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2013/12/06

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 14 「ショーリン」という絵師のこと

 私は京都から、博覧会で花の絵を画く為にやって来た、松林という芸術家を訪問したが、誠に興味が深かった。彼は本郷から横へ入った往来に住んでいる。垣根にある小さな門を過ぎた私は、私自身が昔のサムライの邸内にいることを発見した。庭園の単純性には、クエーカー教徒に近い厳格さがあった。これは私が初めて見る個人の住宅で、他の家家よりも(若しそんなことが可能でありとすれば)もっとさっぱりして、もっと清潔であった。広い廊下に向って開いた部屋は、厳かな位簡単で、天井は暗色の杉、至る所に使った自然のままの材木、この上なく清潔な畳、床の一隅にきちんとつみ上げた若干の書籍、それから必ずある炭火を入れた箱、簡単な絵の少数が、この部屋の家具と装飾とを完成していた。このような部屋は、学生にとって理想的である。我国の通常の部屋を思出して見る――数限りない種々雑多の物品が、昼間は注意力を散漫にし、多くの品が夜は人の足をすくって転倒させ、而もこれ等のすべては、その埃を払い、奇麗にする為に誰かの時間を消費するのである。主人の芸術家は、丁寧なお辞儀で私を迎え、静かに彼の写生帖を見せたが、それには蜻蛉(とんぼ)や、螇蚚(ばった)や、蟬や、蝸牛(かたつむり)や、蛙や、蟾蜍(ひきがえる)や、鳥や、その他の絵が何百となく、本物そっくりに、而も簡明にかかれてあった。一つの写生帖には花が沢山かいてあったが、その中に、ある皇族の衣服の写生があった。封建時代、松林はこの方の家来だったのである。私が退出する時、彼は私が息がとまる程驚いたようなお辞儀をした。私は、頭が畳にさわるお辞儀は何度も見たが、彼の頭は、まるで深いお祈りでもしているかのように、数秒間畳にくっついた儘であった。日本人は脚を曲げて坐るが、お辞儀をする時、背中は床と並行すべきで、後の方をもち上げてはならぬ。

[やぶちゃん注:「クエーカー教徒」正しくはフレンド会。クエーカー(Quaker)はプロテスタントの一派で、人は神からの啓示を直接に受け得ると説く。十七世紀中葉、当時のキリスト教の儀式化・神学化に反対したジョージ・フォックス(G. Fox 一六二四年~一六九一年)がイギリスで起立し、まもなくペン(W. Penn 一六四四年~一七一八年)によってアメリカで広まった。霊的体験を重んじ、絶対平和主義で反戦運動・平和運動で知られ、両世界大戦時には多数の良心的戦争反対者を生んだ。「クエーカー」は神の力を得て「震える人」の意。

「松林」これは「まつばやし」ではなく、原文“Shorin”であるので「しょうりん」と読ませているので注意。底本では石川氏は珍しく、不詳お手上げの割注『〔?〕』を直下に附しておられる。名前は正確に音写しているかどうか怪しいが――幕末にさる皇族の家来であった京師のかなりの絵師で、当時、本郷にあった大層な武家屋敷を借りることが出来る人物で、博物画の名手である……これは日本画に詳しい方が見れば、凡そ誰かは察しがつきそうなものだ。ちょいと美術史を専門に学んでいる教え子に探らせてみよう。

【二〇一四年二月十日追記】美術史を大学で学んでいる教え子から、昨年十二月に以下のメールを貰った。

   《引用開始》

まだ調べ途中ですが、報告です。

モースの生没年と江戸及び相応の出自という条件から探すと、浮世絵師の小林清親が思い当たります。

彼の生没年は、弘化四(一八四七)年~大正四(一九一五)年で、江戸本所の御蔵屋敷の生まれです。

「ショーリン」というのは私は「小林」を音読みしたのではなかろうかと推察しました。

まだ確定ではないですが、条件が揃っているような気がします。

   《引用終了》

小林清親(こばやしきよちか)については、「浮世絵太田記念美術館」のこちらの展覧会案内で浮世絵時代の掉尾を飾るその斬新な画風を見ることが出来、ウィキの「小林清親」で大まかな生涯を知ることが出来る。教え子のそれはまだ調査中とのことであるが、私は昨年の九月に偶然、ミクシィの知人がアップして呉れた小林清親の光線画を解説した動画に魅せられ、その友人に『まさに今私のやっているモースの「日本その日その日」(明治十年来日)の中の失われた景観がこれらの絵にはありますね。とても素敵です』とコメントしていたので、内心、その附合に吃驚した。少し遅れたが、ここにとりあえず追記しておきたい。

