鬼城句集 冬之部 來山忌
來山忌 殘菊や今宮草の古表紙
[やぶちゃん注:「來山忌」江戸時代の俳諧師小西来山(こにしらいざん 承応三(一六五四)年~享保元(一七一六)年)の忌日で陰暦は享保元年十月三日(グレゴリオ暦一七一六年十一月十六日。通称は伊右衛門。満平・湛翁・湛々翁・十萬堂等の号を持つ。現在の大阪淡路町に薬種商の家に生まれ、父と親しかった西山宗因門の前川由平に学び、後に宗因門となった。延宝三(一六七五)年頃には宗匠として門弟をとっていたとされ、延宝六(一六七八)年に満平の号で井原西鶴編の俳諧撰集「物種集(ものだねしゅう)」に入集した。延宝八(一六八〇)年頃には来山に号を改めている。天和元・延宝九(一六八一)年に最初の撰集「大阪八五十韻」を刊行した。活動のピークであった元禄三(一六九〇)年頃は当時の大阪の宗匠の中でも代表的な俳人として活躍した。元禄五年には自身の独吟表六句を巻頭に配して知友門弟の句を所収した「俳諧三物(はいかいさんぶつ)」を刊行したが以後に自ら撰した集はない。この頃より雑俳点者となり元禄十年以降は彼の加点が加えられたもおが著しく増加しており、生前に刊行された雑俳書は約百三十部確認されているが、その内、来山点の載るものは五十部に及んでいる。俳諧から雑俳の流行へと移行する元禄前後の俳壇変動をそのままに体現した俳人と言える。「近世畸人伝」巻之三にその名が見え、浪華の南今宮村に住し、酒を好み、洒脱磊落な人柄であったとする。大晦日、門人より雑煮の具を送られたが、その日のうちに酒の肴にしてしまった折りの句、
我が春は宵にしまふてのけにけり
が載る(以上はウィキの「小西来山」及び「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。晩年は、一説に「お奉行の名さへ覺えず年暮れぬ」の句で奉行を愚弄したとして大阪から追放され、今宮村(現在の大阪府大阪市浪速区恵美須附近か)に十萬堂という庵を建てて移り住んだという。本句の「今宮草」は正続二冊の彼の句集である。代表句は「俳句案内」の「小西来山」で小西来山の句纏まって読める。「近世畸人伝」によれば、
來山はうまれた咎で死ぬる也それでうらみも何もかもなし
を辞世とするとある。]