北條九代記 伊賀到官光季討死 承久の乱【八】――承久三(一二二一)年五月十四日 承久の乱勃発前夜――光季の子寿王冠者覚悟の悲話
判官の嫡子壽王冠者は、今年十四歳元服して、光綱とぞ號しける。判官是を前に呼びて、「汝は未だ幼稚なり、夜の内に落ちて關東に下り、世の靜ならんまでは千葉の姉が許に居て、人の重代、我が古を思ひ知る程にて、奉公にも出づべし、某は鎌倉殿の御爲に討死すべし」と云ひければ、壽王冠者は袖搔(かき)合せて、「弓矢取る人の子供の十四、十五になりて、敵向ふと聞きながら、親の計れんする所にて、諸共に死なず、落ちて助り候はば、幼稚なればとてよも人は許し候はん。親を捨てて、逃け九る臆病の不覺人(ふかくじん)とて、人に面を見られんは恥しく覺え候。只御供申して、如何にもなり候べし。今度鎌倉を立ちて上り候ひし時、御母御前簾(すだれ)の際まで立出で給ひて、壽王又何時比(いつごろ)か、と仰せられしを、御供にて軈(やが)て下り候らはん、と申して候らひき。今思ひ候へば、最後の御暇乞となりて候」とて、涙をはらはらと落しけり。父判官は壽王が顏を熟々と守り、涙を押拭(おしぬぐ)ひて申しけるは「器量も世に淸げなり。心も剛(がう)にありけり。落ちよといふは世にもあれかしと思ふ故なり。申す所は理(ことわり)あり、さらば諸共に討死せよ。如何に治部次郎、壽王に物具(もののぐ)せさせよ」と云ひければ、長絹(ちやうけん)の直垂小袴(ひたゝれこばかま)に、萌黄匂(もえぎにほひ)の小腹卷(こはらまき)、二十五差(さし)たる染羽(そめば)の矢、滋籐(しげどう)の弓ぞ持(もた)せける。伊賀〔の〕判官光季は、繁目結(しげめゆひ)の直垂(ひたゝれ)に鎧一領前に打置き、弓の弦(つる)嚙締(くひしめ)し矢に、腰竝べて寄する敵を待居たり。
[やぶちゃん注:〈承久の乱【八】――承久三(一二二一)年五月十四日 承久の乱勃発前夜――光季の子寿王冠者覚悟の悲話〉
「壽王冠者」(承元二(一二〇八)年~承久三(一二二一)年五月十五日)は伊賀光季嫡男。なお、彼の弟に乱当時は元服していなかった季村がおり、「吾妻鏡脱漏」によれば、乱の四年後の嘉禄元(一二二五)年九月十二日に光季遺領が彼に安堵されている。以下に示す。
〇原文
九月十二日庚午。故大夫判官光季遺領事。有其沙汰。彼子息四郎季村等拜領之。常陸國鹽籠庄。〔元和田平太知行之。〕以下云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日庚午。故大夫判官光季が遺領の事、其の沙汰有り。彼(か)の子息四郎季村等、之を拝領す。常陸國鹽籠(しほこ)の庄
〔元、和田平太、之を知行す。〕以下と云々。
この「常陸國鹽籠の庄」とは、現在の水戸市の北西約二十キロメートルに位置する茨城県茨城郡城里町塩子一帯。旧支配者の「和田平太」とは和田胤長のことで、彼は和田合戦の引き金となった泉親衡の乱の謀議に加わった廉で捕縛されて陸奥国(後の岩代国)岩瀬郡に配流となり、和田合戦で和田一族が滅亡した直後に配流地で処刑されている。
「人の重代」自分の属する藤原秀郷流伊賀氏やその他の幕府や豪族の氏族代々の来歴。
「長絹の直垂小袴」「長絹」は固く織って張りを持った(または糊で固く張った)上質の絹の布のこと。美しい光沢(つや)を持つ。「小袴」は鎌倉時代以降の武家の平服であった直垂(垂領――すいりよう:たりくび。襟を肩から胸の左右に垂らして引き合わせて着用する服――式の衣服で上体衣と袴の上下合わせて一具)に用いた、上括(しょうくく)り――非常の際に指貫や狩袴などの裾を膝の下で括ることを言う――にするために特に裾を短くして括り緒を入れてある袴を指す。なお、ここと次の「繁目結の直垂」でも「直垂」には「したゝれ」とルビが振られてあるが、以前に正しく「ひたたれ」と振っている箇所があること、早稲田大学図書館蔵延宝三(一六七五)年梅村弥右衛門板行になる「北条九代記」でも正しく「ヒヽタレ」と振ってあることから訂した。
「萌黄匂」黄味がかった緑色がグラデーションとなっている「匂縅」。「匂縅」は「にほひをどし(においおどし)」と読み、鎧の札(さね)を革や糸で結び合わせた縅(「威」とも書く)の中で、上方の色を濃く、下方を次第に薄くし、末を白く威(おど)したものを言う。
