北條九代記 鎌倉軍勢上洛 承久の乱【十三】――幕府軍進発す
本年最後の、ハマったテクスト注釈となった。
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○鎌倉軍勢上洛
さる程に、大名小名集まりて、軍の評定ありける所に、武蔵守泰時申されけるは、「是ほどの御大事、無勢にては如何あるべき。兩三日も延引せられ、片邊土(かたへんど)に居住する若黨冠者原(わかたうかんじやばら)をも、召倶し候らはばや」と申されければ、權〔の〕大夫義時申されけるは、「君の御爲に忠のみ存じて不義なし。人の讒(さかしら)に依つて、朝敵と仰せ下さるゝ上は、假令(たとひ)百千萬騎の勢を倶したりとも、天命に背く程にては、君に勝ち參(まゐら)すべきや。只運に任すべし。早疾(はやとく)上洛あるべきなり」と軍の手分をぞ定められける。明くれば五月二十一日、藤澤左衞門尉淸親(きよちか)が本(もと)に軍立(いくさだち)し、翌日未明(びめい)に打立ち給ふ。先陣は相摸守時房、二陣は武蔵守泰時、三陣は足利武藏〔の〕前司義氏、四陣は三浦駿河守義村、五陣は千葉介胤綱とぞ聞ける。相隨ふ輩には、城(じやうの)入道、毛利(まうりの)蔵人入道、少輔(せうの)判官代、駿河〔の〕次郎、佐原(さはらの)次郎左衞門尉、同三郎左衞門尉、同又太郎、天野(あまのゝ)左衞門尉、狩野介(かのゝすけ)入道、後藤左衞門尉、小山新左衞門尉、中沼五郎、伊吹(いぶきの)七郎、宇都宮〔の〕四郎、筑後(ちくごの)太郎左衞門尉、葛西(かさいの)五郎兵衞尉、角田〔の〕太郎、同彌平次、相馬(さうまの)三郎父子三人、國分(こくぶの)三郎、大須賀(おほすかの)兵衞尉、佐野(さのゝ)小次郎入道、同七郎太郎、同八郎、伊佐大進(いさのたいしん)太郎、江戸〔の〕八郎、足立(あだちの)三郎、佐々目(さゝめの)太郎、階(はしの)太郎、早川平三郎、丹(たん)、兒玉(こだま)、猪俣(ゐのまた)、本間、澁谷、波多野(はだの)、松田、河村、飯田(いひだ)、土肥(どひ)、土屋、成田伊藤、宇佐美、奥津(おきつ)を始として、都合其勢十萬餘騎、東海道をぞ押上(おしのぼ)る。東山道の大將軍には、武田(たけだの)五郎父子八人、小笠原(をがさはらの)次郎父子七人、遠山左衞門尉、諏訪(すはの)小太郎、伊具右馬允(いぐのうまのじよう)入道を始めとして
、其勢都合五萬餘騎なり。式部丞朝時(しきぶのじようともとき)は四萬餘騎を率(そつ)して、北陸道より攻上(せめのぼ)る。鎌倉には大膳〔の〕大夫入道、宇都宮〔の〕入道、葛西壹岐(かさいいきの)入道、隼人(はやとの)入道、信濃(しなのゝ)民部大輔入道、隱岐(おきの)次郎左衞門尉是等を始として、御留主(おんるす)をぞ勤めける。親上(のぼ)れば、子は留(とゞま)り、子息上れば父殘り、兄弟までも引分けて、上留(のぼせとゞ)むる心あり。
[やぶちゃん注:〈承久の乱【十三】――幕府軍進発す〉ここは各パートで分離して示す。
「片邊土に居住する若黨冠者原」関東の田舎に居住するところの若き壮士や元服したての若者ら。
「藤澤左衞門尉淸親が本に軍立し」清近とも書く(後掲する「吾妻鏡」参照)。奥州戦を戦った頼朝以来の重臣である。ここで泰時のみが彼の家に前日の二十一日夜に出陣し、翌二十二日未明に全軍の進発となっているのは、先鋒将軍である泰時が父義時に兵力増強のための進発延期の進言に対して怒り心頭に発し(後掲「承久記」で『大にいかりて』とある)、『時日を移すべきにや。早上れ、疾く打ち立て』(「承久記」)と、恐らくは泰時や他の幕閣にとっても想定外の性急な支持を出したため、出立を占った陰陽師(彼も困ったに違いない)によってなされた先鋒武将のみの方違えの応急措置と私は判断する。但し、後で検討するが「吾妻鏡」ではかなり違って、泰時は発言せず、進発を促すのは二人の温帯、大江広元と三善善信である。私は最終的にこれは「承久記」の作者の作話であると考えている。
「城入道」安達景盛。以下、これらの参戦した武士たちは「承久記」でも慈光寺本と極端に記載が異なり、また、「吾妻鏡」とも異同が多いので今回に限り、この「北條九代記」記載限定で、不詳の連打も厭わずに多くの資料を管見しながら、これはと思う同定者を施してみた。識者の御援助御協力を求むものである。
「毛利蔵人入道」毛利(大江)季光。大江広元四男。
「少輔判官代」大江佐房(すけふさ 生没年不詳)。京都守護大江親広の長男で広元の孫。父親広は後鳥羽上皇方に就いた。
「駿河次郎」三浦泰村。義村次男。
「佐原次郎左衞門尉」相模三浦氏三浦大介義明の末子十郎義連を祖とする佐原光盛。
「同三郎左衞門尉」佐原光盛の従兄弟佐原秀連か。
「同又太郎」佐原義連の秀泰か。
「天野(あまのゝ)左衞門尉」承久の乱で活躍した中に天野政景がいるが、左衛門尉ではない。
「狩野介入道」工藤茂光の子で頼朝側近であった狩野宗茂か。
「後藤左衞門尉」後藤信康。「吾妻鏡」の比企一族征討軍の中に出る。
「小山新左衞門尉」小山朝政の子小山朝長。
「中沼五郎」不詳。「承久記」慈光寺本の泰時配下に「中間五郎」という名があり、院宣の送付先にこの名が出、新日本文学大系の注には、『豊前国下毛郡の中間氏の人か』と注する。
「伊吹七郎」不詳。
「宇都宮四郎」宇都宮成綱の子鹽谷朝業(しおやともなり)を指すが、彼は実朝暗殺後、出家して信生と号し隠遁、法然の弟子証空に師事して京で暮らしたとウィキの「塩谷朝業」あるので不審。
「筑後太郎左衞門尉」筑後知重か。
「葛西五郎兵衞尉」頼朝直参の御家人葛西清重か。
「角田太郎」千葉介胤正の女婿角田胤親か。
「同彌平次」角田弥平次は上総介広常の弟相馬常清の子孫とされる。
「相馬三郎」不詳。
「國分三郎」不詳。
「大須賀兵衞尉」平良文流千葉氏の大須賀氏初代惣領大須賀胤信の子弟か。
