宅に宿すと云々。

 

[やぶちゃん注:「大夫属入道善信」三善善信。

 

「藤澤左衞門尉淸親が稻瀬河の宅」先に見た通り、「承久記」では清親の居宅を「由比の濱」とするが稲瀬川は由比ヶ浜の内である。] 

 

□五月二十二日

○原文

廿二日乙巳。陰。小雨常灑。卯の尅。武州進發京都。從軍十八騎也。所謂子息武藏太郎時氏・弟陸奥六郎有時・又北條五郎・尾藤左近將監〔平出弥三郎。綿貫次郎三郎相從。〕・關判官代・平三郎兵衞尉・南條七郎・安東藤内左衞門尉・伊具太郎・岳村次郎兵衞尉・佐久滿太郎・葛山小次郎・勅使河原小三郎・横溝五郎・安藤左近將監・塩河中務丞・内嶋三郎等也。京兆招此輩。皆與兵具。其後。相州。前武州。駿河前司。同次郎以下進發訖。式部丞爲北陸大將軍。首途云々。

 

○やぶちゃんの書き下し文

廿二日乙巳。陰(くも)る。小雨常に灑(そそ)ぐ。卯の尅、武州、京都へ進發す。從軍十八騎なり。所謂、子息武藏太郎時氏・弟陸奥六郎有時、又、北條五郎・尾藤左近將監〔平出弥三郎、綿貫次郎三郎を相ひ從ふ。〕・關判官代・平三郎兵衞尉・南條七郎・安東藤内左衞門尉・伊具太郎・岳村次郎兵衞尉・佐久滿太郎・葛山小次郎・勅使河原小三郎・横溝五郎・安藤左近將監・塩河中務丞・内嶋三郎等なり。京兆、此の輩を招き、皆に兵具を與へ、其の後、相州・前武州・駿河前司・同次郎以下。進發し訖んぬ。式部丞は北陸大將軍として、首途(かどで)すと云々。

 

[やぶちゃん注:人物同定をやり始めるとエンドレスになるので、ここでは姓名同定のみとし、同定には新人物往来社の貴志正造「全訳吾妻鏡」に補注するもののみに従った(以下同じ)。基本、表記が全く同じ場合は既出分は載せない。

 

「北條五郎」北条実義。

 

「尾藤左近將監」尾藤景綱。

 

「關判官代」堰実忠。

 

「平三郎兵衞尉」平盛綱。

 

「南條七郎」南条時員。

 

「伊具太郎」伊具盛重。

 

「佐久滿太郎」佐久家盛。

 

「勅使河原小三郎」勅使河原則直。

 

「横溝五郎」横溝資重。] 

 

□五月二十三日

○原文

廿三日丙午。右京兆。前大膳大夫入道覺阿。駿河入道行阿。大夫屬入道善信。隱岐入道行西。壹岐入道。筑後入道。民部大夫行盛。加藤大夫判官入道覺蓮。小山左衞門尉朝政。宇都宮入道蓮生。隱岐左衞門尉入道行阿。善隼人入道善淸。大井入道。中條右衞門尉家長以下宿老不及上洛。各留鎌倉。且廻祈禱。且催遣勢云々。

 

○やぶちゃんの書き下し文

廿三日丙午。右京兆、前大膳大夫入道覺阿、駿河入道行阿、大夫屬入道善信、隱岐入道行西、壹岐入道、筑後入道、民部大夫行盛、加藤大夫判官入道覺蓮、小山左衞門尉朝政、宇都宮入道蓮生、隱岐左衞門尉入道行阿、善隼人入道善淸、大井入道、中條右衞門尉家長以下の宿老、上洛に及ばず。各々鎌倉に留む。且は祈禱を廻らし、且は遣勢を催すと云々。

 

[やぶちゃん注:「駿河入道行阿」中原季時。

 

「隱岐入道行西」二階堂行村。

 

「壹岐入道」先に注した葛西三郎淸重定蓮。

 

「筑後入道」八田知家。

 

「民部大夫行盛」二階堂行盛。

 

「加藤大夫判官入道覺蓮」加藤景廉。

 

「宇都宮入道蓮生」宇都宮頼綱。

 

「隱岐左衞門尉入道行阿」二階堂基行。

 

「善隼人入道善淸」三善康清。] 

 

□五月二十五日

○原文

廿五日戊申。自去廿二日。至今曉。於可然東士者。悉以上洛。於京兆所記置其交名也。各東海東山北陸分三道可上洛之由。定下之。軍士惣十九萬騎也。

 東海道大將軍〔從軍十万余騎云々。〕。

相州 武州 同太郎 武藏前司義氏 駿河前司義村 千葉介胤綱

 東山道大將軍〔從軍五万余騎云々。〕。

武田五郎信光 小笠原次郎長淸 小山新左衞門尉朝長 結城左衞門尉朝光

 北陸道大將軍〔從軍四万余騎云々。〕。

式部丞朝時 結城七郎朝廣 佐々木太郎信實[やぶちゃん注:下略。]

 

○やぶちゃんの書き下し文

廿五日戊申。去ぬる廿二日より、今曉に至るまで、然るべき東士に於いては、悉く以つて上洛す。京兆に於いては其の交名(けうみやう)を記し置く所なり。各々東海・東山・北陸の三道に分ちて上洛すべきの由、之を定め下す。軍士、惣(すべ)て十九萬騎なり。

 東海道大將軍〔從軍十万余騎と云々。〕

相州 武州 同太郎 武藏前司義氏 駿河前司義村 千葉介胤綱

 東山道大將軍〔從軍五万余騎と云々。〕

武田五郎信光 小笠原次郎長淸 小山新左衞門尉朝長  結城左衞門尉朝光

 北陸道大將軍〔從軍四万余騎と云々。〕

 式部丞朝時 結城七郎朝廣  佐々木太郎信實[やぶちゃん注:下略。]

 

[やぶちゃん注:「交名」将軍への上申や幕府への報告のための、戦役に参加した人名を連記した文書のこと。

 

「同太郎」北条時氏(建仁三(一二〇三)年~寛喜二(一二三〇)年)。北条泰時の長男。当時満十八歳。嫡子で泰時も期待していたが惜しくも病いのために早世した。

 

「武藏前司義氏」足利義氏。] 

 

 以上を以って本「○鎌倉軍勢上洛」〈承久の乱【十三】――幕府軍進発す〉を終わるが、これら複数の資料を読み比べてみると、その叙述の視点の違いや作話のポイントに非常に面白いものが感じられて、まだまだ興味は尽きないが、今回の注釈はこの辺で。――

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 海水浴場

    ●海水浴場

近年鵠沼村の海濱を以て。海水浴場に充て。紅旗を樹て之を標せり。海は遠淺にして岩石なかえれば。游浴に適せり。故に朝より麥藁帽子をまぶかにいたゞき。單衣に兵兒帶をしめたる婦人各々旅館を出て相伴ふて此處に來る。背後より見れば。男子に異ならず。故に初游の客(かう)は輕しく。辭(ことば)をかけ。そのふりむくを見て始て婀娜(あな)たる顏(かんばせ)を拜(はい)し。一驚を喫することあり。此等の風俗は東京にては絶えて見ることを得ざるもの。こればかりにても來游の價値あり。

沙濱には。葭子(よしず)をかけて茶亭を搆(かま)へ。菓子幷にラムネ等を鬻ぐものあり。全く浴客(よくかく)の愛顧を待(まつ)て。其の日を送るなり。薄暮客散するの後。諸具を收めて去る。それより旭の富士山に映じて紫色を生するに至る間は。茶煙(ちやえん)影(かげ)なくして。全く群蟹の游戯場たり。

[やぶちゃん注:ウィキの「片瀬西浜・鵠沼海水浴場によれば、『明治中期までは海岸一帯は地曳き網の漁場があったのみで、無人地帯だった』とあり、これはE.S.モース「日本その日その日」にも挿絵入りで描かれている(これは明治一〇(一八七七)年の夏の情景である。リンク先は石川欣一訳の同書の「第七章 江ノ島に於る採集」の地引網見学の一コマ。私の評釈付きテクストであるので是非ご覧あれ)。これは『江戸時代、幕府の相州炮術調練場(鉄炮場)だったからである』。明治二〇(一八八七)年の鉄道開通を見越して、地元有力者の手で海岸の開発が企てられ、明治一九(一八八六)年七月十八日に早くも『腰越の漢方医三留栄三の提唱で「鵠沼海岸海水浴場」が開設される。ところが、海水浴場開きの当日、三留医師は飲酒後に海に入り、急死したという』。『海水浴客受け入れのために旅館「鵠沼館」が開業し、数年の間に「対江館」、「東屋」も開業した。また、鵠沼南部の農家の中には、貸別荘風の家作を建てるものも現れた』。明治三四(一九〇一)年の夏には、画家の『川合玉堂が対江館に来遊し、『清風涼波』の絵巻を制作し』ており、これによって『明治時代の海水浴の風俗を知ることができる。一方、この頃鵠沼で少女時代を送った小説家内藤千代子は、海水浴場の賑わいと「板子乗り」の楽しさを描いている』。明治三五(一九〇二)年九月一日、『江ノ島電氣鐵道が開通し、鵠沼海岸別荘地の開発が本格化すると共に、海水浴場へのアクセスも改善された。しかし、明治、大正期の海水浴は、旅館や別荘に滞在するのが一般的だった』。少しだけ先のことを述べておくと、大正一二(一九二三)年九月一日の『大正関東地震(関東大震災)による地盤の隆起は鵠沼海岸で約』九十センチメートル『と想定され、大幅な海退により砂浜の面積が拡がった』とある。現在もここは『日本最大の集客力を誇る海水浴場である』と冒頭にある。 「婀娜(あな)」はママ。「あた」「あだ」の誤植であろう。

「葭子(よしず)」のルビは「よんず」としか読めないが、流石にこれは訂した。]

中島敦 南洋日記 十一月二十二日

        十一月二十二日(土) 晴、

 快晴、稍風強く、藍碧の海色鮮か。七時半小川屬の出迎を受け上陸、直ちに支庶出張所に到り、所長に挨拶、小川氏と共にロタ神社に參拜、背後の鍾乳洞を見る。最近は防空壕として優に千數百名を容るべしと。巡査部長の空官舍に落着く。午睡。街に出て見る。廣く白き道。枯れ椰子。牛多し。山羊。鐡道。砂濱。濤。風爽か。今川燒も、すしも、バナナも買へず、歸る。晝食後(すぢ向ふの食卓にて)午睡。二時半、再び小川氏と共にタタッチョなるチャムロ部落に向ふ。徒歩。右側は白堊質の懸崖、左は峻嚴累々たる所謂ロタ松島の海。頗る快き散歩路なり。部落の入口の墓地。椰子葉葺、或はトタン葺の、木造チャムロ住宅、廣き砂濱道の左右に遊ぶ。公學校に行く。校長と語り、明日の打合をなし、四時半、トラックに乘せて貰つて歸る。落日海に沈まんとし、枯椰子の蕭條たるに、燃ゆるが如き橙紅の落輝を注ぐ。夜の食卓は雞のすき燒なり。パラオの食堂に優ること萬々。食後、國民學校訓導茨木(?)氏の宅に行きラヂオを聞き、オレンヂを喫す。

[やぶちゃん注:「チャムロ部落」チャモロ族(Chamorro)の村。チャムロとも表記するようだ。彼等はミクロネシアのマリアナ諸島の先住民で、チャモロはスペイン語の「刈り上げた」とか「はげ」という意味を表す言葉である。チャモロ以前は外部に対しては彼等は「タオタオ・タノ」(土地の人)と自称していた。本島には紀元前三千年から東南アジア系の移住民が住み着いたと考えられており、その人々が今日の先住民チャモロ人の祖先とされており、そのことを裏付ける遺跡がラッテ・ストーンである(ラッテ・ストーン (Latte stone)はグアム・サイパンなどマリアナ諸島に見られる珊瑚石で出来た石柱群で、九世紀から十七世紀にかけて作られたチャモロ人の古代チャモロ文化の遺跡。古代のマリアナ諸島の王「タガ」にちなみ、タガ・ストーン(Taga stone)と呼ばれることもある。北マリアナ諸島の旗にも描かれている)。スペイン人との接触がある十七世紀以前は四万人から六万人の人口を保持していたが、一七一〇年の人口調査ではグアム島とロタ島の人口は三五三九人に激減していた。人口激減の背景には、スペイン人による殺戮や、天然痘などの疫病があるとされている。労働者確保のためメキシコ人やフィリピン人を移住させる政策を積極的に採ったことにより、彼らとの混血化が進み、純粋なチャモロ族はすでに存在しないと言われているが、チャモロ語については、公用語の英語とともに広く使用されている(以上はウィキの「チャモロ人」及び「ラッテ・ストーン」を参照した)。

「白堊質」白亜。堆積岩の一種であるチョーク(chalk)。白色又は灰白色の軟らかい石灰岩で、珊瑚などの生物起源の炭酸カルシウムから成る。白亜紀の地層として知られ、ドーバー海峡の断崖の露頭が知られる。]

萩原朔太郎 短歌三首 明治三六(一九〇三)年十一月

はかなみて投げにし戀のおもかげの悲愁(ひしう)さそひて來るゆふべかな

かよわくて御國(みくに)はぐくむ歌もなし身は孤獨(ひとり)にてようる胸もなし

湧きむるもひとたび冷えし胸の血のゆらぎなればか詩はいたいたし

[やぶちゃん注:『明星』卯年第十一号・明治三六(一九〇三)年十一月号の「紗燈涼語」欄に「萩原美棹(上毛)」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十六歳。因みに朔太郎の誕生日は十一月一日である。]

秋の かなしみ  八木重吉

 

 

わがこころ

 

そこの そこより

 

わらひたき

 

あきの かなしみ

 

 

あきくれば

 

かなしみの

 

みなも おかしく

 

かくも なやまし

 

 

みみと めと

 

はなと くち

 

いちめんに

 

くすぐる あきのかなしみ

鬼城句集 冬之部 氷

氷     斧揮つて氷を碎く水車かな

      石段の氷を登るお山かな

2013/12/29

なにか知らねど 夢みるひと(萩原朔太郎)


 なにか知らねど

         夢みるひと

 

なにか知(し)らねど泣(な)きたさに
われはゆくゆく滊車(きしや)の窓(まど)
はるばると
きやべつ畑(ばたけ)は日(ひ)に光(ひか)り
風見(かざみ)ぐるま
きりやきりゝとめぐる日(ひ)に
われはゆくゆく滊車(きしや)の窓(まど)
なにか知(し)らねど泣(な)きたさに

 

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年九月三十日附『上毛新聞』に上記の筆名で発表された。萩原朔太郎満二十七歳。【二〇二二年二月二十一日追加】読みが五月蠅いので、除去版を以下に示した。

   *


 なにか知らねど

         夢みるひと

 

なにか知らねど泣きたさに
われはゆくゆく滊車の窓
はるばると
きやべつ畑は日に光り
風見ぐるま
きりやきりゝとめぐる日に
われはゆくゆく滊車の窓
なにか知らねど泣きたさに

 

   *]

中島敦 南洋日記 十一月二十一日

        十一月二十一日(金) 晴

 波靜か、午後二時過、右舷に低きグワム/正面に高きロタの島影を見る。午後六時ロタ入港、すでに暗し。高原狀をなせる山塊と絶壁とのシルエット面白し。船上より見れば燈火點々。何か幻怪味を帶びたり、時に山上にも明滅す。支廳のランチ來る。宿舍の都合惡しとて、今一夜を船中に明す。夜十時頃より事務長、月田氏高柳氏等とポーカー、雜談、一時に到る。

[やぶちゃん注:「ロタ」現在のアメリカ合衆国自治領である北マリアナ諸島の島。北にテニアン島、南にはアメリカ合衆国準州であるグアム島がある。面積は八十五平方キロメートルで、参照したウィキの「ロタ島」によれば、『中央部がくびれた形をしており、それを境に東部は平坦な地形をしている。一方、西部はサバナ高原やタイピンゴット山など起伏に富んで』おり、『スコールが多いため、サバナ高原には地下水が溜まり、水質も良いことから飲料水として利用されている。日本統治時代、清らかな水と湿潤な気候という好条件に恵まれたサバナ高原の麓に醸造所が建設され、日本酒「南の誉」が生産されていた』。『太平洋戦争中、米軍の攻撃をあまり受けなかったため、サイパンやテニアンとは異なり、島全体に原生林が多く残』る、とある。第一次世界大戦中の一九一四年に、『大日本帝国軍が赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領したことにより支配権は日本に移り』、大正九(一九二〇)年には『国際連盟の委任統治領となる』。『ロタはサイパン、テニアンに比べ島の開拓が遅れ』、昭和九(一九三四)年当時でも在住する日本人はわずか千人余りであった。それでも翌年十二『に製糖工場が完成し、砂糖の生産が開始された。しかし、砂糖の生産はうまくいかず、製糖工場は3年余りで操業停止してしまう』。『太平洋戦争中は、ロタでは地上戦は行われず、周辺から孤立した状態に置かれた』が、昭和一九(一九四四)年になると『守備隊が増強され、最終的に海軍2000名(第五六警備派遣隊、設営隊、航空隊基地要員)、陸軍950名に至』った。『この阿部大尉が海軍部隊の指揮官となり、ロタは日本本土空襲に向かうB―29爆撃機の機数・方位を無線で警告する役目を担った』 という。『設営隊がいたため、大工、鍛冶屋、理髪、縫製などの専門家に事欠かず、演芸部も編成され、毎日のように空襲を受けながらも比較的平穏な日々が続いた』が、昭和二〇(一九四五)年九月二日、「ミズーリ」上『で行われた日本の降伏調印式より1時間遅れた午前11時、局地降伏調印式が行われ』ている。『戦後は国際連合によるアメリカ合衆国の信託統治領となり、1978年以降はアメリカ合衆国の自治領とな』ったとある。

 同日附中島たか宛書簡が残るので、以下に示す。

   *

〇十一月二十一日附(消印ロタ郵便局一六・一一・二四。パラオ島コロール町南洋庁地方課。東京市世田谷区世田谷一丁目一二四 中島たか宛。封書。)

 十一月十七日。今日から、第二の旅が始まる。午後一時半乘船。近頃は、般の出入の日日(ヒニチ)や時刻(コク)が中々はつきり知らせて貰(モラ)へないので困る。乘客(ジヨウキヤク)にさへ、二三日前までは、分らないのだから、實に不便(ベン)だ。何といふ船が、何日に出帆(パン)するといふだけの事(コト)さへ、葉書に書いてもいけないし、電報に打つてもいけないんだ。全部祕密(ヒミツ)にしなければいけないんだ。まるで戰時狀態だね。

 所で、僕の旅の出發は寂しいものだ。一人の見送もない。センの旅行の時は、谷口君といふ(課は違ふが)横濱からサイパン丸で同船室だつた靑年が荷物を持つて送つて來てくれたが、今度は、谷口君がチモールといふポルトガルの領地へ出張してゐるので、全くの見送なし。普通は誰でも旅行するとなれば、同じ課の者が澤山、荷物をもつたりして送つてくれるのだが、僕の場合は、そんな事をしてくれる者は一人もない。役所に於ける僕の不人氣は之でも分るだらう。僕も別に彼等の氣に入らうと務(つと)めもしない。誰もつきあふ者がなくても、却(カヘ)つて、うるさくない位に考へてゐる。しかし、かうハツキリと反感を示されると、さすがに一寸不愉快だね。全く役所つて、イヤな所さ。東京あたりの中央の役所はね、役人のタチが何といつても高級だから、話が分るんだがこちらの役人連と來たら、大抵は中學を出てから、直ぐつとめて、二十年も三十年もつとめ上げたといふ樣なのが多い。僕は別に學歷(レキ)の低いのを輕蔑(べつ)しはしないが、さういふ人達は、とかく、僕のやうに途中からはいつて來て、若いのに、自分達の上に坐る者に、どうしても反感を持つらしいんだ。(僕等は、こんどの南洋廳行を、ずゐぶん、ひどい低い小役人になりさがつたと思つてゐるのに――げんに、釘本なんか、はじめ此の話があつた時、高等官ぢやないから問題にならないと思つて、僕には、(はじめは)話さなかつた位だのに來て見ると、地方課の中では、課長の次に、僕がサラリーを澤山多く取つてるんだとさ。あきれちまつたな)そんな始末(シマツ)で、役所の中は、面白くない事だらけさ。それに今は編纂(ヘンサン)といふ仕事にも、全然(ゼンゼン)興味はなくなつたし、パラオは喘息に惡いし、僕が南洋廳にゐて良いことは一つもない。あゝ、不愉快! 旅に出てセイセイするよ。午後四時出帆。この山城(シロ)丸はパラオ丸にくらべると大分古くて設備(セツビ)も惡い。その代り船貸も安い。パラオの港は中々景色が良い。木の靑々と茂つた小島が澤山あつて丁度、松島のやうだ。山城丸はそのパラオの港を出てから暫くすると停(とま)つて了つた。とまつた儘(ママ)夜中までヂツとしてるんだといふ。之はね、この船は速力のノロイ船なのでヤップ迄一晝夜で行けないんだ。(サイパン丸やパラオ丸なら二十二時間位で行く)、それで、パラオを午後四時に出て行くとヤップ着が、明日の夜になつてしまふんだ。それではマヅイので、ここでしばらく休んで、明後日の朝ヤップに着くやうに、時間の加減(カゲン)をしてるんだよ。南洋の島の周圍(マハリ)には、珊瑚礁(サンゴセウ)がとりまいてゐて、るので、その珊瑚礁の割れ目をうまく通つて港にはいるのだから、夜では、あぶなくて入港できないんだよ。これは南洋の何處の島でも同じことだ。

 僕の隣の部星に月田一郎といふ映畫俳優がゐる。中々氣持のいい男だね。

 十一月十八日。一日中波は靜か。甲板(カンパン)の寢椅子にひつくりかへつて、萬葉集(マンエフシフ)(日本で一番古い和歌の本だよ。千年以上前)を讀んだ。その中には、妻に別れて遠く旅する(或ひは戰に行く)者の歌や、あとに殘つた妻のよんだ歌が大變多いので、身につまされるよ。千年前の歌とは、どうしても思へない。今、オレが、この山城丸の上で、詠(よ)んだといつても、それで通用(ツウヨウ)しさうな歌が澤山ある。

 十一月十九日。朝、ヤップ入港、ここは歸りに十八日間も滯在する所だが、今日は一寸上陸して、支應へ挨拶に行つただけ。全く、ここの土人だけは、はかの島とすつかり變つてゐるよ。

 オレの部屋は四人はいる室なんだが、今は二人で占領してゐる。相手の客は目方が丁度オレの倍ある請負(ウケオヒ)師だ。東京の人間で話が大變うまい。久保田万太郎の友達で、俳句をやるといふ。昨日も書いたが隣の部屋の月田といふ俳優は、全く感じの良い男だなあ。少しもすれた所がないぜ

 言葉や態(タイ)度もテイネイでね。但(タダ)し、僕は、日本の映畫を殆ど見てゐないので、彼が、映畫界で、どの程度の位置にゐるのか、知らない。彼の出る映畫を一つも見てゐないので、演技がうまいかどうかも、知らない。南洋へは、ロケーションに來たんださうだ。その映畫は三月頃封切になるだらうといふ。「南方の花海の花束(タバ)」とか何とかいふ題ださうだ。パラオ(といつてもコロールではなく、隣(トナリ)のパラオ本島)が出てくるそうだから、お前達、都合が出來たら、見てこいよ。もつとも、まだまださきの話だがね。はじめ封切の時なんか見に行つちや、こんでて大變だから、二・三週間たつて世田谷近くの、映書館にでも來た時、行つたら、いいだらう。格がゐるんだから、無理に行けといふわけぢやないが。

 十一月二十日。一日中海の上。海は相愛らず穩(オダヤ)か。時々スコールがあるだけ。麻雀・將棋・雜談・晝寢・それだけで一日暮れる。

 十一月二十二日。今日も昨日と同じ。たゞ、今日の夕方ロタにつく豫定。オレはロタで下りて、二日或ひは三日滯在して、次の船を待つんだ。ロタはね、アメリカ領のグワム島とほんの少ししか離れてゐないんだ。だから日米の間がイザとなれば、この邊は、あぶない所さ。(これまで午後一時)

(以下―→午後三時)今、船の右の方にグワム島が、船の正面にロタ島が見えて來た。二つの島は隨分近いなあ。あと三時間ぐらゐで、ロタの港に着くだらう。あとは。ロタの島で書く。

   *

 地方官吏気質への不満は、恰も「山月記」の李徴のそれを思い出させる。

「釘本」釘本久春(明治四二(一九〇八)年~昭和四三(一九六八)年)は国語国文学者。東京出身。東京帝国大学国文科卒。中央大学教授から文部省国語課長となり、戦後の国語改革や国立国語研究所の創設に参与した。昭和三五(一九六〇)年、東京外国語大学教授。在職中に死去した、とウィキの「釘本久春」にあるが、この大学の卒業年を昭和四(一九二九)年とするのは不審である。以前にも注したが、敦の一高時代の旧友で手紙にも書かれてあるように、この当時は文部省図書監修官であり、敦の南洋庁への就職は彼の斡旋によるものであった。

「月田一郎」既注。映画も含め、十一月十七日の私の注を参照のこと。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 37 貨幣計算器

 両替屋は、うまい仕掛で素速く銭を数える。彼は柄のついた盆を、細い条片(すじ)で各列に十個の区分のある十個の列の四角にわけた物を持っているが、条片の厚さは彼が勘定しようとする貨幣の厚さと同じであり、各種の貨幣に対して、それぞれ異った盆が使用される。一例として五ドルの金貨一つかみを盆の上に落し、それを巧みに振り動かすと、空所は即座に充され、貨幣は充された空所の上を、辷って空いた所へ入り込む。両替屋は貨幣を十ずつ数え、同時にそれ等を瞥見して、偽物があるか無いかを見る。この仕掛は銀行や両替事務所で使用される。

[やぶちゃん注:「木工教室探検隊」氏のブログのお金を数える道具に高知県馬路村で見たそれに類した道具の映像があるのを見つけた。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 引地川

    ●引地川

當郡の東上草柳村より出(いで)て。南流して福田、長後、上土棚等の諸村を經て。蓼川と合し。圓行村に入り、石川、大庭村等に係り東海道藤澤驛の西を横切きり。當地に至りて海に入る。川名は鵠沼の小名引地に係るを以て起るといふ。石川村の邊既にこの名を呼べり。夫(それ)より上流は長後川、土棚川、圓行川、抔各所の地名を以て名とすといふ。

[やぶちゃん注:河川全長は二一・三キロメートル。

「上草柳村」は「かみさうやぎむら(かみそうやぎむら)」と読む。現在の大和市上草柳。洪積台地である相模野台地中央部に位置し、ここの現在の泉の森公園が引地川の水源地(小田急線大和駅から北西へ約一・五キロメートルの位置)。

「福田」現在、大和市。

「長後」現在、藤沢市。

「上土棚」は「かみつちだななか」と読む。現在の綾瀬市上土棚中。引地川は現在の藤沢総合高等学校(私の最後の勤務校であった)の直近部分で、凡そ一五〇メートルだけ現在の綾瀬市内(ここで南西に少しだけ市域が藤沢市側に突出している)を通る。

「蓼川」は「たてかは(たてかわ)」と読む。

「圓行村」は「ゑんぎやうむら(えんぎょうむら)」と読む。現在の藤沢市円行。多摩大学湘南キャンパス附近(小田急線六会日大前駅の西北西約一キロメートル)。

「石川」円行村から数百メートル下流にあった村。現在の藤沢市石川。

「大庭村」現在の藤沢市大庭。小田急線善行駅の西南西約一キロメートル強の同所引地川沿いには現在、引地川親水公園が造られてある。

「川名は鵠沼の小名引地に係るを以て起るといふ」ウィキの「引地川」によれば、『河川名の由来には諸説があるが、台地からの出口に当たる藤沢市稲荷付近で、砂丘を断ち切って河道を付け替えたことによるという説が有力である。かつては場所により長後川、大庭川、清水川、堀川などの名称で呼ばれていた』とあるから、これは地名の先行ではなく、人工的に砂丘を開鑿して、則ち、「地」面を「引」き割って河口を作った「川」という謂いになる。上流に行くに別名が古く残ることからも、この説は正しいと思われる。]

萩原朔太郎 短歌九首 明治三六(一九〇三)年十月

淋しさに歌はなりてきしかはあれど春の一人を戀ひむよしもなし

 

幾度か草に伏したる一人ぞや後よりかへせ馬頭觀音

 

君は去りぬ殘るは吾と小さき世の月も月かは花は花かは

 

朝の戸に倚ればかつ散る緋芍薬うしとも見たる雲のみだれや

 

天地に水ひと流れ舟にして我もありきと忘るべしや夢

 

み歌さらになつかしみしたひつゝ忘れかねては行く萩が原

 

大空の物の動きとめざめては秋ぞこの子をよみがへらする

 

さぼてんの花よりひくき夏の雲物憂と人にせまる無聊や

 

たゆたひし夢さへ遂に力なくたえむとあらば戀はうせぬべし

 

[やぶちゃん注:『文庫』第二十四巻第三号(明治三六(一九〇三)年十月発行)に「上毛 美棹」名義で掲載された九首。萩原朔太郎満十六歳。太字は底本では傍点「〇」、傍線は底本では傍点「ヽ」である。但し、これらは選者服部躬治(既注済)が附した圏点と考えられる。以下、初出に附された服部の選評を示す。

 三首目「君は去りぬ」は歌の後に、

  情念は可し、四五、駢儷、却て自ら弱む。

とある。「駢儷」は「べんれい」と読み、四六駢儷体、四六文のこと。本来は漢文の文体の一つで四字又は六字の句を基本として対句を多用して句調を整えるとともに各所に典故を配した華麗典雅な、六朝から唐にかけて流行した美文。本邦でも奈良・平安期の漢文に多く見られる。ここは単に構造上の対句表現の畳みかけを難じている。

 全字に圏点「〇」を附した五首目「天地に」の後には、

  意を展ぶる濶達、調を諧するに悠舒、感興の大なるなり。

とする。「悠舒」はゆったりとして伸びやかなさま。

 同じく全字に圏点「ヽ」を附した七首目の「大空の」には、

  巧緻なり、然れども巧緻弄せず。意趣油然たり。

と絶賛する。「油然」とは盛んにわき起こるさま、心に浮かぶさまをいう。個人的には「天地に」の方が確かに「巧緻」で上手いとは思うが、前者の青年らしい感傷の方が私には好ましい。他の評、圏点の違いからは服部も前者をより評価しているように私は思う(そもそも他の評にもあるように修辞的な巧緻性は服部には二の次であったように思われるからでもある。

 第八首「さぼてんの」には、

  上句風趣あり、下句興會なし。ありといへどもそれに伴ふ語と調となし。

と難ずる。「興會」とは聞き慣れぬ語であるが、「きようゑ」と読むか。興感、上句が醸成した感懐を下句の文字言辞に於いて引き出すところの共感的出逢いといったニュアンスであり、この評には大いに同感するところである。]

貫(つら)ぬく 光  八木重吉

 

 はじめに ひかりがありました

 

ひかりは 哀しかつたのです

 

 

ひかりは

 

ありと あらゆるものを

 

つらぬいて ながれました

 

あらゆるものに 息(いき)を あたへました

 

にんげんのこころも

 

ひかりのなかに うまれました

 

いつまでも いつまでも

 

かなしかれと 祝福(いわわ)れながら

 

[やぶちゃん注:「祝福(いわわ)れながら」のルビ「いわわ」はママ。]

鬼城句集 冬之部 冬川

冬川    冬川に靑々見ゆる水藻かな

 

      舟道の深く澄みけり冬の川

2013/12/28

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 鵠沼総説

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より「鵠沼・逗子・金澤」の部

 

[やぶちゃん注:以下に電子化するのは明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊第百七十一号「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(表紙標題では「江島」が「名所圖會」と同ポイントで、「江島」の下にポイント落ちで「鵠沼」「逗子」「金澤」の三箇所が右から左に横に並ぶ。見開き目次標題では右に「江島、鵠沼、」が、左に「逗子、金澤」が二行で並んでポイントが大きい「名所圖會」が下に続く。本文開始大見出しもこれに同じである。向後は私の趣味で上記の標記を以って本書の標題を示すこととする)。発行所は、『東京神田區通新石町三番地』の東陽堂、『發行兼印刷人』は吾妻健三郎(社名の「東」は彼の姓をとったものと思われる)。

 「風俗画報」は、明治二二(一八八九)年二月に創刊された日本初のグラフィック雑誌で、大正五(一九一六)年三月に終刊するまでの二十七年間に亙って、特別号を含め、全五百十八冊を刊行している。写真や絵などを多用し、視覚的に当時の社会風俗・名所旧蹟を紹介解説したもので、特にこの「名所圖會」シリーズの中の、「江戸名所圖會」に擬えた「新撰東京名所圖會」は明治二九(一八九六年から同四一(一九〇八)年年までの三十一年間で六十五冊も発刊されて大好評を博した。謂わば現在のムック本の濫觴の一つと言えよう。そのシリーズの一つとして、この百七十一号発行の遡ること一年前の、明治三〇(一八九七)年八月二十五日に、臨時増刊「鎌倉江島名所圖會」(第百四十七号)というものを刊行していた。ところがこれは「江島」と名打っておきながら殆んど鎌倉のみを扱っており、僅かに江の島の本文は二頁強、稚児が淵と旅館金亀楼の図に小さな江の島神社の附図があるだけであった(他に口絵の「七里ヶ濵より江の嶋を望むの圖」に江の島が遠景で描かれている)。そこでその不備を補うために出されたのが、この「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」であった。

 挿絵の原画はすべて石板で、作者はこの『風俗画報』の報道画家として凡そ一三〇〇点に及ぶ表紙・口絵・挿絵を描いた山本松谷、山本昇雲(明治三(一八七〇)年~昭和四〇(一九六五)年:本名は茂三郎。)である。優れた挿絵であるが、残念ながら著作権が未だ切れていない。私が生きていてしかも著作権法が変わらない限り、二〇一六年一月一日以降に挿絵の追加公開をしたいと考えている。

 底本は私の所持する昭和五一(一九七六)年村田書店刊の澤壽郎氏解説(以上の書誌でも参考にさせて戴いた)になる同二号のセット復刻版限定八〇〇部の内の記番615を用い、視認してタイプした。読みについては振れると私が判断したもの以外は省略した。濁点や句点の脱落箇所が甚だ多いがママとした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文漢詩の引用の部分は本文には訓点(底本では返り点のみ打たれている)を省略して白文で示し、後の注で我流の書き下しを示した。大項目及び小項目見出しのポイントの違いはブログ版では無視して総て同ポイントで示した。ポイント落ちの割注は〔 〕で本文と同ポイントで示した。傍点「●」はブログ版では太字で示した。今回は各段落ごとに注を附し、その後は一行空けとした。これらは私の鎌倉地誌の範疇に含まれない(特に鵠沼は殆んど歩いていない)のでとんでもない注を附すかも知れないので、誤りを見出された方は是非、ご連絡を戴けると幸いである。【ブログ始動:2013年12月28日】]

 

   ◎鵠沼地方の部

   〇鵠沼

鵠沼今之(いまこれ)をクゲヌマといふ。クヾヒヌマの略稱なり。風土記には正しく久久比奴末と訓(くん)せり。

[やぶちゃん注:以下、「多しといふ。」までは底本では全体が一字下げ。]

 

因みに云。クヾヒ今之を白鳥といひ。又コブともいへり。秋冬田澤に多し。其の形雁より大(おほき)く。鵞鳥に似たり。全身白くして光り。頸甚た長く。喙の本額に近く。赤き瘤(こぶ)あり。喙は黑楬にして。脚(あし)は淡黑なり聲大く。脂極めて多しといふ。

此の鵠の字。俗人には讀みにくき故。旅館などにては大に困却し居るよし。然れども古き名なれは。俄かに改め難しといへり。

其の地は。相模國高座郡に屬し。江島より僅かに十二町にして村端に達す。砂濱に沿ふて行けは。小蟹郭索として健歩す。人之を逐へは。その疾(はや)きこと飛ぶがごとく。忽ち穴に入りて其の影を失ふ。亦一興なり。

[やぶちゃん注:「十二町」一・三キロメートル。これは江の島島内を起点とした距離と思われる。

「郭索」(かくさく)は正に蟹がカサカサと動くさまを示す語。何も鵠沼海岸が砂蟹の名所な訳でもなんでもない。この部分、書き出しで退屈させないように筆者が相当に気を使って書いている感じが歴然としている。]

 

新編相模國風土記に云ふ。小田原北條氏の頃は。岩本太郎左衛門知行す。役帳に岩本次郎左衛門七十三貫七百六十七文東郡鵠沼と載(のす)。今御料地延寶六年八月。成瀨(なるせ)五左衛門検地す。外に新田三所あり。其一は享保七年墾闢し。日野小左衛門改め。其の二は寶曆七年の墾闢にして志村多宮検地す。其餘(そのよ)は布施孫之進か采地にして、延寶七年十一月先祖孫兵衛検地し。其の後開墾の地あり。元文元年以來新田知行となる。村内空乘寺領九石交れり。空乘寺傳に。大橋重政采地の内を割(さい)て寺領を寄進すと云ふ。重修譜に據(よ)るに。重政が父長左衛門重保。元和(げんな)三年三月召出(めいいだ)され。後相模國高座郡にして采地五百石を賜ふと見ゆ。此地其頃は重保か知る所なり。東海道村の北境(ほくけう)を通ず〔幅四間〕村民農隙には魚獵(ぎよれう)を專らとす〔船役永錢を納む〕此邊松露初茸を産せり。海岸に砲術場あり。享保年中御用地となりしと云ふ。」

[やぶちゃん注:最後の『」』の始まりはない。

「岩本太郎左衛門」(生没年不詳。「衛」はママ)後北条家家臣で御馬廻衆の一人。相模東郡鵠沼の他、相模国三浦郡平佐久村(九十六貫六百文)・武蔵国川越郡須奈村(十六貫八百文)、鵠沼の分と合わせて計百八十七貫百六十七文を知行していた。彼については「黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の渡部瞭氏の「岩本定次知行地」が詳しい。

「延寶六年」西暦一六七八年。

「享保七年」西暦一七二二年。

「新田三所」この新田開発については、やはり「黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の渡部瞭氏の「初期新田開発」に詳しく、それによれば「新田」と言っても田圃であったわけではなく、特に『鵠沼新田の場合、砂丘間低湿地のように、よほど地形的に恵まれていない限り、水田開発は行われなかったと思われる。そのほとんどは麦類や雑穀、野菜類を栽培する普通の畑地だったに違いな』く、これは『保水力のない洪積台地の相模野や武蔵野の新田開発も同様である』と解説され、更に『17世紀後半から18世紀前半に至る鵠沼新田は、現在の鵠沼橘二丁目の旧小字新田に集落があり、耕地はおそらく現在の藤沢駅南部から鵠沼中学校あたりと思われ』、『新田を開発した人々は、鵠沼本村すなわち大庭御厨以来の伝統を守る皇大神宮の氏子集落からの出村ではなく、全く別の地域から集められたに違いない。』『なぜなら、名主=平本家をはじめ、滝澤、八木、杉浦(2軒)、関野、吉澤と、本村と共通する姓がないからである』と記しておられる。

「新田知行」という語は、前注の渡部瞭氏の解説から推すと、知行といっても耕作地はこれから開発しなければならず、恐らくは土地も痩せた荷厄介な知行地であることが分かる。

「空乘寺」藤沢市鵠沼に現存する真宗高田派の金堀山空乘寺。寺伝によれば延宝五(一六七七)年に入滅した僧了受が江戸初期に開山創建したと伝えられる。空乗寺の朱印地は鵠沼字石上にあったため、石上の渡し(石上から片瀬村字大源太岸への船渡し)は空乗寺が支配した(ウィキの「空乗寺」に拠る)。

「大橋重政」(元和四(一六一八)年~寛文一二(一六七二)年)は江戸前期の武士にして書家。大橋重保長男。通称は小三郎、長左衛門。書を父重保(次注参照)及び青蓮院尊純法親王に学び、大橋流として広めた。江戸牛込(またはこの鵠沼村)で生まれた。幼少時より、右筆であった父の重保に書を学び、十歳で将軍家光に御目見えし、十四歳で早くも家光の右筆となった。寛永一〇(一六三三)年に父重保が病により右筆を辞したため、翌寛永十一年に大橋家家督を継いで、同時に幕府の右筆吟味役となった。次期将軍の家綱の手本も書いている。手本に「菅丞相往来」など。重政の書については父の重保も一目置いており、光松山放生寺の縁起二巻を撰した際も書は重政に任せている。一方、重政も重保を深く慕っていたと思われ、龍慶寿像製作を発願、彫刻を藤原真信に依頼し、自らは撰文をしたためて、郷里の誉田八幡宮の大橋龍慶堂に安置した(この像は廃仏毀釈の際、三宅村(現在の大阪府松原市)の大橋家に戻され、後に松原市に寄贈されて現存する)。慶安二(一六四九)年には鵠沼の采地の内、石上付近の九石余りを空乗寺に寄進して将軍家光より御朱印を賜り、後にその労により賞を受けている。死後は龍性院殿道樹居士として空乗寺に葬られた。直後に所領は上知されて幕領となって大橋家と鵠沼の縁は終わったが、三十三回忌に墓所は二人の息子によって整備され、現在、藤沢市文化財史跡に指定されて現存する。彼は今日まで続く書道流派大橋流の創始者として慕われていると参照したウィキの「空乗寺」に書かれてある(以上の一部は講談社「日本人名大辞典」も参考にした)。

「重政が父長左衛門重保」武士にして書家。ウィキの「空乗寺」によれば、『江戸初期、布施家と鵠沼村を二分して知行地とした旗本大橋家は、幕府の右筆を務め、書道「大橋流」の始祖とされる』とあり(以下では一部は講談社「日本人名大辞典」も参考にした)、大橋重保(龍慶 天正一〇(一五八二)年~正保二(一六四五)年)は河内国志紀郡古室村(現在の大阪府藤井寺市)生。通称は長左衛門。父左兵衛重慶は豊臣秀次に仕えていたが、天正一二(一五八四)年の小牧・長久手の戦いで戦死、勝千代(大橋重保の幼名)は三歳で伯母に引き取られ、幼くして京都南禅寺に入り、金地院崇伝に禅僧流の書の教えを受けた。元服後、長左衛門重保を名乗り、片桐且元に従った後、三十一歳の時に豊臣秀頼の右筆となった。大坂の陣では徳川方についたものの負傷、大坂落城後は徳川秀忠の右筆、家光の御伽衆(おとぎしゅう)を勤めた。寛永一〇(一六三三)年に剃髪して法印となった。江戸で入寂。茶道は小堀遠州の弟子であった。豊臣氏滅亡により浪人した際に江戸に出、元和三(一六一七)年に秀忠に旗本に召し上げられたが、その際、鵠沼村・大庭村を合わせて采地五百石を賜っている。鵠沼村の村高は約六百石で、後にここを采地として賜った布施家が約三百石弱だから、大橋家采地の鵠沼村分は三百石強だったと考えられる。なお、新編相模國風土記稿や第二十四世慶龍は、永禄年間にこの空乗寺創建の際の開基とされるが、永禄は重保の誕生前で、龍慶が開基というのが事実なら、空乗寺の創建は一六三三年以降、一六四五年以前でなければならない。あるいは、空乗寺としては後に大橋家采地の内の九石を寺領として寄進された経緯から、出家した大橋龍慶に敬意を表したのではないだろうか、とウィキでは推測している。

「農隙」は「のうげき」と読む。農作業の合間。農事の暇(ひま)。農閑期。

「村民農隙には魚獵を專らとす」この漁業については、やはり「黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の渡部瞭氏の「鵠沼浦の漁業」に詳しい。

「船役永錢」「ふなやくえいせん」と読むと思われる。「永錢」は穎銭で、穀物の代わりに税として納めた銭を指す。ここは漁師として儲けた金額から支払う就労税を言うものと思われる。

「松露」菌界ディカリア亜界 Dikarya 担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ亜綱イグチ目ヌメリイグチ亜目ショウロ科ショウロ Rhizopogon roseolus。以下、ウィキの「ショウロ」によれば、『子実体は歪んだ塊状をなし、ひげ根状の菌糸束が表面にまといつく。初めは白色であるが成熟に伴って次第に黄褐色を呈し、地上に掘り出したり傷つけたりすると淡紅色に変わる。外皮は剥げにくく、内部は薄い隔壁に囲まれた微細な空隙を生じてスポンジ状を呈し、幼時は純白色で弾力に富むが、成熟するに従って次第に黄褐色ないし黒褐色に変色するとともに弾力を失い、最後には粘液状に液化する』。『胞子は楕円形で薄壁・平滑、成熟時には暗褐色を呈し、しばしば』一、二個の『さな油滴を含む。担子器はこん棒状をなし、無色かつ薄壁、先端には角状の小柄を欠き』小、六~八個の胞子を生ずる。『子実体の外皮層の菌糸は淡褐色で薄壁ないしいくぶん厚壁、通常はかすがい連結を欠いている。子実体内部の隔壁(Tramal Plate)の実質部の菌糸は無色・薄壁、時にかすがい連結を有することがある』。『子実体は春および秋に、二針葉マツ属の樹林で見出される。通常は地中に浅く埋もれた状態で発生するが、半ば地上に現れることも多い。マツ属の樹木の細根に典型的な外生菌根を形成して生活する。先駆植物に類似した性格を持ち、強度の攪乱を受けた場所に典型的な先駆植物であるクロマツやアカマツが定着するのに伴って出現することが多い。既存のマツ林などにおける新たな林道開設などで撹乱された場所に発生することもある』。『安全かつ美味な食用菌の一つで、古くから珍重されたが、発見が容易でないため希少価値が高い。現代では、マツ林の管理不足による環境悪化に伴い、産出量が激減し、市場には出回ることは非常に少なくなっている。栽培の試みもあるが、まだ商業的成功には至っていない』。食材としての松露は『未熟で内部がまだ純白色を保っているものを最上とし、これを俗にコメショウロ(米松露)と称する。薄い食塩水できれいに洗って砂粒などを除去した後、吸い物の実・塩焼き・茶碗蒸しの具などとして食用に供するのが一般的である。成熟とともに内部が黄褐色を帯びたものはムギショウロ(麦松露)と呼ばれ、食材としての評価はやや劣るとされる。さらに成熟が進んだものは弾力を失い、色調も黒褐色となり、一種の悪臭を発するために食用としては利用されない』とある。

「初茸」担子菌門真正担子菌綱ベニタケ目ベニタケ科チチタケ属ハツタケ Lactarius lividatus(シノニム Lactarius hatsudake )。ウィキの「ハツタケ」によれば、夏の終わりから秋の初めにかけて海岸のクロマツ林や里山のアカマツを交えた雑木林に発生する。傘の径は五~十センチメートルで、その表面は湿っている際には多少の粘りを生じる。色は淡紅褐色・淡黄赤褐色などを呈して濃色の環紋を持つ。傘下の襞は淡黄色でワインのような紅色を帯びる。柄は長さ二~五センチメートルで、表面は傘とほぼ同色。傘に傷がつくと緑青(ろくしょう)のような色に変色することから、緑青初茸とも呼ばれる(変色した個体でも食味には問題はない)。古くから食用とされており、「重修本草綱目啓蒙」にも記述がみられる。「守貞漫稿」によると、主として関東地方で食されたが、近畿地方での人気は高くなかった。「続江戸砂子」によると、現在の千葉県松戸市付近が名産地であったとする。炊き込みご飯の具や天ぷらなどの調理法があるが、良い出汁が出るため、すまし汁の実としての使用が最良とされる、とある。

「海岸に砲術場あり」相州炮術(ほうじゅつ)調練場。現在の神奈川県藤沢市及び茅ヶ崎市の海岸にあった江戸幕府の銃術鍛練場。天正一八(一五九〇)年に現在の藤沢市及び茅ヶ崎市の海岸線一帯が天領となって藤沢宿代官が管理することとなり、享保一三(一七二八)年(年)の享保の改革の一環によって幕府鉄炮方の井上左太夫貞高が鉄炮方役人の銃術鍛練の場として柳島村(相模川河口)から片瀬村までの海岸に相州炮術調練場を設置したのが始まりである。この頃、三浦郡・鎌倉郡・高座郡の村々では演習の時期になると役人の宿泊接待・力役労働・警備・伝馬などの夫役を負担させられた上、通常から戸塚宿・藤沢宿・平塚宿の助郷をも命じられて生活が困窮していたため、この炮術調練場の賦役は大きな負担となっていた。明治元(一八六八)年に鉄炮場は廃止され、跡地は一部が横須賀海軍砲術学校辻堂演習場となったが、境川河口から引地川に挟まれた鵠沼村の南東部(二十五万坪余)は、大給松平家(後の大給子爵家)近道が入手、鉄道開通を機に日本初の別荘分譲地(鵠沼海岸別荘地)として開発された(以上はウィキの「相州炮術調練場」に拠る)。

「享保年中御用地となりしと云ふ」「享保年中」は西暦一七一六年から一七三五年。サイト「鵠沼を語る会」の「鵠沼地区総合年表」に「藤沢市史」第二巻に載る「御鉄炮御用宿賄帳扣」(「扣」は「ひかへ(ひかえ)」で「控」に同じい)なる記録に享保一八(一七三三)年六月十七日から七月六日まで鵠沼村他に逗留して鉄炮の試射演習が行われた旨の記事が、またその後の享和二八(一八〇二)年の項には、「藤沢市史年表」に「為取替証文之事」なる記録に、鵠沼村と大庭・稲荷・折戸・羽鳥村との間に鉄炮場御用宿賄い金滞納を巡って論争があったという記事が載る。]

 

右に記せる松露初茸は。今も尚ほ此地の名産たり。砂濱より數十間以内は。一丈ほどの小松叢生して。翠色を連(つらぬれ)れは。むかしより松露等を發生せるならむ。

[やぶちゃん注:前にも出したサイト「鵠沼を語る会」の渡部瞭氏の「鵠沼の生き物あれこれ―ゆかりの生物と外来生物―」の記載に、会誌『鵠沼』第三号に川上清康氏が寄せた「私と鵠沼」の中の一節を引かれ、関東大震災前の『頃の海は、真に椅麗で片瀬迄は砂丘と松林が続き、辻堂に近い方では防風が一ぱい採れたものである。又松林には松露を採りに行き、到る処撫子や月見草が咲き、赤い蟹が庭先や台所口をはい廻っていた』(「椅麗」はママ)とあり、渡部氏自身の記憶として、昭和二五(一九五〇)年『までは採集できた記憶がある。この年に東京に一時転居し、3年半後に戻ったら消えていた。湘南砂丘地帯の特産物として、辻堂駅の開業当時、ハマボウフウ(学名:Glehnia littoralis)と共にホームで売られたと聞く。ハマボウフウも一時姿を消し、1979(昭和54)年4月17日に伊藤節堂会員が鵠沼海岸のサイクリング道路で再発見したことが『鵠沼』9号に紹介されている。現在、辻堂の愛好者団体「湘南みちくさクラブ」が復活に熱心に取り組み、成果を得ている。藤沢宿の老舗和菓子店「豊島屋本店」では、銘菓「浜防風」が参勤交代の土産として有名で、ショウロの香りを生かした「松露羊羹」は、1914(大正3)年の大正博覧会や1922(大正11)年の平和博覧会などで金牌を獲得、葉山御用邸御用達となった。これらは現在でも製造販売されている(「浜防風」は注文生産) 』とあり。更に続けてハツタケについて、『鵠沼のクロマツ林に生える食用キノコとしては、ハツタケ(学名: Lactarius hatsudake)、アカハツ(学名: Lactarius akahatsu)も記録されているが、筆者は認識していない。マツタケ(学名:Tricholoma matsutakeS.Ito et Imai Sing.)は主にアカマツ林に生えるため、残念ながら鵠沼にはない』と記されておられる。残念ながら、現在では松露も初茸も最早、鵠沼には自生しないようである。

「數十間」一間は凡そ一・八二メートルであるから、九〇~一〇九メートル内。

「一丈]約三メートル。]

 

此地眺望最も佳絶にして。江島は手に取るばかりに見え。大磯小磯は歷々指點(してん)すべく。高麗寺山。大山、足柄、箱根、天城の諸嶺重疊して秀を競ひ奇を呈する處。富士の峯獨り高く聳えて。悠然たるの景實(じつ)にたぐひなく。千秋の積雪近くして掬(きく)すべきに似たり。

[やぶちゃん注:「小磯」現在、神奈川県中郡大磯町の大磯駅(駅の住所は大磯町東小磯)及びその西方に東小磯・西小磯の地名がある。その先が現在の大磯ロングビーチであるから、この「小磯」は大磯の手前の海岸線(大磯港及びその西部)を指すと考えてよいか。

「歷々指點すべく」はっきりと指差して示すことが出来。

「高麗寺山」平塚市と大磯町に跨る高麗山(こまやま)のこと。大磯丘陵の東端にあり、標高は一六八メートル。地元では高麗寺山とも呼ばれ、江戸時代まで高麗寺という寺が山中にあり、現在の高来神社も高麗神社として寺内にあった(現在は廃寺)。この寺は七世紀に滅亡した高句麗から亡命してきた高麗若光なる人物を祀ったものであったとされ、寺名も山名も、そうした渡来人がこの山の近くに定住したことに由来すると伝えている。]

 

太田道灌の

  わが庵はまつはらつゝき海ちかく

       富士のたかねを軒端にぞ見る

の詠は。恰も此の鵠沼の爲めに賦したるものゝごとし。

[やぶちゃん注:本歌は例えば「江戸東京探訪シリーズ 江戸幕府以前の江戸」では、『道灌は江戸城を築きましたが、精勝軒と呼ばれる櫓も作りました。この櫓は、現在の皇居の 富士見櫓 のある場所に作られました。道灌は、この櫓から富士山や海の素晴らし眺望を楽しんでいたのです。道灌が精勝軒で詠んだつぎのような句があります』として、この一首を掲げ、『この句からも、当時海岸の松原が精勝軒のすぐそばまでせまっていたことが分かります。その海岸とは、言うまでもなく日比谷入江の海岸です。そして、一望のもとに富士の雄姿が眺められる絶景の地だったことも確かなようです』と解説されてあり、他のデータでも江戸城での眺望とするものが殆んどである。まあ、筆者は「ものゝごとし」と言っている訳で、重箱の隅をほじくる必要はあるまい。]

 

南は相模灘を扣(ひか)えて。潮汐雪を捲(まい)て砂濱を洗ひ。漁船䌫を解き白帆風を孕む時。款乃(かんたい)の一聲亦聞くに堪(たへ)たり。

[やぶちゃん注:「䌫」は「ともづな」と読む。船尾にあって船を陸に繋ぎ止める綱。舫(もや)い綱。

「款乃(かんたい)」ルビは「あいない」又は「あいだい」とするのが正しい。舟唄。舟を漕ぐ櫓(ろ)の音のことである。そもそも「款」は「欸」の字の誤用による慣用表記で(「款」の字音には「アイ」はない)、「欸乃」が正しく、その読みは「あいだい・あいあい・あいない」で、「廣漢和辞典」によれば、舟に棹差して相い応ずる声、また、櫓のきしる音。転じて舟唄。また、漁師の歌や木樵りの歌、とある。ここは「一聲」とあるから舟唄で採るのがシークエンスとしては心地よい。]

 

東は片瀬。七里ケ濱。鎌倉に連り。天氣晴朗の日には。遠く房總の諸山を寸眸の内に收め得べし。

[やぶちゃん注:「片瀬」の「瀬」はママ。]

 

明治二十四年。大隈伯爵が一たひ暑を此地に避けられしより。鵠沼の名は漸く江湖に傳はりて。遊客(いうかく)毎年踵を接して來る。方今は蜂須賀、高崎、田中、伊東等諸家の別莊十四五ケ所あり。皆茅屋にして間雅(かんが)愛すべし。

[やぶちゃん注:「大隈伯爵」大隈重信。

「蜂須賀」本誌発行の明治三一(一八九八)年当時の蜂須賀家当主は枢密顧問官であった侯爵蜂須賀茂韶(はちすかもちあき)。以下もその時間で推定。

「高崎」元薩摩藩士で元老院議官や東京府知事等を勤めた男爵高崎五六の長男で、宮内省式部官から貴族院議員となった男爵高崎安彦辺りか。

「田中」武官で海軍軍医学校学校長であった田中肥後太郎か。「黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の渡部瞭氏の明治末の別荘に「常住」とある。

「伊東」公爵伊藤博文か。

「間雅」ママ。閑雅の誤植であろう。]

こころの 海(うな)づら  八木重吉

 

 

照らされし こころの 海(うな)づら

 

しづみゆくは なにの 夕陽

 

 

しらみゆく ああ その 帆かげ

 

日は うすれゆけど

 

明けてゆく 白き ふなうた

鬼城句集 冬之部 地理 冬山

  地理

 

冬山    冬山の日當るところ人家かな

 

      冬山へ高く飛立つ雀かな

 

      冬山を伐つて日當墓二つ

 

      冬山に住んで葛の根搗きにけり

2013/12/27

ブログ・アクセス530000突破記念 珊瑚礁 火野葦平

[やぶちゃん注:本テクストは「河童曼陀羅」完全テクスト化プロジェクトの一つであると同時に(ここのところ更新を怠っていた)、ブログ・アクセス530000突破記念テクストとしても公開した。なお、この前に「煙草の害について」というチェーホフの作品をインスパイアした一篇があるが、この電子化には注釈を附したいと考えているので後日に回すこととするので、悪しからず。藪野直史【二〇一三年十二月二十七日】]

   珊瑚礁   火野葦平

 むかし、勤勉な河童があつて南に行つた。太陽はあかるくまぶしくきらきらと、うすもやのかかつてゐる南方の空氣のなかにみなぎりあふれ、光のいとが無數の金粉のやうにもつれて、おはらかな潮のかをりのなかにしみこんでゐるやうな場所では、どこか深い海のそこで、いくつもの海洋からながれこんで來る海流がふれあつて立てる音がおどろおどろしくひびくのである。あつさにも馴れて來ると、絢爛(けんらん)たる南の花々の美しさが眼に映りはじめた。すべて大づくりなゆるやかさをもつて、地面にまでその重たい花びらをたらしてゐる、早口でいへば舌を嚙むやうなめづらしい植物の名前をおぼえるのに、勤勉ではあるが暗愚な河童はひと苦勞した。さうしてあまりにきびしさのない水のあたたかさに、すこし心がゆるんで來たことを自分でも氣づいたときには、蓄積の想念にたいするかすかな疑念がわきはじめてゐたのである。
 南方へ移住して來たのは河童だけではなかつた。花々の誘惑をうけて多くの蜂のむれが蜜をあつめるためにやつて來た。おびただしい花々のなかに豐富な蜜があつた。蜂はよろこんだ。精勵なる作業がはじまつた。河童はきらめく光のなかを、まひあがる花粉のごとく、多くの蜂たちが蜜を蒐集してゐるすがたを、晝となく夜となく見た。河童は自分の棲みかをさだめるために、縹渺(へうべう)とした果からまつ青な水をうちよせて來る海濱に出て、珊瑚礁のあひだに沈んだ。眞紅の枝はりめぐらしてゐる珊瑚の林を縫うて、黄いろい縞のある平べつたい魚や、口ばかり大きくて尻尾のない長い魚や、顏ぢゆう眼ばかりのやうな丸い魚などがしきりに遊弋(いうよく)し、鬪志をもつたとげのするどい魚類がときをり珊瑚の森林のなかではげしくたたかつた。勤勉な河童は魚の骨をたくはへはじめた。
 どこかのあたたかい海の底にも寒流が通つてゐるところもあるといふ。その音が聞えるともいふ。耳をすましてその音を聞かうとしてゐるときに、ある日、河童はふしぎな羽音を聞いた。それは聞きなれぬ音ではなく、かれが海底に來るまへに、花々の咲きみだれてゐるあかるい高原で、晝となく夜となく聞いた音であつた。蜂が海へ來たのであらうか。蜂が海へ來たのであつた。あたかも潮がひいてゐた。靑い水面におほくの珊瑚が眞紅の美しい花のやうにひらき、それにふりかかる花粉のやうに、蜂のむれがゆるやかな、しかしあきらかに焦躁にかられた羽音をたてて降りて來るのであつた。珊瑚の枝に蜂のむれはとまつた。日が暮れはじめ、暮れた。潮が滿ちて來で、珊瑚礁は海底にしづんだ。蜂もともにしづんだ。
 毎日おなじことがくりかへされるにいたつて、河童はこの悽愴(せいさう)な勇氣に慄然としはじめた。かれはおどろいたときにする癖の背の甲羅を鳴らした。蓄積の想念に生じた疑念の小ささが、おもひがけぬあたらしい勇氣に還元されてゆくのを意識しつつ、海面に浮く蜂の屍をながめた。南方には花が多すぎたのだ。花のいのちの美しさは、吹くときすでに散ることの運命をふくんでゐるからにちがかない。散るときを惜しんで吹いてゐるあひだをいつくしむ心に、生きてゆくいのちの美しさもやどされるものであらう。蜂たちは散るときをおそれ、花のなくなる季節のために、花のあひだに精勵の作業をつづけたのである。花のなくなる季節がないといふことはなんといふたよりないことであらう。蜂は信念をうしなつた。つねに花があり、つねに蜜があるものをなんのために蓄積をする必要があらう。蜂は花の美しさにうたがひが生じ、生きることに倦怠のこころが湧いた。河童が海にしづんだのはこのときである。
 しかし、蜂たちはあたらしい花園を發見した。靑い波のうへに眞紅の花々が壯麗に吹きいでてゐることを知つたときに、蜂たちはすべてをわすれた。花粉のごとく蜂たちは珊瑚礁にむらがり降り、滿潮とともにその生を終つた。
 太陽はあかるくまぶしくきらきらとうすもやのかかつてゐる南方の空氣のなかにみなぎりあふれ、光のいとが無數の花粉のやうにもつれて、おほらかな潮のかをりのなかにしみこんでゐるやうな場所をながれてゆく蜂たちのすがたを、珊瑚礁の底に端坐した河童は感歎するまなざしをもつて眺めずには居られない。かれのこころにふたたび海底を出でようといふ意志がうごいて來たときに、潮がかきはじめ、壯麗な珊瑚の花々が水面にうかびはじめ、天の一角から蜂たちのゆるやかな弱音がおこつて來るのである。

530000アクセス突破

只今2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来のアクセス数530205アクセス。
もうそろそろとは昨日辺りは思っていたが、今日の10~11時に恐らく単独で200を超えるアクセスをなさった方がいて、知らないうちに超えていた。
記念テクストは……用意が実は全くない……しばしお待ちを。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 22 龍口寺 / 龍口明神社~『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」江の島の部 完遂

    ●龍口明神社

龍口明神社は。同所山上に在り。津村腰越兩村の鎭守なり。傳へいふ、欽明天皇十三年。江島神女の靈感にりて降伏せし深澤の毒龍(どくりう)を祀れりと。例祭は九月九日なり。

[やぶちゃん注:現在はかなり離れた(直線距離で一・八キロメートル)、龍口寺の背後の山を越えた、湘南モノレール西鎌倉駅から東北東へ徒歩約五分ほどの場所に遷宮している(かなり立派な造りである)。鎌倉市腰越「龍口寺」公式サイトの境内案内によれば、境内の仁王門の左手の岡の上に「元 龍口明神社」とあり、『この地には、目の前の江ノ島に住む弁財天に恋をした五頭龍伝承が残る。山に姿を変えた五頭龍の口にあたる部分にだから、「龍口」との名前が付いたという。その五頭龍を祀ったのが、龍口明神社。昭和53年に、遷宮されている』とあって、「龍口明神社」の公式ウェブサイトがリンクされてある。神仏分離令を経てもなお、昭和五三(一九七八)年まで龍口寺境内の一画にあった(というか、驚くべきことに多くの地図類には今も跡地に神社記号があってしかも元と冠さずに「龍口明神社」と明記されてある)という、これについては「龍口明神社」公式サイトによれば、

   《引用開始》

鎌倉時代には龍口山にほど近いところが刑場として使用された時期もあり、村人たちは祟りを恐れていたといいます。

また、昭和二十二年(一九四七年)には、龍口山が片瀬村(現藤沢市片瀬)に編入されて以降、境内地のみ津村の飛び地として扱われ、大正十二年 (一九二三年)には、関東大震災により全壊、昭和八年 (一九三三年)に龍口の在のままで改築しました。

太平洋戦争後のめざましい復興により、交通事情も悪くなり、神輿渡御も難しく、氏子の里へ昭和五三年(一九七八年)に村人達の総意により江の島を遠望し、龍の胴にあたる現在の地へと移転しました。

なお移転後の現在も、旧境内は鎌倉市津1番地として飛び地のまま残っており、社殿・鳥居なども、移転前の姿で残されています。

   《引用終了》

という記述でやっと納得し得た。祭神は神武天皇母で海神族の祖先として龍神として崇められた玉依姫命(たまよりひめのみこと)と、この地に伝わる五頭龍と弁財天伝説に登場する一身五頭の龍神五頭龍大神(ごずりゅうおおかみ)でこの話については、

   《引用開始》

その昔、武蔵国と相模国の国境付近の長大な湖に五頭龍が棲んでいました。国土を荒らし、暴悪を働き、人々を苦しめ、遂には津村の湊に出て子供を食べるようになりました。

そんなある時、天地雷鳴し大地震が国土を揺るがし、江の島が湧き出し、空から十五童子従えた弁財天が降臨されました。弁財天の美しさにひかれ、思いをよせた五頭龍であったが、弁財天に戒められ、その後は行いを改めよく人々を助け慈悲の徳を施すようになりました。

その後、弁財天と誓いを(結婚)なして山と化し、人々を災害から守り、国家安泰の神「五頭龍大神」となりました。

   《引用終了》

とある。この弁天と毒龍の話は、「新編鎌倉志卷之六」の江の島の項の冒頭部分にも、

   *

緣起あり。其略に云く、「此所、景行天皇の御宇に、龍の暴惡熾(さか)んなり。安康天皇の御宇に、龍鬼あり。圓(つぶら)の大臣に託して暴惡をなす。是れ人に託して煩はしむる始めなり。武烈天皇の御宇に、龍鬼又金村(かなむら)大臣に託して惱ます。此時五頭の龍、始めて津村(つむら)の湊(みなと)に出入して人の兒(ちご)を喰ふ。時に長者あり。子十六人ありけるに、皆毒龍の爲に呑まれぬ。西の里にうづむ。長者が塚(つか)と云ふ。欽明天皇十三、壬申の年四月十二日より、廿三日に至て、大地震動して、天女雲上にあらはる。其後海上に忽ち一島をなせり。是を江の島と云ふ。十二の鸕鶿(う)、島の上に降る。故に鸕鶿(う)來(き)島(しま)とも云ふ。此島の上に天女降り居し給へり。遂に毒龍と夫婦となれり。

   *

と記す。具体な神社創建の由緒は同公式サイトに以下のようにある。

   《引用開始》

欽明十三年(五五二年)、村人達は山となった五頭龍大神を祀るために龍口山の龍の口に当たるところに社を建て、子死方明神や白髭明神と言いました。これが龍口明神社の発祥と伝えられています。

養老七年(七二三年)三月より九月まで江の島岩窟中にて、泰澄大師が神行修行中夢枕に現れた神々を彫刻し、弁財天は江島明神へ、玉依姫命(長さ五寸(約15cm))と五頭龍大神(同一尺(約30cm))の御木像を白鬚明神へ納めたといわれています(これが御神体です)。この時、龍口明神社と名付けられたと伝えられています。

また、弘安五年(一二八二年)に一遍が龍の口にて念仏勧化を行った様子が、国宝『一遍聖絵』に描かれ、北条時政は江の島に参籠して、奇瑞を蒙り、龍の三つ鱗を授けられ、それを家紋としました(当社・江島神社の社紋も三つ鱗)。

いつの頃より六十年毎に還暦巳年祭が行われるようになり、近年では昭和四年・平成元年に賑々しく斎行されました。また、平成十三年には御鎮座千四百五十年祭が斎行され、この時と還暦巳年祭に限り五頭龍大神の御神体が御開帳され江島弁財天と共に江島神社中津宮に安置されます。

龍口明神社は昭和五十三年、龍の胴に当たる現在の地に御遷座され、日本三大弁財天として名高い江島神社と夫婦神社として人々に崇敬されています。

   《引用終了》

「新編鎌倉志卷之六」の龍口明神の項には、

   *

龍口明神 寺の東、山の上にあり。注畫讚に云く、「欽明天皇十三年四月十二日、此土に天女降り居す。是辨才天女の應作なり。此の湖水の惡龍、遙に天女の美質を見、竊(ひそか)に感じて天女の所に至る。天女不快にして曰く、『我に本誓あり、普く群生を救ふ、汝(なんぢ)慈憐なくして生命を斷つ。何ぞ好逑(こうきう)ならん』と。龍曰く、『我(われ)教命に任(まか)せん、自今以後、物のために毒をせずして哀憐を埀れん』と。天女、則ち諾(だく)す。龍又誓ひを立て、南に向て山をなす。龍口山、是也。此の事【江の島の縁起】にも見へたり。江の島は此寺の南の海中にあり。

   *

とある。「好逑」は良き連れ合い、理想的な配偶者の意である。ただ、遷宮している新しい神社の方には前の道は何度も通ったものの、私は未だ参ったことはない。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 36 虫下し 附 やぶちゃんのポキールの思い出


M288


図―288

 

 歩いている内に我々は、広いカラッとした場所へ出た。ここには竹竿を組合せ、布の帳をひっかけた安っぽい仮小屋が沢山あり、妙な絵をかいた旗が竹竿からゆらゆらしていた。図288はこのような仮小屋を示している。これ等の粗末な小屋は、ありとあらゆる安物を売る、あらゆる種類の行商人が占領していた。ある男は彩色した手の図表を持っていて、運命判断をやるといい、ある男は自分の前に板を置き、その上にピカピカに磨いた、奇麗な蛤貝を積み上げていた。これ等は大きな土製の器に入れた、褐色がかった物質を入れる箱として使用される。男は私に、この物を味って見ろとすすめたが、私は丁寧に拒絶した。彼の卓の上には、変な図面が何枚かあり、私はそれ等を研究して、彼が何を売るのか判じて見ようと思った。図面の一つは、粗雑な方法で、人体の解剖図を見せていたが、それは古代の世界地図が正確である程度に、正確なものであった。その他の数葉は、いくら見ても見当がつかないので、私はまさに立去ろうとしたが、その時ふと長い虫の図があるのに気がついて、万事氷解した。彼は私に、彼の駆虫剤をなめて見ろとすすめたのであった! ある仮小屋は、五十人も入れる位大きく、そこでは物語人(ストーリー・テラー)が前に書いたように、法螺(ほら)貝から唸り声を出し、木の片で机をカチカチたたき、聞きほれる聴衆を前に、演技していた。これは我々にも興味はあったが、いう迄もなく我々には一言も判らないので、聞きほれる訳には行かなかった。この演芸は、明かに下層民を目的としたものらしく、聴衆は男と男の子とに限られていた。

[やぶちゃん注:「駆虫剤」原文は“worm medicine”。本邦での人に感染する線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱蟯虫目蟯虫科ヒトギョウチュウ Enterobius vermicularis や旋尾線虫亜綱回虫目回虫上科回虫科回虫亜科カイチュウ属ヒトカイチュウ Ascaris lumbricoides 、扁形動物門条虫綱Cestodaの単節条虫亜綱 Cestodaria 及び多節条虫亜綱 Eucestoda に属する条虫、通称サナダムシ類などの寄生虫駆虫薬(虫下し)としては、古くからセンダンなどの植物やマクリなどの紅藻が利用されてきた。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach は西南アジア原産の落葉樹木。生薬名を苦楝皮(クレンピ)といい、本種の樹皮を乾燥したものを薬用とする。成分はトウセンダニン・センダニン・メリアノン・マルゴシン・アスカロール・バニリン酸・クマリン誘導体などで駆虫・抗真菌作用を持つ。センダン・エキスは多量に用いると顔面紅潮や眠気などの軽い副作用を持つ。漢方では専ら回虫・条虫の駆虫剤に配合される。なお、「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」のセンダンはビャクダン目ビャクダン科ビャクダン(白檀)Santalum albumを指し、本種とは全く異なるので要注意(この部分は「金澤 中屋彦十郎藥局」の「苦楝皮」の記載を参照した)。また、アーケプラスチダ Archaeplastida 界(藻類の一種で、二枚の膜に囲まれた細胞内共生したシアノバクテリアから直接派生したと考えられるプラスチドを持つ一群)紅色植物門紅色植物亜門真正紅藻綱イギス目フジマツモ科マクリ Digenea simplex (一属一種)で、別名「カイニンソウ(海人草)」とも言う(これは海底に立つ藻体が人の形に見えるからではないかと私は昔から思っている)。暖流流域(本邦では和歌山県以南の暖海域)広く分布し、海底や珊瑚礁に生育する。生時は塩辛くて強い海藻臭と粘り気を持つ。マクリという名は「捲(まく)る」(追い払う)に由来し、古く新生児の胎毒を下す薬として用いられたことから、「胎毒を捲る」の意であるとされる。「和漢三才図会」には以下のように載っている(引用は私の電子テクスト「和漢三才図会 巻九十七 藻類 苔類」の掉尾より。詳細注を附してあるので参照されたい)。

   *

まくり  俗に末久利と云ふ。

海人草

 

△按ずるに、海人草(かいにんさう)は、琉球の海邊に生ずる藻花なり。多く薩州より出でて四方に販(ひさ)ぐ。黄色。微(かすか)に黯(くろみ)を帶ぶ。長さ一~二寸、岐有り。根髭無くして微(すこ)し毛茸(もうじよう)有り。輕虛。味、甘く、微鹹。能く胎毒を瀉す【一夜浸水し、土砂を去る。】。小兒初生、三日の中、先の海人草・甘草(かんざう)、二味を用ふ【或は蕗の根を加ふ。】。帛(きぬ)に包み、湯に浸して之を吃(の)ましむ。呼んで甜物(あまもの)と曰ふ。此の方、何れの時より始めると云ふことを知らず[やぶちゃん字注:「云」は送り仮名にある。]。本朝、通俗〔の〕必用の藥なり。之を呑みて、兒、涎-沫〔(よだれ)〕を吐く。之を「穢-汁(きたなげ)を吐(は)く」と謂ふ。以て膈上〔の〕胎毒を去るべし。既に乳を吃むに及ばば、則ち吐かず。加味五香湯を用ひて下すべし。

   *

これによって、かなり古い時代から乳児の胎毒を去るのに使用してきたことが窺える。ではこれが虫下しの薬として一般化したのはいつかと調べてみると、「ウチダ漢方和薬株式会社」公式サイト内の「生薬の玉手箱」の「【マクリ】」(同社情報誌『ウチダの和漢薬情報』の平成9年03月15日号より転載されたもの)に、私のように「和漢三才図会」を引用した上で、以下のようにあるのが見つかった。

   《引用開始》

 一方、マクリは「鷓鴣菜」の名でも知られますが、鷓鴣菜の名が最初に現れるのは歴代の本草書ではなく、福建省の地方誌である『閩書南産誌』だとされています。そこには「鷓鴣菜は海石の上に生え、(中略)色わずかに黒く、小児の腹中蟲病に炒って食すると能く癒す」とあり、駆虫薬としての効果が記されています。

 わが国におけるマクリ薬用の歴史は古いようですが、駆虫薬としての利用はこの『閩書南産誌』に依るものと考えられ、江戸時代の『大和本草』には、それを引いて「小児の腹中に虫がいるときは少しく(炒っての間違い)食すれば能く癒す」とあります。しかし、引き続いて、「また甘草と一緒に煎じたものを用いれば小児の虫を殺し、さらに初生時にも用いる」とあり、この甘草と一緒に用いるというのは『閩書南産誌』にはないので、この記事は古来わが国で利用されてきた方法が融合したものではないかと考えられます。

   《引用終了》

「大和本草」の記載は「卷之八 草之四」「海草類」の「マクリ、かいにんそう」で、「中倉学園」公式サイトの「貝原益軒アーカイブ」のPDF版で原典画像(42コマ目)が見られる。以下に私の読みで書き下して電子化しておく。但し、前の引用の内の『少しく(炒っての間違い)』という指摘を受けてその部分は訂しておいた。

   *

鷓鴣菜(マクリ) 閩書に曰く、海石の上に生じて、散碎。色、微黑。小兒腹中に蟲病有らば、炒りて食へば能く癒ゆ。〇甘草と同煎し用ゆれば、小兒腹中の蟲を殺す。初生にも用ゆ。

   *

この「散碎」(さんさい)というのは恐らく藻体が細かく分岐していることを言うものと思われる。さて、ここに出る「閩書南産誌」は何喬遠撰の明代の作で、貝原益軒の「大和本草」の刊行は宝永六(一七〇九)年であるから、江戸時代前期の終わりぐらいには既に虫下しとしても使用されていたものと考えてよいだろう。薬理成分はアミノ酸の一種であるカイニン酸(昭和二八(一九五三)年に竹本常松らによって古くから虫下しとして用いられていた紅藻のマクリから単離命名された。カイニン酸はカイチュウやギョウチュウの運動をまず興奮させた後に麻痺させる効果を持つ。この作用は、ドウモイ酸同様にカイニン酸がアゴニスト(Agonist:生体内受容体分子に働きかけて神経伝達物質やホルモンなどと同様の機能を示すような作動薬を言う。)としてグルタミン酸受容体に強く結合し、神経を過剰に興奮させることによって起こることが分かっている。このため、現在はカイニン酸は神経科学分野、特に神経細胞死の研究のために天然抽出物及び合成品が使用されているという(ここはウィキの「カイニン酸」その他を参照した)。モースの見たものがこの孰れであったかはよく分からないが、褐色のゼリー状のもの(ハマグリの殻に入れてあるという点で粘性が高いと考えられる)という点では、マクリっぽい感じがするが、わざと行商人がモースに舐めてみろと言っているところは強い苦みを持ったムクロジを調合した油薬のようなものである可能性も否定は出来ない(但し、マクリも特有の臭いがあり、味も不快であると漢方系資料にはある。……小学校時代、チョコレートのように加工して甘みで誤魔化した物がポキールによる回虫検査で卵が見つかった者に配られていたのを鮮明に思い出す。……何故なら、私はあのチョコレートのような奴が欲しくてたまらなかったから。そのために秘かにポキールをする時には(リンク先はグーグル画像検索「ポキール」!……懐かしいぞう!!)、回虫の卵がありますようにと願ったものだった。……遂にその願いは叶わなかったから、私は今も、あのマクリ・チョコレートの味を知らないのである。……

「物語人(ストーリー・テラー)が前に書いたように」第八章 江の島採集」図185の挿絵及び解説を参照。第七章 漁村生活」図164も参考になろう。モースが意味は分からないながらも、こうした祭文語り風のものや講談浪曲の雰囲気が決して嫌いではなかったことが窺える。]

萩原朔太郎 短歌二首 明治三六(一九〇三)年九月

さだかにはおどろき薊もわかちえず闇にただ啼く夕ほとゝぎす

幸ありて御手のひと鞭たまはらば花のごとくも散りや往ぬべき

[やぶちゃん注:『明星』卯年第九号・明治三六(一九〇三)年九月号の「紗燈涼語」欄に「萩原美棹(上毛)」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十六歳。]

玉(たま)   八木重吉

 

わたしは

 

玉に ならうかしら

 

 

わたしには

 

何(なん)にも 玉にすることはできまいゆえ

鬼城句集 冬之部 冬空 / 冬の雨

冬空    冬空を塞いで高し榛名山

 

冬の雨   大木の表ぬれけり冬の雨

 

      冬雨や蔓竿靑き竹の庵

 

[やぶちゃん注:これは群馬県高崎市鞘町(さやちょう)にあった鬼城庵の景か。同庵は昭和二(一九二七)年、鬼城六十四歳の時に全焼してしまい、翌年、師高浜虚子などの俳人たちの助力で高崎並榎町(なみえまち)に新居が完成、当時は裾野が広がる榛名山と向かい合った、遠く浅間や妙義の峰々も望める高台という環境で、鬼城はここで絵を描く楽しさに親しむようになった。ここを「並榎村舎」と称して俳句活動の拠点とし、後進の指導に当たった(ここは現在、村上鬼城記念館(リンク先は同公式サイト)として公開されている。以上は前にも掲げた「高崎新聞」公式サイトの「近代高崎150年の精神 高崎人物風土記」にある「村上鬼城」に拠った)。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(35) 江の島稚児が淵 釈万庵 / 21 先哲の詩 了

  江島小兒淵   釋萬菴

信夫毳士鍛金腸。(信夫毳士鍛金膓)

翔雲鐡錫掛瀟湘。

江中孤嶼撫靈境。(江中孤島撫靈境)

天女祠前蘋草香。

路逢綽約少年子。

顏色耀然如桃李。

搖蕩禪心似亂雲。

慇懃攪手誓生死。(慇懃攬手誓生死)

少人睇眄意經營。

慘憺靑翰舫裡情。

百揆千桃伸欵曲。(百揆千桃伸款曲)

低頭不語涙如霙。

誤託風塵爲窈窕。

丹丘縹渺瑤臺沓。

徒因容質累他人。

繚繞宿心憂悄悄。(繚繞宿心憂悄々)

無路乘鸞躡綵烟。(無路乘鸞躡綠烟)

翻然抱石墜蛟涎。

道人求跡號天哭。

偕沒巖潭赴九泉。

浩渺慾河誰盡底。

濫觸須識無眞宰。

波間纖月曲如鉤。

萬古秋風吹渤海。

 

[やぶちゃん注:釈万庵(寛文六(一六六六)年~元文四(一七三九)年)は江戸中期の芝(東京都港区高輪)の臨済宗妙心寺派佛日山東禅寺の僧で、名は原資、荻生徂徠の門下。詩作は盛唐を範とし、閑と興さえあれば詩を作っていたと伝える。著作「万庵集」(「大東文化大學文學部《中國學科》中林研究室之中國學的家頁(黄虎洞)」内の「管説日本漢文學史略」(江戸前期)に拠った)。表記に問題が多いので、ここでは上に国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」を示し、下に底本の表記を示した。訓読では基本的に前者を用いたが、「慇懃攪手誓生死。(慇懃攬手誓生死)」の箇所だけは「攪」では意味が通じないので、底本の表記を採った。また「百揆千桃伸欵曲。(百揆千桃伸款曲)」の「欵」は「款」の俗字なのでここもやはり底本を採った。

 

  江の島小兒(ちご)が淵(ふち)   釋萬菴

信夫(しんぶ)の毳士(ぜいし) 金腸を鍛へ

翔雲 鐡錫 瀟湘に掛く

江中 孤嶼(こしよ) 靈境を撫(ぶ)し

天女 祠前 蘋草(ひんさう) 香(かん)ばし

路(みち)に綽約(しやくやく)たる少年子に逢ふ

顏色 耀然 桃李のごとし

搖蕩(ようたう)たる禪心 亂雲に似

慇懃に手を攬(と)りて生死を誓ふ

少人 睇眄(ていべん)して 意 經營(けいめい)

慘憺たる靑翰(せいかん) 舫裡(ばうり)の情

百揆 千桃 款曲(くわんきよく)を伸ぶるも

低頭 不語 涙 霙(みぞれ)のごとし

誤りて風塵に託すに窈窕(えうてう)たり

丹丘(たんきゆう) 縹渺として 瑤臺(えうだい)の沓(たふ)

徒(いたづ)らに容質よりて他人を累(わづら)す

繚繞(りようじよう)たる宿心 憂ひ 悄悄(せうせう)

無路なれば鸞(らん)に乘りて綵烟(さいえん)を躡(のぼ)り

翻然として石を抱きて蛟涎(かうぜん)に墜つ

道人 跡を求め 天に號して哭し

偕(とも)に 巖潭に沒して九泉に赴く

浩渺たる慾河 誰(たれ)か底を盡くさんや

濫(みだ)りに觸るること 須らく識るべし 眞宰に無きことを

波間(なみま)の纖月(せんげつ) 曲ること 鉤のごとく

萬古 秋風 渤海を吹く

 

「信夫」信士。信義に厚い人。

「毳士」不詳。毳衣(ぜいい)という真言宗で着る僧服があるが、稚児が淵伝承の自休和尚は建長寺で臨済宗の僧であるからおかしい。

「金腸」「腸」は腸(はらわた)から転じた心の意で、堅固な信心の謂いであろう。

「瀟湘」もとは湖南省長沙一帯の地域の景勝地の呼称で、特に洞庭湖とそこに流れ入る瀟水と湘江の合流する附近を指す。中国では古くから風光明媚な水郷地帯として知られ、「瀟湘八景」と称して中国山水画の伝統的な画題となった。この画題の流行が本邦にも及び、金沢八景や、ここでの意の湘南の語を生んだ。

「撫」巡る。

「蘋草」これは弁天を祀った社前の池塘に浮く単子葉植物綱サトイモ目ウキクサ科 Lemnaceae のウキクサ類(現在の種としての和名ウキクサは Spirodela polyrhiza を指す)又は水に浮く水草全般を指している。なお、「蘋蘩」(ヒンバン)という語があり、これは浮草と白艾(しろよもぎ)で、別に神仏に捧げる粗末な供え物の謂いもあるから、描写としては相応しい。

「綽約」姿がしなやかで優しいさま。嫋(たお)やかなさま。

「搖蕩」ゆれうごく。ゆすりうごかす。

「攪」手を執る。

「睇眄」流し目で見る。

「經營」物事の準備や人の接待などに勤め励むことをいうが、別に、急ぎ慌てることの意もあり、ここは両意を合わせてとって問題あるまい。

「靑翰」大修館書店の「新漢和辞典」に、「青翰」を、『鳥の形をきざみ青い色を塗った舟の名』とある。当初、私は同じ大修館の「廣漢和辭典」で「青翰」がないため、書籍の意味の「青簡」と同義と採り、仏教の教学の勉励も空しくなり、の謂いで採っていたが、ここが自休と白菊の乗る「舫」小舟の実景であるならば、実に妖艶ではある。

「百揆」多くのはかりごと。

「千桃」不詳。私の直感であるが、これは「千桃」ではなく、「千挑」ではなかろうか? 「挑」には、しかける、そそのかす、気を引いて誘う、という意味があり、ここに頗る相応しいのだが。

「款曲」①いりくんだ事柄。委曲。②うちとけて交わること。懇ろに親しむこと。という両意があるが、下の「伸」が、そうした手練手管を労した籠絡の網を広げ伸ばそうとする、の謂いの他に、述べるに通ずるので、両意を含んでとってよかろう。

「誤」謝るの意であろう。

「窈窕」美しくしとやかなさま。上品で奥ゆかしいさま。

「丹丘」「瑤臺」ともに固有名詞で仙人が住むとされる場所。無論、江の島に擬えたもの。後者は辞書には、殷の紂王の作った台の名に由来する、玉で飾った美しい高殿とあり、これはこれで実景をイメージ出来るが、一句の中の見立ての対句性から考えれば、李白「清平調詩三首其一」の結句「會向瑤臺月下逢」(會(かなら)ず瑤臺月下に向ひて逢はん)などの用語例としての、仙境「瑤臺」にある「高楼」でよい。

「沓」これは一応、「タフ(トウ)」と音読みして原義であるところの「流暢に喋る」の謂い、から自休と白菊の楼台での楽しげな二人の会話と採ってはおくが、この「沓」には「犯す」の謂いをも含ませたものとして第一義的には採る。第一義的には――実は私は当初、これを国訓である「くつ」と読み(但し、中国語に靴の意味はない)――高殿の――ころがり落ちた白菊の「沓」(アップ)――というショットだと思った。大方の御叱正を俟つ。

「繚繞」纏わり巡ること、くねくねと湾曲すること。自休と白菊の「宿心」、秘かな思いの柵とも、幻想の中の二人の肉体の絡み合いともとれ、しかも江の島の高台へとむかう羊腸たる小道の実景もダブってくる。

「無路」最早、それぞれ元の自分の心へ立ち還るすべはない、現実社会に帰るべき道は失われたことを意味していよう。万事休す、カタストロフへの序曲である。

「鸞」は神霊の精が鳥と化したものとされ、「鸞」は雄、雌は「和」と呼ぶ。鳳凰が歳を経て鸞になるとも、君主が仁政を行っている奇瑞として現れるとも言われる想像上の鳥。

「綵烟を躡(のぼ)り」「綵烟」は美しい霞や靄、「躡」は①踏む。②履く。③登る。④到る。⑤追う。従う。⑥速い。といった意味があり、概ね、どれでも解釈は可能であるが、奥津の宮の先の虚空の断崖まで「登り」つめた印象でとった。実は「沓」を「くつ」と読んだトンデモ解釈人の私は秘かにここは――裸足の白菊が「綵烟」を穿いている――ととりたい思いを截ち斬れないでいる。なお、ここは底本の「綠」(生い茂る高い緑樹の上をさして飛ぶように行く白菊の白い素足のイメージ)でも意味は通るように思われる。

「蛟涎」「蛟」は水に住む龍の一種のみずち、その涎(よだ)れであるから、海のことであろう。

「九泉」幾重にも重なった地の底の意で、死後の世界。黄泉。黄泉路。あの世。

「慾河」欲海に同じい。情慾の広く深いさま。ここと次の句は辛気臭いが、自休と同じ臨在僧で、しかも盛唐の詩風を範とした作者ならば、長詩のここにこのような説教染みた詩句を配するのはごく自然であると言える。

「眞宰」真実主宰の略で仏法を護持する諸天・善神を指す。

「纖月」繊維のように細い月。三日月や二日月の異称。

「渤海」「渤」は水の激しく湧き起こるさまやその音。稚児が淵の詠唱時(秋の初旬)の実景を以って詩を締め括る。

   *

 この詩を以って『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より「江の島の部」の「先哲の詩」の全パート四十二首が終了する。訓読するのには底本の返り点のみが手掛かりで、ネット上には(幾つかの詩句を検索した感触では)恐らくは一首として訓読や解釈は載らず、実にこのパートをやり遂げるのに(少々、面倒臭くて忌避していた時期もあった)半年も懸ってしまったが、通読していみると、圧倒的に江の島を蓬莱山のような仙界として意識している人々が多い(というより四十二総ての詩がそうであると言っても過言ではない)ことが分かる。掉尾に稚児が淵の悲恋の七言古詩を配したのも洒落ている(但し、「相模國風土記」の「文部卷八 も実これで終ってはいる)。尾崎放哉が初恋の相手で従妹であった澤芳衛と一夜の宿をとったのも江の島であった……私の父母が初めてデートしたのも江の島であった……私にとっても江の島は青春の甘酸っぱい味がする忘れられない場所である……]

阿波根宏夫「涙」エンディング

 ただ僕はこの大きな停滞の中に溶け込んだ一つの物象になりさがるわけには行かないのだった。青年の力の前に屈服する自堕落な姿を、この僕が見るわけには行かなかった。僕は最後の力を絞りだした。
 と、はじけ飛ぶように青年の両手が離れた。僕の中にどよめきが起った。青年に勝ったと言う気持よりも、僕の存在感が保障されたのだという安心感であった。青年はホルマリンに負けたのだ。ホルマリンが青年を「物」にするのだ、決して僕自身が青年を「物」にするのではない、僕はただ仲介者に過ぎなかったのだ――だが僕は無性にうれしかった。僕はやっとのことで支配者の地位を確保できたと信じ続けた。これからもそう信じてホルマリン注入をやるだろう。そうして「物」をなにげなく造って行くに違いない。
 青年は「物」になる寸前の、すさまじい痙攣を起して、こんじきいろの輝きを放ちながら、しかし、むなしく鷲手で虚空を摑んでいた。
 と、突然、青年のかたくなに閉じた右の瞼を押しのけて、一筋の涙が頰を滑った。その涙がふたすじに分れる前に、左眼の瞼もじっとりと濡れそぼり、しだいに溢れ、ヒクヒクふるえながら流れ落ちていった。

 

(阿波根宏夫作品集「涙・街」(1979年構想社刊)の「涙」の掉尾である――「涙」は昭和38(1963)年第一回日本大学新聞社懸賞小説入選、総長賞受賞作品である――審査委員は進藤純孝・野間宏・埴谷雄高・安岡章太郎の四人であった――応募作品総数141篇中、「涙」はずば抜けているとして満場一致で決まったという――選考座談会の記録。――埴谷「大江君と、倉橋君とは一篇目はわからなかった。遜色ない」――進藤「作者の心がけが高い」――野間「本当に文学の味がします」――安岡「これぐらいしっかりしたものは、やはりチャンスがなければ書けません」(以上は同書巻末の浜田豊氏の手になる年譜に拠った)――僕がこの新刊本を読んだのは教師になったその年の夏であった――僕はこの小説と、特に「二重体(ダブル・モンスター)」に激しい衝撃を受けた――「涙」は僕に、脆弱で似非哲学を開陳した如何にもな猥雑な死体小説たる大江健三郎の「死者の奢り」なんぞよりも遙かに鮮烈凄絶な、恐るべきリアリズムの衝撃を齎した――作者は医師であった――昭和53(1978)年にガス・ストーブの不完全燃焼による不慮の事故により三十九歳で亡くなっている――遺体の青年は僕である――僕は献体している――僕はいつか、阿波根宏夫論を書かねばならないと思っている――…………)

2013/12/26

きさまへ

恐ろしく下劣なことは、死者を弔う気持ちもなく「死者を弔う」と称して、しかも人間を喰らう食人鬼であることを、聊かも自覚していないモーロック以下の存在であることを、全く自覚してしないという事実である。



「人間を喰らう食人鬼」とは何か、とな?!

