耳嚢 巻之八 口中痛呪法の事
口中痛呪法の事
口中痛(いたみ)候ば、何によらず漱(うがひ)候節右うがひの水を左の手にうけ握りて、肥後の國三の君と三篇唱へ、又念佛にても題目にても三五篇唱ふれば、即時に快驗ありと、或る角力取(すまふとり)の、町の與力新五郎へ咄しけるを、埒(らち)なき事と思ひながら、新五郎齒痛み苦しみし時、かく唱へぬれば、忘るゝ如くなりしと、長僕どもへ申(まうし)ける由ゆゑしるし置(おく)。
□やぶちゃん注
○前項連関:巷間通説で軽く連関。民間療法シリーズ乍ら、極めて非現実的に見え乍ら、「何によらず漱候節」と、結果として嗽を励行して口中洗浄を繰り返させる点で逆にプラグマティックと言える気がする。
・「肥後の國三の君」いろいろ想定して見たが不詳。識者の御教授を乞う。発音上の顎関節や舌の動きに特異性はないように思われる。
・「三篇」底本は右に『(遍)』と訂正注を附す。「三五篇」も同様。
・「長僕」永年勤めた下僕にしては複数形でおかしい。岩波版長谷川氏注も『不詳』とする。訳せないので根岸家の下男どもということにして訳した。
■やぶちゃん現代語訳
口の中が痛む際の呪法の事
口の中が腫れたり爛れたり、また歯が痛む場合には、何によらず、漱いを致す折りに、その嗽いの水を左の掌に受けて軽く握り、
「肥後の国三の君……肥後の国三の君……肥後の国三の君」
と三遍唱え、その後に念仏なんど――題目でもよい――を三、五遍唱えたならば、即座に快験する――
――と、とある相撲取りが、町与力の新五郎へ話したと申す。新五郎は、
『埒(らち)もない。妄説じゃ。』
と思いながらも、それからほどないある日のこと、新五郎、はなはだ歯が痛み、苦しみに堪えざればこそ、思わず、
「……ひ、肥後の国三の君……肥後の国三の君……肥後の国三の君……」
と、言われた通り、かく唱えたところが、先ほどまでの痛みが、これ、嘘のようにかき消えて御座ったと。
私の下僕らへ新五郎が話したとのことなれば、一応、記しおくことと致す。
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