「佐野小次郎入道、同七郎太郎、同八郎」不詳。新古典文学大系の慈光寺本に泰時配下に『佐野左衞門政景』の名を載せ、その注に、『藤原氏藤成流、下野国の佐野氏か。吾妻鏡に宇治橋合戦で負傷した人として、佐野七郎入道の名がある』とある。確かに「吾妻鏡」第二十五の承久三(一二二一)年六月十八日の条の、「宇治橋合戰に手負の人々」の十四日の条に、その「佐野七郎入道」という記録はある。
「伊佐大進太郎」伊佐為宗またはその子息。伊佐為宗は藤原北家山蔭流で伊達氏の祖とされる常陸入道念西の息子。常陸国伊佐郡(現在の茨城県筑西市)を本領とした。妹の大進局が源頼朝の妾となり、頼朝との間に男子(貞暁)を生んでいる。文治五(一一八九)年に源頼朝が藤原泰衡追討のために行った奥州征伐では弟の次郎為重・三郎資綱・四郎為家とともに従軍、八月八日に奥州方の最前線基地信夫郡石那坂の城砦を攻略、佐藤基治など敵十八人の首を取って阿津賀志山の経ヶ岡にその首を梟したという。この奥州合戦の戦功により、伊佐為宗の一族は頼朝から伊達郡を賜った。為宗は伊佐郡に留ったが、念西と為宗の弟などが伊達郡に下って「伊達」を称し、伊達氏の祖となった。以上、参照したウィキの「伊佐為宗」には、但し書きで、「吾妻鏡」の六月十四日の条にあるこの「大進太郎」の戦死記載を為宗本人とする説と、その子息であるとする説があるとする。「吾妻鏡」の当該記載によれば宇治川渡渉時の溺死である。
「江戸八郎」江戸長光か。
「足立三郎」不詳。かく称する人物は「吾妻鏡」に複数出るが、年代的にピンとこない。
「佐々目太郎」不詳。
「階(はしの)太郎」不詳(後の「承久記」の私の注を参照されたい)。
「早川平三郎」不詳。
「丹」丹党。武蔵七党の一つで、秩父から飯能を勢力範囲とした同族的武士集団。平安時代に関東に下った丹治氏の子孫と称する。丹氏・加治氏・勅使河原氏・阿保氏・大関氏・中山氏などを称した。以下、武蔵七党関連は主にウィキの「武蔵七党」に拠ったが、一部のはそこからさらに個別にリンクした記載も参考にしたが、その注記は略した。
「兒玉」児玉党。武蔵七党の一つで、武蔵国児玉郡(現在の埼玉県児玉郡)から秩父・大里・入間郡及び上野国南部周辺を勢力範囲とした一族。元々の本姓は有道氏。他に児玉氏・庄氏・本庄氏・塩谷氏・小代氏・四方田氏などを称した。本拠地を現在の本庄市に置いて、武蔵七党の中でも最大の勢力を誇った。
「猪俣」猪俣党。武蔵七党の一つである横山党の一族(横山義隆の弟の時範(時資)が猪俣姓を名乗った)。武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町)の猪俣館を中心として勢力を持った武士団。猪俣氏・人見氏・男衾氏・甘糟氏・岡部氏・蓮沼氏・横瀬氏・小前田氏・木部氏などを名乗る。保元の乱・平治の乱及び一ノ谷の戦いで活躍した猪俣小平六範綱と岡部六弥太忠澄が知られる。
「本間」本間氏は武蔵七党の一つである横山党の海老名氏の流れを汲む一族。鎌倉時代から戦国時代まで佐渡国を支配した氏族で、名は相模国愛甲郡依知郷本間に由来する。鎌倉時代初期に佐渡国守護となった執権北条氏の支流大佛氏の守護代として佐渡に入った本間能久より始まるとされる。雑太城を本拠として勢力を伸ばし、幾つかの分家に分かれた(ウィキの「本間氏」に拠った)。
「澁谷」渋谷氏は相模国高座郡渋谷荘に拠った一族。現在の神奈川県大和市・藤沢市・綾瀬市一帯に勢力を持ち、現在の東京都渋谷区一帯も領地としており、後に分家が在住した(ウィキの「渋谷氏」に拠った)。
「波多野」ウィキの「波多野氏」によれば、平安末から鎌倉にかけて摂関家領であった相模国波多野荘(現在の神奈川県秦野市)を本領とした豪族。坂東武士としては珍しく朝廷内でも高い位を持った。前九年の役で活躍した佐伯経範が祖とされ、河内源氏の源頼義の家人として仕えていた。経範の父佐伯経資が頼義の相模守補任に際して、その目代となって相模国へ下向したのが波多野氏の起こりと考えられている。経範の妻は藤原秀郷流藤原氏で、のちに波多野氏は佐伯氏から藤原氏に改め、藤原秀郷流を称している。秦野盆地一帯に勢力を張り、河村郷・松田郷・大友郷などの郷に一族を配した。経範から五代目の子孫波多野義通は頼義の子孫である源義朝に仕え、その妹は義朝の側室となって二男朝長を産み、保元の乱・平治の乱でも義朝軍として従軍しているが、保元の頃に義朝の嫡男を廻る問題で不和となって京を去り、所領の波多野荘に下向したという。義通の子波多野義常は京武者として京の朝廷に出仕し、官位を得て相模国の有力者となる。義朝の遺児源頼朝が挙兵すると、義常は頼朝と敵対し、討手を差し向けられて自害した。義通のもう一人の子である波多野義景、孫の波多野有常は許されて鎌倉幕府の御家人となっている。有常は松田郷を領して松田氏の祖となったとあり、この「波多野」はこの義景・有常らの子孫と思われる。
「松田」松田氏は相模国足柄上郡松田郷(現在の同郡松田町)に発祥した、前に注した藤原秀郷流波多野氏一族の氏族。鎌倉時代には相模国内に残存した波多野氏一族を統合する惣領家であったと考えられている(ウィキの「松田氏」に拠った)。
