栂尾明恵上人伝記 66
又云はく、人の非あることを、或は聞き、或は見て、謗(ぼう)ずること、穴賢(あなかしこ)あるべからず。學道の者に三機あり。上機の人は、心に人我(にんが)の相(さう)なければ、更に心にかゝることなし。中機の人は一念浮べども、人我なき理を存ずる故、二念と相續きて思ふことなし。下機の人は、無相(むさう)の理まで辨へねども、人を傷ましめざらんことを思ふ慈悲ある故に、敢て心にも思はず、口にもいふことなきのみならず、人のいふをも切に制し宥(なだ)むる、これありがたき人なり、而るを此の三機の外に必ず墮地獄の心ある怖しき罪人あり。人の非を心に思ひ口に云つて、人の生涯を失はんことを顧みず、人の耻辱たるべき事を顯はす。是れ何の料(れう)ぞや。人の非あらば、其の人の非なるべし。然るを傍にていへばやがて我が罪と成るなり。詮なきことなり。人の恨を蒙りぬれば、又怨を結びて如何なる難にも値はせらるべし。返す返すも斟酌あるべきなり。若し世の爲、法の爲ならば、諸佛諸神世にまします、其の誠(いまし)めに任すべし。敢て我と心を發(おこ)して云ふことなかるべし。心紛々として押へ難く、口むくめきて云ひたくとも、深く閉ぢ、深く押へて、少しきも他に云ふことあるべからず。若し聞くべきならば、其の人に向ひては教訓をも成すべし。
[やぶちゃん注:「穴賢」副詞で下に禁止の表現を伴って、「決して~(するな)」「ゆめ(ゆめ)~(してはならない)」の意。
「人我」我執。執着心。]