日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 27 日本最初のダーウィン進化論の公開講演
一八七七年十月六日、土曜日。今夜私は大学の大広間で、進化論に関する三講の第一講をやった。教授数名、彼等の夫人、並に五百人乃至六百人の学生が来て、殆ど全部がノートをとっていた。これは実に興味があると共に、張合のある光景だった。演壇は大きくて、前に手摺があり、座席は主要な床にならべられ、階段のように広間の側壁へ高くなっている。佳良な黒板が一枚準備されてあった他に、演壇の右手には小さな円卓が置かれ、その上にはお盆が二つ、その一つには外国人たる私の為に水を充した水差しが、他の一つには日本に於る演説者の習慣的飲料たる、湯気の出る茶を入れた土瓶が(図280)のっていたが、生理的にいうと、後者の方が、冷水よりは咽喉によいであろう。聴衆は極めて興味を持ったらしく思われ、そして、米国でよくあったような、宗教的の偏見に衝突することなしに、ダーウインの理論を説明するのは、誠に愉快だった。講演を終った瞬間に、素晴しい、神経質な拍手が起り、私は頰の熱するのを覚えた。日本人の教授の一人が私に、これが日本に於るダーウイン説或は進化論の、最初の講義だといった。私は興味を以て、他の講義の日を待っている。要点を説明する事物を持っているからである。もっとも日本人は、電光のように速く、私の黒板画を解釈するが――。
[やぶちゃん注:「一八七七年十月六日、土曜日。」原文では日記からの引用を示すためか、若しくはダーゥインの進化論の記念すべき日本初の特別公開講演(授業とは別)であることを強調するためか、“Saturday, October 6, 1877.”と曜日と月とがイタリック体で表記されている。土曜日はユダヤ教の安息日で、それがキリスト教の週末の信徒集会の日としても受け継がれたことから、キリスト教嫌いのモースが、この日に「冒瀆的」な進化論講義を日本で成し得たことへの、皮肉な快哉の意味もあったのかも知れないし、またカトリックでは春の復活祭前日の土曜日を聖土曜日(Holy Saturday, Black Saturday)として『イエスが眠りについている』ことをあらわす習慣があるが、それらもモースには面白く意識されていたものかも知れない。勝手な私の連想であるが、モースの進化論講義や講演では、必ずキリスト教への、主にその非論理性に対する激しい論難が伴ったこともまた事実なのである。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、この進化論講演はこの後日の同十月十五日と二十日と連続三回、神田一ツ橋の東京大学法理文三学部講堂で行われ、『教授たちとその夫人、および全校生徒が主体だったが、新聞にも広告されたので誰でも聴講が可能』であったが、『通訳はつかなかったらしい』。『この公開講義で、一般の人々は初めて進化論なるものを耳にしたわけだが、通訳がつかなかったからか、東大の生徒が主体だったからか、まだこの暗怪では社会的に注目されるまでにはいたらなかった。進化論が人目を引くのは、それから一年後の明治十一年秋、江木学校講談会』(当時の東大予備門英語教諭であった江木高遠主催の学術講演会)『での進化論の連続四講を行なってからである』とある(これは次章「六ケ月後の東京」の掉尾に記されてある)。
「日本人の教授の一人」英語及び心理学担当の文学部教授外山正一か、植物学担当の理学部教授矢田部良吉の孰れかであろうが、当時、進化論鼓吹に人一倍力を入れていた外山である可能性が頗る高いと思われる。
「要点を説明する事物を持っているからである」原文“for I shall have
objects to illustrate the points”。これが如何なる証拠物品(標本)であったかは詳らかでないのが残念だが、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の第二十三章「『動物進化論』の出版」(「動物進化論」はモース口述・石川千代松筆記になるもので明治一六(一八八三)年に刊行された)に、同書やモースの講演によって『保護色、擬態、洞窟魚の眼の退化などの適応の実例、始祖鳥とか馬の芯かなどの古生物学的知見、脊椎動物胚の形態の類似等々』が『数多く紹介された』とあるのがその物証のヒントにはなるように思われる。]
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