日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 10 帝都東京――看板あれこれ
図―266
日曜日には、写生図板を持って、非常にいろいろな種類のある店の看板を写生する丈の目的で出かけた。我国には、どこにでもあるもの、例えば薬屋の乳鉢、煙草屋の北米インディアン、時計製造人の懐中時計、靴屋の長靴、その他僅かなのが少数あるが、この国ではあらゆる種類の店に、何かしら大きな彫刻か、屋根のある枠の形をした看板かが出ている。各の店舗の上には軽い、然し永久的な木造の日除があり、看板の多くは主な屋根からつき出て、かかる日除の上につっ張られた棒からぶら下っている。この支柱のある物には、看板の上に当る場所に小さな尾根がついているが、これは看板を保護する為か、或はそれに重要さをつけ加える為かである。図257は食料品店或は砂糖屋の看板で、大きな紙袋を白く塗り、それに黒で字が書いてある。図258は巨大な麻糸の房で網、綱、及びその類を売る店を示している。図259は非常に多くある看板で、長さ二、三フィートの板でつくり、白く塗った上に黒で店主の名を書き、日本の足袋の模型を現している。図260は地面に立っている看板で、高浮彫の装飾的象徴は、ここへ来れば筆が買えることを見せている。図261は煎餅屋を示している。煎餅は薄くて大きなウェーファーみたいである。図262は眼医者のいることを示す看板で、黒塗に金で字を書き、真鍮の金具が打ってある。図263は、妙な格好の看板である。これは丸く、厚い紙で出来ていて白く塗ってあり、直径一フィート半程で、菓子屋が一様に出す看板なのである。この看板は日本の球糖菓(ボンボン)を誇張した形を示している。我国の球糖菓も同様な突起を持っているが、それが非常に小さい。図264もまた妙な看板で、これを写生した時、私はこれが何を代表しているのか丸で見当がつかなかった。何か叩く、不思議にガラガラいう音が聞えたので、店をのぞいて見ると、二人の男が金の箔を打ちのばしていた。そしてこの看板には、金箔が二枚現してある。図265は蠟燭屋の看板で、黒地に蠟燭が白く浮き出ている。図266は大きな六角形の箱に似たもので、その底から黒い頭髪が垂れ下っている。店内で仮髪(かつら)を売っているのを見たから、人工的の毛髪を売る店を標示していることが判る。図267は印判師の看板で、これは必ず地面に立っている。殆ど誰でもが印を使用する。そして彼等は、印と、それに使用する赤い顔料とを、最少限度の大きさにして持って歩く、最もちんまりした、器用な仕組を持っている。彼等は書付、請取、手紙等に印を押す。印を意味する印判師の看板は、非常に一般的なので、私はこの字の一部が、頭文字のPに似ていることを観察して、最初の漢字を覚え込んだ。図268は両替或は仲買人の、普遍的な看板である。これは木製の円盤の両側を小さく円形に切りぬいたもので、銭を意味する伝統的の形式である。図269は櫛屋を指示していて、この櫛は長さが三フィートばかりもあった。図270は、傘屋を代表するばかりでなく、現代式外国風の洋傘を示している。油紙でつくった日本風の傘は非常に重く、且つ特別に取扱い難いので、日本人は我々式の傘を採用し、道路ではこれを日傘の代りに使用しているのも全くよく見受ける。
[やぶちゃん注:以前に比べるとモースの看板の漢字の書写は格段に正確になってきているのが分かる。「印」の字の(つくり)の(ふしづくり)を英語の「P」に擬えて最初に覚えた漢字としたという下りは、欧米人の漢字の受容過程や手法が知れて興味深い。
「二、三フィート」60・96~91・44センチメートル。
「煎餅」原文“rice cakes”。
「一フィート半」45・72センチメートル。
「日本の球糖菓(ボンボン)」金平糖。以下、日本で唯一の金平糖専門店「緑寿庵清水」(京都市左京区吉田泉殿町)の公式サイトの「金平糖について」によれば、金平糖は天文一五(一五四六)年にポルトガルからカステラや有平糖(あるへいとう:現在のハード・キャンディ。水飴よりも砂糖の分量を多くした硬い飴。)とともにもたらされたと伝える。織田信長も宣教師から贈られ、その形と味にひどく驚いたという。当時は貴重品で公家や高級武士しか口にすることは出来ず、その製造法も秘密であったが、まず、長崎で初の国産の金平糖が作られ、後に京都・江戸と広まって一般化した。かつては芥子粒を、現在は砂糖の結晶を核として砂糖蜜を幾層もかけて製造するが、この作業は菓子作りの中でも最も難しい作業とされる。呼称は砂糖菓子を意味するポルトガル語“confeito”(コンフェイト)」に由来する。昔は他に「金米糖(こんべいとう)」などとも呼ばれ、現在は関西などは「こんぺんとう」、関東より北では「こんぺいとう」と地方によって多少の違いがあると記されてある。リンク先では製造の動画も見られる。
「銭を意味する伝統的の形式である」言わずもがな乍ら、誤り。両替商が計りに用いた分銅(錘)のシンボライズである。]
また看板には多くの種類があり、私は東京をブラブラ歩きながらそれ等の写生をしたいと思っているが、それにしても、かかる各種の大きくて目につきやすい品物が、店の前面につき出ている町並が、どんなに奇妙に見えるかは、想像に難からぬ所であろう。これ等の店には一階建以上のものはめったに無く、ペンキを塗らぬか、塗っても黒色なので薄ぎたなく見え、看板とても極めて僅かを除いては白と黒とである。このような、鼠色の街頭を、例えば、日本の美しい漆器のように黒くて艶のある頭髪に、目も覚める程鮮かな色のオビをしめ、顔には真白に白粉をつけ、光り輝く紅唇をした娘が、この上もなく白い足袋に、この上もなく清潔な草履をはいで歩くとしたら、それが如何に顕著な目標であるかは了解出来るであろう。陰気な、古めかしい看板のある町の真中に、かかる色彩の加筆は、ことの他顕明であり、時として藍と白の磁器や、黄色い果実やをぎつしりと展観したものが、町通りに必ず魅惑的な外見を与える。これ等すべての新奇さに加うるに、魚売、煙管(きせる)や、ぶりき細工を修繕する者、古道具屋等の、それぞれ異る町の叫びがある。今日私は梯子を売る男の、実に奇妙至極な叫び声を聞いた。家へ帰ったら新聞屋の呼び声と梯子屋の叫び声との真似をするから、忘れずに注意して呉れ給え。
[やぶちゃん注:「塗っても黒色」渋墨(しぶずみ)塗り。「第四章 再び東京へ 4 利根川下りでの嘱目1」で既注済み。]
* 悲しい哉、それ等は皆忘れて了った。