福島第二原発の事故による放射線被害の甚大さを隠蔽し、その恐るべきDNA損傷と将来発生する深刻な遺伝子異常を全く無視し、それらによって現に失われ、未来に亙って失われてゆく無数の人間のことを何も考えず、次期東京オリンピックを被災地復興オリンピックだなどと称するマヤカシをほざいて平然としていられるということは、知性を失った未来人“Morlocks”(H・G・ウェルズ『タイム・マシン』“The Time Machine”(1895年刊)「以下の存在である」ところの――きさま――のことだ!

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(34) 安脩作四篇

  妙音宮  安脩

珠樹映玲瓊。

妙音天女宮。

人傳名月夜。

皷瑟響淸風。

 

[やぶちゃん注:底本には作者名はない。補った。以下、「蟾蜍石」まで同じであるので、この注は略す。

 

  妙音宮  安脩

珠樹 映じて 玲瓊(れいけい)

妙音 天女の宮

人 傳ふ 名月の夜

皷瑟(こしつ) 淸風に響くを

 

「玲瓊」の「玲」は、本来は玉や貴金属が触れ合って美しく鳴る音を表したものであるが、転じて、宝玉の透き通るような美しさを示す。「瓊」も既に示した通り、宝玉のような美しさを示す。

「皷瑟」鼓(つづみ)と琴の音。]

 

  古碑   安脩

斷碑風雨剝。

千歳字纔存。

拂拭龍蛇動。

忽看雲靄屯。

 

[やぶちゃん注:これはもう間違いなく、先に川義豹の「月夜宿江島」の私の注で示した、俗に当時、屏風石と呼ばれた「新編鎌倉志卷六」の江の島の項の「碑石」のことである。

  古碑   安脩

斷碑 風雨に剝げ

千歳 字 纔かに存す

拂拭す 龍蛇の動

忽ち看る 雲靄(うんあい)の屯(とん)

 

「屯」は集まり守ることをいうが、リンク先の同碑の図「碑石圖」をご覧頂く分かるように(現在はもっと摩耗が進み、こんなに鮮明には見えない)、碑の上部に二頭の龍とそれを取り巻く「雲靄」が彫られてある。]

 

  石牀〔在龍湫上〕   安脩

湛水碧如藍。

開樽石牀上。

忽欲窺龍眠。

半酣神氣王。

 

[やぶちゃん注:

 

  石牀〔龍湫の上(ほと)りに在り。〕   安脩

湛水 碧にして 藍のごとく

樽を開く 石牀(せきしやう)の上

忽ち龍の眠るを窺はんと欲するに

半ば酣(たけなは) 神氣 王たり

 

「石牀」「せきしやう(せきしょう)」。これは思うに魚板石のことであろう。本文解説にも、『窟を出れは。前に平坦なる巨岩あり。其の幅七八間之を魚板石といふ其形魚板(ぎよはん)に似たるを以て名づく。竚立(ちよりつ)すれは風光の美なる兒が淵に優り(まされ)り。人をして轉〻歸るを忘れしむ。但激浪常に來りて岩角(いはかど)を齧めは。或は全身飛沫を蒙ることあり。此邊に潜夫群居して。遊客の爲めに身を逆にし海水に沒入し鮑若しくは海老、榮螺等を捕へ來る。又錢貨を投すれは。兒童水底に入りて之を探り。或は身を水上に飜轉(ほんてん)して。遊客の笑觀に供す。亦一興といふへし。』とあったが、他の資料を見ると、ここでは承句の如く酒食も供された。

「龍湫」既注。龍窟の前部にある龍潭。

「半ば酣 神氣 王たり」全くの直感でしかないが、

――酒に酔うて――さても気分はもう、龍をも御する龍顔の天子さま――

と私は読んだ。大方の御批判を俟つ。]

 

  龍窟   安脩

懸崖萬丈餘。

下有驥龍窟。

欲奪千金珠。

波瀾俄驚沸。

 

[やぶちゃん注:

 

  龍窟   安脩

懸崖 萬丈(ばんぢやう)餘

下に驥龍(きりゆう)の窟 有り

千金の珠を奪はんと欲するに

波瀾 俄かに驚沸(きやうふつ)せり

 

「驥龍窟」「驥」は本来は一日に千里を走ることの出来る良馬を指すが、ここは神獣である龍への尊称として被せたものであろう。江の島の岩屋を驥龍窟とは呼ばない(少なくとも私の知る資料には見当たらない)。]

 

  蟾蜍石   安脩

蟾蜍何歳化。

巨石挂淸池。

寒影浮波動。

尚思説法時。

 

[やぶちゃん注:先に先に川義豹の「月夜宿江の私の注で示した「蟾石」こと蟇石(がまいし)のこと。

 

  蟾蜍石   安脩

蟾蜍(せんじよ) 何歳にして化すや

巨石 淸池に挂(か)かる

寒影 波に浮びて動き

尚ほ思ふ 説法の時

 

「蟾蜍石」漢詩であるから音読みなら「せんじよせき(せんじょせき)」。この題名ぐらいは通称の「がまいし」で読みたい気もしないでもない。

「説法の時」大蟇を良真が法力によって石化させた折りのことを、退治としてではなく、説法によって教導した結果、往生して石なったと作者は解釈しているのであろう。また、私もそう思いたい口の人間である。]

萩原朔太郎 短歌二首 明治三六(一九〇三)年九月

鳥なきぬ小椿水にながるると山居の日記の一人興(きよう)なし

浦づたひ讚へむすべを又知らず赤人の富士は眞白き (田子の浦にて)

[やぶちゃん注:『明星』卯年第九号・明治三六(一九〇三)年九月号の「香草」欄に「萩原美棹(上毛)」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十六歳。
後者は無論、「万葉集」巻第三の山部赤人の知られた長歌と短歌(三一七及び三一八番歌)に基づく。以下に示しておく。

   山部宿禰(すくね)赤人、不盡山(ふじのやま)を望める歌一首幷せて短歌
天地(あめつち)の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴(たふと)き 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺(たかね)を 天(あま)の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隱(かく)らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行(ゆ)きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り繼ぎ 言ひ繼ぎゆかむ 富士の高嶺は
    反歌
田子(たご)の浦ゆ打ち出でて見れば眞白にぞ不盡(ふじ)の高嶺に雪は降りける

反歌は「新古今集」や「百人一首」などでは、

田子の浦にうち出でて見れば白妙(しろたへ)の富士の高嶺に雪は降りつつ

であるが、私はこの『改悪』を好まない。というより、赤人がかくしたのでない以上、『改悪』などという生易しいものではない。短歌嫌いの私に言わせれば、これは立派な犯罪であり、これを赤人の歌として披露して恥じぬ後代の者どもは皆、剽窃(本歌取りとは訳が違う)を確信犯とする救い難い共同正犯――厚顔無恥の鉄面皮(おたんちん)としか思わないと述べておく。]

鬼城句集 冬之部 時雨

時雨    振り立つる大萬燈に時雨かな

[やぶちゃん注:これが何処の万燈会若しくは祭事の嘱目か同定出来る方の御教授を乞うものである。感触であるが、初句の「振り立つる」にヒントはないか?]

心 よ   八木重吉

こころよ

 

では いつておいで

 

 

しかし

 

また もどつておいでね

 

 

やつぱり

 

ここが いいのだに

 

 

こころよ

 

では 行つておいで

アトム第一話に2コマだけ大人のアトムの顔が現われること(シナリオ化再現)

……ネタバレになるので以下に至るストーリーは述べずにおく。それほどに端緒から意外性をもって構成されている。従って下の採録シナリオも少しアトムを知っているが原話を知らない方には〈非常に奇異に〉感じられる部分があるはずである。そういう方は、是が非でも、手塚先生の当該作アトム誕生の第一作を、是非お読みに戴きたく存ずる……



(ケン一の「ロボットに誠意なんかないだろう!」という言葉にアトムが差し出したアトム自身の首が、アトムの心にうたれた宇宙移民団のケン一から返されて来る。)

【最終コマより2コマ前】
(タマオが箱を覗くと、もう一つの首が入っていて、それを箱から取り出そうとするタマオ。その右手で自分の首をセットしつつ、もう一つの首を見ているアトム。タマオの持つその首の総角(あげまき)型の髪はアトムであるが、右斜め下からのアオリで描かれた顔は鼻が尖った凛々しい大人のそれである。なお、首切断面は箱で隠されている。私はこういうところに手塚先生の優しさを感ずる。)

(タマオ)
 
おや? もうひとつ
 
へんなおとなの
 
顔が
 
はいってら

【最終コマより1コマ前】
(背景に移民団の宇宙船に向かって手を振るなどして見上げて見送る人々。遠景に四人(子供一人)、近景のアトムとタマオの後ろの建物屋上(科学省と思われる)のサーチライトの前一人。それは以下の手紙の吹き出しで眼から上の部分しか見えないが『ケン一』である。手前に手紙を開いてそれを音読するタマオ、その右手に自分の大人の顔の首を持ったアトム。アトムはその手紙の朗読を聴きつつ、大人の自分の首を眺めつつ、しきりに涙を迸らせている。)

(ケン一の手紙)
 
アトムくん
きみの顔を参考に
して大人の顔をつく
りました
きみもいつまでも少年
ではいけない 今度会
ときはおとな同士で
会おう さようなら

……因みに……最終コマでは、宇宙移民団の宇宙船(七機)が上昇する背景の手前で、近景右に手紙を右手で振り上げて見送るタマオと右下角に方から上の笑顔で見上げるアトムの左横顔。

(タマオ)
ぼくも
今度は
おとなに
なってるよ!
さよなら…



以上、初出誌は昭和27(1952)年3月号「少年」(光文社刊)。採録シナリオの底本としたのは講談社手塚治虫漫画全集221「鉄腕アトム①」。なお、当該作品(昭和26年4月からの全12回連載)の題は「鉄腕アトム」でも「鉄腕アトム アトム大使の巻」(底本目次ではかく標記されてある)でもなく、

アトム大使

という表題であった。最終回は副題に、「科学冒険マンガ」とあるが、この副題は第1回にはなく、第2回では「科学冒険漫画」、第3回と第4回では「長篇科学漫画」とした上で「アトム大使」の上に英語で「CAPTAIN ATOM」と書かれてある(第5回以降はこの英文は消える。また第7回では「長篇」の表記が「長編」となる)。第10回で再び副題が「科学冒険漫画」に戻るが、第11回では「冒険まんが」とだけで、最初に示した通り、最終回は

科学冒険マンガ アトム大使

である。



……アトム……君は無垢の少年の心のまま……僕らの前から消えていった……僕は大人の君を知らないよ……僕は実はね……今のこの世を見ているとね……実はケンちゃんの言葉はハズレだったんだんだ、と……しみじみ思うんだよ…………

2013/12/25

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(33)

  遊畫島値雨  岳融

浮洲神女殿。

蒼壁鏡中開。

蜃氣巖廟合。

龍蟠石岸廻。

星査凌蚌月。

鼈頸踐梯苔。

嶽雪藏空盡。

天風扇海來。

雲張鵬翼起。

水撒浪花摧。

自改麻姑眼。

誰銜欒子抔。

傾盆急雨過。

覆島濺連臺。

已有高唐色。

慚無宋玉才。

 

[やぶちゃん注:岳融は既出(但し、詳細不詳)。「欒子抔」は底本「欒子抔」、「覆島」は底本「履島」であるが、誤植と見て、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」で訂した。

 

  畫(ゑ)の島に遊び、雨に値(あ)ふ  岳融

浮洲 神女殿

蒼壁 鏡中 開き

蜃氣 巖廟 合す

龍蟠 石岸の廻(くわい)

星査(せいさ) 蚌月に凌(の)り

鼈首(べつしゆ) 梯苔(ていたい)を踐(ふ)む

嶽雪 空を藏(かく)して盡き

天風 海を扇(あふ)ぎて來たる

雲は鵬翼(ほうよく)を張りて起き

水は浪花(らうくわ)を撒(ま)きて摧(くだ)くる

自(おのづ)から改む 麻姑(まこ)の眼(がん)

誰か銜(くは)へん 欒子(らんし)の杯(はい)

傾盆の急雨 過ぐるに

覆島して 連臺に濺(そそ)ぐ

已に 高唐の色 有り

慚(は)づ 宋玉の才 無し

 

「値」逢う。

「慚」恥じる。

「星査」星槎。遙か遠くを航行する舟。星槎は本来は、中国太古の伝承で、光を放つ巨大ない槎=筏(いかだ)で天を一周した、若しくは筏に乗って海と繋がっていると考えられていた天の川に辿り着いたという故事に基づく語。そこから、遊仙思想として俗世間を離れるといった意味でも用いられる。

「蚌月」不明。ただ、「蚌」には「漁父の利」で知られた淡水産のドブガイの他に、大蛤の謂いがあり、これは蜃気楼を現出させるものと信じられていたことと何か関係がありそうに思われる。識者の御教授を乞う。

「梯苔」苔蒸した階梯の道。

「麻姑」は仙女の名。西晋・東晋時代の葛洪の書「神仙伝」の巻二「王遠」及び巻七「麻姑」などに記載があり、その容姿は歳の頃十八、九の若く美しい娘で、鳥のように長い爪をしているという。サイト「中国故事街」の「仙人のお話 麻姑~爪の長い仙女」に詳しいエピソードが載るが、どうもこの「自改麻姑眼」に意が腑に落ちない。識者の御教授を乞う。

「欒子」は双子の意。前句との対句性から考えると神仙絡みの故事に基づくものであろうが、不勉強な私には前句とともに最早、全く以ってお手上げである。識者の御教授を乞う。。

「已に 高唐の色 有り/慚づ 宋玉の才 無し」は、男女の堅い契りを意味する「朝雲暮雨」の元となった戦国時代の宋玉の詠じた名作「高唐賦」を素材にしたもの。楚の懐王が高唐(楼台の名)に遊び、昼寝をした際、夢に神女と交わったが、神女は去り際に、自分は巫山に住む者で、朝(あした)には朝雲となり、暮には驟雨となって、朝な夕なあなたの楼台の元へと参りましょう。」と言ったが、まさにその言う通りであった(最後の部分の原文は「旦爲朝雲、暮爲行雨、朝朝暮暮、陽臺之下、旦朝視之如言」)という、賦の中に古譚として挿入される有名な話柄である。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(32)

  雪後遊畫島   安脩

鼈頭山現畫圖中。

萬仭驚看天造工。

雪滿懸崖埀玉樹。

雲晴斜日財瑤宮。

凌波神女羅裙冷。

賀鶴仙人素影空。

借問秦年汎楂客。

寧知此地十洲通。

 

[やぶちゃん注:底本には作者名はない。補った。前の七言絶句に続く、雪後の彼の七言律詩。

 

  雪後、畫(ゑ)の島に遊ぶ   安脩

鼈頭の山 現はれり 畫圖の中(うち)

萬仭 驚き看る 天造の工

雪 懸崖に滿ちて 玉樹に埀り

雲 晴れ 斜めに日さして 瑤宮を財(たから)となす

凌波の神女 羅裙(らくん) 冷たく

賀鶴の仙人 素影(そえい) 空(むな)し

借りに問ふ 秦年(しんねん) 楂(いかだ)を汎(うか)べし客(かく)

寧ろ知る 此の地 十洲に通ずるを

 

「凌波」波に載ってそれを自在に操るの謂いか。

「羅裙」薄物の裳(も)。

「賀鶴」めでたき鶴といった美称か。

「素影」月の光。

「秦年」秦の頃の謂いか。

「楂を汎べし客」前の注が正しいとすれば、これは全くの直感に過ぎないが、これは秦の始皇帝に東方の三神山(仙山である蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)を指す)に長生不老(不老不死)の霊薬があると具申し、始皇帝の命を受けて三千人の童男童女と百工を従え、五穀の種を持って東方に船出して、平原広沢の地を得、そこの王となって戻らなかったという方士徐福のことではあるまいか?]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(31)

  畫(ゑ)の島の晴雪(せいせつ)   安脩(あんしう)
神山 高く泛び 海溟 孤なり
登りて眺むるに 乾坤 書畫に似たり
萬里の潮風 杖履(ぢやうり)を吹き
千巖(せんがん)の氷雪 肌膚に映ず
瑤林(えうりん)瓊樹(けいじゆ) 花 晶瑩(しやうえい)し
金闕(きんけつ)銀宮(ぎんぐう) 影 有る無し
夕べに向ひて 忽ち聽く 仙樂の起こるを
槎(いかだ)に乘りて 直ちに訝る 蓬壺に到らんかと

 雪後の晴天の江の島という比較的珍しい景観を詠む。私も嘗て大豪雪の翌日に無人の江の島を友と彷徨した忘れ難い思い出があるだけに、この詩の感懐は頗る分かると言っておきたい。
「瑤林瓊樹」「瑤」「瓊」孰れも美しい宝玉で、美しい樹林を指す。
「晶瑩」「晶」はきらきらと輝くこと、「瑩」は訓で「瑩(やう)ず(ようず)」と読み、宝玉などを貝で磨いて光沢を出すことをいうから、ここは凍(こご)った雪を持って花が美しく輝いているという意味であろう。
「闕」本来は古代中国の宮殿・祠廟・陵墓などの門前の両脇に、張り出した形で左右対称に設けられた望楼を言った。中間部分が何もない(「闕」は「欠」で欠けるの意)ことに基づく。ここは単に楼台の意。
「槎」仙人が仙界との行き来に常用するという筏。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(30)

  畫島遇雪   高惟馨

蓬壺海上雪漫々。

玉女臺高玉樹寒。

欲向潮流迷暗穴。

明珠別自照龍蟠。

 

[やぶちゃん注:高惟馨は前出

 

  畫(ゑ)の島にて雪に遇ふ   高惟馨

蓬壺(ほうこ) 海上 雪 漫々

玉女臺 高くして 玉樹 寒し

潮流に向ひ 暗穴に迷はんと欲せしも

明珠 別して 自(おのづ)から龍蟠(りゆうばん)を照らせり

 

「蓬壺」既に注したが、島の形が壺に似ているところから蓬莱山の異称。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(29)

  月夜宿江島僧院   平賀周藏

洞口雲晴孤島頭。

良宵投宿倚香樓。

諸天月傍龍宮動。

千仭珠當鮫室浮。

幽梵爾時心地靜。

妙音何處帝妃遊。

更闌坐訝傳淸怨。

波響夜驕湘水秋。

 

[やぶちゃん注:作者は既出

 

  月夜、江の島の僧院に宿す   平賀周藏

洞口 雲晴れて 孤島の頭(たう)

良宵 投宿して 香樓に倚る

諸天 月 龍宮に傍らして動き

千仭の珠 當に鮫室(かうしつ)たるべく浮く

幽梵 爾時 心地 靜かなり

妙音 何處にか 帝妃 遊ぶ

更(こう)闌(た)けて 坐すに訝る 淸怨(せいゑん)を傳ふるを

波響 夜(よ)は驕(おご)る 湘水の秋

 

・「鮫室」既注であるが再掲する。鮫人(中国で南海に棲むという人魚に似た想像上の異人。常に機を織り、しばしば泣くが、その涙が落ちると玉になるという)の水中の居室。

・「幽梵」この世ならぬ神妙なる梵鐘の音。

・「淸怨」沁み通るようなある侘しさ。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(28)

  舟泊繪島   平賀周藏〔字子英〕
淡靄輕煙路渺漫。
海風不便上潮難。
平沙維艇收漁網。
斷岸燃燈下釣竿。
虛郭三聲暮笛響。
孤蓬一夜疎鐘寒。
榜人鳴櫂天將曙。
唯有還家片夢殘。

[やぶちゃん注:平賀周蔵(延享二(一七四五)年~享和四・文化元(一八〇四)年)は江戸中後期の広島出身の漢詩人。号は蕉斎・白山園・独醒庵・白山。著書に「独醒庵集」「白山集」「蕉斎筆録」。

  舟にて繪の島に泊る   平賀周藏〔字は子英。〕
淡靄(たんあい) 輕煙 路(みち) 渺漫(べうまん)
海風 便(びん)なく 潮を上ぐることも難し
平沙 艇を維(つな)ぎて 漁網を收め
斷岸 燈を燃して 釣竿(てうかん)を下(おろ)す
虛郭 三聲 暮笛 響き
孤蓬 一夜 疎鐘(そしよう) 寒(さび)し
榜人(ばうじん) 櫂を鳴らし 天は將に曙(あけぼの)とならんとするに
唯だ 還家片夢の殘のみ有り

「渺漫」渺渺や渺茫と同じい。果てしなく広がっているさま。
「榜人」この「榜」は舵や櫂を指し、船頭、舟人のこと。
「還家片夢」望郷の念を宿した儚い夢を言うか。]



うっかりしてアップするのを落した一篇があったので挿入する。これは本来ならば、『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩の、

(23)と(24)の間にあるべき詩

である。ここに挿入して訂正する。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(27)

  月夜宿江島   川義豹

孤島玲瓏天女樓。

投來一夜入淸遊。

陰波偏映陽波起。

巖月遙兼海月浮。

雲表龍碑金蘚色。

階前蟾石桂花秋。

飄然坐覺人間遠。

欲向重溟問十洲。

 

[やぶちゃん注:川義豹は不詳。

 

  月夜、江の島に宿す   川義豹

孤島 玲瓏 天女の樓

投來 一夜 淸遊に入る

陰波 偏へに陽波を映して起き

巖月 遙かに海月を兼ねて浮く

雲表の龍碑 金蘚の色(しよく)

階前の蟾石(せんせき) 桂花の秋

飄然として坐し 覺ゆ 人間の遠きを

重溟(ちようめい)に向ひて十洲を問はんと欲す

 

・「陰波 偏へに陽波を映して起き/巖月 遙かに海月を兼ねて浮く」と頷聯を訓読しては見たものの、正直、よく意味が分からない。識者の御教授を乞うものである。

・「金蘚」苔生した旧碑を蔽う美しい苔。

・「碑雲表の龍碑」俗に当時は屏風石と呼んだ碑のことと思われる。「新編鎌倉志卷之六」の江の島の項の「碑石」の条に、

碑石(ひせき) 宮の南の方に立たり。高さ五尺ばかり、廣さ二尺七寸、厚さ四寸。但し上へ幷びに兩縁は別の石なり。座石有るべき物なり。歳古りて紛失したる歟。今は土中へ掘り埋(うづ)めて建たり。碑文の所、中より折れて、續(つ)ぎ合せて建てたり。俗に、江の島の屏風石と云ふ。相傳ふ、此の碑石は、土御門帝の御宇に、慈悲上人の宋國に至り、慶仁禪師に見へて、此碑石を傳へて歸朝すと。篆額は、小篆文にて、粗(ほぼ)大篆を兼ねたり。大日本國、江島靈迹、建寺之記と三行にあり。記の字の所、石(いし)損じて見へがたし。僅(はつ)かに言偏を得て記の字なる事を知る。四傍に雲龍を彫(え)り付け、極めて奇物なり。碑の文は、剥缺して分明ならず。普く好事に搜索すれども、曾て知る人なし。但(ただ)十界の二字、性の字、人の字、成の字など、所々に見へたり。字は楷書なり。碑石の圖左のごとし。

としてかなりクリアーな図を掲げている(私が携帯電話のカメラで接写した見難い写真もリンク先には掲げてあるので参照されたい。なお、その注で詳細を記してあるが、ここに書かれた本碑の宋国伝来説というのは怪しく、信じ難い)。

・「蟾石」現在の江島神社辺津宮の階段下鳥居の左手(エスカー乗り場の右手)の無熱池の上の崖にある蟇石(がまいし)のこと。慈悲上人良真が江の島で修業した際、巨大な蟇がその邪魔をしたため、良真が法力を以って石に化したとされる。

・「重溟」海。

・「十洲」は本来は中国から海を隔てた八方の海中にあるとした仙界を含む十大州のこと。ここが現実の人間(じんかん)を超絶した仙界の謂いであろう。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(26)

  月夜宿江島   鵜孟一

孤島崔嵬石徑通。

躋攀神女妙音宮。

棲頭人倚諸天月。

洞口龍吟半夜風。

鐘度淸霜凄滿地。

珠搖滄海皎連空。

更闌不寐聽波響。

疑和琵琶入曲中。

 

[やぶちゃん注:鵜殿士寧(うどのしねい 宝永七(一七一〇)年~安永三(一七七四)年)は江戸中期の漢詩人。江戸生。本姓は村尾で孟一は名、士寧は字、通称は左膳。本荘・桃花園と号した。弱冠にして長沼流兵学を学び、武芸の修練を積む。また、服部南郭門に入って詩人としても名を馳せた。幕臣鵜殿長周の養子となり、長周の娘を妻とした。禄高六百五十石。詩は典型的な古文辞風で、擬古主義の類型的な措辞が多い。幕臣とあって南郭門下に於いて重きをなしたが,それ故の評判の悪さも「先哲叢談後編」などに伝えられている。歌人として有名な鵜殿余野子は実の妹。著作に「桃花園遺稿」(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。「鐘度」は底本「風度」であるが、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」で訂した。

 

  月夜、江の島に宿す   鵜 孟一

孤島 崔嵬 石徑 通ず

躋攀(せいはん) 神女 妙音の宮

棲頭 人 倚れり 諸天の月

洞口 龍 吟ず 半夜の風

鐘は度(わた)つて 淸霜は凄(せい)として 地に滿ち

珠は搖れて 滄海は皎(かう)として 空に連なる

更(こう)闌(た)けて寐ねず 波の響を聽くに

疑ふらくはこれ 琵琶に和して曲中に入らんかと

 

・「崔嵬」既出。山が岩や石でごろごろしていて険しいさま。また、堂塔などが高く聳えているさま。ここでもまず、江の島の危崖を前者で述べ、後者を次の句に利かせている。

・「躋攀」畳語で「躋」も「攀」と同じく「のぼる」と訓じる。高いところに登ること。

・「棲頭」不詳。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」もこうあるが、不遜ながら、これは「樓頭」の誤りではなかろうか? 識者の御教授を乞う。

・「凄」これは冷たいという意よりも、穢れなき清く美しい霜の、他から遙かにかけ離れている凄絶にして現実離れした清浄感を示すものと読む。

・「皎」清く白く明るく輝くこと。

・尾聯はあたかも波濤の音を仙界で奏でられる天上の音楽に聴き紛うているのであろう。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(25)

  中秋遊畫島賞月   高惟馨

鼈嶼東南縮地開。

海天秋色抱蓬萊。

探珠月湧驪龍窟。

懸鏡潮明玉女臺。

有客欲攀仙桂去。

何人更汎斗槎囘。

今宵獨坐鼉磯上。

萬里觀濤酒一杯。

 

[やぶちゃん注:高惟馨は前出。「仙桂」は底本「仙柱」であるが、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」で訂した。

 

  中秋、畫(ゑ)の島に遊に月を賞(め)づ   高惟馨

鼈嶼(べつしよ)の東南 縮地 開き

海天 秋色 蓬萊を抱く

珠を探して 月 湧けり 驪龍(りりよう)の窟(くつ)

鏡を懸げて 潮 明たり 玉女の臺

客有り 仙桂(せんけい)に攀ぢんと欲して去り

何人ぞ 更に斗槎を汎(うか)べて囘(かへ)らん

今宵(こよひ) 獨坐す 鼉磯(だき)の上

萬里 觀濤 酒一杯

 

「仙桂」仙界にあるという月桂の樹。仙界の象徴。

「斗槎」仙人が仙界と行き来するための筏。「斗」は小さいという意か。

「鼉磯」「鼉」はワニの一種若しくは水棲する想像上の怪物鼉龍(だりょう)で、それらの硬い甲を磯の岩に喩えたものと思われる。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(24)

  遊畫島宿山寺   山村良由〔字君裕 號蘇門〕

金龜島秀彩雲間。

求寺羊腸薄暮攀。

窓外波濤千里外。

巖頭樓閣萬尋山。

月觀鷗鳥心偏靜。

耳伴松風夢亦閑。

一夜自疑天上住。

何堪明日向人寰。

 

[やぶちゃん注:底本では「山田良由」とあるが、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」で訂した。山村蘇門(寛保二(一七四二)年~文政六 (一八二三)年)は江戸時代中後期の武士。通称は甚兵衛。尾張名古屋藩木曾代官第九代。天明の飢饉を乗り切って天明八(一七八八)年に家老となった。学芸を好み、先に出た大内熊耳に師事、詩・書画に優れた。名の良由は「たかよし」と読む。著書に「忘形集」(共著)・「清音楼集」など(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

 

  畫(ゑ)の島に遊び山寺に宿る   山村良由〔字は君裕、號は蘇門。〕

金龜島 秀(しう)たり 彩雲の間

寺を求む 羊腸 薄暮の攀(はん)

窓外 波濤 千里の外(そと)

巖頭 樓閣 萬尋の山

月 鷗鳥(おうてふ)を觀(み)て 心 偏へに靜かなり

耳 松風(しようふう)を伴ひて 夢 亦た閑かなり

一夜 自(おのづ)から疑ふ 天上の住(ぢゆう)たらんかと

何ぞ堪へん 明日 人寰(じんくわん)に向ふを

 

「萬尋」万仞に同じい。1(ひろ:本邦の慣習的な長さの単位で、両手を左右に伸ばした際の指先から指先までの長さを基準とし、一尋は五尺(約一・五一五メートル)乃至は六尺(約一・八一六メートル)。縄・釣糸の長さや水深に用いることが多く、水深の場合には六尺と既定する。)の一万倍(約一万八千メートル相当)。転じて、非常に高い(深い)ことを指す。

「月觀鷗鳥心偏靜」は月(=明鏡=作者の心)が飛ぶ鷗を「觀(み)」て月(=明鏡=作者の心)が只管に澄み渡って静かなという心象であろう。

「人寰」人間界。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(23)

  宿江島妙音閣   餘承裕〔字子綽 號熊耳〕
雲晴海嶠宿岩嶢。
月朗龍宮照寂寥。
只有梵音驚客夢。
通宵不寐坐聞潮。

[やぶちゃん注:作者は江戸中期の漢学者大内熊耳(おおうちようじ 元禄一〇(一六九七)年~安永五(一七七六)年)。陸奥国(現在の福島県)三春の人。熊耳は号で、承裕は名、子綽は字、通称は忠太夫。百済王族の後裔の出と伝えることから余氏を名乗った(父弥五右衛門は熊耳村の村長)。十七歳で江戸に出、秋元澹園に師事、後に上方を経て九州に至り、長崎に遊学、ここで中国明代古文辞学の名著「李滄溟集」を見、自らの文章を磨いた。長崎に居ること十年余の後、江戸に戻って肥前(現在の佐賀県)唐津藩の儒員となった。文名高く、当時の代表的文人として重きをなした。書家としても知られたという。著作に「熊耳先生文集」(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

  江の島妙音閣に宿す   餘 承裕〔字は子綽、號は熊耳。〕
雲 晴れて 海嶠(かいけう)は岩嶢(がんげう)に宿す
月 朗(ほがら)にして 龍宮が寂寥を照らす
只だ有る 梵音 驚客(きやうかく)の夢
通宵(つうせう) 寐ねず 坐して潮を聞く

「海嶠」海中に聳え立つ島。
「岩嶢」高く険しい岩山。彼が宿泊した可能性がある岩本楼に引っかけた謂いかも知れない。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(22)

  夜宿畫島   高惟馨

潮廻孤島繫扁舟。

夜半偏憐海上秋。

不爲驚濤能破夢。

那知明月照龍湫。

 

[やぶちゃん注:高惟馨は高野蘭亭。既注。

 

  夜宿畫(ゑ)の島   高惟馨

潮廻れる孤島 扁舟を繫ぐ

夜半 偏へに憐れむ 海上(かいしよう)の秋

驚濤をして能く夢を破らしめず

知る 明月 龍湫を照らすを

 

「那」語勢調える置字と採る。「なんぞ」とも読めるが、今一つ、後とのつながりが悪い。

「龍湫」現在の浙江省温州市にある景勝地雁蕩山の景勝地域(桃花流水氏(日本人の方と思われる)のサイト「Panorama飛騨」の中国名山雁蕩山に詳しい。画像有り)。また、その中で「大龍湫」と称するのは中国の四大名瀑の一つとされ、別名を大瀑布とも言う瀧である(リンク先は中文ウィキ)。夜半の波濤の砕ける音が夢に入ってこの見たこともない名瀑に懸る明月を夢想させたという意味か。]

倦みては人かわきては人よりも來よ詩はよろこびの溢れぬる酒 萩原朔太郎

倦みては人かわきては人よりも來よ詩はよろこびの溢れぬる酒

[やぶちゃん注:『明星』卯年第八号・明治三六(一九〇三)年八月号の「星夜」欄に「萩原美棹(上毛)」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十六歳。]

甕  八木重吉

    甕(かめ)

甕 を いくつしみたい、
この日 ああ
甕よ、 こころのしづけさにうかぶ その甕

なんにもない
おまへの うつろよ

甕よ、 わたしの むねは
『甕よ!』と おまへを よびながら
あやしくも ふるへる

[やぶちゃん注:現行テクストでは一行目末には読点はない。私の底本は幽かに掠れて汚れのようにも見えるが、位置と形及び他の詩の句末読点とを検討して読点と判じた。]

鬼城句集 冬之部 北風

北風     詠馬

      北風に鼻づら強(こは)き雄姿かな

      北風にうなじ伏せたる荷牛かな

ヒッキリッコ

 夏近くなると、ほこりのまみれた道ばたのオオバコは、花茎がぐんぐんのびて細長い小さな白い花を密集して咲かせます。それがネズミの尾のように風にゆらいで見えるので、子どもたちはこの花茎を引き抜くと。「ネズミだぞ!」などと、いいながら、チュウチュウと友だちの衿くびや頰を撫でて、いたずらをしました。そんなとき、きっとだれかがヒッキリッコしよう! といいだすと、どの子もどの子も花茎を両手一パイに引き抜いてきて、木陰の道ばたで遊びはじめます。ヒッキリッコとは子どもたちがお互いに花茎をU字型に曲げて、相手のU字型に引っかけて引き合いごっこする遊びです。そしてどちらかが切れると負になりますが、この勝負(かちまけ)をきめることが相撲をとるようだから、オオバコをスモートリグサ(千葉県、静岡県、奈良県、新潟県、長崎県)、スモートリバナ(長崎県)またはトリコパコ(秋田)、ビッキリコー(長野)などと遊び名がそのまま草の名になっているところもあります。また変わったところでは、ひっぱるというよりも左右交互に手を引きあい、ズイコン、ズイコンといいながら遊ぶところが長野県にあります。福島県の檜枝岐(ひのえまた)では同じ遊びをズイコ、メーコ、ズイコ、メーコといいますが、山形県庄内ではズッコン、メッコンと少し変わります。どちらの遊びも遊び言葉も、木樵(きこり)が鋸(のこぎり)で丸太を挽くところを連想したもので、とくにオオバコの花茎の莟(つぼみ)がパラパラと落ちるところは、鋸屑(おがくず)と同じように見えるので、遊びをますます面白くしました。ところが同じ遊びでも土地が変わると遊びの連想も異なるもので、長野県では、

  イスス(石臼(いしうす))ゴーゴー金(かね)ゴーゴー

とうたいながら交互に引きあって遊びます。イススとは粉を挽く石臼のことで、父母親たち二人が石臼に繩をかけて、左右に繩を交互に引いて臼が半回転してはもどり、粉を挽く有様に良く似ているからです。新潟県の六日町ではこの遊び唄に、

  臼ひきザンゴー 米かみザンゴー
    山に米がたくさんで
  となりの爺さまみな嚙(か)んだ
    ザンゴー ザンゴー

と子どもたち二人が向かいあい、この唄をうたいながらどちらの花茎が早くすり切れるか、遊びをしました。
(中田幸平「野の民俗―草と子どもたち―」社会思想社現代教養文庫998・1980年刊)

2013/12/24

北條九代記 院宣 付 推松使節 竝 二位禪尼評定 承久の乱【十二】――幕臣軍議の最中の尼将軍政子渾身の演説に幕臣悉く袖を絞って忠誠を誓う

院宣を奪(うばひ)取りて燒き捨てられ、北條義時、駿河守を相倶して、二位禪尼の御前にまゐり、「世の中既に亂れて候。去ぬる十五日、判官光季は、京都にして討たれたり。如何(いかで)御計(はからひ)候べき」とて、胤義が文と、院宣とを御前に差置れたり。武藏守泰時、相摸守時房、前大管領(さきのくわんれい)廣元以下參り集まりて評定あり、二位禪尼は、妻戸の間へ出でたまひ、御家人等を御簾(みす)の前に召寄(めしよせ)られ、御簾を半(なかば)に卷上(まきあげ)させ、御覽じ出して宣ひけるは、「日本一州の中に、女房のめでたき例(ためし)には、此尼をこそ申すなれど、尼程に物思(ものおもひ)したる者は世にあらじ、故殿賴朝公に逢初(あひそ)め參(まゐら)せし時は、世になき振舞(ふるまひ)するとて親にも疎み惡(にく)まれ、その後平家の軍初(はじま)りしかば、手を握り、心を碎き、六年(むとせ)が程は打暮し、平家亡びて世は治(おさま)るかと思ふ所に、大姫君に後(おく)れて、同じ道にと悲しく思ひながら、月日を重ねし間(あひだ)に故殿に後れ奉る。左衞門督(のかみ)未だ幼稚なれば、見立參(まゐら)せんとせしかども、又督殿にさへ後れて、誰を賴む方もなく、鎌倉中には恨(うらめ)しからぬ人もなく、思沈みしを、故右大臣實朝公、人となり、世も靜(しづか)に侍(はんべ)りしに、思(おもひ)の外の事ありて大臣殿失せ給ふ。是こそ浮世の限(かぎり)なれ、何に命の存命(ながら)へて、かゝる歎(なげき)に堪へぬらん、如何なる淵河(ふちかは)にも身を投げばやと思立ちしを、權(ごんの)大夫義時が、樣々申す事ありて、三代將軍の御跡を、誰かは弔ひ奉るべきと思ひし程に、今日まで空(むなし)く存命(ながら)へて、かゝる事を見聞くこそ悲しけれ。日本國の侍達(さぶらひたち)、昔は三年の大番(おほばん)とて、一期(ご)の大事と出立ち、郎從一族まで此所を晴(はれ)と上りしも、力盡きぬれば、下向には歩跳(かちはだし)にて歸りけるを、故殿燐み給ひ、六ヶ月に約(つゞめ)、分際(ぶんざい)に應じて諸人の助(たすけ)を計ひ置かせ給ひ、今は何(いづれ)も榮耀(えいえう)におはすらん。萬(よろづ)につけて、情深き御恩を忘れて、東方へ參られんとも、又留りて味方に奉公仕らんとも、只今確に申し切れしとぞ宣ひける。是を承る大名、小名、皆袖を絞りて申しけるは、「拙(つたな)き鳥獸までも人の恩をば忘れずとこそ承れ。况(まし)て代々御恩深く蒙りし我等、此度(このたび)罷(まかり)向ひ候ひて、都を枕とし、尸(かばね)を禁中に晒さんとこそ存じ候へ、誰々も一人として、この志を背く者は候はず。御心安く思召され候へ」とて御前を立ちて宿所々々に歸られけり。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【十二】――幕臣軍議の最中の尼将軍政子渾身の演説に幕臣悉く袖を絞って忠誠を誓う〉

『院宣を奪取りて燒き捨てられ、北條義時、駿河守を相倶して、二位禪尼の御前にまゐり、「世の中既に亂れて候。去ぬる十五日、判官光季は、京都にして討たれたり。如何御計候べき」とて、胤義が文と、院宣とを御前に差置れたり』この部分、おかしい。

――北条義時殿は推松から院宣を奪い取って総てお焼き捨てになられた上で、駿河守三浦義村殿を伴って二人して、二位禅尼政子殿の御前に参り、

「世の中は既にして乱れて御座候う。去(いん)ぬる十五日、判官伊賀光季は、京都にて討たれて御座る。如何にご処置なされまするか?」

と、三浦胤義が義村に宛てた官軍への慫慂を勧めた私信と院宣とを尼御台の御前(おんまえ)にさし置きなさった。――

冒頭で、義時は軍議の前に院宣を焼き捨てたとしながら、その後、政子の前に院宣を差し出した、とあるのである。以下に見るように、「承久記」にはこの齟齬はない。しかしどうであろう、如何に自分を謀叛人とする内容だからと言って、評定の前に院宣を総て焼き捨てるものだろうか? 寧ろ、七通もあった院宣総てはいらないから、一通を除いて六通を焼き捨て、残したものを政子に披見させたとする方が自然である。ただその際、どの一通を残すかが問題にはなる。何故なら「承久記」によれば、七通は総て宛名人が明記されているからである(「武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西」の各武将)。これら七人が特に名指されたことは、この七氏が官軍方へ靡く可能性が高く、靡いた場合には関東のそれ以外の武士団を芋づる式に官軍に就かせることが可能な有力武将であると考えたからに他ならない。誰に出されたものかは、実は義時を始めとする幕閣にとっても公になってはまずい最高機密に属するものであったと考えてよい。しかし、この中で敢えて知れても構わない人物が一人だけいる。三浦義村である。彼は弟胤義の慫慂を蹴って、義時に内報をし、既に幕府への忠誠を義時本人に告げており、それを義時も完全に信用しているからである。寧ろ、義村が居る目の前で胤義の慫慂の文と義村宛院宣の二通を政子に示すことで、義村の忠誠が最終的に公的に認知されたとも言えるのである。「北條九代記」の作者も実は院宣が総て焼却されたとする「承久記」の記述に疑問を持ったに違いない。ただ「承久記」の記載自体は一応示した。しかし、その違和感がここで図らずも出てしまったというべきか。私はこの意味不通部分を、「北條九代記」筆者は、義村宛以外の院宣を焼き捨て、政子には胤義の義村宛私信と残した義村宛一通の院宣を示した、とする文脈で採りたい。大方の御批判を俟つものである。

「妻戸の間」平安期までは寝殿造りで出入り口として建物の端に設けた両開きの板戸の謂いであるが、ここは大倉幕府の両開きの戸を端に持った評定の間と採る。

「物思したる」想像を絶した苦悩を重ねた。

「世になき振舞する」流刑者と恋愛関係に陥るという世にあってはならないとんでもない振る舞いをする。

「六年」平家滅亡の文治元(一一八五)年三月であるから、六年前は治承三(一一七九)年である。この年十一月は清盛がクーデターを起こして後白河法皇の院政を停止させており、「平家の軍(いくさ)」たる源平合戦、所謂、治承・寿永の乱のプレの起点としては相応しい。但し、政子は頼朝と深い関係を持つに至ったのはそれよりももっと前の、安元二(一一七六)年前後であろう。何故なら翌治承元(一一七七)年に北條時政が伊豆目代山木兼隆と娘政子を婚姻させようとしたのは、時政が頼朝とのわりない関係(恐らくは大姫を懐妊していたと考えてよい)を知った結果であるからである(この当時、政子は丁度、満二十歳前後であった)。

「大姫」頼朝と政子の間に生まれた長女。治承二(一一七八)年に生まれ、建久八年七月十四日に亡くなっている。木曽義高との悲話とその死は、「北條九代記」の及び第二巻に詳しい。

「同じ道にと」もう、大姫と同じ死出の旅路を辿らんと。夫頼朝の無慈悲な謀殺に対する政子の深い失望と、大姫に対する強い母性愛と同情心(それは政子自身の頼朝への一途な体験に裏打ちされていることがこの叙述から明白)が窺える部分である。それは後掲する「承久記」の、頼朝が「一人死んだからってそんなに沈鬱になってどうする。」という台詞への、『必其ニナグサムトシモハ無ケレ共』(必ずしもそんな口先ばかりの言葉に慰められたなんどということはなかったけれど)という謂いにも、極めてよく表われていると言える。

「故殿」夫源頼朝。

「左衞門督」長男源頼家。彼は正二位左衛門督。

「大番」大番役。平安末期から鎌倉にかけて、内裏や院の御所及び京都市中の警固役に当たった御家人役の一つ。諸国の武士が交代制で勤めた。本承久の乱以後は鎌倉の将軍御所を警備する鎌倉大番役も新たに制度化された。

「一期の大事」一生涯の大仕事。

「榮耀(えいえう)」底本はルビが「え えう」(字空ママ)であるが、早稲田大学図書館蔵延宝三(一六七五)年梅村弥右衛門板行になる「北条九代記」で訂した。

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号28の一文をダブらせて29まで)を示す。直接話法部分を改行した。なお、私は「北條九代記」の女性嫌悪傾向の甚だ強い筆者とは違って、政子が大好きである。この演説も、頗る附きで好きである。

 

院宣共奪取ガ如シテ、大ガヒバカリヨマセテ後ニ燒捨ラレヌ。

 角テ權大夫、駿河守ヲ相具シテ二位殿ニ參リ、

「世中コソ已ニ亂レテ候へ。去十五日ニ光季被ㇾ打テ候也。世上イカヾ御計ヒ可ㇾ候」

ト被ㇾ申ケレバ、二位殿、妻戸ノ間へ出給ヒ、御簾半計アゲサセ、御覽ジ出シテ宣ヒケルハ、

「日本國ニ女房ノ目出タメシニ、尼ヲコソ申ナレ共、尼程物思タル者世ニアラジ。故殿ニ相ソメ進ラセシ時ハ、世ニナキ振舞スルトテ、親ニモ疎カニ惡ミソネマル。其後、平家ノ軍始リシカバ、手ヲ捏り心ヲ碎キ、精進潔齋シテ佛神ニ祈精ヲ致シ、安カラヌ思ニテ六年ガ程ハ明シ暮シ候ニ、平家無ㇾ程亡シカバ、サテ世中ヲダシタトゾ思シニ、無幾程大姫君ニヲクレ進ラセテ、何事モ不ㇾ覺、同ジ道ニト悲ミシヲ、故殿、

『一人無レバトテ、サノミ思ヒ沈事ヤハアル。ナキ者ノ爲ニモ罪深事ニコソナン。』

ト被ㇾ仰シカバ、必其ニナグサムトシモハ無ケレ共、明ヌ暮ヌトセシ程ニ、二度ウセサセ給シカバ、此時コソ限ナリケレト思シヲ、左衞門脅殿未ヲサナクマシマシシカバ、故殿ニヲクレ進ラセテ、如何ガセント存候ダニモセンカタモ候ハヌニ、

『一度ニ二人ニヲクレン事ヨ。』

ト餘リニ被ㇾ仰シカバ、ゲニ又、難見捨思進ラセテ有シ程ニ、又、督殿被ㇾ失給シカバ、誰ヲ可ㇾ賴方モナク成ハテヽ、鎌倉中ニ恨メシカラヌ者モナク思沈シカ共、故大臣殿ノ、

『今ハ賴シキ方モナク、獨子ト成テ候ヲ、爭デカ御覽ジ捨ラㇾ可ㇾ候。何レカ御子ニテ候ハヌ』

ト、ヲトナシク嘆キ被ㇾ仰シカバ、現ニイタハシクテ空ク明シクラシ候ニ、大臣殿失サセ給シカバ、是コソ限ナレ、何ニ命ノ存へテ、カヽル浮身ノムクヒニ兼テ物ヲ嘆ラン、如何ナル淵河ニ身ヲナゲ空ク成ント思立シニ、權大夫、

『カクシテ空クナラセ給ナバ、鎌倉ハカセギノ栖カト成果シテ亡ビナンズ。三代將軍ノ後生ヲモ、誰カ訪ヒ進可ㇾ候。眞思召立テ給テ、先、義時、御前ニテ自害ヲシ御供可ㇾ仕カ。』

ト、夜晝立モ不ㇾ去、樣々ニ嘆カセ給シ間、實ニ代々將軍ノ後生ヲモ誰カ訪ヒ奉ルべキト思シ程ニ、今日迄ツレナク存へテ、カヽルウキ事ヲモ見聞事コソ悲ケレ。日本國ノ侍共、昔ハ三年ノ大番トテ、一期ノ大事ト出立、郎從・眷屬ニ至迄、是ヲ晴トテ上リシカ共、力盡テ下シ時、手ヅカラ身ヅカラ蓑笠ヲ首ニ掛、カチハダシニテ下リシヲ、故殿ノアハレマセ給テ、三年ヲ六月ニツヾメ、分々ニ隨テ支配セラレ、諸人タスカル樣ニ御計ヒ有テ、是程御情深クワタラセ給シ御志ヲ忘ㇾ進ラセテ、京方へ參ン共、又留テ御方ニ候テ奉公仕ラン共、只今タシカニ申切。」

トゾ宣ヒケル。是ヲ奉テ、有トアル大名・小名、皆袖ヲヲホヒ涙ヲ流テ申ケルハ、

「無ㇾ心鳥類・獸迄モ人ノ恩アル事ヲ不ㇾ忘トコソ承レ。マシテ申候ハンヤ、代々御恩ヲ罷蒙ヌル上ハ、被ㇾ向候ハン所迄ハ相向ヒ、如何ナラン野ノ末、道ノ邊マデモ、都ヲバ枕トシ關東ヲバ跡ニシテ、尸ヲサラス身トコソ罷成候ハンズラメ。爭デカ僞ヲ可ㇾ申。」

トテ各歸ヌ。

 

●「一度ニ二人ニヲクレン事ヨ」一遍に父母に先立たれるなんて。青年将軍頼家(未だ満十七歳)の台詞。

●「存へテ」「ながらへて」と読む。

●「カセギ」鹿の異名の「かせぎ」であろう。鹿の跋扈する荒れ果てた野となると言うのであろう。

●「夜晝立モ」「立モ」は「たっても」で、夜昼を分かたず、ずっと、の謂いと思われる。

●「ツレナク」「つれなし」には、例えば、「何食わぬ顔をして」「厚顔無恥にも」「平然として」「何の変りもなく無事に」「自分の意志のままにならずに」「これといった転変もなく」といった意味があり、そのどれをもこの場合は重層させてよいと思われる。

●「分々ニ隨テ支配セラレ」命ぜられた侍のそれぞれの身分や地位、生活・氏族の状況に応じて臨機応変に差配なされて。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 35 砂絵師


M287
図―287

 

 街頭に於る興味の深い誘惑物は、砂絵師である(図287)。彼はつぎだらけの着物を着た老人であった。彼が両膝をつき、片手で地面の平な場所を払った時、私には彼が何を始めようとするのか、見当がつかなかったが、集って来た少数の大人と子供達は、何が起るかを明かに知っているらしく見えた。充分な広さの場所を掃うと、彼は箱から赤味を帯びた砂を一握取り出し、手を閉じた儘それを指の間から流し出すと共に、手を動かして顔の輪郭をつくった。彼は指と指との隙間から砂を流して、美事な複線をつくった。白い砂の入った箱も、使用された。彼は器用な絵を描き、群衆が小銭若干を投げたのに向って、頭を下げた。

[やぶちゃん注:私は日本でこうした砂絵師を実見した記憶はない。バルセロナでそれらしいものを見たような記憶があるようなないような(確かではない)。ネットを見ても、ここに出るような大道芸人の砂絵師の具体的な詳細記載は見当たらない(まさに砂の絵のように過去に消え去ったものか)。ただ、芥川龍之介の大正七(一九一八)年の俳句に、

 

日傘人見る砂文字の異花奇鳥

 

という句があり(別稿に「日傘人見る砂文字の異花奇禽」)、中田雅敏は編著の蝸牛俳句文庫「芥川龍之介」の鑑賞文で、砂文字は大道芸の一つで、色の付いた砂で絵を描いて見せたとあり、浅草辺りの嘱目吟であろうと推定しておられるのを辛うじて思い出すばかりである(私のやぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺を参照)。

 川嶋信雄氏のブログ「ノボ村長の開拓日誌」の「江戸のアーティスト」のページに杉浦日向子「江戸アルキ帖」に(私は所持しない)、以下のようにあるとある。孫引きさせて戴く。

   《引用開始》

安永七年九月十四日(晴れ)

蔵前牛頭天王社(くらまえごずてんのうしゃ)

 牛頭天王の社で、砂絵師を見た。

 白い砂を握り、湿った黒い土の上に、小指のすきまから、サラサラと落とす。そうやって、いういろな絵を描く。仕上ると、地面をなでさすって消し、また別の絵を描く。美女が、菩薩が、馬が、舟が、現われては消える。

 一瞬を生きるか、氷遠を生きるか。天に鳥、地に蟻。

 砂絵師の手元が大きく動くと、楼閣は散って、黒い土になった。

   《引用終了》

当該ブログには杉浦氏の絵も貼られてあるが、絵師の背中の二箇所のツギや奥の見物人の配置やポーズまで全く同じで、この絵は明らかにここのモースのデッサンから起こしたものであることが分かる(敢えて当該ブログの画像を以下に示しておく。但し、私は剽窃という批判的なニュアンスからかくするものではないことを断わっておく。亡き日奈ちゃんを……私は寧ろ、愛していたぐらいだ……)。

20120924154128

 なお、現代の砂絵師としてはウクライナのクセニア・シモノヴァ(Ксенія Симонова)の砂絵を是非、紹介しておきたい。]

 

 

* 私はロンドンでも歩道に、群衆から銭を受けるという同じ目的で、同様な方法で絵が描れるのを見た。合衆国人類学部の出版物によると、西部インディアンのある種族は、宗教的儀式に関連して、いろいろな色彩の砂を使用し、こみ入った模様を描くそうである。

[やぶちゃん注:サイト『立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点――障老病異と共に暮らす世界へ』のにそうしたナバホ族の砂絵師にして最後の呪医であったハスティーン・クラーについて書かれた、フランク・ニューカム著鈴木幸子訳「ハスティーン・クラー――ナバホ最高のメディスンマン・砂絵師の物語」生活書院二〇〇八年刊(Newcomb, Franc J. 1980Hosteen Klah: Navaho Medicine Man and Sand Painter”)の簡単な解説がある(私は未読)。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 34 道路工事点描2 よいとまけの唄


M286
図―286

 

 図286は、街路工夫が、掘りかえした町の部分を、叩いてならしている所を示す。家産の礎石も同様にして叩き下げる。叩く間、労働者達は、私には真似することも記述することも出来ない、一種の異様な歌を歌い続ける。

[やぶちゃん注:この「よいとまけ」の仕儀と唄については来日早々にも人間杭打機と称して記録しており、モースはその仕組みと掛け声に非常に惹かれたらしい。因みに、「よいとまけ」とは、本来の地固めに用いたリンクした第一章にある絵の滑車の綱を引っ張る際の、「ヨイ! っと! 巻け!」という掛け声を語源とするという。]

ウクライナのクセニア・シモノヴァ(Ксенія Симонова)の砂絵

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(21)

  夜宿畫島   岡崎信好〔字師古 號盧門〕

雲水渺茫相海中。

金龜島霽興何窮。

潮聲近湧龍蛇窟。

月影高輝神女宮。

七里漁濱砂似玉。

千帆商舶葉隨風。

擧杯勝景堪相賞。

一夜閑吟旅思空。

 

[やぶちゃん注:岡崎信好(享保一九(一七三四)年~天明七(一七八七)年)は江戸中期の漢詩人。京都生。群書に精通し、文章に優れたが、病弱なために仕官せずに生涯を終えた。著作に「廬門詩集」「平安風雅」、編著に「扶桑鐘銘集」などがある(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

 

  夜、畫(ゑ)の島に宿る   岡崎信好〔字は師古、號は盧門。〕

雲水 渺茫(べうばう) 相海の中(うち)

金龜の島 霽れ 興(きよう) 何ぞ窮せんや

潮聲 近く湧く 龍蛇の窟

月影 高く輝く 神女の宮

七里の漁濱(れふひん) 砂 玉に似

千帆の商舶 葉 風に隨ふ

杯を擧ぐるに 勝景 相ひ賞するに堪へ

一夜 閑吟す 旅思の空

 

「相海」相模の海(相模湾)の謂いであろう。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(20)

  和子遷先生題江島石壁之作   越智正珪〔字君瑞 號雲夢〕

碧海祠檀捧玉盤。

金龜山上夏雲寒。

知君試賦觀濤色。

不讓枚乘八月看。

 

[やぶちゃん注:越智正珪(貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)は江戸中期の医師で儒者。曲直瀬(まなせ)平庵の子で、父の跡を継ぎ、養安院と称して幕府医官として出仕し、後に法眼となった。荻生徂徠に古文辞を学んだ。別号に神門叟、雪翁。著作に「懐仙楼集」「神門余筆」など(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

 

  子遷先生の「江島石壁」と題するの作に和す   越智正珪〔字は君瑞、號は雲夢。〕

碧海の祠檀(しだん) 玉盤を捧ぐ

金龜山上 夏雲(かうん)寒(さび)し

知る君 試みに賦す 觀濤(かんたう)の色(しよく)

枚乘(ばいじよう)に讓らず 八月の看(かん)

 

「和子遷先生題江島石壁之作」の「子遷先生」は服部南郭の号で、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」を見ると、この詩の直前に「題江島石壁」と題する服部南郭の詩が載る。以下に示す(例によって訓読は私の勝手なものである)。

 

  題江島石壁

風濤石岸鬪鳴雷。

直撼樓臺萬犬廻。

被髮釣鼈滄海客。

三山到處蹴波開。

 

   江の島石壁に題す

  風濤の石岸 鳴雷と鬪(あらそ)ふ

  直撼(ちよくかん)す 樓臺 萬犬(ばんけん)の廻(くわい)

  被髮(ひはつ)して 鼈(べつ)を釣る 滄海の客

  三山 到る處 波を蹴つて開く

 

承句は波濤旋風の廻る音を無数の犬の吠え声に喩えたものか。「被髮」はざんばら髮で、映像は神仙のイメージである。

「枚乘」前漢の詩人。既注。

「看」は見守る、観察するの謂いで、詩に十全に詠じたことを言うか。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(19)

  遊畫島風雨波惡不能探窟   川榮壽

孤島人間外。

綵雲千里連。

窟臨滄海上。

宮秀碧山巓。

風雨來搖樹。

波濤起蹴天。

明珠探不得。

何處驪龍眠。

 

[やぶちゃん注:川栄寿なる人物は明治一九(一八八六)年刊松村精一郎編「江山勝概」上冊の巻頭に漢文の「遊日光山紀行」なるものをものしており、同書目次には作者名『川 榮壽』の下に割注を入れ、『字萬年 江戸人』とある。底本では二句目の「綵雲」が「緣雲」となっているが、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」で訂した。

 

  畫(ゑ)の島に遊ぶも、風雨・波(なみ)惡しくして、窟を探る能はず  川榮壽

孤島 人間(じんかん)の外(がい)

綵雲(さいうん) 千里に連なる

窟 臨む 滄海の上(しやう)

宮 秀(ひい)づ 碧山の巓(てん)

風雨 來つて 樹を搖らし

波濤 起つて 天を蹴る

明珠 探るを得ず

何處(いづく)にか 驪龍(りりよう) 眠らん

 

「綵雲」彩雲。

「驪龍」黒龍(こくりゅう)のこと。全身の鱗が黒い。特に驪竜 (りりょう) と呼ばれた場合は、顎の下に貴重な珠を持っているとされる。光を苦手とし、普段は深い海底に一匹で棲息し、光のない新月の夜にのみ、その姿を海底から現わすとされることから、海又は闇を司る存在として、魚を乱獲する者を海底に引きずり込むなど、一般には災厄を齎すものとして形象されることが多いが、水墨画との相性の良さから黒龍はしばしば画題ともなる(ウィキ竜」の記載を参考にした)。]

くろんぼ踊り 萩原朔太郎 (未発表詩篇)

 

 

 くろんぼ踊り 

 

くろんぼ踊りのすさまじさ

 

肉慾淫樂踊りのすさまじさ

 

くつつく

 

ひつつく

 

ひつかく、つめる、

 

くすぐる、だきつく、

 

お禮に接吻

 

足に接吻

 

指に接吻

 

くるめくトニイのはだかの肉體

 

くろんぼ女の淫慾强烈

 

もつとも猛烈

 

トニイの體が血だらけとなり

 

トニイが倒れて叫ぶの息が絕えるまで

 

くんろぼの女の淫慾やまずすます、

 

舌とさきすつぽり齒の隱間にうかち入り

 

そうして息が絕えるまで

 

くろんぼ女の淫慾やすまず

 

ますますやすまず、

 

くろんぼ同志が肉體摩際のはげしきさ遊戲に、

 

くろんぼ炎日白日炎炎赤道炎々くるめくくるめく天は白金、熱體地方のことなればひるひかな、

 

くろんぼ踊りのすさまじさ、

 

肉慾踊りのすさまじさ、

 

[やぶちゃん注:「くろんぼ」や詩篇全体に漂っている黒人差別や、猥褻性を殊更に煽る雰囲気は、現在では、かなり、拒絶感を覚えるものである。筑摩版全集第三巻「未發表詩篇」より。取り消し線は抹消を示し、その抹消部の中でも先立って推敲抹消された部分は下線附き取り消し線で示した。「→」の末梢部分は、ある語句の明らかな書き換えがともに末梢されたことを示す。幾つかの誤字と思われるものもそのまま写した。底本の校訂本文では以下のようになっている。 

 

 くろんぼ踊り

 

 

くろんぼ踊りのすさまじさ

 

淫樂踊りのすさまじさ

 

くつつく

 

ひつつく

 

ひつかく、つめる

 

くすぐる、だきつく

 

お禮に接吻

 

足に接吻

 

指に接吻

 

くるめくトニイのはだかの肉體

 

くろんぼ女の淫慾强烈

 

もつとも猛烈

 

トニイの體が血だらけとなり

 

トニイの息が絕えるまで

 

くろんぼ女の淫慾やすまず

 

舌さきすつぽり齒の隙間にうがち入り

 

さうして息が絕えるまで

 

くろんぼ女の淫慾やすまず

 

ますますやすまず

 

くろんぼ同士が肉體摩擦のはげしき遊戲に

 

くるめくくるめく天は白金、熱帶地方のひるひなか

 

くろんぼ踊りのすさまじさ。

 

と、句読点から何から何まで御説御尤もな完膚無きまでの『訂正』が施されて、実に美々しい優等生の装いとなっている。これはまさに写真館で撮ったお澄ましの余所行きの出で立ちだ。何度も申し上げるが、私は筑摩版全集の『訂正』本文なるものを、詩人の全集の定本本文と素直に認めることに頗る躊躇を感じているものである。

 

 なお、私は本詩は特に「トニイ」という固有名詞から、何らかの活動写真(映画)を素材としているように思われる。ふと浮かんだモデルの女優の方は Josephine Baker なのだが。彼女の作品はまともには一本しか見ていないので、何とも言えない。識者の御教授を乞うものではある。]

萩原朔太郎 短歌五首 明治三六(一九〇三)年八月

野より今うまれける魂をさなくて一人しなれば神もあはれめ

沁(し)みにしは無花果(いちじく)の葉の乳(ちゝ)のごと淸らにあまきおもひなりける

あめつちを歌にたたへし昨日(きのふ)けふは薊の精(せい)戀ふる人

おくつきは大(おほ)あめつちの一つ石と笑みも入らばや寢ばやそのした

もとめわび信(しん)のろひて歸れるに心はうつろ身はもぬけがら

[やぶちゃん注:『明星』卯年第八号・明治三六(一九〇三)年八月号の「無花果」欄に「萩原美棹」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十六歳。この五首、短歌嫌いの私が何故か、ひどく気に入ってしまったことを告白しておく。]

唯正しく考へ正しく語ることに努めなければならない。決して他の人々を己の趣味の思想に從はせようとしたはならない。これは餘りにも大それた企である。(ラ・ブリュイエール)

唯正しく考へ正しく語ることに努めなければならない。決して他の人々を己の趣味(このみ)の思想(かんがへ)に從はせようとしたはならない。これは餘りにも大それた企である。

(ラ・ブリュイエール「カラクテール 上 又の名 當世風俗誌」関根秀雄訳(岩波文庫1952年刊)より「第一章 文學上の著作について」の「二」)

花と咲け  八木重吉

鳴く 蟲よ、 花 と 咲 け

地 に おつる

この 秋陽(あきび)、 花 と 咲 け、

ああ さやかにも

この こころ、 咲けよ 花と 咲けよ

鬼城句集 冬之部 冬の雲

冬の雲   冬雲を破りて峯にさす日かな

 

       過關原

 

      冬雲の降りてひろごる野づらかな

 

[やぶちゃん注:本「鬼城句集」の場合、前書を持つものは非常に少ない。それらは皆、鬼城が句理解のためにあるべきものと配慮して附されたものと見て間違いなく、この場合も、そうしたより効果的な映像効果を齎すためのものと考えられ、とすれば「過關原」は最も知られたかの岐阜県の「關ヶ原を過ぐ」以外には考えられず、「過」ぐとするところからは東海道本線の車窓詠としてよいであろう。殆んど高崎から出ることのなかった鬼城の句の中では珍しい羈旅吟である(但し、既に注した通り、高崎は彼の郷里ではない。再掲しておくと、鬼城は慶応元(一八六五)年に鳥取藩士小原平之進の長男として江戸に生まれたが、八歳(明治五(一八七二)年)の時に群馬県高崎市に移り住んだ(十一歳で母方の村上家の村上源兵衛の養子となって村上姓を名乗る)。後に高崎裁判所司法代書人となって以後は亡くなるまでの一生を殆んど高崎で過ごしている。ただ、この事蹟については未だ私には多くの不審がある。の私の注をお読み戴きたい)。]

      冬雲の凝然として日暮るゝ

2013/12/23

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 五 分裂 ゴカイの横分裂



Bunretugokai2

[「ごかい」類の分裂]

 

 海に住む「ごかい」の類には盛に分裂によつて蕃殖するものがある。但し前後同じ大きさの兩半に切れるのではなく、體の後端に近い處に縊れが生じ、始め小さな後半が次第に大きくなつて終に完全な一疋となるのであるから、分裂と芽生との中間の生殖法である。その上二疋が離れぬ間に兩方とも更に何囘も同樣な生殖法を繰り返すから、終には大小さまざまの個體が鎖の如くに竝んで臨時の群體が出來る。しかし各個體が生長するに隨つて、舊く縊れた處から順々に切り離れる。こゝに掲げたのは先年房州館山灣で捕れた「ごかい」類の寫生圖であるが、大小數疋の個體が恰も汽車の客車の如くに前後に連續して居る具合は、分裂生殖の見本として最も宜しからう。

 



Bunretugokai1

[館山灣で捕れた「ごかい」類(約四倍大)[やぶちゃん注:この拡大率は原典のもの。]]

 

[やぶちゃん注:「ごかい」狭義の「ゴカイ」はかつては Hediste japonica の和名として当てられていたが、近年、この狭義の「ゴカイ」類は、

環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ超科ゴカイ科カワゴカイ属 Hediste

に属する以下の三種に分類されるようになり(一九九九年から二〇〇〇年にかけての乳酸脱水素酵素などアロザイム及び疣足・剛毛の形態比較分析の結果、形態的に良く似た複数種が混同されている事実が明らかとなったため)、生物学上の単一種としてのゴカイという標準和名は消失した(詳しくは「公益社団法人日本動物学会」のトピックスにある佐藤正典氏の「博物館の標本のありがたさ―「ゴカイ」の研究からわかったこと―」を参照されたい)。

 ヤマトカワゴカイ Hediste diadroma

 ヒメヤマトカワゴカイ Hediste atoka

 アリアケカワゴカイ Hediste japonica(旧和名「ゴカイ」)

但し、「ごかい」は現在でも、日本での記載種は千種を超えるところの、

 広義の多毛綱全体の総称

或いは、

 多毛類の中の一つの科であるゴカイ科に属する多毛類の総称

としてもごく当たり前に使われる。一般には釣りの餌で知られる海中を自由遊泳をする遊在性の上記の三種や同じくゴカイ科のイトメ Tylorrhynchus heterochaetusなどを「ゴカイ」としてイメージし易いが、実際には棲管を形成し固着して動かないケヤリムシ目ケヤリムシ科 Sabellidae のケヤリムシ Sabellastarte japonica や同科のエラコ Pseudopotamilla occelata のような定在性多毛類(かつて一九六〇年代頃まで多毛綱はこの固着性の定在目と自由生活をする遊在目の二目に分類されていたが、これは従来から安易な実体観察に基づく多分に非生物学的な分類であるとする疑義があり、分類の見直しが進んだ現在はあまり用いられない)をやはり普通に「ゴカイの仲間」と呼んでいる。ここで丘先生が言っている「ごかい」は、所謂、前者の広義の「ゴカイ」=多毛類の使用例である(ゴカイ科以外でも分裂生殖を行う多毛類は多い)。

 かつて、この部分を読んだ時に私が真っ先に思い出したのは、生殖時期になると大量の生殖型個体が出現して群泳する多毛綱イソメ目イソメ上科イソメ科 Eunicidae に属する Palola siciliensis (通称・太平洋パロロ)であった。熱帯域のサンゴ礁に棲息し、サモア・フィジー・ギルバート諸島などでは毎年十月と十一月の満月から八日目或いは九日目の日の出前の一~二時間に限って海面の直下に浮上して来て、生殖のために驚くべき量の生殖個体が群泳をする。泳ぎだす部分は体の後方の三分の四程度で、泳ぎながら生殖が行われのである(この部分は今島実氏の「環形動物多毛類」(生物研究社一九九六年刊)に拠るが、「工房"もちゃむら"の何でも研究室」のドラえまん・柴田康平氏のサイト「ミミズあれこれ」の中の「(3)月とミミズ 月の満ち欠けでミミズが出現するメカニズムを考える」に引用されたものの孫引きである)。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」の「イソメ」にも、以下のように記されてある(ピリオド・コンマを句読点に代えた。「バロロビリテス」の「バ」には荒俣氏の附したママ注記代わりの傍点「・」が上に附されてある)。

   《引用開始》

 鈴木経勲〈南洋探検実記〉によれば、フィジー島では毎年1回、11月15日になると、〈バロロビリテス〉という海生の奇虫が海の表面に一群となって浮び上がる。現地人はこぞって船を駆って海に出て、この虫を捕獲する。それらを塩漬にして蓄え、祝典用の料理にするという。これはイソメ科の1種パロロ Palola siciliensis である。正確にいえば、毎年2回、早朝に体の後半部が切り離され泳ぎだしたパロロが、水中で生殖を行なうときの奇観である。ちなみに、これを食べた経勲は、淡白で塩味と磯の香りを合わせもったその味はナマコのようで、酒の肴(さかな)などにすれば絶好の珍味であろう、と報告している。なお、この切り離された部分のみをパロロとよぶこともある。

 日本でも日本パロロ(英名 Japanese palolo)の遊泳が見られるが、こちらはイトメ Tylorrhynchus heterochetus の生殖時浮上であり、イソメのなかまではなくゴカイ科 Nereidae に属する生物の活動である。

   《引用終了》

とある。因みに鈴木経勲(つねのり(けいくん) 嘉永六(一八五四)年~昭和一三(一九三八)年)は南方探検家で、「南洋探検実記」は明治二五(一八九二)年博文館刊で、国立国会図書館のデジタル化資料で閲覧出来ることが分かったので近日中にこの部分を電子化して追加したく思っている。なお、私はこのパロロについて三十年ほど前に、南洋関連書を渉猟して、十数頁に及ぶ覚書を作ったことがあるのだが、どう探しても見つからない。発見した際にはやはりここに追加したい。なお、このパロロ料理については例えば、個人ブログ「~最後の楽園 サモアの国へ~青年海外協力隊」の「サモアの珍味“パロロ”解禁!」をお読みあれ。そこには『バターで炒めるのが定番らしい。海水の塩味が効いていて意外とうまい』とある。また、このパロロ食を含め、ゴカイ食については、私は既に「博物学古記録翻刻訳注 ■9 “JAPAN DAY BY DAY” BY EDWARD S. MORSE  “CHAPTER XII YEZO, THE NORTHERN ISLAND に現われたるエラコの記載 / モース先生が小樽で大皿山盛り一杯ペロリと平らげたゴカイ(!)を同定する!」で比較的長い論考をものしている。ご興味のあられる方は是非、お読み戴きたい。

 なお、ここで丘先生の示す分裂がイメージ出来にくい向きには、私の御用達のブログ「世界仰天生物日記」の『どんどん増える!ゴカイの仲間「カキモトシリス」』の画像をお勧めする。この美しいゴカイ超科シリス科Syllidae Myrianida 属カキモトシリス Myrianida pachycera は体長一・五~三センチメートルで、本州中部以南の岩礁性海岸や転石海岸の低潮線付近に棲息し、オーストラリアにも分布。淡い紫色の体色と、太くてやや平たい感触手や触鬚を持つ。写真ように尾部に嬢個体を数多く附加して、無性的に増殖することを通常の生殖法とする(データ部分は西村三郎「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」(保育社)に拠った)。

 もう既にお分かりのことと思うが、私は実は何故かゴカイ類がすこぶる附きで好きなんである。もっと注したいところが、ここは一先ず、ストイックにここまでを以って我慢することと致そう。]

