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2013/12/01

われを思ふ人を思はぬ報にやわが思ふ人のわれを思はぬ 萩原朔太郎 (評釈)

  われを思ふ人を思はぬ報(むくい)にやわが思ふ人のわれを思はぬ

 

 これは歌と言ふべき者でなく、むしろ歌の形式を借りた一種の箴言と見るべきだらう。勿論詩的價値はゼロであるが、觀念的には戀の不思議な眞相を穿つて居る。

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年第一書房刊「恋愛名歌集」の「古今集」の部の掉尾。「むくい」はママ。一般に「思はば」は「もはば」と詠む。当該歌は「古今和歌集」の「卷第十九 雜躰」の一〇四一番歌の「よみ人知らず」の和歌で、前の一〇三七番歌以降ここまでの「読人知らず」五首は以下に見るように一連の一般的恋愛通念を皮肉った類似性の強い恋愛アフォリズム的和歌群の掉尾に配された和歌である(引用は岩波新日本古典文学大系版を正字化して示したが、読みの一部は省略した。また、後の語注では一部で底本の注を参考にした)、

 ことならば思はずとやは言ひはてぬなぞ世中(よのなか)の玉襷(たまだすき)なる

 思ふてふ人の心のくまごとに立(たち)ちかくれつゝ見るよしも哉(がな)

 思へども思はずとのみ言ふなれば否(いな)や思はじ思ふかひなし

 我をのみ思ふと言はばあるべきをいでや心は大幣(おほぬさ)にして

 我を思ふ人を思はぬ報ひにや我が思ふ人の我をおもはぬ

第一首(一〇三七番歌)の「ことならば」は「如ならば」で、同じことなら、の意。「玉襷」は本来は真心込めて対象に対して思いを掛けるの意の歌語であるのを逆に反則的に使用していい加減な、中途半端な、の意で用いている。
第二首(一〇三八番歌)は相手の心の隅々にまで隠れ潜んでその真意をすべて知りたいという。相手の心底を隈なく知ろうとすることは恋愛の情趣から著しく逸脱する。
第三首(一〇三九番歌)の「否や」は拒絶表現で、この歌主は恋愛の「かひ(甲斐/効)」、思いを掛けて努力した結果として代償、期待出来るだけの価値を恋愛に求めている。これは万葉以来の「あやめも知らぬ恋」(道理の通らない盲目的恋)の伝統から外れる。
第四首(一〇四〇番歌)の「いでや」は相手への抗議口調の呼びかけで、「大幣」とは宮中行事の大祓(おおはらえ)で用いられるもので、祭儀中に人々が寄って集(たか)って引き寄せて自身の穢れをそれに移し、後に川に流した大きな幣。そこから、引く手数多の浮気っぽい相手をシンボライズした。古来、恋は一途なものでなくてはならなかった。
本第五首はいわば、以上のまさに「道」ならぬ不満たらたらの恋愛不具合は、いや、まさに「道」から外れたものであるゆえに仏さまの因果応報の罰がかく下るのかと、再びものほしげな不満を込めているようにも思える。確かに詩想には欠けるものの和歌嫌いの私などには現代人に共通する『戀の不思議な眞相』の本音の喜劇性と歌語を逆手に取った俳諧的諧謔味があって頗る面白く感じられる歌群である。]

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