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2014/01/31

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鹿

【和品】

海鹿 海參ノ類ナリ色黑シ切レハ鮮血多クイツ形ヨリ血多シ煮テ食ス味厚シ峻補ノ性アルヘシ。ウミジカハ是筑紫ノ方言ナリ伊豆ノ大島ニテハ。ウミヤウジト云漢名未詳

〇やぶちゃんの書き下し文

【和品】

海鹿(〔うみじか〕) 海參〔なまこ〕の類なり。色、黑し。切れば、鮮血、多く、いづ。形より血、多し。煮て食す。味、厚し。峻補〔しゆんほ〕の性あるべし。「うみじか」は是れ、筑紫〔つくし〕の方言なり。伊豆の大島にては、「うみやうじ」と云ふ。漢名、未だ詳らかならず。

[やぶちゃん注:「ウミヤウジ」は底本では「ウニヤウジ」にしか見えないが、「ウ」の下に微かに「ミ」の一画点らしきものが認められることと、大島の方言ではアメフラシの頭部の角状に突出する外套膜部分を「楊枝」に擬えたものか、現在でもアメフラシのことを「海楊枝」と呼称している事実(例えば三須哲也氏の「harborclub homepage」のこの「アメフラシ」の記載)から「ウミヤウジ」とした。なお、国立国会図書館蔵の同じ宝永六(一七〇九)年版の本箇所には手書きと思われる以下の記載が頭書として【和品】の上に四行で記されてある。

 東奥未看有此物

「東奥には未だ此の物有るを看ず」と訓ずるのであろうが、これは不審。アメフラシ(Aplysia kurodai)は東北以北でも普通に棲息する。

 「海鹿」は軟体動物門腹足綱異鰓上目後鰓目無楯亜目 Anaspidea に属するアメフラシの総称である。狭義にはアメフラシ科に属するアメフラシ Aplysia kurodai を指すが、我々がアメフラシと呼称した場合、広く前者の無楯類に属する種群を指していると考えた方がよい(生態や分類と多様な種群についてはウィキの「アメフラシ」を参照のこと)。なお他に私の電子テクスト栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」巻八海鼠 附録 雨虎(海鹿)」の「海鹿」の項をも参照されたい。

「形より血、多し」とはアメフラシを突いたり、握ったりして刺激を与えた際、紫汁腺とよばれる器官から粘りのある紫色(種によっては白色や赤色)の液体を出すが、これが海水中では雨雲の如く広がって本体を隠すほどになることを言っている。この液体については現在、外敵に襲われた際の煙幕効果を持つと同時に、摂餌する海藻類に由来する液成分に外敵にとっての忌避物質を含むため、それ以上襲われなくなるという防衛効果をも持っているのではないかと考えられている。

「煮て食す。味、厚し」「厚し」というのは磯臭い濃厚な味がするということか。アメフラシ食は現在一般的ではないが、食す地方は現存する。これについては以前にブログの隠岐日記4付録 ♪知夫里島のアメフラシの食べ方♪で隠岐での調理法を紹介してあるので参照されたい。

「峻補」とは漢方で、不足しているものを補う補法の一つで専門的には補益力の強い薬物を用いて気血大虚或いは陰陽暴脱を治療する方法を指す。要は滋養強壮効果ということか。ウィキの「アメフラシ」には、本箇所を載せてこれを、下痢に効く、と解釈している。

「筑紫」筑紫国。現在の福岡県の東部(豊前国)を除いた大部分に相当する。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 7 加賀屋敷――十年前との様変わり

 屋敷の内で、私の家から一ロッドもへだたっていない所に、井戸と石の碑とがある。後者は竹の垣根にかこまれ、廃頽して了っている。屋敷のあちらこちらには、垣根にかこまれた井戸や、以前は何等かの庭の美しい特色であった高い丘や、その他、昔加賀公が何千人という家来をつれて、毎年江戸の将軍を訪問した時の、大きな居住地の証跡がある。今から十年にもならぬ前には、将軍が権力を持っており、この屋敷を初め市中の多くの屋敷が、家来や工匠や下僕の住む家々で充ち、そして六時には誰しも、門の内にいなくてはならなかったのだ、ということは、容易に理解出来ない。外国人は江戸に住むことを許されなかった。また外国の政府の高官にあらずんば、江戸を訪れることも出来なかった。然るに今や我々は、この都会を、護衛もなしに歩き廻り、そして一向いじめられもしない。

[やぶちゃん注:「一ロッド」底本では直下に石川氏の『〔三間たらず〕』という割注がある。「ロッド」(rod)はポール(pole)・パーチ(perch)とともにヤード・ポンド法における長さの単位。かくも複数の名称があるがどれも同じ長さで16・5フィートである。イギリスではフィートとして国際フィート(正確に0.3048メートル)を用いるので、1ロッドは正確に 5.0292メートルである。これに対してアメリカでは、ロッドは公式には測量フィート(正確に1200/3937メートル=約0.305メートル)に基づく単位であるので、1ロッドは約5.02メートルである。ロッド・ポール・パーチはどれも元は竿や杖などの棒状のもので測量のために用いた棒(日本でいう「間竿(けんざお)」)の長さに由来する。かつては、4分の1チェーンの長さの金属製の棒が土地の測量に用いられていた。「ロッド」は、カヌーの分野では今でも用いられているが、これはカヌーの長さがほぼ1ロッドであるためである(以上はウィキの「ロッド(単位)に拠る)。

「今や我々は、この都会を、護衛もなしに歩き廻り」既注であるが、モースらお雇い外国人の特権であって、総ての外国人がそうであったわけではないことに注意。第八章 東京に於る生活 5 第一回内国勧業博覧会で(1)」及び第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 5 附江の島臨海実験所の同定などを参照のこと。]

中島敦 南洋日記 十二月二十日

        十二月二十日 (土)

 數日來喘息ずつと惡し、夜全然眠れず。世田谷に飛行便を出す。

[やぶちゃん注:この航空便書簡は残っていない。]

耳嚢 巻之八 田蟲呪の事

 田蟲呪の事

 

 たむしといへる出來物に、鴫(しぎ)といふ文字三邊書(かき)て墨にて塗(ぬり)、呪(まじな)ふに立所(たちどころ)に愈(いえ)しとかや。鴫は田の蟲を食ふものなる故や。呪(まじなひ)の類かゝる事多し。不思議なりと一笑なしぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖しげな呪いシリーズ二連発。フレーザーの言う類感呪術であるが、まあ、プラシーボ(偽薬)効果としては全否定は出来まい。特にここでは墨で塗るという実行行為があって調べてみると墨に含まれる竜脳( borneol ・ボルネオール・ボルネオショウノウ)には痒みを抑える作用や防腐効果があるらしいことを見出したので、強ち田虫に墨、じゃあない、眉唾というわけでもない気もしてきた……IBS(過敏性大腸炎)の私も小学校の時、朝礼や学校帰りにうんこを何度も漏らしたが、優しい友人の芥川君は、「やぶ医者、掌に「うん」と指で書いて飲み込むんだヨ、それを三遍やれば平気だヨ。」と教えてくれたのを懐かしく思い出すな……ああ、でも結局やっても、だめだったんだけどね……。

・「田蟲」皮膚病で白癬の一種(原因菌は主に白癬菌(トリコフィトン)属 Trichophytonに属する白癬菌と呼ばれる一群の真菌)。皮膚に小さな丸い斑点が出来て周囲に円状に広がり、中央部の赤みが薄れて輪状の発疹となり、痒みが酷い。股間生ずるものを「いんきん(たむし)」・頑癬(がんせん)ともいう。ぜにたむし。ぜにむし。

・「鴫といふ文字」底本鈴木氏注に、『三村翁「此咒事は予も幼年の時に覚えあり」』と引く。

・「三辺書きて墨にて塗」患部に墨で三度鴫の字を書くのか、三度指で鴫の字をなぞった上から墨で患部を塗り潰すのか。私は私の遠い思い出が指で字を書いては飲み込むのであったから、後者で採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 田虫呪(まじな)いの事

 

 たむしと申す銭形をなす出来物には、その患部に鴫(しぎ)という文字(もんじ)を三遍、指でなぞって書いた上、その上を、これ、丁寧に墨で塗り潰し、田虫平癒と呪(まじの)うたならば、これ、たちどころに愈(いえ)るとか申す。

 これは――鴫は田の虫を食うもの――なるゆえか。

「……呪(まじな)いの類いと申すは、これまた、このような例(ためし)が頗る多御座る。……いやはや……不思議なことでは御座るのぅ……ハヽヽヽ……」

と、さる雑談にて一笑致いて御座った。

篠原鳳作句集 昭和五(一九三〇)年一月~三月

昭和五(一九三〇)年

 

凧くるわの空に唸り居り

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「凧」は「いかのぼり」と読む。]

 

宮裏の一樹はおそき紅葉哉

 

[やぶちゃん注:『天の川』(同年一月号)に最初に掲載された句。以上二句は一月の発表(前句は『京鹿子』初掲載句)。

 以下は二月の創作や発表作。]

 

園長の來て凍鶴に佇ちにけり

 

莖桶に立てかけてある箒かな

 

[やぶちゃん注:「茎桶」大根や蕪などを茎や葉と一緒に塩漬けにする茎漬けを造るための桶のこと。]

 

秋の蝶とぢてはひらく翅しづか

 

臺の日蔭の麥を踏みにけり

 

[やぶちゃん注:「燈臺」は底本では「灯台」。筑摩書房「現代日本文学全集 巻九十一 現代俳句集」に載る連作五句の前書「燈臺守よ」に拠った。

 

籾莚踏み處なくほされたり

 

麥門冬の實の紺靑や打ち伏せる

 

麥門冬の實の流れ來し筧かな

 

[やぶちゃん注:「麦門冬」は「ばくもんどう」と読み、本来は漢方薬に用いる日本薬局方に収録された生薬の一つで、単子葉植物綱クサスギカズラ目クサスギカズラ科スズラン亜科ジャノヒゲ Ophiopogon japonicas の塊茎(ところどころ太くなった紡錘形を成す)を乾燥させたもののこと。強壮・解熱・鎮咳作用を持ち、気管支炎・気管支喘息・痰の切れにくい咳に効く麦門冬湯(ばくもんどうとう)、月経不順・更年期障害・足腰の冷えに効く温経湯(うんけいとう)、心臓神経症・動悸・息切れに効く炙甘草湯(しゃかんぞうとう)などに含まれている(主に講談社「漢方薬・生薬・栄養成分がわかる事典」に拠った)。但し、ここはその植物体ジャノヒゲそのものを指している。高さ十センチメートルほどで細い葉が多数出る。この葉が竜の髯・蛇の鬚に似ていることから、リュウノヒゲ・ジャノヒゲと呼ばれたとも言われるが、実はこれは「尉(じょう)の鬚」の意で、能面の老人の面「尉(じょう)」の鬚(あごひげ)にこの葉を見立てた「ジョウノヒゲ」が転訛し、「ジャノヒゲ」になったというのが真説らしい。夏に総状花序に淡紫色の小さい花をつけ、子房は種子を一個含むが、成熟前に破れて種子が露出し、青く熟し、鳳作はまさにこの状態を詠じている(以上はウィキの「ジャノヒゲ」を参照した)。]

 

横むいて種痘のメスを堪えにけり

 

[やぶちゃん注:因みに種痘は天然痘撲滅を受けて昭和五一(一九七六)年以降、本邦では一般には行われていないから、この光景も四十代より下の世代にはピンとこないであろう。]

 

草餠や辨財天の池ほとり

 

[やぶちゃん注:「餠」は底本は「餅」。実際にはこの「餠」という正字を使う小説家や俳人は少ないという事実だけは述べておく。確信犯である。私は「餅」という字というより「并」という字が生理的に嫌いなのである。これは「幷」と書くべきである。]

 

追儺豆闇をたばしり失せにけり

 

古利根や洲毎洲毎の花菜畑

 

[やぶちゃん注:「花菜畑」は「はななばた」であろう。回想吟か。無論、菜の花乍ら、この利根の光景は私には明治三九(一九〇六)年に「ホトトギス」に発表した伊藤左千夫「野菊の墓」の一場面のように見紛う――というより、その映画化された、昭和三〇(一九五五)年に公開された木下惠介監督作品「野菊の如き君なりき」(松竹)のプロローグとエピローグの笠智衆扮する政夫老人のシークエンスのように思われてならないのである。]

 

潰えたる朱ケの廂や乙鳥

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「乙鳥」は「つばくらめ」と読む。「朱ケの廂」(あけのひさし)というのは寺院か何かで、「朱」(しゅ)を塗った垂木を持った毀った廂部分のアップと、そこに巣食った喉赤き燕の動の景と私は詠む。一読即廃寺を私はイメージしたが、二句後の句が同時詠とすれば、これは外れということになる。]

 

火の山はうす霞せり花大根

 

[やぶちゃん注:これは恐らく桜島であろう。]

 

方丈の緣に干しあり蕗の薹

 

椽先にパナマ編みゐる良夜かな

 