明恵上人夢記 30

30

一、同六月一日の夜、夢に云はく、在田郡に故鎌倉大將殿居られて、既に將(まさ)に出で去らむとすと云々。又、宮原の尼御前等、將に出で去らむとすと云々。又、兵衞尉之許より一通の消息を得たり。彼の中を開きて之を見るに、銅を以て之を造れる寶具也。即ち、是花嚴宗(けごんしう)目錄也。傍に湯淺の尼公有りて云はく、「本は得てむ」と。心に思はく、此の兵衞尉、花嚴經書寫の大願有り。是、尋ね得て寫したる本也。數人の中に於いて之を見ると云々。

[やぶちゃん注:後半部、披見している対象がどのようなものであるか、今一つ、私には定かでない。薄い銅版を彫琢して出来た珍しい経巻と私はとったが、大方の御批判を俟つものである。

「同六月一日」建永元(一二〇六)年六月一日。

「故鎌倉大將殿」この呼称は源頼朝とその子頼家が相当するが、ここは頼朝と考えて差し支えあるまい。底本の注でも『文覚との関係が深い頼朝か』とある。無論とっくの昔(建久一〇(一一九九)年)に亡くなっている。

「宮原の尼午前」底本注に、『明恵は紀州の宮原光重と親交があった。その妻を指すか』とあるのみで詳細不詳。「宮原」から連想すると、明恵の出生地に近い、現在の有田市宮原町があり、ここは「15」で見たように明恵の隠棲地の近くでもある。

「兵衞尉」不詳。

「湯淺の尼公」底本注に、『湯浅宗光の妻か』とある。明恵の保護者であった湯浅宗光は14で既注。彼は紀伊国保田荘(現在の和歌山県有田市)を領していた。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

30

一、同六月一日の夜、見た夢。

「私の故郷在田郡(さいたのこおり)に故鎌倉右大将頼朝殿が居られたが、今まさにそこを出立なされようとするところであった。……

……また、その夢の中では別に、宮原の尼御前らが、やはり今まさに出郷なさろうとするところも見た。……

……また、兵衛尉殿のもとより一通の消息が送られてくる。その分厚い書簡を開いて、この中を見てみると、そこにあったのは銅を以って鋳造された宝具であった。そしてそれは則ち、何と、銅で造られたところの華厳経の経典目録なのであった。私の傍には湯浅の尼君が坐っておられ、私に、

「――あの本はかくも得ることが出来ましたよ。」

と仰せられた。

 私は心の中で

『……ああ! かの兵衛尉殿は確か、華厳経全巻を書写せんとの大願を持っておられた。……そうか! これはそのために探し尋ねて得、それをかくも荘厳に写した本なのだなぁ!……』

と、とてもありがたい気持ちに包まれながら、他にも数人の人々が取り巻く中に於いて、その華厳経の銅で出来た経巻を厳かに私は披見しているのであった。……

栂尾明恵上人伝記 66

 又云はく、人の非あることを、或は聞き、或は見て、謗(ぼう)ずること、穴賢(あなかしこ)あるべからず。學道の者に三機あり。上機の人は、心に人我(にんが)の相(さう)なければ、更に心にかゝることなし。中機の人は一念浮べども、人我なき理を存ずる故、二念と相續きて思ふことなし。下機の人は、無相(むさう)の理まで辨へねども、人を傷ましめざらんことを思ふ慈悲ある故に、敢て心にも思はず、口にもいふことなきのみならず、人のいふをも切に制し宥(なだ)むる、これありがたき人なり、而るを此の三機の外に必ず墮地獄の心ある怖しき罪人あり。人の非を心に思ひ口に云つて、人の生涯を失はんことを顧みず、人の耻辱たるべき事を顯はす。是れ何の料(れう)ぞや。人の非あらば、其の人の非なるべし。然るを傍にていへばやがて我が罪と成るなり。詮なきことなり。人の恨を蒙りぬれば、又怨を結びて如何なる難にも値はせらるべし。返す返すも斟酌あるべきなり。若し世の爲、法の爲ならば、諸佛諸神世にまします、其の誠(いまし)めに任すべし。敢て我と心を發(おこ)して云ふことなかるべし。心紛々として押へ難く、口むくめきて云ひたくとも、深く閉ぢ、深く押へて、少しきも他に云ふことあるべからず。若し聞くべきならば、其の人に向ひては教訓をも成すべし。
[やぶちゃん注:「穴賢」副詞で下に禁止の表現を伴って、「決して~(するな)」「ゆめ(ゆめ)~(してはならない)」の意。
「人我」我執。執着心。]

栂尾明恵上人伝記 65

 或る人の云はく、佛法いまだ渡らざる先は、震旦・本朝に壽福共に豐かなる人、何の力に依れるにやと云々。是の問(とひ)、答へんとするに足らず。我が朝に未だ佛法なかりし時は、震旦に盛なり。震旦にいまだ無かりし時は、天竺にあり。天竺に無かりし時は西方にもあり、東方にもあり。無始より佛々出世(しゆつせ)し、無量の世界に佛・菩薩みちみちて佛法を弘通(ぐつう)せずと云ふことなし。彼の國の衆生は此の國に生れ、此の國の衆生は彼所に生ず。されば佛法の渡らざりし所なればとて、佛法を修したる人の生れざるべき理あらんや。かりそめのことまでも、佛法の恩に非ずと云ふことなし。かく厚く深く佛法の恩を蒙つて、人界に生を受け福祿に飽ける者、一々に佛法の恩といふことを知らずして、佛法に向ひて愚なる振舞を致し、庄園・田畠を惜しみ、珍財をなげず、伽藍をも興せず、法理をも明めずして、一生空しくして過すこと、大愚痴(だいぐち)、はかなくも哀にもあさましくも覺えたり。さらば諫むるに聞くべきをば直に教訓し、諫むるに聞かざるをば方便を廻らすべし。俗家は福を增長せんが爲に、好んて施を行ぜんことを勵むべし。僧侶は罪を怖畏(ふゐ)するが故に、強(しひ)て受けざらんことをなすべし。况や僧として寺領・三寶物財の爲に、祕計を廻らすことあらんや。さるに付きては彌〻在家の誹謗を受け、三寶を輕(かろ)しめて、一所轉變(てんぺん)するのみにあらず、二所三所に及びて悉く伽藍荒廢の地と成るべし。是れ俗家の咎はさることにて、皆僧の不當なるに依りてなり。見(み)及び聞(きゝ)及びもしたまふらん。高辨ほどの無德の法師なれども、物のほしき心のなき故にやらん、物たばんと申す人は、貴賤につきて多けれども、老僧が物掠(かす)め取らんとする人更になし。人の寄進するまゝに許さんには、此の山中に千僧も任しぬべし。人のたぶまゝにて取らば、此の寺内に數十の庫(くら)をも立つべし。されども、旁(かたがた)存する子細ありて、我が受用聊かの外は受くることなし。是れ末代なりといへども此(かく)の如し。其の所の寺領の相違し違亂するは、其寺の住僧の失(しつ)なるべし。我が方を顧みて恥ぢたまふべし。人を恨み人を嗔(いか)ることあるべからずと云々。
[やぶちゃん注:「震旦」中国。
「無始」原義は、万象は因縁で成り立っており、その因を幾ら遡っても果てしがなく、始めがないということ。転じて、無限に遠い過去、大昔の意。
「弘通」「ぐずう」とも読む。仏教が広く世に行われること。
「福祿」俸禄。現実世界に於いて具体に与えられるあらゆるものを指す。後文から所謂、社会的な給与である知行・扶持・切米などを指すことが分かる。
「此の寺」栂尾高山寺。]

耳嚢 巻之八 剛氣朴質の人氣性の事

 剛氣朴質の人氣性の事

 

 太田志摩守は吉田彌五左衞門弟子、一刀流を好みしが、彼(かの)譜代家來笠原伊左衞門忰(せがれ)與市といへる者は、吉田一帆齋が門弟にて飽(あく)まで出精なせしが、彌五左衞門は一帆齋兄なれども、流儀同樣の内、遣ひ方には銘々工夫ありて小異ありしが、或時志摩守與市にむかひ、爾(なんぢ)が師の一帆齋が弟子に我(わが)組のものもあれど、遣ひ方小手前(こてまへ)にて、我(われ)彌五左衞門に習ひしとは大きに違ひあり、彌五左衞門弟子の家來もあれば、爾が太刀筋をくらべ見べし、品(しな)により我も相手にならんとありけるゆゑ、彼(かの)彌五左衞門弟子と立合(たちあひ)けるに、四五人與市にかのふ者なし。さらば我(われ)立合(たちあは)んとありしを、たつて辭退なし、親も出で、忰がいらざる劍術の出(で)かし達(だて)と佗(わび)けれど、無我なる氣性の太田故、くるしからずとて立合しが、何の苦もなく志摩守負ける故、忰を師範いたすべきとありしが、是は彌五左衞門かたの風と同流なれば、學びしかるべし、御相手はいたすべきと、達(たつ)て辭退して、其通りに成(なり)しとなり。朴突の武人成(なり)しが不幸にして若死せしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:一刀流吉田一帆斎(前話注を参照)談話で直連関。清涼感のある武辺譚である。

・「太田志摩守」底本の鈴木氏注に、『資同(スケアツ)。天明六年(二十四歳)家督。三千石。御使番、御先鉄砲頭などを経て、寛政六年日光奉行、八年御小性組番頭、十年西城御書院番頭』とある。天明六年は西暦一七八六年であるから、生年は宝暦十三(一七六三)年である。「『鬼平犯科帳』Who's Who」の「太田運八郎資同」によれば、彼は太田道灌の直系で、火付盗賊改方長谷川平蔵宣以(のぶため 延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年)、所謂、鬼平の助役を務めたとある。

・「吉田彌五左衞門」清水礫洲著「ありやなしや」に『浜松水野家(遠江浜松水野越前守)の浪人吉田弥五右衛門』とある。

・「小手前」岩波の長谷川氏注に、『小ぢんまりしたさま』とある。

・「出かし達(だて)」「達(だて)」は底本のルビ。「出来(でか)し立(だ)て」で、「してやったり!」と得意そうにふるまうことを言う。

・「學びしかるべし」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は、『御学び知るべし』で意味がよく通る。そちらを採用した。

・「朴突の武人成しが不幸にして若死せしとなり」の「朴突」は底本では右に『(朴訥)』と訂正注がある。さてもこの主語は誰なのか、やや疑問ではある。単に話柄の展開から見るならば、太田志摩守の豪放磊落な個性(そのために呵々大笑させた)がかく称賛するに相応しい感じにも見えるが、根岸が志摩守クラスの者をかくも名指して称揚するというのは非礼であるし、彼は肩書を見るに若死にしている感じではない。そもそも太田は結構お喋りで『朴訥』という語はやや合わない気がする。さすればやはりここで、朴訥の武人にして残念なことに若死にした、というのは笠原与一を指すと考えずばなるまい。これは次に続く与市の話柄から見ても正しいものと私は考えている。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 剛毅朴訥の人の気性の事

 

 太田志摩守資同(すけあつ)殿は吉田弥五左衛門に師事なされ、一刀流を好まれたが、この御仁の譜代の家来の内の、笠原伊左衛門が倅(せがれ)与市と申す者は、吉田一帆斎の門弟にして、その剣術精進たるや、すこぶる附きと知られて御座った。

 大田殿が師の弥五左衛門はこの一帆斎の兄であったが、流儀同様乍ら、その太刀遣いには、それぞれに工夫が御座って微妙に違いが御座ったと申す。

 ある時、志摩守殿が与市に向かい、

「……汝が師である一帆斎の弟子が我が組内におれど、その遣い方はやや小ぢんまりと致いて見え、我らが師弥五左衛門殿に習(なろ)うたそれとは、これ、大きに違いがあるとみた。……拙者の家来の内にも弥五左衛門殿が弟子の家来もこれ、ある。……されば、汝が太刀筋と見較べてみとう思う。また、その様子によっては、我らも相手になろうぞ。」

との仰せで御座った。

 されば与市、その名指された弥五左衛門の弟子なる家士らと立ち合(お)うたところが、四、五人が向かったものの、この与市に敵(かな)う者、これ、一人も御座ない。

 すると、太田殿、

「……さらば、我ら、立ち合わんとするぞ!」

との仰せであった。

 流石のことに与市、

「……そればかりは……どうか御勘弁を!……」

とたって辞退なし、親の伊左衛門までが出でて参って、

「……倅のいらざる剣術の出来(でか)し立(だ)て……どうか、切に御許し下されい!……」

と平身低頭、詫びを入れた。

 ところが、太田殿、これ、如何にも我意なき御気性であられたによって、

「いやいや、苦しゅうない。全くの素直なる我らが望みじゃ。一つ、立ち合(お)うて呉れい。」

と、笑みを浮かべて仰せられたによって、仕方のぅ、与市は立ち合(お)うた。

――と

――与一

――何の苦もなく

――殿の刃先を跳ね飛ばし

――一瞬にして

――志摩守殿の負けと相い成った。……

 されば、志摩守殿はその場にて、

「伊左衛門! この倅、我が師範と致すぞ!」

との仰せであった。

 しかし、伊左衛門と与市は、

「……この者の太刀筋は、これ、殿の師たる弥五左衛門殿が一刀流と同流なればこそ……殿は既にして、その太刀筋の極意を学び知っておられますればこそ……そうさ、ただ、不肖の倅乍ら、稽古の御相手ほどならば、これ、勤まりましょうほどに。……」

とやはり、たって辞退をなしたによって、太田殿は、

「そうか! ハッ! ハッ! ハッ! ハッ!」

と呵々大笑なされ、その通りになされたと申す。

 

 この笠原与市と申す者――如何にも清々しき朴訥の武人――で御座ったれど、惜しいかな、不幸にして若死致いたとのことで御座った。

萩原朔太郎 短歌七首 明治三六(一九〇三)年八月

紅梅に二十年を倦みし人の如おのづからなる才ふけにけり

 

よれば戸に夢たゆげたげの香ひあり泣きたる人の宵にありきや

 

相見ざる幾年へぬる君ならむ肱細うして泣くにえたえぬ

 

いささかは我れと興ぜし花も見き今寂寞たえぬ野の道

 

はらからが小唱になりし我が戀にあたたまるべき水流れゆく

 

魂は人にむくろは我に露ながら夏野の夢のなごり碎くる

 

名なし小草はかな小草の霜ばしら春の名殘とふまむ人か

 

[やぶちゃん注:『文庫』第二十三巻第六号(明治三六(一九〇三)年八月発行)に「上毛 萩原美棹」名義で掲載された七首。第三首及び四首の「たえぬ」はママ。萩原朔太郎満十六歳。

 初出では三首目が、選者服部躬治(既注済)によって、

 

相見ざる幾年へぬる君ならむ肱細うして寄るにえたえぬ

 

と朱をいれられて載る。但し、直後に、

  原作の五句、「泣くにえたへぬ」。

という注記を附して斧正であることが示されてもある(太字「泣く」は底本では傍点「△」)。

六首目「魂は人にむくろは我に露ながら夏野の夢のなごり碎くる」の歌の後に、

  悲思哀調。

  又云。原作の三句「歸りきて」「太古さながら」とありき。

と、選者服部躬治の選評がある。この記載に基づいて別稿を復元しておく。

 

魂は人にむくろは我に歸りきて夏野の夢のなごり碎くる

 

魂は人にむくろは我に太古さながら夏野の夢のなごり碎くる

 

私は個人的は「歸りきて」が好みである。

『文庫』は明治二八(一八九五)年九月創刊の投稿文芸雑誌(明治四三(一九一〇)年八月終刊。通巻二四四冊)。明治二一(一八八八)年創刊の『少年園』から分かれた『少年文庫』が前身だが、小説・評論・詩・短歌・俳句などの新人育成の場として勢力を持つようになり、特に詩人や歌人にはこの雑誌を登龍門として後に一家をなした者の数は夥しい。『文庫派』の別称を持つ河井酔茗・伊良子清白・横瀬夜雨・塚原山百合(後の島木赤彦)らを初めとして北原白秋・窪田空穂・三木露風・川路柳虹らの大家を輩出した雑誌であった(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

キリスト教の祕密 萩原朔太郎

  キリスト教の祕密

 

「お父さんなぜお酒を飮むの?」

と、いつも晩酌の時に子供が言ふ。この女の兒は、生れつき少し痴呆で、低能兒の居る特殊學校に入園し、メソヂストのキリスト教を信仰してゐる。それで酒を飮むことが、神の教に背いた惡事だと教へられてる。子供は泣きながら私の手から盃を奪つて言ふ。

「お父さん。なぜお酒を飮むの?」

 心の中で泣きながら、私もそれに答へて言ふ。

「それはね。僕にはいろいろな惱みがあるからさ。」

「ではなぜお祈りをしないの。マリア樣にお祈りなさいね。お父さん!」

 この子供の言葉を聞く毎に、私はキリスト教といふ不思議な宗教の、眞の祕密なエスプリに觸れた思ひがする。大道の救世軍が、太鼓を叩いて禁酒運動の説教をするのを聞いて、私はいつもキリスト教といふ宗教が、いかに馬鹿馬鹿しいものかといふことを考へる。酒を飮むといふことが、何故神の道に背いた惡事なのか、いかにしても私の理性には了解できないことなのである。だがその同じ言葉が、白痴の子供の口から出る時、初めてよく了解されたやうに思ふ。

 キリスト教といふ宗教は、ヒユーマニチイの最も純潔なイデーを求めて、絶えず葛藤し續けてる宗教なのだ。それは白百合の潔白さにも、童貞の美しさにも、處女の純潔さにも譬へられる。だがもつと本願的に祕奧のものは、白痴の子供に聖靈されてるエスプリなのだ。ドストイエフスキイもそれを書いたし、辻野久憲もそれを言つたし、山岸外史もそれを見たし、ヱルレーヌやボードレエルも、抒情詩の韻律でそれを歌つた。

 キリスト教に對比して、私はいつも佛教のことを考へる。教理の深遠さから言へば、この二つの宗教は比較にならない。ショーペンハウエルが揶揄したやうに、キリスト教でもつて佛教の教理に當らうと考へるのは、卵を岩石に投げるやうなものである。新井白石が、葡萄牙人の傳道師に面接し、初めてキリスト教の概念を聞いた時、その神話の荒唐無稽さと、その教理の非論理極まる馬鹿馬鹿しさに啞然とし、これがかの大智識と大科學を所有するところの、地球第一の理性人たる西歐人の宗教とは、いかにしても考へることができないと言つて不思議がつた。佛教の教理は、すくなくとも或る本質の點に於て、今日最高の發達をした科學や哲學と矛盾なくして對抗し得る。だが今日の常識から見ても、キリスト教は素朴な子供臭いお伽話にしかすぎないのである。

 だがそれにもかかはらず、キリスト教には不思議に深遠祕密なエスプリがある。それは大乘佛教の全哲學系統を以てしても、解決のできないユニイクの不思議である。たしかにキリスト教は、宗教の本質點に於て佛教とちがつて居る。だれにも直覺的に解ることは、佛教が「苦勞人の宗教」なのに對し、キリスト教が無垢な「青年の宗教」だといふことである。人生の多くの經驗と苦勞を味ひ、煩惱地獄と業火を經た中年者に取つて、釋迦の教はこの上もない救ひを與へる。だがキリスト教は、童貞處女の純潔さを持つた無垢の靑年にのみ、眞實の信仰が會得される。そこでキリスト教の純のイデーは、結局ムイシユキン公爵や、ヱルレーヌのやうな人人、魂の蕊から無垢で、全然世俗の常識を缺いた白痴(永遠の子供)に歸するといふことになるのだらう。反對に佛教の墮落した象徴は、苦勞人の世俗的な功利性になるかも知れない。キリスト教徒の純潔さに比して、佛教の墜落した僧侶等が、著るしく卑俗的に見えるのも當然である。マルチン・ルーテルの宗教革命は、羅馬教會の僧侶たちが、功利的に世俗化し、あまりに苦勞人化したことに對する反撃だつた。そしてその時には、事實上にキリスト教が佛教化してゐたのである。日本に來たヂエスイツト派のカトリツク教は、その爲に或る時期まで、巧みに佛教としてカモフラーヂし得た。

 

[やぶちゃん注:『こをとろ』昭和一四(一九三九)年四月号に掲載された。初出形は誤植が多く、本文は筑摩書房版全集第十一巻の校訂本文に拠った。本文中には「痴呆」「低能兒」「特殊學校」「白痴の兒」等の幾つかの現在は用いるべきでない差別的言辞が用られているので、そうした意識への批判的視点を忘れずにお読み戴きたい。

「女の兒」次女明子(あきらこ)。ウィキ萩原朔太郎」に『最初の離婚にまつわる家庭内のいざこざが原因で次女に知的障害が残』ったとする。

「メソヂスト」“Methodists”はプロテスタントの一派。一七二八年にウェスリーらがオックスフォードで組織したホーリー・クラブによる信仰覚醒運動に始まる。一七九五年には正式にイギリス国教会から分立、米国を中心として全世界に広まった。明治六(一八七三)年に日本に伝来した。同派の特徴的傾向である几帳面な生活様式や禁酒禁煙は創立者ウェスリーの厳格なピューリタン的性格に基づく部分が大きい。

「辻野久憲」(明治四二(一九〇九)年~昭和一二(一九三七)年)は翻訳家・評論家。福井県舞鶴生。第三高等学校から東京帝国大学仏文科卒。『詩・現実』に参加した。昭和五(一九三〇)年から翌年にかけて伊藤整・永松定とジョイスの「ユリシーズ」を共訳した人物として知られる。第一書房『セルパン』編集長、第二次『四季』同人。受洗して二十七歳で死去した(以上はウィキ辻野久憲」に拠った)。

「ヂエスイツト派」“Jesuit”はイエズス会(Society of Jesus)のこと。一五三四年にスペインのイグナティウス=デ=ロヨラが六名の同志と結成、一五四〇年に教皇の認可を受けたカトリック男子修道会。清貧・貞潔・同志的結合を重んじて布教・教育に力を注ぎ、同会士フランシスコ・ザビエルが天文一八(一五四九)年に日本に初めてキリスト教を伝えた。耶蘇会。]

赤ん坊が わらふ  八木重吉

赤んぼが わらふ

あかんぼが わらふ

わたしだつて わらふ

あかんぼが わらふ

鬼城句集 冬之部 霙

霙     樫の木に雀の這入る霙かな

[やぶちゃん注:「霙」みぞれ。雨と雪が混ざって降る気象現象。以下、ウィキの「霙」によれば、地上の気温が摂氏零度以上であり、且つ、上空一五〇〇メートルがマイナス六度以上マイナス三度未満の時に降ってくることが多い。雨が雪に変わる時及びその逆の時によく見られる。なお、霙は気象観測の分類上は「雪」と同じ扱いとして記録される。例えば雪より先に霙が初めて降ったときは、それが「初雪」となる。但し、雨が凍ったり、雪が一部溶けて再び凍ったりするなどして生じた霰(あられ)は、「雪」と異なるものとして扱われる。従って、霰が降っている際には雨と雪が降っていても天気記録は「霰」となる。昭和五二(一九七七)年二月十七日に久米島(気象庁沖縄気象台久米島測候所)で霙を観測しており、これは沖縄県で史上唯一となる公式の雪の記録である。私がウィキが大好きなのはこういう痒いところというより、気持ちいいところを撫ぜてくれるからである。]

大槻文彦「言海」の「猫」の項 + 芥川龍之介の同項を批評したアフォリズム「猫」

ねこ(名)【猫】

[「ねこま」下略。「寐高麗」ノ義ナドニテ、韓國渡來ノモノカ。上略シテ、「こま」トモイヒシガ如シ。或云、「寐子」ノ義、「ま」ハ助語ナリト。或ハ如虎(ニヨコ)ノ音轉ナドイフハ、アラジ。]

古ク、「ネコマ」。人家ニ畜フ小サキ獸。人ノ知ル所ナリ。温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕フレバ畜フ。然レドモ、竊盜ノ性アリ。形、虎ニ似テ、二尺ニ足ラズ、性、睡リヲ好ミ、寒ヲ畏ル。毛色、白、黑、黄、駁等、種種ナリ。其睛、朝ハ圓ク、次第ニ縮ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後復タ次第ニヒロガリテ、晩ハ再ビ玉ノ如シ。陰處ニテハ常ニ圓シ。

〇ねこノ目。屢、變ジテ着落(トリトメ)ナキコト。

[やぶちゃん注:大槻文彦「言海」(明治二二(一八八九)年六合館刊)より。但し、一部の表示不能の表記や句読点・記号の一部を変更追加し、読み易くするために二箇所に改行を入れた。「蓄フ」は「かふ」、「駁」は「ぶち」、「睛」は「ひとみ」と読む。「(ニヨコ)」「(トリトメ」はともにルビ。]

   *

       猫

 これは「言海」の猫の説明である。

 「ねこ、(中略)人家二畜フ小サキ獸。人ノ知ル所ナリ。温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕フレバ畜フ。然レドモ竊盗ノ性アリ。形虎二似テ二尺ニ足ラズ。(下略)」

 成程猫は膳の上の刺身を盜んだりするのに違ひはない。が、これをしも「竊盜ノ性アリ」と云ふならば、犬は風俗壞亂の性あり、燕は家宅侵入の性あり、蛇は脅迫の性あり、蝶は浮浪の性あり、鮫は殺人の性ありと云つても差支へない道理であらう。按ずるに「言海」の著者大槻文彦先生は少くとも鳥獸魚貝に對する誹毀の性を具へた老學者である。

[やぶちゃん注:大正十二(一九二三)年十一月発行の雑誌『随筆』創刊号及び翌十三年三月発行の同誌第二巻第二号に掲載された「雜筆」より。これらは後に『百艸』に「澄江堂雜記」として所収された。僕のテクストより引用した。]

2013/12/22

耳嚢 巻之八 一刀齋知見の事

 一刀齋知見の事

 

 一刀齋右流儀の始祖にて、諸國を遍歷して修行なし其名宇内に隱れなく、公儀にても入御聽に(おききにいり)可被召出(めしいださるべき)の御沙汰なりしが、未(いまだ)近國の殘りも有、志願不遂(とげざる)故恩免(おんめん)を願ひ、弟子の内(うち)神子典膳其術我におとらじ迚吹擧(すいきよ)なし、則(すなはち)典膳名苗字とも改(あらため)、小野治郎左衞門と名乘(なのり)、御旗本に被召出(めしいだされ)し也。然るに典膳は一刀齋一二の弟子たれども、典膳より先きに一刀齋に附添(つきそひ)廻國までなせし全龜(ぜんき)といへるありしが、彼(かれ)を除(のけ)て典膳を吹擧せし由。右全龜は元淀川の船頭にて飽(あく)までの強力(ごうりき)者にて、典膳より先に門下たる者なり。其始を尋ぬるに、一刀齋長き刀をさして淀舟に乘(のり)しを彼(かの)船頭見及びて、劍術遣ひにも有(ある)べし、長刀(ちやうたう)こわくなしなど嘲り笑ひ、いかなる者にても我(わが)力量に勝るべき覺(おぼえ)なし、いで力を見せんと、乘合の好(よしみ)に任せあたりに繫(つなぐ)舟を片手に傾け、水一盃入れて又右の船を打返し水をこぼして元の如くなしけるゆゑ、一座膽(きも)を潰し一刀齋も驚歎(きやうたん)せしが、兎角勝負を望(のぞみ)れば一刀齋いわく、かかる力量、我(われ)勝(かつ)べきと覺へざれども、勝負なさば我も死までも可立合(たちあふべし)とて、右船頭倶々(ともども)船より上(あが)りければ、乘合其外往來の者も、見物事(みものごと)なり、あはや彼(かの)侍は打ちころされなんと、どよみ見物せしに、船頭は櫂(かい)を引提(ひつさげ)、一刀齋は刀を拔(ぬき)放ち立向ふと見へしが、船頭輕々と櫂をふり上(あげ)て拜み打(うち)にうちしを、引はづしてむ手(て)にて襟元を押へしに、櫂は大地にあくまで打込(うちこみ)、拔(ぬか)んとすれども拔(ぬけ)ず。襟元を一刀齋押(おさへ)つけて、汝力量勝れたりとも、我手に懸け只今切害(せつがい)なすは眼前なり、右の心底を改め我に隨(したがひ)、刀劍の術修行なさば其功少(すくな)からずと諭しければ、先非を悔(くひ)、誤り入(いり)て一刀齋の門人となり諸國を供して遍歷せしに、右の恨(うらみ)を殘せしや、生質(せいしつ)の惡心にや、一刀齋が太刀筋習ひ覺(おぼえ)けれど、或は一刀齋が寢息を伺ひ、又は一刀齋が油斷あるべき所を伺ひし事度々ありしが、大量奇術の一刀齋ゆゑ諸國武者修行に召連れ、多分は右の者にまづ仕合(しあひ)をなさしむるに力量拔群故不勝(かたず)といふ事なく、彌(いよいよ)一刀齋は手を下(くだ)さずして其名いよいよ高し。然るに前に記せし典膳を吹擧の節、全龜大きに憤り、我は師に功もあり、典膳よりは先きに門入(もんいり)して隨身(ずいじん)なせしを、舊(ふる)きを捨て新ら敷(しき)を吹擧ある事、鬱憤なりと恨(うらみ)しかば、一刀齋曰(いはく)、汝が其昔を考(かんがふ)べし、淀舟の船頭なり、典膳は初(はじめ)より刀を差す浪士なり、扨又汝は一旦伏從(ふくじゆう)なすといへども、師恩を忘れ我に刃向ふ事、知るまじと思ふべけれど、あまたゝびなり、とく可殺(ころすべき)を是迄救置(すくひおき)しは我(わが)仁慈なり、かゝる無道の者を、公(おほやけ)へ吹擧なるべきやと申(まうし)ければ、全龜も一言なく閉口せしが、我等は典膳に後(おく)れ活(いく)べき所存なし、哀れ典膳と勝負を願(ねがひ)、我(われ)勝(かち)なば我を吹擧なし給へと云。典膳是を聞(きき)て、某(それがし)非力なれば全龜に殺されんは治定(ぢじやう)なれども、殺されなば我(わが)名目を以(もつて)、全龜を吹擧なし給へと兩人願ふゆへ其意に任せしに、兩人立(たち)わかれ、全龜は己(おの)が力を以(もつて)、典膳を一刀に打殺(うちころ)さんと拜み打(うち)にうちしに、典膳は一刀齋が傳授の極祕(ごくひ)拂(ほつ)といへる太刀にて、股(もも)よりすくひ切(きり)返す太刀の早業にて、肩より兩手へかけて切りければ、全龜は一刀四段となりしとかや。今小野治郎左衞門家にて、龜割(かめわり)といへる刀は、彼全龜を切りし刀の由、一帆齋かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。……根岸先生……これ、「耳嚢 巻之一」の「小野次郎右衞門出身の事 附 伊藤一刀斎齋が事」と殆ど同じでげしょう! うまくありませんなぁ……。偽装騒ぎの昨今、千話に偽りありと叩かれますぜ!……

・「伊藤一刀齋」(生没年不詳 「伊東」とも)一刀流剣術の祖でもある。底本の鈴木棠三氏の補注によれば、彼は寛永九(一六三二)年の家光の御前試合に召されたが、既に伊藤一刀斎は九十歳を越えていたとする。以下、注も「耳嚢 巻之一」の「小野次郎右衞門出身の事 附 伊藤一刀斎齋が事」の私のそれをほぼ援用するが、追加もしてある。また、現代語訳は第一巻の私の古い訳は敢えて読み返さずに全く新たに書き下ろした。

・「入御聽に(おききにいり)」読みの「に」は本文に出ている。

・「近國の殘り」意味が通じない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、『廻国の残り』とある。そちらを採る。

・「神子典膳」「小野治郎左衞門」小野次郎右衞門こと小野忠明(永禄一二(一五六九)年又は永禄八(一五六五)年~寛永五(一六二八)年)の誤り(訳では訂した)。将軍家指南役。安房国生。仕えていた里見家から出奔して剣術修行の諸国行脚途中、伊藤一刀斎に出会い弟子入り、後にここに登場する兄弟子善鬼(本文の「全龜」)を打ち破り、一刀斎から一刀流の継承者と認められたとされる。以下、ウィキの「小野忠明」によれば、二文禄二(一五九三)年に徳川家に仕官、徳川秀忠付となり、柳生新陰流と並ぶ将軍家剣術指南役となったが、この時、それまでの神子上(みこがみ)典膳吉明という名を小野次郎右衛門に改名した。慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦いでは秀忠の上田城攻めで活躍、「上田の七本槍」と称せられたが、忠明は『生来高慢不遜であったといわれ、同僚との諍いが常に絶えず、一説では、手合わせを求められた大藩の家臣の両腕を木刀で回復不能にまで打ち砕いたと言われ、遂に秀忠の怒りを買って大坂の陣の後、閉門処分に処せられた』とある。但し、底本の鈴木氏の「耳嚢 巻之一」の「小野次郎右衞門出身の事 附 伊藤一刀斎齋が事」の方の補注では、この記事の小野次郎右衛門・伊東一刀斎・将軍の人物には齟齬があることを指摘されており、この伊東一刀斎を召し出そうとした将軍が『家光を指すのであれば、家光に仕えたのは忠明の子忠常(寛文五年没)で』あるとし、更に、本文にあるように『小野家が千石を領した事実は、子孫にいたるまで』見られないとする。おまけに『忠常は家光の御前でしばしば剣技をお目にかけたが、その剣術は父から学』んだものであって、小野忠常自身は『一刀斎の門人ではない』と記された上、『この種の武勇譚では』、話者も読者も話柄の武勇談自体の力学が肝心なのであって、『史実と矛盾する点はあっても看過され不問に付されることが多い』といった主旨の注釈を施しておられる。

・「全龜」底本の本話の注で鈴木氏は、『三村翁注、「下総国相馬郡善鬼の塚あり、土人善鬼松といふ。」善鬼とも書く。典膳と小金原で雌雄を決したとき、善鬼が甕の後に隠れたのを、典膳は甕もろとも斬り下げた、その刀を瓶割刀と名づけ、小野家の宝刀としたと記した書も多い。善鬼と書くところを見ると、大峯の善鬼、日光古峯ケ原の善鬼と関係ある山伏系の者かという説もある』と記されておられる。ウィキの「伊東一刀斎」によれば、「一刀流口傳書」及び「撃剣叢談」によれば、一刀斎が弟子の善鬼と神子上典膳に勝負させたのは、下総国小金原(現在の千葉県松戸市小金原付近。なお「雜話筆記」では濃州桔梗ガ原(乗鞍岳の北)とする)であったとする。訳ではこの決闘場所を少し加味させた。なお、同記載の方では、典膳は後に一刀斎によって徳川家康へ推薦され、文禄二(一五九三)年に徳川秀忠に二百石で仕えたとする説を載せる。とすれば、「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年であるから、この話、実に二百十五年も前のこととなる。伝説化するに十分過ぎる昔々のその昔の話ではある。

・「とよみ」「響(どよ)む」(平安中頃までは「とよむ」と清音であった)で、多くの人が大声をあげて騒ぐ。どよめく。

・「船頭輕々と櫂をふり上(あげ)て拜み打にうちしを、引はづしてむ手にて襟元を押へしに、櫂は大地にあくまで打込(うちこみ)、拔(ぬか)んとすれども拔(ぬけ)ず。襟元を一刀齋押つけて」の「む手」は「無手」で、手に何も持っていないこと、素手の意だが、この部分、私が馬鹿なのか、どうもシチュエーションが理解出来ない。諸本はここに一切注しないのであるが、私はここは錯文ではないかと疑っている。特に「襟元を押へしに」の箇所と、直後の一刀斎が「襟元を」「押つけて」という箇所の描写が妙にダブついているように思われる。ここは実は例えば、

……船頭輕々と櫂をふり上げて拜み打ちにうちしを、櫂は大地にあくまで打ち込み、拔かんとすれども拔けず。引はづしてむ手の彼(かの)者の襟元を一刀齋押へつけて……

といった文脈ではなかったろうか? この例で現代語訳した。大方の御批判を俟つ。

・「生質(せいしつ)」生まれつきの気質の謂いとしてかく読んでおいたが、「きしつ」かも知れない。

・「大量」心が広く度量が大きいこと。

・「奇術」神妙なる剣術の技。

・「拂(ほつ)」は底本のルビ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『払捨刀』(ルビなし)とある。

・「一刀四段」一刀のもとに両腕を切断する(左右の腕で「二」)と同時に腹部で胴も完全に截ち斬って(上半身と下半身で「二」)四断ということらしいが、どうすればそうなるかはちょっと想像し難い。ただ、一刀斎が修業時代に異様に長い太刀を持っていたと前にあり、典膳が彼から伝授された秘伝の太刀『払捨刀』というのがそれであるとするならば、棹のように長尺の、すこぶるしなりのよいものであって、例えば、打ち込んでくる全亀の両腕をまず切り落とし――「股」よりというのは、向かって来る全亀の右足を前に出した左下方向から「すくひ」上げて両腕を「切通す」の意で採り――、その直後に両腕を返して向かって左上から全亀の右肩から胴部にかけてを袈裟掛けに一気に『払捨』てる――といったことが可能な、恐るべき魔刀ともいうべきものででもあったのかも知れない。

・「一帆齋」ブログ「無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)」の「広島の剣術流派 3」で、「一帆斎流」を挙げ、『天明~寛政期に吉田一帆斎という浪人が広島城下で剣・槍・長刀を教え、時の藩主、浅野重晟もその業前を見たという』という「広島県史 近世2」からの引用がある。次の「剛氣朴質の人氣性の事」に「吉田一帆齋」の名が出るので彼であろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 一刀斎の鋭き知見の事

 

 一刀斎は一刀流の始祖にして、諸國を遍歴して修行をなし、その名は天下に隠れなく、御公儀におかせられても、その技量の噂がお耳に入り、召し出ださんとの御沙汰で御座ったが、

「――未だ回国の修行をもし残し、とてものことに将軍家御出仕の志願を、これ、遂ぐるに足る技(わざ)を修めては御座らねばこそ――平に御許しあれかし――」

と辞去を願い出たが、その上で、

「――弟子の内、神子典膳なる者、これ、その術、我らに劣らざればこそ、将軍家御稽古の御相手の一人とは、これ、なりましょう。――」

と推挙し申し上げた。

 そこで典膳は名・苗字ともに改め、小野次郎左衛門と名乗り、御旗本として召し出だされたと申す。

 然るに、典膳は確かに一刀斎の一、二を争う凄腕の弟子にては御座ったれど、この典膳より先に、一刀斎に附き添うて、その廻国修行までもともに致いたところの、全亀(ぜんき)と申す高弟が御座った。

 その彼をさしおいて、二番弟子の典膳を推挙致いたということで御座った。

 さて、この全亀なる者は、元は淀川の船頭の出で、比類なき強力(ごうりき)者にして、確かに典膳より遙か先に門下となった者では御座った。

 その謂われを尋ぬるに…………

 

……かつて一刀斎、廻国修行の途次、恐ろしく長き刀を挿して、淀川の渡し舟に乗ったところ、かの船頭――後の全亀――がこれを見とがめ、

「――ワレ! 剣術遣いにてもあるかいノゥ? そないに長い刀――ヘッ! 怖くも何ともないワイ!」

なんどと無体に嘲(あざけ)り笑い、

「――どないな者(もん)でもナ! 我(わい)のこの力量(リキ)に、これ、勝てようはずも、ないワイナ!……オゥ! どないヤ?! 我(わい)の力(リキ)見したろかッ?!」

と申す始末。

 一刀斎、しかと致いて黙っておると、

「……まんずヨ! 我(わい)の舟に乗り合わせた好(よし)みっちゅうもんヤデ!」

と、ますます勝手に合点致いて、近くの川端に繋いで御座った同じほどの相応に大きなる空の渡し舟を、これ、片手だけで傾けると、淀の流れに軽々と沈めて、その舟内(ふなうち)に水を一杯に入れる。

 ところが――その、凡そ数人がかりにても持ち上がろうはずもない水舟を――これ、いとも簡単に――しかも、またしても片手で――軽々とひっくり返し――水をすっかり空けて、これまた元の如くに川面に浮かべおいた。

 されば、その渡し舟に乗り合わせた一座の者どもは、これ皆々、肝を潰し、一刀斎もまた、その怪力には驚嘆致いて御座ったと申す。

 するとかの船頭はなおも、

「――ワレ! ともかくもヨゥ! 我(わい)と、勝負せえヤ!」

と望んできかぬ。

 されば、一刀斎曰く、

「――かかる力量の持主となれば――我ら、勝つとも、これ、よう思わざれど――勝負を致す上は――我らも死するまで――立ち合い申そうぞ。」

と、その船頭ともども、舟より上がったと申す。

 乗り合わせた旅客その他、往来を行く者どもまでも、

「……こりゃ、見物(みもの)やで!……」

「……あ、あかん!……あのお侍は……き、きっとあの怪力なれば……打ち殺されてしもうでぇ!……」

と、大騒ぎとなって、皆、固唾を呑んで取り巻いて御座った。

 船頭は持ち舟の大きく長い櫂(かい)を引っ提げ、一刀斎はといえば、かの長い刀を抜き放って立ち向う。

――一瞬

――時が止まったかのように

――皆々

――息を潜めた…………

――と!

――船頭が軽々と重い櫂をふり上げた!

――かと思うと!

バッツ!

と!

――拝み打ちに一刀斎の真っ向に振り下ろした!

――次の瞬間!

ドスッツ!

と!

――櫂は

――空しく大地に

――深(ふこ)う打ち込まれて御座った。

……船頭、如何に抜かんとすれども

……いっかな抜けぬ!

……仕方のぅ、船頭は櫂から手を放した。…………

……と!

……素手の船頭のその襟元を

ザッツ!

と! 一刀斎、押さえつけ!

船頭に向かって、

「――汝、力量これ勝れたりと雖も――只今――我ら手に懸け、切り殺すは最早、目前なり。……どうじゃ? 一つ、ここにて心底を改め、我らに随い、刀剣の術を修行なさば――その功は少なからずあろうとは存ずるが――如何(いかん)?!」

と諭した。

 されば船頭は、すぐさまそこで先非を悔い、謝りいって、そのまま即座に一刀斎が門人となって、諸国を供して遍歷致いたと申す。…………

 

 されど……その折りの恨みを後々までも残したものか……はたまた、生まれつきの気質が、これ、悪しき心にてもあったものか……一刀斎の太刀筋を美事、習い覚えはしたものの……時に一刀斎が寝息を伺い……またある時は一刀斎の油断致いておろう所を伺うようなことも……これ、しばしば御座ったと申す。…………

 

 しかし、大いなる力量と神技に等しき剣術の持主で御座った一刀斎ゆえに、このような邪心を隠した男なれど、諸国武者修行に親しく召し連れ歩き、多くの他流試合にては、この者をまず組ませて戦わせた。

 すると、その力量や技は、これ、恐ろしく抜きん出て御座ったゆえに、どのような折りにても、これ、勝たぬということは御座らなんだと申す。…………

 

 されば、いよいよ一刀斎は手を下さずして、全亀の働きによって、一刀流の名は、これ、またいよよ高まって御座ったと申す。…………

 

 然るに、前に記したところの典膳を、これ、御公儀へ推挙致いた砌り、これを知った全亀は大きに憤って、

「……我は師に対し、一刀流を広めたる功もあり、典膳よりは先に入門致いて随身(ずいじん)仕ったに……まさに古き舎弟を捨てて、新らしき典膳如きを推挙あるとは……これ、我ら、鬱憤義憤を感ぜずんばならず!……」

と、痛く恨みを抱いて御座った。

 するとそれを察した一刀斎は、

「――汝がその昔をよう考えてみるがよいぞ。――汝は、もと淀の舟の船頭であったが、典膳は、その初めより、刀を挿す浪人であった。――さてもまた、汝は一旦、服従なすと雖も――師弟の恩をも忘れ、我らに刃(やいば)を向け刃向わんとすること――

……さぁて、これは、汝、我らがまるで知らぬと思うておったろうが、の……

……これ、総てお見通しであったわ……

――数多たびあった、での。

早(はよ)うに――『命をとらんに若かず』――と思うたを、これまで救いおいたは、これ、我が仁慈ゆえじゃ。――かかる無道の者を公(おおやけ)へ推挙など致そうはずが、これ、あろうものか!」

と叱咤致いたれば、全亀、一言もなく閉口致いて、その場は退いて御座ったと申す。

 しかし、じきに、

「……やはり……我らは典膳に先を越されて……生きてゆく気持ちは――これ、ない。……どうか、お師匠さま! 典膳と勝負を願おう!……しかして我らが勝ったれば、我を推挙し直して下されよ!……」

と訴えて御座った。

 また、典膳もこれを聞くと、

「……某(それがし)は非力なれば、全亀に殺されんは必定なれども……殺されたならば――我らの面目のためにこそ――全亀を推挙して下されよ。」

と両人、雁首揃えて師に願い出て参ったによって、一刀斎は遂にその意に任せ、真剣勝負を致いて、勝った方には御公儀への推挙と一刀流免許相伝を約すことと相い成って御座った。…………

 

 果し合いの場所は下総国小金原――

 両人、

――すっ

――立ち別れる……。

――全亀は己(おの)が力をためにため!

――典膳を一刀両断に!

――うち押し斬って殺さんものと!

――拝み打ちに!

――その太刀を!

――振り下ろさんとした!

が!

――典膳は

――前夜、秘かに一刀斎から伝授された秘伝の『拂(ほつ)』と申す恐ろしく長い太刀を以って、全亀の股の方より!

バラリ!

と!

――掬うように両の腕を切り落す!

――して!

――返す刀の早業!

ズン!

――と!

――全亀の右肩より左胴へと斬り下ろす!

……さても

……全亀の肉は

……実に一瞬にして

……一刀四断と

……なって御座ったと……申す…………

 

……今、小野治郎左衛門家にある伝家の宝刀「亀割(かめわり)」と称する刀は、その折り、かの全亀を切り裂いた刀であると、吉田一帆斎殿が、直かに私に語って下さった話で御座った。

北條九代記 院宣 付 推松使節 竝 二位禪尼評定 承久の乱【十一】――三浦義村、院方の弟胤義の同盟を慫慂する私信を拒絶し、北条義時に報告、義時、院宣使推松を探索の上、捕縛す

平九郎判官胤義が、私(わたくし)の使を相副へて、同五月十五日都を出でて、同じき十九日鎌倉に著きて、駿河守にかくと告げたりければ、文を披見して、使をば追出し、駿河守義村は、權〔の〕大夫義時の許へ行きて、胤義が文を見せまみらせ、「世の中こそ亂れて候へ。去ぬる十五日、伊賀判官光季は打たれて候。義村に於いては、故右大將家平氏御追罸(つゐばつ)よりこの方度々の軍に忠義を致し、一度も不忠を存ぜす候。今より後も疎略を存すべからず」とて、誓言(せいごん)を以て、申し入れたり。義時打笑ひて、「さては心安く候、今まで此事の出來候はぬこそ不思議なれ。是は豫(かね)てより存知したることなり、今は院宣の御使推松も、鎌倉に入りぬらん」とて、尋ね搜されしに、笠井谷(かさいがやつ)より捕へて來りぬ。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【十一】――三浦義村、院方の弟胤義の同盟を慫慂する私信を拒絶し、北条義時に報告、義時、院宣使推松を探索の上、捕縛す〉

「平九郎判官胤義が、私の使を相副へて」推松とは別にもう一人、プライベートな使者を兄三浦義村に立てたのである。胤義は先に見たように、秀康との謀叛謀議の初めから、「一天の君の思召立せ給はんに、何條叶はぬやうの候はん。日本國重代の侍共勅を承らんには誰か背き奉るべきや。」というとんでもなくお目出度い楽観論を述べた直後に、「拙者の兄にて御座る三浦駿河守義村などと申す輩は、これ、極めつけの愚昧の者にて御座る。こいつを味方に招じ入れて、『そなたを日本国の総追捕使にしておじゃる』などと仰せられて、鼻薬を嗅がせてやったれば、喜んで御味方に推参仕ること、これ必定で御座る。胤義も内密に奴(きゃつ)申し遣しておきましょうぞ。さあさ! 早う謀議の秘計をお廻らしなさいませ!」などと言っていた。これが具体なそれである。ただ、恐らくは謀議の間にもそれとなく義村への暗示的な慫慂は波状的にかけていたものと私は推理する。三浦義村という男は実朝暗殺後に於ける乳母子公暁誅殺伺などの一件を見ても分かるように、一筋縄ではいかないポーカー・フェイスの策士でもあった。逆にそれに気づかなかった胤義こそがいい面の皮、「極て嗚呼の者」だったのである。

「笠井谷」後に東勝寺が建立された葛西ヶ谷の誤り(後に載せる「吾妻鏡」巻二十五の承久三年(一二二一)年五月十九日の条にかくある)。「鎌倉攬勝考卷之一」に、
葛西ケ谷 大倉辻寶戒寺のうしろにて、此寺の境内となれり。傳へいふ、治承以來、葛西三郎淸重に給ひし地ゆへ葛西ケ谷とは號せりとぞ。
とある。「葛西三郎淸重」(応保元(一一六一)年?~暦仁元(一二三八)年?)は頼朝挙兵直後から付き従った武将で、幕府初期の重臣の一人。文治五(一一八九)年の奥州藤原氏討伐では父清元とともに抜け駆けの先陣を果たして奮戦、讃えられた。頼朝没後は北条氏に近い立場をとって信頼を勝ち取り、建暦三(一二一三)年の和田合戦でも武功を挙げている。この頃は出家して壹岐守入道定蓮と名乗っていた。前に引用した古活字本「承久記」では院宣を下したとする七名の最後に名が挙がっているから、この捕縛場所は自然である。そもそも慈光寺本では『壱岐ノ入道ノ宿所ヨリ、押松尋出(たづねいだ)シテ』とある。

 以下、「承久記」(底本の編者番号27のパート半ばから28)を示す。直接話法部分を改行した。

 

 平九郎判官、私ノ使ヲ相添テ、承久三年五月十五日ノ酉刻ニ都ヲ出テ、劣ラジ負ジト下ケル程ニ、同十九日ノ午刻ニ、鎌倉近ウ片瀨ト云所ニ走付タリ。

 平九郎判官ノ使ハ案内者ニテ、先ニ鎌倉へ走入テ駿河守ニ文ヲ付タレバ、披見シテ、

「返事申ベケレドモ、道ノ程モハヾカラ敷間、態ト申サヌナリ」

トテ追出シヌ。

 駿河守、此文ヲカイ卷テ、權大夫ノ許へ持向へ、

「已ニ世中コソ亂テ候へ。去十五日光季被ㇾ打ヌ。胤義ガ私ノ文、御覽候へ」

トテ、權大夫義時、折節、諸人對面ノ前ニ引ヒロゲテ差置タリ。

權大夫、

「サテハ御邊ノ手ニコソ懸リ進ラセ候ハンズラメ」。

三浦駿河守打退テ、

「是コソ、エ存候へドモ、平家追討ヨリ以來、度々ノ戰ニ忠節ヲ致シ、一度モ不忠ノ儀候ハズ。自今以後モ又疎略ヲ不ㇾ可ㇾ存。若僞申事候ハヾ、遠クハ熊野ノ山嶽、近クハ伊豆・筥根、別シテハ若宮三所・足柄・松童、殊更奉ㇾ賴三浦十二天・栗濱・森山、惣ジテハ日本國中ノ大小ノ神祀・冥道、チケンシ給へ。御後ロメタナキ事不ㇾ候」トゾ申ケル。

 權大夫打笑テ、「サテハ心安候。今迄、此事ノ出來候ハヌコソ、不思議ニ候へ。是ハ兼テヨリ存タル事也。今ハ推松モ鎌倉へ入ンズラン。尋ヨ」トテ被ㇾ尋ケリ。推松、人ノ氣色替リ、何トナク騷ギケレバ、アル者ノ許ニ隱ㇾ居クリケルヲ、一々ニ鎌倉中ヲサガシケレバ、笠井ノ谷ヨリ尋出シ、引ハリ先ニ立テゾ參ケル。院宣共奪取ガ如シテ、大ガヒバカリヨマセテ後ニ燒捨ラレヌ。

 

●「返事申ベケレドモ、道ノ程モハヾカラ敷間、態ト申サヌナリ」は、

「胤義儀へ返答を致すべきところではあるが、京への道中、誰何(すいか)検問なども憚らるるにつき、わざと返事は致さぬぞ。」

という謂い。慈光寺本は、

「關々(せきぜき)ノキビシキケレバ、返事ハセヌゾ。平九郎ニハ、サ聞(きき)ツト許(ばかり)云ヘヨ。」トテ、弟ノ使ヲ上(のぼせ)ラル。

と、義村の狡猾な深謀遠慮がその玉虫色の発言により感じられて分かり易い。「上(のぼ)ラル」は京へ返させた、の意。

●「松童」は「まつだう(まつどう)」と読む。八幡に付随する社。新編鎌倉一」の鶴岡八幡宮の「松童・天神・源太夫(げんたいふ)・夷(エビス)三郎の社」の項に、

 天照大神の西にあり。四神同社也。松童(マツドウ)は、【八幡宮記】に、八幡の牛飼(ウシカヒ)也とあり。

と記す。

●「三浦十二天」鎌倉市十二所にある十二所神社の平安期からの古称。明治初期の頃まで三浦十二天又は十二天明神と呼ばれた。祭祀年代については不明であるが、現在の大楠小学校門前に城山と言われている台地があり、そこに義村の祖父義明の弟三郎為清の鎮守として祭られたとも言われており、三浦氏所縁の社であったことが窺われる。

●「栗濱」栗浜大明神、現在の久里浜市にある住吉神社のことかと思われる。同社の由緒によれば、三浦一族の水軍の船霊として信仰された社で、治承四(一一八〇)年に義村の父義澄が衣笠城落城の前夜に一族郎党を引き連れてここに祈願し、山頂の松に幟を立てて(「旗掛けの松」と呼ぶ)、頼朝と共に房州に渡った(祖父は独り城を守って討死した)。因縁の社であったことから、三浦氏だけでなく源氏や北条氏の尊崇も厚かった。

●「森山」三浦郡葉山町一色にある森山神社のことと思われる。「新編鎌倉志卷七」の「佐賀岡」の項に、

〇佐賀岡〔附世計の明神〕 佐賀〔或作下(或は下(さが)に作る)。〕は、心無村(しんなしむら)の南なり。是より三崎へ行く也。【東鑑】に、治承五年六月、賴朝、三浦に渡御給ふ。上總の介廣常、佐賀岡の濵に參會すとあるは此の濵也。此の所に佐賀岡の明神と云あり。守山大明神と號す。逗子村延命院の末寺、玉藏院の持分なり。里俗、世計(よばかり)の明神と云ふ。毎年霜月十五日、酒を作り置き、翌年正月十五日に、明神へ供す。酒の善惡に依て、戌の豐凶を計り知る。故に世計の明神と云ふ。昔し此の神、海上に出現す。其座石とて社前にあり。良辨僧正の勸請と云ふ。社領三石の御朱印あり。

とある。以下、私の附した注を引用しておく。『森山神社として葉山に現存する。正式名称は森山社といい、社伝による祭神は奇稲田姫命、創建は天平勝宝(七四九) 年に東大寺開山の華厳僧良弁(ろうべん 持統天皇三(六八九)年~宝亀四(七七四)年)によって勧請されたとする(彼は鎌倉生ともされる)。往古は「守山大明神」「佐賀岡明神」と呼ばれ、現在の三ヶ岡大峰山(森山神社の西北に位置する山)にあった。察するに、これを「佐賀岡」と古称したらしい。すると先の「心無」に記述する「心無山」とは同地異称か、若しくは「三ヶ岡」という呼称から推測すると、この三ヶ岡大峰山は三つのピークがあり、その最も海岸寄りにあったものを心無山と呼んだのかも知れない。以下、参照した「森山神社例大祭 葉山町一色の森山社(通称・森山神社)例大祭実行委員会の広報」のブログに依れば、この森山社に合祀されている(南方熊楠が憤然と反対した悪名高い明治末の一村一社合祀令によるもの)吾妻社について、祭神は東征伝説所縁の日本武尊、その祠の右側には井戸があり、『日本武尊が東征の途次、こんこんと霊水が湧き出たる、この地で休憩され、走水から上総国へ向かわれたと伝えられて』おり、現在の森山神社の「世計り神事」では『この霊水を汲み上げて持ち帰った水に、麦麹を入れて神殿内に一年間納め、翌年これを検して吉凶を占』うとある。本記載の神事は今も健在であることが分かる』。位置的にもやはり三浦氏所縁の社である。

●「チケン」知見・智見。仏語で事物に対する正しい認識、知識によって得た見解を指す。正智見。

●「引ハリ先ニ立テゾ參ケル」縄で縛って強引に先に追い立てて連行したことを言う。慈光寺本では修飾が入って、『押松尋出(たづねいだ)シテ、天ニモ付(つけ)ズ地ニモ付ズ、琰魔王(えんまわう)の使ノ如(ごとく)シテ參リタリ』

――押松(=推松)を捜し出して、殆んど地面に足をつけさせず、宙天に吊るさんばかりにして、恰も閻魔王の獄卒である牛頭馬頭(ごずめず)が亡者を引っ立てるようにして連行した――

と、まさに情景が目に浮かぶように描かれてある。

●「院宣共奪取ガ如シテ、大ガヒバカリヨマセテ後ニ燒捨ラレヌ」この部分は「北條九代記」では次のパートの頭に移されているのであるが、「承久記」及び「北條九代記」の叙述にはやや問題があるように思われる。その考察は次のパートの注で施すこととする。ともかくも何と、推松を捕縛した直後に義時は、

――七通の院宣総てとその他の所持品を総て毟りとるように推松から奪い、院宣の内容について係りの者にその梗概を読み上げさせた後に、総て焼き捨て遊ばされてしまった。――

と述べていることをご記憶頂きたい。]

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 五 分裂 イトミミズは「ムカデ人間」だった!

     五 分裂

 

 普通の「みみず」でも身體を二つに切つた位ではなかなか死なぬが、溝のなかに澤山居る「いとみみず」などは、一疋を二つに切ると兩半とも長く生活し、頭のない方には新しい頭が生じ、頭のない方には新しい尾が生じて、二疋の完全な蟲になる。さればかやうな動物は切られたために却つて蕃殖することになるが、實際「絲みみず」の類には分裂によって個體の數を增すことを普通の生殖法として居るものが幾らもある。「ものあら貝」に吸ひ著いて居る小さな「いとみみず」の類を取って廓大して見ると、必ず身體の中央に縊れがあつて、後半の前端の處に既に頭が出來掛つて居るものが多い。即ちこの蟲では體が切れて二片となる前に、既に前半には尾端が出來、後半には頭部が生じ、そのまゝなほ繫がつて居るのである。普通の「いとみみず」は切られてから各片がその足らぬ處を補ふために新しい尾、または頭を生ずるが、この類では切れることを豫期して、切れても少しも差支の起らぬやうに豫め準備して待つて居る。將に切離れんとする程度のものでは、後半には既に立派な頭が出來上がって咽頭、神經なども殆ど完全になつて居るから、恰も二疋の蟲を捕へ來つて、一方の尻に一方の頭を繫ぎ合はせた如くで、前の者が食つた餌は、その者の肛門から後の者の口へ移り、引き續いて後端の肛門を過ぎて體外へ出ていく。

[やぶちゃん注:OH! 見たくもない映画ムカデ人間(原題“The Human Centipede First Sequence))”そのものじゃがね!

「いとみみず」淡水産水棲ミミズの一種である環形動物門貧毛綱イトミミズ目ミズミミズ科(後述参照)イトミミズ亜科イトミミズ Tubifex hattai 及びその仲間。日本全国に分布し、下水溝などの泥の中に群生している。泥の表面が桃色になるため、「モモホオズキ」と呼ばれるほか、「ボッタ」「イトメ」などという異名を持つ。体は糸状で長さ五~一〇ミリメートル、体節数八五~一〇〇。成熟した個体には第十一及び十二体節に環帯が現れる。背側に長い毛状剛毛を持つ点がこの種の大きな特徴で、他の近似種には毛状剛毛がない。雄性孔は第十一体節の腹面に一対ある。体に刺激を与えると螺旋形に巻く性質がある(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠ったが、ネット上のデータによっては学名を Tubifex tubifex とする資料も多い)。なお、イトミミズと同じ原始的なミミズ類の中には細かく切った断片のそれぞれが再生するものが他にもおり、例えば淡水産の貧毛綱原始生殖門目アブラミミズ科 Aeolosomatidae 類(剛毛束を持つものの、半透明で大きくても数ミリメートルで実際にはミミズには見えない)やミズミミズ科ミズミミズ(イトミミズ科 Tubificidae とミズミミズ科 Naididae は長く独立した科として扱われてきたが、近年、同じ科の一部であることが明らかになったため統合され、科の名称は国際動物命名規約の規定によって先取権のあるミズミミズ科 Naididae となっている)などでは横分裂によって前後二個体の分裂が普通に行われる。これらの類では丘先生が述べているように、増えた二個体が繋がって活動する連鎖体が見られることもある。また、陸上に棲む一センチメートル程度の小さいがミミズらしく見えるイトミミズ目ヒメミミズ亜目ヒメミミズ科ヤマトヒメミミズ Enchytraeus japonensis は、十片ほどに切断しても総ての断片が完全なミミズに再生し、実際に自然状態でも横分裂をしてそれそれが再生することで増殖している。但し、一部参考にしたウィキの「ミミズ」よれば、これら『より高等なミミズ類では無性生殖は行われない。大形のミミズを捕まえると、よく体がちぎれることがあるが、これはいわゆる自切である。この場合、前半身から後半身が再生するが、後半身からは再生が行われない』とある。……それにしても暗渠だらけで溝が隠されてしまった昨今、何だか昔のイトミミズの溝風景が懐かしいのは、私だけだろうか?……]

明恵上人夢記 29

29

一、同卅日の夜、夢に云はく、一人の女房有り。鉢に白粥を盛り、白芥子(びやくけし)を和合して、箸を以て之を挾み取り、成辨をして之を含み之を食はしむと云々。其の以前に、幽野(いうや)に詣でし一事、在田の諸人、成辨を待つと云々。

[やぶちゃん注:「同卅日」建永元(一二〇六)年五月三十日。同年同月は確かに大の月であることを確認した。

「白芥子」双子葉植物綱フウチョウソウ目アブラナ科シロガラシ Sinapis alba の成熟種子を乾燥したもので漢方の生薬としては「ハクガイシ」と呼ぶ。漢方では他のカラシ種子と同様に健胃・去痰・鎮咳の漢方薬として用いられる。

「幽野」底本の注に『「熊野」の意か』とある。「熊」の音は「ユウ」で近似はする。訳は取り敢えず熊野で採った。

「在田」在田郡。前注参照。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

29

一、同三十日の夜、見た夢。

「一人の女房がいる。鉢に白粥(しろがゆ)を盛り、それに白芥子(びゃくけし)を和合して、箸を以ってその小さな白芥子を器用に一粒ずつ挟み取っては、これを口に含んでは私にその粥に漬かった暖かな小さな白芥子を口移しに食べさせるのであった。……その夢の前に、私が熊野に詣でるという別な夢があったが、その夢では故郷在田郡(ざいたごおり)の人々が、熊野で私を今か今かと待ち構えておらるるという夢であった。……

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 33 道路工事点描1

M285


図―285

 日曜日の午後にはチャプリン教授と二人で、いろいろな町を何マイルも歩いたが、その間に、しよっ中、何かしら新しい物に出喰わした。ある場所では一人の男が、螇蚚(ばった)を食料品として売っていた。螇蚚は煮たか焙ったかしてあった。私は一匹喰って見たが、乾燥した小海老みたいな味がして、非常に美味いと思った。螇蚚は我国にいる普通の螇蚚と全く同一に見えた。我国でだって、喰えぬという理由は更に無い。ある場所では土方が道路を修繕していたが、塵や石を運搬するのに、面白いものを使用していた。大きな、粗末な、四角い形をした筵の四隅から環状の鉉(つる)が出ているのを地面におき、これに図285の如くショベルで塵挨をすくい込み、いい加減たまると環に棒をさし込み、筵をハンモックのようにぶら下げて、二人の男が棒を肩でかついで行く。手押車という物は日本には無いが、この装置がいい代用品になっている。私は労働者達が道路に土盛りしたり、一定の勾配にしたりする時、砂利を量る計器を使うことに気がついた。これは大きな板を釘で打ちつけた箱で、労働者達は上述したようにして持って来た鬆土(あらつち)を、この箱の中にぶちまけ、前もって契約した道路材料をはかり、そして代価を訴求する。
[やぶちゃん注:「チャプリン教授」土木工学教授ウィンフィールド・チャップリン。既注。道路工事を飽かず眺めるにはうってつけのパートナーである。
「螇蚚」原文“grasshoppers”。この英語は広くバッタ類やキリギリスを指すが、ここは無論、直翅(バッタ)目バッタ亜目イナゴ科 Catantopidae に属するイナゴ類(イナゴ亜科 Oxyinae・ツチイナゴ亜科 Cyrtacanthacridinae・フキバッタ亜科 Melanoplinae に別れ、日本では六種が確認されている)である。英語では“rice grasshopper”とも言う。
「大きな、粗末な、四角い形をした筵の四隅から環状の鉉(つる)が出ているの」畚(もっこ)である。
「大きな板を釘で打ちつけた箱」混合用の舟(フネ)に移す前に用いる計量用の枡(マス)かと思われるが、何という呼称なのか、不勉強にして知らない。識者の御教授を乞う。
「鬆土(あらつち)」軽鬆土(けいしょうど)。さらさらした火山灰の土。「鬆」という字は元は髪の乱れているさまで、荒い・緩い・締まりがないという意。なお、「鬆」の国訓に与えられている「す」の意は「豆腐にすが入った」の「す」で、均質であるべきものの中に生じた空間を指す。]

ペトロ三度の否認

The Denial of St Peter, a 17th century oil painting by Gerard van Honthorst
Gerard_van_honthorst__the_denial_of

J.S. Bach: Peter's Denial from St John Passion

Bach St. Matthew Passion, BWV244 ''Petrus aber saß draußen im Palast''



「マルコによる福音書」(14章 26~31)

 彼等は賛美を歌った後、オリーヴ山へ出かけて行った。

 その時、イエスは弟子たちに言われた。
「あなたがたは皆、私に躓くであろう。『私は羊飼いを打つ。すると、羊は散りじりにされる』と書かれているからである。
 しかし、私は蘇って後(のち)、あなたがたより先にガリラヤに行くであろう。」
と。
 すると、ペテロはイエスに言った。
「たとい、皆の者が躓いても、私は躓きません。」
 すると、イエスは言われた。
「あなたによく言っておく。今日今夜、鶏が二度鳴く前に、その言ったあなたが三度私を知らないと言うであろう。」
と。
 ペテロは力をこめて繰り返し言った。
「たとい、あなたと一緒に死なねばならないとしても、あなたを知らないなどと、決して言わない!」
と。
 皆の者も同じようなことを言った。

「マルコによる福音書」(14章 66~72)

 ペテロは下で中庭にいたが、大祭司の召使の下女の一人がやって来、
 ペテロが火にあたっているのを見ると、彼を凝っと見つめて言った。
「あなたもあのナザレ人(びと)イエスと一緒だった。」
 しかしペテロはそれを打ち消し、
「私は知らない。お前の言うことが、何のことなのか、私には分からない。」
と言って、外庭の方へ出て行ってしまった。
 すると鶏が鳴いた。
 すると、その外庭でもさっきの下女が彼を見て、傍(そば)に立っていた人々に、またしても、
「この人はあの人たちの仲間の一人です。」
と言いだした。
 しかし、ペテロは再びそれを打ち消した。暫くすると今度は、さっきの傍にいた人々がまた、ペテロに言った。
「お前は確かに彼らの仲間だ。お前も同じガリラヤ訛りじゃないか。」
 しかし、ペテロは、
「嘘だというのなら、呪われてもよい!」
と誓って、
「あなたがたの話しているそんな男のことは、私は知らない!」
と言った。
 するとすぐ、鶏が二度目に鳴いた。ペテロは『鶏が二度鳴く前に、三度私を知らないと言うであろう』と言われたイエスの言葉を思い出し、心うち潰れ、泣き続けた。

[やぶちゃん注:以上の「マルコによる福音書」のそれはそのへんにあるものを安易にコピー・ペーストしたものではない。複数の違った版の訳文及び英訳聖書を勘案して、私の納得出来る日本語として記したものであるので、同じものは二つとはないと申し添えておく。

猿楽の由来(戸井田道三)

柳田国男先生の「山島民譚集」によれば猿は水神であり、馬の守護神であったとの事である。猿舞わしは厩舎をまわって祈禱するのが仕事であった。わたしは猿楽という名称は散楽の単なる音韻転化ではなく、猿に扮しておこなう何かの先行芸能があって、それに散楽がひきよせられたのだ思っているが、そういう猿楽の狂言であったからこそ二次的変化をとげて別派をなしていた猿舞わしの芸を舞台に再現する「靱猿」のできたものであろうと考えている。(戸井田道三「狂言面の用法から」(岩崎美術社1988年刊「叢書 フォークロアの視点 5 仮面」)より)

感傷の塔 萩原朔太郎

 感傷の塔

塔は額にきづかる、
螢をもつて窓をあかるくし、
塔はするどく靑らみ空に立つ、
ああ我が塔をきづくの額は血みどろ、
肉やぶれいたみふんすゐすれども、
なやましき感傷の塔は光に向ひて伸長す、
いやさらに伸長し、
その愁も靑空にとがりたり。

あまりに哀しく、
きのふきみのくちびる吸ひてきづゝけ、
かへれば琥珀の石もて魚をかこひ、
かの風景をして水盤に泳がしむるの日、
遠望の魚鳥ゆゑなきに消え、
塔をきづくの額は研がれて、
はや秋は晶玉の死を窓にかけたり。

[やぶちゃん注:『詩歌』第四巻第十号・大正三(一九一四)年十月号に掲載された。詩集への再録はない。「きづゝけ」はママ。]

萩原朔太郎 『明星』掲載短歌三首 明治三六(一九〇三)年七月

たづたづし暗きにおつる身の果をなぐさめ得なば足らむ我幸(わがさち)

かたじけなさぐるに君の御手を得てさながら落つる闇を厭はぬ

信(しん)にはなれひとりさびしきうつろの身くむ手よなよな何を得つるや

[やぶちゃん注:『明星』卯年第七号・明治三六(一九〇三)年七月号の「夏ばな」欄に「萩原朔(前橋)」の名義と在地で掲載された。初出では二首目の下句が、
 さながら落つる闇を厭 ぬ
と脱字。底本(筑摩版全集第三巻)の改訂本文の形で示した。
一首目の「たづたづし」とは「たどたどし」の古形で、はっきりせず不安である、おぼつかず心細い、の意。
萩原朔太郎満十六歳。]

空を 指(さ)す 梢(こずゑ)  八木重吉

  


そらを 指す

木は かなし

  
 


  

そが ほそき

こずゑの 傷(いた)さ

鬼城句集 冬之部 冬の月

冬の月   猫のゐて兩眼炬の如し冬の月

 

[やぶちゃん注:「兩眼炬の如し」は「りやうめこのごとし(りょうめこのごとし)」と読ませるか。「炬」は又は「きよ(きょ)」か。「炬」は篝火(かがりび)、松明(たいまつ)のこと。]

 

      鷄市や鷄くゝられて冬の月

 

      冬の月深うさしこむ山社

2013/12/21

北條九代記 院宣 付 推松使節 竝 二位禪尼評定 承久の乱【一〇】――義時追討の院宣発せらる

      ○院宣  推松使節  二位禪尼評定

一院は御感斜(なゝめ)ならず、關東は早(はや)御手に入りたるやうに思召し、なほも人數を召し給ふに、山々寺々の僧侶、法師原(ばら)、國々所々の武士、住人等召に應じて馳參る。熊野より田邊法印。十萬法橋(ほつけう)、萬劫(まんごふ)禪師。山法師(やまぼふし)には播磨豎者(はりまのりつしや)、小鷹智性房(こたかのちせいばう)、丹後、淸水(きよみづ)法師には、鏡月房、歸性房(きしやばう)奈良法師には士護覺心(しごのかくしん)。堂衆に圓音房(ゑんおんばう)、是等を初として、事を好む隈惡僧等少々應じて參集(まゐりあつま)る。按察(あぜちの)前中繕言光親(みつちかの)卿承りて、東國の院宣七通を書かれたり。鎌倉の右京權大夫北條平義時朝敵たり、早く追討せらるべし。勸賞(けんじやう)請ふに依るべきの由、武田、小笠原、千葉、小山、宇都宮、三浦、葛西にぞ下されけり。御使は推松(なれまつ)とて、無雙(ぶさう)の逸足(いちあし)なり。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【一〇】――義時追討の院宣発せらる〉以下に示す、基にした「承久記」の記載の方がす遙かに面白い。この段もパートごとに分離させる。

「豎者」竪義(りゅうぎ)者のこと。立義者・立者などとも言う。「リュウ」は慣用音で「立てる」の意味。「義を立てる」「理由を主張する」ということを指す。諸大寺の法会に当たって行われた学僧試業の法に於いて、探題(論題提出担当の僧)より出された問題について、自己の考えを教理を踏まえて主張する僧で、一山の修行僧の中でも最も選れた学僧が選ばれる。

「小鷹智性房(こたかのちせいばう)」房増淵氏の現代語訳によれば、ここは「小鷹坊の智性房」で「小鷹」は僧坊名とする。

「丹後」房増淵氏の現代語訳によれば、ここは「丹後房」とあり、これは智性房と同じ小鷹坊から参戦した僧の名の並列ととっておられる。

「堂衆」房増淵氏の現代語訳割注に、『延暦寺の三塔に結番(けちばん)して香花をつかさどる役僧』とある。比叡山は山内が三つに区分され、東を東塔(とうどう)、西を西塔(さいとう)、北を横川(よかわ)と呼び、これらを合わせて三塔と言う。三塔それぞれに本堂がある。「結番」とは順番を定めて交代で出仕して宿直(とのい)や香華・閼伽などの供養に勤務することを指す。

「按察前中繕言光親」公卿葉室光親(はむろみつちか 安元二(一一七六)年~承久三(一二二一)年)。藤原光親ともいう。権中納言藤原光雅の次男。官位は正二位権中納言。以下、ウィキの「葉室光親」によれば、寿永二(一一八三)年に六位蔵人となりまもなく叙爵され、後に豊前守・兵部権大輔・右少弁・蔵人頭・右大弁などを経、承元二(一二〇八)年従三位参議に叙任されて公卿に列した。その後正三位権中納言したが、建保四(一二一六年)年六月に辞任(この間にも同職を一回辞任・復任している)、翌建保五(一二一七)年には正二位に昇叙されている。一方で後鳥羽院の側近として実務に通じ、順徳天皇執事や近衛家実・藤原麗子家司なども務めた。承久の乱ではここにある通り、院宣の筆を執って上皇方の中心人物として活動しているかのように見えるが、その実、上皇の倒幕計画の無謀さを憂いて幾度も諫言していたが後鳥羽上皇に聞き入れられることはなかった、とある。『光親は清廉で純潔な心の持ち主で、同じく捕らえられた同僚の坊門忠信の助命が叶ったと知った時、心から喜んだといわれるほど清廉で心の美しい人物だったという』(坊門忠信は妹の実朝室信子嘆願で死罪を免れた)。『戦後、君側の奸として捕らえられ、甲斐の加古坂(山梨県南都留郡)処刑され』たが、『北条泰時はその死後に光親が上皇を諌めるために執筆した諫状を目にし、光親を処刑した事を酷く悔やんだという』とあり、『光親は封建道徳における忠臣であった』と結んでいる。以下に慈光寺本にある彼の書いた院宣白文と書き下し文を示す(岩波新古典文学大系を参考に正字化して示した)。

 

〇白文

被院宣稱、故右大臣薨去後、家人等偏可仰聖斷之由令申、仍義時朝臣可爲奉行仁歟之由、思食之處、三代將軍之遺跡、稱無人于管領、種々有申旨之間、依被優勳功之職、非迭攝政子息畢、然而幼齡未識之間、彼朝臣稟性於野心、借權於朝威、論之政道豈可然乎、仍自今以後、停止義時朝臣奉行、倂可決叡襟。若不拘御定、猶有反逆之企者、早可殞其命、於殊功之輩者、可被加褒美也、宜令存此旨者、院宣如此、悉之、以狀。

 承久三年五月十五日   按察使光親

〇やぶちゃんの書き下し文

院宣を被(かうぶ)るに稱(い)へらく、故右大臣薨去の後(のち)、家人等偏(ひと)へに聖斷を仰(あふ)ぐべきの由、申せしむ。仍つて義時朝臣、奉行の仁たるべきかの由、思し食(め)すの處に、三代將軍の遺跡を管領(くわんりやう)するに人なしと稱(しよう)して、種々申す旨有るの間(あひだ)、勳功の職を優(いう)ぜらるるに依りて、攝政の子息に迭(か)へられ畢(をは)んぬ。然而(しかれども)、幼齡にして未識の間、彼の朝臣、性を野心に稟(う)け、權を朝威に借(か)れり。之を論ずるに、政道、豈に然るべけんや。仍つて自今以後、義時朝臣の奉行を停止(ちやうじ)し、倂(しかしなが)ら、叡襟(えいきん)に決すべし。若し、此の御定(ごぢやう)に拘らずして、猶ほ反逆の企てある者は、早く其の命を殞(おと)すべく、殊功の輩に於いては、褒美を加へらるべきなり。宜しくこの旨を存ぜしむべしてへれば、院宣、此(か)くのごとし。之を悉(ことごと)くせよ。以て狀す。

 承久三年五月十五日   按察使光親 奉る)

 

「推松」「承久記」古活字本は同じく「推松」であるが、同慈光寺本では、

 院御下部押松(ゐんのおんしもべおしまつ)ニゾ下給(くだされたまふ)。

とあり、また、後掲する「吾妻鏡」承久三年五月十九日の条には『稱押松丸〔秀康所從云々〕』(押松丸と稱す〔秀康が所從と云々。〕。)とあって、そこでは藤原秀康家来としている。「推」には「なれ」に相当する訓や読みはなく、「押」には「狎」(なれる)に通ずる意味があることから、「押松」が正しいものと思われる。名の意味は諸本に注しないが、「松」が通称で、「狎」(なれ)というネガティヴな意味合いを冠するところからみると、主人子飼い(「狎」には飼い馴らすの意味がある)の脚力自慢の被差別民出身の者ででもあったのかも知れない。なお、慈光寺本によれば、彼は京―鎌倉間ほぼ二十日かかる道のりを、十六日暁に出発、十九日午後四時前後には到着しており、実に三日と半日余りで走破している。但し、通常二十日かかるというのはおかしい。「十六夜日記」の阿仏尼でさえ女性の足でも十三日しかかかっていない。また、慈光寺本には、この直後に討死した伊賀光季の下人が鎌倉に急を告げに既に出立していたが、同日の午後六時頃に大倉幕府に着いた旨の記載もあるから、推松の足が驚異的に飛び抜けているというわけではないようだ(しかもこの光季の使者は「吾妻鏡」では推松よりも早く、昼頃に到着している)。おまけに慈光寺本ではこの推松、「院宣を届けた後の帰洛の際には、東国の諸大名や高家は、自分を輝かしい天皇の部下・院宣の使者として引き出物をたんと呉れるに違いない」、『宮仕(みやづかへ)ノ冥加、此ニ在(あり)』なんぞと胸算用してもおり、読んでいて、この後の意外な展開などから、思わず失笑してしまう。

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号25から27のパート半ば)を示す。直接話法部分を改行した。

 

 抑一院尋ネ被ㇾ下ケルハ、

「當時關東ニ義時ト一所ニテ可ㇾ死者ハイクラ程カアル」。

胤義申ケルハ、

「朝敵トナリ候テハ、誰カハ一人モ相隨可ㇾ候。推量仕候ニ、千人計ニハ過候ハジ」

ト申ケレバ、兒玉ノ庄四郎兵衞尉、

「アハレ、判官殿ハ僻事ヲ被ㇾ申候モノカナ。只千人シモ可ㇾ候歟。平家追討以來、權大夫ノ重恩ヲ蒙リ、如何ナル事モアラバ、奉公ヲセバヤト思者コソ多候へ。只千人候ベキカ。如何ニ少シト申共、萬人ニハヨモヲトリ候ハジ。角申ス家定程ノ者モ、關東ニダニ候ハヾ、義時ガ方ニコソ候ハンズレ」

ト申ケレバ、一院、眞ニ御氣色アシゲナル體ニテ、幾快ニ申モノ哉ト被思召ケル。後ニゾ能申タリケルト被思召合ケル。

 京中ニハ、山々寺々ノ僧侶、國々ノ住人等參ケル。熊野法師ニハ田部法印・十萬法橋・王法橋・萬劫禪師、山法師ニハ播磨堅者・小鷹智性坊・丹後、淸水法師ニハ鏡月坊・歸性坊ナドゾ被ㇾ召テ參ケル。奈良法師ヲ被ㇾ召ケレバ、愈議シテ申ケルハ、

「平家、此寺ヲ燒拂テ跡方モ無リシヲ、鎌倉右大將力ヲ合テ當國ノ守護人ヲノケ、東大・興福寺ヲ再興シ、供養ノ時ハ仰ニ隨ヒ上洛シテ守護ヲ加、隨分志深リシ事ナレバ、只今モ源平爭事アラバ、何度モ白旗ノ萬人ヲシ命ヲ可ㇾ續ナレドモ、是ハ一天ノ君ノ仰ナレバ、王土ニスミナガラ、イカデカ隨奉ラデモ可ㇾ有ナレバ、少々進ラセヨ」

トテ、學生ニハ土護ノ覺心、堂衆ニハ圓音、是等二人ヲ始メトシテ、事ヲ好ム惡僧少々ゾ參ケル。

 北陸へハ討手ヲ可ㇾ被ㇾ向トテ、仁科次郎・宮崎左衞門尉親式・糟屋左衞門尉・伊王左衞門尉、是等ヲ始トシテ官軍少々被ㇾ下ケレル。

 東國へハ院宣ヲ可ㇾ被ㇾ下トテ、按察前中納言光親卿奉テ、七通ゾ被ㇾ書ケル。左京權大夫義時朝敵タリ、早ク追討セラルベシ、ケンジヤウ、請ニヨルベキ趣也。武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西ニゾ被ㇾ下ケル。

 院宣ノ御使ニハ、推松トテ、キハメテ足早キ者アリケル、是ヱラバレテゾ被ㇾ下ケル。

 

●「兒玉ノ庄四郎兵衞尉」この緒戦の圧勝で浮き立つ後鳥羽院へお目出度の胤義が「朝敵義時に味方する者なんぞ千人もおしますまいぞ」なんどと追従をする中、強烈な疑義の一言を投げかけて、院から激しい不興を買う人物は児玉郡本庄(現在の埼玉県本庄市児玉町附近)を拠点とした武蔵七党の出身である庄忠家(しょうのただいえ)の四男であった庄家定である。因みに彼の父忠家は幕府軍に参加、一ヶ月後の六月十四日の宇治橋合戦で討死にしたとされる。これは「吾妻鏡」同合戦後の十八日の条に載る『六月十四日宇治橋合戰越河懸時尾方人々死日記』(六月十四日、宇治橋合戰にて河を越え懸かる時、尾方(みかた)の人々死ぬ日記」の箇条の中に『庄三郎〔爲敵被討取云々〕』(庄三郎(しようのさぶろう)〔敵の爲に討ち取らると云々。〕)が彼であるとされる。とすれば一ノ谷の戦いや奥州合戦にも参加している彼は、この時既に齢七十を越えていたと考えられ、ここでの息子の院の御前をも憚らぬ、「権大夫義時の厚き恩を蒙り、如何なることあっても身を捨てて奉公致したく思う者こそ、関東には多く御座る。たった千人じゃと申さるるか? 如何に極少なく見積もったとしても、一万人を下ることはありますまいぞ! かく申すこの家定ほどの小者であっても、関東にさえ在ったならば、迷わず義時方へこそ推参致いたに違い御座らぬ!」というパンチの利いた台詞も、強烈なリアリズムを以って迫ってくるではないか!

