耳嚢 巻之八 鬼子母神にて家を立し笑談の事
鬼子母神にて家を立し笑談の事
伊藤某、代々淨土宗なりしが今は日蓮宗なり。右の祖父いかなる譯やありけん、本所にて本佛寺に人々尊崇する鬼子母神(きしもじん)有(あり)しを尊敬不一方(ひとかたならず)。一身は日蓮宗となりて法花を信仰なしけるが、我死せば右本佛寺へ葬るべきと厚く子孫へ申付(まうしつけ)ぬれど、菩提寺におゐて、厄介(やつかい)は格別、代々主人を他宗へ葬(はうむら)せる事は、披露の上、改宗は格別、難成(なりがたき)事と頻(しきり)に障(さは)りければ、せんかたなく打過(うちすぎ)しが、能々其宗にかた向(むき)しや、七八百石の高(たか)の内を次男へ二百石分地(ぶんち)して、我等は二男の墓所に葬るべしと申(まうす)にぞ寺もいなみ難く、本佛寺へ送りける。右鬼子母神信仰故、二百石の家相續せしと伊藤氏の物語をこゝにしるす。
□やぶちゃん注
○前項連関:日蓮宗絡みで直連関。「笑談(せうだん)」と題し、「いかなる譯やありけんや」「能々其宗にかた向しや」と疑義を呈し、嫡流主家の身分でありながら、居候の次男にわざわざ二百石を分けて新たに分家させて(標題の「家を立し」)鬼子母神(本仏寺)近くに住まわせた上にそこを分家菩提寺とさせた上で、自身の遺骸をその『正規の分家』たる菩提寺へ葬れ、と遺言したという訳の分からぬ仕儀に、呆れて苦笑している根岸が見える。――やっぱり根岸は日蓮宗が、お嫌い――でした。
・「鬼子母神」は仏教を守護する夜叉で女神。梵名ハーリティーを漢訳して訶梨帝母(かりていも)とも言う。ウィキの「鬼子母神」によれば、夜叉毘沙門天(クベーラ)の部下の武将般闍迦(パンチーカ・散支夜叉・半支迦薬叉王)の妻で、五百人(一説には千人又は一万人)の子の母でありながら、常に人間の子を捕えて食べてしまうため、人間からは恐れ憎まれていた。それを見かねた釈迦が人間を救うとともに彼女をも救済することを企図して、彼女が最も愛していた末子愛奴児(ピンガーラ・プリンヤンカラ・嬪伽羅・氷羯羅天・畢哩孕迦)を隠した。彼女は半狂乱となって世界中を七日の間探し回ったものの見つからず、遂に釈迦に助けを求めて縋ったという。そこで釈迦は子を失う親の苦しみを悟らせて仏法に帰依させた。かくして彼女は仏法の守護神となり、また、子供と安産の守り神となったという(盗難除けの守護ともされる)。インドでは子授け・安産・子育ての神として祀られ、日本でも密教の盛行に伴って小児の息災や福徳を目的として鬼子母神を本尊とした訶梨帝母法が修されたり、上層貴族の間では安産を願って訶梨帝母像を祀って同修法を修したりした記録が残る。また、法華経において鬼子母神は十羅刹女(じゅうらせつにょ)と共に法華信仰者の擁護と法華経の弘通を妨げる者を処罰することを誓っていることから、日蓮はこれに基づいて、文字で表現した法華曼荼羅に鬼子母神の号を連ね、鬼子母神と十羅刹女に母子の関係を設定している。これによって法華曼荼羅の諸尊の彫刻化や絵像化が進み、その結果として法華信仰者の守護神としての鬼子母神の単独表現や信仰が生まれる元となったという。その像は当初は天女のような姿で描かれ、子供を一人抱いて、右手には吉祥果(柘榴・ザクロ)を持つものが多い(これを子安(こやす)鬼子母神と呼ぶ)。吉祥果は実がたわわになることから「多産」や「繁栄」を象徴するものであって、鬼子母神が人間の子を食べるのを止めさせるために人肉の味がするという柘榴を食するように釈迦が勧めたという俗説は後代に付与された妄説である。日蓮宗では子安鬼子母神が祀られるほか、近世以降では法華経陀羅尼品に依拠する祈禱が盛んとなり、鬼子母神を祈禱本尊に位置付けるに至ったこともあり、忿怒鬼形(きぎょう)の鬼子母神像も多く造られるようになった。これは法華経の教えを広めることを妨げる仏敵を威圧する破邪調伏の姿を表現したもので、こうした鬼子母神の造像については明確な区分ではないものの、関東と関西では異なる傾向がみられるという。関東では総髪で合掌した姿であり、子供を伴っていないのに対し、関西では総髪ではあるものの角を生やして口が裂け、子供を抱くか左手で手を繋いだ形象を示す。また、『子どもを抱き宝冠を付けた姿は一見すると天女形であるが、形相が天女形から鬼形に変容する過程にあると思われる珍しい像が存在することも確認されて』いるとある。『鬼子母神は、法華経の守護神として日蓮宗・法華宗の寺院で祀られることが多く、「恐れ入谷の鬼子母神」で知られる、東京都台東区入谷の鬼子母神(真源寺)、東京都豊島区雑司が谷の法明寺鬼子母神堂、千葉県市川市の遠寿院(法華経寺塔頭)の鬼子母神が有名である(江戸三大鬼子母神)』。