[やぶちゃん注:「椽先」は縁先に同じい。「パナマ」パナマ帽。パナマ草の若葉を細く裂いて編んだ紐で作った夏帽子。パナマ草は単子葉植物綱ヤシ亜綱パナマソウ目パナマソウ科 Cyclanthaceae に属し、ヤシに似た葉を持つ。主に熱帯に産し、凡そ十二属百八十種を含む。この内のパナマソウ Carludovica palma がパナマ帽(この帽子の発祥は実はパナマではなくエクアドルで、「パナマ帽」の名称由来はパナマ運河であるとする説が強く、「オックスフォード英語辞典」では「一八三四年にセオドア・ルーズヴェルトがパナマ運河を訪問したときから一般に広まった」としている。ここはウィキの「パナマ帽」に拠る)の材料であったために同類総体の植物にも「パナマソウ」の名がついたという。自生種は熱帯アメリカと西インド諸島に分布し、高さ一~三メートルほど、大きな団扇状の葉が広がる。花はサトイモ科に似、果実は熟すと剥け落ちて朱赤色の果肉が現れる。葉を天日で乾燥させ、さらに煮沸した後に漂白したものをパナマ帽の材料とする(ここは「Weblio 辞書」の「植物図鑑」の「パナマソウ」に拠った)。後に宮古島に中学教師として赴任する鳳作は、そこでもパナマ編みを親しく見、盛んに作句している。この句も実は沖繩で詠まれたものではないかと、実は疑っている(実際に四句後には「首里城」の前書を持つ句が出現する。同句注も参照されたい)。私には鳳作といえば「パナマ」、それがまた彼の亜熱帯無季俳句(亜熱帯に所詮季語は通用しない。――この温暖化によって亜熱帯化し、人為によってテッテ的に自然のままの季節が破壊され尽くした感のある今の日本にも――である)のシンボルにもなっていると勝手に思っているのである。]

 

摘草の湯女とおぼしき一人かな

 

温室をかこむキヤベツの畠かな

 

古庭やほかと日のある木賊の莚

 

[やぶちゃん注:「木賊の莚」は「とくさのむしろ」では如何にもで、「とくさのえん」もいけない。私は敢えて木賊で編んだ莚、茣蓙で「ざ」と読みたくなるのだが。大方のご批判を俟つ。]

 

   首里城

城内に機音たかき遲日かな

 

[やぶちゃん注:鳳作の姉幸は那覇市の歯科医に嫁いでいた。即ち鳳作は宮古に赴任する以前に沖繩に親しんでいたのである。……ああ……タン、タン、という機音と……今はなき素朴な首里城の景観が幻視される……

 ここまで昭和五(一九三〇)年の一月から三月までの創作及び発表句。]

杉田久女句集 40 黍畑から吹く風に鳴る風鈴

風鈴に黍畠よりの夜風かな

 

孤り居に風鈴吊れば黍の風

 

[やぶちゃん注:この「黍」が真正の単子葉植物綱イネ目イネ科キビ Panicum miliaceum を指しているか、それともイネ科トウモロコシ Zea mays の別称であるか、判定出来ずにいる。当時の福岡ではキビ Panicum miliaceum など栽培していなかったという情報があれば情景は知られた玉蜀黍畑で落ち着くのだが。実は私はその室内での立ち位置から見て、キビではなくトウモロコシと読みたくなるのであるが。識者の御教授を乞うものである。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年 荒るゝ關門 

 荒るゝ關門

 

機關止みふぶける船に艀を寄す

 

黑き舷船名もなく雪に繫る

 

[やぶちゃん注:「舷」はふなべり・ふなばたの謂いであるが、音で「ゲン」と詠んでいよう。私の恣意的正字化へ異義を持たれる方へお訊ねしたい。――この「繫る」(つながる)の「繫」の字は底本のママである。あなたはこの字を普段書きますか? いやさ、書けますか?――と――]

 

舷側の十字を紅く吹雪の中

 

雪の航水夫(かこ)垂直の階を攀づ

 

雪を航き朝餐のぬくきパンちぎる

 

[やぶちゃん注:「朝餐」は「あさげ」と訓じているか。]

 

航海燈かがやき雪の帆綱垂る

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。]

 

雪を航きひとりの船室(キヤビン)燈をともす

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。カタカナのルビの拗音表記の問題については、先行する句で本文「フレップ」を「フレツプ」と表記していることに鑑み、しばらく拗音化しないこととする。以下、この注は略す。]

新世紀の初に 萩原朔太郎

       ●新世紀の初に

 

 變化しつつあるものは何だらうか? 藝術でない。政治でない。我々の時代の家庭である。

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」の「結婚と女性」より。底本校訂本文は標題の「初に」を「初めに」と言わずもがなの『訂正』をしている。私は採らない。本アフォリズムは「虚妄の正義」が初出である。実は朔太郎は、このアフォリズム自体を、この四十二章からなる「虚妄の正義」の序章の添書にも使っている。]

萩原朔太郎 短歌四首 大正二(一九一三)年五月

しののめのまだきに起きて人妻と汽車の窓よりみたるひるがほ

 

ふきあげの水のこぼれを命にてそよぎて咲けるひやしんすの花

 

たちわかれひとつひとつに葉柳のしづくに濡れて行く俥かな

 

きのふけふ心ひとつに咲くばかりろべりやばかりかなしきはなし

 

[やぶちゃん注:『朱欒』第三巻第五号(大正二(一九一三)年五月発行)の「靑き瞳」欄の「その二」に「萩原咲二」名義で掲載された。朔太郎満二十六歳。意識的なフローラ尽くしである。また何より一首目に出現する「人妻」によって、これが、そして先行し、かつこれに続く悲恋唱歌群のその殆んど総てが、やはり永遠の「エレナ」馬場ナカであることはほぼ間違いがないものと私は思うのである(因みに妹の友人であったナカとの出逢いは一説に朔太郎十三歳の時にまで遡るという)。「ろべりや」キキョウ目キキョウ科ミゾカクシ(溝隠)属 Lobeliaのロベリア・エリヌス Lobelia erinus、和名ルリチョウソウ(瑠璃蝶草)及びその園芸品種。歌群「ろべりや」に既注。]

つばねの 穗   八木重吉  (★附視覚的再現版)

    つばねヽ ヽ ヽの 穗

ふるへるのか
そんなに 白つぽく、さ

これは
つばねヽ ヽ ヽの ほうけた 穗

ほうけた 穗なのかい
わたしぢや なかつたのか、え

[やぶちゃん注:第一連二行目の「白つぽく、さ」の読点と次の間投助詞「さ」との間は今までのような有意な間隙がなく、半角も与えずに繋がっている感じで特異である。単なる植字上のミスの可能性が高いが、原本を視認した際、明らかに際立って目立つので特に指示しておく。ここで述べておくと、底本全体の文字組は、実は字間幅が普通より著しく広い(行間もやや広い)。それをも再現するとなると、本詩の場合は以下のような感じになる(あくまで感じであるが、なるべく近づけてみた。少々やり疲れたので再現を諦めたが題名のポイントも本文に比して有意に大きい)。

    つばねヽ ヽ ヽの 穗

ふ る へ る の か

そ ん な に  白つぽく、さ


こ れ は

つばねヽ ヽ ヽの  ほ う け た 穗


ほ う け た  穗 な の か い

わ た し ぢ や  な か つ た の か、 え

これは恰も聖書風の本詩集初版を手にした際に最も際立って感じられる視覚的奇異性(これは特異性というよりは「奇異」という語が相応しい)で、これこそが実は本詩集の最大の特長と言ってよいのであるが、ブログ版ではそこまで再現するのが煩瑣なので試みていない(この短い記事だけでも注記記載も含め、タグや不具合を補正するうち、たっぷり一時間は経過しているのである)。しかし、この字幅・行幅のサイト版を作る際にはそれも再現してみたい欲求に駈られてはいる。それほどに麻酔のような透明な白さが、この詩集のそれぞれのページの字背には漂っている、と言ってよいのである。
「つばねの穗」確認出来ないが、この「つばね」とは茅花つばな、単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ Imperata cylindrical の方言ではあるまいか。以下、ウィキの「チガヤ」によれば、チガヤは初夏に細長い円柱形のそれを出穂する。穂は葉よりも高く伸び上がってほぼ真っ直ぐに立ち上がり、分枝せず、真っ白の綿毛に包まれているためによく目立つ。『花穂は白い綿毛に包まれるが、この綿毛は小穂の基部から生じるものである。小穂は花序の主軸から伸びる短い柄の上に、2個ずつつく。長い柄のものと、短い柄のものとが対になっていて、それらが互いに寄り沿うようになっている』。小穂は長さが4ミリメートルほどで、『細い披針形をしている。小花は1個だけで、これは本来は2個であったものと考えられるが、第1小花はなく、その鱗片もかなり退化している。柱頭は細長く、紫に染まっていて、綿毛の間から伸び出すのでよく目立つ』。種子はこの綿毛に風を受けて遠くまで飛ぶ。本属は「世界最強の雑草」と呼ばれる如く、本邦でも古えより厄介な雑草であると同時にまた様々な利用も行われてきた。古名は「チ(茅)」で、花穂は「チバナ」または「ツバナ」とも呼ばれ、「古事記」や「万葉集」にもその名が出る。『この植物はサトウキビとも近縁で、植物体に糖分を蓄える性質がある。外に顔を出す前の若い穂は、噛むと甘く、子供がおやつ代わりに噛んでいた。地下茎の新芽も食用となったことがある』。「万葉集」にも『穂を噛む記述がある』。『茎葉は乾燥させて屋根を葺くのに使い、また成熟した穂を火口(ほくち)に使った。乾燥した茎葉を梱包材とした例もある』。『また、花穂を乾燥させたものは強壮剤、根茎は茅根(ぼうこん)と呼ばれて利尿剤にも使われる』。『他に、ちまき(粽)は現在ではササの葉などに包むのが普通であるが、本来はチガヤに巻いた「茅巻き」で、それが名の由来であるとの説がある』とある。]

鬼城句集 冬之部 蠣

蠣     蠣苞にうれしき冬のたよりかな

[やぶちゃん注:「蠣苞」は「かきづと」と読む。「苞」は「包む」と同語源で、藁などを束ねてその中に食品を包んだ藁苞(わらづと)の謂い。そこから転じて、それぞれの土地の産物、旅の土産の意となった。牡蠣を送ってくれた相手への挨拶句。]

2014/01/30

耳嚢 巻之八 油蟲呪の事

 油蟲呪の事

 

 木の葉草の葉にあぶら蟲生じきたなげなるを、人々忌み嫌ふは常なり。予が知れる石川氏のもとへ、植木屋を呼(よび)て植替抔せし時、彼(かの)油蟲の除方(のぞきかた)もあるべしと尋(たづね)しに、いとやすき事なり、前錢(まへせん)十六文と認(したため)建札(たてふだ)すれば、油蟲の愁(うれひ)なしといゝしゆゑ、滑稽にて申(まうす)や、かゝる事あるべくもなしと笑(わらひ)しに、左思召(さおぼしめ)さばまづ試(こころみ)に札を立(たて)給へと申(まうす)ゆゑ、召(めし)仕ふ者抔へ申付(まうしつけ)、可笑(をかしき)事ながら札建(たて)しに、絶へて油蟲の愁ひなし。物見柴居(ものみしばい)など、錢を不出(いださず)見物するを油蟲と諺(ことわざ)に云(いへ)るも、何ぞ子細やあらんと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。一つ前の「寐小便の呪法の事」と呪(まじな)いシリーズと、その馬鹿馬鹿しい程度に於いても直連関。

・「油蟲」昆虫綱有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科のアブラムシ科 Aphididae/カサアブラムシ科 Adelgidae/ネアブラムシ科 Phylloxeridae に属する昆虫の総称。アリマキ(蟻牧)とも呼ぶ。参照したウィキの「アリマキ」によれば、『植物の上でほとんど移動せず、集団で維管束に口針を突き刺して師管液を吸って生活する』。『アリと共生し、分泌物を与えるかわりに天敵から守ってもらう習性や、単為生殖によっても増え真社会性を持つことなどから、生態や進化の研究のモデル昆虫ともなっている』とある。栽培野菜などでは寄生されることで葉の色が黄色く変色したり、アブラムシが出す甘い汁によって見栄えが悪くなったりし、またモザイク病ウイルスも媒介することから防除される害虫扱いとなっている。現在は『有機リン系(マラチオン、MEP、アセフェート等)、合成ピレスロイド系(ピレトリン等)、クロロニコチル系(アセタミプリド等)などの多くの殺虫剤が有効である。しかし、最近の研究結果では、特に有機リン系や合成ピレスロイド系に対し、高い薬剤抵抗性を持つ傾向が顕著であるとの報告が多数ある。アブラムシは薬剤抵抗性を持ちやすいので、あまり同一の殺虫剤の散布を長期間繰り返すよりも、2-3種の系統の違うものを定期的に散布していく方法がある。また、最新の防除法として、アブラムシを捕食あるいは、アブラムシに寄生する、寄生バチ類、テントウムシ類、ヒラタアブ類などの天敵類を利用した生物的防除が、ハウス栽培野菜を中心に実施されつつある。但し、天敵類の多くは薬剤に対して抵抗性を持たず、農薬との併用による総合的病害虫管理 (IPM) を行う際には一考の余地がある』。『また、葉を巻いてその中に潜む種類や、はっきりした虫えいを形成するものもある。このようなものは虫体に殺虫剤が接触しにくいので、浸透移行性のある殺虫剤が効果的である』。『化学的なものを使用せずに除去する場合、脂肪分の多い牛乳を薄めたものを霧吹きで散布すると、牛乳が乾燥するときにアブラムシの気門を塞いで窒息死させるので有効であると言われたことがある』。また『同じ原理を利用し、濃度調整したでんぷんや食用油脂を主成分としたものが農薬として商品化されている』とある。流石にこの金のかからない「前錢十六文」立札法は記載されていない。

・「前錢」売買及び各種見世物や芝居小屋などに於いて、その代金や木戸銭を先に支払うことをいう。

・「柴居」底本では「柴」の右に『(芝)』と訂正注がある。

・「油蟲」には、知られたその体表面の印象からのゴキブリ(昆虫綱ゴキブリ目 Blattodea)の別名以外にも、人に付き纏ってただで遊興・飲食をするものを嘲って言ったり、また特に、遊郭での冷やかしの客を指しても言った。これらの俚諺は察するにやはりこの真正のアブラムシ(アリマキ)の群れたか習性から主に生じたもののように私には思われる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 油虫除けの呪(まじな)いの事