●「奈良法師」「愈議シテ申ケル」その述懐も微妙である。彼等は平家による宗教弾圧を美事開放してくれた頼朝に感謝と報恩の気持ちこそあれ、彼の築いた幕府を倒さんとするような思想や立場に組する気持ちはさらさらないようだ。あくまで天子様の仰せなればこそ従わずんばあらず、と自身らを納得させようとしているに過ぎない。こうした官軍の中にあっての相当な温度差が結局、この後の官軍の総崩れの中で、こういう感じで参戦した僧侶たちの厭戦気分をより高め、後に見るような水尾坂の幕府軍無血通過といった事態が生じたのであろう。]

耳嚢 巻之八 鬼子母神にて家を立し笑談の事

 鬼子母神にて家を立し笑談の事

 

 伊藤某、代々淨土宗なりしが今は日蓮宗なり。右の祖父いかなる譯やありけん、本所にて本佛寺に人々尊崇する鬼子母神(きしもじん)有(あり)しを尊敬不一方(ひとかたならず)。一身は日蓮宗となりて法花を信仰なしけるが、我死せば右本佛寺へ葬るべきと厚く子孫へ申付(まうしつけ)ぬれど、菩提寺におゐて、厄介(やつかい)は格別、代々主人を他宗へ葬(はうむら)せる事は、披露の上、改宗は格別、難成(なりがたき)事と頻(しきり)に障(さは)りければ、せんかたなく打過(うちすぎ)しが、能々其宗にかた向(むき)しや、七八百石の高(たか)の内を次男へ二百石分地(ぶんち)して、我等は二男の墓所に葬るべしと申(まうす)にぞ寺もいなみ難く、本佛寺へ送りける。右鬼子母神信仰故、二百石の家相續せしと伊藤氏の物語をこゝにしるす。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:日蓮宗絡みで直連関。「笑談(せうだん)」と題し、「いかなる譯やありけんや」「能々其宗にかた向しや」と疑義を呈し、嫡流主家の身分でありながら、居候の次男にわざわざ二百石を分けて新たに分家させて(標題の「家を立し」)鬼子母神(本仏寺)近くに住まわせた上にそこを分家菩提寺とさせた上で、自身の遺骸をその『正規の分家』たる菩提寺へ葬れ、と遺言したという訳の分からぬ仕儀に、呆れて苦笑している根岸が見える。――やっぱり根岸は日蓮宗が、お嫌い――でした。

・「鬼子母神」は仏教を守護する夜叉で女神。梵名ハーリティーを漢訳して訶梨帝母(かりていも)とも言う。ウィキ鬼子母神」によれば、夜叉毘沙門天(クベーラ)の部下の武将般闍迦(パンチーカ・散支夜叉・半支迦薬叉王)の妻で、五百人(一説には千人又は一万人)の子の母でありながら、常に人間の子を捕えて食べてしまうため、人間からは恐れ憎まれていた。それを見かねた釈迦が人間を救うとともに彼女をも救済することを企図して、彼女が最も愛していた末子愛奴児(ピンガーラ・プリンヤンカラ・嬪伽羅・氷羯羅天・畢哩孕迦)を隠した。彼女は半狂乱となって世界中を七日の間探し回ったものの見つからず、遂に釈迦に助けを求めて縋ったという。そこで釈迦は子を失う親の苦しみを悟らせて仏法に帰依させた。かくして彼女は仏法の守護神となり、また、子供と安産の守り神となったという(盗難除けの守護ともされる)。インドでは子授け・安産・子育ての神として祀られ、日本でも密教の盛行に伴って小児の息災や福徳を目的として鬼子母神を本尊とした訶梨帝母法が修されたり、上層貴族の間では安産を願って訶梨帝母像を祀って同修法を修したりした記録が残る。また、法華経において鬼子母神は十羅刹女(じゅうらせつにょ)と共に法華信仰者の擁護と法華経の弘通を妨げる者を処罰することを誓っていることから、日蓮はこれに基づいて、文字で表現した法華曼荼羅に鬼子母神の号を連ね、鬼子母神と十羅刹女に母子の関係を設定している。これによって法華曼荼羅の諸尊の彫刻化や絵像化が進み、その結果として法華信仰者の守護神としての鬼子母神の単独表現や信仰が生まれる元となったという。その像は当初は天女のような姿で描かれ、子供を一人抱いて、右手には吉祥果(柘榴・ザクロ)を持つものが多い(これを子安(こやす)鬼子母神と呼ぶ)。吉祥果は実がたわわになることから「多産」や「繁栄」を象徴するものであって、鬼子母神が人間の子を食べるのを止めさせるために人肉の味がするという柘榴を食するように釈迦が勧めたという俗説は後代に付与された妄説である。日蓮宗では子安鬼子母神が祀られるほか、近世以降では法華経陀羅尼品に依拠する祈禱が盛んとなり、鬼子母神を祈禱本尊に位置付けるに至ったこともあり、忿怒鬼形(きぎょう)の鬼子母神像も多く造られるようになった。これは法華経の教えを広めることを妨げる仏敵を威圧する破邪調伏の姿を表現したもので、こうした鬼子母神の造像については明確な区分ではないものの、関東と関西では異なる傾向がみられるという。関東では総髪で合掌した姿であり、子供を伴っていないのに対し、関西では総髪ではあるものの角を生やして口が裂け、子供を抱くか左手で手を繋いだ形象を示す。また、『子どもを抱き宝冠を付けた姿は一見すると天女形であるが、形相が天女形から鬼形に変容する過程にあると思われる珍しい像が存在することも確認されて』いるとある。『鬼子母神は、法華経の守護神として日蓮宗・法華宗の寺院で祀られることが多く、「恐れ入谷の鬼子母神」で知られる、東京都台東区入谷の鬼子母神(真源寺)、東京都豊島区雑司が谷の法明寺鬼子母神堂、千葉県市川市の遠寿院(法華経寺塔頭)の鬼子母神が有名である(江戸三大鬼子母神)』。

・「本佛寺」現在、杉並区梅里(岩波版長谷川氏の注に『墨田区太平』とあるのは誤り。これは以下に示す元禄初期から関東大震災までの旧所在地である)にある安楽山本仏寺。寛永八(一六三一)年の創建で、開山は修行院日通。元々は谷中三崎に建立されたもので境内には修行院及び栄林坊があった。元禄二(一六八九)年に焼失して翌年、本所出村に移転した。同十一年には身延山末寺となって第八世日現の代に鬼子母神堂を建立、大名の津軽家より客殿天井が寄進された。第十三世日盛は祖師像及び四菩薩像を建立して後に身延山第五十二世法主となっている。大正一二(一九二三)年の関東大震災で焼失、昭和一七(一九四二)年に現在地に移転して再建されて現在に至る。安置されている鬼子母神は子授け・開運鬼子母神と呼ばれている(「日蓮宗東京都西部宗務所」公式サイトの寺院紹介の「本仏寺」に拠る)。

・「厄介」面倒と同じで、所謂、武家に於ける次男以下の、主家相続者に寄食する居候を指す。

・「格別」古くは「かくべち」と読んだ。副詞で、それは別として、それらはともかくとして、の謂い。この二箇所の「格別」はともに、それぞれ直前の内容が例外的に認められる限定条件であることを示していると私は読んだ。

・「分地」底本では『(分知)』と訂正注があるが、意味は分かる。この「地」は知行地のことである。なお、この主人公である子孫「伊藤某」はその次男の嫡男ということになる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鬼子母神に葬られんがためにわざわざ分家を興したと申す冗談のような真実(まこと)の笑い話の事

 

 伊藤某(なにがし)殿の宗旨は、これ代々浄土宗で御座ったが、現在は日蓮宗で御座る。

 右の祖父は――如何なる訳があったものかよく理解出来ぬのであるが――本所にある本仏寺に人々の尊崇せる日蓮宗本仏寺――通称、鬼子母神(きしもじん)が御座ったが――これを尊敬すること一方ならず、己れ一身は日蓮の宗徒となって、日々「南無妙法華経」を唱えては信仰致いて御座ったと申す。

 ところが遂には、

「――我ら死せし時は、かの本仏寺へ葬れ。――」

と、堅く子孫へ申し付けて御座った。

 ところが、これを伝え聞いた伊藤家菩提寺より、

「……嫡男以外の、次男坊ら居候の身分の者ならば、これは、格別で御座るが……代々の当主を先祖とは異なる他宗の寺へ葬らすると申すは……これ、主家の宗旨替えを公けに披露致いた上……菩提寺及び同本山と先方宗派の末寺なり本山相互の……公けの承認と認可を受けた改宗の場合は別と致いて……とてものことに……なし難きことで御座る!……」

と頻りに頗る支障のある由を言い立てて御座ったによって、詮方なく、そのままに、うち過ごして御座ったと申す。

 ところが――まあ、よくよくその日蓮宗の鬼子母神とやらにご執心で御座ったものか――七、八百石ほどの石高(こくだか)しか御座らなんだものを――突如、その内の二百石分――これ、次男へと分知(ぶんち)致いた上、鬼子母神近くに居宅を作らせた上、伊東分家として新たな菩提寺を本仏寺となし、

「――我らが死後は、これ、正しき分家として興したるところの、二男伊藤分家菩提寺たる本仏寺墓所へ葬るように。――」

と遺言致いたによって旧伊藤家菩提寺も辞(いな)み難く、結局、祖父の遺骸は本仏寺へと移送致いたと申す。……

 

「……いやまさしくこれ……祖父の鬼子母神への厚き信仰により……我ら……幸いにも二百石の家を相続致いて、御座る。……」

とは、当代の伊藤家分家当主伊藤氏本人の物語って御座った話なれば、ここに記しおくことと致す。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(18)

  和高子式遊畫島觀濤之作   秋儀

海上巍々天女臺。

登臨此日壯遊哉。

潮驕海關千鯨吼。

勢捲銀山萬馬來。

暫爾扶搖生羽翰。

居然咫尺問蓬萊。

篇成七發飛揚劇。

君自當年枚叔才。

 

[やぶちゃん注:「秋儀」不詳。識者の御教授を乞う。

 

  高子式の畫(ゑ)の島に遊びたるをりの「觀濤」てふ作に和す   秋儀

海上 巍々(ぎぎ)たり 天女臺

登臨す 此の日や 壯遊

潮は海關に驕(けう)して 千鯨の吼(く)

勢は銀山を捲きて 萬馬の來(らい)

暫爾(ざんじ)の扶搖(ふえう) 羽翰(うかん)を生じ

居然(きよぜん)たる咫尺(しせき) 蓬萊を問ふ

篇 成る 七發 飛揚の劇

君 自づから當年 枚叔(ばいしゆく)の才

 

「高子式」不詳。

「壯遊」胸に壮志を抱いた壮士の旅。

「銀山」三角波のことか。

「暫爾」暫しの間。「爾」は状態を示す助字であろう。

「扶搖」は伝説の巨鳥鵬が翼をはばたいた時に起こるつむじ風。旋風。「荘子」内篇の「逍遙遊第一」の著名な冒頭に基づく。

「羽翰」鳥の羽であるが、詩を賦すための筆も暗示するか。

「居然」凝っとして動かぬさま。

「咫尺」非常に短い時間を指すが、これには貴人の前近くに出て拝謁することの謂いがあるのでそれ(ここでは仙女仙人の前)をも利かせるか。

「七發」は前掲の名詩人枚乗(枚叔)の最も有名な「文選」に載る美文。高子式の江の島での「觀濤」という詩をそれに喩えたものであろう。

「飛揚の劇」感性の、自在に天空を舞うような鷹揚なる力強さや雄大さを言うか。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 33 町屋逍遙

283
図―283

M284
図―284

 商店の並んだ町を歩くことは、それ自身が、楽しみの無限の源泉である。間口十五フィート、あるいはそれ以下で、奥は僅か十フィート(もっとも後の障子の奥には家族が住んでいる)の家が、何マイルにわたって絶間なく続いている。この大きさには殆ど除外例がないが、而も提灯屋、菓子屋、樽屋、大工、建具屋、鍛冶屋その他ありとあらゆる職業が、この限られた広さの中で行われ、そしてそれらは皆道路に向って開いている。大きな職場はなく、また芸術家と工匠との間の区別は、極めて僅かであるか、或は全然無いかである。親方は各、自分の沽券(こけん)をあげるらしく思われる弟子に限って教育を与えることを以て面目とし、今日にあってもよき芸術家や工匠は、彼等自身が名声を博す番が来る迄は、一般的に、誰の弟子として知られている。私は、ここに子供達の教育法があると思いついた。即ち彼等が日常親しく知っている物が、如何にして製造されるかを見ることである。彼等は往来をブラブラ歩いていて、ちょいちょい職人が提灯をつくつたり、木に彫刻したりするのを、立ち止っては見る。米国の子供達はよく私に、熔解した鉄や、赤熱した鉄を見たことがなく、また或物が如何に製造されるかも見たことがないといった。店の多くで驚くのは、仕入品が極めてすくないことである。数ドル出せば、一軒の店の内容全部を買いしめることも出来よう。而も偶々売れることによる僅かな利益で、充分家族を養うことが出来るものらしい。この写生図(図283)は、一軒の鍛冶屋を示している。人はしょつ中、蹲(うずくま)った儘でいる。鉄床(かなとこ)は非常に小さく、彼のつくる品物もまた小さい。図284は履物と傘とを売る店である。手のこんだ瓦葺の屋根を書くのには長い時間を要するから、私はやらなかった。左手には傘を入れた籃(かご)が見えている。帳(カーテン)の一隅を石にしばりつけて、飛ばぬようにしているところにお目をとめられたい。上にある長い布片は日除の性質を持っている。内部には草履や下駄が見える。
[やぶちゃん注:「間口十五フィート」4・57メートル。間口2間半(約4・55メートル)相当。
「十フィート」約3メートル。
「何マイル」1マイルは約1・6キロメートル。
「親方は各、自分の沽券(こけん)をあげるらしく思われる弟子に限って教育を与えることを以て面目とし、」原文は“Each master made it a point of honor to instruct only such apprentices as were likely to do him credit,”。「沽券」という、今や死語に近い語が訳に用いられている結果、英文より寧ろ日本語の方が難解な印象を与えるまでになってしまった日本語が哀しい。「沽券」は估券とも書き、「沽/估」は売るの意で、元来は土地・山林・家屋などの売り渡し証文である沽券状(沽却(こきゃく)状とも言った)を指したが、そこから人の値うちや体面・品位の謂いとなった。]

中島敦 南洋日記 十一月二十日

        十一月二十日(木)(晴)

 終日海上に在り、平穩。將棋、麻雀、雜談、午睡、時に蘇東坡を讀む。甲板上に一小箱あり、硝子を以て覆ふ。中にヤドカリ數十あり、。大・小はさゞゑに近きものより小は小豆粒の如きに至る迄おのがじし、重き殼を擔ひて、うごめき、走り攀ぢ、或ひは、コプラを食ふ狀、面白し、

[やぶちゃん注:「ヤドカリ」これは台湾以南のインドや太平洋諸島等に広範囲に分布するヤドカリの仲間で、成体が海岸近くの陸上をテリトリーとするところの、軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科オカヤドカリ科オカヤドカリ属 Coenobita の一種である。全世界で本邦にも棲息するオカヤドカリCoenobita cavipes の他、十五種が確認されている(本邦では他にオオナキオカヤドカリ Coenobita brevimanus他七種)。水陸両用に適応するため、貝殻の中に極少量の水を蓄えておいて柔らかい腹部が乾燥するのを防ぎ、陸上での鰓呼吸も可能である。但し、定期的な水分補給や水交換は必須で、水辺からそう遠くへ離れることは出来ない。同じオカヤドカリ科 Coenobitidae に属するヤシガニ Birgus latro(一属一種)と同じく木登り様の行動が上手く、小さい体から予想もつかないほど高い木に登ることもある。単子葉植物綱タコノキ目タコノキ科タコノキ属アダン Pandanus odoratissimus や双子葉植物綱ナス目ヒルガオ科サツマイモ属グンバイヒルガオ Ipomoea pes-caprae などの海浜植物の群落付近で見掛けられ、昼間は石の下などに潜んでいることが多い。成体は海岸に打ち上げられた魚介類の肉や植物(アダンやここに示されたコプラ=ヤシの実など)など幅広い種類の食物を取る雑食性であるが、比較的菜食を好み、一度に摂食する量は極少ない(以上は主にウィキオカヤドカリ」に拠った)。]

快適を失つてゐる 萩原朔太郎 (「囀鳥」初出形)

 

 快適を失つてゐる

 

軟風のふく日

 

暗鬱な思惟にしづみながら

 

しづかな木立の奧で 落葉する路を步いてゐた。

 

天氣はさつぱりと晴れて

 

赤松の梢にたかく囀鳥の騷ぐをみた

 

愉快な小鳥は胸をはつて

 

ふたたび情緖の調子をかへた。

 

ああ 過去の私の鬱陶しい冥想から 還境から

 

どうしてけふの情感をひるがへさう。

 

かつてなにものすら失つてゐない

 

人生においてすら

 

私の失つたのは快適だけだ。

 

ああしかし あまりに久しく快適を失つてゐる●●●●●●●●

 

         ――思想の憂欝性に就いて――

 

 

[やぶちゃん注:『日本詩人』創刊号・大正一〇(一九二一)年十月号に掲載された。「還境」はママ。末尾添書き「――思想の憂欝性に就いて――」は底本(筑摩版全集の初出表示)ではポイント落ちである。後に詩集「靑猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)その他の著者自身の編集になる五つの詩集に「囀鳥」と改題して内容も改めた上で所収されたが(詩の末の「――思想の憂欝性に就いて――」は総てでカットされている)、後に示すようにそれぞれに微妙な変更や誤植などが認められ、確定テクストを定めにくい。とりあえず、筑摩版全集で校訂された「靑猫」版の当該詩を以下に示しておく。 

   *

 囀鳥

 

軟風のふく日

 

暗鬱な思惟(しゐ)にしづみながら

 

しづかな木立の奧で落葉する路を步いてゐた。

 

天氣はさつぱりと晴れて

 

赤松の梢にたかく囀鳥の騷ぐをみた

 

愉快な小鳥は胸をはつて

 

ふたたび情緖の調子をかへた。

 

ああ 過去の私の鬱陶しい瞑想から 環境から

 

どうしてけふの情感をひるがへさう

 

かつてなにものすら失つてゐない

 

人生においてすら。

 

人生においてすら 私の失つたのは快適だけだ

 

ああしかし あまりにひさしく快適を失つてゐる。 

   *

但し、この五行目、

 

 赤松の梢にたかく囀鳥の騷ぐをみた

 

を「靑猫」を始めとする四つの詩集がすべて、

 

 赤松の梢にかたく囀鳥の騷ぐをみた

 

と誤植していたり(正しく初出通り「たかく」となっているのは「定本靑猫」のみ。「かたく」と敢えて変えた可能性がないとは言いきれないが限りなくあり得ない)、「宿命」(昭和一四(一九三九)年創元選書版)では後ろから四行目の、

 

 かつてなにものすら失つてゐない

 

を、

 

 かつてなにものをも失つてゐない

 

と明らかに変えてみたり、「定本靑猫」(昭和一一(一九三六)年版画荘版)・「萩原朔太郎集」(昭和一一年新潮文庫版)」・「宿命」では最終行、

 

 ああしかし あまりにひさしく快適を失つてゐる。

 

を、

 

 ああしかし あまりにひさしく失つてゐる。

 

としてみたり、他にも特に挙げないが、句点の出現・消失・再出現も著しい。それ故に今回、誤植(「還境」)もそのままに初出形を示すこととした。]

 

 

桃すもも籠にすみれと我が歌とつみつゝゆかむ春を美しみ 萩原朔太郎

桃すもも籠にすみれと我が歌とつみつゝゆかむ春を美しみ

[やぶちゃん注:『坂東太郎』第三十六号(明治三六(一九〇三)年六月発行)に「萩原みさを」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十六歳。]

ひびく たましい  八木重吉

ことさら

かつぜんとして 秋がゆふぐれをひろげるころ

たましいは 街を ひたはしりにはしりぬいて

西へ 西へと うちひびいてゆく

鬼城句集 冬之部 凩

凩     凩や水こし桶に吹きあつる

 

      凩や手して塗りたる窓の泥

 

      凩に後(あと)さし合うて寐る夜かな

 

[やぶちゃん注:「後さし合うて」の「後」は背中・後方又は名残りの謂いで、「さし合う」は文句を言い合うの意でとる。言い争っていたそれぞれ(おそらくは作者と妻)が背を向けあって床に入ってから後も、未だにぶつぶつと言い争っている景と読む。ただの会話の名残というのでは「凩」と「後」が十全に生きない。]

人体模型図

今朝方、目の覚める直前――夢ではなく半覚醒時に――

小学校6年の春……
とある日曜日のこと……
友人と一緒に理科の先生から借り受けた、理振の特殊な小冊子型の蛇腹式になった人体解剖図
――内臓や骨格が形そのままに切りぬかれて何層にもなって畳み込まれてあって捲ってゆくタイプのもの――
を持って……
鎌倉は大船の中ありとある本屋を経巡っては……

「こういう人体解剖図を売っていませんか」……
「こういう人体解剖図を売っていませんか」……
「こういう人体解剖図を売っていませんか」……

と尋ね廻ったのを蒲団の中で何故か思い出していた……(間違っては困るのだが、これは「夢」ではなく事実なのである)

無論、どこの本屋にもそんなものは売っておらず……
どこの店員も……
僕の差し出す黴臭い奇体な人体解剖図の冊子を気味悪そうにちょいと摘まんでは捲りながら……
同じ気味悪そうな眼を僕向けていたのを思い出す……
(友人は二軒目からはその白眼に耐えきれずに店の外で待っていた、その何故か後ろ姿も思い出した)

ハレーションする春の陽射しの街角の……
人体解剖図を携えて自転車に乗って市中を彷徨する二人の少年……

何だ……僕は僕の寺山修司をとっくに演じていたんじゃないか……

その人体解剖図はきっとね――僕の顔をしていたんだよ……

[やぶちゃん注:僕は母と同様、慶応大学医学部に献体している。]

2013/12/20

耳嚢 巻之八 古札棟より出て成功の事

  古札棟より出て成功の事

 

 武州葛飾郡大戸金の渡(わたし)の邊に、題經(だいきやう)寺と云ふ法花宗の寺有(ああり)。綾瀨川の最寄にて江戸よりも至(いたつ)て近在なり。彼(かの)寺寛永年中の草創なれど至て貧地にて、寺も破壞なして誠に雨露も凌(しのぎ)かねけるに、住僧は老年にて質朴の僧なりしが、何卒寺建立致度(いたしたく)心懸けたれども心にまかせず。村方の老叟老婆をかたらひ、三年程江戸へ出て勸進なしける。漸(やうやく)金子の三四十も調達して修復に取懸り候處、朽腐(きうふ)強く中々修造も出來かね候間、右金子切(きり)にあやしの住居を取立(とりたて)けるが、彼堂を取崩しける棟の上より、三四尺も有べき古き板を取出しけるに、何か怖ろしき畫像を彫付(ほりつけ)、裏には妙法華經の七字名號ありて、日蓮の名判(なはん)これまた彫付ありしが、何歟(か)是もさだかならねばとり捨(すて)んとせしを、裏なる用水堀にひたし置(おき)ければ、二三日にて文字(もんじ)畫像もあざやかなれば、いかなる佛像にやと、佛師或は佛畫師などによりて尋けれど、しるものさらになし。本山中山(なかやま)の弘經寺へ右板行(はんかう)に寫し押(おし)たるを持(もち)て、貫主は勿論一山の衆僧に見せて判讀せしめしに、何といふ佛と決定(けつぢやう)をいふものなし。しかれども日蓮の正筆には名號まがいなしと人々申ければ、右を板に押てほどこすべしと、講方(こうがた)より申込(まうしこむ)故いなみ難く、押て與へしに、夥しく好む者ありければ、何とやらん山師めきて如何(いかが)と中山へ申立(まうしたて)しに、木板(きいた)は大切いたし可申候得共(まうすべくさふらへども)、板に押(おし)候事を賴來(たのみきた)るをいなみ候も、佛意に叶(かなふ)まじと免(ゆる)しける故あまた押し遣しけるに、或旅僧來りて右の像を見度(たき)とて好(このみ)ける故見せければ、是は帝釋天に紛(まぎれ)なし、世の中僧俗、帝釋の本形(ほんぎやう)をしるものなしといゝけるゆゑ、中山へも其譯申(まうし)けるに、帝釋の像と難極(きはめがたけ)れど、げにや左も有(あり)なんと申しけるが、其後追々繁昌して參詣も多く、帝釋堂抔は途中にも道しるべの石をたて、文化三年の頃は寺も莊嚴(しやうごん)美々敷(びびしく)、今本堂の本尊といふは、右の帝釋天に成りし由。右本堂修造に付(つき)、彼札をとり出せしは天明元年にて、日蓮の五百年季に當れる年の由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。寅さんでお馴染みの柴又帝釈天の中興奇譚。この頃から根岸は日蓮宗嫌いがやや緩和したものか、この一話はかつての日蓮宗絡みの話柄に見られたような、あからさまな嫌悪感の表現はあまり見られない。しかし、質朴と言ったそばから描く住持のしょぼくれた感じや古板のぞんざいな扱い、本山の如何にもなプラグマティクな対応やそこに帝釈天と見切ること出来た学僧がいなかった点、刷仏や刷名号というお手軽な呪符量産によって莫大な富を拵えたことなど、仔細に読むとやはり辛口である。

・「古札棟より」「古札(ふるふだ)、棟(むね)より」と読む。

・「大戸金」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『大戸曲金(まがりかね)』とあって、長谷川氏は、『大戸は奥戸が正しい。曲金村の西の中川に渡船場があった。葛飾区奥戸。』と注しておられる。調べたところ、曲金村は現在の葛飾区高砂二・三・五丁目辺りに相当し、寅さんで知られた矢切の私とは柴又帝釈天を挟んだ反対の、江戸側にある中川にあった渡し場である。訳は奥戸曲金村に訂した。

・「題經寺」東京都葛飾区柴又七丁目にある日蓮宗経栄山題経寺。通称である柴又帝釈天の方が知られる。元は細やかな草庵であったものを、寛永六(一六二九)年に中山法華経寺第十九世禅那院日忠とその弟子題経院日栄の二人の僧が寺として開創した。帝釈天が当寺の本尊と思われがちで、本文同様に「本尊」と記すものもあるが、日蓮宗寺院としての題経寺の真の本尊は帝釈堂隣にある祖師堂に安置された大曼荼羅(中央に南無妙法蓮華経の題目を大書してその周囲に諸仏・菩薩・天神などの名を書したもの)である。十八世紀末の第九世住職日敬(にっきょう)の頃より当寺所蔵の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又の帝釈天」として知られるようになった。この住職が本話の寺僧である。参照したウィキの「柴又帝釈天」によれば、『題経寺の中興の祖とされているのが9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)という僧であり、彼は一時行方不明になっていた「帝釈天の板本尊」を再発見した人物であるとされている。日敬自ら記した縁起によれば、この寺には宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊があったが、長年所在不明になっていた。それが、日敬の時代に、本堂の修理を行ったところ、棟木の上から発見されたという。この板本尊は片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、片面には右手に剣を持った帝釈天像を表したもので、これが発見されたのが安永8年(1779年)の庚申の日であったことから、60日に一度の庚申の日が縁日となった。それから4年ほど経った天明3年(1783年)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広まっていったという。柴又帝釈天が著名になり、門前町が形成されるのもこの時代からと思われる。近隣に数軒ある川魚料理の老舗もおおむねこの頃(18世紀末)の創業を伝えている』とある。

・「綾瀨川」埼玉県及び東京都を流れる利根川水系中川の支流。現在は葛飾区で荒川放水路の左に沿って流れ、葛飾区東四つ木で中川に合流しているが、荒川放水路が開削される前は現在の旧綾瀬川を経由して隅田川に合流していた(ウィキの「綾瀬川」に拠る)。

・「金子の三四十」江戸後期の一両は、物価水準の平均からは凡そ現在の五万円ほどで、二百万円程度では大伽藍の補修などはとても無理である。ちょっとした社寺の本格的改築なら現在は一億円近くはかかるから、当時の全面改装であっても最低でも数百両は必要であったと思われる。

・「三四尺」九十センチから一・二メートルほど。

・「本山中山の弘經寺」題経寺(柴又帝釈天)の旧本山であった千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗大本山である正中山法華経寺の誤り。文応元(一二六〇)年創立。中山法華経寺とも呼ばれる。題経寺はかつてはこの法華経寺の末寺であった(江戸時代に強化された本末制度は宗教内ではなく、幕府による仏教宗派の完全統制にあった)。訳は「中山の法華経寺」と訂した。

・「板行に寫し押たるを持て」「板行」は印刷することを言うから、彫られた名号と花押、神仏に墨を塗って紙に刷り写したものを持って、の意。

・「講方」講は寺社への参詣や寄進などをする信者団体。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『諸方』とある。

・「或旅僧」この僧は真言か天台で密教を学んだ僧と思われる。飄然と現れて名指して消えるというのは同じ日蓮宗の学僧とは思われない。

・「帝釋天」本来はインド最古の聖典「リグ・ヴェーダ」の中で最も多くの賛歌を捧げられているインドラと呼ばれる阿修羅と戦っていた軍神であったが釈尊に帰依して梵天とともに護法善神となったとする。漢訳では釈提桓因(しゃくだいかんにん)と呼ぶ。須弥山頂上三十三天(忉利天)の喜見城(きけんじょう。善見城とも)に住む忉利天の主である。東南西北のそれぞれに持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)が仕えることから四天王天とも呼ばれる。題経寺のそれは現在、二天門を入った境内正面にある帝釈堂の奥にある内殿に帝釈天の板本尊として安置されてある。

・「文化三年の頃」「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるが、この巻頭に近い一話の記載が、それに先立つ二年前であることが分かる。

・「天明元年」西暦一七八一年。先に示したように現在は安永八(一七七九)年とされているようである。次の五百年忌に合わせるための恣意的な風評の操作と考えてよい。

・「日蓮の五百年季」底本には「季」の右に『(忌)』と補正注がある。五百年忌は没年から四百九十九年目で、日蓮の没年は弘安五(一二八二)年十月十三日(享年六十一)であるから、天明元(一七八一)年というのは正しい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  宗祖真筆の古札(ふるふだ)が荒れ寺の棟(むね)より出でて寺中興を成功に導いたいた事

 

 武州葛飾郡(かつしかのこおり)奥戸曲金(おくどまがりかね)村の渡しの近くに、題経寺と申す法華宗の寺が御座る。綾瀬川の最寄りにて江戸からも至って近在で御座る。

 この寺は寛永年間の草創であったが、かつてはすこぶる貧しき土地柄にて、寺もすっかり破損倒壊致いて、誠に本尊の曼陀羅は雨露をも凌ぎかぬる有様で御座ったと申す。

 住僧は老年にして質朴の僧で御座ったが、

「……何としても……寺を補修改築致さんとぞ思う……」

と常より心懸けてはおったものの、思うにまかせず御座ったによって、曲金村方の長老老婆らに相談の上、三年ほど自ら、江戸表へ出向いて勧進をもなしたと申す。

 漸く金子の三、四十両ほども調達致いたによって、ともかくも、修復に取り懸からんと致いたところが、頼んだ大工が見てみたところ、これ、本堂用材の腐朽著しく、小手先の補修なんどでは、なかなか、致しかぬるとの見立てで御座ったによって、仕方のぅ、かの勧進で得た金子総てを使い切り、如何にも、しょぼくれた、掘立小屋に毛の二、三本も生えたようなる堂宇を建てることしか、これ、出来なんだと申す。

 ところが、かの朽ちかけたお堂を取り壊した際、その棟木(むなぎ)の上より、三、四尺もあろうかという、如何にも古き厚手の板があったを、取り壊し致いた者が見出したによって、住持の僧がそれをよく見てみたところ、何か如何にも怖ろしげな画像を一面に彫り付け、その反対側には「南無妙法蓮華経」の七字の名号がこれあって、そこには何と、宗祖日蓮の花押が、これまた彫り付けてあったと申す。

 されど、この図像が何者ならんかも定かならざれば、まがまがしき鬼神にも見紛うものにても御座ったによって、住持は薄気味悪く、捨てるに如かずと、それにても黒ずんで余りに汚ければとて、とりあえず、裏手の用水堀りの中に浸しおいた。

 それから二、三日致いて、住持、ふと思い出し、堀端へと出でて見たところが、流れに洗われ、かの名号や花押の文字(もんじ)も、また彫られたる神仏と思しい像も、すこぶる鮮やかに浮き出でて御座ったによって、

「……これは……如何なる神仏の像を彫ったもので御座ろうか……」

と、板を携え、知れる仏師或いは絵仏師なんどのもとへと持ち込んで訊ねてはみたものの、その彫(え)られたる神仏の名を知る者は、これ、一人として御座らなんだ。

 そこで住持は本山である中山(なかやま)の法華経寺へ、この板に彫られた名号と花押及び神仏に墨を塗って、紙に刷り写したものを持参致いて、貫主は勿論、一山の衆僧らに見せて判読させて貰(もろ)うたが、やはり、この神仏については、これこれの仏なりと断定し得る者は一人として御座らなんだ。

 但し、名号と花押に就いては、

「――いや! これは確かに! 御宗祖日蓮上人様の真筆の名号に、これ、間違いない!」

と居並ぶ人々も口を揃えて請けがったと申す。

 ところがその話が瞬く間に信徒に知れ渡り、近在の法華宗講方(こうがた)より、

「どうか、それを紙に刷りなして我らに施して下されい!」

との申し出が、これ、引っ切りなしに舞い込んで参ったによって、無下に辞(いな)み難ければ、押し刷っては与え、押し刷っては与えたところが、それがまた江戸市中はもとより、遠方の田舎まであっと言う間に広がって、この刷物を好んで求めんものと、題経寺への題経寺へと、参詣の人、夥しければ、かの住持、

「……かくなる行いは、これ、何とやらん、山師めきて、如何(いかが)なものかと……」と、本山の中山法華経寺へ伺いを立てたところが、

「――宗祖真筆なればこそ、名号彫られし木板(きいた)は大切に致さねばならぬことは当然のことにては御座れど……これ、板に押し刷りて得られたるありがたき御札をお授けあれかしと頼み来たる信徒の願いを無下に辞むと申すは、これ、仏意に叶(かの)うまじきことなればこそ……」

と、刷仏(すりぼとけ)刷名号(すりみょうごう)の造るを免(ゆる)す、とのお達しを受けたによって、これまた、題経寺には数多の衆が押しせて参ったと申す。

 さても、そんなある日のこと、とある旅僧が題経寺を訪れ、

「――拙僧――是非とも、その古き牌(はい)に彫られたる尊像を拝見仕りたく存ずる―。―」

と、切(せち)に望んだによって現物を見せたところが、

「……これは!……帝釈天に間違い御座らぬ! 今の世の中にては、俗は勿論のこと、僧であっても、これ、帝釈天のまことの形相(けいそう)を知る者は……おりませぬでのぅ。……」

と呟いて立ち去ったと申す。

 されば、本山中山法華経寺へもそのことを伝えたところ、

「……帝釈天の尊像とは極め難きことなれど……言われて見れば……いや……確かそのようにも……これ……見えるようじゃ……」

なんどと申したとか。……

 さてもその後(のち)、この題経寺、おいおい繁昌致いて参詣の者も多く、この古板切れを祀った帝釈堂へは、江戸市中よりの途次に何ヶ所も道標(みちしるべ)の石なんどまで建てるほどに相い成って御座った。

 文化三年の当年にては、寺の荘厳(しょうごん)もすこぶる豪華なものとなり、今や、本堂に祀れる本尊と申すは、これ、この板っ切れの帝釈天となって御座る由。

 この本堂修造に際し、かの札をとり出だいたは天明元年のことにて、それは実に日蓮の五百年忌に当たる年でも御座ったとのことで御座る。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(17)

  望畫島 二首   熊阪邦
自喜名山採薬囘。
寒汀翹首望崔嵬。
波光高暎金銀闕。
霞色偏含天女臺。
忽訝羇人追羽客。
還從方丈向蓬萊。
彩雲咫尺神仙氣。
爲訪沙村酒復開。

巨鼈終古載神仙。
龍伯釣餘滄海灣。
漢代少翁何得識。
秦時徐福未曾攀。
瑤臺隱見烟波外。
珠樹玲瓏縹渺間。
此日好乘輕舸去。
中峰一謁列仙還。

[やぶちゃん注:熊阪邦は熊坂台州(既注)。二首目の三句目「少翁」は底本「小翁」であるが、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」で訂した。

  畫(ゑ)の島を望む 二首   熊阪邦
自づから喜べり 名山 薬を採りて囘る
寒汀 翹首(げうしゆ) 崔嵬(さいくわい)を望む
波光は 高く暎(は)ゆ 金銀の闕(けつ)
霞色は 偏へに含む 天女の臺
忽ち訝かしみて 羇人は羽客(うかく)を追ふ
還りて 方丈より蓬萊へ向かふ
彩雲 咫尺(しせき) 神仙の氣
爲に 沙村を訪ひて 酒 復た開く

・「翹首」首を擡げて只管に待ち望むこと。
・「崔嵬」山が岩や石でごろごろしていて険しいさま。また、堂塔などが高く聳えているさま。まず、江の島の危崖を前者で述べ、後者を次の句に利かせている。
・「闕」中国で宮門の両脇に設けた物見やぐらの台、石闕(せっけつ)を指し、そこから宮城の門や宮城を指すようにもなったが、ここは江の島の堂宇を仙界の宮殿に、その唐風の山門を「闕」に喩えたものと思われる。
・「羽客」神仙となって空をとべるようになった人。仙人。仙客。
・「咫尺」間が頗る狭いこと。

巨鼈(きよべつ) 終に古へ 神仙を載せ
龍伯 釣り餘ます 滄海の灣
漢代の少翁(せうをう) 何をか識り得ん
秦時の徐福 未だ曾て攀(よ)ぢず
瑤臺(えうだい) 隱見す 烟波の外
珠樹 玲瓏たり 縹渺の間
此の日 好みて 輕舸(けいか)に乘りて去り
中峰 一たび 列仙に謁して還る

・「少翁」(?~前一一九年)は前漢の方士で斉の生まれ。前一一九年に武帝を亡き寵姫王夫人の霊魂を招いて引き逢せると請けがって褒賞を受けた上、文成将軍にまで封ぜられたが、一年経っても夫人の魂を呼ぶことが出来ず、殺されたという。
・「輕舸」軽快に走る小舟、軽舟。

 前の律詩は頸聯が対句の体を成していない。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 32 薪について

 今日材木市場へ行って見て、薪を大きな汽罐にも、またストーヴにも使用することを知った。薪は我国に於るようにコードや、或は大きなかたまりで売るのではなく、六本ずつの小さな束に縛りつける。私は薪のかかる小さな束を、ウンと積み上げたのを見た。これ等は一ドルについて二十束の値で売られる。薪の質はよく、我国でストーヴに使用する薪の二倍位の長さに切ってあった。
[やぶちゃん注:「大きな汽罐」原文“large boilers”。今や「ボイラー」のままの方がすんなり読めるほどに日本語はアメリカナイズされてしまったことをしみじみ感じる。
「コード」原文“the cord”。底本では直下に石川氏の『〔木材の立方積を測る単位〕』という割注が入る。英語圏に於いて燃焼用に切った木材量の体積単位を示すもの。4×4×8フィート(≒122×122×244センチメートル)を占める未製材の木材量を1コードとするもので体積約80立方フィート(約227立方メートル)、重量は1~1・2トンに達するから日本人の感覚から言うなら一単位が馬鹿でかいと言えよう。
「これ等は一ドルについて二十束の値で売られる」当時の価格換算は既にしばしば行ってきたが、再度示すなら、明冶十年当時の米価(卸売価格)で60キログラムで1円34銭であるから、米価換算だと当時の 1円は凡そ10000円強となり、当時の良質の一般的な手頃な長さの薪一本は凡そ8厘(現在の80円相当)であったということになる。]

萩原朔太郎 短歌四首 明治三六(一九〇三)年五月

歌ここに十年をわびぬ幼くて母と抱きし情なからずや

 

大八島わだつみかけて天走る豊旗雲の大いなる哉

 

ふりかかる小雨ねたしや若うして人山吹の亂れにたへぬ

 

一しきり黄をながしては山吹の小里の水の竹をめぐれる

 

[やぶちゃん注:『坂東太郎』第二十三巻第三号(明治三六(一九〇三)年五月発行)に「上毛 萩原みさを」名義で掲載された四首。萩原朔太郎満十六歳。初出では三首目「ふりかかる」の歌の後に、

  情景抱擁して離れず。

四首目「一しきり」の歌の後に、

  纖巧。

とあるが、これらは選者服部躬治(既注済)の選評である。]

みらくる 萩原朔太郎 (「瞳孔のある海邊」初出形)

 みらくる

地上に聖者あゆませたまふ、
烈日のもと、聖者海邊に來れば寄する浪浪、
浪浪、砂をとぎ去るうへを、
聖者ひたひたと歩行したまふ、
おん脚しろく濡らし、
怒りはげしきにたへざれば、
足なやみひとり海邊をわたらせ給ふ、
みよ烈日の丘に燃ゆる瞳孔あり、
おん手に魚あれども泳がせたまはず、
聖者めんめんと涙たれ、
はてしなき砂金の路を踏み行き給ふ。

[やぶちゃん注:『詩歌』第四巻第七号・大正三(一九一四)年七月号に掲載された。後、大正一二(一九二三)年七月新潮社刊の詩集「蝶を夢む」に以下のように「瞳孔のある海邊」と改題した上、

 瞳孔のある海邊

地上に聖者あゆませたまふ
烈日のもと聖者海邊にきたればよする浪々
浪々砂をとぎさるうへを
聖者ひたひたと歩行したまふ。
おん脚白く濡らし
怒りはげしきにたへざれば
足なやみひとり海邊をわたらせたまふ。
見よ 烈日の丘に燃ゆる瞳孔あり
おん手に魚あれども泳がせたまはず
聖者めんめんと涙をたれ
はてしなき砂金の道を踏み行きたまふ。

と、表記の一部に手が加えられて所収されている。]

中島敦 南洋日記 十一月十九日

        十一月十九日(水) 晴時に曇
 朝七時ヤップ入港、椰子樹間にアバイの見ゆる風景佳し。九時上陸、支廳に赴き田代屬と歸途滯在について打合せ小林支廳長に挨拶、十時過歸船。オレンヂを喰ひ葉書を書く。麻雀、渡邊氏のあとに、高柳氏入り來る。久保田萬太郎派の俳人の由。
[やぶちゃん注:「バイ」“bay”でベイ(湾)のことであろう。
「属」は属官で判任官(はんにんかん)のこと。明治憲法下の正式な官吏等級の最下級である八等出仕以下を指す。高等官(親任官・勅任官・奏任官)の下に位置していた。
「高柳氏」かくあるが不詳。]

死 と 珠(たま)   八木重吉

死 と 珠 と

また おもふべき 今日が きた

鬼城句集 冬之部 霜

霜     霜いたし日々の勤めの老仲間

2013/12/19

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(16)

  畫島眺望   武龍〔字孟玉〕
烟含孤島鎖岩嶢。
此日登臨風色驕。
玉樹丹崖浮海出。
芙蓉白雪倚空遙。
仙人駕鶴雲來去。
龍女凌波月動搖。
歸棹忽疑從博望。
星槎一片下靑宵。

[やぶちゃん注:江戸後期の写本漢詩文集「北海漫草」(ほっかいまんそう)の作者として武龍孟玉の名がある。

  畫(ゑ)の島眺望   武龍〔字は孟玉。〕
烟 孤島を含み 岩嶢(がんげう)を鎖し
此の日 登り臨むに 風色 驕たり
玉樹 丹崖 海に浮きて出で
芙蓉 白雪 空に倚りて遙けし
仙人 鶴に駕し 雲 來たつては去り
龍女 波に凌(の)り 月 動きつ搖れつ
歸棹(きたう) 忽ち疑ふ 博望に從(よ)り
星槎一片 靑宵の下

尾聯が何だか半可通である。]

北條九代記 伊賀判官光季討死 承久の乱【九】――承久三(一二二一)年五月十五日 承久の乱緒戦――伊賀光季、子寿王冠者とともに切腹

さる程に夜既に明けて、未(ま)だ卯刻計(ばかり)に、寄手(よせて)八百餘騎、判官が宿所京極の西の方(かた)高辻(たかつじ)の北、四方を取卷きて、鬨の聲を上げたり。高辻面(おもて)は小門なりけるが、寄手よじめは侮りて、ひたひたと詰掛けしが、内より射出す矢にあたりて、志賀〔の〕五郎、岩崎右馬允(うまのじよう)、同彌平太、高井兵衞〔の〕大夫、矢庭(やには)に射臥せられしかば、是に辟易して、攻口(せめくち)引退(ひきしりぞ)く。京極面は平門にて、扉を閉(とぢ)堅め、小門を開きたりけるを、寄手押掛けて、我劣らじと込(こみ)入りければ、判官が郎從共防ぐとはすれども、さすが大勢に攻立(せめたて)られ、痛手薄手負はぬ者はなし。皆討死しければ、寄手前後より火を懸けたり。判官父子は、今は是までとて、腹搔(はらかき)切りて、熖(ほのほ)の中に飛(とび)入りたり。寄手は勝鬨(かちどき)を作りて引返す。昨日よでは、鎌倉殿の御代官として、伊賀判官光季、都を守護してありしかば、世の覺時(おぼえ)の銛(きら)、肩を竝(ならぶ)る人もなく、めでたく榮えしに、一朝に滅亡して、忠義の道を表しける志(こゝろざし)こそ雄々(ゆゝ)しけれ。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【九】――承久三(一二二一)年五月十五日 承久の乱緒戦――伊賀光季、子寿王冠者とともに切腹す〉

「卯刻」午前六時頃。

「小門」後掲する「承久記」には『土門』とあるから、恐らくは埋門(うずみもん)であろう。築地や塀の下部を刳り抜いたようにして造られている門で主に裏門として用いられた小さな門である。

「平門」「ひらもん」とも「ひらかど」とも読む。左右に二本の柱を建て、棟の低い平たい屋根(横木)を載せた冠木門(かぶきもん)のこと。門柱に貫(ぬき:柱の間に通す水平材。)をかけた門で、本来は下層階級の門造であったが、江戸時代になると諸大名の外門などに用いられた。

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号19から24のパート)の記載を示すが、「北條九代記」のあっさりした描写に対し、頗る詳細を極めてリアル、悲劇の寿王の姿をも余すところなく描いて、読む者の涙をいや誘う。長いので各パートごとに私の注を挿入した。

 

 判官ノ宿所ニ向辻子京極、高辻子ヨリハ北、京極ヨリハ西、京極面ハ棟門・平門ニテ大門也、高辻子面ハ土門ニテ小門也。賀田三郎申ケルハ、「大門・小門開テ、敵ヲ思樣二人テ打死セン」トゾ申ケル。同四郎ガ申ケルハ、「恐入候へドモ、此儀コソ可ㇾ然トモ存候ハネ。大勢思樣ニ入テハ、是程ノ小勢、弓ヲモ引、太刀ヲヌキアハセ可ㇾ候カ。手取ニ被ㇾ取候ナンズ。大門ヲバサシ、小門一方ヲ開テ、寄コン敵ノ或ハ物具ノ毛ニツキ、又ハ名對面ニ付テ、弓矢打物、思々ニ取持テ、打死ヲシテ名ヲ後代ニアゲントコソ存候へ」トゾ申ケル。此儀、尤可ㇾ然トテ、京極面二ノ門ヲバサヽセテ、高辻面ノ土門計ヲ開テゾ相待ケル。

[やぶちゃん「承久記」語注:光季の屋敷は京の東西中央を通る四条大路の三筋下がった五条大路の一本北の高辻小路と平安京の最北の南北路である東京極大路の接する附近にあった。現在の河原町五条交差点の北附近。

●「手取」は「手捕り」で生け捕りのこと。]

 

 院ノ御所ヨリ討手ノ大將ニハ、能登守秀康・平九郎判官胤義・少輔入道チカヒロ・山城守廣綱・佐々木ノ彌太郎判官高重・筑後入道有則・下總ノ前司盛網・肥後前司有俊・筑後太郎左衞門尉有長・間野左衞門尉時連、此等ヲ始トシテ八百餘騎ニテゾ向ケル。高辻面ニハ燒亡トテヨバハリケル。判官、是ヲ聞ツヽ、「ヨモ燒亡ニテハアラジ。敵ノ寄スル馬烟ニテゾ有覽」ト云モハテネバ、押ヨセテ、時ヲドツトツクル。一番ニ、黑皮威ノ鎧著テ葦毛ナル馬ニ乘クル武者一騎、「平九郎判官ノ手者、信濃國ノ住人志賀五郎」トテ、眞先カケテゾ寄タリケル。贄田三郎ガ放ツ矢ニ馬ノ腹ヰサセテノキニケリ。二番ニ、同手者、岩崎右馬允押寄、贄田右近ガ放矢ニ馬ノ股ヲイラレテノキニケリ。三番ニ、同手者、岩崎彌衞太トテ推寄タリ。小カヒナ被ㇾ射テ引退。四番ニ、一門ナリケル高井兵衞太郎トテヨセタリケルガ、餘リニシゲク被ㇾ射テ、馬ヲハナレ太刀ヲヌイテ額ニアテ、只一人打テ入。伊賀判官郎從等十四五人、下ニヲリ立テ、矢先ヲソロヘテ散々ニ射ル。餘リニキブク被ㇾ射テ、サツト引テゾアガリケル。緣ノ上ヨリサヽヘテ射ニ、弓手ノ股、馬手ノ小カイナ被ㇾ射テ、郎等ガ肩ニ懸テゾノキニケル。

[やぶちゃん「承久記」語注:

●「キブク」は「苛(きぶ)い」という当時すでに起こっていた形容詞の口語活用の連用形。きびしい、はなはだ堪(こた)えるの意。]

 

 京極面ニ抑へクル寄手ノ中ニ申ケルハ、「イツ迄、角ハ守ランズルゾ。大門ヲ打ヤブレ」トノヽシル聲ノシケルヲ、判官是ヲ聞テ、「敵ニ破レン事コソ口惜ケレ。トテモ叶ハヌ物故ニ、治部次郎、門アケヨ」ト云ケレバ、「承ル」トテニノ門ヲ開キタレバ、京極面ニ數百騎ヒカヘタル兵共、馬ノ鼻ヲ雙ベテ我先ニト亂入。同威ノ鎧に白葦毛ナル馬ニ乘タル武者、「間野左衞門尉時連」ト名乘テ相近ク。「如何ニ、伊賀判官。軍ノ場へハ見へヌゾ」。「光季、爰ニアリ。近寄テトハヌカ。ヨルハ敵カ」トテ、相近ニサシヨリタル。判官ヨツ引テ放矢ニ、時連ガ引合セノブカニ射サセテ、ノキニケリ。其次ニ、「三浦平九郎判官胤義」トテ推寄テ、「如何ニ、伊賀判官。面ニ見へヌゾ。朝敵トナリ進ラスルハ、面目ニテコソアルニ、イツマデ籠ランゾ。出テ宣旨ノ趣ヲ承ハレカシ、キタナキ者カナ」トイヘバ、伊賀判官、「何卜云哉覽。ヲノレガ君ヲスヽメ奉テ世ヲ取ントスル事ハ、光季存知シタル物ヲ。近ク寄テトハヌカ。寄ハ敵カ」トテ、相近ニ推寄タリ。判官、「敵多ケレ共、取分、平九郎判官コソ、光季ガ存ル旨ノカタキニテアレ。相構テ射落セ」トテ、弓取テヨキ程ノ者共、矢前ヲソロへテ射ル。餘リニシゲク被ㇾ射テ、車ヤドリニ打入テゾ扣タル。伊賀判官能引テ放シケルニ、平九郎判官持タリケル弓ノ鳥打所ヲ、ハタト射削テ、弓手ノ方ニ竝ンデ扣タル播磨國住人原田右馬允ガ頸ノ骨ニ中リテ落ヌ。支テ射ル矢ニハアタラズ、ソバナル者ニ中リテ死ス。定業、力不ㇾ及トゾ見エシ。

[やぶちゃん「承久記」語注:

●「引合せ」広義には鎧や腹巻・胴丸・具足の類の着脱するための胴の合わせ目を指すが、ここでは大鎧の右脇の間隙部分を指す。

●「ヲノレガ君ヲスヽメ奉テ世ヲ取ントスル事ハ、光季存知シタル物ヲ」「敵多ケレ共、取分、平九郎判官コソ、光季ガ存ル旨ノカタキニテアレ」という表現からこの時既に光季は三浦胤義を叛乱の非道の逆臣にして実質的な張本人として認識していたことが分かる。

●「扣タル」は「ひかへたる」と読む。控える。

●「鳥打所」慈光寺本は『取ヅカノ上』とある。弓の取柄で手で握る部分を指す。

●「定業、力不ㇾ及トゾ見エシ」この部分は光季の方にツキはなかったことをいっているように読めるのだが、慈光寺本ではこの部分では胤義が情けなくも、

 院ノ御軍ノ門出ニ、大將軍胤義一番ニ射落サレタリト云(いは)レンハ公私(おほやけわたくし)ノ爲惡シカリナン

とさっさと門外へと逃げ帰るさまが描かれており、そっちの方がより面白い。]

 

 爰ニ「佐々木ノ彌太郎判官高重」トテ寄タリ。壽王緣ニ立出テ申ケルハ、「人ハイクラモ寄サセ給候へ共、見知ネバハヅカシクテ物モ不ㇾ被ㇾ申。彌太郎判官殿ト承ル程ニ、壽王コソ是ニ候へ。兼テハ子ニセン親ニ成ント御約束候シ。ヨモ御忘候ハジ。是モ忘進ラセズ。給テ候シ矢ヲコソ未持テ候へ。恐候へ共、親ノ只今打死仕候最後ノ供ヲ仕候時、進ラセント存ズル」トテ能引テ放ケレバ、鎧ノツルバシリノ三ノ板マデ射ハシラカシタル。十二三ノ小冠者ナレバ、志ノユク程ハ引テ放トイヘドモ、サスガ裏カクマデハナカリケリ。彌太郎判官是ヲ見テ、ハゲタル矢ヲ差弛シテ引退ク。「人々、是御覽候ヘヤ。壽王ニ被ㇾ射テ候ゾ。現ニ子ニセン親ニ成ント約束シテ、シタシカラン爲ニ鳥帽子キセ聟ニ取ン迄約諾仕タリシゾカシ。云ヒツル言葉ノヲトナシサ、心中ノハヅカシサヨ。地體ハ王土ニ栖身程、悲カリケル物アラジ」トテ涙ヲ流シ、其日ハ軍モセザリケリ。見人ナサケ有ケリト感ジツヽ、皆涙ヲゾ流ケル。

[やぶちゃん「承久記」語注:このシーン、私は頗る好きである。

●「見知ネバハヅカシクテ」見知らぬ御仁ばかりなので気が引けて。寿王の純真さがよく出ている。

●「兼テハ子ニセン親ニ成ント御約束候シ」慈光寺本のこの部分では、相手は佐々木高重ではなく、光季の盟友で、先に注した通り、同慈光寺本では前日まで光季を救おうとした、かの佐々木山城守広綱という設定になっており、その方が効果としては劇的である。兼ねては元服の際、私の烏帽子親となって下さり、また私は烏帽子子(ご)となって、烏帽子親子の誓いを約させて頂きました、の意。

●「進ラセズ」「進ラセン」はそれぞれ「たてまつらせず」「たてまつらせん」と訓じているものと思われる。

●「給テ候シ矢」慈光寺本では『元服ノ時給ハリタリシ矢奉返(かへしたてまつる)』とあって、その注に『元服の際烏帽子親が烏帽子子に矢を与える風習があったか』とする。

●「射ハシラカシタル」は「射走らかしたる」で、「射走らかす」とは矢を放たたせる、ある深さまで罅を入れさせて突き走らす、という謂いである。

●「ハゲタル矢」の「ハグ」は「矧(は)ぐ」で、通常は弓に矢を番える、取り付ける、塡(は)めるの意であるが、ここは特に刺さった寿王の矢である。

●「差弛シテ」は「さしはずして」と訓じているように思われる。慈光寺本では存分に引き絞った矢は『舅ノ山城守ノ鎧ノ袖ニ箆中(のなか)マデコソ射立(いたち)タレ』とし、門外に引き退いた広綱が『是ヲ見玉ヘ、殿原。十四に成判官次郎ガ射タル弓勢(ゆんぜい)ノハシタナサヨ』と述べて、鎧に刺さった矢を抜かずに、折ってそのままに残し置いたとある。この広綱の「はしたなさよ」は、「かの少年の――何という――恐ろしいまでの物凄い弓の引きの強さよ!」という深い感慨である。

●「地體ハ」本来は、もともとは。]

 

 寄手ハ亂入、城ノ中ハ小勢也。防戰トハイへ共、伊賀判官郎從等七八人有ケル者共、カリソメナル樣ニテ、乾ノ方ノ坂ヲノボリ越テゾ落行ケル。今ハ賀田三郎・同四郎計ゾ殘ケル。贄田三郎、三箇所ニ痛手負テ、太刀ヲ杖ニツキ、ヨロボヒヨロボヒ判官ノ前ニ參テ、「今ハ角罷成候程ニ、弓モ不ㇾ被ㇾ引、太刀モヽタゲラレ候ハネバ、御供仕覽トコソ存候へ共、敵ニ被ㇾ取テ犬死仕候ハンヨリハ、先立奉テ、死出ノ山ニテ待進ラセ可ㇾ候」トテ、サビタル太刀ヲ取直シ、鋒口ニ含ミ鐔本迄貫テゾ臥ニケル。宿所ニ火ハ懸リヌ。贄田四郎計ゾ、防矢ヲバ射ケル。

[やぶちゃん「承久記」語注:

●「カリソメナル樣」ほんの一時生き永らえるだけのこと乍ら、といった意味であろう。

「乾」北西。この場合は平安京の北西であろうから、鷹峰(たかがみね)か高雄のことであろう北陸辞道や東山道・東海道は既に敵の防衛で塞がっていると考えたからであろう。]

 

 判官、嫡子壽王ヲ招テ、「時コソ能成タレ。自害セヨ。云ヒツル言ニヽテ、カマヘテ能振舞へ、壽王」ト云ケレバ、「自害ハ如何樣ニ仕候ヤラン」。「只腹ヲ切」トゾノタマヒケレバ、則腹卷ノ高ヒボ切テ推ノケ、直垂ノ紐トキクツロゲテ、赤木ノ柄ノ刀指タリケルヲ拔テ、柄ヲ取直シキリキリトシケルガ、流石ヲサナキ故ニヤ、無左右不ㇾ切ㇾ得。父光季、アハレ自害ヤ仕損ゼンズラント思テ、「如何ニ壽王。火コソヨケレ。火へ入カシ」トイヘバ、ツヒ立、刀持ナガラ、火ニ飛入ントシケルガ、度々焰ヲ顏ニ被吹懸、幾程ノガレントテ、走歸々々、二三度ガ程ハシタリケル。光季是ヲ見ルニ、目モクレヌ。「壽王、サラバ爰へ寄」トテ、左ノ方ニスヘテ、片手ヲバ取組、片手ヲバ膝ニヲキ、壽王ガ貌ヲツクヅクト守リ、「親トナリ子トナルモ、先世ノ盟リト云ナガラ、是程、光季ニチギリ深カリケル子ハアラジ。ヲサナケレバ、落テ跡ヲモ被ㇾ訪、世ニモアレカシト思へ共、供セント云フ上ハ、其コソ願フ所ノ幸ナレ。イケテ如何ナル孝養報恩ヲ營トモ、是ニ可ㇾ過トモ不ㇾ覺。死出ノ山ヲツレテ越ン事コソウレシケレ。人手ニカケジト思程ニ、我手ニカケンズルゾ、我ウラメシト思ナヨ」トテ、暫ク守リテ、敵ハ手イタクヨル、サリトテハト思ケレバ、ツカンデ引寄、首横切テ、首トムクロヲ後ロ樣ニ炎ノ中へ投入テ、二目共不ㇾ見、東へ向テ三度伏拜ミ奉リ、「南無歸命頂禮、鎌倉八幡大菩薩若宮三所。權大夫爲ニ命ヲ王城二捨置ヌ」ト祈誠シテ、又西二向テ三度伏ヲガミ、「南無西方極樂教主、彌陀如來。本願アヤマリ給ズハ、必ムカへ給へ」ト念佛高ラカニ三十返計申ケルガ、腹搔切テ、壽王ガヤケヽルニ飛加リ、打重テゾ燒ニケル。贄田四郎防矢射ガ、是ヲ見テ腹搔切リ、主ト同ク伏重テゾ燒ニケル。其後、防者ハナシ、寄手思樣ニ亂入、烟ノ隙ヨリ燒首少々取テゾ歸リケル。

[やぶちゃん語「承久記」語注:ここのクライマックスは凄絶である。

●「高ヒボ」高紐(たかひも)に同じ。右脇の下の下方で鎧の前胴上部(右胸中央右部分)と後胴の端を繋ぐ紐のこと。近世では「相引の緒(あいびきのお)」と呼んだ。

●「盟リ」「ちぎり」と訓じていよう。

●「南無歸命頂禮、鎌倉八幡大菩薩若宮三所」「南無歸命頂禮」は仏教で仏を礼拝する際の頭を地につけて恭しく礼拝致しますという呪言(その意味は後述)で、後の「鎌倉八幡大菩薩若宮」の部分は鎌倉の鶴岡八幡宮及びその元の祭社であった由比の若宮を指すものだが、それらは元を辿れば、康平六(一〇六三)年八月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏二代目であった源頼義(頼朝祖父)が、前九年の役の戦勝祈願のために京の石清水八幡宮護国寺(或いは河内源氏氏神の壺井八幡宮)の祭神を鎌倉の由比の郷鶴岡に鶴岡若宮(現在の材木座一丁目に元八幡として残る)として勧請したのが始まりで、石清水八幡宮本宮本殿の中殿には誉田別命(ほんだわけのみこと)が、西殿には比咩大神(ひめのおおかみ)が、東殿は息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)が祀られて、この三座を総称して八幡三所大神というから、これは総ての八幡神への祈請なのであるが、而して同時に当時は神仏習合の鶴岡八幡宮寺であったから、その本地垂迹説によって八幡三所大神を祈ることは、同時に本地である阿弥陀・観音・勢至を礼拝することに他ならない考えられていたのである。

●「權大夫」右京権大夫北条義時。]

 

 光季、昨日迄ハ鎌倉殿ノ御代官トシテ、都ヲ守護シテ有シカバ、世ノ覺へ、時ノキラ、肩ヲ雙ル人モナシ。宿所モ宮殿・樓閣ト見ヱシカドモ、今日ハ燒野ト見ヱワタリ、空キ名ヲノミ、殘シケル。行衞ヲ聞コソ哀レナレ。討手ノ使共、賀陽院御所へ歸參テ、事ノ由申入ケレバ、一院御感不ㇾ斜、ハヤ、クワンジヤウ可ㇾ被ㇾ行旨被ㇾ仰ケルヲ、胤義申ケルハ、「何條、是程ノ事ニ勸賞被ㇾ行可ㇾ候。御大事ヲ被ㇾ遂テ後ニコソ」ト申ケレバ、「イシクモ申タリ」ト感ジ被ㇾ仰。サテモ伊賀判官朝敵トナリシハ奇怪ナレドモ、一引モ不ㇾ引打死ス。「アハレ勇勇シカリケル兵哉」ト、上一人ヨリ下萬民迄、ホメ惜マヌ者ゾ無リケル。

[やぶちゃん「承久記」語注:

●「キラ」綺羅。

●「クワンジヤウ」後に出るように「勸賞」で「けんしやう(けんしょう)」「けじやう(けじょう)」とも読み、功労を賞して官位や物品・土地などを授けることを言う。]

 

 承久の乱をコンパクトに展開させるための分量の問題からとは思われるが、この寿王のエピソードの終わりを「北條九代記」の作者が割愛したのは如何にも惜しい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 31 マジック・ショップ(?)

 奇術師の手品といえば、先日私は奇術師が使用する各種の品物を売る店の前を通った。店の前には、人の注意を引き、その場所を広告する仕掛が二つ下っていた。その一つは糸でつるした、ボロボロにさけた「枚の薄い紙で、その下端に直径一フィートに近い石がぶら下っている。石が羽根のように軽い人工的の装置であるか、あるいは紙の裂けていない部分に、針金の粋が通っているかであるが、このような支持物は、透明な紙のどこにも見られなかった。もう一つの仕掛は、その中央を紐でしばり、天井から下げた木の水平棒で、その一端には見た所巨大な石が、他端には軽い日本提灯がついていた。これもまた、提灯に重い錘がついているか、石が人工品であるかに違いない。とにかく、棒が水平なのだから。
[やぶちゃん注:「奇術師の手品」「奇術師」原文は前者が“jugglers' tricks”、後者が“conjurers”である。この細工は恐らくはモースが推測したように、孰れの石も精巧に作られた張りぼて(但し、底部にはそこそこの錘をつけてある)と思われる。ただ、こうしたマジック専門用品の店(とモースが断じているのにはやや不審があるが)があったのである。今のところ、そうした商売屋の確認はとれないが、江戸時代からこうしたからくり屋は存在したのであろうか? ちょっと興味が湧く。]

萩原朔太郎 短歌三首 明治三六(一九〇三)年三月

白(しろ)黄(き)紅(べに)花さまざまの菊に醉ひてとなりの翁けふもひるいする

そゞろにも逍遙ふ野邊の朝ぼらけ山西にはれて虹の彩ほそき

別れては京の白梅興もなし笛をたよりに加茂下り行く

[やぶちゃん注:『坂東太郎』第三十五号(明治三六(一九〇三)年三月発行)に「美棹」の雅号で掲載された三首。萩原朔太郎満十六歳。一首目の「ひるい」は「昼寝る」か。]

中島敦 南洋日記 十一月十八日

        十一月十八日(火) 晴
 終日波靜か、萬葉集卷十八、十九を娯しみ讀む。夜、喫煙室にて閑談。
[やぶちゃん注:「萬葉集卷十八、十九」「万葉集」巻十七から二十は編者と目される大伴家持の私歌集の観を呈する箇所で、巻十八は(私が中学・高校と住み親しんだ)高岡に越中守として赴任中の詠歌が多く、巻十九に至っては凡そ三分の二が家持の歌である。]

心  よ   八木重吉

ほのかにも いろづいてゆく こころ

われながら あいらしいこころよ

ながれ ゆくものよ

さあ それならば ゆくがいい

「役立たぬもの」にあくがれて はてしなく

まぼろしを 追ふて かぎりなく

こころときめいて かけりゆけよ

鬼城句集 冬之部 雹

雹     雹晴れて豁然とある山河かな

 

[やぶちゃん注:「雹」は「ひよう(ひょう)」、積乱雲から降る直径五ミリメートル以上の氷の粒を指し、五ミリ未満のものは霰(あられ)である。多くは雷を伴い、この句にも雷鳴を響かせてこそ「豁然」が生きる。しかし歳時記では、これら雹や霰は孰れも夏の季語である。確かに雹は積乱雲の発生が多い夏季に多い(地表付近の気温が高いと完全に融解してしまい大粒の雨になるため、盛夏の八月前後よりも初夏の五、六月に発生し易い)ものの、気象学的には夏特有の現象では決してない。参照したウィキ雹」にも『日本海側では冬季にも季節風の吹き出しに伴って積乱雲が発生するので降雹がある』とある。いくらなんでも鬼城が「夏」に配するところを誤ってここに置いた可能性はありえないと私は思うから(これは実景であり、それが印象深く作者の脳裏焼きついている以上、それは確信犯としての冬の景であったのであり、鬼城にとって「雹」は冬の季語であったのだと私は思うのである)、これは頗る附きで非歳時記部立であることになる。さて、「雹」の字音は「ハク・ホク」で一部には「ヒヨウ(ヒョウ)」はこの「ホク」が「ハウ」と音変化し、それが更に「ヘウ」→「ヒヤウ」→「ヒヨウ」となったという私にはやや信じ難い転訛説が唱えられているようだが、そのとは別に、実物の「氷の塊」、その「氷」の字音「ヒヨウ(ヒョウ)」或いは「氷雨」則ち「ひさめ」の音読みである「ヒヨウウ(ヒョウウ)」の音変化とも言われる(私はこれなら信じられる)。さてもそこで、「氷雨」を辞書で引けば、第一義に雹や霰のこととして季語を夏とするが、第二義としては、冷たい雨や霙(みぞれ)で、雪が空中で解けかけて雨まじりとなって降るものを指すとし、冬の初めや終わりに多い(晩秋・初冬とするものもある)として、季語を冬と断じている。そもそも季語に冷淡な私にはどうでもいいことであるが、旧守派の梗塞した脳が青筋を立てるかも知れないので敢えて無粋な注をしておく気になった。拘りのある向き(私には全くない)には「現代俳句協会ブログ」に、私のラフな物言いより遙かに緻密にして驚異的な濫觴解析をなさっておられる小林夏冬氏の季語の背景(11・氷雨)-超弩級季語探究があるのでお読みなられるがよかろう。氏は演歌「氷雨」(ひさめ:歌手佳山明生の昭和五二(一九七七)年のデビュー作であったが全くヒットせず、昭和五八(一九八三)年に日野美歌との競作で大ヒットとなった曲。作詞は「とまりれん」。)『で歌われたというムードに流され、恣意的に冬の雨を氷雨と使うのは、俳句実作者としていささか主体性に欠けるのではないか、というのが私の自戒を籠めた思いであるし、本意からいえば誤りであることを承知した上で、なおかつ冬の雨を氷雨と使いたい、というはみ出し志向を是とするか、非とするか、悩ましい問題である』と書いて擱筆なさっておられるが――鬼城がこれを読んだらどう思うであろう。是非、鬼城に聴いてみたい気がする。]

2013/12/18

北條九代記 伊賀到官光季討死 承久の乱【八】――承久三(一二二一)年五月十四日 承久の乱勃発前夜――光季の子寿王冠者覚悟の悲話

判官の嫡子壽王冠者は、今年十四歳元服して、光綱とぞ號しける。判官是を前に呼びて、「汝は未だ幼稚なり、夜の内に落ちて關東に下り、世の靜ならんまでは千葉の姉が許に居て、人の重代、我が古を思ひ知る程にて、奉公にも出づべし、某は鎌倉殿の御爲に討死すべし」と云ひければ、壽王冠者は袖搔(かき)合せて、「弓矢取る人の子供の十四、十五になりて、敵向ふと聞きながら、親の計れんする所にて、諸共に死なず、落ちて助り候はば、幼稚なればとてよも人は許し候はん。親を捨てて、逃け九る臆病の不覺人(ふかくじん)とて、人に面を見られんは恥しく覺え候。只御供申して、如何にもなり候べし。今度鎌倉を立ちて上り候ひし時、御母御前簾(すだれ)の際まで立出で給ひて、壽王又何時比(いつごろ)か、と仰せられしを、御供にて軈(やが)て下り候らはん、と申して候らひき。今思ひ候へば、最後の御暇乞となりて候」とて、涙をはらはらと落しけり。父判官は壽王が顏を熟々と守り、涙を押拭(おしぬぐ)ひて申しけるは「器量も世に淸げなり。心も剛(がう)にありけり。落ちよといふは世にもあれかしと思ふ故なり。申す所は理(ことわり)あり、さらば諸共に討死せよ。如何に治部次郎、壽王に物具(もののぐ)せさせよ」と云ひければ、長絹(ちやうけん)の直垂小袴(ひたゝれこばかま)に、萌黄匂(もえぎにほひ)の小腹卷(こはらまき)、二十五差(さし)たる染羽(そめば)の矢、滋籐(しげどう)の弓ぞ持(もた)せける。伊賀〔の〕判官光季は、繁目結(しげめゆひ)の直垂(ひたゝれ)に鎧一領前に打置き、弓の弦(つる)嚙締(くひしめ)し矢に、腰竝べて寄する敵を待居たり。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【八】――承久三(一二二一)年五月十四日 承久の乱勃発前夜――光季の子寿王冠者覚悟の悲話〉

「壽王冠者」(承元二(一二〇八)年~承久三(一二二一)年五月十五日)は伊賀光季嫡男。なお、彼の弟に乱当時は元服していなかった季村がおり、「吾妻鏡脱漏」によれば、乱の四年後の嘉禄元(一二二五)年九月十二日に光季遺領が彼に安堵されている。以下に示す。

〇原文

九月十二日庚午。故大夫判官光季遺領事。有其沙汰。彼子息四郎季村等拜領之。常陸國鹽籠庄。〔元和田平太知行之。〕以下云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十二日庚午。故大夫判官光季が遺領の事、其の沙汰有り。彼(か)の子息四郎季村等、之を拝領す。常陸國鹽籠(しほこ)の庄 〔元、和田平太、之を知行す。〕以下と云々。

この「常陸國鹽籠の庄」とは、現在の水戸市の北西約二十キロメートルに位置する茨城県茨城郡城里町塩子一帯。旧支配者の「和田平太」とは和田胤長のことで、彼は和田合戦の引き金となった泉親衡の乱の謀議に加わった廉で捕縛されて陸奥国(後の岩代国)岩瀬郡に配流となり、和田合戦で和田一族が滅亡した直後に配流地で処刑されている。

「人の重代」自分の属する藤原秀郷流伊賀氏やその他の幕府や豪族の氏族代々の来歴。

「長絹の直垂小袴」「長絹」は固く織って張りを持った(または糊で固く張った)上質の絹の布のこと。美しい光沢(つや)を持つ。「小袴」は鎌倉時代以降の武家の平服であった直垂(垂領――すいりよう:たりくび。襟を肩から胸の左右に垂らして引き合わせて着用する服――式の衣服で上体衣と袴の上下合わせて一具)に用いた、上括(しょうくく)り――非常の際に指貫や狩袴などの裾を膝の下で括ることを言う――にするために特に裾を短くして括り緒を入れてある袴を指す。なお、ここと次の「繁目結の直垂」でも「直垂」には「したゝれ」とルビが振られてあるが、以前に正しく「ひたたれ」と振っている箇所があること、早稲田大学図書館蔵延宝三(一六七五)年梅村弥右衛門板行になる「北条九代記」でも正しく「ヒヽタレ」と振ってあることから訂した。

「萌黄匂」黄味がかった緑色がグラデーションとなっている「匂縅」。「匂縅」は「にほひをどし(においおどし)」と読み、鎧の札(さね)を革や糸で結び合わせた縅(「威」とも書く)の中で、上方の色を濃く、下方を次第に薄くし、末を白く威(おど)したものを言う。

「小腹卷」腹巻鎧。鎌倉時代に一部で行われた脇楯(わいだて:右脇の引合せを塞ぐための武具。)がなく、草摺(くさずり)が細分化されていて足捌きが容易な腹巻形式の鎧。無論、これに大鎧と同様の弦走(つるばしり:胴の正面の部分。染め革で包んで弓弦の当たるのを防ぐ。)・鳩尾板(きゆうびのいた)や栴檀板(せんだんのいた)――孰れも弓を射る際に開く脇と胸部を防御する楯状の武具。鎧の胴の前面に垂下する形で付属する。右脇が栴檀板で左脇が鳩尾板。右の栴檀板は、弓を引く際に屈伸が可能なように三段からなる小札で構成され、急所に近い鳩尾板は一枚の鉄板とする例が多い。元来は両板とも栴檀板と呼ばれていた――・障子板(しようじのいた:鎧の硬い袖部分が着用者の頭部や首に当たることを防ぐための武具。)などを装着する。

「染羽の矢」ワシやクグイの白羽を染めた矢羽根の矢。

「滋籐の弓」弓の束(つか)を籐で密に巻いたもの。籐の巻き方や位置などによって村重籐・塗籠(ぬりごめ)籐・追重籐・白重籐などの種類があった。

「繁目結」鹿の子絞りの総絞り。滋目結。

「弓の弦嚙締し矢」戦闘に際し、和らげるために口に含んで弦(つる)を濡らした弓矢。

「腰竝べて」ここは寿王と腰を並べてと読める(増淵氏はそのように「席を並べて」と訳しておられる)し、作者もそのつもりらしいが、実は以下の「承久記」の叙述を見ると「二腰」とあり、原典の謂いはそうではないことが分かる。この「腰」は矢を盛った箙(えびら)を数えるのに用いる助数詞で、光季は自分の前にこれからさんざんに射んがため、ぎっしりと矢を盛った箙を二つ据え置いた、という謂いである。

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号18のパート)の記載。

 

 判官嫡子、壽王冠者トテ今年十四ニナリケル、元服シテ光綱トゾ申ケル。判官、是ヲ招テ、「汝、今年十四、程ヨリモイトケナシ。軍ニ逢ン事モ如何ガ有ムズラン。幼ニマギレテ、案内者ノ冠者原七八人相具シテ落ヨカシ。光季ハ、鎌倉殿ノ聞召サル、事モ有、都ニテ尸ヲサラサムト思定タリ。イトケナカラン程ハ、千葉ノアネガ許ニアルベシ。ヲサナクテハ出仕ナセソ。十七八、廿ニモナリテ、人ノ重代、我ガ古へヲ思知程ニテ出仕モセヨ。ハヤハヤ落ヨ」ト申セバ、壽王、袖刷ウチ退テ、父ガ顏ヲ見アゲテ申ケルハ、「サン候。弓矢取者ノ子共ノ十四五計ニ成ンズルガ、敵ニアヒ親ノウタレ候ハンズル所ニ不ㇾ死シテ落テ候ハヾ、幼稚ナレバトテ、ヨモ人ハユルシ候ハジ。親ヲ捨テニゲタル不覺人トテ、朝夕、人ニ被ㇾ見候ベキ。ハヅカシク覺候。千葉介モシタシクハ候へ共、弓矢取者ニテ候へバ、定メテ未練ニ被ㇾ思候べキ。只、御トモニコソ如何ニモナラント存候へ」トゾ申ケル。「但、今度鎌倉ヲ罷立候シニ、母ニテ候者、簾ノキハマデ立出テ、壽王ニ、「又イツ比カ」ト申候シ時ニ、「御供ニテ急ギ罷下候ハンズルゾ」ト申テ候シハ、今思候へバ、其ガ最後ニテ候ケルゾヤ」ト申テ、涙ヲハラハラトヲトシケレバ、判官、壽王ガ顏ヲツクヅクト守、涙ヲナガシテ、「イシク云タリ。汝、ヲサナケレバ、落テ命ヲモタスカリ、光季ガ跡ヲモツギ、世ニモアレトテコソ、落ヨトハイヱ共、トモセント云フ上ハ、其コソ願フ所ニテアレ。サラバ治部次郎、アノ壽王ニ物具セサセヨ」ト云ケレバ、ヤガテチヤウケンノ直埀、小袴ニ萌黄ニホヒノ小腹卷、二十五サシタルソメ羽ノ矢、シゲ藤ノ弓ヲゾモタセタル。伊賀判官ハシゲ目結ノヒタヽレ、小袴ニ鎧一領前ニヲキ、弓ハリ矢ニ腰ナラベタテヽ、小袴ニ鎧一領前ニヲキ、弓ハリ矢二腰ナラベタテヽ、カタキ今ヤト待カケタリ。

 判官、年比ナレアソビケル好色・白拍子、サナラヌ志深キ男女ノタグヒ招寄テ、終夜遊ケル。判官云出ス言ノ葉、ウチ振舞氣色、タヾ思出ニナレトゾ殘シケル。キタレル輩、此程京中ニノヽシル事ナレバ、皆存知シタリケリ。今夜計ヲ最後ゾト思ケレバ、袖ヲヌラサヌハ無リケリ。判官、財寶ノアルカギリ取出シ、形見カト覺へテ面々ニ引アタフ。ヤウヤウ曉チカクナレバ、カタキモ近ヅクトテ、皆々送リ返シテ、思切タル主從七人、殘ケル心中コソムザンナレ。

 

・「程ヨリモイトケナシ」その十四の歳よりも幼く見える、との謂いか。

・「定メテ未練ニ被ㇾ思候べキ」きっと、落ち延びたとなれば内心は根性無しと、残念にお思いになられることで御座いましょう。

・「イシク」は「美(い)し」で、殊勝だ、けなげだ、あっぱれだ、の謂い。

・「判官、年比ナレアソビケル好色・白拍子……」前の「承久の乱【七】」の注で示した内容がここに現われる。何とも言えず――いい――]

ツイッター雑感

ツイッターが胡散臭いのは――フォローして来る個人の場合、概ね三分の二がパソコンで稼げると名打つか、ツイッターを初めてやった人間であるという点である。前者はそれが餌であり、後者は自分が何者かを、かほども説明していないから、僕はフォローしない。フェイスブックの場合の性別もでたらめなそれと団栗の背比べと言えば言えるようには思われる。――如何にも世界は退屈である。――ちなみに僕のツイッターのアドレスは

Y
abunovich

である。

中島敦 南洋日記 十一月十七日

        十一月十七日(月) 晴、

 午後一時半山城丸乘込、四時出帆、但し、ヤップ入港の時間の關係にて、船はパラオ港外に夜半迄停る。同室者渡部氏は軍關係の建築家(?)なり、パラオヤップ迄の由。隣室に俳優月田一郎あり。山城丸はパラオ丸に比べて古く汚なく設備惡し。

[やぶちゃん注:「月田一郎」(つきたいちろう 明治四二(一九〇九)年~昭和二〇(一九四五)年九月二十七日)山口県岩国町(現在の岩国市)生まれで東京育ちの俳優。法政大学卒業、前妻は女優山田五十鈴、二人の間の一人娘が女優瑳峨三智子である。死因は急性アルコール中毒ともハムによる食中毒とも(ウィキの「月田一郎」に拠る)。これは年月日からみると、翌昭和一七(一九四二)年五月二十一日に封切られている阿部豊監督の東宝映画「南海の花束」の撮影のためかと思われる。八木隆一郎の戯曲「赤道」を元に日本の委任統治領南洋群島で赤道越えの民間航空路を開拓する支所長と操縦士たちを描いたもので、ウィキの「南海の花束」によれば、『厳格な支所長と操縦士たちの葛藤や航空事故を克服する姿を描くことで、当時国策として進行していた南洋進出を宣伝するプロパガンダ映画である一方で、阿部豊による演出が人間ドラマをより強調した内容になっている。嵐の中の飛行シーンは円谷英二によって、ミニチュア特撮によるリアリティのあるシーンが撮影され、一部の操縦席のシーンではスクリーン・プロセスも用いられている』。『大日本航空の後援により、海軍からの払い下げられて用いていた一五式水上偵察機や九三式中間練習機、実際に南洋航路に就役していた九七式飛行艇などの実機が登場し、整備風景や離着水シーンも実機によるものが用いられている。戦時中であるにもかかわらず、敵性語である「システム」などの英語も一部に登場する』とあり、月田一郎は操縦士伏見役で出演している。詳細なシノプシスは参照したリンク先を参照されたい。

 同日附の中島たか宛書簡が残る。以下に示す。

   *

〇十一月十七日附(消印パラオ郵便局一六・一一・一九。世田谷一六・一一・二三。南洋パラオ南洋民地方課。東京市世田谷区世田谷一丁目一二四 中島たか宛。封書。航空便)

 旅行は大體、この前、知らせた通りに決(キマ)つた。たゞパラオを出帆(パン)するのが一日早くなるかも知れない。今度の旅行は、この前のヤルート・トラック旅行にくらべて、距離もずつと短かく、期間も十日餘り短かいので、費用も四百圓以内で濟(ス)む。前以て貰(モラ)ふのは三百圓だけ。

{十一月二十六日――十二月三日……この間サイパン滯在、

{十二月八日――十二月二十六日  ヤップ滯在、

[やぶちゃん注:「{」は底本ではこの二行に亙って一つかけられてある。]

 これだけは、覺(オボ)えておいてくれ。何か、事があつた場合に、電報でも打つなら、それぞれ、サイパン支廳(チヨウ)、ヤップ支廳あて氣付にすること。ヤップは飛行機が寄らないから話にならぬが、サイパンの方は、飛行便でくれれば、お前の手紙を讀むことができるかも知れないが、しかし、何も、そんなに無理をして手紙をくれなくてもいいから、

 さて、パラオに十日もゐたもんだから、又、元のやうに、やせて來さうだたやうな氣がする。又、今度の旅で、ふとつてこようかな。全く、僕の身體はぜいたくだねえ。一等の旅行さへしてれば良いなんて。

○お前の誕(タン)生日に送つた百圓は受取つたらうね。あれは、お前が良く、おぢいちやんに盡(つ)くしてくれる御褒美(ホウビ)だと思つてもいい。

○山口 (横濱の)君が結婚したらしいね。

 昨夜(ゆべ)ね、夜中に小便に起きた時、空を見たら、イヤに、星がハツキリしてやがんのさ。どうも見たことのある星だと思つたら、オリオン(みつぼし)なんだよ。此處でもオリオンが見えるかと思つたら、一寸うれしかつたね。内地でオリオンの見える頃は、もう寒(サム)くなるんだねえ。(内地でも、まだ宵(よひ)のうちは見えないだらう。冬になると、宵(よひ)から見えてくる)

 本郷町の家では、よく、星を見たつけなあ。

△十一月十六日夜、今夜は、パラオには珍(めづら)しく、レコード・コンサートがあつたので、國民學校へ聞きに行つた。あまり、いい蓄(ちく)音機ぢやないが、それでも久しぶりに音樂らしいものが聞けたよ。ベートーベンの第五シンフォニイ(全部)や第九シンフォニイの終る所(おぼえてゐるかい? オレが何時(いつ)も口笛で吹いてたヤツさ、)など、やつたよ。

○この前の、お父さんへの手紙にも一寸書いておいたが、來年の四・五月頃にでもなつたら(寒い間は駄目だから)、東京出張所勤務(キンム)にでも廻してもらはうかと思つてゐる。但し、さうなると、サラリーは本俸(ホンポウ)の百十圓だけで、ひどく心細いことになるが、身體には、かへられない。さう賴んで見ようと思つてゐる。多分、聞いてもらへるだらう。とにかく、それまで、つらい事も寂しい事も、我慢(がまん)して、がんばつてゐてくれ。オレは目下(モクカ)、助手探(さが)しだ。見當はついてゐるんだが、一つ、上の役人の方にむづかしいことがあつてね。でも大抵(タイテイ)はうまく行くと思ふ。その助手が、しつかりした人物なら、おあれも、その人に仕事をゆづつてやめることも出來るといふものだ。

△田島(ぢやなかつた高橋晴貞)は今度、企劃院(キクワクヰン)の調査官(テウサクワン)といふのになつた。オレなんぞとちがつて、中々エライ役人なんだよ。あいつは親切ないい友達だな。あいつがオレに呉れた手紙の中に、(兵隊の)石坂のことを心配してゐる所があるが、實に田島の良さを現してゐて、いいと思つたよ。同じ役人でも、あゝいふ男ばつかりだつたらなあ。

○氷上の細(サイ)君て、どんなだらうなあ。氷上のやつ、どんな顏をしてるかなあ。

 十一月十七日。

 一日早くなつて、今日出發する。又、行く先々で、面白いことがあつたら知らせよう。お前の方からは、出してくれても、うまく連絡(れんらく)できないといけないから、出さないでいい。身體に氣をつけろよ。無理して、はたらきすぎるんぢやないぜ。なんとしてでも、榮養だけは充分にとるんだよ。ハリバもわかもとも飮め。(飮んでゐないんだらう?)子供達の榮養も、だが、お前自身のことも、自分で考へなくちやいけない。オレだつて多少フトツタといふのに、んだから、お前は、もつとントふとらなきや駄目だ。今は十七日の午前九時。之から荷物(といつたつて、レイのカバン二つさ)をつめこんで、トコヤへ行つて、晝飯をたべてから乘込む。出帆は四時頃だらう。これから、又、四日ばかりずつと、海の上だ。

 おぢいちやんには、元氣で出發致しましたと申上げてくれ。

 もしも何か變(かは)つた事(電報を打つ程でもない)でもあつたら、十一月二十五日頃迄に出すのならヤップ支廳氣付にしてくれれば、屆(とど)くと思ふ。その手紙をはこぶ同じ船で、僕がサイパンからヤップへ行くのだから。

 しかし、別に、變つたことがなければ、手紙を書く必要はない。

   *

「田島(ぢやなかつた高橋晴貞)」十一月一日の私の注を参照。

「氷上」氷上英廣。十一月五日の私の注を参照。]

斷崖に立ちて  萩原朔太郎

      ●斷崖に立ちて

 今日では、藝術そのものが時代遅れになろうとして居る。

 

[やぶちゃん注:太字「藝術そのもの」は底本では傍点「●」。昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」の「藝術に就いて」より。「なろう」はママ。初出は昭和四(一九二九)年三月号『新潮』であるが、そこでは本文は、
  

 今日では、藝術そのものが古くなつてる。
である。]

美しい 夢   八木重吉

    美しい 夢

やぶれたこの 窓から

ゆふぐれ 街なみいろづいた 木をみたよる

ひさしぶりに 美しい夢をみた

[やぶちゃん注:二行目は私には不審な文字列である。朗読するにしても「街なみいろづいた」と連続して読み、間をとって「木をみたよる」と詠ずることは不可能である。少なくとも私にはそのような不達意の朗読は出来ないし、重吉自身がそのような不連続な詩句文字列をわざと配するとは思われない(「街なみいろづいた」に掛詞的なこじつけた解釈をすることは可能であるにしても、そのような解を私は認める気は毛頭ない)。格助詞「の」の脱字などの可能性が全くないとすれば、せめても、

ゆふぐれ 街なみ いろづいた 木をみたよる

又は、

ゆふぐれ 街なみ いろづいた木をみたよる

と表記されたものとして朗読する以外にはあるまいと私は思う。この詩について誰も何も言っていないようであるが、これは馬鹿な私だけの違和感なのだろうか? 歌曲になっているらしいが(鈴木英明「八木重吉の詩による四つの歌曲」)、一体、どうやって歌っているものであろう? 愚鈍な私は是非に識者の方の御教授を乞いたい。]

鬼城句集 冬之部 雪

  天文

 

雪     遠山の雪に飛びけり烏二羽

 

      屋根の雪雀が食うて居りにけり

 

      大雪や納屋に寐に來る盲犬

 

      棺桶を雪におろせば雀飛ぶ

 

      雪松ののどかな影や雪の上

 

      道あるに雪の中行く童かな

 

      棺桶に合羽かけたる吹雪かな

 

      ぼろ市のはつる安火に吹雪かな

 

[やぶちゃん注:「はつる」は「解(はつ)る」で、「ぼろ市」のシークエンスにふさわしいこれまた「安火」、しょぼくれた焚き火の、そのともすればほつれがちな炎に、「吹雪」が吹きつけているというのであろう、と私は読む。また、「はつる」は「ぼろ市の果つ」、「ぼろ市」も最終日となって、売れないまことの襤褸ばかりが残っている景観も連想させて、より寂寥感を増しているとも言えるように思われる。大方の御批判を俟つ。]

2013/12/17

Goodbye, Mr. Chips !