「河村」河村氏は相模国足柄郡河村郷(現在の足柄上郡山北町)に発祥した前の松田氏と同じ波多野氏一族の氏族。サイト「戦国大名研究」の「河村氏」によれば、『相模の武士波多野遠義の子秀高から始まる。秀高は父から同国足柄郡上河村郷などの所領を譲られ、そこを本拠として河村氏を称した。本宗の波多野氏は源氏に従っていたが、秀高の子義秀は源頼朝の挙兵に応じなかったため、本貫地を失い大庭景義の計らいで斬罪を免れた』。その後、『義秀の弟千鶴丸は十三歳であったが、文治元年(1185)の奥州藤原氏の討伐に参陣を許されて、同国阿津賀志山の戦に功をたて、頼朝の命で加々美長清を烏帽子親として元服し河村四郎秀清と名乗った』。『戦後の論功行賞で、秀清は岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯と茂庭の地、そして摩耶郡の三ヶ所に所領を賜った。秀清はこの三ヶ所の内どこに居を定めたかについてははっきりしないが、茂庭の地が中間地であることから、有力視されている。また、秀清は備中国川上郡の成羽の地に所領を得て鶴首城を築いたともいい、さらに斯波郡の大巻にも大巻城を築いたとも伝えられている』。『以後、河村氏は北条執権政治のもとでは本宗の波多野氏とともに北条氏に従い、秀清は「承久の乱」に武家方として功をたてるなど活躍をしていることから奥州の所領には長くとどまらなかったようだ。奥州には、その子や一族の時秀の子貞秀らが配置され、その子孫が河村氏の分流として北上川東岸一帯に広まった。大萱生・栃内・江柄・手代森・日戸・渋民・川口・沼宮内の諸氏がそれである』とある。
「飯田」飯田氏は清和源氏の流れを汲むとする信濃国飯田荘を領した義基を祖とする姓。鎌倉時代の動静は不詳。「吾妻鏡」の承久の乱前後には飯田姓を見ない。
「土肥」相模国の土肥氏は中村荘司宗平次男実平が相模国土肥郷(現在の神奈川県湯河原町)を有したのが始まりとされる。実平は源頼朝の信任の厚い側近であったが、和田合戦に於いて和田方に就いたことから一時衰えていた。但し、このずっと後に実平の子孫土肥実綱が鎌倉将軍九条頼嗣や執権の北条時頼・時宗に仕えて活躍、土肥氏を再度興隆させている(以上はウィキの「土肥氏」に拠る)。
「土屋」土屋氏は坂東八平氏であった相模国中村荘司村岡宗平の子土屋宗遠が相模国中村荘((現在の小田原市中村原・中井町中村付近)において土屋郷司についた事に由来する。鎌倉時代には出雲国持田荘や出雲国大東荘、河内国茨田郡伊香賀郷の地頭を任官し、各地に勢力を伸張した(ウィキの「土屋氏」に拠る)。
「成田」成田氏出自には藤原氏説と武蔵七党の一つである横山党説がある。少なくとも鎌倉時代以前に武蔵国の北部に精力を張っていたとみられ、鎌倉時代には御家人になったと見られ、「吾妻鏡」では文治五(一一八九)年七月十九日の奥州藤原氏追討軍の「御伴の輩」の記載メンバーの最後の方に「成田七郎助綱」の名が見える。古文書からこの時の恩賞で成田氏は鹿角郡に所領を得たとされており、この承久の乱では宇治川の合戦で成田五郎と成田藤次が功を上げ、成田兵衛尉と五郎太郎が討死している(以上はウィキの「成田氏」を参照にし、「吾妻鏡」をも確認した)。
「伊藤」次に「宇佐美」氏が挙がっているのでこれは伊豆伊東氏か。
「宇佐美」サイト「戦国大名研究」の「宇佐美氏」によれば、『氏古代律令制のもとで、久寝郷と呼ばれたのちの伊東郷の北隣に宇佐美郷があった。いわゆる寄進地系荘園の一つで、開発領主は伊豆に栄えた工藤氏の一族であった。のちに久寝郷は南北に拡張され、宇佐美郷から河津郷まで含むようになったと思われる。それとともに、工藤氏の一族が分領するようになり、宇佐美郷には宇佐美氏、伊東郷には伊東氏、河津郷には河津氏が分領するようになった』。『宇佐美氏の初代は工藤祐経の弟とされる三郎祐茂で、鎌倉時代初期の武将であった。祐茂は、源頼朝に属して伊豆目代の山木兼隆を討ち、その後も多くの合戦に従って功労多く、頼朝二十五功臣の一人に数えられた。その後、頼朝に従って鎌倉へ入ると、そこに在住するようになり、頼朝に近仕した』。文治五(一一八九)年の『奥州征伐に加わり、翌六年には頼朝に従って上洛している。その子孫は『吾妻鑑』に多く散見し、『梅松論』や『太平記』にも登場するなど、かなり有力な在地武士であったことが知られる』とある。
「奥津(おきつ)」奥津(おくつ)氏は駿河国庵原(いはら)郡奥津(現在の静岡市清水区の一部と葵区及び富士市の富士川以西一帯)をルーツとする藤原南家流の一族。江戸期のこの清水にあった宿駅興津(おきつ)は、古くは「奥津(おくつ)」「息津(おきつ)」であったから、この読みは問題ない。
「武田五郎」甲斐武田氏第五代当主武田信光(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)。頼朝直参。当時の馬術・弓術に優れた弓馬四天王(他は小笠原長清・海野幸氏・望月重隆)の一人。
「小笠原次郎」やはり頼朝直参で弓馬四天王の一人であった小笠原長清(応保二(一一六二)年~仁治三(一二四二)年)。
「親上れば、子は留り、子息上れば父殘り、兄弟までも引分けて、上留むる心あり」武家の戦さに於ける一族滅亡を避けるための常套的な非情なる(「承久記」は『謀(はかりごと)こそ怖しけれ』と記す)戦略手段の一つであるが、それだけ、今回の戦いの勝敗の行方に対する深刻さが窺われると言える。
以下、ここでは最初に元とした「承久記」(底本の編者番号30~33)を示し(直接話法部分を改行した)、その後に幕府サイドの「吾妻鏡」の記載を、承久の乱勃発から幕府軍進発まで、一気に纏めて眺めてみたい。まずは「承久記」から。
明ル廿日ノトク、權大夫ノ許へ、又大名・小名衆リテ軍ノ會議評定有ケルニ、武藏守被ㇾ申ケルハ、
「是程ノ御大事、無勢ニテハ如何ガ有べカラン。兩三日ヲ延引セラレ候テ、片田舍ノ若黨・冠者原ヲモ召具候バヤ」
ト被ㇾ申ケレバ、權大夫、大ニイカリテ、
「不思議ノ俗ノ申樣哉。義時ハ、君ノ御爲ニ忠ノミ有テ不儀ナシ。人ノ讒言ニ依テ朝敵ノ由ヲ被二仰下一上ハ、百千萬騎ノ勢ヲ相具タリ共、天命ニ背奉ル程ニテハ君ニ勝進ラスべキカ。只果報ニ任スルニテコソアレ。一天ノ君ヲ敵ニウケ進ラセテ、時日ヲ可ㇾ移ニヤ。早上レ、疾打立」