 

 木の葉や草の葉に油虫(蟻牧)が無暗に寄りたかって汚げに見ゆるは、人々の忌み嫌うところで御座る。

 以下は、私の知れる石川某氏の話で御座る。

 

 我らが屋敷元へ植木屋を呼んで庭の植木の植え替えなど致いた折り、かの油虫の駆除の仕方も、これあろうほどにと、直(じか)に訊ねてみたところが、

「へい、そりゃたいそう簡単なこって、

――前錢(まえせん)十六文

と認(したた)めた立て札をすりゃあ、これ、油虫の愁いなんざ、あっという間に雲散霧消でござんす。」

と申すゆえ、

「冗談で申すか、そのようなこと、これ、あろうはずも、ないわ!」

と笑(わろ)うたところが、

「そう思し召しになられるであれば、まず、試みに札をお立てなせえ!」

と申したによって、召し仕(つこ)う者なんどへ申し付け、馬鹿馬鹿しいことながらも、またどこか面白く思うた節もあったによって、かく

――前錢十六文

と黒々と墨書致いた札を建ててみたところが、――いや!――これ、絶えて油虫の害のこれなくなって御座った。……

……物見や芝居なんどで、木戸銭を出ださず見物致す不届き者を、俚諺にて『油蟲(あぶらむし)』と申すこと……これ何ぞ、子細・連関のあらんか?……」

 

と石川氏、真顔で語って御座ったよ。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 6 若者たち / 指物師たち

 私は下層民の間で、若い男達がお互の肩に手をかけて歩いているのに気がついた。女の子が、我国の子供達みたいに、小径をピョンピョン跳ねているのは、一度も見たことがない。事実、彼等の木造の履物を以てしては、これは不可能であるらしく思われる。下層民の街頭における一般的行為は、我国の同じ階叔の、すこし年の若い人々のと似ている。

 

 最近私は博物館の為に、陳列館の設計をしている。これは中央に直立した箱がある、二重式陳列箱なのだが、日本人の指物師が、それを了解することを、如何に困難に感じるかは、驚くばかりである。大学の建築技師が私の所へやって来て、私は通訳を通じて、断面や立面を説明するのであるが、最もこまかい細部を繰り返し繰り返し説明せねばならず、これをやり終ると、今度は箱をつくる男が来て、私はまたそれを全部くりかえさねばならぬ。我々がある事物を製図する方法は、日本人の方法とは全然違い、また我々がつくつて貰い度いと思う物は、彼等がかつて造った物や見た物の、どれとも似ていないのだから、彼等が我々の欲する物に就て面倒がり、そして思いまどうのも無理はない。

[やぶちゃん注:既注。上野の文部省教育博物館(現在の国立科学博物館の前身)。]

中島敦 南洋日記 十二月十九日

        十二月十九日(金)

 二日來の喘息、愈々面白からず、夜、土方氏方に到り、南方離島記の草稿を讀む、面白し。「プール島(人口二十に足らず)に、パラオより流刑に合ひし無賴の少年あり、奸譎、傲岸、プール島民を頤使す、已に半ばパラオ語を忘る。この少年の名をナポレオンといふと」「無人島へレン礁に海鳥群れ集へること。島に上れば、たちどころに數十羽を手摑みにすべしと。卵も又、とり放題。捕りし鳥共の毛をむしり、直ちに燒きて食するなり」

[やぶちゃん注:「南方離島記」は初版未詳で現在は「久功著作集」(三一書房)でしか読めないらしい。杉岡歩美氏の論文「中島敦にとっての〈南洋行〉――昭和初期南洋という「場」――」の注から孫引き(但し、恣意的に正字化し歴史的仮名遣に変えた)すると、「南方離島記」には以下のように書かれてある。

   *

此の遠いパラオの小ナポレオンが、只一人この樣な離島に居る理由が、また香ばしくないのであつて、この、まだ公學校も卒業しない少年が、警察の手にもおへない惡性の窃盗常習の故を以て、この二百哩も離れた、人口十八、九名の離島に流刑に處せられてゐるのである。(中略)他の人達には彼はワカラナイを連發しながらも兎も角日本語でやつてゐるのである。するとパラオ語を使はれると、ずっと氣樂になればプル語が口をついて出るらしい。それにしてもたつた二年ばかりの間に、生まれてから十年間もそれに親しみ、その中にのみ暮した自分達の言葉を、そんな風に忘れてしまふ――のではあるまいが、話しにくくなつてしまふと云ふことが有り得るだろうか。多分それは有り得るのだらう。

   *

「プル語」不詳。この不良少年ナポレオンの話は後に中島敦の「環礁――ミクロネシヤ巡島記抄――」で「ナポレオン」という章題で小説化されている(当該作品は青空文庫ので読める)。また、原話と敦の創作との違いについては、洪瑟君氏の論文「ラフカディオ・ハーンの民俗学と中島敦」に詳しい。

「奸譎」「かんけつ/かんきつ」と読む。姦譎とも書き、邪(よこし)まで、心に偽りが多いこと。

「頤使」「いし」と読む。頤指とも書き、文字通り、頤(あご)で指図して思いのままに人を使うこと。

「へレン礁」現在、パラオの南西諸島ハトホベイ州に属するヘレン環礁。現地のトビ語ではホトサリヒエ環礁(Hotsarihie)と呼ばれる。パラオのマラカル港からは凡そ三百キロメートルも離れており、トビ島の東七五キロメートルの位置に存在する。環礁西南部に礁湖に入る水路が存在し、引き潮時にはここから水が流出する。一七六七年に「発見」された。凡そ島長二五キロ、幅一〇キロメートルm礁湖は一〇三平方キロ、浅い珊瑚礁を合わせると約一六三平方キロメートルの面積を持つ。満潮時にはその殆んどが水没するものの、北端の一部は長さ四〇〇メートルほどの細長い島になっており、ヤシも見られ、ここがヘレン島と呼ばれている。現在、ヘレン島は面積が〇・〇三平方キロメートルほどしかない無人島であるが美しい珊瑚礁とここに記されるような多様な海鳥の楽園としても知られ、珊瑚の密猟を取り締まるために警備隊の恒久的宿営地がある(以上は主にウィキの「ヘレン環礁」に拠った)。]

虛言への情熱家  萩原朔太郎

     ●虛言への情熱家 

 正直者とは、僞(うそ)をつかない人といふことではない。僞(うそ)でさへも、利己的な打算や懸引(かけひき)でなく、無邪氣な純一の心を以て、情熱から語る人を言ふのである。

 芸術の天才等は、氣質の正直さにかかはらず、概ね僞(うそ)つきの名人であり、虛言することに熱意を持つてる。

 [やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」の「著述と天才」掉尾。]

萩原朔太郎 短歌三首 大正二(一九一三)年四月

にを蒔くひめひぐるまの種を蒔く君を思へと涙してまく

 

なにごとも花あかしやの木影にて君まつ春の夜にしくはなし

 

うちわびてはこべを摘むも淡雪の消なまく人を思ふものゆゑ

 

[やぶちゃん注:『朱欒』第三巻第四号(大正二(一九一三)年四月発行)の「暮るる日の雪」欄の「その十一」に「萩原咲二」名義で掲載された。朔太郎満二十六歳。

 一首目は初出では「ひめひぐるま」が「ひめぐるま」となっている。校訂本文に準じて脱字と断じて訂した。「ひめひぐるま」の「ひぐるま」は「日車」でヒマワリの別称であるから、同属の観賞用小型品種を指すか。

 前の投稿から二年の空隙がある。但し、底本年譜にはこの間の大正元・明治四五(一九一二)年の十月に「峽灣」という歌群があることを記すが、そこには『未詳』とあり、これは底本全集編集時に未入手であることを指している。なお、老婆心乍ら、『朱欒』は「ザンボア」と読み、北原白秋編集になる文芸雑誌である。明治四四(一九一一)年十一月から大正二(一九一三)年五月まで十九冊を刊行、後期浪漫派の活躍の場となった(大正七年一月に発刊された改題誌『ザムボア』は短命で同年九月に廃刊している)。

 年譜を見ると、この年二月に大磯・小磯に遊び、また平塚の病院に人を訪ねた、と記す。その後に編者注として、平塚の佐々木病院に『昔知れる女友の病むときいて』訪ねたところ、同女は既に『此の世から消えてしまつたのである』という「ソライロノハナ」の『一九一一、二』のクレジットを持つ「二月の海」の平塚ノ海の冒頭の一節を引いている(年譜の引用には一部表記に問題があるので引用形態をとらなかった。なお、リンク先は私がオリジナルに作った電子テクストである)。ここには実際の朔太郎の永遠の恋人エレナのモデルとされる、朔太郎の妹ワカの友人で本名馬場ナカ(仲子とも 明治二三(一八九〇)年~大正六(一九一七)年五月五日享年二十八歳)の死との大きなタイム・ラグが存在する。これについて不学な私は現在、読者を納得させるべき知見を持たないが、人妻(明治四二(一九〇九)年に高崎在の医師(佐藤姓)に嫁している)であり、死病であった結核に罹患していたことを念頭におけば、そのトラウマが引き出したところの「永遠のエレナ」と「詩人萩原朔太郎」との物語の時間的齟齬は、不思議に感覚的には不審と思わないことを述べておきたい。同時にエレナについて詳しい識者のご教授を乞うものでもある。ただこの短歌群によって少なくとも、「ソライロノハナ」の創作的虚構的時間を遡ったように見受けられるエレナ/ナカへの詩人の感懐そのものは、決して虚構ではなかったことがはっきりと分かるのである。]

わが兒(こ)   八木重吉

わが兒と

すなを もり

砂を くづし

濱に あそぶ

つかれたれど

かなし けれど

うれひなき はつあきのひるさがり

 

[やぶちゃん注:八木重吉は本詩集を刊行した翌昭和元・大正一五(一九二六)年、結核の宣告を受け、茅ヶ崎で療養生活に入ったが翌昭和二(一九二七)年十月二十六日、二十九歳で逝去した。重吉と妻とみとの間には桃子・陽二という二人の子供がいたが、その二人も重吉と同じく結核によって昭和一二(一九三七)年に桃子、昭和一五(一九四〇)年には陽二も相次いで夭逝した。なお、未亡人とみ(登美子)夫人は、後に歌人吉野秀雄に再嫁され、平成一一(一九九九)年に亡くなられている(以上はウィキの「八木重吉」に拠る)。]

鬼城句集 冬之部 鴛鴦

鴛鴦     予若かりし時妻を失ひ二兒を抱いて泣くこ

       と十年たまたま三木雄來る乃ち賦して示す

       これ予が句を作る初めなり今こゝに添削を

       加へず

      美しきほど哀れなりはなれ鴛

[やぶちゃん注:「鴛」は「をし(おし)」と読む(言わずもがなながら、カモ目カモ科オシドリ Aix galericulata の雄を指す)。

 鬼城は満二十九の明治二二(一八八九)年にスミと結婚し二児をもうけたが、三年後の明治二五(一八九二)年、スミは二十七の若さで亡くなった(この年にはその前に実父も鬼籍に入っている)。なお、この「十年」とは「長い間」の意であるので注意。この句はスミの亡くなったその年の句である。「三木雄」は宗教家で俳諧宗匠三森幹雄(みもりみきお 文政一二(一八三〇)年~明治四三(一九一〇)年)。陸奥石川郡中谷(現在の福島県石川町)生まれで、本名は寛、別号は春秋庵(十一代を継ぐ)・静波・樹下子・笈月山人・不去庵など多数。江戸で志倉西馬(しくらさいば)に師事し、後に神道系新宗教教団神道十三派の一つ、神道大成教(しんとうたいせいきょう:幕末に外国奉行などを務めた平山省斎(せいさい)が組織し、明治一五(一八八二)年に一派として独立した教派神道。随神(かんながら)の道を目的としつつ、静座などの修行を重んじるとともに西洋の諸科学や実用主義を取り入れている。)に属して俳諧に拠る教化運動を図って明倫講社を結成、明治一三(一八八〇)年には『俳諧明倫雑誌』を創刊している。著作に「俳諧名誉談」などがあり、門弟は三千人に及んだという。俳人林桂氏の公式サイト『風の冠文庫』の「書評」の「『俳秀加舎白雄―江戸後期にみる俳句黎明―』金子晋著」に、『村上鬼城が俳句を始めたのは弟平次郎の影響からである。旧派俳人として活躍していた弟に勧められて、明治二十五年東京の偉い宗匠春秋庵幹雄(鬼城は三木雄と表記)に俳句を見て貰ったのが最初である。鬼城の句に旧派の面持ちがあるとすればそのためである。春秋庵の号は幹雄が白雄の系譜に連なることを示している。明治期の群馬の旧派地図は白雄の系譜に連なっていたらしいのである』とある。]

ブログ・カテゴリ「篠原鳳作」始動 / 篠原鳳作句集 昭和三(一九二八)年/昭和四(一九二九)年

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「篠原鳳作」を始動する。篠原鳳作(しのはらほうさく 明治三九(一九〇六)年~昭和一一(一九三六)年)は鹿児島市池之上町生。本名篠原國堅(くにかた)。東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、沖縄県立宮古中学校・鹿児島県立第二中学校で教師(公民・英語科担当)を勤める傍ら「ホトトギス」に投句、昭和八(一九三二)年には『天の川』同人となるとともに(この部分は講談社「日本人名大辞典」に拠るが、底本年譜では同人になった時期が明記されていない代わりに、『天の川』への投句は昭和四年には開始されていたこと、昭和五年には同誌の主催者である吉岡禅寺洞選への投句が開始されており、翌六年一月には鹿児島市に『天の川』支部を開設、十月には諸俳誌から遠ざかって禅寺洞の指導へ傾倒していったとあるので、やや不審ではある。無論、正式な同人になったのがその後ということなのであろうが、支部を作る人間が同人ではなかったというのはやはり私には解せない)、昭和八年九月には『天の川』同人らの『傘火(かさび)』に参加して新興俳句運動の旗手となって無季俳句を多く発表したが、昭和一一年九月十七日、三十歳で急逝した(直接の死因は公に心臓麻痺とされるが、前駆症状などからは脳腫瘍等の脳神経系の重篤な主因が疑われるように私は感じている)。

