萩原朔太郎 短歌七首 明治三六(一九〇三)年八月
紅梅に二十年を倦みし人の如おのづからなる才ふけにけり
よれば戸に夢たゆげたげの香ひあり泣きたる人の宵にありきや
相見ざる幾年へぬる君ならむ肱細うして泣くにえたえぬ
いささかは我れと興ぜし花も見き今寂寞たえぬ野の道
はらからが小唱になりし我が戀にあたたまるべき水流れゆく
魂は人にむくろは我に露ながら夏野の夢のなごり碎くる
名なし小草はかな小草の霜ばしら春の名殘とふまむ人か
[やぶちゃん注:『文庫』第二十三巻第六号(明治三六(一九〇三)年八月発行)に「上毛 萩原美棹」名義で掲載された七首。第三首及び四首の「たえぬ」はママ。萩原朔太郎満十六歳。
初出では三首目が、選者服部躬治(既注済)によって、
相見ざる幾年へぬる君ならむ肱細うして寄るにえたえぬ
と朱をいれられて載る。但し、直後に、
原作の五句、「泣くにえたへぬ」。
という注記を附して斧正であることが示されてもある(太字「泣く」は底本では傍点「△」)。
六首目「魂は人にむくろは我に露ながら夏野の夢のなごり碎くる」の歌の後に、
悲思哀調。
又云。原作の三句「歸りきて」「太古さながら」とありき。
と、選者服部躬治の選評がある。この記載に基づいて別稿を復元しておく。
魂は人にむくろは我に歸りきて夏野の夢のなごり碎くる
魂は人にむくろは我に太古さながら夏野の夢のなごり碎くる
私は個人的は「歸りきて」が好みである。
『文庫』は明治二八(一八九五)年九月創刊の投稿文芸雑誌(明治四三(一九一〇)年八月終刊。通巻二四四冊)。明治二一(一八八八)年創刊の『少年園』から分かれた『少年文庫』が前身だが、小説・評論・詩・短歌・俳句などの新人育成の場として勢力を持つようになり、特に詩人や歌人にはこの雑誌を登龍門として後に一家をなした者の数は夥しい。『文庫派』の別称を持つ河井酔茗・伊良子清白・横瀬夜雨・塚原山百合(後の島木赤彦)らを初めとして北原白秋・窪田空穂・三木露風・川路柳虹らの大家を輩出した雑誌であった(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]