北條九代記 院宣 付 推松使節 竝 二位禪尼評定 承久の乱【十一】――三浦義村、院方の弟胤義の同盟を慫慂する私信を拒絶し、北条義時に報告、義時、院宣使推松を探索の上、捕縛す
平九郎判官胤義が、私(わたくし)の使を相副へて、同五月十五日都を出でて、同じき十九日鎌倉に著きて、駿河守にかくと告げたりければ、文を披見して、使をば追出し、駿河守義村は、權〔の〕大夫義時の許へ行きて、胤義が文を見せまみらせ、「世の中こそ亂れて候へ。去ぬる十五日、伊賀判官光季は打たれて候。義村に於いては、故右大將家平氏御追罸(つゐばつ)よりこの方度々の軍に忠義を致し、一度も不忠を存ぜす候。今より後も疎略を存すべからず」とて、誓言(せいごん)を以て、申し入れたり。義時打笑ひて、「さては心安く候、今まで此事の出來候はぬこそ不思議なれ。是は豫(かね)てより存知したることなり、今は院宣の御使推松も、鎌倉に入りぬらん」とて、尋ね搜されしに、笠井谷(かさいがやつ)より捕へて來りぬ。
[やぶちゃん注:〈承久の乱【十一】――三浦義村、院方の弟胤義の同盟を慫慂する私信を拒絶し、北条義時に報告、義時、院宣使推松を探索の上、捕縛す〉
「平九郎判官胤義が、私の使を相副へて」推松とは別にもう一人、プライベートな使者を兄三浦義村に立てたのである。胤義は先に見たように、秀康との謀叛謀議の初めから、「一天の君の思召立せ給はんに、何條叶はぬやうの候はん。日本國重代の侍共勅を承らんには誰か背き奉るべきや。」というとんでもなくお目出度い楽観論を述べた直後に、「拙者の兄にて御座る三浦駿河守義村などと申す輩は、これ、極めつけの愚昧の者にて御座る。こいつを味方に招じ入れて、『そなたを日本国の総追捕使にしておじゃる』などと仰せられて、鼻薬を嗅がせてやったれば、喜んで御味方に推参仕ること、これ必定で御座る。胤義も内密に奴(きゃつ)申し遣しておきましょうぞ。さあさ! 早う謀議の秘計をお廻らしなさいませ!」などと言っていた。これが具体なそれである。ただ、恐らくは謀議の間にもそれとなく義村への暗示的な慫慂は波状的にかけていたものと私は推理する。三浦義村という男は実朝暗殺後に於ける乳母子公暁誅殺伺などの一件を見ても分かるように、一筋縄ではいかないポーカー・フェイスの策士でもあった。逆にそれに気づかなかった胤義こそがいい面の皮、「極て嗚呼の者」だったのである。
「笠井谷」後に東勝寺が建立された葛西ヶ谷の誤り(後に載せる「吾妻鏡」巻二十五の承久三年(一二二一)年五月十九日の条にかくある)。「鎌倉攬勝考卷之一」に、
葛西ケ谷 大倉辻寶戒寺のうしろにて、此寺の境内となれり。傳へいふ、治承以來、葛西三郎淸重に給ひし地ゆへ葛西ケ谷とは號せりとぞ。
とある。「葛西三郎淸重」(応保元(一一六一)年?~暦仁元(一二三八)年?)は頼朝挙兵直後から付き従った武将で、幕府初期の重臣の一人。文治五(一一八九)年の奥州藤原氏討伐では父清元とともに抜け駆けの先陣を果たして奮戦、讃えられた。頼朝没後は北条氏に近い立場をとって信頼を勝ち取り、建暦三(一二一三)年の和田合戦でも武功を挙げている。この頃は出家して壹岐守入道定蓮と名乗っていた。前に引用した古活字本「承久記」では院宣を下したとする七名の最後に名が挙がっているから、この捕縛場所は自然である。そもそも慈光寺本では『壱岐ノ入道ノ宿所ヨリ、押松尋出(たづねいだ)シテ』とある。