 私は既にサイト創生期の二〇〇五年七月に筑摩書房「現代日本文学全集 巻九十一 現代俳句集」一九六七年刊の「篠原鳳作集」を底本とした電子化を行っているが、ここでは無論、鳳作の全句の公開を目指す。底本は沖積舎平成一三(二〇〇一)年刊「篠原鳳作全句文集」を用いたが、例によって彼は戦前の作家であるからして、私の特に俳句のテクスト化ポリシー(この理由については俳句の場合、特に私には確信犯的意識がある。戦後の句集は新字採用のものもあるであろうが、それについては、私の「やぶちゃん版鈴木しづ子句集」の冒頭注で、私の拘りの考え方を示してある。疑義のある方は必ずお読み頂きたい)に従い、恣意的に漢字を正字化して示すこととした。但し、疑義のある部分については、先に電子化した選句集の表記その他を参照したので、完全に「恣意的」であるとは言い難い。なお、編集権を侵害しないために(また私にはあまり重要とは思われないが故に)各句の初出データは、注で出したものを除き、省略した。]

 

昭和三(一九二八)年

 

  病中

夜々白く厠の月のありにけり

 

[やぶちゃん注:底本で最も古い鳳作の句として冒頭に掲げられている。初出は同年二月刊行の『ホトトギス』で初入選句である。当初の俳号は未踏であったが、本句はその後に頻繁に用いた「篠原雲彦」を用いている。但し、両俳号はその後も併用した(底本年譜に拠る)。当時、鳳作二十二歳、東京帝国大学法学部政治学科二年。]

 

昭和四(一九二九)年

 

コスモスの日南の緣に織りにけり

 

[やぶちゃん注:「日南」は「ひなた」であろう。鳳作二十三歳、この四月に帝大を卒業して鹿児島に戻っているが、この時期は職に就いておらず(これは当時発生していた極端な就職難という外因によるものと思われる)、年譜上からは俳句へと急速に傾倒していった時代と読み取れる。彼の手帳メモによれば、当時の主な投句俳誌は『泉』『馬酔木』『天の川』『京鹿子』であった。]

 

慈善鍋キネマはてたる大通り

 

秋の蚊のぬりつく筆のほさきかな

 

ままごとの子等が忘れしぬかご哉

 

[やぶちゃん注:「ぬかご」は零余子(むかご)。植物の栄養繁殖器官の一つで、主として葉腋や花序などの地上部に生じるものを呼び、離脱後には新たな植物体となる。葉が肉質となることにより形成される鱗芽と、茎が肥大化して形成された肉芽とに分けられ、前者はオニユリなど、後者はヤマノイモ科などに見られるものである。両者の働きは似ているが、形態的には大きく異なり、前者は小さな球根のような形、後者は芋の形になる。いずれにせよ根茎の形に似る。ヤマノイモなどでは栽培に利用される。食材として単に「むかご」と呼ぶ場合、一般にはヤマノイモ・ナガイモなど山芋類のむかごを指し、ここでもそれと考えてよい。灰色で球形から楕円形を成し、表面には少数の突起があって葉腋につく。塩茹でや煎り、また、米と一緒に炊き込むなどの調理法がある。零余子は仲秋の、零余子飯(むかごめし)は晩秋の季語である(以上はウィキの「ご」に拠った)。]

 

歸り咲く幹に張板もたせけり

 

[やぶちゃん注:同年十一月発表。帰り花は初冬の季語であるが、花は特定されない。梅か桜か。「張板」は和服地を洗って糊附けして張り板に張り、皺を伸ばして乾かす板張りのための板。字背に花と和服の色を隠した小春日の景で、なかなか憎い句柄である。]

 

凍て蜜柑少し焙りてむきにけり

 

懷ろ手して火の種を待ちにけり

 

山茶花の花屑少し掃きにけり

2014/01/29

明恵上人夢記 32

32

一、同月八日の夜、夢に云はく、緣智房(えんちばう)來りて告げて曰はく、「一々に留守を置き候はばや。今より御分に成るべく候也。僧都知るべからず候」と云々。

[やぶちゃん注:短いだけに、逆にシチュエーションが摑み難い。無論、訳には自信がない。

「同月八日」建永元(一二〇六)年六月八日。

「緣智房」不詳。「夢記」には既に「法智房」「鑑智房」という名が出、孰れも明恵と同行の修行僧である。

「僧都」不詳。但し、次の「33」の夢の冒頭に「又、眞惠僧都之許に到る」とあり、文脈からは同一人物であるようにとれるように書かれているとも私は思う。底本の注で「33」の「眞惠僧都」については『長良流の従五位下藤原宗隆男で東寺一長者となった大僧正法務真恵か』とある(但し、彼が東寺長者に補任されたのは明恵の没六年後の嘉禎四・暦仁元(一二三八)年九月である)。]

 

■やぶちゃん現代語訳

32

一、同月八日の夜、見た夢。

 縁智房が私のところへ来たって告げて言うのである。

「いちいちに――住持の留守の仮初の代理を置いておく――それで、よう御座るか? 最早、今よりあなたがその立場となるべきで御座ろう。そうしてそれは、ここにおらぬ僧都の知ったことでは御座るまいほどに。」と。……

栂尾明恵上人伝記 71 「無常を取り殺して、其の後にぞ我は死なんずる。無常にはとり殺さるまじ」

 或る時、上人語りて云はく、大聖文殊(だいしやうもんじゆ)に大智を乞ひて、佛法の玄旨(げんじ)を心の底に伺ひ演(の)ぶる處、併て二空の妙理なり。三世の諸佛の大道、一代諸教の本意なりと思へば、手を放ちて空々(くうくう)とのみ空めき居たれば空めき死(じに)にぞ死なんずらん。此の空の故には無常を取殺(とりころ)して、其の後にぞ我は死なんずる。無常には取り殺さるまじきなり」と戯れ給ふ。

[やぶちゃん注:最期の時が迫る中、「手放しで『何もかも総て、空じゃ! 空じゃ!』とばかり念じて、空のただ中におりさえすれば、空めいた死に振りもできようものであろうず。このすべての真理たらん空故にこそ、我らは無常をテッテ的にとり殺す。無常を取り殺した、その後で、我らは死のうと存ずるのじゃ。我らは決して――無常によってはとり殺されはせぬぞ!」と如何にもシブい冗談を述べる明恵――私にはその少年のようなつやつやとした素晴らしい笑顔が――見える……

「二空の妙理」講談社学術文庫の平泉氏の訳では、『物質と精神との二元論的存在を否定する不思議な道理』とある。

「三世」過去・現在・未来。

「一代諸教」釈迦がその生涯で説いた多くの教え。]

北條九代記 大炊渡軍 付 御所燒の太刀 承久の乱【十七】――大炊渡しの戦い

武田、川端に進めば、信濃國の住人千野(せんのゝ)五郎、川上〔の〕左近、馬を打入れて渡す所に、東方より黑革威(くろかはおどし)の鎧に月毛なる馬に乘り、塗籠籐(ぬりごめどう)の弓持ちたる兵、河端に下りて、「只今岸を渡すは何者ぞ」と詞を掛けたり。「是は武田五郎殿の御手に屬せし信濃國の住人、千野六郎、河上左近」と名のりけり。この武者聞きて、「某も同國の住人に、夫妻(おほつまの)太郎兼澄と云ふ者ぞ、千野は我等が一門ぞかし、河上殿に申承らん」とて、能引(よつぴい)てひようと射るに、左近が引合(ひきあはせ)を篦深(のぶか)に射させて、倒(さかさま)に落ちて流れたり。千野六郎、續て渡す所を、又矢を番(つが)ひて、射たりければ、六郎が乘りたる馬の弓手の太腹を射させて、馬は平(ひら)に轉(ころ)びたり。千野六郎、太刀を拔きて逆茂木の上に飛上(とびあが)る。京方の陣より、武者六人馳寄(はせよ)りて、六郎をば打取りけり。是を初て常葉(ときはの)六郎、我妻(あづまの)太郎、内藤八續(つゞい)て渡しける所に、大妻太郎に射落されて、川に流れて死んだりけり。武田五郎、易からず思ひて打入り渡すを見て、舎兄惡三郎、舎弟六郎、同七郎、武藤〔の〕五郎、内藤七、新五、黑河、岩崎〔の〕五郎、以上九人ぞ渡しける。京勢、雨の降る如くに矢を放つに、少しも躊躇(ためら)ふ色はなし。小笠原〔の〕次郎百騎計(ばかり)にて押渡る。京勢河端に下向(おりむか)うて戰ふ。寄手の大勢、物ともせず、打入れ打入れ、雲霞の如く渡掛(わたしかけ)て、鬨の聲を作りて攻掛(せめかゝ)る。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【十七】――大炊渡しの戦い〉

「千野五郎」諸本「六郎」の誤りとする。以下に見る通り、これは「承久記」の誤りであって筆者の咎ではない。

「塗籠籐」弓の束(つか)を籐で密に巻いた重籐(滋籐/繁籐:しげどう)の弓でも、その籐の部分を含め、全体を漆で塗り籠めた弓。単に塗籠とも呼んだ。

「引合」鎧や腹巻き・胴丸・具足の類に於いて着脱するための胴の合わせ目を指す語。この場面のような大鎧では前と後ろを引き合わせた右脇の間隙部分を指す。

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号40の続きから43のパートの頭の部分まで)の記載。

 

 武田ガ手ノ者、信濃國住人千野五郎・河上左近二人打入テ渡ケルガ、向ノ岸二黑皮威ノ鎧ニ月毛ナル馬ニ乘テ、クロツハノ矢負テ、塗籠藤ノ弓持クリケルガ、河ノハタノ下ノダンニ打下テ、「向ノ岸ヲ渡ハ何者ゾ」。「是ハ武田小五郎殿ノ御手ニ、信濃國住人千野六郎・川上左近ト申者」ト名乘ケレ。「同國ノ住人大妻太郎兼澄也。眞ニ千野六郎ナラバ、我等一門ゾカシ。六郎ハ諏方大明神ニユルシ奉ル。川上殿ニ於テハ申承ン」トテ、ヨツ引テ丁ト射ル。左近ガ引合ヲ篦深ニ射サセテ、倒ニ落テ流レケルニ、千野六郎是ニモ不ㇾ臆、軈テ續テ渡シケレバ、「千野六郎ハ、元來、大明神ニユルシ奉ル。馬ニ於テハ申受ン」トテ、能引テ丁ト射ル。六郎ガ弓手ノ切付ノ後ロノ餘ヲ、篦深ニ射サセテ、馬倒ニコロビケレバ、太刀ヲ拔テ逆茂木ノ上へ飛タチ、カチ武者六人寄合テ、千野六郎ハ打取ニケリ。同手ノ者常葉六郎、其モ大妻太郎ニ鎧ノ草ズリノ餘ヲ射サセ、舟ノ中ニ落タリケルヲ、先ノ六人寄合テ打ニケリ。我妻太郎・内藤八、其モ被ㇾ射テ流レニケリ。

 内藤八ハ眞甲ノハヅレ射サセテ、血目へ流入ケレバ、後モ前モ不ㇾ見、馬ノ頭ヲ下リ樣ニアシク向テ、軈テ被卷沈ケルガ、究竟ノ水練成ケレバ、逆茂木ノ根ニ取付テ、心ヲ沈メ思ケルハ、是程ノ手ニテヨモ死ナジ、物具シテハ助ラジ、此鎧重代ノ物ナリ、餘生タラバ其時トレカシト思ヒテ、物ノ具ヌギ、上帶ヲ以テ逆茂木ノ根ヲ岩ノ立アガリタリケルニ纏ヒ著テ、向タル方へハイケル程ニ、可ㇾ然事ニヤ、渡瀨ヨリシモ、人モナキ所ニハヒアガリタリ。腰ヨリ上ハアガリテ後、底ニテ絶入ヌ。程へテ後、生アガリタリ。京方ノ者共、見付タリケレ共、死人流寄タリト思ヒテ目モ不ㇾ懸。其後、緣者尋來リテ助ケル。後ニ水練ヲ入テ、河底ナル鎧ヲ取タリケリ。

 武田小五郎、軈テ打入テ渡ケリ。伴フ輩ハタレタレゾ。兄ノ惡三郎・弟ノ六郎・同七郎、武藤五郎・新五郎、内藤七・黑河内次郎・岩崎五郎、以上九人、是等ヲ始トシテ百騎ニ足ヌ勢ニテゾ渡シケル。京勢ハナシケル矢、雨ノ足ノ如ナレバ、或ハ馬ヲ射サセ、或ハ物具ノスキヲ射サセテ河へ入。是ヲモ不ㇾ顧、乘越々々渡シケル。武田五郎、軈テ續ヒテ河端ニ打望テ、「小五郎、能コソ見ユレ。日來ノ言ニテ能ク振舞へ。敵ニ後ロヲ見セテ此方へ歸ラバ、人手ニ掛マジキゾ。只渡セ。其ニテ死ネ」トゾ下知シケル。小五郎、元來、敵ニ目ヲ懸テ思切タリケル上、父ガ目ノ前ニテ角下知シケレバ、面モ不ㇾ振戰ケル。小笠原次郎、被出拔ケルゾト思ニ、安カラズ思テ、打立テゾ渡シケル。