【二〇一四年二月十九日追記】前の追加注記を行った三日後の二月十三日に、私のミクシィの古い知り合いで糸染めから始めて手織りもなさっておられる、私が尊敬の念を込めて『姐さん』と呼ばさせて戴いている「からからこ」姐御から、この「ショーリン」とは元福山藩藩士で画家であった藤井松林(ふじいしょうりん 文政七(一八二四)年~明治二七(一八九四)年)ではないかという御指摘を戴いた。調べて見ると、驚天動地の合致点が見出され、このモースが逢った「ショーリン」とはこの藤井松林に同定してほぼ間違いないという確信を持つに至った。以下にそれを述べる。

 講談社「日本人名大辞典」によれば、藤井松林は備後国(現在の広島県)福山藩士藩士で名は好文、字(あざな)は士郁。別号に清遠・百斎。藩の重役吉田東里らに学んだ後、京都で円山派の中島来章(らいしょう)に師事、帰藩して絵図師となり、花鳥・人物・山水画の孰れにも優れたとある。ここで彼が得意とした画題はモースが「静かに彼の写生帖を見せたが、それには蜻蛉や、螇蚚や、蟬や、蝸牛や、蛙や、蟾蜍や、鳥や、その他の絵が何百となく、本物そっくりに、而も簡明にかかれてあった。一つの写生帖には花が沢山かいてあった」という証言とよく附合する。

 更に詳しい事蹟が同藩の藩校の顕彰サイトである「福山誠之館同窓会」の「福山誠之館教師」の「藤井松林」にあった。それを見ると、明治三(一八七〇)年に藩校誠之館に於いて画学小教授心得となった後(下線はやぶちゃん)、

   《引用開始》

 明治以後、半切50銭、尺八絹本5円の画料では生計を立てることすらままならぬ暮らしが続いたようだが、画道に精進し、明治10年(1877年)54歳のとき、第1回内国勧業博覧会に「花鳥図」を出品し褒状を得ており、8月には「藤雀鼬図」を宮中に献画して、懐紙器、莨器、水注の3点を賜わりその感慨を「久方の 天より三つの 玉ものは 身にあまりたる 光りなりけり」と詠った。さらに、明治14年(1881年)58歳のとき、第2回内国勧業博覧会に彩色画を、明治23年(1890年)67歳のとき、第3回内国勧業博覧会に「藤花小禽図」を出品し、「全局温雅、運筆墨秀潤、妙技嘉賞すべし」と評されて三等妙技賞を受賞し、中央画壇へも進出をはかった。

 明治22年(1889年)には再度上京し宮内庁に「游鯉図」「百福図」の2点を献上しているが、写実派の妙技を遺憾なく発揮し、松林を代表する作品となっている。「游鯉図」は縦7尺5寸、横5尺の画面に5尾の鯉が遊泳する図で、画祖・円山応挙を凌駕する筆致であり、「百福図」は百人百様のお多福が面貌、姿態、遊戯、紋様を異にして表現され、「北斎漫画」に匹敵するその画技の豊かさを充分にみてとれる。このように、松林の描いた画題は、花鳥・山水・人物など全般にわたり、和歌も嗜む文人画家であった。

   《引用終了》

とある。これはモースが「私は京都から、博覧会で花の絵を画く為にやって来た、松林という芸術家を訪問した」と述べている点と大きな一致を見せている。藤井は確かに福山藩士であってモースが述べるような「ある皇族」「家来だった」という謂いとは一見、矛盾して見えるが、これは寧ろ外国人であるモースの聴いた情報の処理が不確かなだけであって、例えば同事蹟の中の明治二(一八六九)年四月四十六歳の時に『御画像御用、阿部正教・阿部正方画像を画く』という記事にある、藩主の正装肖像画若しくはその下絵などを指しているとは考えられないだろうか? さらにモースが皇族と誤ったのには、その直後に藤井が『宮中に献画して、懐紙器、莨器、水注の3点を賜わ』った事実を(後からかその時かは不明乍ら)知ったことから、見せられた衣冠束帯に身を包んだ藩主の肖像をこそ「皇族」と見誤ったとは言えまいか? というよりもモースにとっては上流士族と皇族の区別認識はあまりなかったのではないかとも私には考えられるのである。

