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2013/12/20

耳嚢 巻之八 古札棟より出て成功の事

  古札棟より出て成功の事

 

 武州葛飾郡大戸金の渡(わたし)の邊に、題經(だいきやう)寺と云ふ法花宗の寺有(ああり)。綾瀨川の最寄にて江戸よりも至(いたつ)て近在なり。彼(かの)寺寛永年中の草創なれど至て貧地にて、寺も破壞なして誠に雨露も凌(しのぎ)かねけるに、住僧は老年にて質朴の僧なりしが、何卒寺建立致度(いたしたく)心懸けたれども心にまかせず。村方の老叟老婆をかたらひ、三年程江戸へ出て勸進なしける。漸(やうやく)金子の三四十も調達して修復に取懸り候處、朽腐(きうふ)強く中々修造も出來かね候間、右金子切(きり)にあやしの住居を取立(とりたて)けるが、彼堂を取崩しける棟の上より、三四尺も有べき古き板を取出しけるに、何か怖ろしき畫像を彫付(ほりつけ)、裏には妙法華經の七字名號ありて、日蓮の名判(なはん)これまた彫付ありしが、何歟(か)是もさだかならねばとり捨(すて)んとせしを、裏なる用水堀にひたし置(おき)ければ、二三日にて文字(もんじ)畫像もあざやかなれば、いかなる佛像にやと、佛師或は佛畫師などによりて尋けれど、しるものさらになし。本山中山(なかやま)の弘經寺へ右板行(はんかう)に寫し押(おし)たるを持(もち)て、貫主は勿論一山の衆僧に見せて判讀せしめしに、何といふ佛と決定(けつぢやう)をいふものなし。しかれども日蓮の正筆には名號まがいなしと人々申ければ、右を板に押てほどこすべしと、講方(こうがた)より申込(まうしこむ)故いなみ難く、押て與へしに、夥しく好む者ありければ、何とやらん山師めきて如何(いかが)と中山へ申立(まうしたて)しに、木板(きいた)は大切いたし可申候得共(まうすべくさふらへども)、板に押(おし)候事を賴來(たのみきた)るをいなみ候も、佛意に叶(かなふ)まじと免(ゆる)しける故あまた押し遣しけるに、或旅僧來りて右の像を見度(たき)とて好(このみ)ける故見せければ、是は帝釋天に紛(まぎれ)なし、世の中僧俗、帝釋の本形(ほんぎやう)をしるものなしといゝけるゆゑ、中山へも其譯申(まうし)けるに、帝釋の像と難極(きはめがたけ)れど、げにや左も有(あり)なんと申しけるが、其後追々繁昌して參詣も多く、帝釋堂抔は途中にも道しるべの石をたて、文化三年の頃は寺も莊嚴(しやうごん)美々敷(びびしく)、今本堂の本尊といふは、右の帝釋天に成りし由。右本堂修造に付(つき)、彼札をとり出せしは天明元年にて、日蓮の五百年季に當れる年の由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。寅さんでお馴染みの柴又帝釈天の中興奇譚。この頃から根岸は日蓮宗嫌いがやや緩和したものか、この一話はかつての日蓮宗絡みの話柄に見られたような、あからさまな嫌悪感の表現はあまり見られない。しかし、質朴と言ったそばから描く住持のしょぼくれた感じや古板のぞんざいな扱い、本山の如何にもなプラグマティクな対応やそこに帝釈天と見切ること出来た学僧がいなかった点、刷仏や刷名号というお手軽な呪符量産によって莫大な富を拵えたことなど、仔細に読むとやはり辛口である。

・「古札棟より」「古札(ふるふだ)、棟(むね)より」と読む。

・「大戸金」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『大戸曲金(まがりかね)』とあって、長谷川氏は、『大戸は奥戸が正しい。曲金村の西の中川に渡船場があった。葛飾区奥戸。』と注しておられる。調べたところ、曲金村は現在の葛飾区高砂二・三・五丁目辺りに相当し、寅さんで知られた矢切の私とは柴又帝釈天を挟んだ反対の、江戸側にある中川にあった渡し場である。訳は奥戸曲金村に訂した。

