阿波根宏夫「涙」エンディング
ただ僕はこの大きな停滞の中に溶け込んだ一つの物象になりさがるわけには行かないのだった。青年の力の前に屈服する自堕落な姿を、この僕が見るわけには行かなかった。僕は最後の力を絞りだした。
と、はじけ飛ぶように青年の両手が離れた。僕の中にどよめきが起った。青年に勝ったと言う気持よりも、僕の存在感が保障されたのだという安心感であった。青年はホルマリンに負けたのだ。ホルマリンが青年を「物」にするのだ、決して僕自身が青年を「物」にするのではない、僕はただ仲介者に過ぎなかったのだ――だが僕は無性にうれしかった。僕はやっとのことで支配者の地位を確保できたと信じ続けた。これからもそう信じてホルマリン注入をやるだろう。そうして「物」をなにげなく造って行くに違いない。
青年は「物」になる寸前の、すさまじい痙攣を起して、こんじきいろの輝きを放ちながら、しかし、むなしく鷲手で虚空を摑んでいた。
と、突然、青年のかたくなに閉じた右の瞼を押しのけて、一筋の涙が頰を滑った。その涙がふたすじに分れる前に、左眼の瞼もじっとりと濡れそぼり、しだいに溢れ、ヒクヒクふるえながら流れ落ちていった。
(阿波根宏夫作品集「涙・街」(1979年構想社刊)の「涙」の掉尾である――「涙」は昭和38(1963)年第一回日本大学新聞社懸賞小説入選、総長賞受賞作品である――審査委員は進藤純孝・野間宏・埴谷雄高・安岡章太郎の四人であった――応募作品総数141篇中、「涙」はずば抜けているとして満場一致で決まったという――選考座談会の記録。――埴谷「大江君と、倉橋君とは一篇目はわからなかった。遜色ない」――進藤「作者の心がけが高い」――野間「本当に文学の味がします」――安岡「これぐらいしっかりしたものは、やはりチャンスがなければ書けません」(以上は同書巻末の浜田豊氏の手になる年譜に拠った)――僕がこの新刊本を読んだのは教師になったその年の夏であった――僕はこの小説と、特に「二重体(ダブル・モンスター)」に激しい衝撃を受けた――「涙」は僕に、脆弱で似非哲学を開陳した如何にもな猥雑な死体小説たる大江健三郎の「死者の奢り」なんぞよりも遙かに鮮烈凄絶な、恐るべきリアリズムの衝撃を齎した――作者は医師であった――昭和53(1978)年にガス・ストーブの不完全燃焼による不慮の事故により三十九歳で亡くなっている――遺体の青年は僕である――僕は献体している――僕はいつか、阿波根宏夫論を書かねばならないと思っている――…………)
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