 次にモースが「彼は本郷から横へ入った往来に住んでいる。垣根にある小さな門を過ぎた私は、私自身が昔のサムライの邸内にいることを発見した。庭園の単純性には、クエーカー教徒に近い厳格さがあった。これは私が初めて見る個人の住宅で、他の家家よりも(若しそんなことが可能でありとすれば)もっとさっぱりして、もっと清潔であった。広い廊下に向って開いた部屋は、厳かな位簡単で、天井は暗色の杉、至る所に使った自然のままの材木、この上なく清潔な畳、床の一隅にきちんとつみ上げた若干の書籍、それから必ずある炭火を入れた箱、簡単な絵の少数が、この部屋の家具と装飾とを完成していた」と述べている部分に着目したいのである。この叙述は後半を読むと、実は町屋の小さな武士の家という感じはしないのである。それは「昔のサムライの邸内」で、「厳格さ」を感じさせ、それなりの「庭園」を持つ。しかも当時明治十年代の町屋の住居に比して「もっとさっぱりして、もっと清潔であった」であり、「広い廊下に向って開いた部屋は、厳かな位簡単で、天井は暗色の杉、至る所に使った自然のままの材木、この上なく清潔な畳、床の一隅にきちんとつみ上げた若干の書籍、それから必ずある炭火を入れた箱、簡単な絵の少数が、この部屋の家具と装飾とを完成していた」というのである。これはちっぽけな兎小屋みたようなものでは、ない。特に如何にも清楚な「庭園」と「広い廊下に向って開いた部屋」を持つというのは、今でいうなら相応に広い屋敷である。しかもその造作は「簡単」に見えながら、それでいてしかも「天井は暗色の杉、至る所に使った自然のままの材木、この上なく清潔な畳、床の一隅にきちんとつみ上げた若干の書籍、それから必ずある炭火を入れた箱、簡単な絵の少数が、この部屋の家具と装飾とを完成してい」るような、武家屋敷の典型的形態を体現していたのである。さすればこれは町屋の中のしょぼくれたかつての『小さな』武士の家屋ではあり得ない。立派なかつての相応の地位にあった人物の武家屋敷と読み替えてよい。とすると後は冒頭の「彼は本郷から横へ入った往来に住んでいる」である。そこで藤井松林の属した福山藩の江戸屋敷を調べてみると――これが――まさに「本郷から横へ入った往来に」あるではないか! 「NPO法人 すみだ学習ガーデン本郷」の公式サイト内の「すみだあれこれ」の「備後福山藩 十一万石 下屋敷」のページをご覧戴きたい。そのデータの中に安政三(一八五六)年当時、本郷丸山(現在の文京区西片)に備後福山藩(当時の藩主阿部家七代阿部伊勢守正弘)の中屋敷(大名などが上屋敷の控えとして設けた屋敷)があったのである! 私の持つそれより少し前に成立した「尾張屋(金鱗堂)板江戸切絵図」にも確かに「阿部伊豫守」屋敷が南西から東北に伸びるような細長い形で描かれてあるのである! 從ってこの旧福山藩藩士藤井松林が東京で滞在したのも、この本郷の、現在の東京大学正門前から僅かに四百メートル東に路地を入った旧福山藩中屋敷跡そのものであったのだと私は断定したいのである。これはもしかすると研究者や学者の間では自明の事実かも知れない。しかし少なくともネット上にそのような記載はなく、また、私の管見した書籍の中にも見出せてはいない。しかしだからこそ、これは大きな一石を投じたことにはなろうかと存ずるのである。

 以上、私の疑問に真摯に対応して戴いた教え子の「ゆうき」君と敬愛する「からからこ」姐御に心より謝意を表するものである。ありがとう!]

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