ト宣ケレバ、其上ハ兎角申ニ不ㇾ及、各宿所々々ニ立歸リ、終夜用意シテ、明ル五月廿一日ニ由井ノ濱ニ有ケル藤澤左衞門尉清親ガ許へ門出シテ、同廿二日ニゾ被ㇾ立ケル。
一陣ハ相模守時房、二陣武藏守泰時、三陣足利ノ武藏前司義氏、四陣三浦駿河守義村、五陣ハ千葉介胤網トゾ聞へシ。此人々ニ相具ラル一兵ニハ、城入道・毛利藏人入道・少輔判官代・駿河次郎・左原次郎左衞門尉・同三郎左衞門尉・同又太郎・天野左衞門尉・狩野介入道・後藤左衞門尉・小山新左衞門尉・中沼五郎・伊吹七郎・宇都宮四郎・筑後太郎左衞門尉・葛西五郎兵衞尉・角田太郎・同彌平次・相馬三郎父子三人・國分三郎・大須賀兵衞尉・佐野小次郎入道・同七郎太郎・同八郎・伊佐大進太郎・江戸八郎・足立三郎・佐々目太郎・階〔見〕太郎・早川平三郎、サテハ奧ノ嶽ノ島橘左衞門尉、丹・兒玉ヨリ以下猪俣、相模國ニハ本間・澁谷・波多野・松田・河村・飯田・成田・土肥・土屋、伊豆國ニハ伊藤左衞門尉・宇佐美五郎兵衞・同與一、駿河國ニハ奧津左衞門尉・蒲原五郎・屋氣九郎・宿屋次郎、是等ヲ始トシテ十萬餘騎ニテ上ケリ。
東山道ノ大將軍ニハ武田五郎父子八人・小笠原次郎父子七人・遠山左衞門尉・諏方小太郎。伊具右馬允入道、軍ノケン見ニ被二指添一タリ。其勢五萬餘騎。式部丞朝時、四萬餘騎相具シテ北陸道へゾ向ケル。
東海道十萬餘騎、東山道五萬餘騎、北陸道四萬餘騎、共ニ三ノ道ヨリ十九萬餘騎ゾ上セラレケル。
鎌倉ニ留マル人々ニハ、大膳大夫入道・宇都宮入道・葛西壹岐入道・隼人入道・信濃民部大輔入道・隱岐次郎左衞門尉、是等也。親上レバ子ハ留マリ、子上レバ親留マル。父子兄弟引分上々留ラルル謀コソ怖シケレ。
●「階〔見〕太郎」不詳。「北條九代記」はそのままで「階(はしの)太郎」と訓じているが、これは姓では「しな」とも読む。ネット上では岩手県岩手郡雫石町に多数みられるとある。新日本古典文学大系がこれを「階見」と補綴してあるのには何らかの根拠があるのだろうが、見当たらない。識者の御教授を乞う。なお「吾妻鏡」には人名索引を見ても「階見」は勿論、「階」で始まる姓も見当たらない。
●「ケン見」各種軍事作戦時の実地検分役としての検見(けみ)の謂いか。
次に非常に長くなるが、承久の乱の勃発である伊賀光季の誅殺から幕府軍進発までの一部始終を「吾妻鏡」で見る。巻二十五の承久三年(一二二一)年五月の条々である。今回は長いので、日毎に分割、長い箇所では書き下し文の改行ごとに簡単な注を挿入し、その後は「▼」入りの一行空きとした。
□承久三(一二二一)年五月十九日
○原文
十九日壬寅。午刻。大夫尉光季去十五日飛脚下著關東。申云。此間。院中被召聚官軍。仍前民部少輔親廣入道昨日應勅喚。光季依聞右幕下〔公經。〕告。申障之間。有可蒙勅勘之形勢云々。未刻。右大將家司主税頭長衡死去十五日京都飛脚下著。申云。昨日〔十四日。〕。幕下。幷黄門〔實氏。〕仰二位法印尊長。被召籠弓場殿。十五日午刻。遣官軍被誅伊賀廷尉。則勅按察使光親卿。被下右京兆追討宣旨於五畿七道之由云々。關東分宣旨御使。今日同到著云々。仍相尋之處。自葛西谷山里殿邊召出之。稱押松丸〔秀康所從云々。〕。取所持宣旨幷大監物光行副狀。同東士交名註進狀等。於二品亭〔號御堂御所。〕披閲。亦同時廷尉胤義〔義村弟。〕。私書狀到著于駿河前司義村之許。是應勅定可誅右京兆。於勳功賞者可依請之由。被仰下之趣載之。義村不能返報。追返彼使者。持件書狀。行向右京兆之許云。義村不同心弟之叛逆。於御方可抽無二忠之由云々。其後招陰陽道親職。泰貞。宣賢。晴吉等。以午刻〔初飛脚到來時也。〕。有卜筮。關東可屬太平之由。一同占之。相州。武州。前大官令禪門。前武州以下群集。二品招家人等於簾下。以秋田城介景盛。示含曰。皆一心而可奉。是最期詞也。故右大將軍征罸朝敵。草創關東以降。云官位。云俸祿。其恩既高於山岳。深於溟渤。報謝之志淺乎。而今依逆臣之讒。被下非義綸旨。惜名之族。早討取秀康。胤義等。可全三代將軍遺跡。但欲參院中者。只今可申切者。群參之士悉應命。且溺涙申返報不委。只輕命思酬恩。寔是忠臣見國危。此謂歟。武家背天氣之起。依舞女龜菊申狀。可停止攝津國長江。倉橋兩庄地頭職之由。二箇度被下宣旨之處。右京兆不諾申。是幕下將軍時募勳功賞定補之輩。無指雜怠而難改由申之。仍逆鱗甚故也云々。晩鐘之程。於右京兆館。相州。武州。前大膳大夫入道。駿河前司。城介入道等凝評議。意見區分。所詮固關足柄。筥根兩方道路可相待之由云々。大官令覺阿云。群議之趣。一旦可然。但東士不一揆者。守關渉日之條。還可爲敗北之因歟。任運於天道。早可被發遣軍兵於京都者。右京兆以兩議。申二品之處。二品云。不上洛者。更難敗官軍歟。相待安保刑部丞實光以下武藏國勢。速可參洛者。就之。爲令上洛。今日遠江。駿河。伊豆。甲斐。相摸。武藏。安房。上總。下總。常陸。信濃。上野。下野。陸奥。出羽等國々。飛脚京兆奉書。可相具一族等之由。所仰家々長也。其狀書樣。
自京都可襲坂東之由。有其聞之間。相摸權守。武藏守相具御勢。
所打立也。以式部丞差向北國。此趣早相觸一家人々。可向者也。
○やぶちゃんの書き下し文
十九日壬寅。午の刻、大夫尉光季が去ぬる十五日の飛脚關東へ下著し、申して云はく、
「此の間、院中に官軍を召し聚めらる。仍つて前民部少輔親廣入道、昨日、勅喚に應ず。光季は右幕下〔公經(きんつね)。〕の告げを聞くに依つて、障りを申すの間、勅勘を蒙るべきの形勢有り」
と云々。
[やぶちゃん注:「午の刻」午後零時前後。この飛脚も推松(押松)とそれに従った胤義の私信を持った使者と同程度に俊足であることが分かる。そればかりか、次の段の西園寺公経の飛脚も二時間後に到着している。これらから考えると、「北條九代記」や「承久記」が推松を驚くべき速さであると評するのはやや眉唾と言わざるを得ない。特に「承久記」の推松を描写する後の展開などを見ると、明らかにこの推松をトリック・スターとして話柄の面白さを狙った印象が強いように私は感じる。]