 京方、各河端ニ歩向テ散々ニ戰ケレ共、東山道ノ大勢如雲霞打人々々渡シケレバ、力不ㇾ及引退テ、上ノ段へ打上ル。

 

「承久記」の方がエピソードが仔細で臨場感に富み、遙かによく書かれている。

●「切付」は「きつつけ(きっつけ)」と読み、鎧ではなく、馬の下鞍(したぐら)の内で肌付(はだつけ)の上に重ねる馬具の名称。馬の背や両脇を保護するもの。]

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 苗蝦

【外】

苗蝦 漳州府志曰海物異名記謂之醬蝦細如針

芒海濱人醢以爲醬淡紅色今按ニ一寸許アル小ヱ

ヒナリ此マヽニテ大ニナラス備前筑後ナトノ泥海ニ多シ

海邊ノ潮入溝河ニアリ小毒アリ味ヨケレトモ性不好

ナシモノトシ又ホシテ遠方ニヲクル痔ト便血瘡疥ヲ發ス

此病アル人不可食

〇やぶちゃんの書き下し文

【外】

苗蝦(あみ) 「漳州府志」に曰く、『「海物異名記」は、「之を醬蝦〔しやうか〕と謂ふ。細なること、針芒〔しんばう〕のごとし。海濱の人、醢〔ししびしほ〕にして以つて醬と爲す。淡紅色。」と。』と。今、按ずるに一寸許りある小ゑびなり。此のまゝにて大きにならず。備前・筑後などの泥海に多し。海邊の潮の入る溝河〔こうが〕にあり。小毒あり。味、よけれども、性、好まれず。なしものとし、又、ほして遠方にをくる。痔と便血・瘡疥を發す此の病ひある人、食ふべからず。

[やぶちゃん注:現在、狭義には軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目アミ目 Mysida に属する小型甲殻類の総称であるが、ここで貝原が示すのは、それに含めて、《本当のエビ類の小型種》」であるところのアキアミ(ホンエビ上目十脚(エビ)目根鰓(クルマエビ)亜目サクラエビ上科サクラエビ科アキアミ Acetes japonicas)であるとか、オキアミ(ホンエビ上目オキアミ目オキアミ科 Euphausiidae 及びソコオキアミ科 Bentheuphausiidae に属するオキアミ類)をも含んだ謂いである。前者の狭義のアミ類は、形状は見た目全く狭義のエビ類(真軟甲亜綱ホンエビ上目 Eucarida)にしか見えないが、分類学上は「アミ」は「エビ」ではないので注意されたい(私の教師時代の印象ではこの誤解は広く蔓延しているように感じる)。ウィキの「アミ」によれば、『エビ類と異なり、胸肢の先ははさみ状にならない。背甲は胸部前体を覆うが、背側との癒合は第三胸節までである。雌は腹部に育房を持つ。また、アミ目では』(この狭義の「アミ」に含まれる中層遊泳性で二百メートル以深の深い海に棲息するロフォガスター目 Lophogastrida は除く)、『尾肢内肢に一対の「平衡胞」と呼ばれる球状の器官を持つことで、他のグループと容易に識別できる』とある。ここにも『利用上、アキアミのような小型のエビ類やオキアミと区別されない場合がある』と明記されてある。一応、真正のアミ類について、同ウィキによって記載しておくと、体長は最小種で二ミリメートル程、最大種であるロフォガスター目オオベニアミ Gnathophausia ingens では三十五センチメートルを超えるがこれは例外で、一般には五~三〇ミリメートル前後の小型種が殆どで本文でも記載に積極性が認められないように、漁獲対象としては一般的ではない。本邦の江戸期から現在までのアミ漁は真正の「アミ」に属するアミ目アミ科イサザアミNeomysis intermedia(本種は汽水域というよりさらに塩分濃度の低い環境に適応した種の一つである)を対象とした霞ヶ浦のイサザアミ漁が知られており、ほかにも現在、本文の「筑後」とも地理的に一致する有明海、また、厚岸湖などでも漁獲されているとある。なお、他に私の電子テクストである寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海糠魚 あみ あめじやこ」も参照されたい。また、同巻では多くの箇所にアミ類と思しいものがエビ類と混載されてある。関心のある向きは同ページ内検索でそれこそ「アミ」をかけられたい。

「漳州府志」前項「蝦蛄」注参照。

「海物異名記」書名であることは分かったが、詳細不詳。識者のご教授を乞う。ところが、これを調べるうちに当の「海物異名記」のより正確と思われる記載を発見した(こちらの龔鵬程ブログ記載

   《引用開始》

塗苗 《海物異名記》:“謂之醬蝦,如針芒,海濱人鹹以為醬,不及南通州,出長樂港尾者佳,梅花所者不中食。”

   《引用終了》

後半部分は産地の良し悪し、最後は中毒しない旬を言っているか。

「針芒」針の先端。

「醢〔ししびしほ〕」塩辛。

「醬」所謂、魚醤(ぎょしょう・うおびしお)・塩魚汁(しょっつる)のことである。

「一寸」三・〇三センチメートル。

「性、好まれず」これはあまりに小さいために食用雑魚としても商品化出来ず、生では足が速くて嫌われたということか。

「なしもの」「鱁鮧」と書き、音で「チクイ」、訓じて「なしもの」。塩辛・魚醬(うおびしお)のこと。

「瘡疥」疥瘡で「はたけがさ」、所謂、皮膚病の「はたけ」であろう。主に小児の顔に硬貨大の円形の白い粉を噴いたような発疹が複数個所発する皮膚の炎症性角化症の一つ顔面単純性粃糠疹(ひこうしん)。ウィルス感染原因が疑われているが感染力はない。寧ろ、これを一種のアレルギー反応と見るならば、既にしてこの注意書きは知らずに激しい甲殻類アレルギーによる合併症の様態を示しているのだとも読めるような気もしてくるではないか。]

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 二 原始動物の接合(4) ツリガネムシ及びマラリア原虫の接合 /二 原始動物の接合~了

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[「つりがね蟲」の普通の一疋]

[止まつて待つ大きな一疋の處へ群體から離れて水中を游ぎ來つた小さな一疋が、將に接合せんとする狀] 

「ざうり蟲」でも夜光蟲でも、接合する二疋の蟲は外見上全く同樣で少しも區別がないが、原始動物の中には接合する二疋の形に明な相違の見えるものがある。池や沼の水草に澤山に附著して居る「つりがね蟲」はその一例であるが、この蟲は夜光蟲や「ざうり蟲」が遊離して居るのとは違ひ、長い柄を以て固著して居るから、恰も根の生えた植物の如くで、勝手にどこへでも動いて行くことは出來ぬ。始は一疋の蟲も分裂によつて段々殖えるが、皆同じ處に留まり、柄を以て互に繫がつて居るから、終には樹の枝のやうな形の群體を造るに至る。通常水草などに著いて居るのはかやうな姿のものである。所がこの蟲もときどき接合する必要があるが、それには系統の異なつた二疋の蟲が出遇はねばならず、そのためには必ず運動を要する。二疋ともに動くか、または一疋だけが動くか、いづれにしても全く動かずに居ては二疋が相接觸する機會はない。さて實際には「つりがね蟲」は如何にして接合するかといふに、その頃になると、分裂生殖よつて二種類の個體が出來、一種は身體が大きくて内に滋養分の顆粒を含み、群體の枝から離れずに居るが、他の一種は體が小さく有力な纖毛を具へ、自分の群體から離れて水中へ游ぎ出し、他の群體に達してそこに相手を求める。そして接合するときには小さい方の蟲は大きな方の體内に潜り込み、これと融合して全く一個の細胞となつてしまふ。かくの如く、「つりがね蟲」では接合する二疋の蟲が形も擧動も明に違ふが、その相違は高等動物の生殖細胞なる卵と精蟲との相違と全く同性質のもの故、大きな方を雌と名づけ小さな方を雄と名づけても決して無理ではなからう。接合を目的として二疋の虫が互に相慕ひ相求めることは、原始動物に普通に見る所であるが、この二疋の間に雌雄の相違の明に現れる場合は、「つりがね虫」の外にもなほ澤山ある。人間の血液内に寄生してマラリヤ病を起す微細な原始動物なども、普通には分裂によつて蕃殖する。患者が隔日に発熱するのは、この虫の分裂生殖が毎回四十八時間を要するからである。しかし蚊が患者の血液を吸ふと、病原蟲は蚊の體内で漸々変形し、大小二種の蟲が出來て互に接合するが、その形狀の相違は「つりがね蟲」などに於けるよりも遙に著しく、雌の方は球形で誰が見ても卵細胞と思はれ、雄の方は小さな頭から細長い尾が生えて、普通の精蟲と少しも違はぬ。

 

Mararasetugou
[(右)マラリヤ病原蟲が人の赤血球に寄生してゐる所]

[(左)同蟲の雄と雌との接合する所] 

[やぶちゃん注:「つりがね蟲」クロムアルベオラータ Chromalveolata 界アルベオラータ Alveolata 亜界繊毛虫門貧膜口綱周毛亜綱ツリガネムシ目ツリガネムシ科ツリガネムシ Vorticella nebulifera を代表種とするが、広義にはこの種が属するツリガネムシ科或いはツリガネムシ目に属する生物全体を示す。参照したウィキの「ツリガネムシ」によれば、『淡水に生息する単細胞生物で』、『主として用水路や水田、池など、止水に生息し、水中の水草や枯れ枝などに多数が群れをなして固着している。体は円錐形で、底面に当たる位置の周囲には繊毛列があり、これにより水流を作り、その端にある細胞口へ微粒子などを流しこんで摂取する。円錐の頂点に当たる部分からは長い柄が伸びて、基質上に固着する。何か刺激を受けると、細胞の繊毛部分は袋の口を縛るような形で縮み、同時に長い柄は螺旋状に収縮する。収縮は瞬間的に起こり、そっとしておけばゆっくりと体を延ばす』。『近縁の種には枝分かれした柄に多数の細胞体が付いて、群体を作るものや、ミジンコの体に固着するものなど、様々なものがある』とある。ハリガネムシの生態及び分裂動画は「NHK for School」の ツリガネムシ 不思議な水中生活が非常によい。このツリガネムシの卵子と精子に見紛う二体の異形という特異な接合様態は、ゾウリムシなどの接合が同形接合(isogamous conjugation)と呼ばれるのに対し、まさに異形接合(anisogamous conjugation)と呼ばれている。