Goodbye, Mr. Chips !
Chips_3

中学1年……富山の片田舎に住む僕が自分の意志で映画館に行き、初めて涙した映画の主人公は……チップス先生……あなたでした……

萩原朔太郎「郷愁の詩人 與謝蕪村」より「春風馬堤曲」(やぶちゃん原詩補注版)

[やぶちゃん注:本文底本は「郷愁の詩人 與謝蕪村」(昭和一一(一九三六)年第一書房刊)は特に原詩表記に問題があるため、筑摩書房版「萩原朔太郎全集」第七巻所収の「郷愁の詩人 與謝蕪村」の「春風馬堤曲」パートを用いた。原詩に就いては最も信頼出来る形を後注で示し、簡単な語注を附した。なお、最後の「附記」は底本ではポイント落ちで全体が二字下げである。最後にやはり本文の簡単な語注を附しておいた。]

 

  春風馬堤曲

 

やぶ入や浪花を出て長柄川

春風や堤長うして家遠し

堤ヨリ下テ摘芳草 荊與蕀塞路

荊蕀何妬情 裂裙且傷股

溪流石點々 蹈石撮香芹

多謝水上石 教儂不沾裙

一軒の茶見世の柳老にけり

茶店の老婆子儂を見て慇懃に

無恙を賀し且つ儂が春衣を美ム

店中有二客 能解江南語

酒錢擲三緡 迎我讓榻去

古驛三兩家猫兒妻を呼び妻來らず

呼雛籬外鷄 籬外草滿地

雛飛欲越籬 籬高墮三四

春艸路三叉中に捷徑あり我を迎ふ

たんぽぽ花咲り三々五々五々は黄に

三々は白し記得す去年この道よりす

憐みとる蒲公莖短して乳を浥(あま)せり

昔々しきりに思ふ慈母の恩

慈母の懷袍(ふところ)別に春あり

春あり成長して浪花にあり

梅は白し浪花橋畔財主の家

春情まなび得たり浪花風流

郷を辭し弟に負て身三春

本を忘れ末を取る接木の梅

故郷春深し行々て又行々

楊柳長堤道漸くくれたり

矯首はじめて見る故國の家

黄昏戸に倚る白髮の人

弟を抱き我を待つ 春又春

君見ずや故人太祇が句

  藪入の寢るやひとりの親の側

 

[やぶちゃん注:本文に就いては補正された筑摩書房版「萩原朔太郎全集」第七巻所収の「郷愁の詩人 與謝蕪村」本文中の「春風馬堤曲」を一応の底本とした。なお、四行目の漢詩第一句目、

 荊蕀何妬情

は「夜半楽」(蕪村が安永六(一七七七)年の春興帖として出した俳諧撰集)に拠るもので、「蕪村句集」(蕪村一周忌の天明四(一七八四)年板行)では、

 荊蕀何無情

である(以下に示す大倉広文堂版「俳文俳論新選」は「無情」を採る)。また、後ろから三行目の、

 楊柳長堤道漸く暮れたり

は「蕪村文集」に拠るもので、「夜半楽」に載る句形では、

 楊柳長堤道漸くくだれり

である(以下に示す岩波文庫版「蕪村俳句集」及び新潮日本古典集成版「與謝蕪村集」では、この「くだれり」を採る)。

 なお、原詩には序があり、字配にも工夫がなされているので、それを再現する。底本には岩波文庫版尾形仂校注「蕪村俳句集」(但し、底本は新字)及び新潮日本古典集成版清水孝之校注「與謝蕪村集」、潁原退蔵校註「俳文俳論新選」(昭和一〇(一九三五)年大倉広文堂刊)の字配と表記を比較勘案して独自に最も原詩に近い形と思われる、一部(原詩に附されたカタカナの読みや送り仮名)を除いて訓点を附していないものを【原詩】として作成した(但し、踊り字「〱」は正字化した。以下同じ)。次にそれに返り点のみを附した【原詩(訓点附)】を、最後に同じく三種の資料を勘案して難読部の読みと訓読を施した【訓読版】を示した(「序」は読みづらくなるので行頭から連続させ、一部に読点その他を追加、流れを示すために圏点ごとに有意な空行を挿入した。読みは必ずしも諸本に拠らず独自に附した)。但し、先に示した異同部分は萩原朔太郎の選んだままを保持した。

   *

【原詩】

 

春風馬堤曲

 

             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水

  過馬堤。偶逢女歸省郷者。先

  後行數里、相顧語。容姿嬋娟、

  癡情可憐。因製歌曲十八首、

  代女述意。題曰春風馬堤曲。

 

 

    春風馬堤曲 十八首

 

○やぶ入や浪花を出て長柄川

○春風や堤長うして家遠し

○堤ヨリリテ摘芳草  荊與蕀塞路

 荊蕀何妬情   裂裙且傷股

○溪流石點々   踏石撮香芹

 多謝水上石   敎儂不沾裙

○一軒の茶見世の柳老にけり

○茶店の老婆子儂(ワレ)を見て慇懃に

 無恙を賀し且儂が春衣を美

○店中有二客   能解江南語

 酒錢擲三緡   迎我讓榻去

○古驛三兩家猫兒妻を呼妻來らず

○呼雛籬外鷄   籬外草滿地

 雛飛欲越籬   籬高墮三四

○春艸路三叉中に捷徑あり我を迎ふ

○たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に

 三々は白し記得す去年此路よりす

○憐とる蒲公莖短して乳を浥(アマセリ)

○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩

 慈母の懷袍別に春あり

○春あり成長して浪花にあり

 梅は白し浪花橋邊財主の家

 春情まなび得たり浪花風流(ブリ)

○郷を辭し弟に負く身三春

 本をわすれ末を取接木の梅

○故郷春深し行々て又行々

 楊柳長堤道漸く暮れたり

○嬌首はじめて見る故園の家黄昏

 戸に倚る白髮の人弟を抱き我を

 待春又春

○君不見古人太祇が句

   藪入の寢るやひとりの親の側

   *

【原詩(訓点附)】

 

春風馬堤曲

 

             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水

  過馬堤。偶下逢女歸省郷。先

  後行數里、相顧語。容姿嬋娟、

  癡情可ㇾ憐。因製歌曲十八首

  代ㇾ女述ㇾ意。題曰春風馬堤曲

 

 

    春風馬堤曲 十八首

 

○やぶ入や浪花を出て長柄川

○春風や堤長うして家遠し

○堤ヨリリテ芳草  荊與ㇾ蕀塞ㇾ路

 荊蕀何妬情   裂ㇾ裙且傷ㇾ股

○溪流石點々   踏ㇾ石撮香芹

 多謝水上石   敎儂不ㇾ沾ㇾ裙

○一軒の茶見世の柳老にけり

○茶店の老婆子儂(ワレ)を見て慇懃に

 無恙を賀し且儂が春衣を美ム

○店中有二客   能解江南語

 酒錢擲三緡   迎ㇾ我讓ㇾ榻去

○古驛三兩家猫兒妻を呼妻來らず

○呼ㇾ雛籬外鷄   籬外草滿ㇾ地

 雛飛欲ㇾ越ㇾ籬   籬高墮三四

○春艸路三叉中に捷徑あり我を迎ふ

○たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に

 三々は白し記得す去年此路よりす

○憐ミとる蒲公莖短して乳を浥(アマセリ)

○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩

 慈母の懷袍別に春あり

○春あり成長して浪花にあり

 梅は白し浪花橋邊財主の家

 春情まなび得たり浪花風流(ブリ)

○郷を辭し弟に負く身三春

 本をわすれ末を取接木の梅

○故郷春深し行々て又行々

 楊柳長堤道漸く暮れたり

○嬌ㇾ首はじめて見る故園の家黄昏

 戸に倚る白髮の人弟を抱き我を

 待春又春

○君不ㇾ見古人太祇が句

   藪入の寢るやひとりの親の側

   *

【訓読版】

 

春風馬堤の曲

 

余、一日(いちじつ)、耆老(きらう)を故園に問ふ。澱水(でんすい)を渡り、馬堤(ばてい)を過(よ)ぎる。偶(たまたま)女(ぢよ)の郷(きやう)に歸省する者に逢ふ。先後(せんご)して行くこと數里、相ひ顧みて語る。容姿嬋娟(せんけん)として、癡情(ちじやう)憐(あはれ)むべし。因(よ)りて歌曲十八首を製し、女(ぢよ)に代はりて意を述ぶ。題して「春風馬堤曲」と曰ふ。

 

   春風馬堤の曲  十八首

 

○やぶ入(いり)や浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)

 

○春風(はるかぜ)や堤(つつみ)長(なご)うして家遠し

 

○堤より下(お)りて 芳草を摘めば 荊(けい)と蕀(きよく)と 路を塞ぐ

 荊蕀 何ぞ妬情(とじやう)なる 裙(くん)を裂き 且つ股(こ)を傷つく

 

○溪流 石(いし)點々 石を踏んで香芹(かうきん)を撮(と)る

 多謝す 水上の石 儂(われ)をして裙(くん)を沾(ぬ)らさざらしむ

 

○一軒の茶見世の柳老(おい)にけり

 

○茶店の老婆子(らうばす)儂を見て慇懃に

 無恙(ぶやう)を賀し且つ儂(わ)が春衣(しゆんい)を美(ほ)む

 

○店中 二客有り 能(よく)解す江南の語

 酒錢 三緡(さんびん)擲(なげう)ち 我を迎へ 榻(たふ)を讓つて去る

 

○古驛(こえき)三兩家(さんりやうけ)猫兒(べうじ)妻を呼ぶ妻來(きた)らず

 

○雛(ひな)を呼ぶ 籬外(りぐわい)の鷄(とり) 籬外 草(くさ)地に滿つ

 雛飛びて 籬(かき)を越えんと欲す 籬高(たこ)うして 墮(お)つること三四

 

○春艸(しゆんさう)路(みち)三叉(さんさ)中(うち)に捷徑(せふけい)あり我を迎ふ

 

○たんぽゝ花咲(さけ)り三々五々五々は黄に

 三々は白し記得(きとく)す去年(こぞ)此路(このみち)よりす

 

○憐みとる蒲公(たんぽぽ)莖(くき)短(みじかう)して乳を浥(あませり)

 

○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩

 慈母の懷袍(くわいはう)別に春あり

 

○春あり成長して浪花(なには)にあり

 梅は白し浪花橋邊(なにはきやうへん)財主(さいしゆ)の家(や)

 春情まなび得たり浪花風流(なにはぶり)

 

○郷(きやう)を辭し弟(てい)に負(そむ)く身(み)三春(さんしゆん)

 本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅

 

○故郷春深し行々(ゆきゆき)て又行々(ゆきゆく)

 楊柳(やうりう)長堤(ちやうてい)道(みち)漸く暮れたり

 

○嬌首(けうしゆ)はじめて見る故園の家(いへ)黄昏(くわうこん)

 戸に倚(よ)る白髮(はくはつ)の人(ひと)弟(おとと)を抱(いだ)き我を

 待(まつ)春又(また)春

 

○君不見(みずや)古人太祇(たいぎ)が句

   藪入(やぶいり)の寢(ぬ)るやひとりの親の側(そば)

   *

 以下、諸本を参考に必要最小限の語注を附す。

・「耆老」老人(「耆」は六十、「老」は七十)。

・「澱水」淀川。

・「嬋娟」容姿のあでやかで美しいさま。

・「癡情」婀娜(あだ)っぽさ。色っぽい艶めかしさ。

・「やぶ入」正月(と盆)の十六日前後に奉公人が主家から休暇を貰って帰省すること。

・「荊」「蕀」茨などの棘を持った灌木類。

・「老婆子」老婆を漢文風に言った。

・「春衣」春の晴れ着。

・「江南語」中国の江南地方に擬した浪花言葉のこと。岩波文庫尾形氏の注では、特に大阪の花街島の内の廓言葉とする。

・「三緡」「緡」は紐に通したもの。一緡百文。

・「榻」床几(しょうぎ)。

・「猫兒」ここでは単に猫。雄猫。

・「呼雛」ここで雌雄の恋猫の恋情から鶏の母子愛に転ずる。

・「捷径」近道。懐かしい野道なればこそ、その近道が彼女を迎えるように待つのである。

・「記得す」覚えています。

・「去年」大阪へ奉公に出た昔。

・「慈母の懷袍別に春あり」「袍」は綿を包み入れた衣。母の暖かな胸そして綿入れに包まれてその懐にあった幼児期を常なる春の別天地と譬えた。

・「浪花橋」天満と北浜を繋ぐ難波橋。両岸は当時の大阪の中心地であった。

・「春情まなび得たり浪花風流」新潮古典集成の清水氏はこの前の「梅白し」からかけて、『おしゃれな娘ごころは、まるで早咲きの梅のように、いちはやく大坂の時勢粧(ニュー・ルック)を身につけて得意になっていました』と洒落た訳を示しておられる。

・「本をわすれ末を取接木の梅」「本」は母や弟そして郷里の比喩。前の梅を受けて、元の親木の恩や苦労を忘れて、いっぱしに咲き誇っているそこに接ぎ木された梅の枝を自らに喩える。

・「行々て又行々」「文選」の「古詩十九首其一」の「行行重行行」の冒頭「行行重行行/與君生別離」(行き行きて重ねて行き行く/君と生きながら別離す)に基づく。

・「嬌首」陶淵明の「歸去來辭」の一節「時嬌首而游觀」(時に首を矯げて游觀(いうかん)す:時折り、佇んでは、辺りを眺める。)に基づく。

・「太祇が句」炭太祇(たんたいぎ 宝永六(一七〇九)年~明和八(一七七一)年)。生前は蕪村と交流があった。以下は明和九年板行の「太祇句集」に載る句。]

 

 この長詩は、十數首の俳句と數聯の漢詩と、その中間をつなぐ連句とで構成されてる。かういふ形式は全く珍しく、蕪村の獨創になるものである。單に同一主題の俳句を竝べた「連作」といふ形式や、一つの主題からヴアリエーシヨン的に發展して行く「連句」といふ形式やは、普通に昔からあつたけれども、俳句と漢詩とを接續して、一篇の新體詩を作つたのは、全く蕪村の新しい創案である。蕪村はこの外にも、

 

     君あしたに去りぬ夕べの心千々に

     何ぞはるかなる

 

     君を思ふて岡の邊(べ)に行つ遊ぶ

     岡の邊なんぞかく悲しき

 

 といふ句で始まる十數行の長詩を作つてる。蕪村はこれを「俳體詩」と名づけて居るが、まさしくこれらは明治の新體詩の先驅である。明治の新體詩といふものも、藤村時代の成果を結ぶ迄に長い時日がかかつて居り、初期のものは全く幼稚で見るに耐へないものであつた。百數十年も昔に作つた蕪村の詩が、明治の新體詩より遙かに藝術的に高級で、かつ西歐詩に近くハイカラであつたといふことは、日本の文化史上に於ける一皮肉と言はねばならない。單にこの種の詩ばかりでなく、前に評釋した俳句の中にも、詩想上に於て西歐詩と類緣があり、明治の新體詩より遙かに近代的のものがあつたのは、おそらく蕪村が萬葉集を深く學んで、上古奈良朝時代の大陸的文化――それは唐を經てギリシアから傳來したものと言はれてる――を、本質の精神上に捉へて居た爲であらう。とにかく德川時代における蕪村の新しさは、驚異的に類例のないものであつた。あの戲作者的、床屋俳句的卑俗趣味の流行した江戸末期に、蕪村が時潮の外に孤立させられ、殆んど理解者を持ち得なかつたことは、むしろ當然すぎるほど當然だつた。

 さてこの「春風馬堤曲」は、蕪村がその耆老を故園に訪ふの日、長柄川の堤で藪入りの娘と道連れになり、女に代つて情を述べた詩である。陽春の日に、蒲公英の咲く長堤を逍遙するのは、蕪村の最も好んだリリシズムであるが、しかも都會の旗亭につとめて、春情學び得たる浪花風流(ぶり)の少女と道連れになり、喃々戲語を交して春光の下を歩いた記憶は、蕪村にとつて永く忘れられないイメーヂだつたらう。

 この詩のモチーヴとなつてるものは、漢詩の所謂楊柳杏花村的な南國情緒であるけれども、本質には別の人間的なリリシズムが歌はれて居るのである。即ち蕪村は、その藪入りの娘に代つて、彼の魂の哀切なノスタルジア、亡き母の懷袍(ふところ)に夢を結んだ、子守歌の古く悲しい、遠い追懷のオルゴールを聽いて居るのだ。「昔々しきりに思ふ慈母の恩」、これが實に詩人蕪村のポエジイに本質して居る、侘しく悲しいオルゴールの郷愁だつた。

 

     藪入りの寢るや小豆の煮える中

 

 といふ句を作り、さらに春風馬堤曲を作る蕪村は、他人の藪入りを歌ふのでなく、いつも彼自身の「心の藪入り」を歌つて居るのだ。だが彼の藪入りは、單なる親孝行の藪入りではない。彼の亡き母に對する愛は、加賀千代女の如き人情的、常識道德的の愛ではなくつて、メタフィヂツクの象徴界に縹渺してゐる、魂の哀切な追懷であり、プラトンの所謂「靈魂の思慕」とも言ふべきものであつた。

 英語にスヰートホームといふ言葉がある。郊外の安文化住宅で、新婚の若夫婦がいちやつくといふ意味ではない。蔦(つた)かずらの這ふ古く懷かしい家の中で、薪の燃えるストーヴの火を圍みながら、老幼男女の一家族が、祖先の畫像を映す洋燈の下で、むつまじく語り合ふことを言ふのである。詩人蕪村の心が求め、孤獨の人生に渇きあこがれて歌つたものは、實にこのスヰートホームの家郷であり、「爐邊の團欒」のイメーヂだつた。

 

     葱買つて枯木の中を歸りけり

 

 と歌ふ蕪村は、常に寒々とした人生の孤獨(アインザーム)を眺めていた。さうした彼の寂しい心は、爐(ゐろり)に火の燃える人の世の侘しさ、古さ、なつかしさ、暖かさ、樂しさを、慈母の懷袍(ふところ)のやうに戀ひ慕つた。何よりも彼の心は、そうした「家郷(ハイマート)」が欲しかつたのだ。それ故にまた

 

     柚の花やゆかしき母屋(もや)の乾隅

 

 と、古き先代の人が住んでる、昔々の懷かしい家の匂ひを歌ふのだつた。その同じ心は

 

     白梅や誰が昔より垣の外

 

 といふ句にも現れ

 

     小鳥來る音うれしさよ板庇

     愁ひつつ丘に登れば花茨

 

 などのロセツチ風な英國抒情詩にも現われて居る。オールド・ロング・サインを歌い、爐邊の團欒を思ひ、その郷愁を白い雲にイメーヂする英吉利文學のリリシズムは、偶然にも蕪村の俳句に於て物侘しく詩情された。

 

     河豚汁の宿赤々と灯しけり

 

 と、冬の街路に爐邊の燈灯(ともしび)を戀ふる蕪村は、裏街を流れる下水を見て

 

     易水に根深流るる寒さかな

 

 と、沁々として人生のうら寒いノスタルヂアを思ふのだつた。そうした彼の郷愁は、遂に無限の時間を越えて

 

     凧(いかのぼり)きのふの空の有りどころ

 

 と、悲しみ極まり歌ひ盡さねばならなかつた。まことに蕪村の俳句に於ては、すべてが魂の家郷を戀ひ、火の燃える爐邊を戀ひ、古き昔の子守歌と、母の懷袍(ふところ)を忍び泣くところの哀歌であつた。それは柚の花の侘しく咲いてゐる、昔々の家に鳴るオルゴールの音色のやうに、人生の孤獨に凍え寂しむ詩人の心が、哀切深く求め訪ねた家郷であり、そしてしかも、侘しいオルゴールの音色にのみ、轉寢の夢に見る家郷であつた。

 かうした同じ「心の家郷」を、芭蕉は空間の所在に求め、雲水の如く生涯を漂泊の旅に暮した。然るにその同じ家郷を、ひとへに時間の所在に求めて、追懷のノスタルヂアに耽つた蕪村は、いつも冬の炬燵にもぐり込んで、炭團(たどん)法師と共に丸くなつて暮して居た。芭蕉は「漂泊の詩人」であつたが、蕪村は「爐邊の詩人」であり、殆んど生涯を家に籠つて、炬燵に轉寢をして暮していた。時に野外や近郊を歩くときでも、彼は尚ほ目前の自然の中に、轉寢の夢に見る夢を感じて

 

     古寺やほうろく捨る芹の中

 

 と、冬日だまりに散らばふ廢跡の侘しさを詠むのであつた。「侘び」とは蕪村の詩境に於て、寂しく霜枯れた心の底に、樂しく暖かい爐邊の家郷――母の懷袍(ふところ)――を戀ひするこの詩情であつた。それ故にまた蕪村は、冬の蕭條たる木枯の中で、孤獨に寄り合ふ村落を見て

 

     木枯や何に世渡る家五軒

 

 と、霜枯れた風致の中に、同じ人生の暖かさ懷かしさを、沁々いとしんで咏詠むのであつた。この同じ自然觀が、芭蕉にあつては大いに異なり、

 

     鷹ひとつ見つけて嬉しいらこ岬   芭蕉

 

 と言ふやうな、全く魂の凍死を思はすやうな、荒寥たる漂泊旅愁のリリツクとなつて歌われて居る。反對に蕪村は、どんな蕭條とした自然を見ても、そこに或る魂の家郷を感じ、オルゴールの鳴る人生の懷かしさと、火の燃える爐邊の暖かさとを感じて居る。この意味に於て蕪村の詩は、たしかに「人情的」とも言へるのである。

 蕪村の性愛生活については、一も史に傳つたところがない。しかしおそらく彼の場合は、戀愛に於てもその詩と同じく、愛人の姿に母の追懷をイメーヂして、支那の古い音樂が聞えて來る、「琴心挑美人」の郷愁から

 

     妹が垣根三味線草の花咲きぬ

 

 の淡く悲しい戀をリリカルしたにちがひない。春風馬堤曲に歌われた藪入りの少女は、こうした蕪村の詩情に於て、蒲公英の咲く野景と共に、永く殘つたイメーヂの戀人であつたろらう。彼の詩の結句に引いた太祇の句。

 

     藪入りの寢るやひとりの親の側   太祇

 

 には、蕪村自身のうら侘しい主觀を通して、少女に對する無限の愛撫と切憐の情が語られて居る。

 蕪村は自ら號して「夜半亭蕪村」と言い、その詩句を「夜半樂」と稱した。まことに彼の抒情詩のリリシズムは、古き樂器の夜半に奏するセレネードで、侘しいオルゴールの音色に似て居る。彼は芭蕉よりも尚ほ悲しく、夜半に獨り起きてさめざめと歔欷するやうな詩人であつた。

 

     白梅に明くる夜ばかりとなりにけり

 

 を辭世として、縹渺よるべなき郷愁の悲哀の中に、その生涯の詩を終つた蕪村。人生の家郷を慈母の懷袍(ふところ)に求めた蕪村は、今も尚ほ我らの心に永く生きて、その侘しい夜半樂の旋律を聽かせてくれる。抒情詩人の中での、まことの懷かしい抒情詩人の蕪村であつた。

 

 附記――蕪村と芭蕉の相違は、兩者の書體が最もよく表象して居る。芭蕉の書體が雄健で濶達であるに反して、蕪村の文字は飄逸で寒さうにかじかんで居る。それは「炬燵の詩人」であり、「爐邊の詩人」であつたところの、俳人蕪村の風貌を表象して居る。

 

[やぶちゃん注:「孤獨(アインザーム)」 “einsam”(ドイツ語・形容詞)で、独りの、孤独な、淋しい、人里離れた、辺鄙な。因みに名詞形ならば“einsamkeit”(アインザームカイト)。

「家郷(ハイマート)」“Heimat”(ドイツ語)で、生まれ故郷、ふるさと、祖国。

「オールド・ロング・サイン」スコットランド民謡で非公式な準国歌でもある“Auld Lang Syne”。「蛍の光」の原曲。

「琴心挑美人」次に掲げられた「妹が垣根三味線草の花咲きぬ」の前書。「琴心(きんしいん)もて美人に挑む」と読む。「史記」の列伝の「五十七 司馬相如列伝」で、相如が大富豪卓王孫の娘文君(夫に先立たれて実家に出戻っていた)に対して心中を琴の音と歌に託し、美事にその恋を摑んだ故事を指す。]

かなしみ   八木重吉

    かなしみ

 

このかなしみを

 

ひとつに 統(す)ぶる 力(ちから)はないか

鬼城句集 冬之部 霜月

霜月    霜月やかたばみ咲いて垣の下

[やぶちゃん注:「かたばみ」カタバミ目カタバミ科カタバミ属 Oxalis には南アメリカ原産で江戸時代末期に観賞用として導入されて以降、日本に広く帰化しているムラサキカタバミ Oxalis corymbosa のように半耐寒性・耐寒性の品種があり、冬花を咲かせるものがある。但し、ムラサキカタバミは環境省により要注意外来生物に指定されている(以上はウィキの「ムラサキカタバミ」他を参照した)。]

2013/12/16

耳嚢 巻之八 雄長老狂歌の由人の語りし事

 雄長老狂歌の由人の語りし事

 

 心にはへちまの皮をたやすなよ浮世の垢を落さんが爲と詠(よま)れし、出家の道歌には面白き事也。貧乏神のさんを、有長老のいたされしよし。

  貧乏の神をいれじと戸を建てゝ能々見れば我身なりけり

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。狂歌シリーズ。

・「雄長老」「ゆうちやうらう(ゆうちょうろう)」と読む。英甫永雄(えいほえいゆう 天文一六(一五四七)年~慶長七(一六〇二)年)のこと。安土桃山時代の臨済宗夢窓派の僧。別に武牢・小渓・芳洲とも号した。若狭武田氏信重の子であったが、同族出身の建仁寺の文渓永忠に就いて学び、諸方遊歴の後、その法を嗣いだ(夢窓派と併せて幻住派をも法嗣)。建仁寺如是院に住し、天正一四(一五八六)年に建仁寺住持、文禄三(一五九四)年には南禅寺主となる。相国寺鹿苑院の西笑承兌(さいしょうじょうたい 天文一七(一五四八)年~慶長一二(一六〇八)年:臨済僧。豊臣秀吉や徳川家康の顧問的役割を務め、法要などの仏事の運営は勿論、諸法度や外交文書起草・学問奨励策や寺社行政立案などに重要な役割を果たした人物・ここはウィキ西笑承兌に拠る)や林羅山と親交があり、特に羅山の学問には大きな影響を与えた五山文学末期を代表する一人。連句・和歌にも優れたが、殊に狂歌を好み、近世狂歌の祖ともされる。著書に「羽弓集」「雄長老詠百首狂歌」「倒痾集」(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「心にはへちまの皮をたやすなよ浮世の垢を落さんが爲」底本の鈴木氏注に、『この歌、『古今夷曲集』に釈教の部に信海の詠として掲げる。詞書に「世中はノ麻皮(ヘチマノカハ)と思へと人のいへる返事に」とある』とする。「古今夷曲集」は「こきんいきょくしゅう」と読む。真宗僧で狂歌師でもあった生白庵行風(せいはくあんこうふう)編になる狂歌撰集で、寛文六(一六六六)年に京都安田十兵衛から板行された(十巻四冊)。聖徳太子以下、古今各層の作者二百四十一人の狂歌千五百余首を四季・賀・神祇等に分類編集したもの。引用書は「旧事本紀」以下三十四部に及び、採録の範囲は広範多岐、所収作品は玉石混淆ではあるものの、それまで各界人士の余技として作られていた狂歌をこうした本格的撰集の形で公刊した史的意義は大きい(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠る)。「信海」とは江戸時代の狂歌作者豊蔵坊信海(ほうぞうぼうしんかい 寛永三(一六二六)年~元禄元(一六八八)年)のこと。山城国石清水八幡宮豊蔵坊社僧。石清水八幡本坊の松花堂昭乗に書を、小堀遠州に雅事を、松永貞徳に俳諧を学んだ。狂歌は正親町実豊や中院通茂らの貴紳との応酬もあり、先の狂歌撰集「古今夷曲集」には二十四首も入集し、この時期の諸書にもその名が散見される。社用のためか江戸に往来することが頻繁で、東海道中での詠歌も多くあって連作「富士狂詠」四十一首などが知られる。初期教養人の余技的狂歌から職業的狂歌への橋渡的な存在であって門下には江戸の旗本黒田月洞軒や大坂歌壇の大立者油煙斎貞柳などがいる。公刊歌集に「狂歌鳩杖集」がある(ここは「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。「へちまの皮」は、糸瓜を水に漬けて果肉や種子・外皮を腐らせて取り去った後の海綿状の繊維の塊で、身体を擦るスポンジのように用いるあれを「皮」と指して言っているので注意。鈴木氏は、『また「へちまの皮とも思わぬ」は流行言で、少しも意に介さぬこと』と注され、「古今夷曲集」詞書も解説して下さっておられる。本歌は特に通釈の要はあるまい。

・「道歌」道徳的教訓的な内容を分かり易く詠み込んだ和歌。

・「貧乏神のさん」「さん」は「讚」(底本に右に同注有り)。

・「有長老」「雄長老」のこと。底本には右に『(雄)』と訂正注があるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『右長老』とあることから、これは「右」を「有」と誤写したものであろう。「右」で採る。

・「貧乏の神をいれじと戸を建てゝ能々見れば我身なりけり」岩波版長谷川氏注に、『小異あれど『雄長老狂歌』『新撰狂歌集』に出』とある。前者は「雄長老詠百首狂歌」のこと。「新撰狂歌集」は寛永一〇(一六三三)年頃に板行された編者版元不明の狂歌撰集(上下二冊)で、古今の狂歌一九一首(他に俳諧十八首と古歌一首)を四季・恋・羇旅・述懐・釈教・哀傷・神祇・雑に分類編集したもの。所収作品の作者は古くは鎌倉時代の定家や暁月坊から近くは細川幽斎・里村紹巴・雄長老にまで及ぶが、作者不明のものも多く,前大上戸朝臣・宇治の茶大臣母・無銭法師のごとき狂名もすでに用いられている。落首も多く収められており、全体に線の太い笑いに満ちている(ここは「世界大百科事典」に拠る)。「能々」は「よくよく」。これも通釈の必要性を感じない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 雄長老狂歌の由と人の語れる歌の事

 

 心にはへちまの皮をたやすなよ浮世の垢を落さんが爲

 

とお詠みになられたと、とある御出家――知られた雄長老殿とか――の道歌と申すは、これ、御覧の通り、まっこと、面白きものにて御座る。

 さても『貧乏神の讃』と申す狂歌を、やはりかの長老殿がお詠みになられた歌の由。

  貧乏の神をいれじと戸を建てゝ能々見れば我身なりけり

中島敦の南洋日記の欠落部補填のための昭和16(1941)年11月9日附中島たか宛書簡(詳細注附)

[やぶちゃん注:この間の十七日までの十日間の日記は現存しない。敦の日記はこの「南洋日記」(私の仮題)しか残されていないが、解題によればこれ以外にも、メモ書きの手帳類とは別の多くの日記が(本人によって?)焼却されたものらしい。この間をせめても補うものとして、十一月九日附の中島たか宛書簡を以下に示して消息を知る便(よすが)とする。なお、この間の書簡もこれ一通しか残存しない。

   *

〇十一月九日附(日附は「六日」としたものを「六」を抹消して「七」に訂したもの。単なる誤記とも、六日に一旦書き始めたが、喘息の発作が断続的に続いた(六日と七日の日記参照)ために中断して九日に再び筆を執ったものとも考え得る(先に掲げた父田人宛は六日附である)。消印パラオ郵便局一六・一一・九、世田谷一六・一一・一三。南洋群島パラオ島コロニール町南洋庁地方課。東京市世田谷区世田谷一丁目一二四 中島たか宛。封書。航空便。旧全集「書簡Ⅰ」書簡番号一三九。太字は底本では傍点「ヽ」)

 久しぶりに歸つて見ると、さすがにパラオは、便利な所だな。今迄まはつて來た東の島々に比べればね。バナナもあるし、コーヒーもあるし。しかし、ラヂオが何處からも聞えて來ないのには駕いた。放送局まで出來たのに、こんな筈はないと思つて聞いて見たら、まだ受信(ジユシン)器、(つまり、ウチに備へとくラヂオさ)が少ししか(十ぐらゐしか)來てないんだとさ。南洋長官だとか内務部長とか、さういふ人の家にしか、ないんださうだ。それに、さういふ所でも、パラオは今、電燈が晝はつかないので、夜しか聞けない譯だ。パラオ放送局などと言つたつて、こんなアンバイぢや、シヨウがない。これぢや一月の春場所の相撲も聞けないかも知れない。パラオへ歸つたら、東京の夜の音樂放送も聞けると思つてゐたら、大違ひさ。今、そちらから送つて貰つた雜誌類をガツガツ(久しく餓ゑてゐたからね)讀んでゐる。これはお父さんが學校で、買つて來て下さつたものなんだらうが、お父さんへの手紙に、このお禮(レイ)を書くのを忘れたから、お前から宜しく、申上げておいてくれ。但し、之からは、「文藝」と「新潮」と「文學界」の三つだけで結構だ、、といふことも、ついでに。何しろ旅行中は、内閣が變つても、しばらく知らないでゐるんだから、暢氣なものさ。

 國民學校の、よみかたの卷四を見て、ムヅカツイのに驚いた。桓にも、書取(カキトリ)(字を讀む方はやさしいが、書くのはムヅカシイから)だけは毎日少しつつでいいから、シツカリ稽古(ケイコ)させなけれはいけないと思つた。これはおぢいちやんに、お賴みしておくれ。

 二重マブタになつたといふ格の顏(カホ)は一一寸想像できないな。イタヅラばかりしてるだらうな。やつぱりデブさんだらうね。この一月(ひとつき)以來、オレの生活の中に、一つの規則(キソク)をこしらへた。それは、「午後四時以後、子供のことを考へないこと」といふのだ。格や桓のことが頭に浮んでくると、大急ぎで、聲をだして本をよんだり、近所に、無駄話に出かけたり、して、そらして了ふんだ。オレが最近、身體の調子の良いのもこの規則のおかげかも知れない。だが、今は、まだ午前中(けふは日曜、十一月九日)だから、子供等のことを考へてもいゝし、ノチャの寫眞を見てもいいわけだ。

 この前、お前達のシャシンを送れ、と書いたが、あれは別に、いそがなくてもいいんだ。ヒマな時に、とつたのを、何時でもいいから、送つてくれればいい。いそがしいのに、無理にシャシン屋などへ出掛ける必要はない。

 群島を今迄歩いて見た所では、どうも、僕の喘息には、(全く困つたことに)パラオが一番惡いやうだ。セツカク、少し、ふとつて來たのに、又、痩(ヤ)せて來ては大變だから、いそいで、第二の旅行に出ることにしようと思ふ。まだ、確定(カクテイ)ではないが、大體次のやうになるだらう。十一月十八日山城(ヤマシロ)丸でパラオ出帆、二十二日にロタといふ島に下りる。ここで二日とまつて、二十四日にサイパン丸で、ここからサイパンに向ふ。二十六日サイパン着。サイパンには一週間滯在。十二月三日出帆の近江丸で、南へもどる。十二月八日、ヤップ着、ヤップに十八日程滯在して、群島でも一番、開(ひら)けない此處の土人を充分(ヂウブン)に見ようと思ふ。さて十二月二十六日ヤップ發、翌二十七日パラオ着といふことになるだらう。合計四十日。中でもヤップの十八日間は樂しいだらうと思ふ。

 さて、右のやうな豫定だから、十一月中にパラオ宛に、手紙や、物を送つてくれても駄目だ。送るのなら、十二月になつてから出すこと。十二月の十日か十二・三日頃迄に、出せば、大抵、僕の歸つてくる船(ヤップから乘込む、(又又(マタマタ))サイパン丸)で一緒に來るだらう。十二月二十七日に歸るなんて云へば、内地なら歳も押しせまつて大分、忙しい感じだが、こちらでは、年の暮なんて感じが出るか、どうか? タラタラトと汗を流しながら、「明けまして、おめでたう」ぢやずゐぶん、をかしなものだね。第一、ゾウニも喰へるか、どうか分らない。去年は、罐詰(カンヅメ)のゾウニだつたさうだが。しかし、決して、餅(モチ)なんぞ送るんぢやないよ。貰(モラ)つたつて燒く所が、あるわけぢやなし。却つて困るから。それにオレは、モチよりもパンの方が好きな位だからね。

 十二月といへば、うちのクリスマス・トリーを思出すね。どうした? あれ。資(スケ)さんの所へ置いて來たかい? 去年は格がこはがつて、そばへ寄らなかつたね。それとも、こはがつたのは、今年の五月人形だつたかな? 資さんといへば、二度ばかり手紙を呉れた。ウチのこと、喜んでゐたよ。

 ここの所、三日ばかり續けて飛行機が出る。今迄、たまってゐたのが一ぺんに動き出したからだ。オレは大抵、飛行機が出る度に手紙をやるつもりだけれど、お前までが、その、おつきあひをする必要はない。お前の方は、一月に一度か二度で結構。手紙を書く間だけでも身體を休めた方がいいぜ。お前のハタラキ過ぎるのを、オレは、一番心配する。オレを安心させたかつたら、なるべくなまけて呉れ。

 オレの留守(ルス)の間に來た(ズヰブン遲(オク)れて)お前の手紙、(八月十八日に出したヤツ。オレの病氣の手紙を讀んで、トテモ心配して書いた、長い長い手紙さ、お前一人で南洋へ來るつて云つてきた手紙)を讀んで、オレは、お前に心配させすぎたことを後悔してゐる。あのオレの病氣の手紙は、別に大ゲサに書いたわけでも何でもない。本當のことばかりだが(あとで、あれは大げさに書き過ぎたんだ、と言つてやつたのは、アレは、お前が本當に南洋にやつて來ては、いけないと考へたからだ。)しかし、あれ程お前の心をいためると知つたら、あんなにくはしく書くんぢやなかつた。

 全く、あんなに心配しちや、イノチがちぢまつちまふ。あんなに心配させて氣の毒だつたと思ふよ。實際、もう少し、加減(カゲン)して、何とか書くべきだつたんだ。しかし、あの時は、オレも、苦(くる)しくて苦しくて、讀む方の身になつて考へるだけの餘裕(ヨユウ)が無かつたんだ。(あの時の下痢(ゲリ)が、アミーバ赤痢だつたことが、最近、やつと、ハツキリわかつた。そのわけは書くと長くなるから略す)全く、心配させ過ぎて、惡かつたよ。しかし、もう、今は、身體の方は大丈夫。旅行に出る前、スツカリ(内地にゐる時よりもずつと)深(フカ)く落ちこんでゐたホツペたも、今では、大分ふくらんで來た。鏡を見ると自分でも良く分る。寫(シヤ)眞を送つてやりたいんだが、どうも、お前も知つてるとほり、僕は、寫(シヤ)眞屋といふヤツが大嫌ひでね、何でもいいから、こつちの好きな恰好(カツコウ)で撮(と)ればいいものを、ヤレ、アゴを引けの、も少し左を向けのと、馬鹿々々しいことばかり言ふからイヤなんだ。つい、行く氣にならなくなる。その中、同じ宿舍の人にとつてもらつて、送らう。話は、全然違(チガ)ふが、「燒のり」つて、高いものだねえ。今、こつちで賣つてる、餘り上等でないヤツでも一圓六十錢(罐(カン))ぐらゐだね。少し大事にして、たべようと思つたよ。旅行に出てゐて、手を付けなかつたのが、まだ二罐あるから、當分送つてくれなくてもいいや。

 お前のこしらへた、絹(キヌ)の腹卷(ハラマキ)は、とても暖(あたたか)いね。毎晩して、ねてるんだ。もう寢冷(ねびえ)の心配はない。さて、今度旅行して見て、土人の教科書編纂(サン)といふ仕事の、無意味さがはつきり判(ワカ)つて來た。土人を幸福にしてやるためには、もつともつと大事なことが澤山ある、教科書なんか、末(スエ)の末の、實に小さなことだ。所で、その土人達を幸福にしてやるといふことは、今の時勢では、出來ないことなのだ。今の南洋の事情では、彼等に住居と食物とを十分與へることが、段々出來なくなつて行くんだ。さういふ時に、今更、教科書などを、ホンノ少し上等にして見た所で始まらないぢやないか。なまじつか教育をほどこすことが土人達を不幸にするかも知れないんだ。オレはもう、すつかり、編纂の仕事に熱が持てなくなつて了つた。土人が嫌(キラ)ひだからではない。土人を愛するからだよ。僕は島民(土人)がスキだよ。南洋に來てゐるガリガリの内地人より、どれだけ好きか知れない。單純で中々可愛い所がある。オトナでも大きな子供だと思へば間違ひがない。昔は、彼等も幸福だつたんだらうがねえ。パンのミ・ヤシ・バナナ・タロ芋は自然にみのり、働かないでも、さういふものさへ喰べてれば良かつたんだ。あとは、居眠り、と踊りと、おしやべり、とで、日が暮れて行つたものを、今は一日中こき使はれて、おまけに椰子(ヤシ)もパンの木(キ)も、ドンドン伐られて了ふ。全く可哀さうなものさ。(今の有樣については、くはしく書くことを禁じられてゐるから、これは、もう之で止める)

 身體は元氣になつたが、この暑さ、むし暑さでは、頭を働かせることは、殆ど不可能といつてもいい。夜だつて、とても、書きものなんか出來ない。實は、この十月一パイ迄に、オレは或る仕事をするつもりだつたんだが(内地を出發する時も、そのつもりで、原稿用紙などを持つて來たんだが)、はじめの七月・八月は病氣ばかり、それからは旅行となり、旅行に出る時もまだあきらめられないで、原稿紙を持つて行つたのだが、事實は一枚も書けなかつた。暑さのせゐにするのは卑怯(ヒケウ)かも知れないが、實際、この氣温ではオレには何一つ、仕事が出來ない。最近、ある統(トウ)計を見ると、たら、パラオの一年間の平均温度は東京の七月八月の平均温度よりも高く、濕(シツ)度と來たら東京の三倍か四倍ぐらゐなんだ。殘念ながら、オレはこの高温と濕度とに敵(カナ)はない。身體は或ひは慣れるかも知れないが、精神は次第(シダイ)々々にモウロウとなつて行くばかりだらう。南洋に長くゐる人は、たしかに頭の働きが鈍(ニブ)いね。これは本當だ。でも十月の終になつても、一枚も書けなかつた時は、さすがになさけなかつたなあ! 自分の不甲斐(フガヒ)なさに、口惜(クヤ)し涙が出たよ。だが、この涙は、誰にも分つてもらへない。お前のほかは。又、誰にも話すべきことでもあるまい。桓や格も、大きくなつて、(普通の役人や會社員で終る人間なら、それは、それでいいが)もし、學問や藝術に志ざす人間だつたら、たとへ餓死しようとも、自分の志ざす道から外(そ)れて、よその道に入るやうなことは、させ度くないなあ。オレの今、味はつてるやうなイヤななさけない思ひはさせたくないと、しみじみ考へるよ。

 しかし、まあ、旅行前にくらべて、身體だけでも良くなつたことは喜んでくれ。精神的なことは、これは、オレが自分で何とかするさ。お前の心配すべきことではない。せんに、オレに萬(マン)一のことがあつたら、あのバスケットの中の原稿の中、和歌だけ氷上にやつて、あとは燃(モ)しちまへといつたね。あの言葉を少々訂正(テイセイ)しておく。燒かないでもいい。氷上にやらないでもいい。オレが死んだらね、三好に賴んで深田氏にあづけてあるものを持つて來て貰ふんだ。さうして、それ等をあのバスケットの中の原稿と一緒に包んで、しまつて置け。さうして桓が二十歳にもなつて、文學をやらうとする人間(或は、文學を非常に愛好(アイコウ)する靑年)だつたら、それを桓に渡してくれ。桓がさういふ人間でなかつたら、格が大きくなるのを待つてくれ。格も又、駄目なら、仕方がない。その時始めてみんな燃しちまつてくれ。

 旅行中、ヤルートでは五時の朝飯、ポナペでは六時、トラックでは六時半の朝飯といふ工合に時間が色々ちがふので、こちらへ着いてからも時間の工合が何だかへンで仕方がない。ここでは大體七時から七時半に朝飯をくふ。ヤルートとは大變な違ひさ。

○今、かへるがしきりにギヨロギヨロないてゐる。バナナ畑の下の濕(シツ)地で鳴いてるんだ。本郷町のダンダンの下の洗ひ場で、よく鳴いてゐたつけな。

○留守(ルス)中に來てたビスケットを少し、土(ひぢ)方さんに上げたら、とても喜んでたよ。あの人も僕と同樣、パンやミルクや紅茶やビスケットが無くては、ゐられない人なんだ。土方さんの所には、何時もミルクや紅茶やコーヒーがある、時々飮ませてもらふんだ。

○僕のゐない間に、地方課には大分人がふえた。たゞ僕の助手だけが來ない。繪をかく人もゐないし、一體、どうする氣なんだらうなあ。

○飛行機は、實に搖(ユ)れの少いものだが、しかし、やつぱり汽船の旅の方がラクだね。といふのは、腰かけたきりで、横になれないから。

 しかし、窓から、雲の變化を眺めてゐると、あきないねえ。

   *

「お父さんへの手紙」前掲の十一月六日附の中島田人宛書簡と思われる。

「何しろ旅行中は、内閣が變つても、しばらく知らないでゐるんだから、暢氣なものさ」昭和一六(一九四一)年十月十八日に第三次近衛内閣から東條内閣へ変わったことを指す。この時、トラック島に滞在していた敦は翌十月十九日の日記に、『政變の噂を始めて聞く。すでに二三日前のことの由。浮世離れしたるものかな』と記している。

「資さん」高橋資雄。「九月廿一日」の注を参照。不詳の人物ながら、クリスマス・ツリーを譲って(保管?)いるところや、この文面を見ると、親族ではないにしても、かなり親しくしていた人物であることが分かる。

「オレの病氣の手紙」と敦のいう当該書簡は底本の「書簡Ⅰ」には見出せないが、八月十七日附の父中島田人宛の書簡(旧全集書簡番号一〇九)で、七月六日にパラオ到着からの凡そ一ヶ月の間、『殆ど病氣ばかり、喘息が少しよくなる急性大腸カタルで八日ばかり寐込んで了ひ、、それが、今以て、すつかり治つてはをりませぬ。發病以來二十日になりますので、或ひは、慢性にして了つたのかとも思はれます。何しろ食物の調節とか加減などまるで出來ない土地で、』『營養など考へてゐる餘裕はございません、腹に良からうと惡からうと、バナナでも喰つて、補ひをつけるより外ありません。こんな譯で大腸カタルも治らないのでせう』とあり、次に載る書簡番号一一〇の同じく田人宛八月二十二日附書簡の冒頭には、『十八日附の飛行便、たゞ今拜見致しました。色々と御心配を頂きまして、誠に申し譯ございません。實は、たかに宛てました此の前の手紙は、幾分大袈裟に過ぎはしなかつたかと後悔をしてゐる次第で、慚愧堪えへません、』(改行)『病中感傷の所爲とお嗤ひ願ひます、現在では、もはや、ずつと元氣になつておりますし、喘息の方も極めて良好とはいへませぬが、内地の冬のことを考へますと、遙かに樂にすごしております』として、ここで敦が言う、たかの示した南洋への渡航の希望に就いて、以下のように強くたしなめる内容が記されてある(太字は底本では傍点「ヽ」)。

   《引用開始》

 たかは、南洋へ來たいやうなことを申してをりますが、とんでもない話で、こちらの様子が一向内地に知られてをらず、ぬために(又、知らせないことになつてゐるのでせう)そんなことを考へるのでせうが、これは凡そ、問題にならぬ話です、こちらから婦女子が引揚げこそすれ、こちらへ來るやうな時ではありません、絶對に。

 詳しく書くことが許されてをりませんので、困るのですが、爆死と餓死とを將來の非常な危険を豫想しないでは、此方へ來ることは出來ないやうな有樣です、たかによくよくお言ひ含めの程、願ひます、あれはたゞ、父上にお仕へすることゝ、二兒の世話とに、つとめてくれゝば、それで僕は滿足である旨、お云ひきけ願ひます、

   《引用終了》

このことから、たかへの体調不良をかなり深刻に記した手紙及び、それへのたかの南洋への渡航を望んだ返信は、田人宛書簡の送られた八月十七日以降、八月二十二日以前の凡そ六日間に前者を敦が出し(田人宛書簡と同日発信と思われる)、それに答えてパラオの敦の手元に届いていた(閉区間が短いことから速達便であった可能性が高いか)ことが分かる。そして、この田人宛と同日の八月二十二日附で以下のたかへの詫びの葉書が送られている。以下に全文を示す。

   *

〇八月二十二日附(消印パラオ郵便局一六・八・二二、横浜一六・八・二五。南洋パラオ島コロニール町南洋庁地方課。横浜市中区本郷町二ノ二四七 中島たか宛。はがき。航空便。旧全集「書簡Ⅰ」書簡番号一一一)

 病気の手紙で、すつかり心配をかけてすまなかつた。あれは、もう廿日も一月も前の手紙なんだ。今は、もう、すつかり元気だから、安心すべし。お前なんぞ來る必要はない。大丈夫だよ。桓も格も元氣らしい樣子で、まづ安心。俺の手紙は少し大ゲサすぎたんだ。今はもう大したことはない。天氣も次第に、良くなつてきたし、もう何も心配することはない。

   *

しかしながら実は必ずしも敦の体調はこの時点では快方に向かっていなかったことが、次の三日後の八月二十五日附の横浜女学校時代の教え子川口直江宛書簡(旧全集書簡番号一一二)で分かる。そこで敦は、寄せられた多くの教え子の手紙にそれぞれ返信したいが、『目下、僕は三十九度ぐらゐの熱で臥床中で、到底一人々々にあてゝ書くだけの體力がない』ため、『居間僕の机の上に重ねてある皆さんの手紙の一番上に(偶然)川口君のがのつてゐ』たことから、あなた『あてに書くことにした譯で』、『明日、船が出るので、どうしても今晩中に書かなければならないのです』とし(この船は郵便を載せる船便のことである)、『どうも気候が僕の身體に合はぬらしく、次から次へと病氣をして困つてゐます。今、やつてゐるのはデング熱といふ(ハシカとマラリヤを一緒にしたやうな)風土病です、熱は高いが、生命に別條はないさうですから御安心下さい。たゞ、七月の末から八月の始にかけて急性大腸カタルをした時には全く辛く思ひました。内地の腹下しなどとは、まるで、違ふ、殆ど赤痢のやうな症狀で、實に猛烈なものです。しかし、誰も知つてる人はなし、腹痛と下痢との中にまる三日間、炎熱にあへぎながら、のまず食はずで、はふりつぱなしにされてゐた時は全く弱りました、その時は、實際、内地が――横濱が――一番ハツキリいへば女房が――しみじみと戀しくなりましたよ。全く。』(改行)『その烈しい下痢も、まだすつかり治りきらず、どうやら慢性にこじらせて了つたらしい所へ、又、このデング熱ですつかり腐つてゐます、早く、島から島への旅行に出かけたいのですが、中々思ふやうに行きません』『又、身體の關節がズキくいたんで來たから、この邊で、やめさせて貰ひます』とまで記しており、症状は寧ろ悪化していたことが分かる。病状を偽って空元気まで示したたかへの思いやりが痛々しい。人によっては一方で教え子に事実を告白しているところに、敦の甘えを感じられるかも知れないが、実は『本郷町の家族は、この手紙が着く頃には、もう引越して了つてゐるでせう、世田谷の僕の父の所に』と川口宛書簡に記されている通り、この書簡の日本到着前に中島たかは義父田人のいる世田谷へ転居している。横浜在住の者が多かったであろう敦の教え子からデング熱云々の話がたかに洩れる可能性は低く、さればこそせめて可愛い教え子には甘えてみたかったという気持ちは分かる。また書簡から事実、この後にデング熱特有の発疹が出現したことが記されてあることから、そもそもこの十一月九日附たか宛書簡内で、敦がこの時の病気をアミーバ赤痢だけと断定して言っていること自体が嘘である。則ち、重病ではないもののデング熱という奇体な名前の病気にその後に罹患していた事実をあくまで敦は隠したのである。ここにも敦のたかへの心配りが働いていると私には思われるのである。

「燒のり」「一圓六十錢(一罐(カン))ぐらゐ」というのは当時としては法外な金額である。信頼出来るデータによれば、昭和十六年当時の一円は現在の五千円から一万円に相当するからで、低く見積もっても七、八千円相当である。

「今度旅行して見て、土人の教科書編纂といふ仕事の、無意味さがはつきり判つて來た。土人を幸福にしてやるためには、もつともつと大事なことが澤山ある、教科書なんか、末の末の、實に小さなことだ。所で、その土人達を幸福にしてやるといふことは、今の時勢では、出來ないことなのだ」以下の敦の述懐には苦渋が滲む。南洋文化のアイデンティティを守ろうとする極めて良心的文官であった彼の思いが髣髴としてくるではないか。

「身體は元氣になつたが、この暑さ、むし暑さでは、頭を働かせることは、殆ど不可能といつてもいい。夜だつて、とても、書きものなんか出來ない」以下の部分はまるで「山月記」の李徴の苦悩がオーバ・ラップしてこないだろうか?(なお、「口惜(クヤ)し涙」の「クヤ」は「口惜」のルビである)……「頭を働かせることは、殆ど不可能」……「夜だつて、とても、書きものなんか出來ない」……「オレは或る仕事をするつもりだつたんだが」「事實は一枚も書けなかつた」……「卑怯かも知れないが」……「オレには何一つ、仕事が出來ない」……「殘念ながら、オレはこの高温と濕度とに敵はない」……「身體は或ひは慣れるかも知れないが、精神は次第々々にモウロウとなつて行くばかりだ」……「南洋に長くゐる人は、たしかに頭の働きが鈍い」……「一枚も書けなかつた時は、さすがになさけなかつた」!……「自分の不甲斐なさに、口惜し涙が出た」……「だが、この涙は、誰にも分つてもらへない。お前のほかは」……「又、誰にも話すべきことでもあるまい」……「普通の役人」で「終る人間なら、それは、それでいいが」「もし、學問や藝術に志ざす人間だつたら、たとへ餓死しようとも、自分の志ざす道から外れて、よその道に入るやうなことは、させ度くない」……「オレの今、味はつてるやうなイヤななさけない思ひはさせたくないと、しみじみ考へ」るのだ……。――いや――これはもう李徴そのものである。私は読みながら慄然とした――。

「氷上」氷上英廣。十一月十五日の私の注を参照。

「深田氏」登山家で作家の深田久彌(明治三六(一九〇三)年~昭和四六(一九七一)年)。敦(彼は深田より六歳下)の一高時代の旧友釘本久春(この当時、文部省図書監修官で敦の南洋庁への就職も彼の斡旋になるものであった)の紹介で昭和一〇(一九三五)年四月に知り合って急速に親しくなった三好四郎を介し、遅くとも翌昭和一一年六月頃までに、敦が深田を初めて訪ねていることが分かっており(三好の住んでいた鎌倉の同じ町内に深田が住んでおり、三好が入っていた大仏次郎が世話役であった写真同好会の同人仲間でもあったことによる、と進藤純孝「山月記の叫び」(六興出版平成四(一九九二)年刊)に拠る)、その後、深田との深い交友が始まったが、敦はこの昭和一六年六月、南洋行が決定した直後に深田を訪ねている。その時、深田は不在であったが、「ツシタラの死」(後の発表時に敦が深田の意向を受けて一部削除を加え、「光と風と夢」と改題された)・「古譚」四篇(「狐憑」・「木乃伊」・「山月記」・「文字禍」)・「過去帳」二篇(「かめれおん日記」・「狼疾記」)の原稿を託した(これらが書簡中の「深田氏にあづけてあるもの」である)。大事なことは、敦はこの書簡のたかへの遺言めいた言葉の通り、これらの現在知られた敦の代表作を公表する意志がなかった点である。ところが、敦が帰日(昭和一七(一九四二)年三月十七日)する一月前の二月一日発行の『文学界』二月号に「山月記」と「文字禍」を発表してしまう(五月末には敦が手を加えて「光と風と夢――五河荘日記抄」が『文学界』五月号に発表される)。これが敦の実質上の文壇デビュー作となってしまったのである。残された時間がなかった(同年十二月四日逝去)敦のことを考えると、結果としてはこの深田の仕儀は正しかったと思われるが、進藤は、これを遅きに失したものと意識し、寧ろ、世間で通用しているようには深田との関係を親しいものとは敦自身は思っていなかった、否、『深田久彌に作家を感じず、敦の法で最初から殆んど当てにしていなかったのだ』とまで断じている。実際、そうした深田の中島敦に与えたマイナス要因を指摘した批判は他の評者からも挙がっており、ここでの「持つて來て貰ふんだ」という物言いからも、私は首肯出来る気がする。

「土方」土方久功。九月十日の日記の注を参照。

「繪をかく人」とは何だろう。南洋諸島用の国語教科書用に挿絵を描く画家のことだろうか? 橋本正志氏「旧南洋群島における国語読本第5次編纂の諸問題――その未完の実務的要因を中心に――」の論文(PDF版)はまさに敦が南洋で関わった実務を詳細に考察した非常に優れた論文であるが、その中に結果として頓挫した第5次国語読本の図を見ると、本科用巻一の十八「ウオ/ヒレ/ウオ ノ ヒレ」にはマグロ(スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科マグロ族マグロ属クロマグロ Thunnus orientalis であろう)とサメ(所謂、人食い鮫、軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ Carcharodon carcharias かと思われる)と明らかな熱帯域の海水魚(特徴的な側扁した白地の体に三本の黒い横縞があり、しかも尾鰭後縁に四本目の黒縞を持っているから、スズキ目ベラ亜目スズメダイ科スズメダイ亜科ミスジリュウキュウスズメダイ属ヨスジリュウキュウスズメダイ Dascyllus melanurus と同定してよいであろう)が描かれており、補習科用巻四の第七課「トラック島便り」には海岸と椰子の木が描かれている。なお、この挿絵については、「此の絵にトラックの特徴なし、環礁の地図必要」との指摘がなされている旨の記載があるとし、『教科書に記載された叙述(挿絵を含む)と,実際の南洋群島の風土や「島民」児童の生活習慣との相違を見出し,修正の対象としている箇所が数多くある。この点は,南洋群島における国語読本第5次編纂の際立った特徴として挙げることができる』橋本氏は述べておられる。これから考えるに、やはり敦は教科書の挿絵画家の不在を言っていると考えてよいように思われる。]

つかれたる 心   八木重吉

あかき 霜月の葉を

窓よりみる日 旅を おもふ

かくのごときは ぢつに心おごれるに似たれど

まことは

こころ あまりにも つかれたるゆえなり

[やぶちゃん注:「ゆえ」はママ。正しくは「ゆゑ」。]

鬼城句集 冬之部 凍凍

凍〻    凍道を戞々と來る人馬かな

[やぶちゃん注:季題「凍〻」は「いてこほる(いてこおる)」と読む。
「戞々」か「かつかつ」と読み。二つの堅い物体が触れ合う音、また、その音を立てるさま。]

2013/12/15

明恵上人夢記 28

28
 建永元年五月廿日より、在田郡の爲に、立ちどころに直ちに祈禱して行法を始む。二時に寶樓閣法を修す。〔証、本書に見えたりと云々〕幷に二時に佛眼念誦(ぶつげんねんず)・大佛頂等、之を始む。神護寺に於いてす。
一、同廿九日の夜、夢に云はく、一人の童子有り。遍身に寶鬘瓔珞(ほうまんやうらく)を帶び、懌の面にして來りて親近(しんごん)すと云々。又、十餘人の童子有り。皆悉く愛好也。來りて親近すと云々。
[やぶちゃん注:「建永元年」西暦一二〇六年。
「在田郡」和歌山県有田郡。明恵はこの有田郡石垣庄吉原で承安三(一一七三)年一月八日に生まれた。
「〔証、本書に見えたりと云々〕」この割注の意味不詳。そうした祈禱修法の成就は以降の夢が物語っているという意味か? 一応、かく訳した。大方の御批判を俟つ。
「寶鬘瓔珞」諸仏の豊かな美しい頭髪、それに下がる美しい瓔珞。
「懌」よろこび。]

■やぶちゃん現代語訳
28
 建永元年五月二十日より、生地在田郡(ざいたのこおり)のために、迷うところなく直ちに祈禱をして行法を始めた。次いで続けて宝楼閣法を修した。〔その修法の効果の証左は、本書の夢に現われているのである。〕ならびに更に間髪を入れず、仏眼念誦(ぶつげんねんず)や大仏頂等の修法、これを滞りなく始めた。総ては神護寺に於いての祈禱修法であった。
一、同二十九日の夜、見た夢。
「一人の童子がいる。全身、美しく眩しいばかりの宝鬘瓔珞(ほうまんようらく)を帯して、喜悦の面相で私の前にやって来ては、如何にも親しげな様子である。……また、十余人の童子が他にもいるのである。皆、悉く美しい相好で、彼らが皆、私のところへやって来ては、如何にも親しげに接して呉れるのである。……

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(15)

  游江島   熊阪邦

扁舟破浪御長風。
上岸先攀天女宮。
鳥道斜連龍穴路。
漁家直與蜃樓通。
觀濤枚叔猶應拙。
賦海玄虛未許工。
興罷旗亭聊把酒。
彩雲遙落客杯中。

[やぶちゃん注:熊阪邦は熊坂台州(くまさかたいしゅう 元文四(一七三九)年~享和三(一八〇三)年)で儒者。名は定邦、字は子彦、通称宇右衛門。陸奥伊達郡(現在の福島県)高子(たかこ)村の豪農で江戸に出て入江南溟(なんめい)・松崎観海に学んだ。郷里に学舎海左園を建てて教育に当たり、窮民救済・開墾などに尽くした。著作に「信達歌」「魚籃先生春遊記」など(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

  江の島に游ぶ   熊阪 邦

扁舟 浪に破れ 長風を御す
岸に上りて 先づ天女宮へ攀づ
鳥道(てうだう) 斜めに連なれり 龍穴の路
漁家 直ちに蜃樓へと通ず
濤を觀るに 枚叔(ばいしゆく) 猶ほ應に拙たるべく
海に賦すに 玄虛(げんきよ) 未だ工を許さず
興罷(や)みて 旗亭 聊か酒を把(と)る
彩雲 遙かに落つ 客杯の中(うち)

「鳥道」鳥しか通えぬような険しい山道。鳥路。鳥径。
「枚叔」前漢の詩人枚乗(ばいじょう 生没年不詳)のことであろう。叔は字。淮陰(現在の江蘇省淮安市)の生まれで、賦や文章を得意とした遊説の徒であった。
「玄虛」不詳。平安前期の広隆寺の大別当に同名の僧がいるが、中国の詩人でないとおかしいし、老子の思想の「玄虛」では前句との対句性が著しく損なわれるように思われる。お手上げである。識者の御教授を乞う。]

耳嚢 巻之八 糞穴に落し笑談の事

 糞穴に落し笑談の事

 文化四年の夏秋の事なり。鍋島十之助家來に川島何某とて小兵(こひやう)なる男ありし。友どち打連(つれ)て淺草觀音へ詣うで、そここゝ遊びあるきしに、並木の茶屋にて支度抔なしけるが、酒飮の少し醉興にも有(あり)けん、厠へ至りしに、町裏の厠は板を渡して嚴重ならず。然るに彼男、鼻紙袋をあやまつて糞坪の内へ取落しけるが、印形書付もあり、金子も南鐐にて七片ありしゆゑ、何卒取りいださんと百計なしぬれど取得ざれば、密に衣類を片脇に拔ぎて丸裸になり糞坪の内へ入りて、かれこれせし内に、何か蹈割(ふみわり)し音なしければ、さては此所ならんと彌(いよいよ)足して搜りけるに、此折ふし往來の女兩三人、是も彼茶屋に寄りて小用たさんと、人の居るとはしらで彼の用場へ至り戸を明しに、何か糞坪の内より手など出しけるゆゑ、わつと言て氣絶して、これも糞坪へ落入りしゆゑ、右物音に驚き家内連れの者も一同立集(たちあつま)り、漸(やうやう)引出して洗ひ淸めけるが、其邊一統の物笑ひなりしとかや。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。なんとも美事に臭ってくるリアルな話である。
・「文化四年の夏秋」「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏。ロケーションとしては鼻が曲がりそうな夏がいい。
・「鍋島十之助」不詳。
・「並木」旧浅草並木町。現在の雷門二丁目。雷門から直進して駒形橋に抜ける二百メートルほどの通りの左右で、当時は雷神門前広小路とも呼ばれた。
・「書付」一般的には金銭貸借を証明する書類。勘定書。証文。
・「南鐐」南鐐二朱銀。本来江戸期の銀貨は秤量貨幣(しょうりょうかへい/ひょうりょうかへい:使用に際して貴金属としての品位・量目を検査し、その交換価値を計って用いる貨幣。)であったが、この南鐐二朱銀は金貨の通貨単位を担う計数貨幣として「金代わり通用の銀」、つまり「南鐐」という通貨として使用を許す特別の銀を意味する呼称を冠したものであった。形状は長方形で、表面には「以南鐐八片換小判一兩」と明記されている。「南鐐」とは「南挺」とも呼ばれ、良質の灰吹銀、即ち純銀の意で、事実、明和九(一七七二)年に創鋳された当初のそれは純銀度九八%と極めて高いものであった。これが「七片」(七枚)というと、二朱金(銀通用)二枚が一分であるから三分二朱、一分は四分の一両及び四朱に相当した。

■やぶちゃん現代語訳

 糞壺(くそつぼ)に落ちた笑い話の事

 文化四年の夏か秋のことである。
 鍋島十之助殿御家来衆のうちに川島何某(なにがし)と申す小柄な男があった。
 友達らとうち連れて、浅草観音に詣でては、そこここを遊び歩き、雷門前の並木通りの茶屋にて飯を食うた。
 そこで川島、茶屋の厠(かわや)へと参った。
 まあ、そのような町裏の厠と申すは、これ――大きなる桶の上に板を渡いただけの、およそ粗末なもので――それに川島はこれまた、酒なんどを飲んで、幾分、酔っぱらって足元もおぼつかなかったからでもあったものか――何とまあ、糞壺の中(なか)へ誤って紙入れを落としてしもうた。
 その紙入れの内には印鑑やら大事な書付が入っていた上、金子(きんす)も南鐐二朱銀七枚ばかりも入っておった。さればこそ、
「……これは、なんとしても取り出さねばならん……」
といろいろと試みてみたものの、これ、いっかな、うまくゆかぬ。
 初めは暗がりの中(うち)にも、ぼんやり浮いておるように見えた紙入れの形も、こきまぜてしもうたからか、影も形も見えずなってしもうた。
「――さればこそ……」
と、暗き厠内なれば、そおっと衣服を脱いで、厠の隅に積みおき、すっぽんぽんの丸裸になると、糞壺の中に
……ドゥッ!……ドッぷウン!……
と入り込む……
……ズズッ……ズッぷン! にゅるウン!……
と糞の海原の中を足で探りを入れつつ歩むうち……
……じゅヌ! じゅヌッ!……ペキ!……プしゅ!……
と、何やらん、硬いものを踏み割ったような音が、ヌルヌルした足先から伝わって参ったによって、
「……さては! ここじゃなッ!」
と、
……ググッツるん!……グにゅグニにゅ!……
と、なおも足の指先にて、辛抱強く、懇ろに、細心の神経を通わせて、糞壺の底を掻い捜ぐって御座った…………
――と
……さても折りも折り、並木通りの往来を通りかかった女三人連れ、やはりこの茶屋に立ち寄り、内の一人が小用をたさんと――まさか糞壺の中を人が泳ぎおるなんどとは夢にも思わず――かの厠へと参って戸を開けたところが……
――何やらヌッ! と!
――糞壺の中より!
――河童のようなヌラヌラと光った手(てえ)が!
――出たッ!
「きええッツ!――」
と一声を発して女は気絶!
――糞壺の中へ!
……だうッツ!……どぅぷン!……
――と
真っ逆さま…………
 されば、その奇声と物音とに驚き、茶屋内の者やら、川島や女どもの連れやら一同、厠へと馳せ参じては、ようよう、二人を糞壺より引き上げ、大川へと連れて参って、川端にて洗い清めたとか申すことで御座った。
 その強烈な臭いと文字通り如何にも臭き噂は、これ、あっという間に辺り一帯に広がりまして、の。……正真正銘……鼻つまみ者として……これ、物笑いの種となって御座ったそうな。……

北條九代記 伊賀到官光季討死 承久の乱【七】――承久三(一二二一)年五月十四日 承久の乱勃発前夜――京都守護伊賀光季、覚悟の軍(いくさ)評定

さらば伊賀判官光季を討つべしとて、能登守秀康、平九郎判官胤義、大江少輔(のせう)入道親廣、山城守廣綱、佐々木〔の〕彌太郎判官高重、筑後〔の〕入道有則下総〔の〕前司盛綱、肥後〔の〕前司有俊、筑後〔の〕大院左衞門尉有長(ありなが)、間野(まのの)左衞門尉時連(ときつら)を始として、八百餘騎をぞ遣されける。比は承久三年五月十四日、今日は既に暮に及ぶ、明日卯刻に向ふべしとて、夜の明るを待(まち)掛けたり。伊賀判官が許へも、このよし聞えたりければ、家子郎從一所に集り、軍の評定しける所に、鹽屋(しほのやの)藤三郎申しけるは、「御身に誤(あやまり)なくして大勢に取圍められ暗々(やみやみ)と討れ給はんは、甲斐なき狗死(いぬじに)にて候。只夜の内に都を出でて、美濃尾張までは馳(はせ)落ち給はん。然らずは、北陸道(ほくろくだう)へ掛(かゝ)らせ給ひて、御船に召して、越後の府中に著き給ひ、信濃路に掛りて鎌倉へ入り給へかししとぞ申しける。判官聞きて、「鎌倉殿も思召(おぼしめす)やうありてこそ、都の守護にも差置せ給ひつらめ。一天の君日本一の御大事を思召立せ給ふ程にては、苟且(かりそめ)の御計(はからひ)にてやあるべき。今は定(さだめ)て道々關々も防(ふさ)がれてぞあるらん。とても逃れぬ物故に、敵に背(うしろ)を見せて笑(わらは)れ、鎌倉にも聞えて、憶病なりと思はれんは、死後までも恥しからん、一天の君を敵に受け、我が身に禍(あやまり)なくして、王城に尸(かばね)をさらし、名を萬世に留めん事は、勇士の願ふ所なり。一足も引くべからず、只討死と思定めたり。誰々(たれだれ)も、落つべき人は落ちられよ。光季少(すこし)も恨(うらみ)なし」と中々思切(おもひくつ)たる有樣なり。深行(ふけゆ)く儘に郎從共次第々々に落(おち)失せて、殘る輩には贄田(にえだの)三郎、同四郎、同右近、武志(むしの)次郎、鹽屋藤三郎、片切源太、同大助、同又太郎、園平(そのひら)次郎、同子息彌一郎、政所(まんどころの)太郎、治部次郎熊王丸を初(はじめ)て、僅に二十七人なり。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【七】――承久三(一二二一)年五月十四日 承久の乱勃発前夜――京都守護伊賀光季、覚悟の軍(いくさ)評定〉
「鹽屋(しほのやの)藤三郎申しけるは」の「鹽」の字は底本では、{「土」(へん)+(「鹽」-「臣」で上部を左に移して「皿」の真上に配した字)}であるが、後文に「鹽屋」と出るので統一した。
「卯刻」午前六時頃。
「承久記」(底本の編者番号17のパート)の記載。

 深行程ニ、判官ノ郎從等一所ニヨリアフテ、軍ノ僉議評定シケルガ申ケルハ、「御身ニ無ㇾ誤シテ大勢ニ被二取籠一テ被ㇾ討サセ給候ハンハ、念ナキ事ニテ候ハズヤ。夜ノ中ニ都ヲ出サセ給ヒテ、美濃・尾張迄ハ馳給ヒ候ハンズ覽。サリトテ鎌倉へハ三四日ニハツカセ給ヌベシ。左候ハズハ、北陸道へカカラセ給テ、御舟ニメシテ、越後ノ府中ニツカセ給ヒ、信濃へ越サセ給テ、其ヨリ鎌倉へツカセ給候カ。是等ノ儀ヲ御計ヒ可レ有」トゾ申ケル。判官、「其コソ、ヱアルマジキニテアレ。鎌倉殿モ思召樣有テコソ、都ノ守護ニモ差置セ給ツラメ。一天ノ君、日本一ノ御大事ヲ思召立セ給程ニテハ、アカラサマノ御計ヒニヤアルベキ。今ハ定テ道々モ關々モ、サヽへテゾアルランニ、一マドモノガレヌモノ故ニ、カタキニ背ヲ見セタリナンド、鎌倉へ聞へン事コソ口惜カルべケレ。能コソアレ、一天ノ君ヲカタキニウケ進ラセテ、我身ニアヤマリナクテ、王城ニ戸ヲサラシ名ヲ萬代ノ雲ニ揚ン事、願フ所ノ幸ナリ。一引モ引マジキモノヲ」ト云へバ、其後、郎從等意見ニモ不ㇾ及、深行儘ニ一人落二人落、次第々々ニ落行テ、殘ル輩ニハ、贄田三郎・同四郎、贄田右近、武志次郎、鹽屋藤三郎、片切源太・大助・又太郎、園平次郎・子息彌二郎、政所太郎、治部次郎、熊王丸ヲ始トシテ、一人當千ノ輩廿七人ゾ殘ケル。

・「一マドモノガレヌモノ故ニ」は副詞で一先ず、一応の意の「ひとまど」に、例示を示す係助詞「も」、それが下で打ち消されたもので、一先ず逃げ落ち延びるなんどということは、これ、出来よううものでは最早ないゆえに、の意。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 30 不思議な大道芸人の群れ


M282


図―282

 

 毎日、町を行く手品師か、音楽師か、行商人か、軽業師の、何かしら新しいのが出現するが、乞食はいない。図282は、貧しい服装をした三人のさすらいの人の一群を、ざっと写生したものである。一人は彼女の手に、竹に硝子をつけた妙な物を持っていたが、私はこれを何等かの装飾だと推定した。もう一人の女は三味線をひき、三番目のは四角い箱を持って、つづけさまにそして速口で、何か喋舌り立てた。私はこの一群をしばらく尾行したが、何事も起らないので、彼等を追い越して、男に一セントやったら、早速演技が始った。彼は花の一枝を粗末に真似たような物を取り、竹竿の下端を口にあてて、息を吹き込んだり吸い出したりして、全然非音楽的でもない、一種奇妙な、ペコンペコンという音を立てた。鐘の形をした装置を調べると、その口に当たる所に硝子の膜が張ってあり、この硝子の膜が出たり入ったりして、音を立てるのだということが判った。これをしばらくやった揚句、彼は竹の端を咽喉にあて、私には判らなかったある種の運動で、膜に音をさせた。次に彼は柄の長い煙管を取り上げ、二、三服した後で、吸口を咽喉に当て、前同様に勢よく吸い続けた。これはどうも大した謎である。煙草を吸う程の力で皮膚を動すことは、不可能らしく思われた。彼は着物の下に、腹で動すことの出来るふいごの一種を、かくして持っていたに違いない。私は彼が頸部にしっかりと布を巻いているのに気がついたが、多分これで腹部にあるふいごに連る管を、かくしているのであろう。それにしても、中々気の利いた芸当で、集って来た群衆も大いに迷わされたらしく見えた。