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未の刻、右大將が家司主税頭長衡(ちからのかみながひら)が去ぬる十五日の京都飛脚下著し、申して云はく、
「昨日〔十四日。〕幕下幷びに黄門〔實氏。〕二位法印尊長に仰せて、弓場殿(ゆばどの)に召し籠めらる。十五日午の刻、官軍を遣はして伊賀廷尉(ていい)を誅せられ、則ち、按察使(あぜちの)光親卿に勅して、右京兆追討の宣旨を五畿七道に下さるに由。」
と云々。
「關東の分の宣旨の御使、今日同じく到著す。」
と云々。
[やぶちゃん注:「未の刻」午後二時前後。
「右大將」西園寺公経。
「黄門〔實氏。〕」公経の子、中納言西園寺実氏。
「伊賀廷尉」伊賀光季。
「五畿七道」律令制で定められた地方行政区画である五畿(山城・大和・河内・和泉・摂津)と七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)。日本全国の意。]
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仍つて相ひ尋ぬるの處、葛西谷山里殿(かさいがやつやまざとどの)邊りより之を召し出づ。押松丸(おしまつまる)と稱す〔秀康が所從と云々。〕。
持つ所の宣旨幷びに大監物(だいけんもつ)光行の副狀(そへじやう)、同じく東士(とうし)の交名(けうみやう)註進狀等を取りて、二品亭〔御堂御所と號す。〕に於いて披閲(ひえつ)す。亦、同時に廷尉胤義〔義村が弟。〕が私(わたくし)の書狀、駿河前司義村が許に到著す。是れ、
『勅定に應じ、右京兆を誅すべし。勳功の賞に於いては、請ふに依るべし。』
の由、仰せ下さるの趣き、之を載す。義村、返報に能はず、彼の使者を追ひ返し、件(くだん)の書狀を持ちて、右京兆が許に行き向ひて云はく、
「義村、弟の叛逆に同心せず。御方(みかた)に於いて無二の忠を抽(ぬき)んずべし。」の由と云々。
[やぶちゃん注:「葛西谷山里殿」先に「鎌倉攬勝考」から示した通り、これは葛西清重定蓮の屋敷の通称であろう。
「大監物光行」源光行(長寛元(一一六三)年~寛元二(一二四四)年)。「大監物」は中務省直属官で諸官庁の倉庫管理と出納事務監察官の長。ウィキの「源光行」によれば、寿永二(一一八三)年、木曽義仲が占拠していた京にあった光行は平家方に就いた父光季の謝罪と助命嘆願のために鎌倉に下向、頼朝にその才能を愛され、幕府成立後は政所初代別当となり、朝廷と幕府との関係を円滑に運ぶために鎌倉・京都間を往復したが、一方では朝廷からも河内守・大和守に任命され、この承久の乱の際には去就に迷った結果、後鳥羽上皇方に従ってしまった。但し、この時も乱後にその才を惜しんだ人々の助命嘆願によって重刑を免れている。歌人として、また「源氏物語」の研究家として注釈書「水原抄」や河内本の本文校訂で知られる。
「東士の交名註進狀」関東武士の内で、今回の乱で院方へ推参した者の名前を記した報告書。
「二品亭」「御堂御所」北条政子の屋敷。「御堂」と呼ばれた勝長寿院内にあった。]
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其の後、陰陽道親職(ちかもと)・泰貞・宣賢(のぶかた)・晴吉(はるよし)等を招き、午の刻〔初めて飛脚到來の時なり。〕を以つて卜筮(ぼくぜい)有り。
「關東、太平に屬すべし。」
の由、一同、之を占ふ。相州・武州・前大官令禪門・前武州以下、群集す。二品、家人等を簾下に招き、秋田城介景盛を以つて示し含めて曰く、
「皆、心を一にして、奉はるべし。是れ、最期の詞なり。故右大將軍が朝敵を征罰し、關東を草創してより以降(このかた)、官位と云ひ、俸祿と云ひ、其の恩、既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝の志、淺からんや。而るに今、逆臣の讒りに依つて、非義の綸旨を下さる。名を惜むの族(やから)は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代將軍の遺跡(ゆいせき)を全うすべし。但し、院中に參らんと欲する者は、只今、申し切るべし。」
てへれば、群參の士、悉く命に應じ、且つは涙に溺(しづ)みて返報申すに委(くは)しからず。只だ、命を輕んじ、恩に報ぜんことを思ふ。寔(まこと)に是れ、『忠臣、國危きに見(あらは)る』とは、此の謂(いひ)か。武家、天氣に背くの起こりは、舞女龜菊(かめぎく)の申し狀に依つて、攝津國長江・倉橋兩庄の地頭職を停止(ちやうじ)すべきの由、二箇度、宣旨を下さるの處、右京兆、諾(だく)し申さず。是れ、幕下將軍の時、勳功の賞に募りて定補(ぢやうほ)せらるるの輩(ともがら)、指(さ)せる雜怠(ざふたい)無くして改め難き由、之を申す。仍つて逆鱗甚だしき故なりと云々。
[やぶちゃん注:「相州」北条時房。
「武州」北条泰時。
「前大官令禪門」大江広元。
「前武州」足利義氏(文治五(一一八九)年~建長六(一二五五)年)。母は北条時政の娘時子で、正室は泰時の娘。北条義時・泰時父子を補佐し、晩年は幕府長老として重きを成した。
「溟渤」大海。
「幕下將軍の時、勳功の賞に募りて定補せらるるの輩、指せる雜怠無くして改め難き由、之を申す」頼朝さま将軍の御時、『論功行賞によって領地を安堵された者どものその地位は、かくすべき相応の不正・過失がない限りは、それを変改することは許されない』とはっきり明言致いております。]
