フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 耳嚢 巻之八 剛氣朴質の人氣性の事 | トップページ | 栂尾明恵上人伝記 66 »

2013/12/23

栂尾明恵上人伝記 65

 或る人の云はく、佛法いまだ渡らざる先は、震旦・本朝に壽福共に豐かなる人、何の力に依れるにやと云々。是の問(とひ)、答へんとするに足らず。我が朝に未だ佛法なかりし時は、震旦に盛なり。震旦にいまだ無かりし時は、天竺にあり。天竺に無かりし時は西方にもあり、東方にもあり。無始より佛々出世(しゆつせ)し、無量の世界に佛・菩薩みちみちて佛法を弘通(ぐつう)せずと云ふことなし。彼の國の衆生は此の國に生れ、此の國の衆生は彼所に生ず。されば佛法の渡らざりし所なればとて、佛法を修したる人の生れざるべき理あらんや。かりそめのことまでも、佛法の恩に非ずと云ふことなし。かく厚く深く佛法の恩を蒙つて、人界に生を受け福祿に飽ける者、一々に佛法の恩といふことを知らずして、佛法に向ひて愚なる振舞を致し、庄園・田畠を惜しみ、珍財をなげず、伽藍をも興せず、法理をも明めずして、一生空しくして過すこと、大愚痴(だいぐち)、はかなくも哀にもあさましくも覺えたり。さらば諫むるに聞くべきをば直に教訓し、諫むるに聞かざるをば方便を廻らすべし。俗家は福を增長せんが爲に、好んて施を行ぜんことを勵むべし。僧侶は罪を怖畏(ふゐ)するが故に、強(しひ)て受けざらんことをなすべし。况や僧として寺領・三寶物財の爲に、祕計を廻らすことあらんや。さるに付きては彌〻在家の誹謗を受け、三寶を輕(かろ)しめて、一所轉變(てんぺん)するのみにあらず、二所三所に及びて悉く伽藍荒廢の地と成るべし。是れ俗家の咎はさることにて、皆僧の不當なるに依りてなり。見(み)及び聞(きゝ)及びもしたまふらん。高辨ほどの無德の法師なれども、物のほしき心のなき故にやらん、物たばんと申す人は、貴賤につきて多けれども、老僧が物掠(かす)め取らんとする人更になし。人の寄進するまゝに許さんには、此の山中に千僧も任しぬべし。人のたぶまゝにて取らば、此の寺内に數十の庫(くら)をも立つべし。されども、旁(かたがた)存する子細ありて、我が受用聊かの外は受くることなし。是れ末代なりといへども此(かく)の如し。其の所の寺領の相違し違亂するは、其寺の住僧の失(しつ)なるべし。我が方を顧みて恥ぢたまふべし。人を恨み人を嗔(いか)ることあるべからずと云々。
[やぶちゃん注:「震旦」中国。
「無始」原義は、万象は因縁で成り立っており、その因を幾ら遡っても果てしがなく、始めがないということ。転じて、無限に遠い過去、大昔の意。
「弘通」「ぐずう」とも読む。仏教が広く世に行われること。
「福祿」俸禄。現実世界に於いて具体に与えられるあらゆるものを指す。後文から所謂、社会的な給与である知行・扶持・切米などを指すことが分かる。
「此の寺」栂尾高山寺。]

« 耳嚢 巻之八 剛氣朴質の人氣性の事 | トップページ | 栂尾明恵上人伝記 66 »