[やぶちゃん注:先頭(図の右端)の男が玩具のビードロ売り(吹き口に竹を接いである)、左端の女の三味線弾きは門付であるが、真ん中の男がよく分からない。首掛芝居(古くは傀儡師といった)にしては箱(二十センチ角ぐらいしかない)が小さ過ぎるから違う。竈祓いや願人坊主のスタイルに似てはいる。ともかくも面白いのは、「この一群」とモースが表現している点で、どう見ても恐らくはかつて一人ひとりが個別に遊行して商売をしていた彼らが、ここに至ってチームを組んで興行しているらしい点にある。所謂、こうした江戸時代を通じて無数に存在した行商人や流しの有象無象の芸能者(大道芸人)たちが、まさにこの近代のトバ口にあって、生き残りをかけて共同戦略を謀っていたのではあるまいか? ポコペン、ポコペンというビードロの音、女の三味線、口上を喧伝する男……これが私には一つのチンドン屋のルーツのようにさえ見えてくるのだが……これは大きな誤解であろうか?……大方の御批判を俟つものではある。……いいや、そんなことは実は私にはどうでもいいことなんだ……ホームズならぬモースが、その鋭い観察眼でビードロ売りの奇術のタネを推理する辺り……帝都東京の場末の……大道芸人たちの喧騒や庶民のざわめきが如実に伝わってくる美事なシークエンスではないか……

「全然非音楽的でもない」原文は“not entirely unmusical”。誤用が慣用化した表現ではあるものの、改めてこうして日本語の「訳」として見るとやはり大きな違和感を感じる。「必ずしも非音楽的というのでもない」とすべきである。]

中島敦 南洋日記 十一月七日

        十一月七日(金)

 フロマンタンの「ドミニック」を讀む。良い哉。プランセス・ド・クレーヴ以來のこの國の心理小説の系列の一にして、而もなほ、好個の佛蘭西田園風景畫たるを失はず。好もしき作品なり。

 昨夜又、喘息發作あり、

[やぶちゃん注:『フロマンタンの「ドミニック」』ウジェーヌ・フロマンタン(Eugene Fromentin 一八二〇年~一八七六年)はフランスの小説家で画家。ラ・ロシェル生。絵画ではフランス・ロマン主義後期の画家・評論家として活躍した。プルースト風の心理描写の先駆けとされる半自伝的小説「ドミニック」(Dominique)で名を残す(私は不学にして未読)。参照したウィキの「ウジェーヌ・フロマンタン」によれば、死の年の春(八月没)に出版した代表的評論である、ルーベンスやファン・ダイクらフランドル絵画を対象としたベルギー・オランダ絵画の紀行評論(旅行は前年一九七五年の七月)“Les maîtres d'autrefois Belgique-Hollande”(「昔日の巨匠たち」)は画壇・文壇で絶賛されただけでなく、一般の読者にも好評を博し、本書はまた若き日のマルセル・プルーストの愛読書でもあったという。他にアルジェリア滞在記“Un été dans le Sahara”(「サハラの夏」一八五六年刊)やチュニジア滞在記“Une année dans le Sahel”(「サヘルの一年」一八五八年刊)がある。絵画作品はオリエンタリスト派として長期滞在した北アフリカの風景画が多いとある。

「プランセス・ド・クレーヴ」ラ・ファイエット伯爵夫人マリー=マドレーヌ・ピオシュ・ド・ラ・ヴェルニュ(Marie-Madeleine Pioche de La Vergne, comtesse de La Fayette 一六三四年~一六九三年)の書いた“La Princesse de Clèves”(「クレーヴの奥方」一六七八年に匿名で出版)。クレーヴ公と結婚したシャルトルは、ルーヴルでの舞踏会でヌムール公と道ならぬしかし清い恋に落ちて悩み、遂には相手の名を秘して夫にそれを告白をするが、夫は相手をヌムール公と見抜き、嫉妬の末に病いに倒れる。病床のクレーヴ公は、妻の言われなき不義を指弾し、呪詛と失意のうちに没する。ヌムール公は晴れてシャルトルに結婚を申し入れるが、彼女はヌームル公への純愛を認めながらもその申し入れを拒み、修道院に入る。その後、シャルトルは若くして亡くなったとする。フランス文学史最初期の小説の一つで「恋愛心理小説の祖」とも言われる。最初の心理小説の一つであるだけでなく、最初の“roman d'analyse”(分析小説)ともされる(昔読んだものの、ストーリーの記憶が殆んどないため、概ねウィキクレーヴの奥方」の記載を参照にした)。]

和讃類纂 萩原朔太郎

 

 和讃類纂

 

     一咏

 

ゆきはふる

 

まなつまひるのやまみちに

 

光るこなゆき

 

さんらんたりや

 

わが道心のたなごころ

 

うすら佗しきたなごころ

 

     二咏

 

ひじりのみあし

 

つめたきみあし

 

おんかたへやるせなく

 

かけまはるそうぞくの

 

しののめのこゆむらさき

 

いろのあさがほ

 

     三咏

 

なみぢのうへを

 

とほくよりあゆませたまふ

 

わが主いえす

 

ふなべりになみだをながし

 

いちねん祈願したてまつる

 

ひとの子のわれの身のうへ

 

おぼるるものはぺてろなり

 

     四咏

 

はなをつむ

 

はなをつむこころはへ

 

しろがねづくりの靴をはき

 

みなつきはぢめ

 

くさばなのたねをつむ

 

たねをつむこころはへ

 

     五咏

 

すゞめ

 

すゞめ

 

金のこなふる奥山(おくやま)に

 

しんじついとしいべにすゞめ

 

すゞめ

 

すゞめ

 

み山の奥のべに雀 

 

[やぶちゃん注:『侏儒』第四号・大正三(一九一四)年十一月号に掲載された。あまり聞かない『侏儒』という詩誌は、同年八月、朔太郎を中心に前橋で若き歌人や詩人らが集まって創刊した同人誌。「二咏」の「そうぞく」はママ(ここは「裝束」であるから正しくは「さうぞく」)、「三咏」の太字「いえす」は底本では傍点「ヽ」、「四咏」の「はぢめ」もママ。【二〇二二年二月二七日、一部の誤電子化・表記不全を修正した。】]

壺(つぼ)のような日  八木重吉

壺のような日 こんな日

宇宙の こころは

彫(きざ)みたい!といふ 衝動にもだへたであらう

こんな 日

「かすかに ほそい聲」の主(ぬし)は

光を 暗を そして また

きざみぬしみづからに似た こころを

しづかに つよく きざんだにちがひあるまい、

けふは また なんといふ

壺のような 日なんだらう

[やぶちゃん注:二箇所「壺のような」の「ような」はママ。「!」の後には表記通り、字空けはない。]

鬼城句集 冬之部 冬夜

冬夜    提灯で戸棚をさがす冬夜かな

 

      若うどや大鮫屠る宵の冬

2013/12/14

ひと夜えにし 萩原朔太郎 (短歌群) 明治三五(一九〇二)年十二月

   ひと夜えにし

おち椿ふみては人のこひしくて春日七日を惓(うん)じぬる里

流れ來て加茂川さむき春のよひ京の欄人うつくしき

あけぼのの花により來しそぞろ道そぞろあふ人皆うつくしき

松落葉ふみつつ行けば里ちかし朝靄みちにうすれうすれゆく

朝ゆくに人目凉しき濱や濱小靴玉靴漣のあと

[やぶちゃん注:『坂東太郎』第三十四号(明治三五(一九〇二)年十二月発行)に掲載された。萩原朔太郎満十六歳。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 29 ピッチャーを提げた婢(はしため)

M281


図―281

 この写生図(図281)は、私の下女を現している。顔は苦痛な位みっともなく、唇はすこし開いて、磨いた黒い歯の一列を露出している。手に持っているのは、日本で出来た、然し外国向の、彼女同様に醜悪な水壜(ピッチャー)である。日本人は水壜は、どんな物でもまるで使用しない。

中島敦 南洋日記 十一月六日

        十一月六日(木)

 トラックに比べてパラオの暑きに閉口す。昨夜より、直ちに、(久しく忘れをりし)喘息の發作あり。パラオはよくよく我が身體に適せぬ所と見えたり。留守中に來りし、手紙、葉書、雜誌の雜を讀むに忙し、中に八月十八日出のたかの手翰あり。我が病狀を憂へ悲しみ悶ゆる狀、眼前に見るが如く、今更、餘りに正直に病氣のことを告げやりし己の輕率に後悔せらる。

 送り來りしビスケットを食ふ。

[やぶちゃん注:「雜を讀む」はママ。「類」の誤字。

この日附で父田人宛書簡が残るので、以下に示す。

   *

〇十一月六日附(中島田人宛。封書。封筒欠)

 昨日午後二時飛行機にて無事パラオに着きました。途中の健康も上乘、却つて出發前より元氣でをります故、御安心願ひます

 たゞ、教科書編纂者としての收穫が頗る乏しかつたことは、殘念に思つてをります 現下の時局では、土民教育など殆ど問題にされてをらず、土民は勞働者として、使ひつぶして差支へなしといふのが爲政者の方針らしく見えます、之で、今迄多少は持つてゐた・此の仕事への熱意も、すつかり失せ果てました。もつとも、個人の旅行者としては、多少得る所があつたやうに思ひます、今月中に又、第二の旅に出るつもりでをりますが、とりあへず、安着のおしらせまで

    十一月六日        敦

  父上樣

 

 一日も早く今の職をやめないと、身體も頭腦も駄目になつて了ふと思つて、焦つてをりますが、今の所一寸拔けられさうもありません。パラオに落ちつかないで、いつも旅行にばかり出してゐてくれゝば喘息のためには良いのですが、何しろ、不斷のこの暑熱では、頭の方がもちません、記憶力の減退には我ながら呆れるばかりです、

 或ひは東京出張所勤務に廻して貰ふ手も考へてゐます。さうなると月給は本俸だけで今の半分以下になりますが、身體にはかへられません、喘息が起らないとしても、南洋は、身體に極めて惡い所と思はれます。その上、食物の品種が不充分なので自然、結核が多くなるわけです。何もしないでヂツとしてゐても、何時の間にか身體がグツタリ疲れてゐるのです、之は誇張でも何でもなく、熱帶に一・二年も暮した人なら誰でも知つてゐることです。もし氷上にでも何處か高等學校か專門學校の教師の口を探して貰つて、この四月からでも、かはれたら代りたいのですが、公學校教科書の方の仕事を途中ではふり出して、やめて了つていいものかどうか、(勿論、人間としては良くないに極つてゐますが、私のいふのは、さういふのが官吏として普通行はれてゐることか、どうか、といふのです)もし、よければ、本當にさうしたいものと、色々迷つてゐます。勿論、まだ誰にも賴んではゐません。とにかく、今のパラオのやうな生活を一年も一年半もつゞけたら、身體はこはれ、頭はぼけ、氣は狂つて了ひさうです。こんな事は父上に御心配をおかけする筋のことではないのですが、つい愚痴になつて恐縮です。勿論獨りで何とか解決はしませう。僕だつて何も、氣が狂つたり、身體をこはしたり、し度くはないので、何とか自衞の手段をとる必要があるのですが、たゞ、それが周圍の人に迷惑をかけたり、又自分を餘り厚顏なものにしたくないので、色々と氣を遣ふ譯です、

 或は、突然ポツンとやめて歸つて行くかもしれないので、タカにも多少貯金をさせておく必要があるのですが(當分遊ぶものと見て)中々思ふやうに送れないで困ります。

   *

「今迄多少は持つてゐた・此の仕事への熱意も、すつかり失せ果てました」(「・」はママ)現在の南洋での官吏としての仕事への深い失意と焦燥が滲む。と同時に、かなり都合のいい父への甘えも看てとれる手紙である。敦は同昭和一六(一九四一)年三月末、横浜高等女学校を急に休職(一ヶ年の復帰猶予が与えられていたが、これが事実上の退職となった)した際にも、当時六十七歳であった父田人はこの四月より彼の代わりとして同校に勤務、世田谷から通勤していた。この一ヶ年の復帰猶予附であることを考えると、この手紙の内容は不審とも言える。敦はどうみても横浜高等女学校に復帰する意志がなかったとしか思われない。それは何故か? 同校の校長が田人の教え子であったからといって(というより教え子なら逆に身体を労わってこんなことはさせないと私は思う)老体の田人が何故わざわざ世田谷くんだりから通勤しなくてはならなかったのか? そこには田人の側に同校に対して老体を押しても敦の代わりに勤務しなければならぬ「借り」があったからではなかったのか?――そこにこそ私は小宮揉み消スキャンダルが影を落としているんではないか――と思われてならないのである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 28 日本最初の学生たちだけの生物学会

 先日、植物学と動物学とに興味を持っている学生達が、私のすすめに従って一緒になり、生物学会を構成した。会員は日本人に限り、その多くは私の実験室で仕事をしている。すでに数回会合を開いたが、今迄のところ、なされた報告は、米国に於る、より古い協会の、いずれに持ち出しても適当と思われるであろうものばかりである。これ等は時に英語でなされ、書かれた時には必ず英語である。口頭の時には日本語だが、同義の日本語がないと英語を自由に使用するのは変に聞える。会員はすべて、外見が常にすこぶる優雅である日本服を着ている。彼等は自由に黒板に絵を書いて彼等の話を説明するが、多くは生れながらの芸術家なので、その絵の輪郭は目立って正確である。報告には概して参考品の顕微鏡標本が伴う。海外の諸学会と交換する為の雑誌を発行したいと思っている。

[やぶちゃん注:「生物学会」現在の日本動物学会公式サイトの「学会の紹介」に以下のようにある(ピリオド・コンマを句読点に代えた)。

   《引用開始》

本学会の創立は基礎科学系の諸学会の中でもきわめて早く、大森貝塚の発見などで有名な東京大学の初代動物学教授であったモース(E.S.Morse)が、同植物学教授矢田部良吉とともに明治11年(1878年)に創立した東京生物学会にさかのぼることができます。その後,明治18年(1885年)には東京動物学会へと名称を変更し、さらに,大正12年(1923年)に日本動物学会と再度改称し、平成5年(1993年)の社団法人化、平成24年(2012年)の公益社団法人化をへて今日に至っています。

   《引用終了》

但し、ここでのモースの叙述が正しい(記憶違いでない)とするならば、叙述位置から見てこれは明らかに明治一〇(一八七七)年内の出来事である。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の第二十章「東京大学生物学会」に記載でも創設は明治十一年十月二十日(当時の動物学列品室で開催された同学会第一回会合)である。しかし、その記録に記されてある出席者メンバーはモース、ここで互選によって就任した会長同大学植物学担当教授矢田部良吉を始めとして東京師範学校校長で翌明治一二年にトーマス・ヘンリー・ハックスリーの進化論講義録を「生物原始論」として翻訳した伊沢修二、東大医学部助教で日本の魚類学・水産学の草分けとなった松原新之助、江の島で忠実なモースの助手として働いた小石川植物園(江の島臨海実験所当時)の松村任三、教育博物館動物掛であった波江元吉、東大動物学研究室助手で大森貝塚発掘にも参加した種田織三、モースの動物学教室の助教高嶺秀夫ら大学関係者が殆んどで、学生(モースの弟子)である学生たちは僅かに岩川友太郎・佐々木忠次郎・飯島魁(いさお)・石川千代松の四人を数えるばかりである。但し、磯野先生は、『生物学会設立までの動きは詳しいことが皆目わからないが、その年の春に生物学科生徒の佐々木忠二郎、松浦左用彦と地質採鉱学科の生徒たちが結成した「博物友会」という会が生物学会誕生のきっかけの一つになった』とあり、ここに記されているものがその、学生たちだけのプレ組織であったものか。磯野先生によれば、正式なこの東京大学生物学会例会ではモースが「日本産カタツムリ」「日本産ナメクジ」「大森貝塚で出土した人骨」「ホヤの発生」「北海道での採集品」「ドロバチの巣」「矢田部教授と佐々木氏が小笠原で採集した貝類について」「日本産腕足類」「熊本県大野村当尾(とうのお)貝塚で発掘した貝類化石・土器及び骨片」といった報告を、モース以外の会員からは「日本の陸生蛇類」(松原)、「海藻の胞子形成について」(矢田部)、「上野で採集したヒドラ」(松原)、「ナメクジウオについて」(高嶺)、「琵琶湖で採集したイシガイ」(佐々木)、「ドブガイの解剖」(佐々木)、「医療に用いられる甲虫」(松原)、「北海道産蝶類」(石川)といった報告がなされているが(記録は総て英文)、私はこの学生たちだけで語られた報告をこそ知りたいという気がする。

「海外の諸学会と交換する為の雑誌を発行したい」後、明治二〇(一八八八)年になって英文の学会誌“Zoological Magazine”の刊行が始まったが、先の注で示した正式なこの東京大学生物学会例会での一連の報告(明治十一年十月十日から翌七月六日までの分)は、早くも『トーキョー・タイムズ』に転載されており、その後の分を含めた全記録が『動物学雑誌』二十三~二十七巻(一九一一年~一九一五年)に「東京動物学会古記録」として連載されている(磯野先生の前掲書に拠る)。]

劒(つるぎ)を持つ者   八木重吉

つるぎを もつものが ゐる、

とつぜん、わたしは わたしのまわりに

そのものを するどく 感ずる


つるぎは しづかであり

つるぎを もつ人(ひと)は しづかである

すべて ほのほのごとく しづかである

やるか⁉

なんどき 斬りこんでくるかわからぬのだ

鬼城句集 冬之部 短日

短日    短日や樫木原の葱畑

2013/12/13

中島敦 南洋日記 十一月五日

        十一月五日(水) 晴

 四時起床。五時半寺田屋前より自動車にて支廳棧橋、又々島田氏と同行なり。ランチにて直ちに飛行機に乘込む、朝潮號なり。六時十五分頃滑走を始む、窓硝子への猛烈な飛沫。途端に離水。瞬間、眞下に小さき船あり、舷側にパラオ丸とあり。窓にブラインドを下さる。隙より覗けば夏島眼下にあり、リーフの緣邊の碧色の美しさ。椰子を眞上より見れば、パイナップルの如し。やがて秋島、月曜島、水曜島のウリボート山。トラック大環礁一望の下にあり。朝食。七時四十五分エンダービー通過。八時四十分、サトワル。九時エラート、十時五分オレアイ列島の上を過ぐ、時に高度二千五百米。涼し。桓に繪葉書を書く。十一時過晝食。スピノザを少し讀み、少々まどろむ、高度時に三千三百に達し、相當の冷氣を感ず。雲の變化の狀、窮まる所を知らず。脚下にスコールの過ぐるなども面白し。二時、すでにパラオ本島を見る。二時二十分着水。そのまゝ機毎、陸上に引上げらる。三時前歸宅。直ちに役所に行く。太つたぢやないかと言はれる。コーヒー四杯。

[やぶちゃん注:この日、敦は九月十五日に始まった実に五十日に及ぶトラック・ボナペ・クサイ・ヤルートなどの南洋諸島視察旅行からパラオに帰着した。

「桓に繪葉書を書く」現存せず。その代り、当日附の中島たか宛書簡が残る。以下に示す。

   *

〇十一月五日附(封書であるが封筒は欠。旧全集「書簡Ⅰ」書簡番号一三七。太字は底本では傍点「ヽ」)

今、五日の正午。飛行機の上の晝食をすませた所。飛行機では、朝飯も出したよ。今高度は二千七百メートル位。はじめサイパンから乘るつもりでゐたので、毛のシャツをサイパンの方へ送つておいたので、今日は仕方がないから、ワイシャツ二枚重ねた下に、クレープのシャツ三枚、サルマタ二枚、ズボン下二枚、靴下二枚といふ、いでたちだ。それでも(寒いといふ程ぢやないが)多少涼しすぎる。レインコートも勿論着てるんだが。お蔭で、多少、秋の氣分が味はへるわけだ。汽車なんかよりは、ずつと搖れないね。乘り心地は良い。内部の模樣は桓に出した繪はがきで見てくれ。今朝六時過にトラックを出たんだが、もう二時間ほどでパラオに着くだらう。往(ゆ)きゆき(この旅行のはじめ)には、パラオ・トラック間は船で、まる四日かかつたんだがね。空から見る南洋の島と、その周圍の珊瑚礁とは、トテモキレイだよ。下の方で、スコールの降つてるのなんか、中々面白い。今、飛行機のずつと下の方に綿(モメンのワタだよ)をこまかくちぎつたやうな小さな雲が無數に現れた。下の海も靑いので、ボンヤリ下をのぞいてゐると

 昨日、お前の手紙二通受取つた。久しぶりなので大變嬉しかつた。隨分長い手紙を書いたね。長い手紙はうれしいが、お前は今とても忙しいのだから、無理して書かなくても宜しい。一月二度ぐらゐ、子供等の樣子を知らせてくれれば、それで良い。桓も格も元氣だといふので安心したが、肝腎(カンジン)のお前が働きつかれては何にもならない。はたらき過ぎちやだめだよ。格は可愛いだらうな、格と遊びたいな。桓もオレと離れてゐると、今迄のオレ式の育て方と違つた風に、育てられて行くのが少し殘念だな。オレも何度、本氣で、お前達を南洋に呼ぶことを考へたか知れないが、どう考へても、子供の健康と教育の上から、南洋は思はしくないんだ。それに、今度、旅行して色んな人に合つて見て、驚いたんだが、南洋は、日本婦人の身體に大變、良くないやうだ。南洋で良人(をつと)に死なれた奧さんは少いのに、細君に死なれた男が實に多いんだよ。勿論、南洋で幼兒を、なくした(大抵は、腹の病氣で、)人なんか、數へきれない。こんな例を見ると、お前いくらオレが寂しくとも、お前達を呼ばうといふ氣になれない。たゞ自分の仕事に早く區切をつけて、そちらへ歸りたいと思ふんだ。しかし、時局の都合で、どうなるやら、一月(ひとつき)さきのことも判らない今の時世(ジセイ)だから、思ふ通りには行かないかも知れない。が、まあまあ、希望をもつて、ガンバつて行かうぢやないか。生活に無理のない程度に、貯金でも少しつゝしながら、オレが内地へ歸つてからの生活を樂しみにしてゐてくれ。三十圓でも四十圓でも、いくらでも良いぢやないか。今迄、無かつたのにくらべれば。

 …………今朝早かつたもんだから、ついウトウト居眠りして了つた。氣が付いたら、イヤに脚(アシ)の方がつめたい。高度計(コウドケイ)を見ると三千三百メートル。これでは寒い筈だ。客の中に、クシヤミをしてる人がある。屹度、ウス着で、來たんだらう。窓からのぞくと、今、飛行機は大きな乳色やねずみ色の雲のかたまりの上を飛んでゐる。上の方はすつかり晴れてゐるんだが、下から見れば、ひどく曇つてゐるんだらう。パラオ迄は、あと一時間ぐらゐかな?(以上、飛行機の上で)

(これからは、パラオの獨身宿舍の部屋で)

 二時少し過ぎ、無事パラオ着。中々愉快な空の旅だつた。今日の八時間の旅費が百九十圓。これぢや自費では一寸乘れないね。役所へ直ぐに行つて、お前の手紙だの、小包だの澤山受取つた。お前の手紙を讀むだけでも隨分時間がかかつた。八月に出したのなんか、今讀むと、ヘンだけれど、それでも中々面白かつたよ。ノチャボンのことを書いたのは、何度も讀み返しては、自然に笑へてくる。島田さんのヲヂさんが、ビロードの嫌ひな話は愉快だな。あそこのヲバさんは、犬のお腹(ナカ)をたゝく音が嫌ひだし、面白いねえ隨分。本郷町の家を手離したのはお前が惡いんぢやない。あれは、あれで仕方がないんだ。お父さんに炊事(スイジ)をさせておく譯(ワケ)には行かないからね。オレが歸れば、歸つたで、又、家を探すさ。明日、この手紙を出すついでに、遲(オク)れた十月分のお金を送る。いつもより五十圓多いが、それは貯金にまはしておけ。オレの方の貯金は、どうも、直ぐに出してしまふ恐れがあるから、(内地への船賃だけはとつておいて)これから、なるべくお前の方へ送つておかうと思ふんだよ。さうさう、ルスに氷上の葉書が來てゐてね、「僕もこの秋結婚といふことになつた」とさ。九月の日附だから、もう、すんぢやつたらう。あいつも、もう三十一だからな。お母さんも之で一安心だらう。

 所で、タカ助は、まあ、なんと、オレをひいきにすることよ! だ。あんまりオレびいきになり過ぎるから、色々と神經質(シンケイシツ)になるんだ。もうオレも身體の工合が大變に良くなつたんだから安心しろ。今迄は隨分(ズヰブン)、かなしい知らせばかりやつてお前を泣かせすぎたやうだな。カンベンしろよ。今日ね、久しぶりで、役所へ行つたらみんなが、オレのことを「大分フトツタネ」といふんだ。實はね、この間の晩、トラックの宿で、寐てから、肩の所がカユイので、かいたんだが、その時、自分で、何だか、少し肉がついたんぢやないかな、と感じたんだよ。ホントに少しフトツたんぢやないかと思ふ。近い中に目方をはかつて見よう。とにかく、今の所、身體の調子のいいことは、タシカだ。さうだ、さうだ。忘れてゐた。ビスケットやノリや雜誌や新聞を有難う。八月あたりのからたまつてゐたので、大分小包や郵便物があつた。さういふのを受取るのは嬉しいものだぜ。南洋群島の群の字を郡とまちがへてはダメ。群だよ。オレの此の次の旅行は何時出かけるか、まだ未定。きまつたら、直ぐ知らせるが、今度のは、せいぜい一月ぐらゐの期間だから大したことはない。内地へ行けるか行けないか、これもハツキリしないが、行けるとしても、冬の間は、(少くとも三月末までは)よした方が利口(リコウ)だと思ふが、どうだい? 早く行きたいのは山々だが、やはり暖かくなつてからでないと、危險だからね。それ迄、何とか、ガンバツテヰテクレ、(といふことは、無理してハタライテクレといふんではない。俺の健康については安心して、將來をたのしみにしてゐてくれ、といふことだ)(エフェドリンね、島田さんに都合して貰(モラ)つた分(ブン)に、まだ手が付けてないんだぜ。エライダラウ? 旅行中に、あれを全部(二百五十粒)持ちあるいたんだけどね。)久しぶりに歸つて來たが、パラオは暑いや。トラックよりずうつと暑い。お前は、オレのサルマタのことを心配してゐるが、いくらパラオでもサルマタぐらゐ賣つてるから安心しろ。サルマタは大體、三(ミ)月で三つはきつぶすね。だから、横濱から最初にもつて來た三つは、大體九月の絡までに使ひすてちまつて、あとから送つてくれた一つと、南洋で買つた二つとを、今代りバンコにはいてゐる。もう洗濯なんか、ウマイものさ。ヒマがないのに無理して、縫ふことはないぜ。

 ビスケットつて、二月ぐらゐたつても、マヅクならないものだな。八月に出したヤツでも結構(ケツコウ)くへるね。お菓子があると、何だか、金持になつたやうで、いいな。役所から、うちへ歸るのが、一寸たのしみだからね。しかし、もう、東京からは、無理をして、送らなくつてもいい。

 サツキ書いた、送金こと、少し變(か)へる。五十圓增して、二百圓送らうと思つたが、又、この月の中に旅行に出て、十一月分が遲(オク)れるといけないから、十月十一月と二月分併せて三百圓送ることにする。旅費が多少あまつてるので、送れるんだよ。

 しかし、オレの方も、十月から、國債を買ふ金として、一(ひと)月に八圓づつとられるので、大分大きい。親睦會費は大抵十圓以上だし、強制(キヤウセイ)貯金は十圓づつだし、オレの手にはいるのは、毎月二百十圓に足りないくらゐだ。それにオレは病氣で隨分休んだから、年末のボーナスは無いものと思つてくれ。十一月の十一日はタカ助の誕生日。南洋からは何にも送つてやるものがないから、或はその日、又、少しばかり(ほんの少しばかり)爲替(カハセ)が行くかもしれないよ。

 

 一寸思ひついたから、桓に讀ませてもいゝと思はれる本を二三。

 中央公論で出してる「ともだち文庫」(桓のもつてる「ライオンのめがね」もその一つ)の中の、

  動物園日記 (福田三郎)

  小川の葦  (坪田讓治)

  獸の世界  (ヴェルヴィン)

  戰ふ兵隊蟻 (與田準一)

などは、どうだらう惡くなからうと思ふ。値段はみんな五十錢。是非讀ませろといふ程のものではない。近くの本屋にでもあつたら買つてやつても良からうといふ程度のもの。

   *

「クレープ」フランス語“crêpe”。細かな縮み皺をつけた薄手の織物。

「氷上」氷上英廣(明治四四(一九一一)年~昭和六一(一九八六)年)はドイツ文学者で東京大学名誉教授。東京生。府立一中から一高に進み、昭和八(一九三三)年に東京帝国大学文学部を卒業、旧制甲南高等学校及び一高の各教授を経、昭和二五(一九五〇)年に新制の東京大学教養学部助教授に就任、昭和三二(一九五七)年に教授となった。特にニイチェの研究家として知られるが、一高時代に文芸部委員として敦と親交があり、敦からカフカを教えられたという。また、お互いに作品を校友会雑誌に作品を発表しあっていた(ここまでは主にウィキ氷上英廣に拠る)。底本の筑摩版中島敦全集の編集委員でもある。底本郡司勝義氏は書簡の解題で、敦の『生涯を通じて許しあつた唯一の友人といへる』とし、『昭和二年に知り合つて以來昭和十七年に著者の沒するまで續いた何一つ渝』(かは)『らぬ兩者の友情』を讃えておられる。

「エフェドリン」(ephedrine)は明治二五(一八九二)年に日本近代薬学の祖たる長井長義によりマオウ(麻黄:裸子植物門グネツム綱グネツム目マオウ科マオウ属 Ephedra の(一科一属)常緑低木)から単離されたアルカロイド。気管支拡張剤として喘息治療薬や局部麻酔時の低血圧に対処するための交感神経興奮剤として用いられる。気管支筋弛緩作用はアドレナリンより弱いものの持続性がある。消化管からよく吸収され、経口服用で有効、中枢興奮作用により不安・不眠・食欲減退・呼吸興奮などの副作用を起こす。また心拍数を増加させ、血圧も上昇させる。臨床的には塩酸エフェドリンが気管支喘息・上気道炎に伴う咳及び鼻粘膜の充血腫張などに用いられる(以上は主に平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

『中央公論で出してる「ともだち文庫」』昭和一六(一九四一)年から昭和二五(一九五〇)年頃まで中央公論社から出版されていた児童向けの四六判文庫。滑川道夫・冨田博之「体験的児童文化史」(国土社一九九三年刊)には、同文庫の創立の由来や以下で敦が掲げる「ライオンのめがね」「動物園日記」「戰ふ兵隊」への言及や表紙画像なども載る。

「ライオンのめがね」“Les Lunettes du Lion”はフランスの反戦主義の作家シャルル・ヴィルドラック(Charles Vildrac 一八八二年~一九七一年)が一九三二年に発表した童話。星幸一氏のブログ「つながる、仕合せ」ので読める。昭和一六(一九四一)年同文庫刊のそれは石川湧訳・横井福次郎絵。

「動物園日記 (福田三郎)」昭和一六年同文庫刊。福田三郎(明治二七(一八九四)年~(没年を確認出来なかった))は戦時下の上野動物園園長代理。大正一〇(一九二一)年、東京農業大学高等科選科卒業、翌大正十一年に帝室博物館付属上野動物園に動物園掛として勤務、その後、飼育課長を経て、獣医として従軍した古賀忠道園長に代わって昭和一六(一九四一)年八月から昭和二〇年十月まで園長代理を務めた。昭和二七(一九五二)年、退職。象やライオンなどの猛獣の殺処分という悲劇の責任者でもあった。知られた餓死させられた象のトンキーの物語は福田氏の「実録上野動物園」が原作である。

「小川の葦  (坪田讓治)」昭和一六年同文庫刊。

「獸の世界  (ヴェルヴィン)」Ellen Velvinの作品(作者及び内容不詳)。昭和一六年同文庫刊。永井直二訳・脇田和絵。識者の御教授を乞う。

「戰ふ兵隊蟻 (與田準一)」昭和一六年同文庫刊。詩集。深沢紅子絵。与田凖一(明治三八(一九〇五)年~平成九(一九九七)年)は福岡県生まれの児童文学者・詩人。昭和期の日本の児童文学界において指導的役割を担った。国立国会図書館近代デジタルライブラリ当該書。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 27 日本最初のダーウィン進化論の公開講演


M280
図―280

 

一八七七年十月六日、土曜日。今夜私は大学の大広間で、進化論に関する三講の第一講をやった。教授数名、彼等の夫人、並に五百人乃至六百人の学生が来て、殆ど全部がノートをとっていた。これは実に興味があると共に、張合のある光景だった。演壇は大きくて、前に手摺があり、座席は主要な床にならべられ、階段のように広間の側壁へ高くなっている。佳良な黒板が一枚準備されてあった他に、演壇の右手には小さな円卓が置かれ、その上にはお盆が二つ、その一つには外国人たる私の為に水を充した水差しが、他の一つには日本に於る演説者の習慣的飲料たる、湯気の出る茶を入れた土瓶が(図280)のっていたが、生理的にいうと、後者の方が、冷水よりは咽喉によいであろう。聴衆は極めて興味を持ったらしく思われ、そして、米国でよくあったような、宗教的の偏見に衝突することなしに、ダーウインの理論を説明するのは、誠に愉快だった。講演を終った瞬間に、素晴しい、神経質な拍手が起り、私は頰の熱するのを覚えた。日本人の教授の一人が私に、これが日本に於るダーウイン説或は進化論の、最初の講義だといった。私は興味を以て、他の講義の日を待っている。要点を説明する事物を持っているからである。もっとも日本人は、電光のように速く、私の黒板画を解釈するが――。

[やぶちゃん注:「一八七七年十月六日、土曜日。」原文では日記からの引用を示すためか、若しくはダーゥインの進化論の記念すべき日本初の特別公開講演(授業とは別)であることを強調するためか、“Saturday, October 6, 1877.”と曜日と月とがイタリック体で表記されている。土曜日はユダヤ教の安息日で、それがキリスト教の週末の信徒集会の日としても受け継がれたことから、キリスト教嫌いのモースが、この日に「冒瀆的」な進化論講義を日本で成し得たことへの、皮肉な快哉の意味もあったのかも知れないし、またカトリックでは春の復活祭前日の土曜日を聖土曜日(Holy Saturday, Black Saturday)として『イエスが眠りについている』ことをあらわす習慣があるが、それらもモースには面白く意識されていたものかも知れない。勝手な私の連想であるが、モースの進化論講義や講演では、必ずキリスト教への、主にその非論理性に対する激しい論難が伴ったこともまた事実なのである。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、この進化論講演はこの後日の同十月十五日と二十日と連続三回、神田一ツ橋の東京大学法理文三学部講堂で行われ、『教授たちとその夫人、および全校生徒が主体だったが、新聞にも広告されたので誰でも聴講が可能』であったが、『通訳はつかなかったらしい』。『この公開講義で、一般の人々は初めて進化論なるものを耳にしたわけだが、通訳がつかなかったからか、東大の生徒が主体だったからか、まだこの暗怪では社会的に注目されるまでにはいたらなかった。進化論が人目を引くのは、それから一年後の明治十一年秋、江木学校講談会』(当時の東大予備門英語教諭であった江木高遠主催の学術講演会)『での進化論の連続四講を行なってからである』とある(これは次章「六ケ月後の東京」の掉尾に記されてある)。

「日本人の教授の一人」英語及び心理学担当の文学部教授外山正一か、植物学担当の理学部教授矢田部良吉の孰れかであろうが、当時、進化論鼓吹に人一倍力を入れていた外山である可能性が頗る高いと思われる。

「要点を説明する事物を持っているからである」原文“for I shall have objects to illustrate the points”。これが如何なる証拠物品(標本)であったかは詳らかでないのが残念だが、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の第二十三章「『動物進化論』の出版」(「動物進化論」はモース口述・石川千代松筆記になるもので明治一六(一八八三)年に刊行された)に、同書やモースの講演によって『保護色、擬態、洞窟魚の眼の退化などの適応の実例、始祖鳥とか馬の芯かなどの古生物学的知見、脊椎動物胚の形態の類似等々』が『数多く紹介された』とあるのがその物証のヒントにはなるように思われる。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 26 赤門

M279
図―279

 先日の朝、私は加賀屋敷の、主な門を写生した(図279)。塀の内側にある我々の家へ行くのに、我々はこの門を使用せず、住んでいる場所の近くの、より小さい門を使う。門構えの屋根は、大きな濃い赤の棟があり、重々しく瓦が葺(ふ)いてある。木部は濃い赤で塗られ、鉄の化粧表、棒その他は黒い。これは絵画的で、毎朝その前を通る時、私はしみじみと眺める。屋敷を取巻く塀は非常に厚く、瓦とセメントで出来ていて、頑丈な石の土台の上に乗り、道路とは溝を間に立っている。塀の上には、写生図にある通り、屋根瓦が乗っている。
[やぶちゃん注:所謂、現在の東京大学の俗称である赤門。本郷通りに面し、現在の東大キャンパスの南西部に位置している。東大の正門とよく間違われるが正門ではない。旧加賀藩主前田家上屋敷の御守殿門(御守殿とは三位以上の大名に嫁いだ徳川将軍家の娘の敬称。門を丹塗りにしたところから表門の黒門に対して俗に赤門と呼ばれる)であり、文政一〇(一八二七)年、第十二代藩主前田斉泰が第十一代将軍徳川家斉第二十一女溶姫を迎えるために造営された薬医門(鏡柱(正面の二本の主柱)から控え柱(鏡柱後方の扉の左右の柱)までを取り込む屋根を持つ門で、本来は公家や武家屋敷の正門などに用いられたが扉をなくして医家の門として用いられたことからかく呼ぶ)で切妻造。左右に唐破風造の番所が配されてある。国重要文化財(旧国宝)。以上はウィキや武家屋敷の門についての信頼し得る複数のネット記載を綜合して記述した(次も同様)。私は自分の幼少期の記憶の景色を思い出しては、ある種の曰く言い難い違和感を感ずるのであるが、実は現在の舗装された道路というのは、かつての実際の地面の高さから一メートル以上も盛り上がっているのである(私の家の前の県道は、たまたま見つけた道路工事用の数値マーキングから一メートル二十センチも高いことを数年前に知った)。この赤門の絵も、本郷通りからは有意な勾配を以って赤門へのエントランスが通じており、手前の婦人と蜻蛉釣りをしているかと思われる子供は明らかにずっと低い位置に立っている。僕らは背の低い小さな頃、周囲の景観をもっともっと見上げるような感じで生きていたのだ……世界はもっともっと広かったのだなぁと……何か幽かな哀感とともに私はこの頃、感慨をさえ感ずるのである……
「住んでいる場所の近くの、より小さい門」現在の東京大学正門附近と思われる。キャンパス西部、本郷通りの赤門から366メートル北に位置する。現在のそれは築地本願寺の設計で知られる伊東忠太の手になるもので、大正元(一九一二)年に完成したもので、横に配された門衛所と合わせて登録有形文化財となっている。
以下、有意な一行空けがある。]

鬼城句集 冬之部 冴

冴     棚畑のすみずみ冴えて見えにけり

[やぶちゃん注:「すみずみ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

咲く心   八木重吉

うれしきは

こころ 咲きいづる日なり

秋、山にむかひて うれひあれば

わがこころ 花と咲くなり

2013/12/12

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 25 皇居内の庭園

M278

図―278

 

 帝室のお庭に就ては、大部書かれたから、私は詳記しまい。これ等は、ニューヨーク中央公園の荒れた場所に似ているが、大なる築山や丘や、深い谷や、自然のままと見えるが検査すると、断層、向斜、背斜がごちゃまぜで、地質学のあらゆる原理が破ってあるので、そこで初めて平地の上にこれ等すべてを築き上げたのだということを理解する岩石の上を、泡立てて流れ落ちるいくつかの滝等によって、中央公園よりも、もっと自然に近く、もっと美しい。この目的に使用する大きな岩は、百マイル以上も遠い所から、文字通り持って来られたのである。この山間の渓流の横手には、苔むした不規則の石段があり、それを登って行くと頂上に都びた東屋(あずまや)がある。ここ迄来た人は、思わず東屋に腰を下して、この人工的の丘からの景色に見とれる。所が驚くことには、東屋から、美しい芝生と思われるものが、はるか向う迄続いている。こんな芝生が存在することが不可能であることを、徐々に理解する人は、席を離れて調べに行くと、最初は高さ六インチばかりの小さな灌木に出あい、それから緩傾斜を下りるに従って、灌木の背が段々高くなる。なお進むと、灌木はますます高くなり、小さな木になって来るが、それ等は上方で、完全な平面に刈り揃えてある。丘の麓に来た人は、大木の林の中へ入って行くのだが、これ等の梢も、他の木々の高さと同じ高さに刈り込んである。この庭は三百年の昔からあるので、かかる驚く可き形状をつくり上げる時は充分あったのである。写生図なしで説述しようとした所で無益だし、このような景色を写生することは私の力では出来ない。もっとも私は、根と枚とが殆どこんがらかった大木の輪郭だけを写生したにはしたが(図278)……大きな竹藪の美しさは目についた。花床は無かったが、風変りな石の橋や、小径や、東屋や、水平の棚に仕立てた大きな藤、その他があった。この場所は土曜日だけ開き、特別な切符を必要とするが、日本の習慣が我々のと反対である例はここにも現れ、切符は入場する時に手渡さず、出る時に渡す。

[やぶちゃん注:現在の北の丸公園辺りかと思われる。

「ニューヨーク中央公園」原文“Central Park in New York”。

「断層、向斜、背斜がごちゃまぜ」“a conglomeration of faults, synclinals, anticlinals,”。構造地質学用語で“ault”は断層、“synclinal”は向斜(こうしゃ。Syncline とも)、“anticlinal”は背斜(はいしゃ。Anticline とも)。褶曲構造に於いてその地形の「谷」になっている部分が向斜、地形の山になっている部分が背斜である。

「百マイル以上も遠い所」凡そ161キロメートル弱。重量約十一トンの「百人持ち石」とも言われる江戸城の築城石は、家康の命によって慶長一一(一六〇六)年より始められた江戸城の大拡張工事に伴い、現在の静岡県賀茂郡東伊豆町稲取から切り出された。稲取―江戸城は直線で120キロメートル(因みに東京―稲取の路線距離は151・8キロメートルある)。

「六インチ」15・2センチメートル。

「三百年の昔」江戸城自体は室町時代の扇谷上杉氏上杉持朝家臣の太田道灌が長禄元(一四五七)年に築城したものだが、明治十年から二百八十七年前の天正一八(一五九〇)年八月一日、徳川家康は駿府から公式にここに入城して居城とした。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 24 明治十年のアジア型コレラのパンデミック

この前に一段落分を落していたため、改めて公開し直した。



 横浜と東京とにアジア虎疫(コレラ)が勃発したという、恐しい言葉が伝った。この国の政府の遠慮深謀と徹底さとには、目ざましいものがある。この厖大な都会は、ニューヨークの三倍の地域を占め、人力車が五、六万台あるということだが、その各が塩化石灰の一箱を強制的に持たされている。毎朝、小使が大学の廊下や入口を歩いて、床や筵に石炭酸水を撒き散し、政府の役人は、内外人を問わず、一人残らず阿片丁幾(アヘンチンキ)、大黄、樟脳等の正規の処方でつくった虎疫薬を入れた小さな硝子瓶を受取る。これには、いつ如何にしてこの薬を用うべきかが印刷してあるが、私のには簡潔な英語が使用してあった。

[やぶちゃん注:「アジア虎疫(コレラ)」原文“Asiatic cholera”。コレラ菌のアジア型(古典型)。ウィキの「コレラ」によれば、コレラ菌は現在、従来のアジア型(古典型)とエルトール型及び一九九二年に新たな菌としてO(オー)139が発見されている。コレラは強い感染力を持ち、特にアジア型は高い死亡率を示してペストに匹敵する危険な感染症であるが、ペストとは異なり、自然界ではヒト以外には感染しない。流行時以外にコレラ菌がどこで生存しているかについては諸説あり、海水中・人体に不顕性感染の形で存在・甲殻類への寄生が考えられている、とある。治療を行わなかった場合の死亡率はアジア型では75~80%と高い(エルトール型では10%以下)。『アジア型は古い時代から存在していたにもかかわらず、不思議なことに、世界的な流行(パンデミック)を示したのは19世紀に入ってからである。コレラの原発地はインドのガンジス川下流のベンガルからバングラデシュにかけての地方と考えられて』おり、『世界的大流行は1817年に始まる。この年カルカッタに起こった流行はアジア全域からアフリカに達し、1823年まで続いた。その一部は日本にも及んでいる。1826年から1837年までの大流行は、アジア・アフリカのみならずヨーロッパと南北アメリカにも広がり、全世界的規模となった。以降、1840年から1860年、1863年から1879年、1881年から1896年、1899年から1923年と、計6回にわたるアジア型の大流行があった。しかし1884年にはドイツの細菌学者ロベルト・コッホによってコレラ菌が発見され、医学の発展、防疫体制の強化などと共に、アジア型コレラの世界的流行は起こらなくなった』とあるから、このモースの謂いは『1863年から1879年』のパンデミックを指していることが分かる。

「この厖大な都会は、ニューヨークの三倍の地域を占め」ニューヨーク市の現在の面積は約1214平方キロメートル(陸地部分が約785、水面部分が429平方キロメートル)であるのに対し、現在の東京都の面積は2187・58平方キロメートルで1・8倍でしかないが、恐らくは双方の境界域がこの頃とは異なることによるのでろう。

「人力車が五、六万台あるという」既注済みであるが、明治九(一八七六)年の東京府内で2万5038台と記録されており(明治九年東京府管内統計表による)、一年後の明治十年に「五、六万台」というのは誇張された数値としか思われない。

「塩化石灰」原文“chloride of lime”。晒し粉、次亜塩素酸カルシウム(Calcium hypochloriteCaCl(ClO)H2O又はCa(ClO)2の粉末のこと。水溶性で強い酸化力を持ち、殺菌・消毒・漂白に用られる。

「石炭酸水」原文“carbolic acid water” 炭酸水(carbonic acidH2CO3)。塩基性を示す炭酸塩は古来、灰汁(あく)として日常生活での洗浄などに用られてきた。

「阿片丁幾(アヘンチンキ)」原文“formula of laudanum”。アヘンチンキ (laudanumopium tincture)はアヘン末をエタノールに浸出させたもの。ウィキの「アヘンチンキ」によれば、アヘンのアルカロイドのほぼすべてを含んでおり、その中にはモルヒネやコデインも含まれる。特にモルヒネが高い濃度で含まれているため、歴史的に様々な病気の治療に使われたが、主な用法は鎮痛と咳止めであった。英語圏では「ローダナム」とも呼ばれるが、現在の医学ではアヘンチンキの名称を用いることが多い。ローダナムという名前を与えたのは十六世紀のスイスの錬金術師パラケルススで、十八世紀に入ると種々の薬物を混合したものが広く薬として使用されるようになったとあり、とある資料(“In the Arms of Morpheus: The Tragic History of Laudanum, Morphine, and Patent Medicines”, by Barbara Hodgson. Buffalo, New York, USA. Firefly Books, 2001, pages 44-49.)には、『「一時的なものであれ、咳や下痢や痛みを和らげる薬がなぜ一般受けするかを理解するには、その時代のでの生活がどのようなものであったかを考えなければならない」1850年代には、「コレラや赤痢が様々な地域で蔓延し、罹患者は下痢による衰弱でしばしば命を落とした」「また、浮腫や結核、マラリアそしてリューマチも一般に見られた」』とあり、また『19世紀には、アヘンチンキは「痛みを和らげ、安眠でき、苛立ちを鎮め、過剰な分泌を阻止し、神経系統を支え…そして催眠剤としての」特効薬として使われ』、『万能薬のような用いられ方』がなされたが、これはその当時の限られた薬種の中ではアヘンの派生物は有効で入手し易い治療方法の一つであったことによる。『アヘンチンキは風邪から髄膜炎、そして循環器の病気に至るまで、大人子供を問わず広く処方され』、『鎮痛剤、鎮咳剤、止瀉剤として有名だったが、さらに結核、熱病、百日咳、コレラといった伝染病や各種神経症の治療にも用いられた』。『日本においては、約500年前で中国経由でアヘンが伝わったとされるが、中国のようにアヘンを喫煙によって摂取する習慣は伝わらなかったようである。また当時の漢方医学では全く用いられておらず、江戸時代に民間医療書である「普救類方」に、胃の調子がおかしいときに「罌粟殻(けしのから)を水にて煎じて飲む」とあり、ケシが薬用に供されていた。しかし、アヘンを採取していたかどうかははっきりせず、恐らく日本におけるアヘンはオランダ人から持ち込まれたものが、日本人の蘭方医に伝わったとされる』。『シーボルトは眼病の治療のために、ベラドンナエキスや塩酸重土(塩化バリウム)とアヘンチンキを調合しており』、『癌摘出手術の術後治療にも用いている』 。また、安政五(一八五八)年に『中国経由で入港中の米軍艦ミシシッピー号、(ペリー艦隊4隻中の1隻)の、コレラに罹患した乗組員がもとでコレラが長崎に大流行し、ポンペと長崎養生所(医学伝習所)がこれを治療した際に、アヘンとキニーネを用いている』とあって、コレラ治療への積極的な処方が記されてある。

「大黄」“rhubarb” 双子葉植物綱タデ目タデ科ダイオウ属 Rheum の植物を総称して大黄(だいおう)という。薬用植物で漢方薬では本属の一部植物の根茎を基原とした生薬を大黄という。消炎・止血・緩下作用があり、漢方ではそれを利用した大黄甘草湯に配合されるだけでなく、活血化瘀作用(停滞した血液の流れを改善する作用と解釈される)を期待して桃核承気湯などに配合されている。日本薬局方では基原植物をショウヨウダイオウ Rheum palmatum・タングートダイオウ Rheum tanguticum・ダイオウ Rheum officanale・チョウセンダイオウ Rheum coreanum 又はそれらの種間雑種とする。指標成分は瀉下作用の活性成分であるセンノサイドであり、日本薬局方には最低含有量が規定されているが、活血化の作用を期待して大黄を使用する場合には瀉下作用は副作用となってしまうため、その含量規定は低く抑えられている(ここまでは主にウィキダイオウ及び製薬会社福田株式会社の「ダイオウ(黄)」(PDFファイル)の記載に拠った)。現在の消化器内科に於いても、コレラ性の下痢に対する大黄由来物質による抑制効果があることを述べた記事がネット上で見つかる。

「樟脳」“camphor” 。分子式 C10H16Oで表される二環性モノテルペンケトンの一種。カンフル(オランダ語:camphre)あるいはカンファー(ドイツ語:camphor)とも呼ばれる。双子葉植物綱クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphoraの精油の主成分であるが、他にも各種の精油から見出されている。クスノキはアジア、特にボルネオに産することから樟脳の別名の起源となっている。参照したウィキ樟脳」によれば、『血行促進作用や鎮痛作用、消炎作用、清涼感をあたえる作用などがあるために、主にかゆみどめ、リップクリーム、湿布薬など外用医薬品の成分として使用されている』が、『かつては強心剤としても使用されていたため、それらの用途としてはほとんど用いられなくなった現在でも、「駄目になりかけた物事を復活させるために使用される手段」を比喩的に"カンフル剤"と例えて呼ぶことがある』(現在の強心剤はアドレナリン作動薬が用いられている)。『19世紀初頭では樟脳とアヘンを混ぜて子供の咳止めとして用いることもあったが、多くの子供はよりひどい状態になり、この処方をするくらいなら放っといたほうがましだと評価されていた。その他にも香料の成分としても使用されている』とあって、ここでモースが示したアヘンチンキとの混合薬剤があったことが知れる。また、『樟脳は皮膚から容易に吸収され、そのときにメントールと同じような清涼感をもたらし、わずかに局部麻酔のような働きがある』とあって、コレラの激しい下痢を緩和する効果を期待したものとも思われる。『しかし、飲み込んだ場合には有毒であり、発作、精神錯乱、炎症および神経と筋肉の障害の原因になりうる』ともある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 23 丘からの眺め


M277


図―277

 

 今日私はE教授と昼飯を共にした。彼はある丘の上の日本家に住んでいるので、そこからはこの都会のある部分がよく見える(図277)。私は写生をする気であったが、あまり込み入っているので、只朧気(おぼろげ)にその景色がこんな風なものであるということを、暗示するに足るものが出来た丈である。左の隅の遠方に見える建物は陸軍省に属している。丘の上の、高い円尾板のあるものも同様である。煙出しや教会の尖塔の無いこと、屋根の高さが一般に同じで、所所に高い防火建築、即ちクラがあることに気がつくであろう。煙の無いことも観られる。事実煙や、白くて雲に似た湯気などはどこにも見えない。家の中の人工的の熱は、一部分灰に埋り、陶器、磁器、青銅等の容器に入った木炭の数片から得る。日本人は我々程寒気をいとわぬらしい。昨今は軽い外套を着る程寒いのだが、彼等は暑い夏と同じように、薄いキモノを着、脚をむき出して飛び廻っている。

[やぶちゃん注:「E教授」姓が「E」で始まる当時在日していたお雇い外国人で、気軽に昼食を招待されるような英米人はイギリス人物理学者で機械工学教授であったジェームズ・ユーイング(James Alfred Ewing 一八五五年~一九三五年)ぐらいしか見当たらない。スコットランド生。エジンバラ大学で土木工学のジェンキン教授に師事し、後にグラスゴー大学のトムソン教授(ケルビン卿)の下で大西洋海底電線敷設工事などに従事した。トムソンの推薦によって明治一一(一八七八)年九月に東京大学の教師として来日、物理学・器械学などを講義した。明治十六(一八八三)年六月まで在職して田中館愛橘らを門弟として育てた。当時滞日中であったミルンと同じように地震学に関心を寄せ、日本地震学会の創立に寄与するとともに地震計を創製し、地震観測所を設立した。明治十六年の帰国後はダンディ大学の工学教授、一八九〇年にはケンブリッジ大学に移って機械工学・応用機械学の教授を務めた。磁気学の研究で著名になるとともに海軍教育部長や母校エジンバラ大学副総理に就任するなど教育面でも活躍した。(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

 なお、文中に出るミルン(John Milne 一八五〇年~一九一三年)についてもモースとの関係の中でどうしても注しておかなくてはならない。

 このミルンはイギリス・リバプール生まれの鉱山技師にして地震学者・人類学者・考古学者。明治九(一八七六)年に工部省工学寮教師に招かれて来日、明治十一年にはモースやブラキストン(Thomas Wright Blakiston 一八三二年~一八九一年:イギリス生まれの軍人・貿易商・探検家・博物学者。幕末から明治期にかけて日本に滞在した。津軽海峡における動物学的分布境界線の存在を指摘、これは後にブラキストン・ラインと命名された。)らとともに函館の貝塚を発掘している。また、縄文時代の大森貝塚の絶対年代を二千六百四十年前と最も正確に推定した人物でもある。明治十三年にユーイングとともに日本地震学会を創設した。明治十四年には西本願寺函館別院願乗寺住職堀川乗経の長女堀川トネと結婚、「日本の石器時代についての論文」を発表している。明治一九(一八八六)年の東京帝国大学の設置とともに工学部で鉱山学・地質学を担当、明治二七(一八九四)年、現在、重要文化財に指定されている「ミルン水平振子地震計」を制作している。明治二八(一八九五)年にトネ夫人とともにイギリスに帰国した(この部分はウィキの「ジョン・ミルン」に拠る)。ミルンは大森貝塚人をアイヌとしたため、プレ・アイヌ説を提唱したモースとは激しい論争が生じ、永く不仲となったが、ずっと後の一八八九年に再会してビールを傾け合って和解したと磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」(三〇二頁)にある。

「彼はある丘の上の日本家に住んでいる」この位置が分からない。この「E教授」はユーイングであるならば、本郷加賀屋敷内教師館であることは間違いないのだが、この当時、ユーイングの宿舎が何処であったかが分からないのである。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には明治一一(一八七八)年末には七番館にユーイングが移っていたことは記されているものの、その前、この明治十年のユーイングの宿舎が書かれていないからである(モースは五番館)。しかしモースのいた五番館とは違ってこの見晴らしの良さという点から考えるならば、これは五番館より高い位置にあった一番館及び二番館或いは十六番館でなくてはならない(高度については日文所蔵地図データベ内の明治一六(一八八三)年参謀本部陸軍部測量局作成になる五千分一東京図測量原図の「東京府武蔵國本郷區本郷元富士町近傍」などを参照した)。しかし磯野先生のデータによれば、一番館はパーソン数学教授、二番館はヴィーダー物理学教授、十六番はマレー文学学監の宿舎となっているのである(九九頁)。特にこの中では十六番館が最も見晴らしがよいように思われる。それとも(考えにくいのだが)ユーニングの宿所はこれら外国人教師用教師館とは全く別のところにあったものか。ただ、磯野先生の書に載らないということは、実はユーニングの当時の居所は現在では分からない可能性が高いことは申し添えておきたい。

「左の隅の遠方に見える建物は陸軍省に属している。丘の上の、高い円尾板のあるものも同様である」見ている位置がはっきりしないのだが、もしそれが前の注で述べた通り、十六番館であったと仮定してみると、位置的には前者が水道橋の左岸にあった陸軍練兵場、その向うにある旗を立てた後者が皇居北にあった東京鎮台陣営に相当して位置的には極めて問題がないのである。識者の御教授を乞うものである。]

鞦韆のさゆらぎ止まぬ我が庭の芭蕉卷葉に細し春雨 萩原朔太郎



鞦韆のさゆらぎ止まぬ我が庭の芭蕉卷葉に細し春雨

 

[やぶちゃん注:『坂東太郎』第二十一巻第四号(明治三五(一九〇二)年十月発行)に服部躬治選で掲載された。底本の筑摩書房版全集第三巻の「短歌」の冒頭に載る。

 選者の服部躬治(はっとりもとはる 明治八(一八七五)年~大正一四(一九二五)年)は歌人で小説家水野仙子(せんこ)の実兄。福島生。国学院卒業後、跡見女学校で教鞭を執った。明治二六(一八九三)年に落合直文の「あさ香社」の結成に参加、明治三十一年には久保猪之吉・尾上柴舟らと「いかづち会」を起こして新派和歌運動に活躍したが、大正期には歌壇から遠ざかった。歌集に「迦具土(かぐつち)」。

 

 かぐつちの血しほやここにたばしりし五百津磐村(いほついはむら)煙わきのぼる(「迦具土」)

 

(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

 

 当時、朔太郎、未だ満十五歳。
 『坂東太郎』は前橋中学校(現在の県立前橋高等学校)の校友会誌。]

大和行   八木重吉

 

 

大和(やまと)の國の水は こころのようにながれ

 

はるばると 紀伊とのさかひの山山のつらなり、

 

ああ 黄金(きん)のほそいいとにひかつて

 

秋のこころが ふりそそぎます

 

 

さとうきびの一片をかじる

 

きたない子が 築地(ついぢ)からひよつくりとびだすのも 

                     うつくしい、

 

このちさく赤い花も うれしく

 

しんみりと むねへしみてゆきます

 

 

けふはからりと 天氣もいいんだし

 

わけもなく わたしは童話の世界をゆく、

 

日は うららうららと わづかに白い雲が わき

 

みかん畑には 少年の日の夢が ねむる

 

 

皇稜や、また みささぎのうへの しづかな雲や

 

追憶は はてしなく うつくしくうまれ、

 

志幾(しき)の宮の 舞殿(まひでん)にゆかをならして そでをふる

 

白衣(びやくえ)の 神女(みこ)は くちびるが 紅(あか)い

 

[やぶちゃん注:「皇稜」は「皇陵」の誤植であるがママとした。「舞殿」の「まひでん」のルビの「で」は私の底本ではカスレが生じて、右上方に「ゝ」のようなシミがあるのみであって「で」には見えないが、訂した。なお、「皇稜」であるが、これを私は重吉は「くわいりよう(こうりょう)」と読ませていると読む。本詩はかく読んでもらいたいと重吉が考えた訓読語や多少難読と思われる語彙に例外的に多くのルビが振られている。にも拘わらず、重吉がここに「みささぎ」とルビを振らなかったこと、しかもこの行では直下に「みささぎ」(皇陵)という当の和訓がそのまま出現していることから考えれば、重吉がこれを音読みで「くわうりやう」と読んでいることは言を俟たないからである。

「志幾(しき)の宮」これについては倭建命(死後、白鳥と変じたヤマトタケルは河内国『志幾』で白鳥陵(しらとりのみささぎ)として祀られたが、後に再び白鳥となって飛び去って別の地に落ち着いたとされ、現在、宮内庁は三重県亀山市能褒野(のぼの)王塚古墳と大阪府羽曳野市軽里大塚古墳の二つをその『志幾の宮』とも言うべき「白鳥陵」に比定しているが、これは神社ではなく神楽を催すような舞殿もなく、そもそも孰れも「大和」ではない)や雄略天皇(「古事記」は彼が構えていた宮殿を『斯鬼(しき)の宮』と呼んだことが記されてあるがこれは宮殿であって神社ではなく、そもそも場所が比定されていない……と後にここでこの探査をやめたのが大きな誤りであったことに気づいた)など、いろいろ調べては見たものの、腑に落ちる場所がない。検索ワードをいろいろと組み合わせてリファレンスしてもぴんとくる場所が出て来ない。本詩を注釈しているものも見当たらない(私は彼の詩の注釈本さえも所持していない)。いや、そもそもが如何せん、奈良・京都に不案内な迂闊な中年の私にはこれが限界であったのだ。ただ、暗愚な私にも分かることは、これは間違いなく重吉の嘱目したズームの実景で、大和に実在する神社の神楽舞の巫女を描いているということで、その神社と「志幾」という語が結びつく場所でなくてはならないということだけである。お手上げとなった昨日、古都を愛することでは教え子の中で右に出るものはあるまいと思う青年にこの神社の比定を依頼してみた。以下は昨夜、彼から送られてきたメールである。

   《引用開始》

先生

三輪山麓にある大神(おおみわ)神社がこの『志幾(しき)の宮』なのではないかと、私は想像します。以下理由を述べます。

初めてこの句に接したとき、私は遠い昔に憧れを抱きながら夢想する詩人の心の中のイメージなのだろうと、軽く素通りしておりました。しかし神女の紅いくちびるは実景であるという先生のご指摘には、大きく頷けるものがあります。

では『志幾の宮』はどこなのか……。かかる名を有する奈良県内の神社は、私も知りません。調べたところ、そもそもこれは雄略天皇の頃の宮の名で、河内地方にあったとされています。しかし、ここでいう『志幾の宮』は明らかに大和国の中です。恐らく『はるばると 紀伊とのさかひの山山のつらなり』が眺められる奈良盆地のどこかです……。

ここで思い当たるのが、発音が同じ現在の奈良県磯城(しき)郡です。磯城というのは、奈良盆地の中東部から南部にかけての由緒ある地名です。現在の磯城郡の範囲は田原本町、三宅町、川西町に限られており、詩人がわざわざ訪れるような由緒ある古い神社はこの範囲になかなか見出せません。しかし詩人が散策したであろう大正末期、磯城郡は、三輪、初瀬、多武峰をも含む広い地域を含んでいた。つまり、大神神社、長谷寺、談山神社をもその中に包摂していたのです。

大神神社のある三輪山麓のややせりあがった傾斜地からは、遠く紀伊との境の山々である金剛山系も見はるかすことが出来ます。そして大神神社の巫女さんの美しさは、知る人ぞ知る……なのです。私は小学四年生の頃に同級生四人で訪れた時の大神神社の清清しい印象を今でも忘れることが出来ません。

   《引用終了》

平凡社の「世界大百科事典」に、磯城(しき)は奈良盆地中東部一帯を指す地名で師木・志貴などにも書くとあり、「日本書紀」神武即位前紀には磯城邑(しきむら)が見え、ここには兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)という有力豪族があって後に弟磯城が磯城県主となったとある。磯城県は四~五世紀頃の成立とみられるが、その地域が中心となって奈良時代の城上(しきのかみ)郡・城下(しきのしも)郡が出来、崇神天皇の磯城瑞籬宮(みずがきのみや)・垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)・景行天皇の纏向日代宮(ひしろのみや)・欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)などが営まれたことが「日本書紀」に見えるとし、この地域は磐余(いわれ)地域とともに狭義のヤマトの主要部分を占めており、古代の政治・文化の中心であった、と記す。因みに私が探索をやめてしまった雄略天皇の宮である「斯鬼の宮」の比定地の一つに大和の磯城(しき)とする説がある(個人サイト内の『「斯鬼宮」を雄略天皇の宮としてよいだろうか』などを参照した)。

いや――何より彼のメールの目から鱗であったのは、検索で八木重吉の本詩と三輪明神(=大神神社)の酒祭りの巫女の舞姿の画像を探し当てながら、根拠が書かれていないことから等閑にしていた、個人のブログ文殊氏の「硯水亭歳時記Ⅱ」の「三輪明神の酒祭りのページこそが――ズバリそれであった――という事実であった。なお、この写真を拝見すると、巫女の舞が行われているのは恐らく拝殿の周囲の廻廊と思われるが、静御前の舞が行われたのが鶴岡八幡宮本殿の周囲にある廻廊であった如く、神社の廻廊とは同時に神に奉ずるための神楽舞の舞殿でもあった。従って重吉の「舞殿」の語彙には何らの問題もない。

ウィキの「大神神社」によれば、ここは日本で最古の神社の一つとされ、三輪山自体を御神体としており、本殿を持たず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されているとし、例年十一月十四日に行われる醸造安全祈願祭(酒まつり)で拝殿に杉玉が吊るされる、これが各地の造り酒屋へと伝わったとある。そして先に示した「硯水亭歳時記Ⅱ」の「三輪明神の酒祭り」で文殊氏はそのブログで『清純な巫女達の、清楚な舞が続く。まるで一緒に大神さまに面対しているような錯覚がする』と語っておられ、それにコメントを寄せた道草氏が本詩を全文引用、さらにそれに文殊氏が『八木重吉先生の詩は、大和の雰囲気を伝えてあまりありますねぇ』と感慨を漏らされておられるのだった。……とっくに私にヒントは与えられていたのに……愚鈍な私は愚かにも具体的根拠事実という下らぬ拘りからこれを無視していたことに忸怩たるものを感じざるを得ない。これを暗愚と言わずして何を暗愚と言おう……。なお、この巫女の舞は大神神社公式イトの「今月・来月のお祭り」「一年のお祭り」を見ると、この「酒まつり」以外にも、毎月朔日に拝殿に於いて行われる「月次祭(つきなみさい)」、「卯の日祭(うのひさい)」など、それぞれの祭りの解説の脇には美しい巫女の舞い姿が載っている。

いや――しかし私は思うのだ――何よりも私の心に腑に落ちたのは愛する教え子の最後の一文、『私は小学四年生の頃に同級生四人で訪れた時の大神神社の清清しい印象を今でも忘れることが出来ません』――これに優る同定の確信はなかった。……『大神神社の巫女さんの美しさは、知る人ぞ知る……なのです』……三輪明神、三輪神社とも呼ばれる大神神社の巫女の舞いを知る人は誰もが「具体的根拠」など不要で、この詩がここのものと分かっていたのだ。……私は教えてくれた教え子といつか、この巫女の舞いを見に行こう……]

鬼城句集 冬之部 年守

年守    年守りて默然とゐぬ榾盛

 

[やぶちゃん注:「年守」は「としもる」「としまもる」と読み、大晦日の夜に家中の者が集まり、夜明かしをして新年を迎えることをいう。]

芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる (分量膨大に附き、ご覚悟あれかし)

本日2013年12月12日~16日

陰暦2013年11月10日~14日

この芭蕉が杜国を訪ねた旅
 
陰暦 貞享4年11月10日~14日
 
は、グレゴリオ暦では

 
  1687年12月14日~18日

 

に相当し、現在時間とは若干二日ほどの誤差がある。   

 三川の國保美(ほび)といふ處に、杜國(とこく)が忍びてありけるをとぶらはむと、まづ越人(ゑつじん)に消息(せうそく)して、鳴海(なるみ)より後(あと)ざまに二十五里たづねかへりて、その夜、吉田に泊る。

 

寒けれど二人寢る夜ぞ賴もしき

 

 天津繩手(あまつなはて)、田の中に細道ありて、海より吹き上ぐる風いと寒き所なり。

 

冬の日や馬上(ばしやう)に凍る影法師(かげぼふし)

 

 保美村より伊良古崎(いらござき)へ一里ばかりもあるべし。三河の國の地續きにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか、『萬葉集』には伊勢の名所の内に撰(えら)び入れられたり。この州崎にて碁石(ごいし)を拾ふ。世に伊良湖白(いらごじろ)といふとかや。骨山(ほねやま)といふは鷹を打つ處なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。伊良湖鷹(いらごだか)など歌にも詠(よ)めりけりと思へば、なほあはれなる折ふし。

 

鷹一つ見付てうれし伊良湖崎

 

(以上は「笈の小文」本文より。底本は「新潮古典集成」の富山奏校注「芭蕉文集」を恣意的に正字化して示した。なお底本では句の位置は二字下げである)

 

   *

 

寒けれど二人寢る夜ぞ賴(たの)もしき (「笈の小文」本文)

 

  越人と吉田の驛にて

寒けれど二人旅ねぞたのもしき (「曠野」)

 

寒けれど二人旅ねはたのもしき (「笈日記」)

 

   *

 

  旅宿

ごを燒(たい)て手拭(てぬぐひ)あぶる寒さ哉 (「笈日記」)

 

ごを燒て手拭あぶる氷かな (「如行集」)

 

   *

 

冬の日や馬上に凍る影法師 (「笈の小文」本文)

 

  あまつ繩手を過(すぐる)とて

冬の日の馬上にすくむ影法師 (「如行集」)

 

  あま津なはて

さむき田や馬上にすくむ影法師 (伊良古崎紀行真蹟)

 

  訪杜國紀行

すくみ行(ゆく)や馬上に氷る影法師(「笈日記」)

 

   *

 

  伊良古(いらご)に行(ゆく)道、

  越人醉(よひ)て馬に乘る

ゆきや砂むまより落(おち)よ酒の醉(ゑひ) (伊良古崎紀行真蹟)

 

   *

 

鷹一つ見付(つけ)てうれしいらご崎 (「笈の小文」本文)

 

   *

 

  いらござきほどちかければ、

  見にゆき侍(はべ)りて

いらご崎にる物もなし鷹の聲 (眞蹟詠草)

 

   *

 

  杜國が不幸を伊良古崎(いらござき)

  にたづねて、鷹のこゑを折ふし聞(き

  き)て

夢よりも現(うつつ)の鷹ぞ賴母(たのも)しき (越人編「鵲尾冠(しゃくびかん)」)

 

   *

 

  人のいほりをたづねて

さればこそあれたきまゝの霜の宿 (「曠野」)

 

  逢杜國

さればこそ逢ひたきまゝの霜の宿 (「笈日記」)

 

   *

 

  畠邑 杜國が閑居を尋て

麥はえてよき隱家(かくれが)や畠村(はたけむら) (「笈日記」)

 

麥蒔(まき)て隱れ家や畠むら (「如行集」)

 

   *

 

  此里(このさと)をほびといふ事

  は、むかし院のみかどのほめめさ

  せ玉ふ地なるによりてほう美とい

  ふよし、里人のかたり侍るを、い

  づれの文に書きとゞめたるともし

  らず侍れども、いともかしこく覺

  え侍るまゝに

梅つばき早咲(はやざき)ほめむ保美の里 (眞蹟詠草)

 

   *

 

  しばらくかくれゐける人に申遣(まうしつかは)す

先(まづ)祝へ梅を心の冬籠り (「曠野」)

 

[やぶちゃん注:貞享四(一六八七)年芭蕉四十四歳同年十一月十日から十三日の作。芭蕉が越人を伴って杜国の謫居を伊良湖崎直近の畠村(畑村とも書く。現在の愛知県渥美郡田原市福江町内)に訪ねた際の一連の句群である。

   ★

坪井杜国(?~元禄三(一六九〇)年)は、本名を坪井庄兵衛といい、名古屋蕉門の有力者で、御園町の町代を勤めた富裕な米穀商(屋号壺屋)であったが、米延商空米売買(こめのべあきないからまいばいばい:「くうまい」とも読む。実際には現物の米を確保していないにも拘わらず、店蔵には米があるかのように偽って米を売買するところの、現在でいう先物取引のこと。当時は御法度の死罪相当の重罪であった。但し、ウィキの「帳合取引」によれば、この四十五年後の享保一五(一七三〇)年には大坂の堂島米会所に限って認められ、以後は大坂以外の米が集積される諸都市でも幕府の規制にも拘わらず空米取引が実施されていたとあり、実際には杜国の生きた頃も陰では頻繁に行われていたように思われる)の罪に問われて、この二年前、貞亨二(一六八五)年八月十九日附で、家財没収の上、処払い(尾張藩領内からの追放)の身となり、南彦左衛門と改名した上、ここ畠村(当時の渥美半島の殆んどは田原藩であったが、彼の居たこの畠村は大垣新田藩藩庁が置かれた主藩である大垣藩の飛地的存在であった)に流刑となり、以後晩年まで三河の国保美(ほび:先の畠村の直近で後に合併して福江村となっていることや詞書の故実などから見て、「保美」は「畠村」を含むこの一帯の古称であったものと考えてよい。)に謫居した。一部参考にさせて戴いた伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「坪井杜国」には、尤も、『監視もない流刑の身のこと、南彦左衛門、俳号野人または野仁と称して芭蕉とともに『笈の小文』の旅を続けたりもしていた』とあり、さらに『一説によると、杜国は死罪になったが、この前に「蓬莱や御国のかざり桧木山」という尾張藩を讃仰する句を作ったことを、第二代尾張藩主徳川光友が記憶していて、罪一等減じて領国追放になったという』ともある。また、これはかなり知られたことであるが、杜国は、まさにこの時の同道の越人と並んで、伊藤氏も挙げておられるように、『芭蕉が特に目を掛けた門人の一人』であって、さらに彼等の師弟関係には衆道の匂いが相当に濃厚なである(不審な方は次に掲げる「嵯峨日記」を読まれたい。なお、日本の近代以降のアカデミズムが衆道をどこかで異常性愛として意図的に避けて否定しようとする傾向は、南方熊楠が痛烈に批判したように、歴史的な本邦の性愛史を正しく見ようとしない非学問的立場であると断ずるものである)。享年三十余歳とされる(一部参考にさせて戴いた伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「坪井杜国」では三十四歳とする。すると生年は明暦三(一六五七)年となる)。現在、福江町にある隣江山潮音寺に墓がある。因みに杜国の逝去の翌年に書かれた「嵯峨日記」の元禄四(一六九一)年四月二十八日の条には以下のようにある(底本は富山奏校注「芭蕉文集」で恣意的に正字化した)。

 

廿八日

 夢に杜國(とこく)が事をいひ出だして、涕泣(ていきふ)して覺(さ)む。

 心神(しんしん)相交(まじは)る時は夢をなす。陰(いん)盡きて火を夢見、陽(やう)衰へて水を夢見る。飛鳥(ひてう)髮をふくむ時は飛べるを夢見、帶を敷き寢にする時は蛇(へび)を夢見るといへり。『枕中記(ちんちゆうき)』・槐安國(くわいあんこく)・莊周(さうしう)が夢蝶(むてふ)、皆そのことわり有りて妙を盡さず。わが夢は聖人君子の夢にあらず。終日妄想(まうざう)散亂の氣、夜陰の夢またしかり。誠にこの者を夢見ること、いはゆる念夢なり。我に志深く、伊陽の舊里(ふるさと)まで慕ひ來りて、夜は床を同じう起き臥し、行脚(あんぎや)の勞を共に助けて、百日がほど影のごとくに伴ふ。ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、その志わが心裏にしみて、忘るることなければなるべし。覺めてまた袂(たもと)をしぼる。

 

「嵯峨日記」の夢理論は概ね「烈子」の記載に基づく(注が膨大になるので注を略す)。「妙を盡さず」は奇妙なことではない、の謂い。「念夢」とは常に深く心に執着して思念しているために見る夢。「我に志深く……」以下の部分は、「笈の小文」の後半の旅を指す。この伊良湖崎訪問の翌貞享五(一六八八)年の三月、今度は杜国が伊勢に渡って芭蕉と落ち合い(これはこの伊良湖崎訪問の際に約束されていたものと考えられる。なお既にその頃、伊良湖崎から伊勢に向かう海路の定期便があり、杜国は通過出来ない尾張領内を廻らずとも伊勢へ行けた)、同十九日には、芭蕉は杜国に「万菊丸」という稚児名を与えて吉野の花を愛でに同行した。その時の「笈の小文」の唱和吟を示す。

 

  乾坤無住同行二人

 

吉野にて櫻見せうぞ檜笠

 

吉野にてわれも見せうぞ檜笠   万菊丸

 

この後も須磨・明石各地をともに吟行、杜国はこの五月に伊良湖に戻った(この部分の注は杜国の菩提寺「潮音寺」公式サイトの「杜国墓碑と三吟句碑」を一部参考にさせて戴いた)。……「終日妄想散亂の氣、夜陰の夢またしかり。誠にこの」杜国「を夢見ること、いはゆる念夢な」ればこそ……亡き杜国とは「ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、その志わが心裏にしみて、忘るることなければなるべし。覺めてまた袂をしぼる」……これはもう、並大抵の愛し方では、ない……

 最後に杜国の代表句を示しておく。岩波文庫堀切実編注「蕉門名歌選」の坪井杜国を参考にしたが表記は必ずしもそれに従っていない。

 

  つゑをひく事僅(わづか)に十歩

つゝみかねて月とり落す霽(しぐれ)かな (「冬の日」)

 

うれしさは葉がくれ梅の一つ哉 (「春の日」)

 

馬はぬれ牛は夕日の村しぐれ (「春の日」)

 

この比(ごろ)の氷ふみわる名殘(なごり)かな (「春の日」)

 

  舊里の人に云ひつかはす

こがらしの落葉にやぶる小ゆび哉 (「曠野」)

 

  翁に供(ぐせ)られてすまあかしに

  わたりて

似合(にあは)しきけしの一重や須广(すま)の里 (会木編「藁人形」)

 

  戴叔倫(たいしゆくりん)が沅湘(げんさう)東流

  の句を身のうへに吟じて

行(ゆく)秋も伊良古(いらご)をさらぬ鷗哉 (「鵲尾冠」)

 

  舊里を立去(たちさり)て伊良古に住

  侍(すみはべり)しころ

春ながら名古屋にも似ぬ空の色

 

岩波文庫堀切実編注の「蕉門名歌選」の注によれば、「この比の」の句は、貞享元(一六八四)年十二月末、「野ざらし紀行」の途次、暫く名古屋に滞在していた芭蕉が熱田へ向かって旅立つのを見送った際の吟詠である。「こがらしの」以下は伊良湖崎謫居後の句。「戴叔倫が沅湘東流ル」は「三体詩」に載る、盛唐の詩人戴叔倫の、

 

  湘南即事

 盧橘花開楓葉衰

 出門何處望京師

 沅湘日夜東流去

 不爲愁人住少時

    湘南即事

   盧橘 花開きて 楓葉衰ふ

   門を出でて 何れの處にか京師(けいし)を望まん

   沅湘(げんさう) 日夜(にちや) 東(ひんがし)に流れ去り

   愁人の爲に住(とど)まること少時(しばら)くも爲(せ)ず

 

である。この詩は「徒然草」の第二十一段でも、『万(よろづ)のことは、月見るにこそなぐさむものなれ。或(ある)人の、「月ばかり面白きものはあらじ。」と言ひしに、また一人、「露こそなほあはれなれ」とあらそひしこそをかしけれ。折にふれば、何かはあはれならざらん。月花はさらなり、風のみこそ、人に心はつくめれ。岩にくだけて淸く流るる水のけしきこそ、時をも分かずめでたけれ。「沅湘日夜(ひるよる)、東に流れ去る。愁人のためにとどまること、しばらくもせず。」といへる詩を見侍りしこそ、あはれなりしか。嵆康も、「山澤(さんたく)に遊びて魚鳥を見れば、心樂しむ。」と言へり。人遠く、水・草淸き所にさまよひ歩(あり)きたるばかり、心慰むことはあらじ』と引用する著名な詩である。

   ★

越智越人(おちえつじん 明暦二(一六五六)年/明暦元年とも~享保末(一七三六)頃)は北越(越後か)生まれで名古屋で紺屋を営んでいた。蕉門十哲の一人。通称重蔵・十蔵。その編書「鵲尾冠」の中では「私は越路の者に候間、名も越人と申候。壯年に及ぶ比より故郷を出、流浪仕リ、貧乏にて學文など申事不存」と述べているが、漢詩文にはかなり造詣が深かった。「笈の小文」の後、元禄元(一六八八)年八月には芭蕉の「更科紀行」の旅に随行して下向、そのまま二ヶ月ほど芭蕉庵に滞在して、その後に名古屋に帰って俳人として活躍した。だが、元禄六(一六九三)年に出た壺中(こちゅう)編の「弓」を後援した辺りから芭蕉晩年の新風への変化についてゆくことが出来なくなり、次第に芭蕉から離れ、一時期、俳壇から姿を消した。後、芭蕉没後二十一年目の正徳五(一七一五)年頃になって再び俳壇に復帰、「鵲尾冠」「庭竈(にわかまど)集」などを編んでは、支考らと論争をしたりしたが、往年の精彩を欠き、結局、孤独貧窮のうちに八十歳ほどで没したとされる。名にし負う蕉門十哲の中で没年が分からないというのは珍しい(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」及び岩波文庫堀切実編注の「蕉門名歌選」の越人の事蹟記載などを参照した)。この当時、彼は満三十一、二歳である。

 最後に越人の代表句を示しておく。岩波文庫堀切実編注「蕉門名歌選」の越智越人を参考にしたが表記は必ずしもそれに従っていない。

 

  三月十九日舟泉(しふせん)邸

山吹のあぶなき岨(そば)のくづれ哉 (「春の日」)

 

  のがれたる人の許へ行くとて

みかへれば白壁いやし夕がすみ (「春の日」)

 

華にうづもれて夢より直(ぢき)に死なんかな (「春の日」)

 

  餞別

藤の花たゞうつぶいて別れ哉 (「春の日」)

 

  貧家の玉祭

玉まつり柱にむかふ夕べかな (「春の日」)

 

行燈(あんどん)の煤けぞ寒き雪のくれ (「春の日」)

 

うらやましおもひ切る時猫の戀 (「猿蓑」)

