北條九代記 院宣 付 推松使節 竝 二位禪尼評定 承久の乱【一〇】――義時追討の院宣発せらる
○院宣 付 推松使節 竝 二位禪尼評定
一院は御感斜(なゝめ)ならず、關東は早(はや)御手に入りたるやうに思召し、なほも人數を召し給ふに、山々寺々の僧侶、法師原(ばら)、國々所々の武士、住人等召に應じて馳參る。熊野より田邊法印。十萬法橋(ほつけう)、萬劫(まんごふ)禪師。山法師(やまぼふし)には播磨豎者(はりまのりつしや)、小鷹智性房(こたかのちせいばう)、丹後、淸水(きよみづ)法師には、鏡月房、歸性房(きしやばう)奈良法師には士護覺心(しごのかくしん)。堂衆に圓音房(ゑんおんばう)、是等を初として、事を好む隈惡僧等少々應じて參集(まゐりあつま)る。按察(あぜちの)前中繕言光親(みつちかの)卿承りて、東國の院宣七通を書かれたり。鎌倉の右京權大夫北條平義時朝敵たり、早く追討せらるべし。勸賞(けんじやう)請ふに依るべきの由、武田、小笠原、千葉、小山、宇都宮、三浦、葛西にぞ下されけり。御使は推松(なれまつ)とて、無雙(ぶさう)の逸足(いちあし)なり。
[やぶちゃん注:〈承久の乱【一〇】――義時追討の院宣発せらる〉以下に示す、基にした「承久記」の記載の方がす遙かに面白い。この段もパートごとに分離させる。
「豎者」竪義(りゅうぎ)者のこと。立義者・立者などとも言う。「リュウ」は慣用音で「立てる」の意味。「義を立てる」「理由を主張する」ということを指す。諸大寺の法会に当たって行われた学僧試業の法に於いて、探題(論題提出担当の僧)より出された問題について、自己の考えを教理を踏まえて主張する僧で、一山の修行僧の中でも最も選れた学僧が選ばれる。
「小鷹智性房(こたかのちせいばう)」房増淵氏の現代語訳によれば、ここは「小鷹坊の智性房」で「小鷹」は僧坊名とする。
「丹後」房増淵氏の現代語訳によれば、ここは「丹後房」とあり、これは智性房と同じ小鷹坊から参戦した僧の名の並列ととっておられる。
「堂衆」房増淵氏の現代語訳割注に、『延暦寺の三塔に結番(けちばん)して香花をつかさどる役僧』とある。比叡山は山内が三つに区分され、東を東塔(とうどう)、西を西塔(さいとう)、北を横川(よかわ)と呼び、これらを合わせて三塔と言う。三塔それぞれに本堂がある。「結番」とは順番を定めて交代で出仕して宿直(とのい)や香華・閼伽などの供養に勤務することを指す。
「按察前中繕言光親」公卿葉室光親(はむろみつちか 安元二(一一七六)年~承久三(一二二一)年)。藤原光親ともいう。権中納言藤原光雅の次男。官位は正二位権中納言。以下、ウィキの「葉室光親」によれば、寿永二(一一八三)年に六位蔵人となりまもなく叙爵され、後に豊前守・兵部権大輔・右少弁・蔵人頭・右大弁などを経、承元二(一二〇八)年従三位参議に叙任されて公卿に列した。その後正三位権中納言したが、建保四(一二一六年)年六月に辞任(この間にも同職を一回辞任・復任している)、翌建保五(一二一七)年には正二位に昇叙されている。一方で後鳥羽院の側近として実務に通じ、順徳天皇執事や近衛家実・藤原麗子家司なども務めた。承久の乱ではここにある通り、院宣の筆を執って上皇方の中心人物として活動しているかのように見えるが、その実、上皇の倒幕計画の無謀さを憂いて幾度も諫言していたが後鳥羽上皇に聞き入れられることはなかった、とある。『光親は清廉で純潔な心の持ち主で、同じく捕らえられた同僚の坊門忠信の助命が叶ったと知った時、心から喜んだといわれるほど清廉で心の美しい人物だったという』(坊門忠信は妹の実朝室信子嘆願で死罪を免れた)。『戦後、君側の奸として捕らえられ、甲斐の加古坂(山梨県南都留郡)処刑され』たが、『北条泰時はその死後に光親が上皇を諌めるために執筆した諫状を目にし、光親を処刑した事を酷く悔やんだという』とあり、『光親は封建道徳における忠臣であった』と結んでいる。以下に慈光寺本にある彼の書いた院宣白文と書き下し文を示す(岩波新古典文学大系を参考に正字化して示した)。
