耳嚢 巻之八 剛氣朴質の人氣性の事
剛氣朴質の人氣性の事
太田志摩守は吉田彌五左衞門弟子、一刀流を好みしが、彼(かの)譜代家來笠原伊左衞門忰(せがれ)與市といへる者は、吉田一帆齋が門弟にて飽(あく)まで出精なせしが、彌五左衞門は一帆齋兄なれども、流儀同樣の内、遣ひ方には銘々工夫ありて小異ありしが、或時志摩守與市にむかひ、爾(なんぢ)が師の一帆齋が弟子に我(わが)組のものもあれど、遣ひ方小手前(こてまへ)にて、我(われ)彌五左衞門に習ひしとは大きに違ひあり、彌五左衞門弟子の家來もあれば、爾が太刀筋をくらべ見べし、品(しな)により我も相手にならんとありけるゆゑ、彼(かの)彌五左衞門弟子と立合(たちあひ)けるに、四五人與市にかのふ者なし。さらば我(われ)立合(たちあは)んとありしを、たつて辭退なし、親も出で、忰がいらざる劍術の出(で)かし達(だて)と佗(わび)けれど、無我なる氣性の太田故、くるしからずとて立合しが、何の苦もなく志摩守負ける故、忰を師範いたすべきとありしが、是は彌五左衞門かたの風と同流なれば、學びしかるべし、御相手はいたすべきと、達(たつ)て辭退して、其通りに成(なり)しとなり。朴突の武人成(なり)しが不幸にして若死せしとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:一刀流吉田一帆斎(前話注を参照)談話で直連関。清涼感のある武辺譚である。
・「太田志摩守」底本の鈴木氏注に、『資同(スケアツ)。天明六年(二十四歳)家督。三千石。御使番、御先鉄砲頭などを経て、寛政六年日光奉行、八年御小性組番頭、十年西城御書院番頭』とある。天明六年は西暦一七八六年であるから、生年は宝暦十三(一七六三)年である。「『鬼平犯科帳』Who's Who」の「太田運八郎資同」によれば、彼は太田道灌の直系で、火付盗賊改方長谷川平蔵宣以(のぶため 延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年)、所謂、鬼平の助役を務めたとある。
・「吉田彌五左衞門」清水礫洲著「ありやなしや」に『浜松水野家(遠江浜松水野越前守)の浪人吉田弥五右衛門』とある。
・「小手前」岩波の長谷川氏注に、『小ぢんまりしたさま』とある。
・「出かし達(だて)」「達(だて)」は底本のルビ。「出来(でか)し立(だ)て」で、「してやったり!」と得意そうにふるまうことを言う。
・「學びしかるべし」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は、『御学び知るべし』で意味がよく通る。そちらを採用した。
・「朴突の武人成しが不幸にして若死せしとなり」の「朴突」は底本では右に『(朴訥)』と訂正注がある。さてもこの主語は誰なのか、やや疑問ではある。単に話柄の展開から見るならば、太田志摩守の豪放磊落な個性(そのために呵々大笑させた)がかく称賛するに相応しい感じにも見えるが、根岸が志摩守クラスの者をかくも名指して称揚するというのは非礼であるし、彼は肩書を見るに若死にしている感じではない。そもそも太田は結構お喋りで『朴訥』という語はやや合わない気がする。さすればやはりここで、朴訥の武人にして残念なことに若死にした、というのは笠原与一を指すと考えずばなるまい。これは次に続く与市の話柄から見ても正しいものと私は考えている。
■やぶちゃん現代語訳
剛毅朴訥の人の気性の事
太田志摩守資同(すけあつ)殿は吉田弥五左衛門に師事なされ、一刀流を好まれたが、この御仁の譜代の家来の内の、笠原伊左衛門が倅(せがれ)与市と申す者は、吉田一帆斎の門弟にして、その剣術精進たるや、すこぶる附きと知られて御座った。
大田殿が師の弥五左衛門はこの一帆斎の兄であったが、流儀同様乍ら、その太刀遣いには、それぞれに工夫が御座って微妙に違いが御座ったと申す。
ある時、志摩守殿が与市に向かい、
「……汝が師である一帆斎の弟子が我が組内におれど、その遣い方はやや小ぢんまりと致いて見え、我らが師弥五左衛門殿に習(なろ)うたそれとは、これ、大きに違いがあるとみた。……拙者の家来の内にも弥五左衛門殿が弟子の家来もこれ、ある。……されば、汝が太刀筋と見較べてみとう思う。また、その様子によっては、我らも相手になろうぞ。」
との仰せで御座った。
されば与市、その名指された弥五左衛門の弟子なる家士らと立ち合(お)うたところが、四、五人が向かったものの、この与市に敵(かな)う者、これ、一人も御座ない。
すると、太田殿、
「……さらば、我ら、立ち合わんとするぞ!」
との仰せであった。
流石のことに与市、
「……そればかりは……どうか御勘弁を!……」
とたって辞退なし、親の伊左衛門までが出でて参って、
「……倅のいらざる剣術の出来(でか)し立(だ)て……どうか、切に御許し下されい!……」
と平身低頭、詫びを入れた。
ところが、太田殿、これ、如何にも我意なき御気性であられたによって、
「いやいや、苦しゅうない。全くの素直なる我らが望みじゃ。一つ、立ち合(お)うて呉れい。」
と、笑みを浮かべて仰せられたによって、仕方のぅ、与市は立ち合(お)うた。
――と
――与一
――何の苦もなく
――殿の刃先を跳ね飛ばし
――一瞬にして
――志摩守殿の負けと相い成った。……
されば、志摩守殿はその場にて、
「伊左衛門! この倅、我が師範と致すぞ!」
との仰せであった。
しかし、伊左衛門と与市は、
「……この者の太刀筋は、これ、殿の師たる弥五左衛門殿が一刀流と同流なればこそ……殿は既にして、その太刀筋の極意を学び知っておられますればこそ……そうさ、ただ、不肖の倅乍ら、稽古の御相手ほどならば、これ、勤まりましょうほどに。……」
とやはり、たって辞退をなしたによって、太田殿は、
「そうか! ハッ! ハッ! ハッ! ハッ!」
と呵々大笑なされ、その通りになされたと申す。
この笠原与市と申す者――如何にも清々しき朴訥の武人――で御座ったれど、惜しいかな、不幸にして若死致いたとのことで御座った。