日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 18 大学の行き帰り 富士山と猿
学校へ行く途中で、私は殆ど七十マイルも離れた富士を見る。これは実に絶間なきよろこびの源である。今日は殊に空気が澄んでいたので、富士は新しい雪の衣をつけて、すっくりと聳えていた。その輪郭のやわらかさと明瞭さは、誠に壮麗を極めていた。上三分の一は雪に覆われ、両側の斜面にはもっと下まで雪が積って、どの方角から雪嵐が来たかを示していた。
[やぶちゃん注:「七十マイル」112キロメートル弱。当時モースのいた加賀屋敷から富士山頂まで地図上の実測直線距離では101キロメートルほどである。]
大学からの帰りには、長い坂を登らねばならない。私はきっと人力車を下りて歩く。一軒の店には、鎖でとまり木へしばりつけられた猿が四匹いる。一セントの十分の一出すと、長い棒のさきにつけた浅い木皿に、カラカラな豆若干、或は人参数切を入れたものを買うことが出来る。人々はちょっと立止って猿に餌をやり、私はポケットに小銭を一つかみ入れておいて、毎日猿と遊ぶ。私は猿共が往来の真中から投げられた豆でさえも捕り得ることを発見した。彼等は人間の子供が球を捕えるように両手で豆を捕えるが、どんなに速く投げても、決して失敗しない。今や彼等は、私を覚えたらしい。皿を、もうすこしで手の届く場所まで差出してからかうと、彼等は私に向って眉をひそめ怖しい顔をし、棲木(とまりぎ)の上でピピョンピョン跳ね、ドンドン足踏みをして、その場所の軽い木の建造物を文字通りゆすぶる。檻の内に閉じ込められている、大きな、意地の悪い老猿も、同情して鉄棒をつかみ、素敵な勢でガタガタやる。猿を見れば見る程、私は彼等が物事をやるのに、人間めいた所があるのを認める。彼等は、私ならば精巧な鑷子(ピンセット)を使わねばならぬような小さな物を、拇指と他の指とでつまみ上げる。
[やぶちゃん注:このサルのエピソード、本邦の進化論事始のモース先生の書いたものであるという観点から見ると頗る面白い。
「大学からの帰りには、長い坂を登らねばならない」当時の法文理三学部は神田錦町(通称は神田一ツ橋)にあった(現在の白山通り一ツ橋交差点角にある学士会館の辺り)。当時、加賀屋敷(現在の東大構内の北、言問通りに面した工学部棟辺り)と神田一ツ橋をどういうルートで人力車が走ったかが今一つ分からないが、「長い坂」というところからは(やや位置的には不審があるが)菊坂のことであろうか? 郷土史研究家の御教授を乞えれば幸いである。]