以下、「承久記」(底本の編者番号27のパート半ばから28)を示す。直接話法部分を改行した。
平九郎判官、私ノ使ヲ相添テ、承久三年五月十五日ノ酉刻ニ都ヲ出テ、劣ラジ負ジト下ケル程ニ、同十九日ノ午刻ニ、鎌倉近ウ片瀨ト云所ニ走付タリ。
平九郎判官ノ使ハ案内者ニテ、先ニ鎌倉へ走入テ駿河守ニ文ヲ付タレバ、披見シテ、
「返事申ベケレドモ、道ノ程モハヾカラ敷間、態ト申サヌナリ」
トテ追出シヌ。
駿河守、此文ヲカイ卷テ、權大夫ノ許へ持向へ、
「已ニ世中コソ亂テ候へ。去十五日光季被ㇾ打ヌ。胤義ガ私ノ文、御覽候へ」
トテ、權大夫義時、折節、諸人對面ノ前ニ引ヒロゲテ差置タリ。
權大夫、
「サテハ御邊ノ手ニコソ懸リ進ラセ候ハンズラメ」。
三浦駿河守打退テ、
「是コソ、エ存候へドモ、平家追討ヨリ以來、度々ノ戰ニ忠節ヲ致シ、一度モ不忠ノ儀候ハズ。自今以後モ又疎略ヲ不ㇾ可ㇾ存。若僞申事候ハヾ、遠クハ熊野ノ山嶽、近クハ伊豆・筥根、別シテハ若宮三所・足柄・松童、殊更奉ㇾ賴三浦十二天・栗濱・森山、惣ジテハ日本國中ノ大小ノ神祀・冥道、チケンシ給へ。御後ロメタナキ事不ㇾ候」トゾ申ケル。
權大夫打笑テ、「サテハ心安候。今迄、此事ノ出來候ハヌコソ、不思議ニ候へ。是ハ兼テヨリ存タル事也。今ハ推松モ鎌倉へ入ンズラン。尋ヨ」トテ被ㇾ尋ケリ。推松、人ノ氣色替リ、何トナク騷ギケレバ、アル者ノ許ニ隱ㇾ居クリケルヲ、一々ニ鎌倉中ヲサガシケレバ、笠井ノ谷ヨリ尋出シ、引ハリ先ニ立テゾ參ケル。院宣共奪取ガ如シテ、大ガヒバカリヨマセテ後ニ燒捨ラレヌ。
●「返事申ベケレドモ、道ノ程モハヾカラ敷間、態ト申サヌナリ」は、
「胤義儀へ返答を致すべきところではあるが、京への道中、誰何(すいか)検問なども憚らるるにつき、わざと返事は致さぬぞ。」
という謂い。慈光寺本は、
「關々(せきぜき)ノキビシキケレバ、返事ハセヌゾ。平九郎ニハ、サ聞(きき)ツト許(ばかり)云ヘヨ。」トテ、弟ノ使ヲ上(のぼせ)ラル。
と、義村の狡猾な深謀遠慮がその玉虫色の発言により感じられて分かり易い。「上(のぼ)ラル」は京へ返させた、の意。
●「松童」は「まつだう(まつどう)」と読む。八幡に付随する社。「新編鎌倉志卷之一」の鶴岡八幡宮の「松童・天神・源太夫(げんたいふ)・夷(エビス)三郎の社」の項に、
天照大神の西にあり。四神同社也。松童(マツドウ)は、【八幡宮記】に、八幡の牛飼(ウシカヒ)也とあり。
と記す。
●「三浦十二天」鎌倉市十二所にある十二所神社の平安期からの古称。明治初期の頃まで三浦十二天又は十二天明神と呼ばれた。祭祀年代については不明であるが、現在の大楠小学校門前に城山と言われている台地があり、そこに義村の祖父義明の弟三郎為清の鎮守として祭られたとも言われており、三浦氏所縁の社であったことが窺われる。
●「栗濱」栗浜大明神、現在の久里浜市にある住吉神社のことかと思われる。同社の由緒によれば、三浦一族の水軍の船霊として信仰された社で、治承四(一一八〇)年に義村の父義澄が衣笠城落城の前夜に一族郎党を引き連れてここに祈願し、山頂の松に幟を立てて(「旗掛けの松」と呼ぶ)、頼朝と共に房州に渡った(祖父は独り城を守って討死した)。因縁の社であったことから、三浦氏だけでなく源氏や北条氏の尊崇も厚かった。
●「森山」三浦郡葉山町一色にある森山神社のことと思われる。「新編鎌倉志卷七」の「佐賀岡」の項に、
