日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 25 皇居内の庭園
帝室のお庭に就ては、大部書かれたから、私は詳記しまい。これ等は、ニューヨーク中央公園の荒れた場所に似ているが、大なる築山や丘や、深い谷や、自然のままと見えるが検査すると、断層、向斜、背斜がごちゃまぜで、地質学のあらゆる原理が破ってあるので、そこで初めて平地の上にこれ等すべてを築き上げたのだということを理解する岩石の上を、泡立てて流れ落ちるいくつかの滝等によって、中央公園よりも、もっと自然に近く、もっと美しい。この目的に使用する大きな岩は、百マイル以上も遠い所から、文字通り持って来られたのである。この山間の渓流の横手には、苔むした不規則の石段があり、それを登って行くと頂上に都びた東屋(あずまや)がある。ここ迄来た人は、思わず東屋に腰を下して、この人工的の丘からの景色に見とれる。所が驚くことには、東屋から、美しい芝生と思われるものが、はるか向う迄続いている。こんな芝生が存在することが不可能であることを、徐々に理解する人は、席を離れて調べに行くと、最初は高さ六インチばかりの小さな灌木に出あい、それから緩傾斜を下りるに従って、灌木の背が段々高くなる。なお進むと、灌木はますます高くなり、小さな木になって来るが、それ等は上方で、完全な平面に刈り揃えてある。丘の麓に来た人は、大木の林の中へ入って行くのだが、これ等の梢も、他の木々の高さと同じ高さに刈り込んである。この庭は三百年の昔からあるので、かかる驚く可き形状をつくり上げる時は充分あったのである。写生図なしで説述しようとした所で無益だし、このような景色を写生することは私の力では出来ない。もっとも私は、根と枚とが殆どこんがらかった大木の輪郭だけを写生したにはしたが(図278)……大きな竹藪の美しさは目についた。花床は無かったが、風変りな石の橋や、小径や、東屋や、水平の棚に仕立てた大きな藤、その他があった。この場所は土曜日だけ開き、特別な切符を必要とするが、日本の習慣が我々のと反対である例はここにも現れ、切符は入場する時に手渡さず、出る時に渡す。
[やぶちゃん注:現在の北の丸公園辺りかと思われる。
「ニューヨーク中央公園」原文“Central Park in New York”。
「断層、向斜、背斜がごちゃまぜ」“a conglomeration of faults, synclinals, anticlinals,”。構造地質学用語で“ault”は断層、“synclinal”は向斜(こうしゃ。Syncline とも)、“anticlinal”は背斜(はいしゃ。Anticline とも)。褶曲構造に於いてその地形の「谷」になっている部分が向斜、地形の山になっている部分が背斜である。
「百マイル以上も遠い所」凡そ161キロメートル弱。重量約十一トンの「百人持ち石」とも言われる江戸城の築城石は、家康の命によって慶長一一(一六〇六)年より始められた江戸城の大拡張工事に伴い、現在の静岡県賀茂郡東伊豆町稲取から切り出された。稲取―江戸城は直線で120キロメートル(因みに東京―稲取の路線距離は151・8キロメートルある)。
「六インチ」15・2センチメートル。
「三百年の昔」江戸城自体は室町時代の扇谷上杉氏上杉持朝家臣の太田道灌が長禄元(一四五七)年に築城したものだが、明治十年から二百八十七年前の天正一八(一五九〇)年八月一日、徳川家康は駿府から公式にここに入城して居城とした。]
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