 

秋のくれ灯やとぼさんと問ひにくる (「類題発句集」)

 

「玉まつり」の貧窮の己の生活を切り取った句の評釈で堀切氏は、『名古屋流寓時代、富裕な杜国らの援助を受けていたころの体験を詠んだものであろう』(下線やぶちゃん)とある。「笈の小文」のこの芭蕉と杜国の邂逅を読む時、我々はバイ・プレイヤーとしての二人に縁のある(それは秘やかな意味に於いてでもある)越人の役柄と、画面の端でのトリック・スターの演技(特に伊良湖到着までの)を決して見逃してはならないと私は思う。

   ☆

 以下、まずは冒頭に掲げた「笈の小文」の本文パート注釈から入る。なお、「笈の小文」の詳細については個人の「艸芳サイト」の「笈の小文」のページが詳細を極め、本記述でも旅程など、一部参考にさせて戴いた。必見のサイトである。

   ☆

「三河の國保美」前掲の「坪井杜国」の注を参照のこと。なお、「艸芳サイト」の「笈の小文」の「保美(伊良湖)」の頁によれば、この地は『店に奉公していた人の郷里のようだ』とあり、『当時、番頭や手代のせいにして、自分は罪を逃れる例が多かったようだから、罪を一身で負った杜国への感謝もあ』ったに違いないとされておられる。これは最後の句「先祝へ」句に関わる杜国の家僕(後述)とする「權七」なる男の郷里であったと仮定すると、しっくりくる。なお、リンク先では艸芳氏は一般には知られていない杜国の弟とも思われる男の殺人事件と刑死(訪問の直近、貞享四(一六八七)年四月に出来町の「坪井庄八」なる者(もとは杜国の住んでいた名古屋御薗町に住まっていたとする)が、妻と妻の付人を斬殺して下女にも傷を負わせて同年六月に斬首されたというエピソードなどが語られており、頗る興味深い。

「鳴海」東海道五十三次四十番目の鳴海宿。現在の愛知県名古屋市緑区鳴海町内。知多半島の根の部分に位置する。芭蕉は貞亨四年十月二十五日(新暦一六八七年十一月二十九日)に江戸深川を出立、同年十一月四日にこの鳴海宿で造酒屋を営む門人千代倉屋下里知足邸に泊まった(この間の東海道南下延べ日数は十日(同年十月は大の月)で、「艸芳サイト」の「笈の小文」の旅程表①を参考に計算すると、深川からこの日の鳴海宿までの移動距離は凡そ三百四十六キロメートル、難所であった小田原から箱根越えの十六・六キロメートルを最短として一日平均三十四・五八キロメートルのペースを走破している)。この時の鳴海では、

    鳴海に泊りて

  星崎の闇を見よとや啼く千鳥

の知られた佳吟と、江戸初期の堂上派の歌人飛鳥井雅章がこの鳴海宿で詠じた「けふは猶都も遠くなるみがたはるけき海を中にへだてて」という歌に興じての、

  京までは半空(なかぞら)や雪の雲

などをものしている(この二句は「笈の小文」に所収)。但し実は、前者「星崎の」は七日に泊まった鳴海の本陣寺島家分家であった安信の屋敷での句であり(四日~六日は知足邸泊)、後者「京までは」は先立つ五日の鳴海宿本陣の寺島菐言(ぼくげん)亭での七吟歌仙の発句で芭蕉は「笈の小文」ではこの時系列を操作している。これは恐らくここの後、ここまで順調に向かってきた京への踵を返し、杜国を伊良湖に訪ね返さずにはいられないという芭蕉の主情を意識した、則ち、京への直線的なベクトルを一気に反転させる効果を句柄を以って狙ったものであるように私には感じられる)。

その後、四日後の十一月八日、熱田の芭蕉の定宿であった門人林七左衛門桐葉の屋敷へ越人を迎えに行って同行の上、東海道を返して翌貞亨四(一六八七)年十一月九日に再び越人とともに鳴海の知足邸へ戻って再泊した。

「二十五里」約九十八キロメートル。地図上で芭蕉が戻ったと推定される旧東海道街道及び渥美半島の渥美湾(三河湾)西沿岸沿いを計測してみると、現在の名鉄鳴海駅から畠村まで約九十七・七キロメートルあり、これは驚くべき極めて正確な数値である。

「吉田」東海道五十三次三十四番目の吉田宿。現在の愛知県豊橋市中心部。「艸芳サイト」の「笈の小文」の旅程表②によれば、十一月十日当日の鳴海知足邸―吉田宿間の田原街道の移動距離は五十三・六キロメートルとある。

   +

「寒けれど二人寢る夜ぞ賴もしき」直截的な俳言もないストレートな恋句で、師と慕う芭蕉からかく詠ぜられた(と言っても私はこれをあからさまな同衾句なんどとして読んでいるわけではない)しかしやはり同時にこの時の随行した越人(凡そ三十歳)の、かくも詠まれた際の稚児の如きエクスタシーのさまは想像するに難くないのである。が、にも拘わらず、ここには薄い布団にくるまり、寒さを絶えながら、ぼそぼそと夜咄を語る二人の、如何にも夜の清冽にして静謐な心映えが感じられるから不思議ではないか。私はこの句が個人的に非常に好きである。こうした句を捧げられてしまった越人という存在を考えると、後に芭蕉から足が遠のいて、不遇孤独の彼の晩年というは何故か、私には腑に落ちてしまう気がするのだ。この句の存在によって越人は芭蕉にとっても彼自身にとってもプエル・エテルヌス(永遠の少年)たらざるを得なくなったのだと私は思う。永遠の少年は脱皮して丁々発止と句を捻るような大人の風狂人とはなれない/なってはならないのである。

「天津繩手」現在の豊橋市天津町。西南の田原まで縄を張ったように真っ直ぐに伸びる田舎道で景勝地であるが、冬場は三河湾からの身を凍らせる寒風が吹き荒ぶ。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の本句の注に、『この地方では、「養子に行くか天津の縄手を裸で飛ぶ」かといわれ、共に辛いことの代名詞として使われたという』とある。

   +

「冬の日や馬上に凍る影法師」この句と、後に掲げた真蹟の「ゆきや砂むまより落よ酒の醉」を並べた時、その主客の違いよりも(前者は明らかに身を切るような寒風の中の自己の客体化であるのに対して後者は酒好きであった越人の嘱目である)、絶対零度の孤高な己の姿を凍りつかせる自己沈潜を返す手で、酔いに居眠りをしてともすれば落馬しそうな可愛い門弟へのオードに仕立てる、ネガとポジの反転画の妙手に舌を巻く。

 しかももう一つ、この句には仕掛けがある。「冬の日や」である。芭蕉七部集の巻頭、「尾張五歌仙」とも呼ばれる山本荷兮編の「冬の日」は、貞享元(一六八四)年刊で同年十一月の尾張国名古屋で芭蕉・野水・荷兮・重五・杜国・正平による歌仙五巻と追加の表六句から成る。巻の冒頭、プロパガンダ「狂句木枯の身は竹齋に似たるかな」を発句として芭蕉の新風を表わしたこの「冬の日」という語彙の持つイメージは、芭蕉という魂の独立独歩の旅立ちであると同時に、その瞬間に立ち会った愛弟杜国の面影を響かせることを狙っているのだと私は思うのである。

 そしてまた私は、この二句が醸し出すシークエンスの中に、この実体、「形」としての「醉」うた馬上に揺れる愛弟子越人の後ろ姿、己が「影」としての繩手の先に待っている同じく「少」(わか)き遺愛の高弟杜国の面影、そして二人を繋いでいる、己が一個の、「老」年に近づいた芭蕉という精「神」としての存在という配置を感じ、陶淵明の「形影神」の一節、

  老少同一死

  賢愚無復數

  日醉或能忘

  將非促齡具

  老少同一死

   老少同じきに一死し

   賢愚復た數ふる無し

   日に醉へば或ひは能く忘れんも

   將た齡を促す具に非ずや

――二度とは生きることは出来ぬ賢者であり愚者でもあるような風狂の「無用者」どもの――三位一体の無言の対話を聴くような気も、これ、するのである。

 なお、「艸芳サイト」の「笈の小文」の旅程表②によれば、十一月十一日当日の吉田宿―保美の杜国邸間の田原街道の移動距離は凡そ三十五・九キロメートルとある。

   +

「保美村より伊良湖崎へ一里ばかりもあるべし」やや実測的でない。現在の保見町の南端部から伊良湖岬までは凡そ六キロメートルは有にあり(後注参照)、実際、「笈の小文」の旅程表②では、この十月十二日の保美の杜国邸と伊良湖岬の往復を二十・一キロメートルと算定されておられる。

「『萬葉集』には伊勢の名所の内に撰び入れられたり」「万葉集」巻一(二三番歌)に、

    麻續王(をみのおほきみ)の

    伊勢國伊良虞(いらご)の島

    に流さえし時に、人の哀傷し

    て作れる歌

  打つ麻(そ)を麻續王海人(あま)なれや伊良虞が島の玉藻苅ります

(やぶちゃん現代語訳)……麻続王(おみのおほきみ)は海人(あまびと)であられるのか――いや、そうではない――だのに哀しくも伊良虞の島の藻を寂しく刈っておられる……

・「打つ麻」は打ってやわらかくした麻の意であるが、ここは「麻續王」の序詞(枕詞的なので特に訳さなかった)。

・「麻續王」は未詳。「伊良虞の島」は参照した中西進氏の講談社文庫版「万葉集」の同歌かの脚注では、伊良湖岬の先端から三・五キロほど先の神島(古くは、歌島(かじま)・亀島・甕島などと呼ばれ、神の支配する島と信じられていた。江戸時代は鳥羽藩の流刑地であったため志摩八丈とも呼ばれた。また、三島由紀夫の「潮騒」のモデルでもある)とするが、同別巻「万葉集辞典」の地名解説には伊良湖岬自体を指すという説も挙げる。これは伊勢から遠望した際、渥美半島自体が島に見えることによるものであろう。

ともかくも、芭蕉はここで本歌の島流しとされた麻続王の貴種流離譚を匂わせることで、その香を流謫の才人杜国のそれに通わせたと考えて間違いない。

   +

「洲崎」岬の浜辺。三崎の東側、遠州灘に面した、島崎藤村の「椰子の実」(「落梅集」所収)の詩や歌で知られる恋路が浜近くであろうと思われる(因みに知られた話ではあるが、あの詩は藤村の実体験ではなく、明治三一(一八九八)年にここに遊んだ柳田國男が、拾った椰子の実の話を友人の藤村に話し、それから創作された詩である。私の独身時代の数少ない独り旅で行った忘れ難い地である。『フリードリヒ「朝の田園風景(孤独な木)」』にその時に撮った私が「伊良湖岬恋路ヶ浜のフリードリヒ」と呼んだ枯木の写真がある。お暇な向きはご覧あれ)。

「碁石」これは石ではなく、碁石貝(ごいしがい)、即ち、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ Meretrix lusoria のことである。「和漢三才図会」の巻六十九の「參州」の掉尾「土産」の項にも『碁石』とあって直下の割注で『伊良虞崎』とある。この殻から打ち抜いて碁石の白石が作られた現在では純国産種のMeretrix lusoria の激減から幻の高級品となってしまった(今ではメキシコ産など輸入された同属別種の殻を素材としているという。ィキの「碁石」による)。

「伊良湖白」白の碁石(碁石蛤とも言う)では「常陸国風土記」に既に鹿島の蛤の碁石が名産として記述されている。ウィキの「碁石によれば、『碁石の材料となるハマグリの代表的な産地は古くは鹿島海岸や志摩の答志島、淡路島、鎌倉海岸、三河などであった。鹿島のハマグリは殻が薄く、明治期の落語の速記本に「せんべいの生みたく反っくりけえった石」と描写されるように、古い碁石は』五ミリメートル『以下の薄いものが多い。その後、文久年間に宮崎県日向市付近の日向灘沿岸で貝が採取されるようになり、明治中期には他の産地の衰退と共に日向市のお倉が浜で採れるスワブテ蛤』(地物のMeretrix lusoria であろう)と呼ばれるものが『市場を独占し上物として珍重された。現在では取り尽くされてほとんど枯渇してしまっている。現在一般に出回っているものはメキシコ産である。黒石に対してハマグリ製の白石は非常に値が張る。高級品は貝殻の層(縞のように見える)が目立たず、時間がたっても層がはがれたり変色したりしない』。とある。なお、黒石は黒色の石を用い、「那智黒」石(三重県熊野市産の黒色頁岩又は粘板岩)が名品とされる。

さても何故、ここで「伊良湖白」の碁石拾いかと考えてみると、思うにそれはここに流された孤高の隠者たるところの杜国と一つ、ともに碁を打とうではないか、という芭蕉の匂付けにほかなるまい。

「骨山」恋路が浜が終わる東の遠州灘に突き出た鼻の部分、現在の伊良湖ビューホテルのある山(先の私の古い写真はまさにその麓西側直下の崖上を巡る表浜街道で撮ったものである。カルワリオ、ゴルゴダとは、凄い! 私が心惹かれた古木もまるで骨のようではないか!)。痩身孤高の隠者を表象するに相応しい名である。

「鷹を打つ」鷹狩用の鷹を捕獲する。民間経営の「伊良湖観光ガイド」公式サイトの「伊良湖岬の渡り鳥」などによれば、伊良湖岬は本邦の鳥類の多くの「渡り」の中継地として有名で、特に秋の壮大な鷹の「渡り」で知られる。新暦の十月初旬をピークとして一日に数千羽の鷹が天空を舞い、時には上昇気流を捉えて無数のタカが飛翔する「鷹柱」が出来、次々と対岸の伊勢・志摩を目指して飛んで行く「伊良湖渡り」が見られる。

「伊良湖鷹など歌にも詠めりけり」藤原家隆の「壬二(みに)集」に、

  ひき据(す)ゑよいらごの鷹の山がへりまだ日は高し心そらなり

とあり、また、芭蕉の慕った西行の「山家集」羇旅歌には(「山家集」通し番号一三八九及び一三九〇番歌)、

    二つありける鷹の、伊良湖渡り

    すると申しけるが、一つの鷹は

    留まりて、木の末に掛りて侍る

    と申しけるを聞きて

  巣鷹(すだか)渡る伊良湖が崎を疑ひてなほ木にかくる山歸りかな

  はし鷹のすゞろがさでも古るさせて据ゑたる人の有難(ありがた)の世や

とあるのを受ける。但し、西行の歌の「巣鷹」とは雛の時に鷹匠が巣の中から捕えて人為的に育てた鷹を言うのに対し、「山帰り」は「山回り」とも言って、幼鳥が年を越えて一度山中で毛変わりした後に捕獲し飼育した鷹を指す。詞書の「一つの鷹」はその「山帰り」の鷹である。鷹匠はそうした育てた鷹をここで渡らせて訓練したものらしい。従ってこの西行の一首目のシーンは、

……伊良湖渡りをしようとする二羽の鷹を見た――でも「山帰り」の方は未だ自信がないものか――一度は飛び立つったものの、暫くするとまた梢に戻ってきてしまうことだよ……

という意である。これについては、『鷹の生態を聞き取った二見浦での体験を詠』んだものらしく、『成人してからの出家者としての自身を「山帰り」に重ねている』(明治書院「和歌文学大系二十一」)とある(二見での体験であるところから、和歌文学大系の通釈では「伊良湖渡り」を伊勢から伊良湖に渡ると解しているが、「山家集」では二見での詠の後に、伊良湖に渡った二首が挟まり、普通に読むならばこれは伊良湖の景と読める。従って私も「伊良湖渡り」と訳した。以上は「笈の小文」底本の頭注及び岩波古典文学大系版「山家集」の他、西行の和歌の解釈・引用については阿部和雄氏の「西行の京師 第二部 第15を一部参考及び孫引きをさせて戴いた)。無論、芭蕉は確かに一羽の鷹を嘱目したに違いない。しかしそれが同時にこれらの和歌と連動し、驚くべき自動作用が引き起こされてゆくのである。

   +

「鷹一つ見付てうれし伊良湖崎」言わずもがな、この鷹は孤高流浪の杜国を指し、しかし彼は尾羽打ち枯らした、「山帰り」(無論、辺地に住まう杜国のそれはまず「山帰り」「山回り」ではあるが)流謫のそれではなくて、師芭蕉が「うれし」と感ずるほどに文字通り「鷹揚」とした「直き心」を持った雄々しい風狂の鷹であった、と芭蕉は詠嘆したのである。安東次男は「芭蕉百五十句」で、鷹の博物学的考証を述べた後、『巣鷹は人に馴れ易く冒険を恐れぬが、山回は馴れにくく、逸(そ)れ易い』。しかし、先に掲げた二首目の『西行の詠口(よみくち)は山回の気むづかしさ、警戒心をむしろ頼もしさと眺めている。「なほ木」は「なほ、木……」、「直き」である』という私の感懐と同じ見解を示した後、西行の二首目の歌との関連を語る。ここで少し、西行の二首目について私の注を附してしておくと、「はし鷹」とは鷹の一種、タカ目タカ科ハイタカ Accipiter nisus で、「すゞろがさでも」の「すずろがす」とは、落ち着かず、そわそわさせるの意、「すず」に鷹につける「鈴」(鷹の尾羽の中央の二枚の羽を「鈴付け」と呼び、鷹狩りではそこに鈴を付ける)に、「古る」も鈴を「振る」に掛け、また「据ゑ」は鳥などを枝や止まり木・腕などに止まらせるの意を持ち、鷹の縁語でもある。この歌は、人格の諷喩詩で、

……成長したハシタカが鷹揚として――凛として静かに「鈴(りん)」を鳴らすように泰然自若とした人というものは――これ――なかなか世には得難いものよ……

という感懐を述べたものである。さて、安東は先に続けて、『「はしたか(ハイタカ)」は鈴の語縁で「すず」の枕に遣う。二首を続にした狙は、山回のごとく自若とした人物はなかなか得難い、と云いたいのだろう』と訳した上で、杜国が『空米売買に連座の罪を問われて、尾張領分を追放されたのは貞享二年秋。四年冬といえば、網掛』(あがけ:飼鷹の一種で当年生まれの野生の鷹を捕獲したものを「網掛けの若(わか)」。二歳以上の場合を「山帰り」「山回り」という)『にたとえればちょうど両回(ともがえり)に当った(二歳鷹を片回、三歳を両回と云う)。句作りの目付(めつけ)はこれだったに違ない。浮世を捨て二度の夏を越して、つまりにどの羽を替えてむしろ逞しくなった男の面構を、芭蕉は西行の鷹、いや、西行その人と眺めた』と安藤節が炸裂する。しかし、私には珍しく安東のその謂いが素直にすとんと腑に落ちる。しかもその後、安東は私が好きで本句との関連を漠然と感じていた杜国の句、

  うれしさは葉がくれ梅の一つ哉 (「春の日」)

を掲げ、その相聞歌的共鳴性を分析して卓抜である(杜国の「うれしさは」の句は「鷹一つ」に先行する貞享二年若しくは貞享三年である。杜国の句について安東はさらにその下地をさえ探っているが、それはまた当該書を是非お読みになることをお薦めする)。

   ☆

以下、発句の注に移る。

   ☆

「ごを燒て手拭あぶる寒さ哉」「ご」は枯れ落ちた松葉の葉。囲炉裏の焚きものとした。近世は三河・尾張の方言として残った、と「広辞苑」にある。吉田宿での吟。

   ☆

「ゆきや砂むまより落よ酒の醉」既に「冬の日や」で幾つか述べたのでそちらを確認されたいが、天津繩手から伊良湖へ向かう田原街道の途中には「江伊間」(えいま:「酔馬(えいま)」とも書いた)という地名があった(現在の愛知県田原市江比間町(えひまちょう))が、この句はその地名に掛けたものでもある。「むまより落よ」と戯れに命じている対象は無論、越人本人ではなく(しばしばそのような粗雑な解をして平然としている評釈があるが私は従えない)、彼の「酒の醉」に対して落ちよ、と馬の洒落に重ねて興じているである。

   ☆

「いらご崎にる物もなし鷹の聲」「鷹ひとつ」の初案とも見られる。杜国邸での一夜を明けた十一月十二日の挨拶吟であろう。

   ☆

「夢よりも現の鷹ぞ賴母しき」知られた吉夢の俚諺「一富士二鷹三茄子」に掛けた、やはり杜国邸での翌朝十一月十二日の挨拶吟であると同時に祝祭の句であろうが、杜国への主情的な思いが前面に出てしまって比喩があからさまとなってしまって、かえって興を殺いでしまっているように感じられる。

   ☆

「さればこそあれたきまゝの霜の宿」芭蕉は十一月十一日と十三日と三日間、杜国邸に泊まっているから、これはその十一日若しくは翌十二日の杜国謫居での詠である。杜国邸到着の十一日深夜と想像する方が、荒涼感に何とやらんもの凄さを加えてよいように私に思われる。「笈日記」の「さればこそ逢ひたきまゝの霜の宿」は面白い謂いで、これなら挨拶句になると思うが、風国編「泊船(はくせん)集」では、ただの書き誤りと断じている。予期していたこと(この場合は不安)がまさに的中した際に発する異様な「さればこそ」という感慨の措辞については、何か杜国の内実に深く感じ入った芭蕉の感懐が示されてあると言える。「艸芳サイト」の「笈の小文」の「保美(伊良湖)」の頁では、先に示した杜国の弟とも目される坪井庄八の、この訪問の五ヶ月前に起きた殺人と斬首の一件が「さればこそ」と芭蕉に歎かせた告白ではなかったかという、興味深い仮説(八木書店一九九七年刊の大礒義雄氏の「芭蕉と蕉門俳人」に依拠されたものらしい)を立てておられ、なかなか説得力がある。

   ☆

「麥はえてよき隱家や畠村」こちらの方が前句に比すと遙かに自然な挨拶句である。陽光の景観から到着の翌十二日若しくは十三日の句である。なおこれは杜国邸での芭蕉・杜国(野仁)・越人の三吟、

  麥はえてよき隱家や畠村     芭蕉

     冬をさかりに椿咲くなり  越人

  晝の空蚤かむ犬の寢かへりて   野仁

の発句であった。

「畠村」は杜国の注で述べた通り、地名である。なお、新潮日本古典集成「芭蕉句集」の今栄蔵氏の頭注には、畠村(畑村)『は保美村の隣村。愛知県渥美郡渥美町。杜国亭は畑村との村境に近くにあった』とある(現在は先に述べた通り、田原市に編入)。この叙述から実は杜国亭は現在の保美よりももっと伊良湖崎寄りだったのかも知れない。「畑村」「畠村」という在所名が地図上では見当たらないが、保美からずっと田原街道を伊良湖岬方向に辿って見ると、「梅藪」という三叉路があり、その近くに「山畑」という地名を見出せる。しかもここから計測してみると伊良湖岬突端までは訳三・九キロで芭蕉が「笈の小文」で言った『一里ばかり』とぴったり一致する。杜国亭の正確な位置について、識者の御教授を乞うものである。なお、「芭蕉句集」の今栄蔵氏の頭注には、「麥蒔て隱れ家や畠むら」の真蹟には、「長安はもとよりこれ名利の地、空手にして錢なき者は行路かたし、といへり」という前書を附すとある。これは白楽天の「送張山人歸山崇陽」(張山人の嵩陽に歸るを送る)からの引用であるが、実は芭蕉は既に延宝八(一六八〇)年の深川隠棲――世俗と決別した辞――でこれと全く同じ詩の引用を発句の前書に用いていることに着目せねばならない。以下に示す。

    九の春秋、市中に住み侘びて、居を

    深川のほとりに移す。長安は古來名

    利の地、空手にして金なきものは行

    路難しと言ひけむ人の賢く覺えはべ

    るは、この身の乏しきゆゑにや。

  柴の戸に茶を木(こ)の葉搔く嵐か

この引用をそのまま杜国の謫居の挨拶吟に用いたということはとりもなおさず、芭蕉の杜国に寄せた思いが、師弟の枠を遙かに逸脱した尋常ならざる共時性(シンクロニティ)の中にあったことが痛感されるのである。

   ☆

「院のみかど」どの上皇なのか、どのような折りなのか、諸注に載せない。「歴史地名ジャーナル」の第二十一回「保美 芭蕉・杜国再会の地」によれば、この渥美半島先端部では中世には伊勢神宮外宮の神領地である伊良胡御厨(いらごみくり)が成立していたが、これは現在の渥美町西半の広い地域を占めていたと考えられており、保美村の西の亀山村や畑村なども後世、御厨七郷(みくりやしちごう)と呼ばれていることから、保美もまた伊良胡御厨のうちに含まれていたものと思われる、とあるのと何か関係があるか。識者の御教授を乞う。

「梅つばき早咲ほめむ保美の里」これも陽射しと暖もりに充ちた十二日若しくは十三日の、しかもなお依然として杜国への挨拶吟でもあり続けている。芭蕉の挨拶句のヴァリエーションの数としては破格に多いように私には思われ、芭蕉の杜国との再会の喜びがそこからも窺われる。

   ☆

「先祝へ梅を心の冬籠り」新潮日本古典集成「芭蕉句集」の今栄蔵氏の頭注によれば、太田巴静(はじょう)撰「刷毛序(はけついで)」(宝永三(一七〇六)年刊)には、

 

    權七にしめす

 舊里を去てしばらく田野に身をさすらふ人あり。

 家僕何がし水木のため身をくるしめ、心をいた

 ましめ、其獠奴阿段が功をあらそひ、陶侃が胡

 奴をしたふまことや道は其人を恥べからず。物

 はそのかたちにあらず。下位に有ても上智のひ

 とありといへり。猶石心鐡肝たゆむ事なかれ。

 主も其善のわするべからず。

  祝

先いはへ梅をこゝろの冬籠     芭蕉

 

という文を伴ってこの句が載るとあり(以上の原文は八木書店一九九七年刊の大礒義雄氏の「芭蕉と蕉門俳人」の「杜国新考」に載るものを参考にしつつ、恣意的に正字化して示したものである)、今氏は、この「權七」は杜国の下男らしく、句文は、その『隠宅の杜国に誠実に仕えた家僕』権七『に与えたもの。お前の主人は今は不幸の身だが、やがて時が来る、との前途を祝い、慰めた意になる』とある。「水木」は「みづき」で水と薪(たきぎ)、薪水(しんすい)で家事のこと。「其獠奴阿段が功をあらそひ……」以下は杜甫の七言律詩「示獠奴阿段」に基づく。なお、「石心鐡肝たゆむ事なかれ」は、「石や鉄の如き堅固な志しを保って、主人に精励を尽くさねばなりませぬ」という意、「主も其善のわするべからず」は「の」がやや不審であるが、「主人杜国よ、あなたもその忠僕の捨身の善行を忘れてはなりませんぞ」という謂いである。

   示獠奴阿段

  山木蒼蒼落日曛

  竹竿裊裊細泉分

 郡人入夜爭餘瀝

  稚源獨不

 病渴三更回白首

 傳聲一注濕靑雲

 曾驚陶侃胡奴異

  怖爾常穿虎豹群

      獠奴阿段(れうどあだん)に示す

   山木 蒼蒼として 落日 曛(くん)たり

   竹竿 裊裊(でうでう)として 細泉 分かつ

   郡人(ぐんじん) 夜に入りて 餘瀝を爭ひ

   稚子(ちし) 源を尋ねて 獨り聞かず

   渴えを病みて 三更 白首を回らし

   聲を傳へて 一注 靑雲を濕ほす

   曾て驚く 陶侃(とうかん)が胡奴(こど)の異(い)なるに

   爾を怖(あや)しむ 常に虎豹の群れを穿(うが)てるを

「獠奴阿段」中国南西の異民族の蔑称で七句目の「胡奴」も同じ。ここは杜甫が水の乏しい赴任地虁州(現在の重慶)で下僕の阿段(獠奴の男の通称)が水を捜し得たことを素材としている。「曛」は落日の余光。「裊裊」嫋嫋。細くしなやか、弱弱しいさま。ここは、辺境のその地では井戸がなく、山から滴る泉の水を細い粗末な「竹竿」(竹の筧)を以って廻らし、水を引くことを言う。「餘瀝を爭ひ」とは、その筧に僅かに残った水を争い呑む。「稚子」私(杜甫)の下僕。「獨り聞かず」そうした水争いを余所に。「渴えを病みて三更白首を回らし/聲を傳へて一注靑雲を濕ほす」前句は水飲の病い(糖尿病)にあった主人たる私が深夜に白髪を振り乱し、水を求めに行った下僕の姿を求めるさまを謂い、後句はその頭上から、下僕の獠奴阿段が主人のために引いて来た、青雲を液化させたかのような瑞々しい水流が流れ落ちてくるさまを誇張的に描く。陶侃(二五九年~三三四年)は西晋・東晋の武将で陶淵明は曾孫といわれる。ここは彼が常人の能力を越えた不思議な胡奴を一人持っていたという故事に基づき、次の句の虎や豹の群れの中にさえ易々と分け入って平然とことを成すという離れ技、ひいては危難を顧みず、深夜に巧みに主人のための水を調達するという、杜甫よりも一歩踏み込み、貴賤を越えて勇敢にして忠実なる下僕の奉仕の心を率直に讃えている。(この原詩及び語注は曹元春氏の『芭蕉「権七にしめす」の杜甫の受容とその展開』(PDF版)を主に参考にさせて戴いたが、訓読は私のよしとする読みに従った。当該論文は大礒氏の論考も参考にされた力作で、杜甫の詩の解説は詳述を極め、他にも虁州と保美のある渥美半島が孰れも乏水の地であるという共通性、杜国と権七の関係が芭蕉自身と旧主君藤堂良忠の関係に重ね合せ得る点などを指摘され、杜甫・阿段・杜国・権七を漂泊者の、時空を越えた老荘的系譜中の群像として位置付けておられる頗る興味深い論考であり、是非、ご一読をお薦めする)。而してそうした誠実な忠僕を持った杜国のさらに大きな人柄が言外に示されるのである。

 この前書を引用した大礒氏の書では保美在の「家田与八」なる実在の人物をこの杜国の家僕「權七」の有力な同定候補に比定されておられ、その過去帳などによる証左も頗る説得力がある(但し、他の研究者による全くの異説もそこには併記されてある。因みに私は大礒氏の書籍を持っておらず、以上は幸いにしてグーグル・ブックスの画像で視認出来た範囲にあったものである)。なお、句柄とこれらの資料を附き合わすならば、この句は十三日夜か出立した十四日の送別吟と詠めよう。

……「梅」が散ってこの四ヶ月後の弥生も半ば、「冬籠り」の行李から引き出された「檜笠」を被った杜国は伊勢にて芭蕉と再会、吉野を目指して同行二人、遂にその「檜笠」を「桜」に「われも見せうぞ」と「心」から「先」(まず)「祝」祭することとなるのであった。……

 

2013/12/11

憎悪や忿怒は生のエネルギではない

憎悪や忿怒は生のエネルギではない
生の実体はあなたが他者を不快に思うように「他者への怒り」ではあり得ない
その証拠にあなたは一度も他者にエクスタシーを与えてはいないではないか
他者の至福感が「否」であるとするなら
それは同時にあなたの憎悪や忿怒の「否」である
それは下らない自慰行為と同じである
それは語るに落ちた猥雑な雑談以下の「話」に過ぎぬ――

言っておくが、これは誰かに呼び掛けているのではない。
これは僕自身への警告である――

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 22 アイヌの土器 / モース先生は地震フリークだった!

 東京博物館で私は、蝦夷(えぞ)で発見され、古代アイヌの陶器とされている、有史前の陶器若干を見た。その中のある者は、大森の陶器にいくらか似た所を持っているが、余程薄く、且つ全部繩文がついている。

 

 この日誌には、まれに弱い地震の震動が記録してある。まだまだ地震はあったのだが、私は人力車で走っているか、歩いているかで、感じなかった。然し、今夜は、大きな奴があった。私がC教授夫妻と、まさに晩餐の卓に着いた時、震動が始った。我々は即刻それが何であるかを知り、そして教授は吃驚したように「地震だ!」といった。そこで私は彼等に、それをよく味う為、静にしているように頼んだが、すっかり終って了う迄は、継続時問を測ることに思い及ばなかった。私は、地震というものを、初から終まで経験して見たかった。これは横にゆれる振動の連続で、航進し始めた汽船の中の船室にも比すべきである。地震が継続すると共にC夫人は蒼くなり、睡眠中の子供を見る為に、部屋を去り、教授も立ち上ろうとするかの如く、卓に両手をかけたが、振動が弱くなって来たので、彼は坐った儘でいた。後で一人の物理学者に逢ったら、彼はこの地震が震動一秒に二回半の割合で一分と三十秒続いたといった。私がこんなに平気でいたのは、何も私が特別に勇敢だったからではなく、地震の危険を理解する程長くこの国にいなかったからである。日本に前からいた人が私に、今に地震が決して私にとって面白いものではない時が来るぞ、といって聞かせたが、とにかく今日迄は、地震は非常にうれしく楽しい出来ごとであった。たった数日前、福世氏が一晩やって来て、二十二年前東京で起り、地震とそれに続いた大火の為に、六万人が生命を失った大地震の話をしてくれた。彼のお父さんは、長い距離にわたって、倒れた家々の上を、下に埋って了った人達の、腸(はらわた)をちぎるような叫び声を聞きながら走ったそうである。今度の地震が起った瞬間に、私は福世氏の話を思い出したが、いささかも驚愕を感じなかったばかりでなく、こいつは愉快だと思った。これは家屋をゆすぶる火薬製造所の爆発や疾風と違って、この堅固な大地それ自身が、大きな寒天の皿みたいに揺れ、我々もそれと一緒にゆらゆらするのであった。空気はまるで動かずそれがこの動揺を一層著しいものにした。

[やぶちゃん注:モース先生、意外にも地震好きであった。

「C夫人」第九章 大学の仕事 7 上野東照宮神嘗祭を真直に見るⅠで同行している、お雇い外国人教師で土木工学教授であったアメリカ人ウィンフィールド・F・チャップリン(Winfield Scott Chaplin)夫妻かと思われる。

「福世氏」“Mr. Fukuyo”不詳。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に大森貝塚の十月九日の本格発掘に同行している人物の中に福与一の名があり、磯野先生はこれは同じく同行している学生である佐々木忠二郎(忠次郎)や松浦(まつら)左用彦と同級だった福与藤九郎と同一人物と思われる、と記されている。しかし、学生を“Mr.”として本名を示すのは今までの叙述では異例であるから、彼とは同定出来ない。識者の御教授を乞う。

「二十二年前東京で起り、地震とそれに続いた大火の為に、六万人が生命を失った大地震の話をしてくれた」明治一〇(一八七七)年の二十二年前のそれは安政の大地震。安政二年十月二日(グレゴリオ暦一八五五年十一月十一日)午後十時頃、関東地方南部で発生したマグニチュード7クラスの地震で、南関東直下型地震の一つと考えられているもので、震源は現在の推定では東京湾北部の千葉県市川市付近で深さ七十キロメートルとされている。参照したウィキ安政江戸地震によれば、『被災したのは江戸を中心とする関東平野南部の狭い地域に限られたが、大都市江戸の被害は甚大であった。被害は軟弱地盤である沖積層の厚みに明確に比例するもので、武蔵野台地上の山手地区や、埋没した洪積台地が地表面のすぐ下に伏在する日本橋地区の大半や銀座などでは、大名屋敷が半壊にとどまることなどから震度5強程度とみられ、被害は少なかったが、下町地区、とりわけ埋立ての歴史の浅い隅田川東岸の深川などでは、震度6弱以上と推定され、甚大な被害を生じた。また、日比谷から西の丸下、大手町、神田神保町といった谷地を埋め立てた地域でも、大名屋敷が全壊した記録が残っているなど、被害が大きく、震度6弱以上と推定されている』。死者は町方において十月六日に行われた初回の幕府による公式調査では四千三百九十四人、十月中旬の再度の調査では四千七百四十一人であり、倒壊家屋一万四千三百四十六戸とされている。『またこれに寺社領、より広い居住地を有し特に被害が甚大であった武家屋敷を含めると死者は1万人くらいであろうとされる』。城東山人が記録した当時の震災記録「破窓の記」(安政二年)には『「今度の地震、山川高低の間、高地は緩く、低地は急なり。その体、青山、麻布、四谷、本郷、駒込辺の高地は緩にて、御曲輪内、小川町、小石川、下谷、浅草、本所、深川辺は急なり。その謂れ、自然の理有るべし。」とあり、当時から特に揺れの激しい地域の存在が認識されていた』とあり、地震後約三十分後に三十余箇所から出火、半日後には鎮火したが2・2平方キロメートルを焼失、『旗本・御家人らの屋敷は約80%が焼失、全潰、半潰または破損の被害を受けた。亀有では田畑に小山や沼が出来、その損害は約3万石に上った』。『小石川の水戸藩藩邸が倒壊して、水戸藩主の徳川斉昭の腹心で、水戸の両田と言われた戸田忠太夫、藤田東湖らが死亡し』、『また斉昭の婿である盛岡藩藩主南部利剛も負傷した。指導者を失った水戸藩は内部抗争が激化』、安政七(一八六〇)年の桜田門外の変へとつながった、ともある。『江戸城や幕閣らの屋敷が大被害を受け、将軍家定は一時的に吹上御庭に避難した。江戸幕府は前年の安政東海・南海地震で被災した各藩に対する復興資金の貸付、復旧事業の出費に加えて、この地震による旗本・御家人、さらに被災者への支援、江戸市中の復興に多額の出費を強いられ、幕末の多難な時局における財政悪化を深刻化させた』。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 20 東京の住宅について

 私はここに私の『日本の家庭』に複写した写生図を再び出そうとは思わぬが、私が毎日通行する町の外見を示すこの本の図33・31・35及び図38に言及せざるを得ない。家の殆ど全部は一階建である。私が歩いて行くと、ある一軒からは三味線か琴かを伴奏としたキーキー声がする。隣の家は私立学校らしく、子供達が漢字を習い、声をかぎりに絶叫している。何という喧擾だろう! 更に隣の家では誰かが漢文を読み、その読声に誰かが感心するように、例のお経を読むような、まだるい音声を立てている。薄い建築と、家々の開放的な性質とは、すべての物音が戸外へ聞える容易さによって了解出来る。
[やぶちゃん注:以下、“Japanese homes and their surroundings”(1885)の斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)の「第二章 家屋の形態」から図33・34・35・38の四枚の図とキャプション及び当該図の本文の解説箇所を引用しておく。これはまさに本段落をよりよく理解するためには欠くべからざる、学術的にも翻訳著作権の侵害に当たらぬ正当なる引用であると信ずる。

H33
図三三 東京市神田区の通り。

H34
図三四 東京市神田区の通り。

H35
図三五 東京にある家賃の安い長屋の棟。

   《引用開始》
 ここに掲げたスケッチ(三三図)は、東京市神田区の、ある通りに面して並び合った家の図である。いくつかの窓が出窓になっていて、竹か細い角材の桟を嵌めている。窓障子の表面は丈夫な白い紙を張ってあって、アメリカのガラス窓の代役をしている。家の住人は、この格子越しに、行商人と値段の交渉をするのである。家に入るには、通常は何軒かが共有する門を通り抜け、そこから各戸の戸口に向かうことになる。ただし、この門は大きな扉とその脇に作られた小さな扉とからできていて、荷車とか嵩ばった荷物とかは、大きいほうを、人は小さいほうを利用する。大きな門扉だけの場合は、門扉そのものの一部を四角く切り取って、そこに引戸か格子戸を嵌めて、居住者たちの出入用とすることもある。
 家は、木造の場合は黒塗りか、そうでなければ、生地のままにしておかれる。そして生地のままのほうが一般的である。この生地は、風雨にらされて徐々に黒ずんでゆく。塗装の場合は艶のない黒色が用いられる。この黒色は見た目によいのであるが、暑いさかりには、この黒塗りの表面が熱を吸収し、ほとんど耐えがたいものとなり、屋内の暑さや不快感を増すにちがいないのである。漆喰仕上げの壁面はたいてい白色で、家の骨組みは黒く塗られる。――したがって、この色の取り合わせは、家の感じを葬式のときのような陰うつなものにしてしまっている。
 三四図は、三三図の道路と同じ道路にある別の家を二種示している。そのうちの一軒は後背部が二階建になっている。この家への出入は門によるが、同図ではちょうど開いている。向う隣の家は、戸口が通りに面してついている。
 通りの両側に、ここに掲げた二つの図に示されているように、整備された排水溝がつけられていることは少ない。溝は、幅が三ないし四フィートで、入念に作られた石垣でできており、戸口や門のところには石橋か木橋が掛けられている。これらの溝には水が流れている。水は台所や浴室からの下水によって汚染されているが、蝸牛(スネイル)や蛙などのいろいろな生物、また魚さえ棲息しうるほどに澄んでいる。歴史の古い都市などで、貧困階級の人たちの住居を見ると、多くの借家が一つの区画にかたまっている場合がしばしばある。出入のためには、全戸に共通の門が一つ設けられている。一八六八年の明治維新以来、東京に新しい様式の建物が現われはじめた。この建物では、一つの屋根の下にひと続きの借家が並んでいて、入口は各戸ごとに通りに面してついている。三五図はこの種の借家の様子を示したものである。これらは、たいていの場合、平屋建で、現在では東京のいたるところで見られる。各戸はそれぞれ裏に回るとわずかな空地があって庭になっている。貧困階級ではないが、財産の乏しい人たちが一般にこの種の家の住人である。東京に古くから住んでいるさる人に教えられたのだが、戸口や表口が直接通りに面する家が建てられたのは、ほんの維新以来のことだということである。この型の家は、確かに便利かつ経済的で、未来の一般的な建築の型になることは必定である。
   《引用終了》
・「三ないし四フィート」90センチ~1メートル23センチ。
・「蝸牛(スネイル)」原文は“snails”。失礼ながら、私はこれは訳として誤りであって、カワニナやタニシなどの淡水産巻貝を言っているものと思う。
 続く以下の部分は、商家(商店街)の形態や家並みが語られ、次に上流階級の都市家屋へと続いて図38相当の部分に入る。ここではその前に、東京の高級一戸建て住居の一タイプとして二階建てのかなり敷地の大きい家屋をまず挙げて説明している。因みに図36(図は本文で語られないので掲げない)は当該家屋の表通りから見た玄関を含む図、図37(同前の理由で示さない)は図36の家屋を庭から見た図で、広い一軒家を庭の柵や襖によって境界として二分(二世帯分)して使用している家屋が示されてある。

H38
図三八 東京市九段近くにある住居。

   《引用開始》
 東京の家のなかでいま一つの型のものが三八図に示されている。低い平屋建で、通りに直面しており、瓦葺きの屋根が、部分的に一風変わった切妻風になっている。入口は戸締りのため猿のついた引戸になっている。大きな出窓が見えるが、その窓にも戸締りのための猿がついている。板塀越しに竹簾が見えているが、これは縁側の日除けのためである。そして、あくまで推測なのだけれども、家の裏はやはりいたるところ開け放たれていて、おそらくこぎれいな庭に面していることであろう。というのは、急いでスケッチするのが精一杯で、実際に庭を見て確かめられなかったからだが、このようなことはしばしばであった。
   《引用終了》
・「入口は戸締りのため猿のついた引戸になっている」原文は“The entrance is protected by a barred sliding door.”。“barred”は閂(かんぬき)のある、の意。「猿」は和風建築に於ける戸・雨戸などで上下の桟に取り付けて鴨居や敷居の穴に差し込んで戸締まりをする用具のこと。その仕掛けや差し止めの木を枢(くるる)ともいう。
 以下、まとめとしてモースは、これらの例によって東京の家屋が如何に小綺麗でしかも居心地の良い居住性に富んでいるかが分かってもらえるはずだと述べている。なお、図の内、神田区は大学に通う途中、九段はモースが公務でしばしば訪れた当時の文部省のあった附近である。]

耳嚢 巻之八 霜幸大明神の事

 霜幸大明神の事

 

 牛込冷水(ひやみづ)番所に小川茂三郎とて二三百石取(どり)の人有(あり)。玄關の脇にいさゝかの祠(ほこら)ありて、痰疾を愁ふる人是を祈れば功驗甚だいちじるしく、快驗の後小豆を一袋づゝ神納なすとなり。其由來を知る人の語りけるは、寶曆の末に右小川氏の家來、夫婦者にて年古く勤(つとめ)ける、名は山田幸左衞門といゝ、妻の名は於霜といゝけるよし。常に夫婦とも痰を愁ひてくるしみけるが、幸左衞門身まかりし時、さるにても痰程苦しき病はなし、我死(しし)て後痰を愁ふる人我を念ぜば、誓(ちかつ)て平癒なさしめんとて身まかりぬ。於霜も程なく同病にて相果しが、是又夫の誓ひし通り、我も痰を愁ふる人を平愈なさしめんとて相果しが、外に世話する者もなく素(もと)より子もなければ、主人より菩提所へ送りて念頃に弔ひ遣しけるを、中山の貫主が是を聞(きき)て、かく迄に夫婦とも思ひつめぬればしるしもありなんといゝしが、成程其後は痰を愁ふる者願だてすればしるし有(あり)と、人々云しゆゑ、幸左衞門の幸の字お霜の霜の字を合(あはせ)、霜幸(さうかう)明神と祭り、今に小き祠あるに、近隣の者は不絶(たえず)右の祈願する者多しとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:口内炎から痰咳の病いで連関。明神縁起譚。

・「霜幸大明神」現存しない模様。

・「痰疾」痰の症状を呈するのは風邪・気管支炎・気管支喘息・肺癌やハウス・ダストによるアレルギー反応など多岐に亙るが、相次いで「痰疾」で病没しているというところから、この夫婦に限っては結核の疑いが濃厚である。

・「牛込冷水番所」牛込新小川町(現在の新宿区新小石川辺り)、江戸川立慶橋(「巻之五 狐痛所を外科に賴み其恩を謝せし事」の「龍慶橋」の注を参照)の南にかつてあった御鷹屋敷内の管理された井戸。底本の鈴木氏注によれば、こ『この井戸は水がよく、御鷹の餌飼の井として最高だった。後にこの地は武家屋敷となったが、以前井水を利用し井戸に番所を設け、冷水番所といった。しかし享保六年に井戸は埋められた』とあり、岩波の長谷川氏注には続けて、『番所を廃した後も地名のようにこの名を用いた』とある。享保六年は西暦一七二一年で、鈴木氏によれば「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、井戸が無くなったのは執筆時の八十年以上も前になる。

・「小川茂三郎」底本の鈴木氏に、小川盈房(みつふさ)とする。『明和三(四十歳)家を継ぐ。五百石』とあるから、生年は康正元・享徳四(一四五五)年。

・「寶曆の末」宝暦は宝暦元・寛延四(一七五一)年から明和元・宝暦十四(一七六四)年であるから、この時、既にかの井戸はなかった。本執筆時より四十年ほど前になる。

・「中山の貫主」現在の千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗大本山正中山法華経寺貫主。鎌倉時代の文応元(一二六〇)年創立。中山法華経寺とも呼ばれる。小川家の菩提寺というのが、この中山法華経寺の末寺であったと考えるのが自然である。日蓮宗嫌いの根岸がかくフラットに記すのは、この祠が神道系の明神だからであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 霜幸大明神の事

 

 牛込冷水(ひやみず)番所に小川茂三郎殿と申す二、三百石取りの御仁が御座った。

 屋敷玄関の脇に小さな祠(ほこら)のあって、痰疾(たんしつ)に悩む者は、これを祈らば、功験はなはだ著しく、快験の後は小豆(あずき)を一袋ずつ、この明神にお礼として神納致すということで御座った。

 その由来を知る者の語ったことには……

……宝暦の末、かのお屋敷主人小川殿のご家来衆として、夫婦者で永年勤めて御座った、名は山田幸左衛門と申し、妻の名は於霜(おしも)と申す者が御座ったそうですが、常に夫婦(めおと)ともに痰の病いに悩まされ、日々苦しんで御座ったと申します。……

……その幸左衛門、身罷りました折りには、

「……それにしても……この痰ほど……苦しき病いは……これ……ない。……我ら死して後は……痰に苦しむ人、我を祈念致さば、誓って平癒なさしめん――とぞ思う……」

と遺言して身罷ったと申しまする。……

……さても……その妻の於霜も……ほどのぅ、同じき病いにて相果てたと申しまするが、この者もまた、夫が誓ひました通り、

「……妾(わらわ)も……痰に苦しまるるお人を……平愈なさしめん――と存じまする……」

と言い残して……相い果て御座ったそうで御座いまする。……

……他(ほか)に供養を致す縁者とてなく、もとより子(こお)も御座いませなんだによって、主人小川殿の有り難き計らいにより、小川家菩提所へと葬って、懇ろに弔(とむろ)うておやりになられましたそうな。……

……と、菩提寺本寺の中山法華経寺の貫主さまが、この話をお聞きになられ、

「……かくまでに夫婦(めおと)ともに深き遺志を以って往生致いたとなれば、これは効験もあろうというものじゃ。」

と申されたとか。……

……なるほど、その後(のち)は――痰に悩む者が願立(がんだて)を致さば、即座にそのしるし、これある――と、人々、専らの噂となりましたゆえに、幸左衛門の「幸」の字、お霜の「霜」の字をとって合わせ、霜幸明神(そうこうみょうじん)として祠(まつ)り、今に小き祠のあるとのことにて御座いまする。……

……近隣の痰に苦しむ者の参詣は絶えず、その明神に祈願する者はこれ、すこぶる多いと聞いておりまする。……

鬼城句集 冬之部 大寒

大寒    大寒や下仁田の里の根深汁

 

      大寒やあぶりて食ふ酒の粕

2013/12/10

予告――明後日に芭蕉は杜国を訪ねる――

明後日、カテゴリ「芭蕉」で、「笈の小文」の一節として知られた、芭蕉が流謫の杜国を訪ねる旅の一部始終を公開する。私の好きなシークエンスで、多様な資料を援用しながら、愚想をも飛ばすうちに、注釈が膨れ上がって遂に全体が一万六千字を越えてしまった。内心、相応のオリジナリティを出せた評釈とはなったと自負している。乞う、ご期待!

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 19 昔の大名屋敷の外観

M276
図―276

 道路に面する大学と直角に、古い大名の住居、即ちヤシキへの入口がある。この建物は非常に古く、破風(はふ)や、どっしりと瓦をのせた屋根や、大きな屋の棟や、岩畳(がんじょう)な入口は、かかる荘厳な住宅建築の典型的のものである。屋根の上の建造物は、換気通風の目的で後からくっつけたのである。ここは今は学校に使用されている(図276)。
[やぶちゃん注:嘉永年間の(一八四八年~一八五三年)尾張屋(金鱗堂)板江戸切絵図を見ると、当時の法理文三学部の校舎のあった場所(現在の学士会館辺り)は板倉主計頭屋敷跡で、その道を挟んだ西側には当時は東京外国語学校(現在は共立女子大学構内であるが同大学の同地移転は後の明治二〇(一八八七)年のこと)があったことが磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の一〇九頁の図から分かる。これがモースの「学校」という表現にマッチするが、残念ながら切絵図ではこの場所は「三番御火除地」となっていて武家屋敷ではない(その西奥には「蕃所調所」があったが、これは「古い大名のヤシキ」には相当しない)。同所の道を隔てた北側は広大な榊原式部大輔屋敷が、また、同所北東の角を挟んだ対角線位置には牧野讃岐守の屋敷がある。この「直角に」(原文“At right angles”)という表現からは牧野讃岐守屋敷跡と考えるのが自然である。位置的に道を挟んで東京外国語学校の校舎がここにもあったとしても不自然なではない。因みに現在同所は西半分が共立女子、東部分が出版社小学館が建つ。]

無造作な 雲   八木重吉

無造作な くも、

あのくものあたりへ 死にたい

鬼城句集 冬之部 初冬

初冬    初冬の日向に生ふる鷄頭かな

 

      蜂の巣のこはれて落ちぬ今朝の冬

 

      猫の眼の螽に早しけさの冬

 

[やぶちゃん注:「螽」は「いなご」と読む。]

 

      初冬や緋染紺屋の朝砧

2013/12/09

花になりたい   八木重吉

えんぜるになりたい

花になりたい

[やぶちゃん注:太字「えんぜる」は底本では傍点「ヽ」。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 18 大学の行き帰り 富士山と猿

 学校へ行く途中で、私は殆ど七十マイルも離れた富士を見る。これは実に絶間なきよろこびの源である。今日は殊に空気が澄んでいたので、富士は新しい雪の衣をつけて、すっくりと聳えていた。その輪郭のやわらかさと明瞭さは、誠に壮麗を極めていた。上三分の一は雪に覆われ、両側の斜面にはもっと下まで雪が積って、どの方角から雪嵐が来たかを示していた。
[やぶちゃん注:「七十マイル」112キロメートル弱。当時モースのいた加賀屋敷から富士山頂まで地図上の実測直線距離では101キロメートルほどである。]

 大学からの帰りには、長い坂を登らねばならない。私はきっと人力車を下りて歩く。一軒の店には、鎖でとまり木へしばりつけられた猿が四匹いる。一セントの十分の一出すと、長い棒のさきにつけた浅い木皿に、カラカラな豆若干、或は人参数切を入れたものを買うことが出来る。人々はちょっと立止って猿に餌をやり、私はポケットに小銭を一つかみ入れておいて、毎日猿と遊ぶ。私は猿共が往来の真中から投げられた豆でさえも捕り得ることを発見した。彼等は人間の子供が球を捕えるように両手で豆を捕えるが、どんなに速く投げても、決して失敗しない。今や彼等は、私を覚えたらしい。皿を、もうすこしで手の届く場所まで差出してからかうと、彼等は私に向って眉をひそめ怖しい顔をし、棲木(とまりぎ)の上でピピョンピョン跳ね、ドンドン足踏みをして、その場所の軽い木の建造物を文字通りゆすぶる。檻の内に閉じ込められている、大きな、意地の悪い老猿も、同情して鉄棒をつかみ、素敵な勢でガタガタやる。猿を見れば見る程、私は彼等が物事をやるのに、人間めいた所があるのを認める。彼等は、私ならば精巧な鑷子(ピンセット)を使わねばならぬような小さな物を、拇指と他の指とでつまみ上げる。
[やぶちゃん注:このサルのエピソード、本邦の進化論事始のモース先生の書いたものであるという観点から見ると頗る面白い。
「大学からの帰りには、長い坂を登らねばならない」当時の法文理三学部は神田錦町(通称は神田一ツ橋)にあった(現在の白山通り一ツ橋交差点角にある学士会館の辺り)。当時、加賀屋敷(現在の東大構内の北、言問通りに面した工学部棟辺り)と神田一ツ橋をどういうルートで人力車が走ったかが今一つ分からないが、「長い坂」というところからは(やや位置的には不審があるが)菊坂のことであろうか? 郷土史研究家の御教授を乞えれば幸いである。]

鬼城句集 冬之部 師走

師走    門を出て師走の人に交りけり

白い月 萩原朔太郎

 白い月

はげしいむし齒のいたみから、
ふくれあがつた頰つぺたをかかへながら、
わたしは棗の木の下を堀つてゐた
なにかの草の種を蒔かうとして、
きやしやの指を坭だらけにしながら、
つめたい地べたを堀つくりかへした、
ああ、わたしはそれをおぼえてゐる、
うすらさむい日のくれがたに、
まあたらしい穴の下で、
ちろ、ちろ、とみみづがうごいてゐた、
そのとき低い建物のうしろから、
まつしろい女の耳を、
つるつるとなでるやうに月があがつた、
月があがつた。
         幼童思慕詩篇

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)より。同詩集の「さびしい情慾」詩群にある。「堀」「みみづ」はママ。「月に吠える」再版(大正一一(一九二二)年三月アルス刊)以降の詩集類では、行末の総ての読点が除去され、昭和三(一九二八)年以降の詩集類では末尾の附記「幼童思慕詩篇」がない。本詩は詩集「月に吠える」が初出で先行する雑誌等への発表はない。]

2013/12/08

鉛と ちようちよ

鉛(なまり)のなかを

ちようちよが とんでゆく

鬼城句集 冬之部 除夜

除夜    俳諧の帳面閉ぢよ除夜の鐘

 

      除夜の鐘撞き出づる東寺西寺かな

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 17 少年棋士

M275


図―275

 ある町の傍の地面の上で、若い男と男の子とが将棋をやっているのを見た。男の子は十歳にもなっていなかったが、青年が吃驚したり、叫んだりする所から、私はこの子が彼にとっていい相手であるのだと判断した。何人かが周囲に立って、この勝負を見守っていたがが、私もまた勝負を見るような様子をして地面にしやがみ込み、競技者二人を大急ぎで写生した(図275)。

贈物にそへて 萩原朔太郎

 贈物にそへて

兵隊どもの列の中には、
性分のわるいものが居たので、
たぶん標的の圖星をはづした。
銃殺された男が、
夢のなかで息をふきかへしたときに、
空にはさみしいなみだがながれてゐた。
『これはさういふ種類の煙草です』

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)より。同詩集の「くさつた蛤」詩群の掉尾。「月に吠える」再版(大正一一(一九二二)年三月アルス刊)及び昭和四(一九二九)年以降の詩集類では、一・二・四・五行目末の総ての読点が除去されている。本詩は詩集「月に吠える」が初出で先行する雑誌等への発表はない。]

2013/12/07

一群の ぶよ   八木重吉 [やぶちゃん注:「ぶよ」に傍点「ヽヽ」。]

いち群のぶよが 舞ふ 秋の落日

(ああ わたしも いけないんだ

他人(ひと)も いけないんだ)

まやまやまやと ぶよが くるめく

(吐息ばかりして くらすわたしなら

死んぢまつたほうが いいのかしら)

[やぶちゃん注:太字「ぶよ」は底本では傍点「ヽ」。]

鬼城句集 冬之部 冬ざれ

冬ざれ   大石や二つに割れて冬ざるゝ

 

      冬ざれや二三荷捨てゝ牛の糞

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 16 門付の三味線弾き

M274
図―274

 往来ではよく、巡り歩く音楽家に出合う。彼は三味線をかきならして、低い、間のぬけたような調子で歌いながら、ゆっくり歩く。頭にいただく笠は巨大で、浅い籠に似ているし、衣服は着古したものではあるが清潔で、無数のつぎがあたっている。これ等の人々は、恐しく罅(ひび)の入ったような震え声で歌いながら、家から家へ行く。この写生図の歌手は非常な老人で、疲れ切っており、そして極めてぶざまな顔をしている(図274)。
[やぶちゃん注:零落した新内流しとも思えない。時々の事件を詠み込んで三味線で歌って物乞いをした門付芸、歌祭文(うたざいもん)の末路か。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 15 手水

M273
図―273

 出て来た時、私は縁側の一端に、気の利いたことがしてあるのに気がついた。大きな竹の、下端に刻み目をつけた物が下っていて、この刻み日には水桶がかかり、そのすぐ上には浅い竹製の柄杓が釘にかけてある。手洗用のかかる仕掛は、どこの家でも見受ける所である(図273)。

2013/12/06

僕は

あらゆる思想と宗教に――吐き気がする――

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 四 芽生 コケムシの冬芽


Kokemusihuyuga
[苔蟲の冬芽]

 

 以上掲げた例ではいづれも芽が親の身體の外面に生ずるから、それが芽であることが明に知れるが、芽が親の身體の内部に出來ると往々芽生とは考へられぬやうな場合が生ずる。海の水は冬でも温いから、海産の動物は冬を越すために特殊の方法を採るに及ばぬが、池や沼に住む動物は、寒くなつて親が死ぬときに、凍つても死なぬやうな種を遺して置かぬと種族が全く斷絶する。それ故かやうな動物は冬になると特に厚い殼を被つた卵を産むか、または特に厚い殼を被つた一種の芽を生ずる。淡水産の苔蟲や海綿は冬の來ぬ間に盛にかやうな冬芽を造るが、親の身體の内で出來てしかも形が卵に似て居るから、近い頃までは學者もこれを眞の卵と思ひ誤つて居た。わが國では未だに淡水海綿の冬芽を「鮒(ふな)の卵」などと稱へて居る地方がある。さて親の體内に出いた冬芽と眞の卵とはいづれの點で相異なるかといふに、卵ならば全體でたゞ一個の細胞であるが、冬芽の方は始から多くの細胞の集まつたもので、たゞそれが球形の塊になつて居るといふまでである。植物の芽にもそのまゝ延びて親の身體の續きとなるものと、親の身體からは離れて別に新しい一株の基を造るものとがある。「ゆり」の或る種類では莖と葉との隅の處に黑い小さな玉が出來て、これが地上に落ちると一本の「ゆり」が生ずるが、苔蟲や海綿の冬芽はこれと同じやうな理窟で、發育すれば一疋の個體になり得べきだけの細胞の塊が親の身體から離れ、厚い殼に被はれて寒い時節を安全に通過し、翌年になつて一疋の個體までに出來上るのである。それ故、もしもこれだけの細胞が最初一個の細胞から生じたならば、單爲生殖で卵から發生したのと少しも違はぬ。「ヂストマ」の蕃殖する途中にも一疋の蟲の體内に多數の子が生ずる時期があるが、これなどは實に内部の芽生か或は單爲生殖か殆ど判斷が出來兼ねる。有性生殖と無性生殖とは全く別物の如くに考へる人もあるが、有性生殖中の單爲生殖と、無性生殖中の體内芽生とを比べて見ると、その間にはかやうな曖昧な場合があつて、決して判然と境が定められるものではない。

[やぶちゃん注:「淡水産の苔蟲や海綿」既注の外肛(コケムシ)動物門 Bryozoa Ectoprocta)は裸喉綱・狭喉綱・被喉(掩喉)綱の三綱に分類されるが、被喉(掩喉)綱は淡水産種のみで構成されており、口の上を覆う口上突起(epistome)と呼ばれる構造を持つ点で他の二綱と区別され、殆んどの種が馬蹄形の触手冠を持つ。以下、参照した東京大学大気海洋研究所国際沿岸海洋研究センター生物資源再生分野特任助教広瀬雅人氏の「コケムシWebSite」の淡水コケムシについてによれば、被喉(掩喉)綱は六科一五属八〇種ほどが報告されており、本邦には二三種が報告されている。被喉(掩喉)綱の大部分を占めるのはハネコケムシ科 Plumatellidae で、その中でもハネコケムシ属 Plumatella は被喉綱全体の約七〇%を占め、ハスの葉の裏側や沈木上に枝状分岐した管状の群体を形成する。その他のグループは種数が少なく、先に示したオオマリコケムシ科のように一属一種しか知られていないもの少なくない。群体の形態も多様で、ヒメテンコケムシ科 Lophopodidae は数ミリメートル程の透明な群体を、オオマリコケムシ科Pectinatellidae は前に見たよう巨大な群体塊を、アユミコケムシ科 Cristatellidae はわずかな移動力を有した紐状の細長い群体を形成する。ここで問題となっている被喉(掩喉)綱コケムシの越冬については、『被喉綱の群体は一般的に春の水温上昇に伴って出現します。成長した群体は夏の間に有性生殖によって幼生を放出し、冬になると無性生殖で形成された休芽(statoblast)を残して消滅し』、『休芽はカプセル状の休止芽で、浮環(annulus)と呼ばれる多孔質の浮き輪に囲まれた浮遊性休芽と、浮環をもたない付着性休芽があり、これらは共に越冬に役立つとされています。特に浮遊性休芽は多数の棘を周縁にもつものや乾燥への耐性もあることから、水鳥の羽に付着するなどして分散にも役立っているとされています。中には水鳥によって捕食・排泄された後も発芽能力を有する休芽があることも報告されています』とある。リンク先では丘先生が図で掲げる苔虫の冬芽の鮮やかなカラー画像が見られる。必見! 「淡水産の」「海綿」は海産が多い海綿動物門の中でも少数派で、主に尋常カイメン綱ザラカイメン(単骨海綿)目タンスイカイメン科 Spongillidae に属する。形はやはり塊状・板状・樹枝状など多様で、緑藻類が共生して緑色を呈していることが多い。骨片は珪質から成る棒状である。以下、平凡社「日本動物大百科 7 無脊椎動物」の「海綿動物」にある元お茶の水女子大学理学部教授渡辺洋子氏の記載(引用ではカンマ・ピリオドを句読点に変更した)によれば、例えばカワカイメン Ephydatia fluviatilis (初めは平板状で成長すると十五センチメートル程の中心に空洞を持った球状となる)では、他の淡水産海綿の芽球と同じく、『生きた細胞が海面繊維と骨片でつくられた殻の中に入って休眠する』タイプで、これは『冬になっても死ぬことはなく、芽生形成は生活環の1段階というよりは、環境変化に耐えて生き延びるための一種の保証のようなものと考えられている。川や湖、沼などのような隔離された陸水域にすむ淡水海綿に、カワカイメンのような世界共通の種が多く見られるのは、芽球が渡り鳥の足に付着し、遠くの水域まで運ばれて分布を広げたものとみられている』。ヌマカイメン Spongilla lacustris (通常は藻類が共生しているため太陽光の届く深度では鮮やかな緑色を呈する。初めは扁平に広がるものの、成長に従って垂直に何本も立ち上がってくる)では、『冬季、水温が低下すると芽球を形成して休眠し、親の組織は崩壊し、死滅する。春、水温が上昇すると、芽球内の細胞は目覚めて殻を出て、新しい体をつくる』とある。

『「ゆり」の或る種類では莖と葉との隅の處に黑い小さな玉が出來て、これが地上に落ちると一本の「ゆり」が生ずる』植物の栄養繁殖器官の一つである零余子(むかご)のこと。主として地上部の葉腋や花序に形成され、離脱後に新たな植物体となるものを言う。単子葉植物綱ユリ亜綱ユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium はまさに種子を作らずにこの葉の付け根に出来た暗紫色の零余子を以って次代を繋ぐ。

『「ヂストマ」の蕃殖する途中にも一疋の蟲の體内に多數の子が生ずる時期』吸虫「ヂストマ」(既注済み)の生活環の一ステージであるスポロシスト。吸虫類の二生(二生吸虫)亜綱 Digenea に属する種は一つ以上の中間宿主を持ち、さらに何段階かの複雑な変態を辿る(卵→ミラシジウム→スポロシスト→レジア→セルカリア→メタセルカリア→成虫。但し、一部を欠く種もある)る。『一次中間宿主である巻貝にミラシジウム幼生が進入すると、これが進入部位の近辺で繊毛衣を脱ぎ捨て、さらに変態、発育して嚢状体となる。これがスポロシスト幼生である。この嚢状態は消化管、排泄系、分泌腺を欠き栄養摂取も体表からの吸収によるが、ミラシジウムから引き継いだ体壁の胚細胞は発達しており、これが無性的な発生によってレジア幼生、あるいは母体と同様のスポロシスト、つまり娘スポロシストに発育して脱出してくる』(以上はウィキ吸虫及びスポロシストに拠った)。]

中島敦 南洋日記 十一月四日

        十一月四日(火) 晴
 暑し。朝より支廳に挨拶に行き公學校に寄る。午後飛行機の切符購入。支廳にゆき、たかよりの手紙二通受取る。
 久方振りの手紙なり、二兒共に元氣のよし、まづ安心。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 14 「ショーリン」という絵師のこと

 私は京都から、博覧会で花の絵を画く為にやって来た、松林という芸術家を訪問したが、誠に興味が深かった。彼は本郷から横へ入った往来に住んでいる。垣根にある小さな門を過ぎた私は、私自身が昔のサムライの邸内にいることを発見した。庭園の単純性には、クエーカー教徒に近い厳格さがあった。これは私が初めて見る個人の住宅で、他の家家よりも(若しそんなことが可能でありとすれば)もっとさっぱりして、もっと清潔であった。広い廊下に向って開いた部屋は、厳かな位簡単で、天井は暗色の杉、至る所に使った自然のままの材木、この上なく清潔な畳、床の一隅にきちんとつみ上げた若干の書籍、それから必ずある炭火を入れた箱、簡単な絵の少数が、この部屋の家具と装飾とを完成していた。このような部屋は、学生にとって理想的である。我国の通常の部屋を思出して見る――数限りない種々雑多の物品が、昼間は注意力を散漫にし、多くの品が夜は人の足をすくって転倒させ、而もこれ等のすべては、その埃を払い、奇麗にする為に誰かの時間を消費するのである。主人の芸術家は、丁寧なお辞儀で私を迎え、静かに彼の写生帖を見せたが、それには蜻蛉(とんぼ)や、螇蚚(ばった)や、蟬や、蝸牛(かたつむり)や、蛙や、蟾蜍(ひきがえる)や、鳥や、その他の絵が何百となく、本物そっくりに、而も簡明にかかれてあった。一つの写生帖には花が沢山かいてあったが、その中に、ある皇族の衣服の写生があった。封建時代、松林はこの方の家来だったのである。私が退出する時、彼は私が息がとまる程驚いたようなお辞儀をした。私は、頭が畳にさわるお辞儀は何度も見たが、彼の頭は、まるで深いお祈りでもしているかのように、数秒間畳にくっついた儘であった。日本人は脚を曲げて坐るが、お辞儀をする時、背中は床と並行すべきで、後の方をもち上げてはならぬ。

[やぶちゃん注:「クエーカー教徒」正しくはフレンド会。クエーカー(Quaker)はプロテスタントの一派で、人は神からの啓示を直接に受け得ると説く。十七世紀中葉、当時のキリスト教の儀式化・神学化に反対したジョージ・フォックス(G. Fox 一六二四年~一六九一年)がイギリスで起立し、まもなくペン(W. Penn 一六四四年~一七一八年)によってアメリカで広まった。霊的体験を重んじ、絶対平和主義で反戦運動・平和運動で知られ、両世界大戦時には多数の良心的戦争反対者を生んだ。「クエーカー」は神の力を得て「震える人」の意。

「松林」これは「まつばやし」ではなく、原文“Shorin”であるので「しょうりん」と読ませているので注意。底本では石川氏は珍しく、不詳お手上げの割注『〔?〕』を直下に附しておられる。名前は正確に音写しているかどうか怪しいが――幕末にさる皇族の家来であった京師のかなりの絵師で、当時、本郷にあった大層な武家屋敷を借りることが出来る人物で、博物画の名手である……これは日本画に詳しい方が見れば、凡そ誰かは察しがつきそうなものだ。ちょいと美術史を専門に学んでいる教え子に探らせてみよう。

【二〇一四年二月十日追記】美術史を大学で学んでいる教え子から、昨年十二月に以下のメールを貰った。

   《引用開始》

まだ調べ途中ですが、報告です。

モースの生没年と江戸及び相応の出自という条件から探すと、浮世絵師の小林清親が思い当たります。

彼の生没年は、弘化四(一八四七)年~大正四(一九一五)年で、江戸本所の御蔵屋敷の生まれです。

「ショーリン」というのは私は「小林」を音読みしたのではなかろうかと推察しました。

まだ確定ではないですが、条件が揃っているような気がします。

   《引用終了》

小林清親(こばやしきよちか)については、「浮世絵太田記念美術館」のこちらの展覧会案内で浮世絵時代の掉尾を飾るその斬新な画風を見ることが出来、ウィキの「小林清親」で大まかな生涯を知ることが出来る。教え子のそれはまだ調査中とのことであるが、私は昨年の九月に偶然、ミクシィの知人がアップして呉れた小林清親の光線画を解説した動画に魅せられ、その友人に『まさに今私のやっているモースの「日本その日その日」(明治十年来日)の中の失われた景観がこれらの絵にはありますね。とても素敵です』とコメントしていたので、内心、その附合に吃驚した。少し遅れたが、ここにとりあえず追記しておきたい。

【二〇一四年二月十九日追記】前の追加注記を行った三日後の二月十三日に、私のミクシィの古い知り合いで糸染めから始めて手織りもなさっておられる、私が尊敬の念を込めて『姐さん』と呼ばさせて戴いている「からからこ」姐御から、この「ショーリン」とは元福山藩藩士で画家であった藤井松林(ふじいしょうりん 文政七(一八二四)年~明治二七(一八九四)年)ではないかという御指摘を戴いた。調べて見ると、驚天動地の合致点が見出され、このモースが逢った「ショーリン」とはこの藤井松林に同定してほぼ間違いないという確信を持つに至った。以下にそれを述べる。

 講談社「日本人名大辞典」によれば、藤井松林は備後国(現在の広島県)福山藩士藩士で名は好文、字(あざな)は士郁。別号に清遠・百斎。藩の重役吉田東里らに学んだ後、京都で円山派の中島来章(らいしょう)に師事、帰藩して絵図師となり、花鳥・人物・山水画の孰れにも優れたとある。ここで彼が得意とした画題はモースが「静かに彼の写生帖を見せたが、それには蜻蛉や、螇蚚や、蟬や、蝸牛や、蛙や、蟾蜍や、鳥や、その他の絵が何百となく、本物そっくりに、而も簡明にかかれてあった。一つの写生帖には花が沢山かいてあった」という証言とよく附合する。

 更に詳しい事蹟が同藩の藩校の顕彰サイトである「福山誠之館同窓会」の「福山誠之館教師」の「藤井松林」にあった。それを見ると、明治三(一八七〇)年に藩校誠之館に於いて画学小教授心得となった後(下線はやぶちゃん)、

   《引用開始》

 明治以後、半切50銭、尺八絹本5円の画料では生計を立てることすらままならぬ暮らしが続いたようだが、画道に精進し、明治10年(1877年)54歳のとき、第1回内国勧業博覧会に「花鳥図」を出品し褒状を得ており、8月には「藤雀鼬図」を宮中に献画して、懐紙器、莨器、水注の3点を賜わりその感慨を「久方の 天より三つの 玉ものは 身にあまりたる 光りなりけり」と詠った。さらに、明治14年(1881年)58歳のとき、第2回内国勧業博覧会に彩色画を、明治23年(1890年)67歳のとき、第3回内国勧業博覧会に「藤花小禽図」を出品し、「全局温雅、運筆墨秀潤、妙技嘉賞すべし」と評されて三等妙技賞を受賞し、中央画壇へも進出をはかった。

 明治22年(1889年)には再度上京し宮内庁に「游鯉図」「百福図」の2点を献上しているが、写実派の妙技を遺憾なく発揮し、松林を代表する作品となっている。「游鯉図」は縦7尺5寸、横5尺の画面に5尾の鯉が遊泳する図で、画祖・円山応挙を凌駕する筆致であり、「百福図」は百人百様のお多福が面貌、姿態、遊戯、紋様を異にして表現され、「北斎漫画」に匹敵するその画技の豊かさを充分にみてとれる。このように、松林の描いた画題は、花鳥・山水・人物など全般にわたり、和歌も嗜む文人画家であった。

   《引用終了》

とある。これはモースが「私は京都から、博覧会で花の絵を画く為にやって来た、松林という芸術家を訪問した」と述べている点と大きな一致を見せている。藤井は確かに福山藩士であってモースが述べるような「ある皇族」「家来だった」という謂いとは一見、矛盾して見えるが、これは寧ろ外国人であるモースの聴いた情報の処理が不確かなだけであって、例えば同事蹟の中の明治二(一八六九)年四月四十六歳の時に『御画像御用、阿部正教・阿部正方画像を画く』という記事にある、藩主の正装肖像画若しくはその下絵などを指しているとは考えられないだろうか? さらにモースが皇族と誤ったのには、その直後に藤井が『宮中に献画して、懐紙器、莨器、水注の3点を賜わ』った事実を(後からかその時かは不明乍ら)知ったことから、見せられた衣冠束帯に身を包んだ藩主の肖像をこそ「皇族」と見誤ったとは言えまいか? というよりもモースにとっては上流士族と皇族の区別認識はあまりなかったのではないかとも私には考えられるのである。

 次にモースが「彼は本郷から横へ入った往来に住んでいる。垣根にある小さな門を過ぎた私は、私自身が昔のサムライの邸内にいることを発見した。庭園の単純性には、クエーカー教徒に近い厳格さがあった。これは私が初めて見る個人の住宅で、他の家家よりも(若しそんなことが可能でありとすれば)もっとさっぱりして、もっと清潔であった。広い廊下に向って開いた部屋は、厳かな位簡単で、天井は暗色の杉、至る所に使った自然のままの材木、この上なく清潔な畳、床の一隅にきちんとつみ上げた若干の書籍、それから必ずある炭火を入れた箱、簡単な絵の少数が、この部屋の家具と装飾とを完成していた」と述べている部分に着目したいのである。この叙述は後半を読むと、実は町屋の小さな武士の家という感じはしないのである。それは「昔のサムライの邸内」で、「厳格さ」を感じさせ、それなりの「庭園」を持つ。しかも当時明治十年代の町屋の住居に比して「もっとさっぱりして、もっと清潔であった」であり、「広い廊下に向って開いた部屋は、厳かな位簡単で、天井は暗色の杉、至る所に使った自然のままの材木、この上なく清潔な畳、床の一隅にきちんとつみ上げた若干の書籍、それから必ずある炭火を入れた箱、簡単な絵の少数が、この部屋の家具と装飾とを完成していた」というのである。これはちっぽけな兎小屋みたようなものでは、ない。特に如何にも清楚な「庭園」と「広い廊下に向って開いた部屋」を持つというのは、今でいうなら相応に広い屋敷である。しかもその造作は「簡単」に見えながら、それでいてしかも「天井は暗色の杉、至る所に使った自然のままの材木、この上なく清潔な畳、床の一隅にきちんとつみ上げた若干の書籍、それから必ずある炭火を入れた箱、簡単な絵の少数が、この部屋の家具と装飾とを完成してい」るような、武家屋敷の典型的形態を体現していたのである。さすればこれは町屋の中のしょぼくれたかつての『小さな』武士の家屋ではあり得ない。立派なかつての相応の地位にあった人物の武家屋敷と読み替えてよい。とすると後は冒頭の「彼は本郷から横へ入った往来に住んでいる」である。そこで藤井松林の属した福山藩の江戸屋敷を調べてみると――これが――まさに「本郷から横へ入った往来に」あるではないか! 「NPO法人 すみだ学習ガーデン本郷」の公式サイト内の「すみだあれこれ」の「備後福山藩 十一万石 下屋敷」のページをご覧戴きたい。そのデータの中に安政三(一八五六)年当時、本郷丸山(現在の文京区西片)に備後福山藩(当時の藩主阿部家七代阿部伊勢守正弘)の中屋敷(大名などが上屋敷の控えとして設けた屋敷)があったのである! 私の持つそれより少し前に成立した「尾張屋(金鱗堂)板江戸切絵図」にも確かに「阿部伊豫守」屋敷が南西から東北に伸びるような細長い形で描かれてあるのである! 從ってこの旧福山藩藩士藤井松林が東京で滞在したのも、この本郷の、現在の東京大学正門前から僅かに四百メートル東に路地を入った旧福山藩中屋敷跡そのものであったのだと私は断定したいのである。これはもしかすると研究者や学者の間では自明の事実かも知れない。しかし少なくともネット上にそのような記載はなく、また、私の管見した書籍の中にも見出せてはいない。しかしだからこそ、これは大きな一石を投じたことにはなろうかと存ずるのである。

 以上、私の疑問に真摯に対応して戴いた教え子の「ゆうき」君と敬愛する「からからこ」姐御に心より謝意を表するものである。ありがとう!]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 13 鯉の滝登りの絵 / 端午の節句とこいのぼり

 漆器の盃や掛物によく使用される装飾の主題は、鯉、あるいは滝をのぼる鯉であって、必ず尾を彎曲した形で描かれる。多分産卵するために、激流又は滝を登る魚を写生したものであろう。これは向上、又は固守の象徴であって、男の子たちに、より高い位置へ進むことを教える教訓である。

 五月五日には、男の子達の為の国民的祭礼がある。話によると、その一年以内に男の子が生れた家族は、長い棒のさきに、続か布かでつくつた大きな魚をつけてあげる権利を持っている。この魚の口は環でひろげられ(この環でつるすのだが)、たいていの時は吹いている風が魚をふくらませ、そして最も自然に泳ぐような形でこれをなびかせる。ある物は長さ十フィートにも及ぶこれ等の魚が、この大きな都会いたる所でゆらゆらしたり、ばたばたしたりする所は、実に不思議な光景である。
[やぶちゃん注:「十フィート」約3メートル。底本では次に有意な一行空けがある。]

うつくしいもの   八木重吉

わたしみづからのなかでもいい

わたしの外の せかいでも いい

どこにか 「ほんとうに 美しいもの」は ないのか

それが 敵であつても かまわない

及びがたくても よい

ただ 在るヽヽといふことが 分りさへすれば、

ああ、ひさしくも これを追ふにつかれたこころ

鬼城句集 冬之部 春待

春待    春待や草の垣結ふ繩二束

 

      春待や峯の御坊の疊替

2013/12/05

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 12 皇太子命名日 / 皇居のお堀

 土曜日は、先週御誕生になった皇帝陛下の御子息に御名前をつけるべく取極められた日で、すべての店は白地に赤い丸を置いた国旗を揚げた。長い町々に、これは極めて陽気な外見を与えた。
[やぶちゃん注:「皇帝陛下の御子息」は明治天皇(当時満二十四歳)の第二皇子で皇太子建宮敬仁親王(たけのみやゆきひとしんのう)である(第一皇子稚瑞照彦尊(わかみつてるひこのみこと)は明治六(一八七三)年九月十八日死産で母葉室光子も四日後の九月二十二日に逝去)。明治一〇(一八七七)年九月二十三日(日曜)に出生、母は柳原愛子で大正天皇の同母兄に当たる。同月二十九日(土曜)に命名の告示が出されている。但し、翌明治十一年七月二十六日に夭折した。この叙述からキリスト教嫌いのモースの意識のカレンダーは月曜始まり(ユダヤ教・キリスト教などでは日曜日を礼拝日及びキリストの復活日として週の最初に置き、土曜を安息日(休み)としていた)であることが知られて興味深い。]

M272


図―272

 お城を取りまく大きな堀に沿って人力車を走らせることは、非常に絵画的である。維新前までは、将軍が、この広い運河のような堀の水から斜に聳える巨大な石垣にかこまれた場所に住んでいた。廓内には、今や政府の用に使用される建物が沢山ある。お堀に沿った道路は平坦で、廓をかこんで一、二マイル続き、堀に従って時々曲っては、新しい橋や、石垣高く、あるいはその直後に、建てられた東洋風の建築(図272)やを目の前に持ち来す。間を置いて、強固な、古い門構が見られ、巨大な石塊でつくった石垣は、がっしりとして且つ堂々たるものであるが、堀の水へ雄大な傾斜をなしているので、余計堂々として見える。石垣の上には、松の古木が立ちならび、その枝には何百という烏がとまっている。幅の広いお堀のある箇所には蓮が勢よく茂り、花時にはその大きな薄紅色の花がまことに美しい。水面には渡って来た野鴨、雁、その他の鳥が群れている。大きな都会の真中の公園や池で、野生の鳥の群が悠々としていること位、この国民、或はこの国の少年や青年達の、やさしい気質を、力強く物語るものはない。我国でこれに似た光景を見ようと思えば、南部のどこかの荒地へ行かなくてはならぬ。私の住んでいるヤシキでは、時に狐を見受ける。
[やぶちゃん注:「一、二マイル」1・6~3・2キロメートル。これは景観から二重橋前から半蔵門辺り(現在の日比谷通りから内堀通り)を指しているように感じられる(同区間は地図実測で約3キロメートル)。なお、現在の皇居の外周は凡そ4・9強から5・0キロメートル弱である。この頃にはまだ、東大敷地内に野狐がというのは驚きである。]

