耳嚢 巻之八 霜幸大明神の事
霜幸大明神の事
牛込冷水(ひやみづ)番所に小川茂三郎とて二三百石取(どり)の人有(あり)。玄關の脇にいさゝかの祠(ほこら)ありて、痰疾を愁ふる人是を祈れば功驗甚だいちじるしく、快驗の後小豆を一袋づゝ神納なすとなり。其由來を知る人の語りけるは、寶曆の末に右小川氏の家來、夫婦者にて年古く勤(つとめ)ける、名は山田幸左衞門といゝ、妻の名は於霜といゝけるよし。常に夫婦とも痰を愁ひてくるしみけるが、幸左衞門身まかりし時、さるにても痰程苦しき病はなし、我死(しし)て後痰を愁ふる人我を念ぜば、誓(ちかつ)て平癒なさしめんとて身まかりぬ。於霜も程なく同病にて相果しが、是又夫の誓ひし通り、我も痰を愁ふる人を平愈なさしめんとて相果しが、外に世話する者もなく素(もと)より子もなければ、主人より菩提所へ送りて念頃に弔ひ遣しけるを、中山の貫主が是を聞(きき)て、かく迄に夫婦とも思ひつめぬればしるしもありなんといゝしが、成程其後は痰を愁ふる者願だてすればしるし有(あり)と、人々云しゆゑ、幸左衞門の幸の字お霜の霜の字を合(あはせ)、霜幸(さうかう)明神と祭り、今に小き祠あるに、近隣の者は不絶(たえず)右の祈願する者多しとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:口内炎から痰咳の病いで連関。明神縁起譚。
・「霜幸大明神」現存しない模様。
・「痰疾」痰の症状を呈するのは風邪・気管支炎・気管支喘息・肺癌やハウス・ダストによるアレルギー反応など多岐に亙るが、相次いで「痰疾」で病没しているというところから、この夫婦に限っては結核の疑いが濃厚である。
・「牛込冷水番所」牛込新小川町(現在の新宿区新小石川辺り)、江戸川立慶橋(「巻之五 狐痛所を外科に賴み其恩を謝せし事」の「龍慶橋」の注を参照)の南にかつてあった御鷹屋敷内の管理された井戸。底本の鈴木氏注によれば、こ『この井戸は水がよく、御鷹の餌飼の井として最高だった。後にこの地は武家屋敷となったが、以前井水を利用し井戸に番所を設け、冷水番所といった。しかし享保六年に井戸は埋められた』とあり、岩波の長谷川氏注には続けて、『番所を廃した後も地名のようにこの名を用いた』とある。享保六年は西暦一七二一年で、鈴木氏によれば「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、井戸が無くなったのは執筆時の八十年以上も前になる。
・「小川茂三郎」底本の鈴木氏に、小川盈房(みつふさ)とする。『明和三(四十歳)家を継ぐ。五百石』とあるから、生年は康正元・享徳四(一四五五)年。
・「寶曆の末」宝暦は宝暦元・寛延四(一七五一)年から明和元・宝暦十四(一七六四)年であるから、この時、既にかの井戸はなかった。本執筆時より四十年ほど前になる。
・「中山の貫主」現在の千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗大本山正中山法華経寺貫主。鎌倉時代の文応元(一二六〇)年創立。中山法華経寺とも呼ばれる。小川家の菩提寺というのが、この中山法華経寺の末寺であったと考えるのが自然である。日蓮宗嫌いの根岸がかくフラットに記すのは、この祠が神道系の明神だからであろう。
■やぶちゃん現代語訳
霜幸大明神の事
牛込冷水(ひやみず)番所に小川茂三郎殿と申す二、三百石取りの御仁が御座った。
屋敷玄関の脇に小さな祠(ほこら)のあって、痰疾(たんしつ)に悩む者は、これを祈らば、功験はなはだ著しく、快験の後は小豆(あずき)を一袋ずつ、この明神にお礼として神納致すということで御座った。
その由来を知る者の語ったことには……
……宝暦の末、かのお屋敷主人小川殿のご家来衆として、夫婦者で永年勤めて御座った、名は山田幸左衛門と申し、妻の名は於霜(おしも)と申す者が御座ったそうですが、常に夫婦(めおと)ともに痰の病いに悩まされ、日々苦しんで御座ったと申します。……
……その幸左衛門、身罷りました折りには、
「……それにしても……この痰ほど……苦しき病いは……これ……ない。……我ら死して後は……痰に苦しむ人、我を祈念致さば、誓って平癒なさしめん――とぞ思う……」
と遺言して身罷ったと申しまする。……
……さても……その妻の於霜も……ほどのぅ、同じき病いにて相果てたと申しまするが、この者もまた、夫が誓ひました通り、
「……妾(わらわ)も……痰に苦しまるるお人を……平愈なさしめん――と存じまする……」
と言い残して……相い果て御座ったそうで御座いまする。……
……他(ほか)に供養を致す縁者とてなく、もとより子(こお)も御座いませなんだによって、主人小川殿の有り難き計らいにより、小川家菩提所へと葬って、懇ろに弔(とむろ)うておやりになられましたそうな。……
……と、菩提寺本寺の中山法華経寺の貫主さまが、この話をお聞きになられ、
「……かくまでに夫婦(めおと)ともに深き遺志を以って往生致いたとなれば、これは効験もあろうというものじゃ。」
と申されたとか。……
……なるほど、その後(のち)は――痰に悩む者が願立(がんだて)を致さば、即座にそのしるし、これある――と、人々、専らの噂となりましたゆえに、幸左衛門の「幸」の字、お霜の「霜」の字をとって合わせ、霜幸明神(そうこうみょうじん)として祠(まつ)り、今に小き祠のあるとのことにて御座いまする。……
……近隣の痰に苦しむ者の参詣は絶えず、その明神に祈願する者はこれ、すこぶる多いと聞いておりまする。……
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