・「本佛寺」現在、杉並区梅里(岩波版長谷川氏の注に『墨田区太平』とあるのは誤り。これは以下に示す元禄初期から関東大震災までの旧所在地である)にある安楽山本仏寺。寛永八(一六三一)年の創建で、開山は修行院日通。元々は谷中三崎に建立されたもので境内には修行院及び栄林坊があった。元禄二(一六八九)年に焼失して翌年、本所出村に移転した。同十一年には身延山末寺となって第八世日現の代に鬼子母神堂を建立、大名の津軽家より客殿天井が寄進された。第十三世日盛は祖師像及び四菩薩像を建立して後に身延山第五十二世法主となっている。大正一二(一九二三)年の関東大震災で焼失、昭和一七(一九四二)年に現在地に移転して再建されて現在に至る。安置されている鬼子母神は子授け・開運鬼子母神と呼ばれている(「日蓮宗東京都西部宗務所」公式サイトの寺院紹介の「本仏寺」に拠る)。
・「厄介」面倒と同じで、所謂、武家に於ける次男以下の、主家相続者に寄食する居候を指す。
・「格別」古くは「かくべち」と読んだ。副詞で、それは別として、それらはともかくとして、の謂い。この二箇所の「格別」はともに、それぞれ直前の内容が例外的に認められる限定条件であることを示していると私は読んだ。
・「分地」底本では『(分知)』と訂正注があるが、意味は分かる。この「地」は知行地のことである。なお、この主人公である子孫「伊藤某」はその次男の嫡男ということになる。
■やぶちゃん現代語訳
鬼子母神に葬られんがためにわざわざ分家を興したと申す冗談のような真実(まこと)の笑い話の事
伊藤某(なにがし)殿の宗旨は、これ代々浄土宗で御座ったが、現在は日蓮宗で御座る。
右の祖父は――如何なる訳があったものかよく理解出来ぬのであるが――本所にある本仏寺に人々の尊崇せる日蓮宗本仏寺――通称、鬼子母神(きしもじん)が御座ったが――これを尊敬すること一方ならず、己れ一身は日蓮の宗徒となって、日々「南無妙法華経」を唱えては信仰致いて御座ったと申す。
ところが遂には、
「――我ら死せし時は、かの本仏寺へ葬れ。――」
と、堅く子孫へ申し付けて御座った。
ところが、これを伝え聞いた伊藤家菩提寺より、
「……嫡男以外の、次男坊ら居候の身分の者ならば、これは、格別で御座るが……代々の当主を先祖とは異なる他宗の寺へ葬らすると申すは……これ、主家の宗旨替えを公けに披露致いた上……菩提寺及び同本山と先方宗派の末寺なり本山相互の……公けの承認と認可を受けた改宗の場合は別と致いて……とてものことに……なし難きことで御座る!……」
と頻りに頗る支障のある由を言い立てて御座ったによって、詮方なく、そのままに、うち過ごして御座ったと申す。
ところが――まあ、よくよくその日蓮宗の鬼子母神とやらにご執心で御座ったものか――七、八百石ほどの石高(こくだか)しか御座らなんだものを――突如、その内の二百石分――これ、次男へと分知(ぶんち)致いた上、鬼子母神近くに居宅を作らせた上、伊東分家として新たな菩提寺を本仏寺となし、
「――我らが死後は、これ、正しき分家として興したるところの、二男伊藤分家菩提寺たる本仏寺墓所へ葬るように。――」
と遺言致いたによって旧伊藤家菩提寺も辞(いな)み難く、結局、祖父の遺骸は本仏寺へと移送致いたと申す。……
「……いやまさしくこれ……祖父の鬼子母神への厚き信仰により……我ら……幸いにも二百石の家を相続致いて、御座る。……」
とは、当代の伊藤家分家当主伊藤氏本人の物語って御座った話なれば、ここに記しおくことと致す。
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