オリンピックの身代金(TVドラマ)

何となく気になって録画しておいた、TVドラマ「オリンピックの身代金」を見た。「ALWAYS 三丁目の夕日」のネガティヴ版、「相棒」に登場する俳優が脇を固めていて、「相棒」的人間関係の偶然的組み合わせなど、「相棒」ファンならまずはこたえられない感じだが、新シリーズになって脆弱化した「相棒」の脚本に比べれば遙かに良くできている。特に第一夜では、どうも涙腺が緩みがちな昨今の僕には、同時代人(東京オリンピック時に私は小学校2年生だった)としては、景観とともに何度か涙が滲んだ。そうして何よりも――これは古くて新しい――と感じた。あの時と全く同じことが――次期オリンピックを「震災復興」という白々しい看板を掲げながら、東北をスケープ・ゴートにしている、ファッショ化する今の日本――という痛烈なアイロニイとして僕には感じられたのである。未見の方は、必見である。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 11 一人の老飴売りのこと

M271
図―271

 菓子の行商人は子供を集めて菓子を売る為に、ある種の小さな見世物をやる。一、二回、私は彼等を我国の手風琴師に近いものとみなして、銅貨若干を与えた。すると彼等は一つかみの菓子を呉れたが、味もなく、不味いことを知り過ぎている私は、あたりに子供がいなければ、折角だがといって返すのであった。最近私は烏や、豚や、家鴨(あひる)や、犢(こうし)の叫び声を完全に真似する行商人に逢った。また私は、気のいい一人の老人(図271)を写生した。この男は、子供を集める為に、硝子(ガラス)を多面体に切った物で、それを透して見ると多くの影像が現れる物を持っていた。彼はこれ等を柄のついた枠に入れた物をいくつか持っていて、それを子供達に渡し、自分が踊り廻って、ありとあらゆる滑稽な動作をするのを、のぞき見させた。彼はまた小さな棒のさきに、あざやかな色をした紙の蝶をつけた物を持っていて、これをくるくる廻した。売物の菓子は箱に入っている。私は彼を写生する間、人力車に坐っていて、時間がなかったので、只老人と一人の子供とだけを写生したが、この写生図を見る人は、黒山のように集った子供達と母親達とが、見物している光景を想像しなくてはならぬ。老人は、私が何をしているかを見た時、哄笑したが、道化を継続し、子供達もまた笑った。多くの人達が背中越しに絵を見つめるので、私は急いで写生を終った。そして二セントやると、彼は非常に低くお辞儀をした上、菓子の棒を十数本呉れた。私は、彼が踊るのは金を受ける為ではなかったのに、間違をしたことに気がついたが、然し謝辞を以て菓子は辞退した。そこで彼はこの菓子を人力車夫に提供したが、車夫も受取らぬので、残念そうに箱へ戻し、非常に幸福そうに演技と舞踊とを続けて行った。突然、この上もない名案を思いついた彼は、箱をあけて、再び一つかみの菓子を取出し、私に向って身ぶりをしながら、私には「シンジョー」「コドモ」「アナタ」という言葉だけが理解出来たことを何かいい、あたりに集った子供達にその菓子をすっかりやった。子供達はそれを受取り、ニコニコしながら私に礼をいった。数日後、私は再びこの老人が往来で芸当をやっているのを見た所が、彼は再び私に礼をいった。これは、横路へ入るが、我々を吃驚させる風習である。ある店で、何か詰らぬ物を買い、その後一週間もしてその前を通ると、店の人々はこちらを見覚えていて、またお礼をいう。
[やぶちゃん注:私はこのシークエンスを見たことがある訳でもないのに、妙に懐かしくしみじみとした感じがして、たまらなく好きだ。
『「シンジョー」「コドモ」「アナタ」』「あなたさまから頂いたお足をもちまして子供らに飴を進上致します」とでも言ったのであろう。]

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 四 芽生 クラゲの芽生/サルパの連鎖個体


Kuragesyutuga
[芽生する「くらげ」]

 

 海面に浮んで居る動物にも芽生で蕃殖する種類が幾らもある。「くらげ」の中でも或る種類は傘の緣または柄に盛んに芽を生じ、芽は直に小さな「くらげ」の形になって暫時親の「くらげ」に付着して居た後に、一つ一つ離れて勝手に游いで行く。「かつおのゑぼし」なども、一疋の如くに見えるものは實は一群體であつて、始め一個體から芽生によつて生じたものである。また前に名を擧げたが「サルパ」と稱する透明な動物では、身體の一部から細長い紐が生じ、その紐に多數の節が出來、後には各節一疋づつの個體となる。それ故、同時に出來た澤山の「サルパ」が鎖の如くに一列に連なったまゝで海の表面に浮いて居るのを常に見掛ける。この場合には同時に多數の個體が揃つて發育するから、一回に一疋づつを生ずる普通の芽生とは聊か趣が違ふがこれもやはり芽生の一種である。

[やぶちゃん注:『芽生する「くらげ」』この図のクラゲは何だろう? 傘と四本の触手の形状は箱虫(鉢クラゲ)綱 Cubozoa、所謂、立方クラゲ(ハコクラゲ)、アンドンクラゲに代表される立方クラゲ目 Cubomedusaeの形態とよく似ており、立方クラゲ類はエフィラを作らずに出芽でポリプを増やし続け、一つのポリプが一個体のクラゲになる点でも一致するが、どうも中央から垂れ下がっている柄が気になる。今までこのような長い柄を持つ立方クラゲを私は見たことがないからである。そこで仔細に見て見ると、この長い柄の先に出芽している子クラゲをよく見ると、これには所謂、管状になった柄がくっきりと描かれているのが見て取れる。この子クラゲはむしろ、ヒドロ虫綱硬クラゲ(ヒドロ虫)目硬クラゲ亜目オオカラカサクラゲ科カラカサクラゲ Liriope tetraphylla に酷似する。しかもカラカサクラゲはクラゲ類では珍しく、ライフ・サイクルにはプラヌラからポリプになる時期を持たず、そのままエフィラとなる。この図では柄の部分に多数の出芽が起こってそれが簾のように繋がっているように見え、これはストロビラのようには見えない。一個体が柄の部分から出芽し、それが多数ぶら下っているという形状である。但し、カラカサクラゲの成体は傘がもっとお椀のような半球状であること、傘の部分に四つの三角形をした生殖腺があることなどが本図とは合わない。また、カラカサクラゲ若しくはその仲間がこのような形で柄部分から単体を多数、鎖のように出芽するかどうかは分からない。識者の御教授を乞うものである。

「身體の一部から細長い紐が生じ、その紐に多數の節が出來、後には各節一疋づつの個體となる」脊索動物門尾索動物亜門尾索(タリア/サルパ)綱サルパ目断筋亜目Desmomyariaに属する原索動物の総称であるサルパ(salpa)は。ここ記されたのは有性世代に於ける連鎖個体でその長さは数メートルに及ぶことがある。]

しづかな 畫家   八木重吉

だれも みてゐるな、

わたしは ひとりぼつちで描くのだ、

これは ひろい空 しづかな空、

わたしのハイ・ロマンスを この空へ 描いてやらう

鬼城句集 冬之部 年の暮

年の暮   いさゝかの金ほしがりぬ年の暮

 

      腹の底に何やらたのし年の暮

 

      年の暮女房できたる小商人

 

[やぶちゃん注:「小商人」は「こあきんど」。]

2013/12/04

臨時休業

今夜は24年前の教え子(現在はイラストレーター)と一献傾けるので店仕舞いと致す 心朽窩主人敬白



ブログの更新量がここのところいつもより少ないのは、満を持して取り組んでいるシンクロニティの「芭蕉」が近々に迫っているから。何とか先程、形が出来た。今月の13日には公開出来る。乞う、ご期待!――

ふるさとの 山   八木重吉

ふるさとの山のなかに うづくまつたとき

さやかにも 私の悔ゐは もえました

あまりにうつくしい それの ほのほに

しばし わたしは

こしかたの あやまちを

          讚むるようなきもちになつた

[やぶちゃん注:「悔ゐ」はママ。最終行は、一行字数が制限された底本で、

こしかたの あやまちを 讚むるようなきもちになつた

と表記出来ないことからなされた特殊な改行であろうが、本電子化では底本を「忠実に」再現することに眼目をおくことから、かく標記した。向後、この注は略す。]

鬼城句集 冬之部 寒さ

寒さ    庵主や寒き夜を寐る頰冠

 

      死を思へば死も面白し寒夜の灯

 

      影法師の壁にしみ入れ寒夜の灯

 

[やぶちゃん注:「しみ入れ」の「し」は底本では「志」を崩した草書体表記。]

 

      活計に疎き書どもや寒夜の灯

 

[やぶちゃん注:「活計」は「たつき」と読みたくなるが、音数律から「くわつけい(かっけい)」であろう。]

 

      一つづゝ寒き影あり佛達

 

      眞木割つて寒さに堪ふや瘦法師

 

       市日

      寒き日や小便桶のあふれ居る

2013/12/03

中島敦 南洋日記 十一月三日

        十一月三日(月)

 朝七時半公學校に到る。既に式終了後なり。教員室に椰子蟹あり。スペイン僧あり。式毎に列席するといふ由。昭和二年より以來夏島にありといふ。總村長夏雄に會はんとせしも、不參。夏雄の子なる小使の少年に聞けば、移轉のため忙しきなりと。九時歸つて午(?)睡。スピノザを少し讀む。たかへの手紙。夜、滿月明るし、島田氏と支廳長官舍前迄散歩。

[やぶちゃん注:明治節である。

「總村長夏雄」これは以下に示すたかの書簡で氷解した。「夏雄」という日本名を持った現地夏島の「總村長」のことである。

「スピノザ」バールーフ・デ・スピノザ(Baruch de Spinoza 一六三二年~一六七七年)はオランダの哲学者。ヨーロッパ哲学史上最大の形而上学体系の創始者で、迫害を逃れてポルトガルから移住したユダヤ人を両親としてアムステルダムに生まれた。“Baruch”(「祝福された者」の意のヘブライ語)に当たるラテン語で“Benedictus”とも呼ばれる。ユダヤ人学校でヘブライ語・聖典学を学び、さらにユダヤ神学を研究したが、正統的見解に批判的となり、一六五六年にはユダヤ教団から破門され、神学者でありながら無神論者のレッテルを貼られて異端視された。ラテン語を学び、数学・自然科学・スコラ哲学及びルネサンス以後の新哲学に通暁、特にデカルト哲学から決定的な影響を受けた。デカルト・ライプニッツと並ぶ合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。彼の汎神論は唯物論的な一元論でもあり、後世の無神論や唯物論及びドイツ観念論・フランス現代思想にも強い影響を与えた。代表作「エチカ」(“Ethica”:倫理学。一六七七年刊。恐らくは敦の読んでいるのもこれであろう。以上は平凡社「世界大百科事典」とウィキの「バールーフ・デ・スピノザをカップリングした)。

「たかへの手紙」十月十七日からこの日までの日録形式でかなり長い。以下に示す。

   *

〇十一月三日附(消印トラック郵便局一六・一一・四、世田谷一六・一一・一〇。南洋トラック島夏島。東京市世田谷区世田谷一ノ一二四 中島たか宛。封書。航空便。旧全集「書簡Ⅰ」書簡番号一三六。太字は底本では傍点「ヽ」)

 十月十七日。今日はかんなめさい。内地の今頃は、いい気候だな。柿(カキ)の鮮やかな色が、目の前に浮かんでくるよ。本郷町の家の書斎に小さなすすきを立て、芋と栗を供へて、お月見をしたつけな。さきおととしだつたか、おととしだつたか桓と三人で、海の見える所迄月見に行つた時、お前がキタナイものをふんづけたつけね。今日、旅館の食卓の上に、菊の花が插(さ)してあつた。匂(ニホヒ)をかいで見たらほんものさ。一昨日内地を發(た)つた飛行機が、持つて來たんだとさ。一寸嬉しかつたね。今日の童は、公準校の先生方が、御馳走をしてくれたので、雞と卵が喰(く)へた。普通離島へ行かなければ、くへないんだ。夏鳥といふ所は、パラオよりも、まだ、食料に乏(トボ)しい。バナナ一本無い。椰子の水も容易にのめない。僕は、公学校の生徒に積んで、毎日二つぐらゐづつ飲んでゐるんだが。魚もないんだ。このトラック旅館で食事をするやうになつてから、ホントの(冷凍(レイトウ)でも、カソヅメでもない)魚は、一度もたべてゐない。なさけない所さ。パラオの食堂では、魚だけは、あつたからね。そんな食事だから、毎日椰子の水で栄養をつける必要があるんだよ。今日から早く、月曜島へ行つて、雞でもたべてこ ようと考へてゐる。夏島はイヤな所さ。あ一、サンマが喰ひてえなあ! ここで一番喰はされるのは、「ウンチバ」つていふ熱帶産の野菜だ。イヤな名前だらう。それにチツトモうまくないんだ。朝も(オミオツケのミ)晝も晩もウンチバ、ウンチバで、すつかり腐つちまふ。

 十月十八日→二十日、ずうつと防空演習と、雨天とで、參つてゐる。僕みたいな旅行者は、燈火管制の用意なんぞ、してないもんだから、ずうつと、電燈をつけないでゐるんだ。五時に夕食をすますと、すぐフトンにはいつちまふ。

 闇の中で、色んなことを考へるよ。おたかは相愛らず、「イエ、イエ、それは可哀さうー」なんて歌をうたつて働(ハタラ)いてるかい?「いやらしい」つて言ふ相手が無くて、困つてるんだらう。桓の小さい時の、フクロのキモノを着て歩いてた姿を思出すよ。ノチヤもあゝやつて歩いてるんだらう。内地は、もう段々寒くなつて行くからな。ノボルの一番、面白い時を見ずに、過すのかと思ふと殘念だ。子供を育てるのは、何も、大きくするだけが目的ぢやない。大きくなれば、ニタラシクなるだけさ。(大きくして、あとで、こちらが養つて貰ふためでもない。)小さな奴を、色々氣をつかひながら、そだてゝ行くその過程(クワテイ)が、樂しいんだらう? さう考へると、格の可愛い時期を、離れて、すごすのが、くやしい。だが、氣質からいへば、桓の方がズツト俺に近いやうだな。

 二一日夜、今、突然、本廳から電報が來て、急いで、パラオに歸ることになつた。サイパトラックからサイパン迄は飛行機を使ふ。十一月八九日頃迄にはパラオに着くだらう。(大體、一番はじめの豫定と同じやうになるわけだ)ボナべを良く見ないで行くのは(一月(ヒトツキ)ばかり旅行期間が短くなるのも)殘念だが、公務だから、やむを得ない。オレが立つたあとで、お前の飛行便が、トラックに來るかも知れぬが、それは、パラオへ廻送して貰ふやうに、たのんでおく。

 二十二日――飛行機が來る前に大急ぎで、月曜島と水曜島とを見て來なきやならないんだが、昨夜から、大風が吹出して、船が出ない。水曜島迄僅か四時間半位なものだが、この定期船は、この間沈沒して引揚げられたばかり(イヤな舟に乘ることになつたもんだよ)とかで、中々、大事をとつて、出さない。もつとも此の風では、飛行機の方も遲れるだらう。

 二十三日。今日も暴風で、船は駄目。しかし飛行機も遲れるさうだ。

 二十四日、今日も月曜島向けの舟は出ない。朝から公學校の學藝會を見に行つた。土人の少年はハモニカが上手だ。

 二十五日。今日は出さうだといふので、棧(サン)橋迄行つて待つてゐたが駄目。その代り飛行機も、ぐんと遲れて來月にならなけれは出ないさうだ。この飛行機(まだ横濱にゐる。之がサイパン・トラックと來て、一ぺんパラオ迄行き、又引返してトラックへ來た時、僕が乘るんだ)が來ないので、まだお前の手紙もとゞかない譯だ。お前の手紙を五十日近くも見ないんだから、隨分と、見たいよ。ヒマだから、今日は夏島町演藝會(〇〇慰問)を見た。沖繩踊りが澤山あつて面白かつた。日本の踊は、をかしくて見ちやゐられない。

 二十六日。やつと定期船が出た。小さなボンボンさ。恐ろしく搖られながら水曜島に着いた。國民學校の校長(といつても、校長一人で細君が助手さ)の家に泊る。雞のすき燒のはかに、鰻(ウナギ)の蒲燒をたべた。土人はウナギを一種の神と考へて、恐れてゐるので、喰はない。だから、川で、いくらでも取れるらしい。内地のウナギと味は、さう變らない。少し、アブラがすくないやうだ。ここで取れる鰺(アジ)もたべた。一ぺんに榮養を取入れた形だ。夏島とはエライ違ひさ。貝も澤山たべたよ。

 十月二十七日。朝、一寸、公學校の授業を見てから、昨日の舟にのつて、月曜島に向ふ。今日は、風が靜まつたので、搖れない。月曜島には國民學校は無い。直ぐに公學校に行つたが、恐ろしくブアイソウな校長だ。觀察の豫定を變更されては困るといつて怒つてゐるので、僕を案内して來た支廳(チヤウ)の役人も腹を立てちまつた。豫定を變更するなといつたつて、舟が出ないものは仕方がないぢやないか。(支廳からは二十二日に僕が行くといふ通知を前に出しておいたらしい)隨分無理を云ふ爺さんさ。しかしね、午後になつて、一緒にドイツ人の女の經營してゐる宗教女學校へ行つてね、僕が(丁度そのドイツ婦人が、英語のよく出來る人だつたので)英語で話をするのを聞いて、ドイツ語ぢやスラスラ話は出來ないからね、大分驚いたらしいんだね。それからは、爺さん、スツカリ言葉がテイネイになつて了つて、待遇もズツト良くなつたから、をかしなもんさ。そのドイツ婦人(日本語は全然できない。土人の言葉ならウマイもんだ)は實に上品な立派な人だ。はじめて南洋へ來たのが一九〇九年といふから、僕の生れた年さ。歸りに、大きなオレンヂを澤山呉れたよ。

 二十八日、舟の都合で、もう一日ここで泊らねばならぬ。午前中は公學校の授業參觀。先生の方の日本語がアヤシイから困る。午後は月曜島の近くの、もつと小さい島(江の島といふ)まで、カヌーで行つて見た。島を一廻りした。島民が子安(コヤス)貝を二個くれた。ここの校長の家に去年の二月生れの男の子がゐる。格と大體同じだね。しかし、ここの子は、何も口もきかず、藝もしないよ。元氣よく駈けまはつてゐるだけだ。ノチヤスケは、どうしてるかねえ、ノチヤスケは。

 二十九日。朝、舟に乘り夏島に向ふ。正午夏島着。飛行機は又々おくれて、來月四日頃になるといふ。それではサイパンでの連絡(ラク)が惡いので、どうすべきか、本應へ問合せの電報を打つた。キツト「サイパンへ廻らず、ひとまづパラオへ歸れ」と言つてくるだらうと思ふ。その方がいいと僕も思ふ。

 十月三十日――今日はヒマなので、公學校の先生方と達と、夏島一周の遠足に行つた。三里餘りある。途中、南洋拓殖(タクシヨク)會社の農場で、はじめて、赤いサルビヤを見つけた。葉が、すつかり、しほれてゐるのは、どういふ譯(ワケ)だらう。夏島の村長(土人)を夏雄といふんだ。その男の家も見たが、二階建の中々良いウチだよ。ナツジマのナツヲさんなんて、いいぢやないか。遠足の途中、到る所に生徒の家があるの椰子水を御馳走してくれる。面白かつたよ。

 三十日。朝、本廳から電報が束た。豫想通り、「一先づ最近の飛行便で歸任せよ」、といふんだ。ボナぺへ行けないのが、殘念だが、それを別にすれば、一ぺんパラオへ歸つて、サイパンとヤップは又出直す方が良いと思ふ。旅は好きだが、夏島は、もうイヤになつた。バナナの無い南洋なんて、意味ないよ。所で、その飛行機が中々、やつて來ないらしい。それが横濱から來れば、お前の手紙を受取つて、すぐ次の日、それに乘つてパラオへ向ふんだ。南洋はもう二三目前からスツカリいい天氣になつたのに、内地とサイパンの間に、物凄い低氣壓があるんださうだ。もう三四日駄目らしいね。お前等の世田谷へ移つてからの樣子がまだ少しも分つてないんだから、トテモ不安なんだ。早く、お前の手紙が讀みたい。苦しいことがあつたら、お前、何でも書いてよこすんだよ。オレだつて、病氣のことを、すつかり、知らせて、トンダ心配をさせちまつたんだから、お前も隱さずに書いてよこすべし。でも、お前達は、いいなあ、一緒にゐられてさ。オレなんぞ見ろよ。淋しいつたら、ないぜ。お前達の寫(シヤ)眞を送つてくれ。もう寫(シヤ)眞屋へ行つたつて怒らない。誰の撮つたんでもいいから送つておくれ。

 十一月一日。今日は、洗濯シャボセツケンを買つて來て、シャツや靴下を洗つた。恐ろしく鰯(イワシ)臭いシャボンで、氣持が惡い。三枚南洋へ持つて來た麻の着物の中一枚(はじめからヒザの所が少し破けてたヤツ)は、モノスゴクボロボロになつちまつたぜ。(但し、新しく、送る必要は絶對になし。無理に送りたければ、サルマタを送れ)僕の部屋の前にビワの木に似た木があつて、白い花を澤山つけてるんだが、とてもいい香だ。素馨(ソケイ)(英語で、ジャスミンといふ)といふ花ぢやないかと思ふ。毎朝落ちた花を拾つては机の上に十位のせとくと、一日、いい香がする。其の花を一つ、押花にして同封するが、白い花は、茶色にキタタナク變つて了つて吃度ダメだらう。いつか、お前がクチナシの花を入れて送つて來た時も、スッカリ茶色に變つて何だか蛾(ガ)みたいで氣特が惡かつたから、この花も大方ウマクは行くまいが、ホントは中々良い花なんだよ。飛行機は、まだ横濱を立たないさうだ。僕が食事をする、前の旅館に、此の前パラオ丸で一緒だつた南洋拓殖(タクシヨク)の重役が、やはり、僕と同じ飛行機を待つてゐるんだが、退屈でタマラナイと見えて、一日に二度も三度も僕の所へ話しにやつてくる。(役者の古賀をホメテタオヂサンだよ)三高から東京帝大を出て、役人になり、最後は、臺灣の文教(ブソキヨウ)局長をしてから、やめて、南拓(ナンタク)に入つた人だが、頭は、あまり良くない人だ。話をして見ると、良く、それが分る。臺灣にゐた頃、此の人の下に、下川(シモカハ)さん(お父さんの友達の)なんかがゐた譯で、良く知つてるさうだ。今、下川さんは臺北高等學校の校長になつてるとか、言つてゐた。「臺北は喘息に良くないと思ふ。もし良ければ、下川氏に僕が、あんたを推薦してもいいが」などと、そんなことも言つてたぜ。下川さんとは、前の(四五年前)のイキサツがあって、少々マヅイので、僕は、だまつてゐたよ。このオヂサンは島田さんといふ名だ。僕と同じ飛行機で。パラオに行き、それから、船で東京に歸るんださうだ。

 十一月二日。まだ飛行機は内地を立てないさうだ。元來、これは、十月二十二日横濱發の筈だつたんだから、之で十二日のびたわけだ。早くお前の手紙も見たいのに。何度も云ふけれど、お前の方には、オレの方の消息は、比較的、近くまで分つてゐるワケだのに、オレの方と來たら、お前達の樣子は八月三十日あたりから、まるで判(ワカ)つてゐないんだからね。今日は夏島國民學校の運動會。一寸のぞいて見た。ひどくセマイ運動場に、まあ何と澤山の人が集まつたことよ! 九十度の炎(エン)熱の下(モト)の運動會ははじめてだ。一年生、二年生のユウギを見てゐると、去年、シンペイさんの、シンペイさんの、ニチエウビ、を練習してゐた桓を思出す。今年の運動會には、桓も出られたらうね。桓! 桓! 丈夫にそだつて呉れ、頭なんか、ニブイ方がいい。たゞ丈夫でスナホな人間になつてくれ。そして格と仲良くしてくれ。

 夕食は公學校校長の招待。春島から仕入れたといふ豚肉をたべた。月が明るい。

 十一月三日。今日は明治節で、オマケに滿月。飛行機も今朝やつと立つたらしい。では、こんどの手紙は飛行機の上から。

   *

「ウンチバ」不詳。識者の御教授を乞う。

「土人はウナギを一種の神と考へて、恐れてゐる」今回、Kay1490氏のブログ「ここは誰?だから何!」の「南洋紀行・Pohnpei編(Part.8[旅行]の記事にチューク諸島(旧トラック諸島)でもポンペイ諸島(旧ボナペ諸島)の現地の人々にとってはウナギが「神の使い」で、捕まえたり食べたりしないとあるのをやっと見つけた。そこにはそのウナギの画像があるが、これを見ると所謂、条鰭綱新鰭亜綱カライワシ上目ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属 Anguilla の中でも、大型で熱帯性のオオウナギ Anguilla marmorata であることが視認出来る。但し、一般にはオオウナギは我々の食すニホンウナギ Anguilla japonica に比すと不味いとされている(私は残念なことに未だ食したことがない)。

「下川」旧制台北高等学校廃校時の校長下川履信(りしん)。「前の(四五年前)のイキサツ」は不詳。少々気になる。

「九十度」華氏。摂氏三十二・二度。

「シンペイさんの、シンペイさんの、ニチエウビ」戦時童謡「新兵サンノ日曜日」(キングレコード/歌・高安貞子/作詞・市橋直治郎/作曲・山口保治)。

「そして格と仲良くしてくれ」の「格」は兄「桓」の誤記であろう。

「十一月三日。今日は明治節で、オマケに滿月」当日は旧暦九月一五日で十五夜であった。]

耳嚢 巻之八 口中痛呪法の事

 口中痛呪法の事

 

 口中痛(いたみ)候ば、何によらず漱(うがひ)候節右うがひの水を左の手にうけ握りて、肥後の國三の君と三篇唱へ、又念佛にても題目にても三五篇唱ふれば、即時に快驗ありと、或る角力取(すまふとり)の、町の與力新五郎へ咄しけるを、埒(らち)なき事と思ひながら、新五郎齒痛み苦しみし時、かく唱へぬれば、忘るゝ如くなりしと、長僕どもへ申(まうし)ける由ゆゑしるし置(おく)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:巷間通説で軽く連関。民間療法シリーズ乍ら、極めて非現実的に見え乍ら、「何によらず漱候節」と、結果として嗽を励行して口中洗浄を繰り返させる点で逆にプラグマティックと言える気がする。

・「肥後の國三の君」いろいろ想定して見たが不詳。識者の御教授を乞う。発音上の顎関節や舌の動きに特異性はないように思われる。

・「三篇」底本は右に『(遍)』と訂正注を附す。「三五篇」も同様。

・「長僕」永年勤めた下僕にしては複数形でおかしい。岩波版長谷川氏注も『不詳』とする。訳せないので根岸家の下男どもということにして訳した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 口の中が痛む際の呪法の事

 

 口の中が腫れたり爛れたり、また歯が痛む場合には、何によらず、漱いを致す折りに、その嗽いの水を左の掌に受けて軽く握り、

「肥後の国三の君……肥後の国三の君……肥後の国三の君」

と三遍唱え、その後に念仏なんど――題目でもよい――を三、五遍唱えたならば、即座に快験する――

――と、とある相撲取りが、町与力の新五郎へ話したと申す。新五郎は、

『埒(らち)もない。妄説じゃ。』

と思いながらも、それからほどないある日のこと、新五郎、はなはだ歯が痛み、苦しみに堪えざればこそ、思わず、

「……ひ、肥後の国三の君……肥後の国三の君……肥後の国三の君……」

と、言われた通り、かく唱えたところが、先ほどまでの痛みが、これ、嘘のようにかき消えて御座ったと。

 私の下僕らへ新五郎が話したとのことなれば、一応、記しおくことと致す。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 10 帝都東京――看板あれこれ


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 日曜日には、写生図板を持って、非常にいろいろな種類のある店の看板を写生する丈の目的で出かけた。我国には、どこにでもあるもの、例えば薬屋の乳鉢、煙草屋の北米インディアン、時計製造人の懐中時計、靴屋の長靴、その他僅かなのが少数あるが、この国ではあらゆる種類の店に、何かしら大きな彫刻か、屋根のある枠の形をした看板かが出ている。各の店舗の上には軽い、然し永久的な木造の日除があり、看板の多くは主な屋根からつき出て、かかる日除の上につっ張られた棒からぶら下っている。この支柱のある物には、看板の上に当る場所に小さな尾根がついているが、これは看板を保護する為か、或はそれに重要さをつけ加える為かである。図257は食料品店或は砂糖屋の看板で、大きな紙袋を白く塗り、それに黒で字が書いてある。図258は巨大な麻糸の房で網、綱、及びその類を売る店を示している。図259は非常に多くある看板で、長さ二、三フィートの板でつくり、白く塗った上に黒で店主の名を書き、日本の足袋の模型を現している。図260は地面に立っている看板で、高浮彫の装飾的象徴は、ここへ来れば筆が買えることを見せている。図261は煎餅屋を示している。煎餅は薄くて大きなウェーファーみたいである。図262は眼医者のいることを示す看板で、黒塗に金で字を書き、真鍮の金具が打ってある。図263は、妙な格好の看板である。これは丸く、厚い紙で出来ていて白く塗ってあり、直径一フィート半程で、菓子屋が一様に出す看板なのである。この看板は日本の球糖菓(ボンボン)を誇張した形を示している。我国の球糖菓も同様な突起を持っているが、それが非常に小さい。図264もまた妙な看板で、これを写生した時、私はこれが何を代表しているのか丸で見当がつかなかった。何か叩く、不思議にガラガラいう音が聞えたので、店をのぞいて見ると、二人の男が金の箔を打ちのばしていた。そしてこの看板には、金箔が二枚現してある。図265は蠟燭屋の看板で、黒地に蠟燭が白く浮き出ている。図266は大きな六角形の箱に似たもので、その底から黒い頭髪が垂れ下っている。店内で仮髪(かつら)を売っているのを見たから、人工的の毛髪を売る店を標示していることが判る。図267は印判師の看板で、これは必ず地面に立っている。殆ど誰でもが印を使用する。そして彼等は、印と、それに使用する赤い顔料とを、最少限度の大きさにして持って歩く、最もちんまりした、器用な仕組を持っている。彼等は書付、請取、手紙等に印を押す。印を意味する印判師の看板は、非常に一般的なので、私はこの字の一部が、頭文字のPに似ていることを観察して、最初の漢字を覚え込んだ。図268は両替或は仲買人の、普遍的な看板である。これは木製の円盤の両側を小さく円形に切りぬいたもので、銭を意味する伝統的の形式である。図269は櫛屋を指示していて、この櫛は長さが三フィートばかりもあった。図270は、傘屋を代表するばかりでなく、現代式外国風の洋傘を示している。油紙でつくった日本風の傘は非常に重く、且つ特別に取扱い難いので、日本人は我々式の傘を採用し、道路ではこれを日傘の代りに使用しているのも全くよく見受ける。

[やぶちゃん注:以前に比べるとモースの看板の漢字の書写は格段に正確になってきているのが分かる。「印」の字の(つくり)の(ふしづくり)を英語の「P」に擬えて最初に覚えた漢字としたという下りは、欧米人の漢字の受容過程や手法が知れて興味深い。

「二、三フィート」60・96~91・44センチメートル。

「煎餅」原文“rice cakes”。

「一フィート半」45・72センチメートル。

「日本の球糖菓(ボンボン)」金平糖。以下、日本で唯一の金平糖専門店「緑寿庵清水」(京都市左京区吉田泉殿町)の公式サイトの「金平糖について」によれば、金平糖は天文一五(一五四六)年にポルトガルからカステラや有平糖(あるへいとう:現在のハード・キャンディ。水飴よりも砂糖の分量を多くした硬い飴。)とともにもたらされたと伝える。織田信長も宣教師から贈られ、その形と味にひどく驚いたという。当時は貴重品で公家や高級武士しか口にすることは出来ず、その製造法も秘密であったが、まず、長崎で初の国産の金平糖が作られ、後に京都・江戸と広まって一般化した。かつては芥子粒を、現在は砂糖の結晶を核として砂糖蜜を幾層もかけて製造するが、この作業は菓子作りの中でも最も難しい作業とされる。呼称は砂糖菓子を意味するポルトガル語“confeito”(コンフェイト)」に由来する。昔は他に「金米糖(こんべいとう)」などとも呼ばれ、現在は関西などは「こんぺんとう」、関東より北では「こんぺいとう」と地方によって多少の違いがあると記されてある。リンク先では製造の動画も見られる。

「銭を意味する伝統的の形式である」言わずもがな乍ら、誤り。両替商が計りに用いた分銅(錘)のシンボライズである。]

 

 また看板には多くの種類があり、私は東京をブラブラ歩きながらそれ等の写生をしたいと思っているが、それにしても、かかる各種の大きくて目につきやすい品物が、店の前面につき出ている町並が、どんなに奇妙に見えるかは、想像に難からぬ所であろう。これ等の店には一階建以上のものはめったに無く、ペンキを塗らぬか、塗っても黒色なので薄ぎたなく見え、看板とても極めて僅かを除いては白と黒とである。このような、鼠色の街頭を、例えば、日本の美しい漆器のように黒くて艶のある頭髪に、目も覚める程鮮かな色のオビをしめ、顔には真白に白粉をつけ、光り輝く紅唇をした娘が、この上もなく白い足袋に、この上もなく清潔な草履をはいで歩くとしたら、それが如何に顕著な目標であるかは了解出来るであろう。陰気な、古めかしい看板のある町の真中に、かかる色彩の加筆は、ことの他顕明であり、時として藍と白の磁器や、黄色い果実やをぎつしりと展観したものが、町通りに必ず魅惑的な外見を与える。これ等すべての新奇さに加うるに、魚売、煙管(きせる)や、ぶりき細工を修繕する者、古道具屋等の、それぞれ異る町の叫びがある。今日私は梯子を売る男の、実に奇妙至極な叫び声を聞いた。家へ帰ったら新聞屋の呼び声と梯子屋の叫び声との真似をするから、忘れずに注意して呉れ給え。

[やぶちゃん注:「塗っても黒色」渋墨(しぶずみ)塗り。第四章 再び東京へ 4 利根川下りでの嘱目1で既注済み。]

 

 

  * 悲しい哉、それ等は皆忘れて了った。

月光と祈禱 萩原朔太郎 (「月光と海月」初出版)

 月光と祈禱

月光の中を泳ぎいで、
群がるくらげを捉へんとす、
手は身體(からだ)を放れてのびゆき、
しきりに遠きにさしのべらる、
藻ぐさにまつはり、
月光の水にひたりて、
わが身は玻璃のたぐひとなりはてしか、
つめたくして透きとほるもの流れてやまざるに、
たましひは凍えんとし、
ふかみにしづみ、
溺るゝごとくなりて祈りあぐ。

『マリヤよ、
はやはやわが信願を聽き届け、
翡翠(ひすゐ)のくらげを與へしめてよ、』
 ……………………………
かしこにこゝに群がり、
さあをにふるへつつ、
くらげは月光のなかを泳ぎいづ。

[やぶちゃん注:『詩歌』第四巻第五号・大正三(一九一四)年五月号に掲載された。後に「純情小曲集」(大正一四(一九二五)年八月新潮社刊)の冒頭の「愛憐詩篇」群の掉尾に配された(この詩の後に「郷土望景詩」群がくる)。そこでは以下のように改められてある。

 月光と海月

月光の中を泳ぎいで
むらがるくらげを捉へんとす
手はからだをはなれてのびゆき
しきりに遠きにさしのべらる
もぐさにまつはり
月光の水にひたりて
わが身は玻璃のたぐひとなりはてしか
つめたくして透きとほるもの流れてやまざるに
たましひは凍えんとし
ふかみにしづみ
溺るるごとくなりて祈りあぐ。

かしこにここにむらがり
さ靑にふるへつつ
くらげは月光のなかを泳ぎいづ。

私は個人的に朔太郎の初出に現われる執拗な読点を偏愛する。それは彼の精液のように粘着的な「舌の内在律」を確かに伝えていると感じるからである。]

植木屋   八木重吉

あかるい 日だ

窓のそとをみよ たかいところで

植木屋が ひねもすはたらく

あつい 日だ

用もないのに

わたしのこころで

朝から 刈りつづけてゐるのは いつたいたれだ

鬼城句集 冬之部 小春

小春    小春日や石を嚙み居る赤蜻蛉

 

      瘦馬にあはれ灸や小六月

 

      小春日や鳥つないで飼へる家

 

      小春日に七面鳥の濶歩かな

 

      紅葉して苺畑の小春かな

 

      唐茄子の小さき花に小春の日

 

      小春日や龍膽咲いてお頂上

 

      大釜に楮煮る宿の小春かな

 

      草の戸や糀筵に小春の日

2013/12/02

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 9 東京運動倶楽部運動会

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 土曜日の午後東京運動倶楽部(クラブ)の秋季会合があった。これは殆ど全部が英国公使館員である所の英国人から成立している。横浜からも、その地の運動倶楽部を代表して数名やって来た。競技は帝国海軍学校の近くの広い練兵場で行われたが、これは広々した平坦な原で、そこに立った時私は、どうしても米国にいて野球の始るのを見ようとするのだとしか思えなかった。この日は、日本の秋の日は毎日美しいが、殊に美しい日であった。競技者は六、七十名いて、数名の日本人も混り、天幕には少数の婦人方が見えた。それは実に故郷にいるようで、且つ自然であったが、一度周囲を見廻し、全部が日本人で、無帽で、小さな子供や、婦人が赤坊を背負った、大小いろいろな群衆が、繩を境に密集しているのを見た時、この幻想は即座に消え去った。彼等はべチャクチャ喋舌ったの何の! 道路に添う煉瓦の上には日本人がズラリと並び(図256)、見たところは徹頭徹尾我国とは違っていたが、而も人間が持つ万国共通の好奇心――これは人類の最も近い親類である所の猿も持っている――をまざまざと見せていた。海軍学校に属する日本人の軍楽隊が音楽を奏したが、非常に上手にやった。雑糅曲(メドレー)の中に、「ヤンキー・ドードル」や「朝までは家へ帰らぬ」の曲節があったのは、故郷を思い出させた。運動には徒歩競走、障碍競走、跳躍(ジャンプ)、鉄槌(ハンマー)投、二人三脚その他があった。私にとっては、これはいい休息になり、最も面白かった。

[やぶちゃん注:「帝国海軍学校」恐らく築地にあった海軍兵学校のことである。旧海軍伝習所は横浜・築地と移転し、この前年明治九(一八七六)年に海軍兵学校と改称していた。後の明治二一(一八八八)年に江田島に移転した。

『「ヤンキー・ドードル」や「朝までは家へ帰らぬ」』原文“"Yankee Doodle" and "We won't go home till morning,"”。直下に石川氏の割注『〔いずれも米国の流行歌〕』が入る。後者は蓄音機で聴ける。]

 

 ヤシキへ帰るのに、ドクタア・マレーは二頭立の馬車に乗り、私は人力車に乗った。馬は勢よく速歩したが、私の車夫もやすやすと同じ速度で走り、距離が五マイルに近いのにもかかわらず、いささかも疲れた様子を見せなかった。これ等の人人の耐久力は、外国人にとっては常に興味ある問題である。馬車の後をついて行く間に、私は馬車とその乗り手とが、どれ程新奇なものであるかを理解する機会を持つことが出来た。誰でも必ず振り向いて、それを凝視したからである。馬車の去った後で私は、小さな女の子が二人、完全に真似をして頸をすこし横に動かし、彼等が見た英国の婦人の態度そのままに、お辞儀し合うのを見た。また先日、私が人力車で走り過ぎた時、一人の女が唇をとがらせて、シガーを吸う動作をするのを見た。もっとも私はこの時喫煙していはしなかったが……。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 8 日本アジア協会での大森貝塚発掘講演

 日本亜細亜協会が十月十三日の会に際して、開会の辞を述べる可く、私を招待した。私は大森の陶器と、日本に於る初期住民の証跡とに就て、話そうと思っている。

[やぶちゃん注:「日本亜細亜協会」“The Asiatic Society of Japan”日本アジア協会は明明治五(一八七二)年に主にイギリスと日本との交流活性化のために横浜で創設されたもので、当時、居留していた主としてイギリス人とアメリカ人の外交官・実業家・宣教師からなるグループによる日本についての知見を深めるための定期的な懇話会としてスタートした。そこにはアーネスト・サトウや当時のイギリス公使ワトソン、外交官ハリー・パークス、英国領事館ジョン・ギボンズ、チェンバレン、日本語・日本文化の研究に大きく貢献したサンソム、多くの近代建築を東京に残したジョサイア・コンドル、ジャーナリストで作家のキプリングといった英国人の他にも、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や宣教師でローマ字表記法の考案者であったヘボン(アメリカ人)、森有礼らが会員であった。現在も活動を続けている(同協会公式サイトのエリック・ベレント日本アジア協会の設立と異文化研究の先駆者たちを参照した)。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によればモースが招待されたそれは、明治一〇(一八七七)年十月十三日(土曜)夜八時半から横浜のグランドホテルで開かれた例会で、「日本民族における古代民族の形跡」と題したもので、これは英字新聞である十月六日附『トーキョー・タイムズ』で『すでに予告され、公園の数日前から各英字紙に連日広告され、そのため大勢の聴衆が集まり、最初に予定していた部屋ではおさまりきれずに大ホールに変更したと、『ジャパン・ガゼット』十月十五日号は伝えている。残念ながら、公園の詳細は不明』とある。演題から見ると、この時すでに大森貝塚人プレ・アイヌ説が披露されていたと考えてよいように思われる(同書によればプレ・アイヌ説は先立つ十月六日附『トーキョー・タイムズ』で、日本側では翌七日発行の『民間雑誌』、続く八日附『東京日日新聞』の記事に載っている)。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 8 東京大学構内


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図―254

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図―255

[やぶちゃん注:赤のローマ数字はモースの原図に藪野が追加した数字。注を参照のこと。]

 

 図254は、大学に於る動物実験室の大略を写生したもので、私の特別学生達はここで勉強する。これは細長い部屋だが、私は廊下の向う側にもう二部屋持っている。図255は大学の主要建築の平面図である。道路に面した前面幅は、殆ど二百フィートに近いに相違ない。主要部建築から翼が三つ後につき出し、その間に一階建の長くて低い建物があり、これは狭い廊下で翼に連っているが、図236・237の男の子達の写生は、この廊下からしたものである。私はこれ等の長い建物の一つを占領している。1とした部屋は二階にある私の講義室で、その下に当る長さ二倍の広間は、私が博物館として将来使用しようとするものである。この建物の他に、独立した美事な会館や、図書館の建物や、採鉱、冶金の多くの建物や、学生その他の為の寄宿舎等があって、学生数百名、無数の事務員、小使、労働者等がいるので、それ等だけで一つの村落を構成している。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、当時の東京大学法理文三学部の校舎内の教室配置の記録は残っていないとあり、モースのこの部分や小倉謙編「東京帝国大学理学部植物学教室沿革」(一九四〇年刊)や谷津直秀「東京帝国大学理学部動物学教室の歴史」(一九三八年発行の雑誌『科学』連載)によって、配置推定図(同書一〇五頁)と解説が載る。それによれば、図255(この図では右方向が真北である)の「3・4・5」は動物学教場(当時は「教室」とは呼称していなかった。但し、モースの辞任後に動物学教場は左(南)翼の下の端の階下の内側――以下に述べる講義室()と実験室兼居室()――に移された。これらの翼は実際には中央に廊下があって図で言う左右に部屋があった)で、「3」が生徒の実験室(図254)、「4・5」がモースの居室兼研究室で、「1」の位置の二階部分が講義室(そうしたタッチがモースの図には残っている)、「1・2」を合わせた面積の一階部分が列品(標本室)であった(モースの「2」の列の様に並んでいるのはその陳列ケースのつもりであろう)。そしてモースの図には示されていないが、左(南)翼の方形の中庭の左辺に相当する箇所の外側部分(南側)が植物学教場、左(南)翼の下(東)の端の階下の内側に当たる部分に講義室()と実験室兼居室()であった。因みにモースは描いていないが、この左(南)翼の上の角の少し南西の位置(の左(南)直近)に前庭の北の終わり(上方のモースの言う「主要部建築」外上(西側)部分左右(南北)は正門から正面入り口正門へ続く横(南北)に細長い前庭となっていた)を挟んで「講堂」があり、東京大学に於けるモースの講演や特別講義はここで行われたとある。「6」は正面入口と思われる。

「二百フィート」60・97メートル。

「学生数百名」とあるのは、予備門四年と学部課程四年の東京大学法文理学部学生の総数を言っていると考えてよいであろう。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『この明治十年度(九月より)の理学部諸学科一年』(「化學科」・「数學物理學及星學」・「生物學科」・「工學科」・「地質學及び採鉱學科」・「佛語物理科」の六学科で「佛語物理科」は開成学校時代を引き継いだもので数年後に廃止された)『は一八名、生物学科は二名にすぎな』かったと記されておられる。]

耳嚢 巻之八 雜穀の鷄全卵を不産事

 雜穀の鷄全卵を不産事

 

 或る在方にて、鷄を多く飼ひてたまごを取(とり)、商ひける者、米價たつとき時節にもありけん、米をあてがわず粟を以て飼(かひ)けるに、其玉子不殘割(のこらずわり)候へば半月の如くなりしと也。あわを以て飼ける故や、又米穀ならず雜穀なれば其精氣薄く、たま子も又不全哉(や)、人間もまた其心得も有べき事なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。「耳嚢 巻之七」の「蕎麥は冷物といふ事」との類似性が感じられる。なお鶏卵は主に流通機構の問題から江戸時代は高級食材で、庶民の一般的消費物としては普及していなかった。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 雑穀で飼育した鶏は全卵を産まない事

 

 ある田舎にて、鶏を多く飼って卵を取っては、それを商(あきの)うて御座った者が、米価が高騰した折りででもあったものか、飼料に米を与えず、粟を以って飼(こ)うたところ、どうにも売れ行きが悪い。試みにその一つを割ってみたところ、黄身が半分しかなかった。そこで、産みたての玉子を残らず割ってみて御座ったところが、悉く黄身は半月のようになっておったと申す。

 粟を以って飼ったゆえであろうか、または米穀ではなく雑穀であるからして、その精気も米に比して有意に半減するがゆえに、卵もまた不全なものとなってしもうたものか。……これ、人間の場合にもまた、当てはまるものとして心得ておくべきことである。

一つの冒瀆  萩原朔太郎

一つの冒瀆  宗教ですら理想を言ふか。

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年四月アルス刊のアフォリズム集「新しき欲情」の「第五放射線」より。「99」のナンバーを持つ。]

おほぞらの こころ   八木重吉

わたしよ わたしよ

白鳥となり

らんらんと 透きとほつて

おほぞらを かけり

おほぞらの うるわしいこころに ながれよう

鬼城句集 冬之部 冬の日

冬の日   冬の日や前に塞る己が影

      冬の日や軒にからびる唐辛子

      二三足下駄並べ賣る冬日かな

      冬の日のかつと明るき一間かな

2013/12/01

ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ 4 休暇の始まり

 

4 休暇の始まり

(前のシークエンスの最後をダブらせておく)

〇それを見送る将軍。(肩から上のアップ)

何度か軽く首を縦に振りながら、ずっと彼の去った方を見ている。

左やや上方を見つめ、表情が何か少し淋しそうに少し固く、そして真剣になる。

主題音楽がかかって。F・O・。

 

□4 走るジープ(主題音楽はそのまま流れ続けて)

〇ジープ荷台から(進行方向へ)

平原の中の埃っぽい道。中央は車のために開かれている。左奥の遠景に森。運転手とその右手の助手席に座るアリョーシャ。

アリョーシャはかなり落ち着かない感じで左右をきょろきょろとしている。

進行方向の道の両側には、反対に徒歩で行軍して来る兵士の列。それぞれの小隊ごとに切れ目を持って長く長く続いている。兵士たちの足はやや重みを感じさせながらも、確かなゆるぎないしっかりとした歩調である。

少年のようにそわそわとするアリョーシャの後ろ姿は、思いがけない休暇の浮き立つ気持ちの表現である同時に、その左右に展開する戦場へと向かう、則ち、死と対峙しに歩む同志たちへの内心忸怩たる思いの表現であろう。

実際のジープの荷台に固定したカメラで撮られているが、相当、揺れが激しい。

 

〇ジープ荷台から(後ろ方向へ)

過ぎ行く埃舞い立つ道を行く左右の行軍する兵士たちの後ろ姿。

それがジープが過ぎた直後のところから、画面の左手(前の進行方向で右にいた兵士の列)の兵士たちが道の中央にすぐ寄ってゆき、右手の兵士列と少しだけ間を開けて道中央を並んで歩いて行く。それもジープの立てる砂塵に煙っている。

画面の中央上から右上部かけてスモークのようなものがあり、私はずっとこれを彼等がこれから向かう戦場の硝煙のように思っていたのだが、今回、よく見て見ると、これは一見、カメラ・レンズの汚れのようなものであることが分かった。但し、もしかすると編集の際に、私が感じたような効果を与えるために、撮影後のフィルムに施した効果であるのかも知れない。

 

□5 三叉路

カメラはジープの行く進行方向の主道から右手へ折れる道(これをアリョーシャの乗ったジープは折れる)の方からの、かなり高い位置(クレーン・アップ)にある。

右手(主道の進行方向)からかなり強い砂塵が吹き抜けている。

この支道の手前のところで旗を持った交通整理をする若い女性兵士が立っている。

すぐに右手(主道の進行方向)から戦車が進行しきて、女性兵士は戦車を優先させるためにアリョーシャの乗るジープを停止させようと旗を振るが、ジープは無視して速力を維持して、戦車の前をすり抜け、運転手はちょっと「すまんな!」という感じで左手を挙げ、カメラ手前の支道へとアウトする。

女性兵士はジープの去った方に左手の拳を挙げて揮い、可愛い感じの怒りを表わす。

最後の部分で戦車のキャタピラの音を高めて、その背後でずっと流れていた主題音楽をずらしてダブらせて次へ繋げている。

 

□6 川

〇渡渉(近景A)

川(それほど川幅は広くはない)。右手奥に進行方向へ向かう道。

浅い場所を渡河(水深は深い所で一メートル程度)しようとしたアリョーシャの乗ったジープが、途中で車輪を川床にとられてエンコしてしまっている。行軍の一隊の四人の兵士たちが助けて押している。アリョーシャも降りて助手席の脇で押している。その左右にこちらへと渡渉する兵士の列があり、左手一番奥(渡河の斜度から川上である)にやはりこちらへ向かう戦車隊の列(画面上で四台を視認出来る)がある。左遠景に広がる丘とその上の雲を浮かべた空が美しい。

助けている兵士の一人「おい! 同志たち! 俺たちに手を貸してくれ!」

左手を渡渉している何人もの兵士たちが寄ってきて、川中のジープを押す。

兵士たち「ウラー(突撃)! 押せ! それ!」

 

〇渡渉(中景B)

川上の離れた手前の岸の堤上から。

アリョーシャらのジープは画面右上にあり、皆が懸命に押している。その上下に渡渉する兵士の列があり、カメラの一番前のところを戦車二台、駆動音を高まらせて(ここでバックの音楽が消える)勢いよく排気煙を吹き上げながら、軽々と渡河して行く。

ジープを押す兵士たちの掛け声が被る。

 

〇渡渉(近景A)

ジープが動き出す。押している兵士は最初の四人のみ。

押していた兵士たちがアリョーシャに声を掛けながら隊列へと戻り始める。

兵士「元気でな!」

アリョーシャ「ありがとう! 同志たち!」

アリョーシャ、一人の兵士と握手する。

兵士「よい旅を!」

アリョーシャ「とっても、ありがとう!」

手を振って、向こう岸に向かっているジープに走って行くアリョーシャ。

セルゲイ「待ってくれ!」

画面右手から声の主の兵士がイン、場所は手前の岸近くの川の中。

 

〇川の向こう岸の岸辺(ジープの進行方向から)

右手前に反対側の岸辺の川の中に立つアリョーシャ。

左奥から兵士が川を駆け渡ってくる。

右手奥向こう岸の堤を乗り越えて行く一台と堤を右手に進行してゆく二台の戦車が、左手の堤の上には軍用トラックが停車していて、荷台に数人が乗り込みつつある。

セルゲイ「おうい! 兵隊さんよ! ちょっと待ってくれ!」

手前に向かって川を走り渡って来る精悍な兵士セルゲイ(アリョーシャよりは十歳ぐらいは上に見える)。

この直前、オフで、アリョーシャを呼ぶ声。

運転手「早く! 間に合わないぞ!」(推測。日本語・英語・ロシア語字幕になし)

振り返るアリョーシャ、焦った顔。

セルゲイ「やあ! 君は休暇をとる途中かい?」

アリョーシャ「そうですが……」

セルゲイ「ゲオルギエフスクへ?」

アリョーシャ「ええ、通りますよ……」

セルゲイ「俺の家(うち)はウズロヴァヤなんだ! 俺のために妻に逢ってくれ!」

セルゲイ、右胸から紙(軍事郵便かなにかの宛名を書いた封筒か何かか)を出そうとする。

[やぶちゃん注:「ウズロヴァヤ」(Узлова́я)はゲオルギエフスクの北北西1070キロメートルも離れたここ(グーグル・マップ・データ)である。]

 

〇川の向こう岸の岸辺(ジープの進行方向へ向って)

右にこちらを向いたアリョーシャ、左に背を向けたセルゲイ、二人のバスト・ショット。

アリョーシャ「出来ることからやってあげたいけど……今は時間が押しちゃってるし……」

セルゲイ「どのみち、ウズロヴァヤで列車の乗り換えの時間があるじゃないか。チェーホフ通りさ! 駅近くのブロックなんだ。」

と、住所のメモ部分を切り放して、アリョーシャの方に差し出す。

セルゲイ「さあ! ここだ、頼むよ、友よ!」

アリョーシャ、観念して(ここでやり取りする時間も惜しいしということでもあろうが、何より彼の母以外の人への誠実さが初めて現われるシーンでもある)、

アリョーシャ「……分った! やろう!……で彼女にはなんて?」

セルゲイ「リーザ――俺の妻の名だ――に伝えてくれ!……セルゲイは、そうさ、元気にしてるってな!……」

[やぶちゃん注:現在のウズロヴァヤ駅(グーグル・マップ・データ)はここで、如何にもありそうな通り名であるが(ロシアでは有名人の名を通りの名とすることは盛んに行われている)、発見出来なかった。]

 

〇川中(あおりのショットで、画面右にアリョーシャの腰から上)

仲間の兵士1「こいつはリーザにぞっこんでな!――昼も夜も彼女のことを夢に見てるんだぜって伝えてやんな!」

仲間の兵士2「セルゲイ! こりゃあ、彼女に何か贈り物をプレゼントしなけりゃなるめえよ!」

仲間の兵士1「……しかし……ここにあるものは皆、軍隊さんのもので……何にも贈り物にするようなものはありゃしねえよ!……」

皆、大笑い。

セルゲイも両手を開いて何もないという仕草をして快活に笑う。(この部分、兵士たちの銃剣が空を右上方向にそれぞれ区切っていて印象的である)

そこに、対岸から、曹長がやってくる。

曹長「お前たち! そこで何をしてる?!」

と誰何されて、兵士たちが振り返る。すかさず、仲間の兵士2を先頭に曹長の方へ走り寄る。(ここでカメラは少し進んで、右のアリョーシャは右にオフとなり、右に半分には振り返ったセルゲイの左後姿となる)

仲間の兵士2「やあ! 曹長! セルゲイの奴に一つ、石鹸の一塊り、恵んでやって下せえ! そうするとセルゲイはそれをお嬶さんへの贈り物に出来るというわけでさ!」

曹長「彼に割り当てられている一個の八分の一ならやれるがな。……」

仲間の兵士1「吝嗇臭え! 一個まるごとやっておくない!」

曹長「いいか! 小隊にはな! いまいましいことに総て! 石鹸は二個しか支給されてないんだ!」

仲間の兵士1「いいじゃあねえか! それを丸々一個、奴にやりましょうよ!」

曹長「それは規律に反する!」

 

〇川中のアリョーシャとセルゲイ(正面からのバスト・ショット)

笑って以上の会話を笑って見ていた左のセルゲイが、右の困った顔のアリョーシャと顔を見合わせ苦笑いする。アリョーシャには時間を浪費している焦燥感表情がありありと見てとれる。

仲間の兵士2(オフで)「思いやりってもんでしょが! ねぇ! 曹長さん!」

 

〇隊士に囲まれた川中の曹長(水面上からのあおり)

口々に曹長を責める隊士たち(右に三人、左に兵士1。間に彼方の白い雲)。

曹長、困惑の表情で俯くと、

仲間の兵士1「……何卒(なにとぞ)!!」

一瞬の間をおいて。曹長、意を決して、右端の兵士4(アリョーシャと変わらない若い少年兵である)が小隊用石鹸の荷担担当であったらしく、右手をさっと挙げて人差し指を立てて振り下ろしつつ。

曹長「……そいつ開けろ!」

と命ずる。

仲間の兵士3(如何にも嬉しそうに)「彼女はきっと間違いなく喜ぶね!」

仲間の兵士2(ニコニコしながら)「石鹸は今や『高級品』(デリカシィ)だからね!」

仲間の兵士4(隊の石鹸がなくなるのがちょっと不満そうに)「いや! 『不足品』(デフィシィト)だね! あんた、アホか!」

なかまの兵士2(満面の笑みで)「これで彼の彼女もお幸せで、万時、夫婦円満というわけさ!」

少年兵らしい兵士4もそれを聴いて少し唇を和ませる。

曹長は憮然として、兵士4の背嚢から石鹸(十五センチ角で厚さ五センチほど)一個を取り出し、画面左の兵士1の右手に、「ヤー!」と言ってポン! と渡す。その右手が一回上に消えてカメラの直近で振り下ろされ、カメラ直前の右手から突き出た出た別な兵士の右手にポン! と渡って、手は右にオフする。

 

〇川中のアリョーシャとセルゲイ(正面からのバスト・ショット)

笑うセルゲイ。同じくほっとして笑うアリョーシャに仲間の兵士5(右手でオフ)から石鹸が右手から渡される。

仲間の兵士(オフで)「もう一個!」

 

〇隊士に囲まれた川中の曹長(水面上からのあおり)

別な仲間の兵士(オフで)「その通り!」

日焼けしたこれまた精悍な仲間の兵士5が兵士4の前に右からインしてきて、腰に手を当てて曹長に対峙し、

仲間の兵士5「この際だ!」

仲間の兵士ら(複数)「頼みますよ! 曹長さん!」

曹長、最後のもう一個を挙げて、小隊の連中に呆れかえって、

曹長「お前たちが向後、体を洗いたいと望んでも不平は言えんのだぞ、これが本当に最後の最後なんだからな!」

と、兵士5に叩きつけるように二個目の石鹸を手渡し、唇を尖らす。

曹長、憮然としてセルゲイの方を見ている。

少年兵4、石鹸が全くなくなったことを惜しむ表情をする。

曹長「全く以って話にならん!」

 

〇川中(主題音楽が再びここからかかる)

立ち位置が変化している。右端にアリョーシャ、左端にセルゲイ、中央向こうにセルゲイを憮然とした表情でにらんでいる曹長、その右手で兵士5がアリョーシャに渡している先に渡した石鹸に二個目を加えて油紙のようなものに包んでいる。

兵士5が包み終えたそれをアリョーシャに渡す。

ここで曹長はアリョーシャを見る。

アリョーシャ、やっと足踏みから解放されて笑顔を満面に浮べ(それを主題音楽の高まりがサポートする)、画面を横切って左にオフする。みんなが、去るアリョーシャを笑顔――それはどこか羨ましそうな影を伴っている――で見送る。憮然とした表情の曹長は、この時、セルゲイの後ろにゆっくりと移動する。

 

〇川中から向こう岸へ

向こう岸で待っているジープに向かって水をはじかせて走ってゆくアリョーシャ。

セルゲイ(オフで)「チェホフ通り七番地だ!」

 

〇川中

見送るかの小隊の人々。セルゲイの左には、さっきの曹長がやはりアリョーシャの休暇の無事を羨望ともに祈るように立って凝っと見送っている(こういう優しい細かな演出がチュフライの魅力である)。

アリョーシャ(オフで)「確かに! 了解した!!」

最後まで左手に持った帽子を高く掲げて振っているセルゲイ。(F・O・)

 

□7 まばらな林を抜ける街道

砂煙を立てて疾走するジープ(右手前から左奥へ)、このスピードと主題音楽が予定の列車の発車が間近であることを暗示させる。

 

□8 石畳で舗装された線路近くの道

右手からカーブして左手前に回り込んできて、舗装されていない道に直ぐ入る。とそこの下を貨物列車が左下から右奥へと比較的ゆっくりと走って行く。その非舗装の部分の下がトンネルとなっていることが分かる。

 

□9 線路脇の道

右手に線路(やや8との位置の上での編集がうまくない)。貨車がゆっくりと行く。その脇に電信柱、中央から左手奥に伸びる道。

貨車が画面から消えた頃に奥から疾走してくるアリョーシャの乗るジープ。相当に荒っぽい運転で、この貨車にアリョーシャは乗らないといけないことを観客に自然知らせる。

案の定、途中から、走行している助手席のアリョーシャが中腰になって飛び降りるような姿勢をとる。

急ブレーキをかけたジープから、運転席の背後に足を掛けて向こう側(線路側)に飛び下りたアリョーシャは線路へ駆けあがって、貨物列車と並走、最後尾のタラップに両手を掛けて、勢いをつけて飛び乗る。

タラップからジープの運転手の方に左手を大きく振って別れを告げるアリョーシャ(右へそれが消える直前にカット。直後に丁度、音楽も切のいい箇所で終るように編集されている)。

線路脇からの煽り。貨物列車(蒸気機関車。運転士が映る)が左からインして右奥へ走ってアリョーシャの載った最後尾貨車が映る前にF・O・(機関室から人物が一瞬、顔を出すのは、OKかどうかが心配だったからか? スタッフではなくて実際の機関助手が気になってつい覗いてしまったものであろう)。

 

■やぶちゃんの評釈

 休暇の始まりである。本シーンは時間的には前場面の直後で設定から考えると午前中の早い時刻と思われるが――先の司令部壕のシーンを戦車二台を迫撃した翌日早朝と私は見ている――但し、この冒頭部の撮影自体は人の影の長い伸び方から見ると午後の遅い時間かと思われる(これだけの隊列など各種セッティングから考えても早朝の撮影は望めない)。

 冒頭でアリョーシャが向かう道の中央は彼が乗るジープのために十分に開かれているが、これが休暇の始まりとしてのアリョーシャの開放的心境をよく暗示させているといえる。この最初のジープに乗るアリョーシャを背後から撮ったそれは、立った左右のフロント枠が画面の上部凡そ半分に『カメラの中にあるカメラの左右二つのフレーム』のような擬似的モンタージュの効果をアクセントとして与えていて、戦時下の従軍の雰囲気をマルチ・カメラで撮ったかのような、極めて印象的な映像であると私は思っている。

 次の切り返したジープの後ろの映像では、ジープ本体はフレームにインしておらず、しかも、ここでは前のシーンに比してスピードがはるかに落ちていて、ブレもなく、前ショットのジープ荷台からの映像ではないことが分かる。これは前の実際のジープ荷台では揺れが激し過ぎることから、カメラを撮影専用トラックに移した撮影であろうと思われるが、何より、左の兵士たちが道の中央に寄ることで、アリョーシャが〈戦場という日常、則ち、褻(け:戦争中は戦場は「日常」である)」の時空間〉から隔てられ、映画的な特異空間としての〈戦時下の特別休暇という非日常、則ち、嘘のような晴れの世界〉へと誘(いざな)われて行く休暇の始まりをも意味しているように思われる。そのモンタージュのためにも、画面は安定している必要があったのだと私は思うのである。

 なお、このシーンの私が指摘した右手上の曇りが、単にカメラ・レンズの汚れであったとしたら……これはもう映画のドウェンデとしか言いようがないほど素晴らしいことではないか!

 5の三叉路シーンであるが、何故か本映画のスチールにはこのシーンを掲げたものが意外に多いように思われる。このことを昔から奇異に思っていたが、これは戦車と若き女性兵士の組み合わせがフロイト的な象徴をくすぐり、集客効果を高めるとでも思ったものであろうか?

 6の川のシークエンスは本話でも非常に重要なエピソードの伏線となるもので、兵士セルゲイの純朴さや小隊仲間の優しさが胸を打つ、極めて忘れ難く印象的なものとして描かれていて、如何にも見え透いた伏線ながら、不自然さが殆んど感じられない。こういう部分がチュフライの演出の魔術の一つであると言える。なお、セルゲイは、最初のジープの救助の押しの際に参加した兵の一人であるかもしれないし、無関係なのかも知れない。アリョーシャが結局、依頼を受け入れるところからは、最初に多くの兵が押した中の一人と解釈する方が自然ではあるが、そうするとセルゲイ役の俳優の衣裳はもっと川水や泥に濡れ汚れてしまっていなくてはいけないはずだから、私は実際の撮影では少なくとも彼は押した兵士の中には含まれていなかったものと考えている。この後の展開から見ると、この一隊は渡渉したその岸で小休止をとっていたものと考えないとおかしい(事実、向こう岸に動かない一団が見える)。だから戻ってくることが出来もしたのだし、また、セルゲイの後を追って何人もの同小隊の仲間や、曹長(小隊長の下)までもが追い駈けてくることが出来たのである。

 また、

 仲間の兵士2「石鹸は今や『高級品』(デリカシィ)だからね!」

 仲間の兵士4「いや! 『不足品』(デフィシィト)だね! あんた、アホか!」

という部分の訳は私のオリジナルである。この

деликатный”(英語“delicacy”)

дефицит”(英語“deficit”)

に掛けた部分は、英文字幕の綴りとロシア語の発音から気づき、こうした訳を捻り出してみた。大方の御批判を俟つものである。

 本パートの最後の部分であるが、ここは、ジープやアリョーシャの動きのやや不自然な印象から、私はチュフライは少しだけ低速度撮影を行っているように感じている。則ち、スピード感を出すため以上に、アリョーシャ役のウラジミール・イワショフが貨車に飛び乗るという部分(ここはスタントを使っているとは思われない)での安全性を考えて貨車のスピードを落とさざるを得なかったからではないかと私は考えている。

 以下、文学シナリオを見てみよう。かなり異なっていることが一目瞭然である。

   《引用開始》

 前線からの道路をトラックが疾走している。その運転台に運転手と並んでアレクセイ・スクヴォルツォフが座っている。

 運転手は陽気に頭を動かしている。

 ――二日間家にいられるなんて!……。誰に話したって信ずるものか。途中を節約すれば三日間に延ばすことだってできる……そうだろう。

 ――汽車に間に合えばよいが。

 微笑しながらアレクセイが話す。

 運転手は、自由にしている片手で安心させる仕草する。

 ――時計のようなものだ……!

 彼は話しながら、警笛を鳴らす。

 前線へ向かう歩兵部隊が彼等に道をゆずって、道端へ避ける。

 ――多分、〈彼女〉にかけ寄ることだろう!

 運転手は続ける。

 ――誰にだって。

 ――誰か、分かってるじゃないか!

 運転手は笑って目配せした。

 ――恋人が待ってるだろう!

 ――いや、私には恋人はない。

 アレクセイは狼狽して言った。

 ――ふうん、そうかい!

 運転手は驚いて、アレクセイを見た。

 ――誰に会いに行くんだ。

 ――-お母さんだ。

 ――お母さん、それは勿論だ。だが、恋人がいないなんて?!

 運転手はちぢれ毛の頭をひねった。

 ――ああ、俺にもこんな幸運があればいいな。今頃は、トラクター・ステーションにいて……。そこには俺のグルニャ-シャという連結係の娘がいる……! お前の専門はなんだね。

 ――何にもない……。私は学校にいた。そして、すぐ戦場だ。

 ――するとお前はどういう人間なんだ、一体。

 運転手は冗談を言った。

 ――娘っ子もいない。職業もない。そして恐らく、ウオッカも飲まないだろう。

 ――何故ですか……。

 アレクセイは、不審に思って尋ねた。

 ――私は飲まないと顔に書いてある。

 運転手は、面倒臭そうに言った。

 ――だから休暇が貰えたのだろう……俺が休暇を貰ったら、きっと三日間飲み続けだ。

 沼沢地を埋立道路が通っている。埋立道路の一方から自動車が入ってくると、別の方から重牽引車の縦隊の先項が入って来る。両方がすれ違うことは出来ない。重牽引車から手を振っている人が、何か叫んでいる。運転手は頑固に頭を横に振った。

 ――ちょっと持て。証明書をよこせ。

アレクセイの休暇証明書を取ると、運転手は自動車から飛び出し、それを振り回しながら、牽引車の方へかけて行った。アレクセイは、自動車の中に残された。彼は、運転手が先頭の牽引車によじ登り、アレクセイを指しながら何かを説明しているのを見ていた。しばらくして、運転手は地上に飛び降り、自動車に走って戻って来た。

 するとが〈奇跡〉が起った。重牽引車は警笛を鳴らしながら後退し、トラックに道を空けた。

 ――当たり前だ! この証明書なら飛行機で飛ぶこともできる!

 運転手は車を動かしながら朗らかに言った。

   《引用中断》

  運転手との会話は総て本編ではカットされている。このやりとりはアリョーシャという青年の初(うぶ)な性格を非常に分かり易く『説明』はしている。これによって主人公アリョーシャの無垢性を観客はより形成し易くはする。しかし、やはりこれは小説的であって、映画では冗長で、時に言わずもがなの退屈さを覚えてしまうに違いない。

 確かにここでは、この運転手が驚くべき休暇を手に入れたアリョーシャを何とか予定の列車に乗せようと一生懸命になってやろうと思う感じが、『説明的に』腑に落ちるのだが、しかし完成作のようにただ疾走するジープによって、それは実は映画的は十全に理解出来るのである。

 そもそもシナリオのままでは、アリョーシャに助力する男の物語(これは続くシナリオ部でも明らかである)となって、アリョーシャは受け身のそれとして舞台の奥に下がってしまうのである。本作はあくまでアリョーシャの心の鏡を通した物語でなくてはならない。

 だが、それでは少し運転手の苦労が報われないと思われる向きもあろう。それを補填するのが実はあの三叉路の女性兵士のシーンではなかったか? あそこで運転手がさっと手を挙げて「悪いな!」と抜けてゆき、女性兵士が左手で怒りの拳を挙げるのは、実はこの運転手と彼女が知り合いであることを私は暗示しているように思われる、とすれば――この女性兵士は――この文学シナリオに運転手の回想の台詞のみに登場する「トラクター・ステーション」の「グルニャ-シャという連結係の娘」のオマージュなのではなかったか――と私は勝手に思い込んでいるのである……。

   《引用再開》

 前線間近の破壊された駅。数台の貨車が停車しており、その中から兵隊達が長細い箱を降ろしている。数人が湯わかし器のところで、水を飲み、顔を洗っている。

 ここへ、自動車が走り込んで来る。自動車から飛び降りたアレクセイと運転手は、プラットフォームヘ駆けて行く。

 汽車はいない。

 ――おっさん、汽車はどこにいるんだい。

 そばを通りすぎる初老の鉄道員に運転手は尋ねた。

 鉄道員は立ちどまり、冷淡に二人を眺める。

 ――どの汽車だね。

 ――二時四〇分発のボリソフ行きだ。

 ――ああ、それか……。それはまだ到着していない。

 鉄道員は言った。

 ――どうしてだい。

 ――知らないのかね。ドイツが線路を爆撃したのさ。

 ――一体いつ到着するんだ。

 ――今日の夕方かもしれんし、あるいは明日の朝になるかもしれん。

 こう言うと、鉄道員は自分の道を歩いて行った。

 ――とんだ節約だ!

 アレクセイは絶望的に手を振ると、レールの上に座った。運転手は悔しがって地団駄を踏んだ。

 ――おい! 若いの、君たちの車ではないか。

 プラットホ-ムから誰かが彼等に向って叫んだ。

 ――私たちのだが。あなたはサモイレンコではないか。

 運転手は答えた。

 ――そうだ。車を貸してくれ。荷物を積み込むのだ。

 サモイレンコともう二、三人の兵士が運転手のところにやって来た。

 ――何を探しているんだ。

 ――何にも探していない。全く馬鹿げたことなんだ。若者が二日の休暇を貰ったんだ。

 運転手は答えた。

 ――ふう。お前か! 運のいい奴め!

 誰かが叫んだ。

 ――運がいいって……まだ、こっちから動けないでいるんだ。もう半日無駄にしてしまった。汽車はまだ到着しない。いつになるか分からない。

 ――ところでどうして休暇が貰えたんだ?

 ――何のためなんてどうでもいい。戦車を二台やっつけたんだ。問題は、今どうすればいいかということなんだ。彼はゲオルギエフスカに行かねばならない。しかも途中二日かかるんだ。

 ――君はここで待っているべきじゃないかな。バコフカに行け。そこには日に三本汽車がある。ここは支線だ。

 ――バコフカまでは遠いか。

 運転手は聞いた。

 ――三十キロだから、ゆっくり行ける。

 ――行こう。

 運転手は断固として言うと、すぐに自動車のところに走った。アレクセイも彼に続いた。

 ――待て、積荷はどうするんだ。

 サモイレンコは急に思い付いて言った。

 ――一時間後には戻って来る。積荷は急がないのだから、待っててくれ。

 ――きっとだぞ、忘れるな!

 運転手は手を振った。

 ――将軍の命令だ!

 アレクセイと運転手は、もう自動車の近くまで来ていた。すると、後ろから呼びかける声が聞こえた。

 ――待ってくれ! ちょっと待ってくれ!

 三十才位の背の低い歩兵の兵士が息を切ってアレクセイのところに駆けて来た。

 ――君が休暇で行くのかね。

 ――そうです。

 ――ウズロヴュを通るかね。

 ――通ります。

 ――どうか! この住所へ寄ってくれ。

 彼は封筒の裏のアドレスを切り取り、それをアレクセイに渡す。

 ――何ですか。私にはそんな暇がないんです。

 アレクセイは自動車に乗ろうとするが、歩兵は彼を離さなかった。

 ――そこでは汽車が三十分停車する。私の家は停車場のすぐ近くだ。三分で行ける。お願いだ。立ち寄ってくれ!

 歩兵は嘆願した。

 ――では寄りますが、何を渡すんですか。

 アレクセイは降参した。

 歩兵の目は喜びに輝いた。

 ――私に会ったことを話してくれ。分かったかね。

 彼は自分の胸や肩を叩き、それによって自分の存在を証明するかのように振る舞った。

 ――妻のリーザに、セルゲイを見たと言ってくれ。部隊と一緒に前線に行ったと話してくれ。

 部隊の兵士達がアレクセイの周りをぎっしりと取り巻いた。

 ――彼のリザベータの言ってやりな。彼が、彼女のことを詩人のように夜も昼も夢に見ているって!

 あばたの兵士が笑う。

 ――セルゲイ、どんな贈り物を彼女にやるんだ。

 ――ところでどこで買うんだ。給料全部はたいて買うのか。

 ――私は行きます。

 アレクセイはそう言って自動車に乗ろうとするが、再び人々が彼を引き留める。

 ――ちょっと待ってくれ!……隊長、セルゲイに石鹸を一つやって下さい。

 ――彼の女房に贈り物をさせてやって下さい。

 ――彼には八分の一個が割当だ。

 ――石鹸を一つやって下さいよ。

 ――ばかな! 部隊に二個の石鹸しかない。

 ――その一つでいいんですよ。

 ――そんなことはできない。

 アレクセイは自動車の所へ行きドアを開けた。

 ――若いの、ちょっと待ってくれ。隊長が石鹸を出すから……けちけちせずに、やって下さいよ。

 ――やって下さい。我々はなくてもいいんです!

 一斉にみんなが叫んだ。

 隊長は自分の雑嚢から石鹸を一つ出し、それをアレクセイに渡した。

 ――二つ目もやって下さい!

 若いグルジャ人が調子高い声で言った。

 ――何だってお前。

 隊長は隊員の思いやりを訝った。

 ――贈り物するなら、こうして贈った方がよい!

 グルジャ人が言うと、またみんなが彼に賛成した。隊長は腹を立てた。

 ――このうえ何をしろと言うんだ!

 そして、彼はそそくさともう一つの石鹸をアレクセイの手に押し込んだ。

 アレクセイは運転台によじ登った。若い兵士が後のドアを閉めた。

 ――いいかい!

 運転手はそう言って自動車を動かした。

 ――チェホフ街、七番地!

 歩兵の兵士は叫んだ。

 ――分かった!

 アレクセイは言った。

 兵士達は、去って行く自動車を明るい顔で見送っていた。みんなが満足であった。一人、隊長だけが陰鬱だった。彼は手を振り回し、残念そうに言った。

 ――我々の石鹸入れが泣いている。……やめろって言うんだ。

   《引用中断》

 御覧の通り、ここのシナリオでは列車の普通という第一障碍を描くことが前半の、そして駅頭というしょぼいシチュエーションでのセルゲイの伏線部が後半となっているが、シナリオと完成作品と――最早どちらがというレベルでさえないことは衆目の一致するところであろう。

   《引用再開》

 自動車は再び、走って行く。

 水中に落ちた橋。道は浅瀬を通っている。

 自動車は全速力で川に入る。しかし、真中のところで止まる。モーターが唸る。運転手も兵士も、二人とも直ぐ川に飛び降りる。運転手はエンジンに身体を突っ込んで絶望的に両手を振りながらアレクセイに何か言っている。事情を飲み込んだアレクセイは、運転手に別れを告げると岸に向かって走る。

 道、兵士が駆けて行く。

 森の空地。疲労に耐えて兵士が走って行く……。

 蒸気機関車の汽笛が聞こえる。

 アレクセイは道から脇に入り、真っすぐ、茂みを突き抜けて駆けて行く。

 森かげから汽車が現れてくる。

 アレクセイは、汽車に向かって一直線に駆けて行く。しかし、堤の傾斜で足を滑らせる。その時、汽車はもう彼の上に轟音をたてている。

 彼の傍らを油槽車や貨車ががたがたと通り過ぎて行く。呼吸を整えて、アレクセイは一台の貨車の手摺りにつかまり、それにぶら下がる。汽車は兵士を乗せて去って行く。

   《引用終了》

 川はシナリオではこう使われていたのであった。走るアリョーシャはもしかすると、休暇の終わりとなってしまうエンディングの母の走りと対応した額縁を意識したものかも知れないが、アリョーシャの走りはすでに、戦車に追われるシークエンスにたっぷりとあった。これは、なくてよいのである。

 さあ……「休暇」はまだ……始まったばかりなのだ。……

われを思ふ人を思はぬ報にやわが思ふ人のわれを思はぬ 萩原朔太郎 (評釈)

  われを思ふ人を思はぬ報(むくい)にやわが思ふ人のわれを思はぬ

 

 これは歌と言ふべき者でなく、むしろ歌の形式を借りた一種の箴言と見るべきだらう。勿論詩的價値はゼロであるが、觀念的には戀の不思議な眞相を穿つて居る。

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年第一書房刊「恋愛名歌集」の「古今集」の部の掉尾。「むくい」はママ。一般に「思はば」は「もはば」と詠む。当該歌は「古今和歌集」の「卷第十九 雜躰」の一〇四一番歌の「よみ人知らず」の和歌で、前の一〇三七番歌以降ここまでの「読人知らず」五首は以下に見るように一連の一般的恋愛通念を皮肉った類似性の強い恋愛アフォリズム的和歌群の掉尾に配された和歌である(引用は岩波新日本古典文学大系版を正字化して示したが、読みの一部は省略した。また、後の語注では一部で底本の注を参考にした)、

 ことならば思はずとやは言ひはてぬなぞ世中(よのなか)の玉襷(たまだすき)なる

 思ふてふ人の心のくまごとに立(たち)ちかくれつゝ見るよしも哉(がな)

 思へども思はずとのみ言ふなれば否(いな)や思はじ思ふかひなし

 我をのみ思ふと言はばあるべきをいでや心は大幣(おほぬさ)にして

 我を思ふ人を思はぬ報ひにや我が思ふ人の我をおもはぬ

第一首(一〇三七番歌)の「ことならば」は「如ならば」で、同じことなら、の意。「玉襷」は本来は真心込めて対象に対して思いを掛けるの意の歌語であるのを逆に反則的に使用していい加減な、中途半端な、の意で用いている。
第二首(一〇三八番歌)は相手の心の隅々にまで隠れ潜んでその真意をすべて知りたいという。相手の心底を隈なく知ろうとすることは恋愛の情趣から著しく逸脱する。
第三首(一〇三九番歌)の「否や」は拒絶表現で、この歌主は恋愛の「かひ(甲斐/効)」、思いを掛けて努力した結果として代償、期待出来るだけの価値を恋愛に求めている。これは万葉以来の「あやめも知らぬ恋」(道理の通らない盲目的恋)の伝統から外れる。
第四首(一〇四〇番歌)の「いでや」は相手への抗議口調の呼びかけで、「大幣」とは宮中行事の大祓(おおはらえ)で用いられるもので、祭儀中に人々が寄って集(たか)って引き寄せて自身の穢れをそれに移し、後に川に流した大きな幣。そこから、引く手数多の浮気っぽい相手をシンボライズした。古来、恋は一途なものでなくてはならなかった。
本第五首はいわば、以上のまさに「道」ならぬ不満たらたらの恋愛不具合は、いや、まさに「道」から外れたものであるゆえに仏さまの因果応報の罰がかく下るのかと、再びものほしげな不満を込めているようにも思える。確かに詩想には欠けるものの和歌嫌いの私などには現代人に共通する『戀の不思議な眞相』の本音の喜劇性と歌語を逆手に取った俳諧的諧謔味があって頗る面白く感じられる歌群である。]

フヱアリの 國   八木重吉

夕ぐれ

夏のしげみを ゆくひとこそ

しづかなる しげみの

はるかなる奧に フヱアリの 國をかんずる

鬼城句集 冬之部 祝月

冬之部

 冬之部

  時候

祝月    祝月緋綿も見えて綿屋かな

[やぶちゃん注:「祝月」は斎月とも書き、「いはひづき(いわいづき)」と読む。特に斎(い)み慎む月と考えられた一月・五月・九月の異称でその月の一日には身なりを整えて祝ったり、社寺へ参ったりした。後には目出度過ぎる月の意に転じて婚礼等を控える月とした。ただ、この場合、一月では「新年之部」となり、実際に歳時記は皆、「祝月」を新年の部に入れる。冬の冒頭にこれを配した意図はやや不審である。新暦の一月を現代俳句の「冬」の季節と捉えようとする鬼城の現実に即した主張にしては「鬼城句集」には「新年之部」があるからおかしい。ということは、この「祝月」は旧暦の九月一日で新暦では冬であった年の叙景か? 試みに「鬼城句集」(大正六(一九一七)年刊)の直近で調べて見ると、二年前の大正四(一九一五年)が旧暦九月一日が新暦十月九日、大正三年が旧暦九月一日が新暦十月十九日に相当する。句は満を持して目出度い緋綿を用意して「祝月」の過ぎるのを待つ綿屋の景か? 識者の御教授を乞うものである。]

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