「小腹卷」腹巻鎧。鎌倉時代に一部で行われた脇楯(わいだて:右脇の引合せを塞ぐための武具。)がなく、草摺(くさずり)が細分化されていて足捌きが容易な腹巻形式の鎧。無論、これに大鎧と同様の弦走(つるばしり:胴の正面の部分。染め革で包んで弓弦の当たるのを防ぐ。)・鳩尾板(きゆうびのいた)や栴檀板(せんだんのいた)――孰れも弓を射る際に開く脇と胸部を防御する楯状の武具。鎧の胴の前面に垂下する形で付属する。右脇が栴檀板で左脇が鳩尾板。右の栴檀板は、弓を引く際に屈伸が可能なように三段からなる小札で構成され、急所に近い鳩尾板は一枚の鉄板とする例が多い。元来は両板とも栴檀板と呼ばれていた――・障子板(しようじのいた:鎧の硬い袖部分が着用者の頭部や首に当たることを防ぐための武具。)などを装着する。
「染羽の矢」ワシやクグイの白羽を染めた矢羽根の矢。
「滋籐の弓」弓の束(つか)を籐で密に巻いたもの。籐の巻き方や位置などによって村重籐・塗籠(ぬりごめ)籐・追重籐・白重籐などの種類があった。
「繁目結」鹿の子絞りの総絞り。滋目結。
「弓の弦嚙締し矢」戦闘に際し、和らげるために口に含んで弦(つる)を濡らした弓矢。
「腰竝べて」ここは寿王と腰を並べてと読める(増淵氏はそのように「席を並べて」と訳しておられる)し、作者もそのつもりらしいが、実は以下の「承久記」の叙述を見ると「二腰」とあり、原典の謂いはそうではないことが分かる。この「腰」は矢を盛った箙(えびら)を数えるのに用いる助数詞で、光季は自分の前にこれからさんざんに射んがため、ぎっしりと矢を盛った箙を二つ据え置いた、という謂いである。
以下、「承久記」(底本の編者番号18のパート)の記載。
判官嫡子、壽王冠者トテ今年十四ニナリケル、元服シテ光綱トゾ申ケル。判官、是ヲ招テ、「汝、今年十四、程ヨリモイトケナシ。軍ニ逢ン事モ如何ガ有ムズラン。幼ニマギレテ、案内者ノ冠者原七八人相具シテ落ヨカシ。光季ハ、鎌倉殿ノ聞召サル、事モ有、都ニテ尸ヲサラサムト思定タリ。イトケナカラン程ハ、千葉ノアネガ許ニアルベシ。ヲサナクテハ出仕ナセソ。十七八、廿ニモナリテ、人ノ重代、我ガ古へヲ思知程ニテ出仕モセヨ。ハヤハヤ落ヨ」ト申セバ、壽王、袖刷ウチ退テ、父ガ顏ヲ見アゲテ申ケルハ、「サン候。弓矢取者ノ子共ノ十四五計ニ成ンズルガ、敵ニアヒ親ノウタレ候ハンズル所ニ不ㇾ死シテ落テ候ハヾ、幼稚ナレバトテ、ヨモ人ハユルシ候ハジ。親ヲ捨テニゲタル不覺人トテ、朝夕、人ニ被ㇾ見候ベキ。ハヅカシク覺候。千葉介モシタシクハ候へ共、弓矢取者ニテ候へバ、定メテ未練ニ被ㇾ思候べキ。只、御トモニコソ如何ニモナラント存候へ」トゾ申ケル。「但、今度鎌倉ヲ罷立候シニ、母ニテ候者、簾ノキハマデ立出テ、壽王ニ、「又イツ比カ」ト申候シ時ニ、「御供ニテ急ギ罷下候ハンズルゾ」ト申テ候シハ、今思候へバ、其ガ最後ニテ候ケルゾヤ」ト申テ、涙ヲハラハラトヲトシケレバ、判官、壽王ガ顏ヲツクヅクト守、涙ヲナガシテ、「イシク云タリ。汝、ヲサナケレバ、落テ命ヲモタスカリ、光季ガ跡ヲモツギ、世ニモアレトテコソ、落ヨトハイヱ共、トモセント云フ上ハ、其コソ願フ所ニテアレ。サラバ治部次郎、アノ壽王ニ物具セサセヨ」ト云ケレバ、ヤガテチヤウケンノ直埀、小袴ニ萌黄ニホヒノ小腹卷、二十五サシタルソメ羽ノ矢、シゲ藤ノ弓ヲゾモタセタル。伊賀判官ハシゲ目結ノヒタヽレ、小袴ニ鎧一領前ニヲキ、弓ハリ矢ニ腰ナラベタテヽ、小袴ニ鎧一領前ニヲキ、弓ハリ矢二腰ナラベタテヽ、カタキ今ヤト待カケタリ。
判官、年比ナレアソビケル好色・白拍子、サナラヌ志深キ男女ノタグヒ招寄テ、終夜遊ケル。判官云出ス言ノ葉、ウチ振舞氣色、タヾ思出ニナレトゾ殘シケル。キタレル輩、此程京中ニノヽシル事ナレバ、皆存知シタリケリ。今夜計ヲ最後ゾト思ケレバ、袖ヲヌラサヌハ無リケリ。判官、財寶ノアルカギリ取出シ、形見カト覺へテ面々ニ引アタフ。ヤウヤウ曉チカクナレバ、カタキモ近ヅクトテ、皆々送リ返シテ、思切タル主從七人、殘ケル心中コソムザンナレ。
・「程ヨリモイトケナシ」その十四の歳よりも幼く見える、との謂いか。
・「定メテ未練ニ被ㇾ思候べキ」きっと、落ち延びたとなれば内心は根性無しと、残念にお思いになられることで御座いましょう。
・「イシク」は「美(い)し」で、殊勝だ、けなげだ、あっぱれだ、の謂い。
・「判官、年比ナレアソビケル好色・白拍子……」前の「承久の乱【七】」の注で示した内容がここに現われる。何とも言えず――いい――]