〇白文
被院宣稱、故右大臣薨去後、家人等偏可仰聖斷之由令申、仍義時朝臣可爲奉行仁歟之由、思食之處、三代將軍之遺跡、稱無人于管領、種々有申旨之間、依被優勳功之職、非迭攝政子息畢、然而幼齡未識之間、彼朝臣稟性於野心、借權於朝威、論之政道豈可然乎、仍自今以後、停止義時朝臣奉行、倂可決叡襟。若不拘御定、猶有反逆之企者、早可殞其命、於殊功之輩者、可被加褒美也、宜令存此旨者、院宣如此、悉之、以狀。
承久三年五月十五日 按察使光親奉
〇やぶちゃんの書き下し文
院宣を被(かうぶ)るに稱(い)へらく、故右大臣薨去の後(のち)、家人等偏(ひと)へに聖斷を仰(あふ)ぐべきの由、申せしむ。仍つて義時朝臣、奉行の仁たるべきかの由、思し食(め)すの處に、三代將軍の遺跡を管領(くわんりやう)するに人なしと稱(しよう)して、種々申す旨有るの間(あひだ)、勳功の職を優(いう)ぜらるるに依りて、攝政の子息に迭(か)へられ畢(をは)んぬ。然而(しかれども)、幼齡にして未識の間、彼の朝臣、性を野心に稟(う)け、權を朝威に借(か)れり。之を論ずるに、政道、豈に然るべけんや。仍つて自今以後、義時朝臣の奉行を停止(ちやうじ)し、倂(しかしなが)ら、叡襟(えいきん)に決すべし。若し、此の御定(ごぢやう)に拘らずして、猶ほ反逆の企てある者は、早く其の命を殞(おと)すべく、殊功の輩に於いては、褒美を加へらるべきなり。宜しくこの旨を存ぜしむべしてへれば、院宣、此(か)くのごとし。之を悉(ことごと)くせよ。以て狀す。
承久三年五月十五日 按察使光親 奉る)
「推松」「承久記」古活字本は同じく「推松」であるが、同慈光寺本では、
院御下部押松(ゐんのおんしもべおしまつ)ニゾ下給(くだされたまふ)。
とあり、また、後掲する「吾妻鏡」承久三年五月十九日の条には『稱押松丸〔秀康所從云々〕』(押松丸と稱す〔秀康が所從と云々。〕。)とあって、そこでは藤原秀康家来としている。「推」には「なれ」に相当する訓や読みはなく、「押」には「狎」(なれる)に通ずる意味があることから、「押松」が正しいものと思われる。名の意味は諸本に注しないが、「松」が通称で、「狎」(なれ)というネガティヴな意味合いを冠するところからみると、主人子飼い(「狎」には飼い馴らすの意味がある)の脚力自慢の被差別民出身の者ででもあったのかも知れない。なお、慈光寺本によれば、彼は京―鎌倉間ほぼ二十日かかる道のりを、十六日暁に出発、十九日午後四時前後には到着しており、実に三日と半日余りで走破している。但し、通常二十日かかるというのはおかしい。「十六夜日記」の阿仏尼でさえ女性の足でも十三日しかかかっていない。また、慈光寺本には、この直後に討死した伊賀光季の下人が鎌倉に急を告げに既に出立していたが、同日の午後六時頃に大倉幕府に着いた旨の記載もあるから、推松の足が驚異的に飛び抜けているというわけではないようだ(しかもこの光季の使者は「吾妻鏡」では推松よりも早く、昼頃に到着している)。おまけに慈光寺本ではこの推松、「院宣を届けた後の帰洛の際には、東国の諸大名や高家は、自分を輝かしい天皇の部下・院宣の使者として引き出物をたんと呉れるに違いない」、『宮仕(みやづかへ)ノ冥加、此ニ在(あり)』なんぞと胸算用してもおり、読んでいて、この後の意外な展開などから、思わず失笑してしまう。
以下、「承久記」(底本の編者番号25から27のパート半ば)を示す。直接話法部分を改行した。
抑一院尋ネ被ㇾ下ケルハ、
「當時關東ニ義時ト一所ニテ可ㇾ死者ハイクラ程カアル」。
胤義申ケルハ、
「朝敵トナリ候テハ、誰カハ一人モ相隨可ㇾ候。推量仕候ニ、千人計ニハ過候ハジ」
