『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 22 龍口寺 / 龍口明神社~『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」江の島の部 完遂
●龍口明神社
龍口明神社は。同所山上に在り。津村腰越兩村の鎭守なり。傳へいふ、欽明天皇十三年。江島神女の靈感にりて降伏せし深澤の毒龍(どくりう)を祀れりと。例祭は九月九日なり。
[やぶちゃん注:現在はかなり離れた(直線距離で一・八キロメートル)、龍口寺の背後の山を越えた、湘南モノレール西鎌倉駅から東北東へ徒歩約五分ほどの場所に遷宮している(かなり立派な造りである)。鎌倉市腰越「龍口寺」公式サイトの境内案内によれば、境内の仁王門の左手の岡の上に「元 龍口明神社」とあり、『この地には、目の前の江ノ島に住む弁財天に恋をした五頭龍伝承が残る。山に姿を変えた五頭龍の口にあたる部分にだから、「龍口」との名前が付いたという。その五頭龍を祀ったのが、龍口明神社。昭和53年に、遷宮されている』とあって、「龍口明神社」の公式ウェブサイトがリンクされてある。神仏分離令を経てもなお、昭和五三(一九七八)年まで龍口寺境内の一画にあった(というか、驚くべきことに多くの地図類には今も跡地に神社記号があってしかも元と冠さずに「龍口明神社」と明記されてある)という、これについては「龍口明神社」公式サイトによれば、
《引用開始》
鎌倉時代には龍口山にほど近いところが刑場として使用された時期もあり、村人たちは祟りを恐れていたといいます。
また、昭和二十二年(一九四七年)には、龍口山が片瀬村(現藤沢市片瀬)に編入されて以降、境内地のみ津村の飛び地として扱われ、大正十二年 (一九二三年)には、関東大震災により全壊、昭和八年 (一九三三年)に龍口の在のままで改築しました。
太平洋戦争後のめざましい復興により、交通事情も悪くなり、神輿渡御も難しく、氏子の里へ昭和五三年(一九七八年)に村人達の総意により江の島を遠望し、龍の胴にあたる現在の地へと移転しました。
なお移転後の現在も、旧境内は鎌倉市津1番地として飛び地のまま残っており、社殿・鳥居なども、移転前の姿で残されています。
《引用終了》
という記述でやっと納得し得た。祭神は神武天皇母で海神族の祖先として龍神として崇められた玉依姫命(たまよりひめのみこと)と、この地に伝わる五頭龍と弁財天伝説に登場する一身五頭の龍神五頭龍大神(ごずりゅうおおかみ)でこの話については、
《引用開始》
その昔、武蔵国と相模国の国境付近の長大な湖に五頭龍が棲んでいました。国土を荒らし、暴悪を働き、人々を苦しめ、遂には津村の湊に出て子供を食べるようになりました。
そんなある時、天地雷鳴し大地震が国土を揺るがし、江の島が湧き出し、空から十五童子従えた弁財天が降臨されました。弁財天の美しさにひかれ、思いをよせた五頭龍であったが、弁財天に戒められ、その後は行いを改めよく人々を助け慈悲の徳を施すようになりました。
その後、弁財天と誓いを(結婚)なして山と化し、人々を災害から守り、国家安泰の神「五頭龍大神」となりました。
《引用終了》
とある。この弁天と毒龍の話は、「新編鎌倉志卷之六」の江の島の項の冒頭部分にも、
*
緣起あり。其略に云く、「此所、景行天皇の御宇に、龍の暴惡熾(さか)んなり。安康天皇の御宇に、龍鬼あり。圓(つぶら)の大臣に託して暴惡をなす。是れ人に託して煩はしむる始めなり。武烈天皇の御宇に、龍鬼又金村(かなむら)大臣に託して惱ます。此時五頭の龍、始めて津村(つむら)の湊(みなと)に出入して人の兒(ちご)を喰ふ。時に長者あり。子十六人ありけるに、皆毒龍の爲に呑まれぬ。西の里にうづむ。長者が塚(つか)と云ふ。欽明天皇十三、壬申の年四月十二日より、廿三日に至て、大地震動して、天女雲上にあらはる。其後海上に忽ち一島をなせり。是を江の島と云ふ。十二の鸕鶿(う)、島の上に降る。故に鸕鶿(う)來(き)島(しま)とも云ふ。此島の上に天女降り居し給へり。遂に毒龍と夫婦となれり。
*
と記す。具体な神社創建の由緒は同公式サイトに以下のようにある。
《引用開始》
欽明十三年(五五二年)、村人達は山となった五頭龍大神を祀るために龍口山の龍の口に当たるところに社を建て、子死方明神や白髭明神と言いました。これが龍口明神社の発祥と伝えられています。
養老七年(七二三年)三月より九月まで江の島岩窟中にて、泰澄大師が神行修行中夢枕に現れた神々を彫刻し、弁財天は江島明神へ、玉依姫命(長さ五寸(約15cm))と五頭龍大神(同一尺(約30cm))の御木像を白鬚明神へ納めたといわれています(これが御神体です)。この時、龍口明神社と名付けられたと伝えられています。
また、弘安五年(一二八二年)に一遍が龍の口にて念仏勧化を行った様子が、国宝『一遍聖絵』に描かれ、北条時政は江の島に参籠して、奇瑞を蒙り、龍の三つ鱗を授けられ、それを家紋としました(当社・江島神社の社紋も三つ鱗)。
いつの頃より六十年毎に還暦巳年祭が行われるようになり、近年では昭和四年・平成元年に賑々しく斎行されました。また、平成十三年には御鎮座千四百五十年祭が斎行され、この時と還暦巳年祭に限り五頭龍大神の御神体が御開帳され江島弁財天と共に江島神社中津宮に安置されます。
龍口明神社は昭和五十三年、龍の胴に当たる現在の地に御遷座され、日本三大弁財天として名高い江島神社と夫婦神社として人々に崇敬されています。
《引用終了》
「新編鎌倉志卷之六」の龍口明神の項には、
*
龍口明神 寺の東、山の上にあり。注畫讚に云く、「欽明天皇十三年四月十二日、此土に天女降り居す。是辨才天女の應作なり。此の湖水の惡龍、遙に天女の美質を見、竊(ひそか)に感じて天女の所に至る。天女不快にして曰く、『我に本誓あり、普く群生を救ふ、汝(なんぢ)慈憐なくして生命を斷つ。何ぞ好逑(こうきう)ならん』と。龍曰く、『我(われ)教命に任(まか)せん、自今以後、物のために毒をせずして哀憐を埀れん』と。天女、則ち諾(だく)す。龍又誓ひを立て、南に向て山をなす。龍口山、是也。此の事【江の島の縁起】にも見へたり。江の島は此寺の南の海中にあり。
*
とある。「好逑」は良き連れ合い、理想的な配偶者の意である。ただ、遷宮している新しい神社の方には前の道は何度も通ったものの、私は未だ参ったことはない。]
« 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 36 虫下し 附 やぶちゃんのポキールの思い出 | トップページ | 530000アクセス突破 »