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2013/12/30

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 海水浴場

    ●海水浴場

近年鵠沼村の海濱を以て。海水浴場に充て。紅旗を樹て之を標せり。海は遠淺にして岩石なかえれば。游浴に適せり。故に朝より麥藁帽子をまぶかにいたゞき。單衣に兵兒帶をしめたる婦人各々旅館を出て相伴ふて此處に來る。背後より見れば。男子に異ならず。故に初游の客(かう)は輕しく。辭(ことば)をかけ。そのふりむくを見て始て婀娜(あな)たる顏(かんばせ)を拜(はい)し。一驚を喫することあり。此等の風俗は東京にては絶えて見ることを得ざるもの。こればかりにても來游の價値あり。

沙濱には。葭子(よしず)をかけて茶亭を搆(かま)へ。菓子幷にラムネ等を鬻ぐものあり。全く浴客(よくかく)の愛顧を待(まつ)て。其の日を送るなり。薄暮客散するの後。諸具を收めて去る。それより旭の富士山に映じて紫色を生するに至る間は。茶煙(ちやえん)影(かげ)なくして。全く群蟹の游戯場たり。

[やぶちゃん注:ウィキの「片瀬西浜・鵠沼海水浴場によれば、『明治中期までは海岸一帯は地曳き網の漁場があったのみで、無人地帯だった』とあり、これはE.S.モース「日本その日その日」にも挿絵入りで描かれている(これは明治一〇(一八七七)年の夏の情景である。リンク先は石川欣一訳の同書の「第七章 江ノ島に於る採集」の地引網見学の一コマ。私の評釈付きテクストであるので是非ご覧あれ)。これは『江戸時代、幕府の相州炮術調練場(鉄炮場)だったからである』。明治二〇(一八八七)年の鉄道開通を見越して、地元有力者の手で海岸の開発が企てられ、明治一九(一八八六)年七月十八日に早くも『腰越の漢方医三留栄三の提唱で「鵠沼海岸海水浴場」が開設される。ところが、海水浴場開きの当日、三留医師は飲酒後に海に入り、急死したという』。『海水浴客受け入れのために旅館「鵠沼館」が開業し、数年の間に「対江館」、「東屋」も開業した。また、鵠沼南部の農家の中には、貸別荘風の家作を建てるものも現れた』。明治三四(一九〇一)年の夏には、画家の『川合玉堂が対江館に来遊し、『清風涼波』の絵巻を制作し』ており、これによって『明治時代の海水浴の風俗を知ることができる。一方、この頃鵠沼で少女時代を送った小説家内藤千代子は、海水浴場の賑わいと「板子乗り」の楽しさを描いている』。明治三五(一九〇二)年九月一日、『江ノ島電氣鐵道が開通し、鵠沼海岸別荘地の開発が本格化すると共に、海水浴場へのアクセスも改善された。しかし、明治、大正期の海水浴は、旅館や別荘に滞在するのが一般的だった』。少しだけ先のことを述べておくと、大正一二(一九二三)年九月一日の『大正関東地震(関東大震災)による地盤の隆起は鵠沼海岸で約』九十センチメートル『と想定され、大幅な海退により砂浜の面積が拡がった』とある。現在もここは『日本最大の集客力を誇る海水浴場である』と冒頭にある。 「婀娜(あな)」はママ。「あた」「あだ」の誤植であろう。

「葭子(よしず)」のルビは「よんず」としか読めないが、流石にこれは訂した。]

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