日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 12 皇太子命名日 / 皇居のお堀
土曜日は、先週御誕生になった皇帝陛下の御子息に御名前をつけるべく取極められた日で、すべての店は白地に赤い丸を置いた国旗を揚げた。長い町々に、これは極めて陽気な外見を与えた。
[やぶちゃん注:「皇帝陛下の御子息」は明治天皇(当時満二十四歳)の第二皇子で皇太子建宮敬仁親王(たけのみやゆきひとしんのう)である(第一皇子稚瑞照彦尊(わかみつてるひこのみこと)は明治六(一八七三)年九月十八日死産で母葉室光子も四日後の九月二十二日に逝去)。明治一〇(一八七七)年九月二十三日(日曜)に出生、母は柳原愛子で大正天皇の同母兄に当たる。同月二十九日(土曜)に命名の告示が出されている。但し、翌明治十一年七月二十六日に夭折した。この叙述からキリスト教嫌いのモースの意識のカレンダーは月曜始まり(ユダヤ教・キリスト教などでは日曜日を礼拝日及びキリストの復活日として週の最初に置き、土曜を安息日(休み)としていた)であることが知られて興味深い。]
お城を取りまく大きな堀に沿って人力車を走らせることは、非常に絵画的である。維新前までは、将軍が、この広い運河のような堀の水から斜に聳える巨大な石垣にかこまれた場所に住んでいた。廓内には、今や政府の用に使用される建物が沢山ある。お堀に沿った道路は平坦で、廓をかこんで一、二マイル続き、堀に従って時々曲っては、新しい橋や、石垣高く、あるいはその直後に、建てられた東洋風の建築(図272)やを目の前に持ち来す。間を置いて、強固な、古い門構が見られ、巨大な石塊でつくった石垣は、がっしりとして且つ堂々たるものであるが、堀の水へ雄大な傾斜をなしているので、余計堂々として見える。石垣の上には、松の古木が立ちならび、その枝には何百という烏がとまっている。幅の広いお堀のある箇所には蓮が勢よく茂り、花時にはその大きな薄紅色の花がまことに美しい。水面には渡って来た野鴨、雁、その他の鳥が群れている。大きな都会の真中の公園や池で、野生の鳥の群が悠々としていること位、この国民、或はこの国の少年や青年達の、やさしい気質を、力強く物語るものはない。我国でこれに似た光景を見ようと思えば、南部のどこかの荒地へ行かなくてはならぬ。私の住んでいるヤシキでは、時に狐を見受ける。
[やぶちゃん注:「一、二マイル」1・6~3・2キロメートル。これは景観から二重橋前から半蔵門辺り(現在の日比谷通りから内堀通り)を指しているように感じられる(同区間は地図実測で約3キロメートル)。なお、現在の皇居の外周は凡そ4・9強から5・0キロメートル弱である。この頃にはまだ、東大敷地内に野狐がというのは驚きである。]