ト申ケレバ、兒玉ノ庄四郎兵衞尉、
「アハレ、判官殿ハ僻事ヲ被ㇾ申候モノカナ。只千人シモ可ㇾ候歟。平家追討以來、權大夫ノ重恩ヲ蒙リ、如何ナル事モアラバ、奉公ヲセバヤト思者コソ多候へ。只千人候ベキカ。如何ニ少シト申共、萬人ニハヨモヲトリ候ハジ。角申ス家定程ノ者モ、關東ニダニ候ハヾ、義時ガ方ニコソ候ハンズレ」
ト申ケレバ、一院、眞ニ御氣色アシゲナル體ニテ、幾快ニ申モノ哉ト被二思召一ケル。後ニゾ能申タリケルト被二思召合一ケル。
京中ニハ、山々寺々ノ僧侶、國々ノ住人等參ケル。熊野法師ニハ田部法印・十萬法橋・王法橋・萬劫禪師、山法師ニハ播磨堅者・小鷹智性坊・丹後、淸水法師ニハ鏡月坊・歸性坊ナドゾ被ㇾ召テ參ケル。奈良法師ヲ被ㇾ召ケレバ、愈議シテ申ケルハ、
「平家、此寺ヲ燒拂テ跡方モ無リシヲ、鎌倉右大將力ヲ合テ當國ノ守護人ヲノケ、東大・興福寺ヲ再興シ、供養ノ時ハ仰ニ隨ヒ上洛シテ守護ヲ加、隨分志深リシ事ナレバ、只今モ源平爭事アラバ、何度モ白旗ノ萬人ヲシ命ヲ可ㇾ續ナレドモ、是ハ一天ノ君ノ仰ナレバ、王土ニスミナガラ、イカデカ隨奉ラデモ可ㇾ有ナレバ、少々進ラセヨ」
トテ、學生ニハ土護ノ覺心、堂衆ニハ圓音、是等二人ヲ始メトシテ、事ヲ好ム惡僧少々ゾ參ケル。
北陸へハ討手ヲ可ㇾ被ㇾ向トテ、仁科次郎・宮崎左衞門尉親式・糟屋左衞門尉・伊王左衞門尉、是等ヲ始トシテ官軍少々被ㇾ下ケレル。
東國へハ院宣ヲ可ㇾ被ㇾ下トテ、按察前中納言光親卿奉テ、七通ゾ被ㇾ書ケル。左京權大夫義時朝敵タリ、早ク追討セラルベシ、ケンジヤウ、請ニヨルベキ趣也。武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西ニゾ被ㇾ下ケル。
院宣ノ御使ニハ、推松トテ、キハメテ足早キ者アリケル、是ヱラバレテゾ被ㇾ下ケル。
●「兒玉ノ庄四郎兵衞尉」この緒戦の圧勝で浮き立つ後鳥羽院へお目出度の胤義が「朝敵義時に味方する者なんぞ千人もおしますまいぞ」なんどと追従をする中、強烈な疑義の一言を投げかけて、院から激しい不興を買う人物は児玉郡本庄(現在の埼玉県本庄市児玉町附近)を拠点とした武蔵七党の出身である庄忠家(しょうのただいえ)の四男であった庄家定である。因みに彼の父忠家は幕府軍に参加、一ヶ月後の六月十四日の宇治橋合戦で討死にしたとされる。これは「吾妻鏡」同合戦後の十八日の条に載る『六月十四日宇治橋合戰越河懸時尾方人々死日記』(六月十四日、宇治橋合戰にて河を越え懸かる時、尾方(みかた)の人々死ぬ日記」の箇条の中に『庄三郎〔爲敵被討取云々〕』(庄三郎(しようのさぶろう)〔敵の爲に討ち取らると云々。〕)が彼であるとされる。とすれば一ノ谷の戦いや奥州合戦にも参加している彼は、この時既に齢七十を越えていたと考えられ、ここでの息子の院の御前をも憚らぬ、「権大夫義時の厚き恩を蒙り、如何なることあっても身を捨てて奉公致したく思う者こそ、関東には多く御座る。たった千人じゃと申さるるか? 如何に極少なく見積もったとしても、一万人を下ることはありますまいぞ! かく申すこの家定ほどの小者であっても、関東にさえ在ったならば、迷わず義時方へこそ推参致いたに違い御座らぬ!」というパンチの利いた台詞も、強烈なリアリズムを以って迫ってくるではないか!
●「奈良法師」「愈議シテ申ケル」その述懐も微妙である。彼等は平家による宗教弾圧を美事開放してくれた頼朝に感謝と報恩の気持ちこそあれ、彼の築いた幕府を倒さんとするような思想や立場に組する気持ちはさらさらないようだ。あくまで天子様の仰せなればこそ従わずんばあらず、と自身らを納得させようとしているに過ぎない。こうした官軍の中にあっての相当な温度差が結局、この後の官軍の総崩れの中で、こういう感じで参戦した僧侶たちの厭戦気分をより高め、後に見るような水尾坂の幕府軍無血通過といった事態が生じたのであろう。]