〇佐賀岡〔附世計の明神〕 佐賀〔或作下(或は下(さが)に作る)。〕は、心無村(しんなしむら)の南なり。是より三崎へ行く也。【東鑑】に、治承五年六月、賴朝、三浦に渡御給ふ。上總の介廣常、佐賀岡の濵に參會すとあるは此の濵也。此の所に佐賀岡の明神と云あり。守山大明神と號す。逗子村延命院の末寺、玉藏院の持分なり。里俗、世計(よばかり)の明神と云ふ。毎年霜月十五日、酒を作り置き、翌年正月十五日に、明神へ供す。酒の善惡に依て、戌の豐凶を計り知る。故に世計の明神と云ふ。昔し此の神、海上に出現す。其座石とて社前にあり。良辨僧正の勸請と云ふ。社領三石の御朱印あり。
とある。以下、私の附した注を引用しておく。『森山神社として葉山に現存する。正式名称は森山社といい、社伝による祭神は奇稲田姫命、創建は天平勝宝(七四九)
年に東大寺開山の華厳僧良弁(ろうべん 持統天皇三(六八九)年~宝亀四(七七四)年)によって勧請されたとする(彼は鎌倉生ともされる)。往古は「守山大明神」「佐賀岡明神」と呼ばれ、現在の三ヶ岡大峰山(森山神社の西北に位置する山)にあった。察するに、これを「佐賀岡」と古称したらしい。すると先の「心無」に記述する「心無山」とは同地異称か、若しくは「三ヶ岡」という呼称から推測すると、この三ヶ岡大峰山は三つのピークがあり、その最も海岸寄りにあったものを心無山と呼んだのかも知れない。以下、参照した「森山神社例大祭 葉山町一色の森山社(通称・森山神社)例大祭実行委員会の広報」のブログに依れば、この森山社に合祀されている(南方熊楠が憤然と反対した悪名高い明治末の一村一社合祀令によるもの)吾妻社について、祭神は東征伝説所縁の日本武尊、その祠の右側には井戸があり、『日本武尊が東征の途次、こんこんと霊水が湧き出たる、この地で休憩され、走水から上総国へ向かわれたと伝えられて』おり、現在の森山神社の「世計り神事」では『この霊水を汲み上げて持ち帰った水に、麦麹を入れて神殿内に一年間納め、翌年これを検して吉凶を占』うとある。本記載の神事は今も健在であることが分かる』。位置的にもやはり三浦氏所縁の社である。
●「チケン」知見・智見。仏語で事物に対する正しい認識、知識によって得た見解を指す。正智見。
●「引ハリ先ニ立テゾ參ケル」縄で縛って強引に先に追い立てて連行したことを言う。慈光寺本では修飾が入って、『押松尋出(たづねいだ)シテ、天ニモ付(つけ)ズ地ニモ付ズ、琰魔王(えんまわう)の使ノ如(ごとく)シテ參リタリ』
――押松(=推松)を捜し出して、殆んど地面に足をつけさせず、宙天に吊るさんばかりにして、恰も閻魔王の獄卒である牛頭馬頭(ごずめず)が亡者を引っ立てるようにして連行した――
と、まさに情景が目に浮かぶように描かれてある。
●「院宣共奪取ガ如シテ、大ガヒバカリヨマセテ後ニ燒捨ラレヌ」この部分は「北條九代記」では次のパートの頭に移されているのであるが、「承久記」及び「北條九代記」の叙述にはやや問題があるように思われる。その考察は次のパートの注で施すこととする。ともかくも何と、推松を捕縛した直後に義時は、
――七通の院宣総てとその他の所持品を総て毟りとるように推松から奪い、院宣の内容について係りの者にその梗概を読み上げさせた後に、総て焼き捨て遊ばされてしまった。――
と述べていることをご記憶頂きたい。]
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