・「題經寺」東京都葛飾区柴又七丁目にある日蓮宗経栄山題経寺。通称である柴又帝釈天の方が知られる。元は細やかな草庵であったものを、寛永六(一六二九)年に中山法華経寺第十九世禅那院日忠とその弟子題経院日栄の二人の僧が寺として開創した。帝釈天が当寺の本尊と思われがちで、本文同様に「本尊」と記すものもあるが、日蓮宗寺院としての題経寺の真の本尊は帝釈堂隣にある祖師堂に安置された大曼荼羅(中央に南無妙法蓮華経の題目を大書してその周囲に諸仏・菩薩・天神などの名を書したもの)である。十八世紀末の第九世住職日敬(にっきょう)の頃より当寺所蔵の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又の帝釈天」として知られるようになった。この住職が本話の寺僧である。参照したウィキの「柴又帝釈天」によれば、『題経寺の中興の祖とされているのが9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)という僧であり、彼は一時行方不明になっていた「帝釈天の板本尊」を再発見した人物であるとされている。日敬自ら記した縁起によれば、この寺には宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊があったが、長年所在不明になっていた。それが、日敬の時代に、本堂の修理を行ったところ、棟木の上から発見されたという。この板本尊は片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、片面には右手に剣を持った帝釈天像を表したもので、これが発見されたのが安永8年(1779年)の庚申の日であったことから、60日に一度の庚申の日が縁日となった。それから4年ほど経った天明3年(1783年)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広まっていったという。柴又帝釈天が著名になり、門前町が形成されるのもこの時代からと思われる。近隣に数軒ある川魚料理の老舗もおおむねこの頃(18世紀末)の創業を伝えている』とある。

・「綾瀨川」埼玉県及び東京都を流れる利根川水系中川の支流。現在は葛飾区で荒川放水路の左に沿って流れ、葛飾区東四つ木で中川に合流しているが、荒川放水路が開削される前は現在の旧綾瀬川を経由して隅田川に合流していた(ウィキの「綾瀬川」に拠る)。

・「金子の三四十」江戸後期の一両は、物価水準の平均からは凡そ現在の五万円ほどで、二百万円程度では大伽藍の補修などはとても無理である。ちょっとした社寺の本格的改築なら現在は一億円近くはかかるから、当時の全面改装であっても最低でも数百両は必要であったと思われる。

・「三四尺」九十センチから一・二メートルほど。

・「本山中山の弘經寺」題経寺(柴又帝釈天)の旧本山であった千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗大本山である正中山法華経寺の誤り。文応元(一二六〇)年創立。中山法華経寺とも呼ばれる。題経寺はかつてはこの法華経寺の末寺であった(江戸時代に強化された本末制度は宗教内ではなく、幕府による仏教宗派の完全統制にあった)。訳は「中山の法華経寺」と訂した。

・「板行に寫し押たるを持て」「板行」は印刷することを言うから、彫られた名号と花押、神仏に墨を塗って紙に刷り写したものを持って、の意。

・「講方」講は寺社への参詣や寄進などをする信者団体。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『諸方』とある。

・「或旅僧」この僧は真言か天台で密教を学んだ僧と思われる。飄然と現れて名指して消えるというのは同じ日蓮宗の学僧とは思われない。

・「帝釋天」本来はインド最古の聖典「リグ・ヴェーダ」の中で最も多くの賛歌を捧げられているインドラと呼ばれる阿修羅と戦っていた軍神であったが釈尊に帰依して梵天とともに護法善神となったとする。漢訳では釈提桓因(しゃくだいかんにん)と呼ぶ。須弥山頂上三十三天(忉利天)の喜見城(きけんじょう。善見城とも)に住む忉利天の主である。東南西北のそれぞれに持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)が仕えることから四天王天とも呼ばれる。題経寺のそれは現在、二天門を入った境内正面にある帝釈堂の奥にある内殿に帝釈天の板本尊として安置されてある。

・「文化三年の頃」「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるが、この巻頭に近い一話の記載が、それに先立つ二年前であることが分かる。

・「天明元年」西暦一七八一年。先に示したように現在は安永八(一七七九)年とされているようである。次の五百年忌に合わせるための恣意的な風評の操作と考えてよい。

・「日蓮の五百年季」底本には「季」の右に『(忌)』と補正注がある。五百年忌は没年から四百九十九年目で、日蓮の没年は弘安五(一二八二)年十月十三日(享年六十一)であるから、天明元(一七八一)年というのは正しい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  宗祖真筆の古札(ふるふだ)が荒れ寺の棟(むね)より出でて寺中興を成功に導いたいた事

 

 武州葛飾郡(かつしかのこおり)奥戸曲金(おくどまがりかね)村の渡しの近くに、題経寺と申す法華宗の寺が御座る。綾瀬川の最寄りにて江戸からも至って近在で御座る。

 この寺は寛永年間の草創であったが、かつてはすこぶる貧しき土地柄にて、寺もすっかり破損倒壊致いて、誠に本尊の曼陀羅は雨露をも凌ぎかぬる有様で御座ったと申す。

 住僧は老年にして質朴の僧で御座ったが、

「……何としても……寺を補修改築致さんとぞ思う……」

と常より心懸けてはおったものの、思うにまかせず御座ったによって、曲金村方の長老老婆らに相談の上、三年ほど自ら、江戸表へ出向いて勧進をもなしたと申す。

 漸く金子の三、四十両ほども調達致いたによって、ともかくも、修復に取り懸からんと致いたところが、頼んだ大工が見てみたところ、これ、本堂用材の腐朽著しく、小手先の補修なんどでは、なかなか、致しかぬるとの見立てで御座ったによって、仕方のぅ、かの勧進で得た金子総てを使い切り、如何にも、しょぼくれた、掘立小屋に毛の二、三本も生えたようなる堂宇を建てることしか、これ、出来なんだと申す。

