日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 23 丘からの眺め
今日私はE教授と昼飯を共にした。彼はある丘の上の日本家に住んでいるので、そこからはこの都会のある部分がよく見える(図277)。私は写生をする気であったが、あまり込み入っているので、只朧気(おぼろげ)にその景色がこんな風なものであるということを、暗示するに足るものが出来た丈である。左の隅の遠方に見える建物は陸軍省に属している。丘の上の、高い円尾板のあるものも同様である。煙出しや教会の尖塔の無いこと、屋根の高さが一般に同じで、所所に高い防火建築、即ちクラがあることに気がつくであろう。煙の無いことも観られる。事実煙や、白くて雲に似た湯気などはどこにも見えない。家の中の人工的の熱は、一部分灰に埋り、陶器、磁器、青銅等の容器に入った木炭の数片から得る。日本人は我々程寒気をいとわぬらしい。昨今は軽い外套を着る程寒いのだが、彼等は暑い夏と同じように、薄いキモノを着、脚をむき出して飛び廻っている。
[やぶちゃん注:「E教授」姓が「E」で始まる当時在日していたお雇い外国人で、気軽に昼食を招待されるような英米人はイギリス人物理学者で機械工学教授であったジェームズ・ユーイング(James Alfred Ewing 一八五五年~一九三五年)ぐらいしか見当たらない。スコットランド生。エジンバラ大学で土木工学のジェンキン教授に師事し、後にグラスゴー大学のトムソン教授(ケルビン卿)の下で大西洋海底電線敷設工事などに従事した。トムソンの推薦によって明治一一(一八七八)年九月に東京大学の教師として来日、物理学・器械学などを講義した。明治十六(一八八三)年六月まで在職して田中館愛橘らを門弟として育てた。当時滞日中であったミルンと同じように地震学に関心を寄せ、日本地震学会の創立に寄与するとともに地震計を創製し、地震観測所を設立した。明治十六年の帰国後はダンディ大学の工学教授、一八九〇年にはケンブリッジ大学に移って機械工学・応用機械学の教授を務めた。磁気学の研究で著名になるとともに海軍教育部長や母校エジンバラ大学副総理に就任するなど教育面でも活躍した。(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。
なお、文中に出るミルン(John Milne 一八五〇年~一九一三年)についてもモースとの関係の中でどうしても注しておかなくてはならない。
このミルンはイギリス・リバプール生まれの鉱山技師にして地震学者・人類学者・考古学者。明治九(一八七六)年に工部省工学寮教師に招かれて来日、明治十一年にはモースやブラキストン(Thomas Wright Blakiston 一八三二年~一八九一年:イギリス生まれの軍人・貿易商・探検家・博物学者。幕末から明治期にかけて日本に滞在した。津軽海峡における動物学的分布境界線の存在を指摘、これは後にブラキストン・ラインと命名された。)らとともに函館の貝塚を発掘している。また、縄文時代の大森貝塚の絶対年代を二千六百四十年前と最も正確に推定した人物でもある。明治十三年にユーイングとともに日本地震学会を創設した。明治十四年には西本願寺函館別院願乗寺住職堀川乗経の長女堀川トネと結婚、「日本の石器時代についての論文」を発表している。明治一九(一八八六)年の東京帝国大学の設置とともに工学部で鉱山学・地質学を担当、明治二七(一八九四)年、現在、重要文化財に指定されている「ミルン水平振子地震計」を制作している。明治二八(一八九五)年にトネ夫人とともにイギリスに帰国した(この部分はウィキの「ジョン・ミルン」に拠る)。ミルンは大森貝塚人をアイヌとしたため、プレ・アイヌ説を提唱したモースとは激しい論争が生じ、永く不仲となったが、ずっと後の一八八九年に再会してビールを傾け合って和解したと磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」(三〇二頁)にある。
「彼はある丘の上の日本家に住んでいる」この位置が分からない。この「E教授」はユーイングであるならば、本郷加賀屋敷内教師館であることは間違いないのだが、この当時、ユーイングの宿舎が何処であったかが分からないのである。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には明治一一(一八七八)年末には七番館にユーイングが移っていたことは記されているものの、その前、この明治十年のユーイングの宿舎が書かれていないからである(モースは五番館)。しかしモースのいた五番館とは違ってこの見晴らしの良さという点から考えるならば、これは五番館より高い位置にあった一番館及び二番館或いは十六番館でなくてはならない(高度については日文研所蔵地図データベース内の明治一六(一八八三)年参謀本部陸軍部測量局作成になる五千分一東京図測量原図の「東京府武蔵國本郷區本郷元富士町近傍」などを参照した)。しかし磯野先生のデータによれば、一番館はパーソン数学教授、二番館はヴィーダー物理学教授、十六番はマレー文学学監の宿舎となっているのである(九九頁)。特にこの中では十六番館が最も見晴らしがよいように思われる。それとも(考えにくいのだが)ユーニングの宿所はこれら外国人教師用教師館とは全く別のところにあったものか。ただ、磯野先生の書に載らないということは、実はユーニングの当時の居所は現在では分からない可能性が高いことは申し添えておきたい。
「左の隅の遠方に見える建物は陸軍省に属している。丘の上の、高い円尾板のあるものも同様である」見ている位置がはっきりしないのだが、もしそれが前の注で述べた通り、十六番館であったと仮定してみると、位置的には前者が水道橋の左岸にあった陸軍練兵場、その向うにある旗を立てた後者が皇居北にあった東京鎮台陣営に相当して位置的には極めて問題がないのである。識者の御教授を乞うものである。]
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