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晩鐘の程、右京兆の館に於て、相州・武州・前大膳大夫入道・駿河前司・城介入道等、評議を凝らす。意見區分す。所詮、足柄・筥根の兩方の道路を固關(こげん)して相ひ待つべきの由と云々。
[やぶちゃん注:「固關」厳重に閉ざして。ただ、面白いのは、この「固関」という語が本来は、律令制に於いて天皇・上皇・皇后の崩御や天皇の譲位、摂関の薨去、謀反などの政変などの非常事態に際して、「三関」と呼ばれた伊勢国鈴鹿関・美濃国不破関・越前国愛発関(後に近江国の逢坂関)を封鎖して通行を禁じることをいう語であることである。参照したウィキの「固関」にも『権力の空白に乗じて、東国の反乱軍が畿内に攻め込むことや反対に畿内の反逆者が東国に逃れることを阻止するための措置である』から頗る皮肉な用法と言えよう。]
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大官令覺阿、云はく、
「群議の趣き、一旦は然るべし。但し、東士一揆せずんば、關を守りて日を渉(わた)るの條、還つて敗北の因とたるべきか。運を天道に任せ、早く軍兵を京都へ發遣せらるべし。」てへれば、右京兆、兩議を以つて、二品の處へ申す。二品、云はく、
「上洛せずんば、更に官軍を敗り難からんか。安保(あぶ)刑部丞實光以下の武藏國の勢を相ひ待ち、速かに參洛すべし。」
てへれば、之に就き、上洛せしめんが爲に、今日、遠江・駿河・伊豆・甲斐・相摸・武藏・安房・上總・下總・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽等の國々に、京兆の奉書を飛脚し、一族等を相ひ具すべきの由、家々の長に仰する所なり。其の狀の書樣(かきざま)。
京都より坂東を襲ふべきの由、其の聞へ有るの間、
相摸權守・武藏守、御勢を相ひ具し、打ち立つ所なり。
式部丞を以つて北國へ差し向く。此の趣き、
早く、一家の人々に相ひ觸れ、向ふべき者なり。
[やぶちゃん注:「大官令覺阿」大江広元。
「群議の趣き、一旦は然るべし。但し、東士一揆せずんば、關を守りて日を渉るの條、還つて敗北の因とたるべきか。運を天道に任せ、早く軍兵を京都へ發遣せらるべし」この台詞、前に見た通り、「北條九代記」や元の「承久記」では、泰時が戦力の不安からビビって増兵確保のために進発延引を進言し(これ自体が実は泰時らしくないと私は思う)、怒り心頭に発した義時が叱咤直命する頗る芝居がかった台詞となっている(これもまた冷血無慚の策士義時らしくない)。私はどうも「吾妻鏡」の広元の冷徹な意見具申(延引して軍勢到着を待つというのは拙策であるというのは実はこの後にやはり広元発言として「吾妻鏡」に出るのである)。と、それを受けた冷たい顏の義時の即決、そしてそれを聴いてタッと立ち上がる壮士泰時という方が、自然でリアルな気がする。私は泰時贔屓である。
「京兆」義時。
「相摸權守」時房。
「武藏守」泰時。
「式部丞」北条義時次男で名越流北条氏の祖北条朝時(建久四(一一九三)年~寛元三(一二四五)年)。北条泰時の異母弟。参照したウィキの「北条朝時」によれば、和田の乱の前年の建暦二(一二一二)年五月七日、二十歳の時に将軍実朝の御台所信子に仕える官女佐渡守親康の娘に艶書を送り、一向に靡かないことから、業を煮やした末、深夜に彼女の局に忍んで誘い出した事が露見、実朝の怒りを買って父義時から義絶され、駿河国富士郡に蟄居していたが、この和田の乱で鎌倉に呼び戻されて奮戦したとある。この後、御家人として幕府に復帰、父義時は承久の乱でも『大将軍として朝時を起用する一方、小侍所別当就任、国司任官はいずれも兄の朝時を差し置いて同母弟の重時を起用するなど、義時・朝時の父子関係は複雑なものがあり、良好ではなかったと見られ』、朝時は『得宗家の風下に甘んじ』ざるを得なかった。その後の『名越流は得宗家には常に反抗的で、朝時の嫡男光時をはじめ時幸・教時らが宮騒動、二月騒動で度々謀反を企てている』とある。]
□五月二十日
○原文
廿日癸卯。可抽世上無爲懇祈之旨。示付莊嚴房律師。幷鶴岳別當法印定豪等。亦行三萬六千神祭。民部大夫康俊。左衞門尉淸定奉行之云々。
○やぶちゃんの書き下し文
廿日癸卯。世上無爲(ぶゐ)の懇祈(こんき)を抽(ぬき)んずべきの旨、莊嚴房(しやうごんばう)律師幷びに鶴岳別當法印定豪(ぢやうごう)等に示し付く。亦、三萬六千神祭を行ふ。民部大夫康俊、左衞門尉淸定、之を奉行すと云々。
[やぶちゃん注:「世上無爲の懇祈を抽んずべき」世の無事を心から願う祈禱を一際、念を込めて行うよう。
「莊嚴房律師」退耕行勇。
「三萬六千神祭」神仙思想とごっちゃになった道教の影響下にある陰陽道では三万六千というとんでもない数の神がおり(「全訳吾妻鏡」の別巻の貴志正造氏の「用語注解」によれば、三万六千は陰暦の『百年の日数で、その日を支配する神を三万六千神という』とある)、それらを祀って災厄を祓うことを祈る祭儀。三日の潔斎の後、終夜奉祀を行う。]
□五月二十一日
○原文