 ところが、かの朽ちかけたお堂を取り壊した際、その棟木(むなぎ)の上より、三、四尺もあろうかという、如何にも古き厚手の板があったを、取り壊し致いた者が見出したによって、住持の僧がそれをよく見てみたところ、何か如何にも怖ろしげな画像を一面に彫り付け、その反対側には「南無妙法蓮華経」の七字の名号がこれあって、そこには何と、宗祖日蓮の花押が、これまた彫り付けてあったと申す。

 されど、この図像が何者ならんかも定かならざれば、まがまがしき鬼神にも見紛うものにても御座ったによって、住持は薄気味悪く、捨てるに如かずと、それにても黒ずんで余りに汚ければとて、とりあえず、裏手の用水堀りの中に浸しおいた。

 それから二、三日致いて、住持、ふと思い出し、堀端へと出でて見たところが、流れに洗われ、かの名号や花押の文字(もんじ)も、また彫られたる神仏と思しい像も、すこぶる鮮やかに浮き出でて御座ったによって、

「……これは……如何なる神仏の像を彫ったもので御座ろうか……」

と、板を携え、知れる仏師或いは絵仏師なんどのもとへと持ち込んで訊ねてはみたものの、その彫(え)られたる神仏の名を知る者は、これ、一人として御座らなんだ。

 そこで住持は本山である中山(なかやま)の法華経寺へ、この板に彫られた名号と花押及び神仏に墨を塗って、紙に刷り写したものを持参致いて、貫主は勿論、一山の衆僧らに見せて判読させて貰(もろ)うたが、やはり、この神仏については、これこれの仏なりと断定し得る者は一人として御座らなんだ。

 但し、名号と花押に就いては、

「――いや! これは確かに! 御宗祖日蓮上人様の真筆の名号に、これ、間違いない!」

と居並ぶ人々も口を揃えて請けがったと申す。

 ところがその話が瞬く間に信徒に知れ渡り、近在の法華宗講方(こうがた)より、

「どうか、それを紙に刷りなして我らに施して下されい!」

との申し出が、これ、引っ切りなしに舞い込んで参ったによって、無下に辞(いな)み難ければ、押し刷っては与え、押し刷っては与えたところが、それがまた江戸市中はもとより、遠方の田舎まであっと言う間に広がって、この刷物を好んで求めんものと、題経寺への題経寺へと、参詣の人、夥しければ、かの住持、

「……かくなる行いは、これ、何とやらん、山師めきて、如何(いかが)なものかと……」と、本山の中山法華経寺へ伺いを立てたところが、

「――宗祖真筆なればこそ、名号彫られし木板(きいた)は大切に致さねばならぬことは当然のことにては御座れど……これ、板に押し刷りて得られたるありがたき御札をお授けあれかしと頼み来たる信徒の願いを無下に辞むと申すは、これ、仏意に叶(かの)うまじきことなればこそ……」

と、刷仏(すりぼとけ)刷名号(すりみょうごう)の造るを免(ゆる)す、とのお達しを受けたによって、これまた、題経寺には数多の衆が押しせて参ったと申す。

 さても、そんなある日のこと、とある旅僧が題経寺を訪れ、

「――拙僧――是非とも、その古き牌(はい)に彫られたる尊像を拝見仕りたく存ずる―。―」

と、切(せち)に望んだによって現物を見せたところが、

「……これは!……帝釈天に間違い御座らぬ! 今の世の中にては、俗は勿論のこと、僧であっても、これ、帝釈天のまことの形相(けいそう)を知る者は……おりませぬでのぅ。……」

と呟いて立ち去ったと申す。

 されば、本山中山法華経寺へもそのことを伝えたところ、

「……帝釈天の尊像とは極め難きことなれど……言われて見れば……いや……確かそのようにも……これ……見えるようじゃ……」

なんどと申したとか。……

 さてもその後(のち)、この題経寺、おいおい繁昌致いて参詣の者も多く、この古板切れを祀った帝釈堂へは、江戸市中よりの途次に何ヶ所も道標(みちしるべ)の石なんどまで建てるほどに相い成って御座った。

 文化三年の当年にては、寺の荘厳(しょうごん)もすこぶる豪華なものとなり、今や、本堂に祀れる本尊と申すは、これ、この板っ切れの帝釈天となって御座る由。

 この本堂修造に際し、かの札をとり出だいたは天明元年のことにて、それは実に日蓮の五百年忌に当たる年でも御座ったとのことで御座る。

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