耳嚢 巻之八 糞穴に落し笑談の事
糞穴に落し笑談の事
文化四年の夏秋の事なり。鍋島十之助家來に川島何某とて小兵(こひやう)なる男ありし。友どち打連(つれ)て淺草觀音へ詣うで、そここゝ遊びあるきしに、並木の茶屋にて支度抔なしけるが、酒飮の少し醉興にも有(あり)けん、厠へ至りしに、町裏の厠は板を渡して嚴重ならず。然るに彼男、鼻紙袋をあやまつて糞坪の内へ取落しけるが、印形書付もあり、金子も南鐐にて七片ありしゆゑ、何卒取りいださんと百計なしぬれど取得ざれば、密に衣類を片脇に拔ぎて丸裸になり糞坪の内へ入りて、かれこれせし内に、何か蹈割(ふみわり)し音なしければ、さては此所ならんと彌(いよいよ)足して搜りけるに、此折ふし往來の女兩三人、是も彼茶屋に寄りて小用たさんと、人の居るとはしらで彼の用場へ至り戸を明しに、何か糞坪の内より手など出しけるゆゑ、わつと言て氣絶して、これも糞坪へ落入りしゆゑ、右物音に驚き家内連れの者も一同立集(たちあつま)り、漸(やうやう)引出して洗ひ淸めけるが、其邊一統の物笑ひなりしとかや。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。なんとも美事に臭ってくるリアルな話である。
・「文化四年の夏秋」「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏。ロケーションとしては鼻が曲がりそうな夏がいい。
・「鍋島十之助」不詳。
・「並木」旧浅草並木町。現在の雷門二丁目。雷門から直進して駒形橋に抜ける二百メートルほどの通りの左右で、当時は雷神門前広小路とも呼ばれた。
・「書付」一般的には金銭貸借を証明する書類。勘定書。証文。
・「南鐐」南鐐二朱銀。本来江戸期の銀貨は秤量貨幣(しょうりょうかへい/ひょうりょうかへい:使用に際して貴金属としての品位・量目を検査し、その交換価値を計って用いる貨幣。)であったが、この南鐐二朱銀は金貨の通貨単位を担う計数貨幣として「金代わり通用の銀」、つまり「南鐐」という通貨として使用を許す特別の銀を意味する呼称を冠したものであった。形状は長方形で、表面には「以南鐐八片換小判一兩」と明記されている。「南鐐」とは「南挺」とも呼ばれ、良質の灰吹銀、即ち純銀の意で、事実、明和九(一七七二)年に創鋳された当初のそれは純銀度九八%と極めて高いものであった。これが「七片」(七枚)というと、二朱金(銀通用)二枚が一分であるから三分二朱、一分は四分の一両及び四朱に相当した。
■やぶちゃん現代語訳
糞壺(くそつぼ)に落ちた笑い話の事
文化四年の夏か秋のことである。
鍋島十之助殿御家来衆のうちに川島何某(なにがし)と申す小柄な男があった。
友達らとうち連れて、浅草観音に詣でては、そこここを遊び歩き、雷門前の並木通りの茶屋にて飯を食うた。
そこで川島、茶屋の厠(かわや)へと参った。
まあ、そのような町裏の厠と申すは、これ――大きなる桶の上に板を渡いただけの、およそ粗末なもので――それに川島はこれまた、酒なんどを飲んで、幾分、酔っぱらって足元もおぼつかなかったからでもあったものか――何とまあ、糞壺の中(なか)へ誤って紙入れを落としてしもうた。
その紙入れの内には印鑑やら大事な書付が入っていた上、金子(きんす)も南鐐二朱銀七枚ばかりも入っておった。さればこそ、
「……これは、なんとしても取り出さねばならん……」
といろいろと試みてみたものの、これ、いっかな、うまくゆかぬ。
初めは暗がりの中(うち)にも、ぼんやり浮いておるように見えた紙入れの形も、こきまぜてしもうたからか、影も形も見えずなってしもうた。
「――さればこそ……」
と、暗き厠内なれば、そおっと衣服を脱いで、厠の隅に積みおき、すっぽんぽんの丸裸になると、糞壺の中に
……ドゥッ!……ドッぷウン!……
と入り込む……
……ズズッ……ズッぷン! にゅるウン!……
と糞の海原の中を足で探りを入れつつ歩むうち……
……じゅヌ! じゅヌッ!……ペキ!……プしゅ!……
と、何やらん、硬いものを踏み割ったような音が、ヌルヌルした足先から伝わって参ったによって、
「……さては! ここじゃなッ!」
と、
……ググッツるん!……グにゅグニにゅ!……
と、なおも足の指先にて、辛抱強く、懇ろに、細心の神経を通わせて、糞壺の底を掻い捜ぐって御座った…………
――と
……さても折りも折り、並木通りの往来を通りかかった女三人連れ、やはりこの茶屋に立ち寄り、内の一人が小用をたさんと――まさか糞壺の中を人が泳ぎおるなんどとは夢にも思わず――かの厠へと参って戸を開けたところが……
――何やらヌッ! と!
――糞壺の中より!
――河童のようなヌラヌラと光った手(てえ)が!
――出たッ!
「きええッツ!――」
と一声を発して女は気絶!
――糞壺の中へ!
……だうッツ!……どぅぷン!……
――と
真っ逆さま…………
されば、その奇声と物音とに驚き、茶屋内の者やら、川島や女どもの連れやら一同、厠へと馳せ参じては、ようよう、二人を糞壺より引き上げ、大川へと連れて参って、川端にて洗い清めたとか申すことで御座った。
その強烈な臭いと文字通り如何にも臭き噂は、これ、あっという間に辺り一帯に広がりまして、の。……正真正銘……鼻つまみ者として……これ、物笑いの種となって御座ったそうな。……
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