廿一日甲辰。午刻。一條大夫賴氏自京都下著〔去十六日出京云々。〕。到二品亭。宰相中將〔信能。〕以下一族。多以雖候院中。獨不忘舊好。馳參云々。二品乍感悦。尋京都形勢。賴氏述委曲。自去月洛中不靜。人成恐怖之處。十四日晩景。召親廣入道。又被召籠右幕下父子。十五日朝。官軍競起。警衞高陽院殿門々。凡一千七百餘騎云々。内藏頭淸範著到之。次範茂卿爲御使。被奉迎新院。則御幸〔御布衣。〕。與彼卿同車也。次土御門院〔御烏帽子直垂。與彼卿二品御同車。〕。六條。冷泉等宮。各密々入御高陽院殿。同日。大夫尉惟信。山城守廣綱。廷尉胤義。高重等。奉勅定。引率八百餘騎官軍。襲光季高辻京極家合戰。縡火急而。光季并息男壽王冠者光綱自害。放火宿廬。南風烈吹。餘烟延至數十町〔姉小路東洞院。〕。申尅。行幸于高陽院殿。歩儀。攝政供奉。近衞將一兩人。公卿少々參。賢所同奉渡。同時。火起六角西洞院。欲及閑院皇居之間。所令避御也〔御讓位以後初度。〕。又於高陽院殿。被行御修法。仁和寺宮道助并良快僧正以下奉仕之。以寢殿御所爲壇所云々。」今日。天下重事等重評議。離住所。向官軍。無左右上洛。如何可有思惟歟之由。有異議之故也。前大膳大夫入道云。上洛定後。依隔日。已又異議出來。令待武藏國軍勢之條。猶僻案也。於累日時者。雖武藏國衆漸廻案。定可有變心也。只今夜中。武州雖一身。被揚鞭者。東士悉可如雲之從竜者。京兆殊甘心。但大夫属入道善信爲宿老。此程老病危急之間籠居。二品招之示合。善信云。關東安否。此時至極訖。擬廻群議者。凡慮之所覃。而發遣軍兵於京都事。尤遮幾之處。經日數之條。頗可謂懈緩。大將軍一人者先可被進發歟者。京兆云。兩議一揆。何非冥助乎。早可進發之由。示付武州。仍武州今夜門出。宿于藤澤左衞門尉淸親稻瀬河宅云々。
○やぶちゃんの書き下し文
廿一日甲辰。午刻、一條大夫賴氏、京都より下著し〔去ぬる十六日出京すと云々。〕、二品亭へ到る。宰相中將〔信能。〕以下の一族、多く以て院中に候ずと雖も、獨り舊好を忘れず、馳せ參ずと云々。
二品感悦し乍ら、京都の形勢を尋ぬ。賴氏、委曲を述ぶ。去ぬる月より洛中靜かならず。人、恐怖を成すの處、十四日の晩景、親廣入道を召す。又、右幕下父子を召し籠めらる。十五日の朝、官軍競ひ起こり、高陽院殿(かやのゐんどの)の門々を警衞す。凡そ一千七百餘騎と云々。
内藏頭淸範、之を著到(ちやくたう)す。次いで範茂卿、御使として、新院を迎へ奉らる。則ち御幸す〔御布衣(おんほい)。〕。彼の卿と同車なり。次で土御門院〔御烏帽子直垂。彼の卿二品と御同車。〕、六條、冷泉等の宮、各々密々に高陽院殿に入御す。同じ日、大夫尉惟信、山城守廣綱、廷尉胤義、高重等、勅定を奉(うけたまは)り、八百餘騎の官軍を引率して、光季の高辻京極の家を襲ひて合戰す。縡(ここ)に、火急にして、光季幷びに息男壽王冠者光綱自害し、宿廬(しゆくろ)に火を放つ。南風烈しく吹き、餘烟數十町に延び至る〔姉小路東洞院。〕。申の尅、高陽院殿に行幸したまふ。歩儀(ほぎ)。攝政、供奉す。近衞の將一兩人、公卿少々參ず。賢所(かしこどころ)同じく渡し奉る。同時に、火、六角西洞院に起こり、閑院、皇居に及ばんと欲するの間、避けしめ御(たま)ふ所なり〔御讓位以後、初度〕。又、高陽院殿に於いて、御修法(みしゆはふ)を行はらる。仁和寺宮道助(だうじよ)幷びに良快僧正以下、之を奉仕す。寢殿を以つて御所の壇所(だんしよ)と爲すと云々。
[やぶちゃん注:「一條大夫賴氏」公卿一条頼氏(建久九(一一九八)年~宝治二(一二四八)年)は。一条高能三男。従二位皇后宮権大夫。ウィキの「一条頼氏」によれば、建保三(一二一五)年、叙爵(従五位下叙位)、建保五(一二一七)年、侍従に補せられた。後に北条時房の娘を室に迎え、この承久三(一二二一年)年には嫡男能基が誕生していた。承久の乱では叔父信能及びその兄弟であった尊長らが後鳥羽上皇に積極的に与したのに対し、彼は北条氏の縁者であることから身の危険を感じ、速やかに京都を脱出して鎌倉へ逃れたのであった。乱後、叔父らは処刑されたが、頼氏は貞応二(一二二三)年に右衛門権佐に任ぜられている。後は順調に昇進、嘉禎二(一二三七)年には従三位に叙せられて公卿に列した。暦仁元(一二三八)年に正三位皇后宮権大夫、仁治元(一二四〇)年には左兵衛督に任ぜられて宝治元(一二四七)年には従二位に叙せられた。二人の息子の室も北条氏から迎えて鎌倉幕府に出仕させ、貞応三(一二二四)年の伊賀氏の乱においても叔父一条実雅には加担せず、引き続き北条氏を支持することで家格の維持に務めた、とある。
「高陽院殿」桓武天皇の皇子賀陽(かや)親王の旧邸宅で平安京左京中御門の南、郁芳(ゆうほう)御門や冷泉院の東北にあった。現在の京都御所の東南直近の上京区京都府庁周辺に相当する。
「内藏頭淸範」藤原清範なる人物であるが、これは後鳥羽院の判官代で北面の武士から和歌所寄人に至った歌人で能書家であった藤原清範とは没年から別人で、詳細は不詳。
「新院」順徳院。
「布衣」平服。
「姉小路東洞院」光季の屋敷は京の東西中央を通る四条大路の三筋下がった五条大路の一本北の高辻小路と平安京の最北の南北路である東京極大路の接する附近、現在の河原町五条交差点の北附近であるから、姉小路東洞院(現在の地下鉄烏丸大池駅附近)までは直線距離で一・七キロメートルほどであるから、この「數十町」(十町は一〇〇九メートル)は誇大過ぎる。
「申の尅」午後四時前後。
「高陽院殿に行幸したまふ」「行幸」とあるから仲恭天皇。
「歩儀」徒歩。
「賢所」賢所は宮中で三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を祀る場所。ここは八咫鏡そのものを指す。
「六角西洞院」現在の中京区西洞院六角町附近で烏丸大池の直近であるから、先の延焼が再燃したものであろう。
「攝政」九条道家。
「御讓位以後、初度」皇居外に出て、里内裏に移ったのは初めてであったことを言う。]
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今日。天下重事(ちようじ)等、重ねて評議す。住所を離れて官軍に向ひ、左右(さう)無く上洛すこと、如何に思惟(しゆい)有るべきかの由、異議有るの故なり。前大膳大夫入道云はく、
「上洛を定める後、日を隔つに依つて、已に又、異議出來(しゆつたい)す。武藏國の軍勢を待たしむの條、猶ほ僻案(へきあん)なり。日時を累(かさ)ぬるに於いては、武藏國の衆と雖も、漸く案を廻らし、定めし變心有るべきなり。只だ、今夜中に、武州一身と雖も、鞭を揚げられば、東士、悉く雲の竜に從ふべきがごとく者なるべし。」