「マラリヤ病を起す微細な原始動物」アルベオラータ Alveolata 亜界アピコンプレクサ Apicomplexa 門胞子虫綱コクシジウム目マラリア原虫 Plasmodium spp.。熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫感染症で高熱や頭痛・吐き気などの症状を呈し、悪性の場合は脳マラリアによる意識障害や腎不全などを起こして死亡するマラリア(麻剌利亜。「悪い空気」という意味の古いイタリア語:mal aria”を語源とするらしい。ドイツ語:Malaria・英語:malaria)の病原体。本邦に於いて平清盛の死因として知られる「瘧(おこり)」とは、概ねこのマラリアを指していると考えてよい。以下、参照したウィキマラリアより引用する。『ハマダラカ(Anopheles spp.)によって媒介され』、近年、『微細構造および分子系統解析からアルベオラータ』に分類されるようになったが、ここには既に本文にも登場してきた渦鞭毛藻類が含まれており、『近年マラリア原虫からも葉緑体の痕跡が発見された。そのため、その全てが寄生生物であるアピコンプレクサ類も祖先は渦鞭毛藻類と同じ光合成生物であったと考えられている。ヒトの病原体となるものはながらく熱帯熱マラリア原虫(P. falciparum)、三日熱マラリア原虫(P. vivax)、四日熱マラリア原虫(P. malariae)、卵形マラリア原虫(P. ovale)の4種類であったが、近年サルマラリア原虫(P. knowlesi)が5種目として大きな注目を集めている。サルマラリアは顕微鏡検査では P. vivaxと区別が難しいため従来ほとんど報告例はなかったが、近年の検査技術の発達によりPCR』(ポリメラーゼ連鎖反応(polymerase chain reaction)。DNAを増幅させる検査法)『で確実な判断ができるようになったため、多数症例が報告されるようになった。マレーシア サラワク州では今日のマラリア症例の70%がサルマラリアによるものであることも報告されている』。『タイでも報告例がでて』おり、『熱帯熱マラリア原虫によるマラリアは症状が重いことで知られるが、サルマラリアは24時間以下の周期で急激に原虫が増加し、他のマラリアとことなりほぼすべての赤血球に侵入するため症状は重篤になることが多く』、『これらの発見から当該地域でのマラリアコントロールは新たな手法による対応を迫られている』。『マラリア原虫は脊椎動物で無性生殖を、昆虫で有性生殖を行う。したがって、ヒトは終宿主ではなく中間宿主である。ハマダラカで有性生殖を行なって増殖した原虫は、スポロゾイト(胞子が殻の中で分裂して外に出たもの)として唾液腺に集まる性質を持つ。このため、この蚊に吸血される際に蚊の唾液と一緒に大量の原虫が体内に送り込まれることになる。血液中に入ると45分程度で肝細胞に取り付く。肝細胞中で1-3週間かけて成熟増殖し、分裂小体(メロゾイト)が数千個になった段階で肝細胞を破壊し赤血球に侵入する。赤血球内で8-32個に分裂すると赤血球を破壊して血液中に出る。分裂小体は新たな赤血球に侵入しこのサイクルを繰り返す』。『マラリアを発症すると、40度近くの激しい高熱に襲われるが、比較的短時間で熱は下がる。しかし、三日熱マラリアの場合48時間おきに、四日熱マラリアの場合72時間おきに、繰り返し激しい高熱に襲われることになる(これが三日熱、四日熱と呼ばれる所以である)。卵形マラリアは三日熱マラリアとほぼ同じで50時間おきに発熱する。熱帯熱マラリアの場合には周期性は薄い』。『熱帯熱マラリア以外で見られる周期性は原虫が赤血球内で発育する時間が関係しており、たとえば三日熱マラリアでは48時間ごとに原虫が血中に出るときに赤血球を破壊するため、それと同時に発熱が起こる。熱帯熱マラリアに周期性がないのは赤血球内での発育の同調性が良くないためである』。『いずれの場合も、一旦熱が下がることから油断しやすいが、すぐに治療を始めないとどんどん重篤な状態に陥ってしまう。一般的には、3度目の高熱を発症した時には大変危険な状態にあるといわれている』。『放置した場合、熱帯熱マラリア以外は慢性化する。慢性化すると発熱の間隔が延び、血中の原虫は減少する』。『三日熱マラリアと卵形マラリアは一部の原虫が肝細胞内で休眠型となり、長期間潜伏する事がある。この原虫は何らかの原因で分裂を再開し、再発の原因となる。四日熱マラリア原虫の成熟体は、血液中に数か月~数年間潜伏し発症させることがある』。『マラリア原虫へのワクチンはないが、抗マラリア剤はいくつかある。マラリアの治療薬としてはキニーネが知られている。他にはクロロキン、メフロキン、ファンシダール、プリマキン等がある。いずれも強い副作用が現れることがあり注意が必要。クロロキンは他の薬剤よりは副作用が少ないため、予防薬や治療の際最初に試す薬として使われることが多いが、クロロキンに耐性を示す原虫も存在する。通常は熱帯熱マラリア以外ではクロロキンとプリマキンを投与し、熱帯熱マラリアでは感染したと思われる地域での耐性マラリア多寡に基づいて治療を決定する。近年では、漢方薬を由来としたチンハオス系薬剤(アルテミシニン)が副作用、薬剤耐性が少ないとされ、マラリア治療の第一選択薬として広く使用されるようになった。これによりこれまで制圧が困難であった地域でも大きな成果をあげている一方、アジア、アフリカの一部ではすでに薬剤耐性が報告されるようになってきた。2010年以後、アルテミシニンはグローバルファンドの援助によって東南アジアのマラリア治療薬としてインドネシアの国境付近のような僻地であっても処方されるようになってきている』。『近年は殺虫剤に耐性を持つハマダラカや、薬剤に耐性のあるマラリア原虫が現れていることが問題になっている。また地球温暖化による亜熱帯域の拡大とともにマラリアの分布域が広がることも指摘されている。流行地で生まれ育ち、度々マラリアに罹患し免疫を獲得したヒトでは、発熱などの症状がほとんど診られないこともあるが、免疫が無ければ発症する』とある。……長々と引用したのには私の個人的な理由がある。友人マラリアっていからである。海外に行く機会の多い、そして近年ハマダラカの生息が東京で確認されている昨今、マラリアは決して対岸の火事ではないことを心に刻んでおく必要があるからである。] 

 以上述べた如き單細胞生物では、いづれも種族を永く繼續させるためには、ときどき系統を異にする蟲が二匹づつ接合して體質を相混ずることが必要であるが、二疋の蟲が出遇ふには運動をせねばならず、接合後速に分裂するには豫め滋養分を貯へて置かねばならぬ。しかるに、活潑に游ぐには成るべく身輕なことが便利であり、滋養分を貯へれば身體が重くなつて運動が妨げられる。それ故この二つの必要條件は、相接合すべき二疋で一方づつ分膽し、長い年月の間に各々それに適するやうに身體が變化したるものと推察せられるが、かく想像すると全く實際に見る所と一致する。即ち一方は體が次第に小さくなり、運動の裝置のみが發達して活發な雄となり、一方は滋養分を溜めて體が段段大きくなり、終に重い動かぬ雌となつたと考へねばならぬ。

耳嚢 巻之八 古人は遊惰の人ながら其氣性ある事

 古人は遊惰の人ながら其氣性ある事

 

 寶曆明和の頃まで、河東節(かとうぶし)の名人と世に口ずさみし原富五郎、後(のち)武太夫と云(いひ)しは、御家人にて專ら三味線の妙手故、貴賤の差別なく渠(かれ)が其音曲を聞(きか)ん事を望(のぞみ)し。尤(もつとも)壯年より遊人(あそびにん)にてありしが、短き大小をさすは彼(かの)者より初(はじま)りしとや。其子細は諸侯抔へ招かれぬる時、刀劍を禁ずるゆゑ、いかにも短きを帶し、門前にて取之(これをとり)て三味線箱の内へ入れしとや。人其事を尋(たづね)しに、我等遊惰(いうだ)のものにて、我(わが)行跡(ぎやうせき)あざける者あらん、されど心に武士を忘れざれば、いづ方にてもちいさき兩刀ははなさず、今の若輩者刀は宿におき往來を一本にてあるき、甚敷(はなはだしき)は無腰(むこし)なるも有(あり)と嘲りしとや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。音曲技芸譚。

・「寶曆明和」西暦一七五一年から一七七二年。

・「河東節」代表的な江戸浄瑠璃、古曲の一つ。現在、国の重要無形文化財。江戸半太夫(半太夫節の創始者)の門下である江戸太夫河東(天和四・貞享元(一六八四)年~享保一〇(一七二五)年)が、享保二(一七一七)年に十寸見河東(ますみかとう)と名乗って創始した。初期には半太夫節に式部節などを加味した語り口を持味にし、庶民からひろく支持された浄瑠璃であったが、後には豊後節や常磐津節によって人気を奪われ、このため豊後節禁止を幕府に働きかけるなどの策を弄したことでも知られる。江戸中期以降は人気、歌舞伎の伴奏音楽の地位をともに奪われ、主にお座敷での素浄瑠璃として富裕層に愛好された。特に吉原との関係が深く、二代目(?~享保一九(一七三四)年)、三代目(?~延享二(一七四五)年)の河東は吉原に暮らし、初代・二代・三代の蘭洲は妓楼の主であったといわれる。三味線は細棹を用い、語り口は豪気でさっぱりしていて「いなせ」である。後に山田流箏曲に影響を与えた(以上は主にウィキの「河東節」に拠った)。

・「原富五郎」底本の鈴木氏注には、『三村翁注「原武太夫、初名富次郎とあり、御先手与力の隠居。牛込清水町住、寛政四年二月二十二日九十五にて歿す、牛込感通寺に葬る』とあり、岩波版長谷川氏注には、『三味線の名手、随筆・狂歌の作がある。安永五年(一七七六)没、八十歳とも寛政四年(一七九二)没、九十六歳ともいう』とある。京扇子の店「京扇堂」公式サイト内の「せんすの話」の荘司賢太郎氏の執筆になる芳澤あやめには『元禄十年(1697)生まれで九十六才まで長生きした。寛政四年(1792)没。寛延二年(1749)生まれの蜀山人は十六、七の頃、和歌の師の内山椿山の所で武太夫と出会っている。(『一話一言』巻三十八)』とある。この引用元の荘司氏の記事には驚異的に詳細を極めた歌舞伎と河東節の歴史が語られてある。お好きな向きには必見である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 古人は遊惰(ゆうだ)の者にえもその気性に気骨ある事

 

 宝暦明和の頃まで、河東節(かとうぶし)の名人として、広く世に知られ称された原富五郎なる者、後(のち)に武太夫と名乗ったは、もともとは御家人にて、專ら、三味線の妙手で御座った。貴賤の差別なく、かの者の弾き唄(うと)う音曲(おんぎょく)を聴かんものと、世人はこぞって望んだもので御座った。

 尤も、御家人とは申せ、その頃には所謂、遊び人という体(てい)で御座ったれど、一部の三味線弾きの内にて刀の短かき大小を差す者の今あるは、かの者より始まるとか申す。

 その子細は、諸侯などが方へ招かれた際、刀剣の持ち込みをば、これ、禁ずるがゆえ、如何にも短かき刀を佩き、かの諸侯が門前にてこれを外して、三味線箱の内へと入れ、おもむろに屋敷内へと入ったものの由。

 さる人、その仕儀につき、かの者に直接訊ねたところ、

「……我ら遊惰の者にて、我が行跡(ぎょうせき)を嘲けんとする者も御座るようなれど……心には常に武士たるを忘れずに御座ればこそ、何方(いづかた)へ参らんも、小さき両刀は、これ、放さざるを心掛けて御座る。……今の武士のうち……特に若輩者の中には、太刀を屋敷に置いたまま、往来を一本差しにて歩き、はなはだしきは、無腰(むこし)で平然と闊歩致す輩(やから)も……いやこれ、御座いますのう。……」

と、嘲りを含んで語ったとか申す。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 牛招島

    ●牛招島

海面に二個の小島あり。牛招島(うしまねきじま)と呼ぶ、往昔朱雀院の御宇、神の嶽山王權現の宮司、潮(うしほ)を汲みけるに、海中より美麗の童子、水牛に乘りてあらはれ、手を擧げて宮司を招き、近づけて一卷の絹を與へ、忽然水中に入れりと。

[やぶちゃん注:ネット上での記載は少ないが、「zusitto掲示板」の「久左衞門@西小路」氏の二〇〇七年六月二日の投稿「RE:Umidasuについて考えてケロ♪」に、現在の逗子市桜山九丁目にある浄水場の鐙摺側の角にある小島(岩礁)とあり、『伝説では、承平年間に神武寺山王権現の宮司が御神前に供える潮汲みのため、この島近くの浜辺に出たところ、海中から水牛に乗った美しい童子が現れ、宮司を手招きした。宮司が近付くと童子は一巻の巻物を手渡して、そのまま海中に隠れてしまった。その巻物には「大威徳明王」の尊像が描かれており、天下泰平の祈願が籠められたものとされる』。『現在、神武寺が所有し県指定重要文化財に指定されている「絹本着色大威徳明王図」が、其れであるとされる』という目から鱗の記事があった。写真も同じ掲示板の(上記記事も併催されてある)で同氏の撮影になる明瞭なものを見られる。

「朱雀院の御宇」延長八(九三〇)年~天慶九(九四六)年。

「神の嶽山王權現」先の引用から、当時、神武寺に付属した現在の山王神社であることが分かる。この神社以下に見るように分かりにくい場所にあるようであるが、PDFファイルの古代遺跡研究家泰山氏の「泰山の古代遺跡探訪記 神奈川の古代遺跡探訪記001 神武寺・鷹取山探訪記その2 神武寺境内は女人禁制地だった!」に詳しい地図と山王神社の画像が載る。サイト「逗子・葉山旅行 クチコミガイド」のドクターキムル氏の「神武寺(神奈川県逗子市)」にこの山王神社を探索する(結局行き当たられなかったのであるが)記が載るが、何よりこの冒頭の裏参道で出逢った人との不思議な出来事は頗るミステリアスで興味がそそられる。必読!]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 5 歯医者のイタい看板

 私はすでに、英語で書いた、奇妙な看板について語った。それ等の多くは微笑を催させ、私が今迄に見た少数のものの中で、正確なのは殆ど皆無である。また日本人は看板に、実に莫迦げた絵をかく。ある歯医者の看板は、歯医者が患者の歯を抜く所を示していたが、患者のパクンとあけた口と、歯医者の断断乎たる顔とは、この上もなく怪奇に描かれてあった。

[やぶちゃん注:この歯医者の看板――見たイッツ!

「私はすでに、英語で書いた、奇妙な看板について語った」日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 10 帝都東京――看板あれこれを参照。]

萩原朔太郎 餘生

       餘生

 

 餘生とは? 自分の過去の仕事に關して、註釋を書くための生涯を言ふ。――如何にまた、餘生でさへも仕事を持つてゐる!

