北條九代記 伊賀到官光季討死 承久の乱【七】――承久三(一二二一)年五月十四日 承久の乱勃発前夜――京都守護伊賀光季、覚悟の軍(いくさ)評定
さらば伊賀判官光季を討つべしとて、能登守秀康、平九郎判官胤義、大江少輔(のせう)入道親廣、山城守廣綱、佐々木〔の〕彌太郎判官高重、筑後〔の〕入道有則下総〔の〕前司盛綱、肥後〔の〕前司有俊、筑後〔の〕大院左衞門尉有長(ありなが)、間野(まのの)左衞門尉時連(ときつら)を始として、八百餘騎をぞ遣されける。比は承久三年五月十四日、今日は既に暮に及ぶ、明日卯刻に向ふべしとて、夜の明るを待(まち)掛けたり。伊賀判官が許へも、このよし聞えたりければ、家子郎從一所に集り、軍の評定しける所に、鹽屋(しほのやの)藤三郎申しけるは、「御身に誤(あやまり)なくして大勢に取圍められ暗々(やみやみ)と討れ給はんは、甲斐なき狗死(いぬじに)にて候。只夜の内に都を出でて、美濃尾張までは馳(はせ)落ち給はん。然らずは、北陸道(ほくろくだう)へ掛(かゝ)らせ給ひて、御船に召して、越後の府中に著き給ひ、信濃路に掛りて鎌倉へ入り給へかししとぞ申しける。判官聞きて、「鎌倉殿も思召(おぼしめす)やうありてこそ、都の守護にも差置せ給ひつらめ。一天の君日本一の御大事を思召立せ給ふ程にては、苟且(かりそめ)の御計(はからひ)にてやあるべき。今は定(さだめ)て道々關々も防(ふさ)がれてぞあるらん。とても逃れぬ物故に、敵に背(うしろ)を見せて笑(わらは)れ、鎌倉にも聞えて、憶病なりと思はれんは、死後までも恥しからん、一天の君を敵に受け、我が身に禍(あやまり)なくして、王城に尸(かばね)をさらし、名を萬世に留めん事は、勇士の願ふ所なり。一足も引くべからず、只討死と思定めたり。誰々(たれだれ)も、落つべき人は落ちられよ。光季少(すこし)も恨(うらみ)なし」と中々思切(おもひくつ)たる有樣なり。深行(ふけゆ)く儘に郎從共次第々々に落(おち)失せて、殘る輩には贄田(にえだの)三郎、同四郎、同右近、武志(むしの)次郎、鹽屋藤三郎、片切源太、同大助、同又太郎、園平(そのひら)次郎、同子息彌一郎、政所(まんどころの)太郎、治部次郎熊王丸を初(はじめ)て、僅に二十七人なり。
[やぶちゃん注:〈承久の乱【七】――承久三(一二二一)年五月十四日 承久の乱勃発前夜――京都守護伊賀光季、覚悟の軍(いくさ)評定〉
「鹽屋(しほのやの)藤三郎申しけるは」の「鹽」の字は底本では、{「土」(へん)+(「鹽」-「臣」で上部を左に移して「皿」の真上に配した字)}であるが、後文に「鹽屋」と出るので統一した。
「卯刻」午前六時頃。
「承久記」(底本の編者番号17のパート)の記載。
深行程ニ、判官ノ郎從等一所ニヨリアフテ、軍ノ僉議評定シケルガ申ケルハ、「御身ニ無ㇾ誤シテ大勢ニ被二取籠一テ被ㇾ討サセ給候ハンハ、念ナキ事ニテ候ハズヤ。夜ノ中ニ都ヲ出サセ給ヒテ、美濃・尾張迄ハ馳給ヒ候ハンズ覽。サリトテ鎌倉へハ三四日ニハツカセ給ヌベシ。左候ハズハ、北陸道へカカラセ給テ、御舟ニメシテ、越後ノ府中ニツカセ給ヒ、信濃へ越サセ給テ、其ヨリ鎌倉へツカセ給候カ。是等ノ儀ヲ御計ヒ可レ有」トゾ申ケル。判官、「其コソ、ヱアルマジキニテアレ。鎌倉殿モ思召樣有テコソ、都ノ守護ニモ差置セ給ツラメ。一天ノ君、日本一ノ御大事ヲ思召立セ給程ニテハ、アカラサマノ御計ヒニヤアルベキ。今ハ定テ道々モ關々モ、サヽへテゾアルランニ、一マドモノガレヌモノ故ニ、カタキニ背ヲ見セタリナンド、鎌倉へ聞へン事コソ口惜カルべケレ。能コソアレ、一天ノ君ヲカタキニウケ進ラセテ、我身ニアヤマリナクテ、王城ニ戸ヲサラシ名ヲ萬代ノ雲ニ揚ン事、願フ所ノ幸ナリ。一引モ引マジキモノヲ」ト云へバ、其後、郎從等意見ニモ不ㇾ及、深行儘ニ一人落二人落、次第々々ニ落行テ、殘ル輩ニハ、贄田三郎・同四郎、贄田右近、武志次郎、鹽屋藤三郎、片切源太・大助・又太郎、園平次郎・子息彌二郎、政所太郎、治部次郎、熊王丸ヲ始トシテ、一人當千ノ輩廿七人ゾ殘ケル。
・「一マドモノガレヌモノ故ニ」は副詞で一先ず、一応の意の「ひとまど」に、例示を示す係助詞「も」、それが下で打ち消されたもので、一先ず逃げ落ち延びるなんどということは、これ、出来よううものでは最早ないゆえに、の意。]
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