中島敦 南洋日記 十一月二十二日
十一月二十二日(土) 晴、
快晴、稍風強く、藍碧の海色鮮か。七時半小川屬の出迎を受け上陸、直ちに支庶出張所に到り、所長に挨拶、小川氏と共にロタ神社に參拜、背後の鍾乳洞を見る。最近は防空壕として優に千數百名を容るべしと。巡査部長の空官舍に落着く。午睡。街に出て見る。廣く白き道。枯れ椰子。牛多し。山羊。鐡道。砂濱。濤。風爽か。今川燒も、すしも、バナナも買へず、歸る。晝食後(すぢ向ふの食卓にて)午睡。二時半、再び小川氏と共にタタッチョなるチャムロ部落に向ふ。徒歩。右側は白堊質の懸崖、左は峻嚴累々たる所謂ロタ松島の海。頗る快き散歩路なり。部落の入口の墓地。椰子葉葺、或はトタン葺の、木造チャムロ住宅、廣き砂濱道の左右に遊ぶ。公學校に行く。校長と語り、明日の打合をなし、四時半、トラックに乘せて貰つて歸る。落日海に沈まんとし、枯椰子の蕭條たるに、燃ゆるが如き橙紅の落輝を注ぐ。夜の食卓は雞のすき燒なり。パラオの食堂に優ること萬々。食後、國民學校訓導茨木(?)氏の宅に行きラヂオを聞き、オレンヂを喫す。
[やぶちゃん注:「チャムロ部落」チャモロ族(Chamorro)の村。チャムロとも表記するようだ。彼等はミクロネシアのマリアナ諸島の先住民で、チャモロはスペイン語の「刈り上げた」とか「はげ」という意味を表す言葉である。チャモロ以前は外部に対しては彼等は「タオタオ・タノ」(土地の人)と自称していた。本島には紀元前三千年から東南アジア系の移住民が住み着いたと考えられており、その人々が今日の先住民チャモロ人の祖先とされており、そのことを裏付ける遺跡がラッテ・ストーンである(ラッテ・ストーン
(Latte stone)はグアム・サイパンなどマリアナ諸島に見られる珊瑚石で出来た石柱群で、九世紀から十七世紀にかけて作られたチャモロ人の古代チャモロ文化の遺跡。古代のマリアナ諸島の王「タガ」にちなみ、タガ・ストーン(Taga stone)と呼ばれることもある。北マリアナ諸島の旗にも描かれている)。スペイン人との接触がある十七世紀以前は四万人から六万人の人口を保持していたが、一七一〇年の人口調査ではグアム島とロタ島の人口は三五三九人に激減していた。人口激減の背景には、スペイン人による殺戮や、天然痘などの疫病があるとされている。労働者確保のためメキシコ人やフィリピン人を移住させる政策を積極的に採ったことにより、彼らとの混血化が進み、純粋なチャモロ族はすでに存在しないと言われているが、チャモロ語については、公用語の英語とともに広く使用されている(以上はウィキの「チャモロ人」及び「ラッテ・ストーン」を参照した)。
「白堊質」白亜。堆積岩の一種であるチョーク(chalk)。白色又は灰白色の軟らかい石灰岩で、珊瑚などの生物起源の炭酸カルシウムから成る。白亜紀の地層として知られ、ドーバー海峡の断崖の露頭が知られる。]
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