 

[やぶちゃん注:『四季』第二号・昭和九(一九三四)年十二月号に他六篇のアフォリズムとともに掲載されたもので、後に「絶望への逃走」(昭和一二年第一書房刊)に所収された。]

中島敦 南洋日記 注

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四一)年十二月十五日から十八日までの四日分の日記がない。次の十九日の冒頭に『二日來の喘息、愈々面白からず』とあるから、十五日の夜に激しい喘息発作が起こって、それが日記も記せぬほどに(仕事を休んで安静にしたために記載事項がなかったのかも知れない)持続したのかも知れない。同十五日附(十五日の昼に郵便局で認めて投函したもの)の父中島田人宛葉書が残るので以下に示す(旧全集「書簡Ⅰ」番号一五二)。
   *
〇十二月十五日附(消印パラオ郵便局一六・一二・一五 世田谷一七・一・二四 南洋パラオ島コロール町南洋庁地方課 東京市世田谷区世田谷一丁目一二四 中島田人宛。葉書。航空便)
 無事パラオに歸任致しました 當地は極めて落ちついてをりますから、御安心下さい これから役所の外の仕事がいそがしくなります、こちらは今、大變な暑さです、
 郵便局でとりいそぎ
   *
これは恐らく、前掲の前日附たか宛書簡に記された『さて、明日(十五日)、又、三百圓送るつもり。これは、お前への年末(ねんまつ)のボーナス』の郵便為替を送った際に認めたものと思われる。開戦直後の父の心配を慮っての一筆である。]

杉田久女句集 39 夏祭髮を洗つて待ちにけり

夏祭髮を洗つて待ちにけり

杉田久女句集 38 夕涼み、遊び女の舟

玄海に連なる漁火や窓涼み

 

夕凪や釣舟去れば涼み舟

 

遊女らの涼める前を通りけり

 

遊船のさんざめきつゝすれ違ひ

 

灯せる遊船遠く現はれし

杉田久女句集 37 打ち水

打水に木蔭湿れる茶店かな

 

水打つて石涼しさや瓜をもむ

杉田久女句集 36 緣側に夏座布團をすゝめけり

緣側に夏座布團をすゝめけり

杉田久女句集 35 蚊帳の中の久女

蚊帳の中より朝の指圖や旅疲れ

 

蒼海の落日とゞく蚊帳かな

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年 壁炉を焚く

 壁炉を焚く

 

壁炉(へきろ)もえ主(しゆ)のなき椅子の炉にむかひ

 

吾子とゐて父なきまどゐ壁炉もえ

 

壁炉照り吾子亡き父の椅子いゐる

 

吾子いねてより海鳴るを炉にきけり

 

夜の濤は地に轟けり壁炉もゆ

 

われのみの夜ぞ更けまさり炉火をつぐ

 

壁炉もえ白き寢臺(ベツド)に人を見ず

[やぶちゃん注:カタカナのルビの拗音表記の問題については、先行する句で「フレップ」を「フレツプ」と表記していることに鑑み、しばらく拗音化しないこととする。]
 

惜しみなく炉火焚かれたり雪降り來る

 

あさの炉がもえたり旅裝黑くゐる

 

[やぶちゃん注:これは夫亡き後の昭和一二(一九三七)年の暮れ、避寒した櫓山荘での吟と思われる。当時、彼らの四子はそれぞれ以下の年齢(満)であった。長女敦子十八、次女国子十六、三女啓子十四、四女美代子十三。]

萩原朔太郎 短歌 五首 明治四四(一九〇三)年四月

薄暗き酒場の隅に在るひとが我に教へし道ならぬ道

 

砂山の枯草の上を我が行けば蟲力なく足下に飛ぶ

 

悲しみて二月の海に來て見れば浪うち際を犬の歩ける

 

かのベンチ海を見て居りかのベンチ日毎悲しき人待ちて居り

 

縁端に疲れし顏の煙草吸ふ教師の家の庭のこすもす

 

[やぶちゃん注:『スバル』第三年第四号(明治四四(一九〇三)年四月発行)の「歌」欄その四」に「萩原咲二」名義で掲載された。朔太郎満二十四歳。当時の朔太郎は前年の初夏に岡山の六高を退学後、実家と東京を行き来して放浪、二月には比留間賢八の「マンドリン好楽会」に入門するなどしていた彷徨期であった。二首目の海は大磯海岸と考えてよい。底本筑摩版全集の年譜(伊藤信吉・佐藤房儀編)の明治四四年の二月項に、『同月8日 何となく東京を逃げだしたい氣持に驅られ、新橋ステーションから汽車に乘り大磯に行き、海を見る』とある。]

萩原朔太郎 短歌 五首 明治四四(一九〇三)年四月

薄暗き酒場の隅に在るひとが我に教へし道ならぬ道

 

砂山の枯草の上を我が行けば蟲力なく足下に飛ぶ

 

悲しみて二月の海に來て見れば浪うち際を犬の歩ける

 

かのベンチ海を見て居りかのベンチ日毎悲しき人待ちて居り

 

縁端に疲れし顏の煙草吸ふ教師の家の庭のこすもす

 

[やぶちゃん注:『スバル』第三年第四号(明治四四(一九〇三)年四月発行)の「歌」欄その四」に「萩原咲二」名義で掲載された。朔太郎満二十四歳。当時の朔太郎は前年の初夏に岡山の六高を退学後、実家と東京を行き来して放浪、二月には比留間賢八の「マンドリン好楽会」に入門するなどしていた彷徨期であった。二首目の海は大磯海岸と考えてよい。底本筑摩版全集の年譜(伊藤信吉・佐藤房儀編)の明治四四年の二月項に、『同月8日 何となく東京を逃げだしたい氣持に驅られ、新橋ステーションから汽車に乘り大磯に行き、海を見る』とある。]

夜の薔薇(そうび)   八木重吉

ああ

はるか

よるの

薔薇

 

[やぶちゃん注:「薔薇(そうび)」のルビはママ(正しくは「さうび」)。]

鬼城句集 冬之部 水鳥

水鳥    水鳥の胸突く浪の白さかな

      水鳥に吼立つ舟の小犬かな

2014/01/28

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 蝦蛄

【外】

蝦蛄 漳州府志曰狀如蜈蚣而大尾如僧帽開元

遺事及草木子ニモ亦載之〇其形ヱヒニ似タリ海邊

斥地ニアリ蝦ノ如ク腹ニ足多シ手ナシ足モ殻モ色モ

味モ皆ヱヒノコトシ只首異リ煮レハ色紅シ食フヘシ其

色石南花ニ似タリ故ニシヤクナゲトモ云

 

〇やぶちゃんの書き下し文

【外】

蝦蛄(しやこ) 「漳州〔しようしふ〕府志」に曰く、『狀、蜈蚣〔むかで〕のごとくして大なり。尾は僧帽のごとし。』と。「開元遺事」及び「草木子(さうぼくし)」にも亦た、之を載す。其の形、ゑびに似たり。海邊の斥地(せき〔ち〕)にあり。蝦のごとく腹に足多し。手なし。足も殻も色も味も皆、ゑびのごとし。只だ、首、異なり。煮れば色、紅〔あか〕し。食ふべし。其の色、石南花(しやく〔なげ〕)に似たり、故にしやくなげとも云ふ。

[やぶちゃん注:甲殻亜門軟甲綱トゲエビ亜綱口脚目シャコ上科シャコ科シャコ Oratosquilla oratoria については、他に私の電子テクストである寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鰕姑 しやこ しやくなげ」も参照されたい。特にここでは学名についてそこで記した私の愚昧なる記載を以下にほぼ転載する。――江戸期には「シャクナギ」とか「シャクナゲ」と呼称されていた。これはここに書かれたようにシャコを茹でた際、紫褐色に変わって、それが「石楠花」(後注参照)、シャクナゲの花の色に似ていたところから付けられ、それが短縮されてシャコと呼ばれるようになったとされる。

(ここでやぶちゃん、ギャル風の装束で、何故か「羅和辞典」を持って登場。)

――それよか~! この学名、面白くない~? Oratosquilla oratoria の属名と種小名のぉ、“Orato”と“oratoria”って、これ、「オラトリオ」じゃ~ん?! “squilla”つーのはさ、“scilla”と同じでぇ、「葱」とか「蟹」の意味なわけ~! エビ・カニって言うぐらいなんだからさぁ、気にしない~! ラテン語で“oratio”ってえのはさぁ、「雄弁」とか「祈禱」、“oratorie”なら「演説風に」とか「雄弁に」だし~、“oratorium”ってなるとぉ、「祈禱室」「礼拝堂」なの! シャコが盛んに忙しそうに鉗脚やら歩脚を動かす動作から雄弁な「演説」? ノンノン! 頻りに礼を繰り返すみたいだから「祈禱」「礼拝」とかイメージしたのカモ~! わけわかんないなんとかつー中国の本にも「僧帽」(いやん、これマジ、良安ちゃんの絵、中国の歴史物の映画に出てくる、あのお坊さんの変テコな帽子に、クリソツ!〔今のやぶちゃん注:リンク先の絵をご覧あれ。〕)とかになぞらえてるし~! あとさ~あ、“oratus”っーのは、「乞い願うこと」って書いてあるわけ! これって、さあ、やっぱ、シャコちゃんがさあ、あのお辞儀するみたいな動きすんの、言ってんのかもよ~?! チョー面白いじゃ~ん!(退場。以下ずっと普通のやぶちゃん。)

我乍ら、面白いことを言っていると今、思う。

「漳州府志」清乾隆帝のに成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌。

「蜈蚣」は節足動物門大顎亜門ムカデ(唇脚)綱 Chilopoda のムカデ類を指す。

「開元遺事」正しくは「開元天宝遺事」で、五代の王仁裕の編。四巻。仁裕は初め蜀に仕えて翰林学士となったが、蜀の滅亡後は長く長安に住み、民間に伝わる唐の玄宗のときの遺事記を辿って記した。史実と云うよりは小説に近いもの(以上の書誌は以下のページより)。

「草木子」明の葉子奇の随筆。元の諸制度や元末明初の事件風聞、北宋期の儒者邵雍(しょうよう)の自然思想に基づく天文・地理・生物などに関する記録などを載せる。

「斥地]干潟。

「石南花」ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属無鱗片シャクナゲ亜属 Hymenanthes 及び無鱗片シャクナゲ節(ホンシャクナゲ Rhododendron japonoheptamerum Kitam. var. hondoense の仲間)に属する花卉。孰れも派手で大きな花を特徴とし、花の色は白或いは赤系統が多いが、シャコを茹でた色からすると、一般的には赤紫色か白のこのホンシャクナゲであろうか。]

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 二 原始動物の接合(3) 夜光虫の接合

Yakoutiyuusetugou
[「夜光蟲」の接合]

 

 海の表面に無數に浮んで夜間美しい光を放つ「夜光蟲」も單細胞生物であるが、これも常には分裂によつて蕃殖し、その間にときどき接合をする。夜光蟲の身體は恰も梨か林檎の如き球形で柄の根本に當る處に口があるが、二疋が接合する時にはこの部分を互に合せて身體を密接させ、始めは瓢簞の如き形となり、後には次第に融け合つて終には全く一個の球となつてしまふ。「ざうり蟲」では接合する二疋の蟲の身體は始終判然した境があり、たゞ一個處で一時癒著するだけに過ぎぬが、夜光蟲の方では、始め二疋の蟲が接合によつて全く一疋となり終り、同時にその核も相合して一個となる。そして接合の後には、この一疋となつた大きな蟲が續々分裂して蕃殖すること、恰も接合後の「ざうり蟲」などと同じである。

[やぶちゃん注:海産プランクトンである原生生物界渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ Noctiluca scintillans は動物分類学では古くは植物性鞭毛虫綱渦鞭毛虫目に分類し、最近では渦鞭毛虫門に配する。一般的な渦鞭毛藻とは異なり、葉緑体を持たず、専ら他の生物を捕食する従属栄養性生物である。昼間には赤潮として姿を見せ、赤潮の原因生物としては属名そのままの「ノクチルカ」と表記されることが多い。参照したウィキの「ヤコウチュウ」によれば、『海産で沿岸域に普通、代表的な赤潮形成種である。大発生時には海水を鉄錆色に変え、時にトマトジュースと形容されるほど濃く毒々しい赤茶色を呈する。春~夏の水温上昇期に大発生するが、海水中の栄養塩濃度との因果関係は小さく、ヤコウチュウの赤潮発生が即ち富栄養化を意味する訳ではない。比較的頻繁に見られるが、規模も小さく毒性もないため、被害はあまり問題にならないことが多い』。『ヤコウチュウは大型で軽く、海水面付近に多く分布する。そのため風の影響を受けやすく、湾や沿岸部に容易に吹き溜まる。この特徴が海水面の局所的な変色を促すと共に、夜間に見られる発光を強く美しいものにしている。発光は、細胞内に散在する脂質性の顆粒によるものであるが、なんらかの適応的意義が論じられたことはなく、単なる代謝産物とも言われる』。『原生生物としては非常に大きく、巨大な液胞(或いは水嚢; pusulen)で満たされた細胞は直径』1~2ミリメートルにまで達する。『外形はほぼ球形で、1ヶ所でくぼんだ部分がある。くぼんだ部分の近くには細胞質が集中していて、むしろそれ以外の丸い部分が細胞としては膨張した姿と見ていい。くぼんだ部分の細胞質からは、放射状に原形質の糸が伸び、網目状に周辺に広がるのが見える。くぼんだ部分からは1本の触手が伸びる。細胞内に共生藻として緑藻の仲間を保持している場合もあるが、緑藻の葉緑体は消滅しており、光合成産物の宿主への還流は無い。細胞は触手(tentacle)を備え、それを用いて他の原生生物や藻類を捕食する。触手とは別に、2本の鞭毛を持つが、目立たない』。『一般に渦鞭毛虫は体に縦と横の溝を持ち、縦溝には後方への鞭毛を、横溝にはそれに沿うように横鞭毛を這わせる』のが普通であるのに対し、『ヤコウチュウの場合、横溝は痕跡程度にまで退化し、横鞭毛もほぼ消失している。しかし、縦溝は触手のある中心部にあり、ここに鞭毛もちゃんと存在する。ただし、それ以外の細胞が大きく膨らんでいるため、これらの構造は目立たなくなってしまって』、『およそ渦鞭毛虫とは思えない姿』をしている。『特異な点としては、他の渦鞭毛藻と異なり、細胞核が渦鞭毛藻核ではない(間期に染色体が凝集しない)普通の真核であるとともに、通常の細胞は核相が2nである。複相の細胞が特徴的である一方、単相の細胞はごく一般的な渦鞭毛藻の形である』点である。『他の生物発光と同様、発光はルシフェリン-ルシフェラーゼ反応による。ヤコウチュウは物理的な刺激に応答して光る特徴があるため、波打ち際で特に明るく光る様子を見る事ができる。または、ヤコウチュウのいる水面に石を投げても発光を促すことが可能である』とある。ここで問題となる生活環については、『通常は二分裂による無性生殖を行う。有性生殖時には遊走細胞が放出されるが、これは一般的な渦鞭毛藻の形態をしており、核も渦鞭毛藻核である』とあって接合の記載はない。奈良教育大学の石田正樹教授の研究室公式サイトにある村万由子氏の夜光虫の培養法 Culture Method of Noctilukaの詳細なライフ・サイクルの解説を見ても、一九九三年の報告として成体と遊走子(説により遊走子と遊走子)の間での接合の記載はあるが、丘先生のいうような明らかな成体個体同士の接合に関する記載はどうも見当たらない。丘先生がここで「ときどき接合をする」と叙述する以上、それはおかしい。それともそもそもが丘先生が述べているのは、この現在、同型配偶子説と異型配偶子説の二つがあるところの、『遊走子形成から接合子形成に至る過程』によって『新たな成体』が生ずるという新知見(無論、丘先生の時代から見ての意である)のことを単純に成体同士の接合と言っているのかも知れない。専門の識者のご教授を乞うものである。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 養神亭