てへれば、京兆、殊に甘心す。但し、大夫属入道善信は宿老たり。此の程、老病危急の間、籠居す。二品之を招き示し合はすに、善信云はく、
「關東の安否、此の時に至り極り訖んぬ。群議を廻らさんと擬すは、凡そ慮(りよ)の覃(およ)ぶ所なるも、軍兵を京都へ發遣する事は、尤も遮幾(しょき)するの處なり。日數を經るの條、頗る懈緩(けくわん)と謂ひつべし。大將軍一人は先づ進發せらるべきか。」てへれば、京兆云はく、
「兩議の一揆、何ぞ冥助に非るか。早く進發すべし。」
の由、武州に示し付く。仍つて武州、今夜、門出し、藤澤左衞門尉淸親が稻瀬河の宅に宿すと云々。
[やぶちゃん注:「大夫属入道善信」三善善信。
「藤澤左衞門尉淸親が稻瀬河の宅」先に見た通り、「承久記」では清親の居宅を「由比の濱」とするが稲瀬川は由比ヶ浜の内である。]
□五月二十二日
○原文
廿二日乙巳。陰。小雨常灑。卯の尅。武州進發京都。從軍十八騎也。所謂子息武藏太郎時氏・弟陸奥六郎有時・又北條五郎・尾藤左近將監〔平出弥三郎。綿貫次郎三郎相從。〕・關判官代・平三郎兵衞尉・南條七郎・安東藤内左衞門尉・伊具太郎・岳村次郎兵衞尉・佐久滿太郎・葛山小次郎・勅使河原小三郎・横溝五郎・安藤左近將監・塩河中務丞・内嶋三郎等也。京兆招此輩。皆與兵具。其後。相州。前武州。駿河前司。同次郎以下進發訖。式部丞爲北陸大將軍。首途云々。
○やぶちゃんの書き下し文
廿二日乙巳。陰(くも)る。小雨常に灑(そそ)ぐ。卯の尅、武州、京都へ進發す。從軍十八騎なり。所謂、子息武藏太郎時氏・弟陸奥六郎有時、又、北條五郎・尾藤左近將監〔平出弥三郎、綿貫次郎三郎を相ひ從ふ。〕・關判官代・平三郎兵衞尉・南條七郎・安東藤内左衞門尉・伊具太郎・岳村次郎兵衞尉・佐久滿太郎・葛山小次郎・勅使河原小三郎・横溝五郎・安藤左近將監・塩河中務丞・内嶋三郎等なり。京兆、此の輩を招き、皆に兵具を與へ、其の後、相州・前武州・駿河前司・同次郎以下。進發し訖んぬ。式部丞は北陸大將軍として、首途(かどで)すと云々。
[やぶちゃん注:人物同定をやり始めるとエンドレスになるので、ここでは姓名同定のみとし、同定には新人物往来社の貴志正造「全訳吾妻鏡」に補注するもののみに従った(以下同じ)。基本、表記が全く同じ場合は既出分は載せない。
「北條五郎」北条実義。
「尾藤左近將監」尾藤景綱。
「關判官代」堰実忠。
「平三郎兵衞尉」平盛綱。
「南條七郎」南条時員。
「伊具太郎」伊具盛重。
「佐久滿太郎」佐久家盛。
「勅使河原小三郎」勅使河原則直。
「横溝五郎」横溝資重。]
□五月二十三日
○原文
廿三日丙午。右京兆。前大膳大夫入道覺阿。駿河入道行阿。大夫屬入道善信。隱岐入道行西。壹岐入道。筑後入道。民部大夫行盛。加藤大夫判官入道覺蓮。小山左衞門尉朝政。宇都宮入道蓮生。隱岐左衞門尉入道行阿。善隼人入道善淸。大井入道。中條右衞門尉家長以下宿老不及上洛。各留鎌倉。且廻祈禱。且催遣勢云々。
○やぶちゃんの書き下し文
廿三日丙午。右京兆、前大膳大夫入道覺阿、駿河入道行阿、大夫屬入道善信、隱岐入道行西、壹岐入道、筑後入道、民部大夫行盛、加藤大夫判官入道覺蓮、小山左衞門尉朝政、宇都宮入道蓮生、隱岐左衞門尉入道行阿、善隼人入道善淸、大井入道、中條右衞門尉家長以下の宿老、上洛に及ばず。各々鎌倉に留む。且は祈禱を廻らし、且は遣勢を催すと云々。
[やぶちゃん注:「駿河入道行阿」中原季時。
「隱岐入道行西」二階堂行村。
「壹岐入道」先に注した葛西三郎淸重定蓮。
「筑後入道」八田知家。
「民部大夫行盛」二階堂行盛。
「加藤大夫判官入道覺蓮」加藤景廉。
「宇都宮入道蓮生」宇都宮頼綱。
「隱岐左衞門尉入道行阿」二階堂基行。
「善隼人入道善淸」三善康清。]
□五月二十五日
○原文
廿五日戊申。自去廿二日。至今曉。於可然東士者。悉以上洛。於京兆所記置其交名也。各東海東山北陸分三道可上洛之由。定下之。軍士惣十九萬騎也。
東海道大將軍〔從軍十万余騎云々。〕。
相州 武州 同太郎 武藏前司義氏 駿河前司義村 千葉介胤綱
東山道大將軍〔從軍五万余騎云々。〕。
武田五郎信光 小笠原次郎長淸 小山新左衞門尉朝長 結城左衞門尉朝光
北陸道大將軍〔從軍四万余騎云々。〕。
式部丞朝時 結城七郎朝廣 佐々木太郎信實[やぶちゃん注:下略。]
○やぶちゃんの書き下し文
廿五日戊申。去ぬる廿二日より、今曉に至るまで、然るべき東士に於いては、悉く以つて上洛す。京兆に於いては其の交名(けうみやう)を記し置く所なり。各々東海・東山・北陸の三道に分ちて上洛すべきの由、之を定め下す。軍士、惣(すべ)て十九萬騎なり。
東海道大將軍〔從軍十万余騎と云々。〕
相州 武州 同太郎 武藏前司義氏 駿河前司義村 千葉介胤綱
東山道大將軍〔從軍五万余騎と云々。〕
武田五郎信光 小笠原次郎長淸 小山新左衞門尉朝長 結城左衞門尉朝光
北陸道大將軍〔從軍四万余騎と云々。〕
式部丞朝時 結城七郎朝廣 佐々木太郎信實[やぶちゃん注:下略。]
[やぶちゃん注:「交名」将軍への上申や幕府への報告のための、戦役に参加した人名を連記した文書のこと。
「同太郎」北条時氏(建仁三(一二〇三)年~寛喜二(一二三〇)年)。北条泰時の長男。当時満十八歳。嫡子で泰時も期待していたが惜しくも病いのために早世した。
「武藏前司義氏」足利義氏。]
以上を以って本「○鎌倉軍勢上洛」〈承久の乱【十三】――幕府軍進発す〉を終わるが、これら複数の資料を読み比べてみると、その叙述の視点の違いや作話のポイントに非常に面白いものが感じられて、まだまだ興味は尽きないが、今回の注釈はこの辺で。――
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