    ●養神亭

二階建宏壯の樓樹にして前に田越川あり、後は恰も海水浴場に當たれる灣口に望みて、碧波庭を洗ひ、風光絶美なるもの養神亭となす、鮮魚は食すべく海水浴すべし、養生旁々部屋を借切りにして、幾週日か止宿するものさへあり、避暑には實に屈竟の樓なるべし。

[やぶちゃん注:「逗子案内」に既注。タイアップ記事であるが江の島の恵比寿楼や岩本楼に比して分量が至って少ない(但し、他の項目解説の中での出現は多い)。広告料をケチったものか?]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 4 モース先生、水星の日面通過を観測する

 五月七日。大学の望遠鏡で、水星の太陽面通過を見た。支那の公使並に彼の同僚を含む、多数の人人がいた。太陽の円盤の上に、小さな黒い点を見ることは興味が深かったし、またこれを見ることによって、人はこの遊星が太陽の周囲を回転していることを、更に明瞭に会得することが出来た。

[やぶちゃん注:ウィキ地動説」によれば、『徳川吉宗の時代にキリスト教以外の漢訳洋書の輸入を許可したときに、通詞の本木良永が『和蘭地球図説』と『天地二球用法』の中で日本で最初にコペルニクスの地動説を紹介した。本木良永の弟子の志筑忠雄が『暦象新書』の中でケプラーの法則やニュートン力学を紹介した。画家の司馬江漢が『和蘭天説』で地動説などの西洋天文学を紹介し、『和蘭天球図』という星図を作った。医者の麻田剛立が』宝暦一三(一七六三)年に、『世界で初めてケプラーの楕円軌道の地動説を用いての日食の日時の予測をした。幕府は西洋天文学に基づいた暦法に改暦するように高橋至時や間重富らに命じ』、寛政九(一七九七)年には『月や太陽の運行に楕円軌道を採用した寛政暦を完成させた。渋川景佑らが、西洋天文学の成果を取り入れて、天保暦を完成させ』、天保一五年・弘化元(一八四四)年に『寛政暦から改暦され、明治時代に太陽暦が導入されるまで使われた』とあるから、日本人の支配階級の知識人には既に地動説は知れ受け入れられていた。但し、キリスト教のようなファンダメンタリズムの強い志向はなかったし、圧倒的多数の江戸時代の庶民はもっとプラグマティックで、それによって現実生活が実際に脅かされないという点に於いて、地動説にも天動説にも関心は持たなかったものと考えてよいと思われる。

「大学の望遠鏡」現在の国立天文台の前身である東京大学理学部星学科観象台はこの明治一一(一八七八)年に現在の東京都文京区本郷の現東京大学構内に発足してはいる。明治一六(一八八三)年の参謀本部地図を見ると、まさにモースの官舎真裏(北)直近に「觀象臺」を見出せるが、ここでモースは「大学の望遠鏡」とのみ表現しており、また後に「私の家の後に、天文観測所が建てられつつある」と出るので、これはどうもここではない。

「水星の太陽面通過」水星が地球と太陽のちょうど間に入る天文現象である水星の日面(にちめん)通過。ウィキ太陽通過」によれば、『水星は太陽を横切っていく小さな黒い円盤のように見える。水星は太陽の東から太陽に近づき、太陽面を東から西へ横切っていく。日面通過の際の水星の見かけの大きさは太陽の1/150以下と小さく、太陽黒点と区別が付けにくいこともある。しかし、黒点が不規則な形なのに対し水星は完全な円でさらに黒点より暗く見えるので区別できる』とあり、『太陽面は極めて明るいため、肉眼で直接見ることは危険である。双眼鏡や望遠鏡で見ることはさらに危険で視力に恒久的な障害が残り、失明する可能性もある。水星の日面通過を観測するには望遠鏡を用いて太陽の像を投影版に投影したり、望遠鏡にフィルターを付けて太陽面を観察したりする方法がある』とある。この時の太陽の日面通過は協定世界時(UTCCoordinated Universal Time)で、

通過開始      :午後 3時16分

通過軌道中央位置通過:午後 5時00分

通過終了      :午後10時44分

で(この数字は英語ウィキ“Transit of Mercuryに拠る。日本語版には二十世紀以降しか載らない。こういうところが日本のウィキは徹底性に欠けてしょぼいと感じる)、日本標準時(JSTJapan Standard Time)は協定世界時より9時間進んでいるから、当時の東京でのそれは、

通過開始      :午前 0時16分(当時の本邦では観測不能)

通過軌道中央位置通過:午前 2時00分(当時の本邦では観測不能)

通過終了      :午前 7時44分

となる。明治一一(一八七八)年五月七日の日の出は5:03(私の御用達のサイトページ」の計算による)であるから、モースらの観察は実に早朝、凡そ二時間半余りの中で行われたことが分かる。]

耳嚢 巻之八 寐小便の呪法の事 附笑談の事

 寐小便の呪法の事 笑談の事

 

 小兒はさらなり、壯年に至りて、夜分此病ひ有(ある)もの世にすくなからず。或人の語りけるは、男女に限らず新葬の佛を厚く信じ、朝夕怠らず日數を極め祈りぬれば、彼(かの)やまひを除く事奇々妙々の由かたりぬ。埒なき事ながら、かたりし人我もためしつる事ありと申(まうし)ぬれば、こゝに記しぬ。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

附り 文化四年の春の頃、勤(つとめ)をなせしさる若人かの愁(うれひ)ありと。右呪(まじなひ)を人の教(おしへ)ぬるにまかせ、葬送を見懸(みかけ)その寺まで見屆(みとどけ)、翌日に至り新葬の墓所へ詣で、櫁(しきみ)などたてゝ彼(かの)病を念頃に祈り、それより日毎に詣で櫁をそなへ念頃に祈誓せしに、施主の男新らしき手向(たむけ)を寺よりなせし事と思ひて、納所に逢ふて厚く禮をなせしに、寺にては一向思ひよらざる事なるが、此頃若き侍日毎に來りて櫁を手向、念頃にとむらふ樣子を見しと語りければ、施主なるもの驚きて、夫(それ)はいかなる樣(さま)の人にや右亡者は我等娘にて二八(にはち)の年齡なれば、存生(ぞんじやう)の内にかゝる事ありしとは思ひ知らざりしが、申(まうし)かわせし人にやあらん。かくとしらば、せん樣(やう)も有(ある)べきと深く驚き、何とぞ彼(かの)人來(き)なば住所名前を聞(きき)てしらせ給ひてよと深く賴(たのみ)ければ、翌朝彼(かの)侍例の通(とほり)來りしを引留(ひきとめ)て、一寸(ちよつと)住僧逢度(あひたき)由を申(まうし)ける故、日々の勤遲くなりてはなりがたき迚いなみければ、無理に引留てありし譯語りけるにぞ、名住所もなのるべけれど、けふは急ぐ事あればと斷りて皈(かえ)りしが、かゝる事に墳墓に詣ふでぬると咄(はな)さんも面(おも)ぶせなれば、其後は參詣も思ひ留りしとや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:民間療法シリーズの夜尿症や尿漏れのための呪(まじな)い物であるが、専ら附けたりの笑話の面白さ故に採録したものである。

・「文化四年」西暦一八〇七年。「卷之八」の執筆推定下限は文化五年夏。

・「櫁」樒。梻。双子葉植物綱シキミ目シキミ科シキミ属 Illicium anisatum。かつてはモクレン科に分類されていた。仏事に用いるため寺院によく植えられるが、全木特に種子・果実にアニサチンなどの有毒物質を含み、食べれば死亡する可能性がある程度に有毒。参照したウィキの「シキミ」によれば『語源は、四季とおして美しいことから「しきみ しきび」となったと言う説、また実の形から「敷き実」、あるいは有毒なので「悪しき実」からともいわれる。日本特有の香木とされるが』、江戸中期の大阪真蔵院住職子登撰の「真俗仏事論」の二には供物の記載で、『「樒の実はもと天竺より来れり。本邦へは鑑真和上の請来なり。その形天竺無熱池の青蓮華に似たり、故に之を取りて仏に供す」とあり、一説に鑑真がもたらしたとも言われる』とある。また、『シキミ(樒)は俗にハナノキ・ハナシバ・コウシバ・仏前草という。弘法大師が青蓮華の代用として密教の修法に使った。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされ、その花に似ているので仏前の供養用に使われた。なにより年中継続して美しく、手に入れやすいので我が国では俗古来よりこの枝葉を仏前墓前に供えている。密教では葉を青蓮華の形にして六器に盛り、護摩の時は房花に用い、柄香呂としても用いる。葬儀には枕花として一本だけ供え、末期の水を供ずる時は一葉だけ使う。納棺に葉などを敷き臭気を消すために用いる。茎、葉、果実は共に一種の香気があり、我が国特有の香木として自生する樒を用いている。葉を乾燥させ粉末にして末香・線香・丸香としても使用する。樒の香気は豹狼等はこれを忌むので墓前に挿して獣が墓を暴くのを防ぐらしい。樒には毒気があるがその香気で悪しきを浄める力があるとする。インド・中国などには近縁種の唐樒(トウシキミ)があり実は薬とし請来されているが日本では自生していない。樒は唐樒の代用とも聞く。樒は密の字を用いるのは密教の修法・供養に特に用いられることに由来する』とある。

・「納所」納所坊主。狭義には禅宗寺院に於いて金銭や米穀などの出納を行う係の僧。転じて寺院一般で雑務を行う下級の僧をも指す。ここは後者。

・「面ぶせ」面伏せ。顔が上げられぬほどに面目ないこと。不名誉。「おもてぶせ」とも読める。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 寝小便の呪法の事 附けたり 笑い話の事

 

 小児は勿論のこと、壮年に至りても、夜分にこの尿漏れの病いを患(わずろ)う者は、これ、世に少なく御座らぬ。

 ある人の語ったことには、男女に限らず、新仏(にいぼとけ)の菩提を厚く弔い、朝夕怠らず、その祈誓の日数(ひかず)を決めて一心に祈ったならば、かの病いを除くこと、これ奇々妙々の由、語って御座った。

 埒もないことながら、語った御仁も、実はかの愁いのあって、

「……我らも試しみたことが御座って、信じられぬほどにすっかり快癒致いて御座る。」

と申されたによって、ここに記しおくことと致す。

 

根岸附記(そのことにつきて面白き話の御座ったればここにさらに記しおくことと致す。)

 文化四年の春の頃、御用勤めをなせる、さる若人(わこうど)、かの尿漏れの愁いが御座ったと申す。

 そこで、この呪(まじな)いを人が教え呉れたにまかせて、折よく、葬送を見かけたによって、その菩提寺までも見届けた上、翌日になって、かの新仏の墓所へと詣でて、櫁(しきみ)なんどを誠心に立て、一心にかの病いの平癒を祈り、それより毎日欠かさず、詣でては新しき櫁を供え、懇ろに祈誓致いて御座った。

 ところが、さてもその新仏施主の男、墓参りに出向いてみれば、新らしき手向(たむ)けのこれあればこそ、親切にも寺よりなし下されたことと思うて、納所(なっしょ)坊主に逢(お)うて厚く礼を述べたところが、

「……いや……寺にては一向にそのような仕儀は致いて御座らぬ……思いもよらぬことなれど……はて、そういえば……この頃、若きお侍が日ごとに来たっては櫁を手向け、懇ろに弔う様子……これ、遠目に見ては御座った……」

と語ったによって、施主なる者、大きに驚き、

「そ、それは如何なるご様子の御仁で、ご、御座ろうか!?……かの亡き者は我らが娘にて十六にての夭折……存生(ぞんじょう)の内に……その……い、いわくのあることなんどが御座ったとは思いもせず、知りも致さなんだが……もしや!……そ、それは……密かに申し交わして御座った、お人なのでは、御座るまいか!?……かくも、そうしたことを知ったとなれば……その御仁への、それなりの御礼やら仕儀をもなすが、これ、礼儀、また、死者成仏の救けとものならん!……」

と深く感じ入って驚き、

「……何とぞ、かのお人がまた参られたならば、どうか、お坊さまより、住所名前をお訊ね下され、きっと、我ら方へとお知らせ下さいませ!」

と懇ろに頼んで御座った。

 翌朝、寝小便祈願のため、かの侍、例の通り詣でたを、納所坊主の見かけて、既に施主の頼みを伝えて御座った住持に告げておいたによって、かの侍を引き留め、

「……ちよっと住持がお侍さまにお逢い致したき儀、これある由なればこそ。……」

と申しところ、何を聴かれんかと思わず慌てた侍、

「……い、いや……そ、その日々の、お、御用勤めにも遅くなりては、こ、これ、な、なりがたきことなれば……」

と辞さんと致いた。

 ところが施主の頼みもあったれば、住持自ら出でて参って、無理にも引き留め、

「……実は貴殿の日参なさるる新仏が施主より、かくかくのご依頼方、これ、御座ったによって……」

と切り出したところが、侍、なおも内心、吃驚仰天、小便をちびりそうになりながらも、落ち着きを装い、

「……か、かくなるお訊ねなればこそ……名や住所をも名乗るべきが道理なれど……今日は……これ御用の向き、よんどころなく……急ぐことの御座ればこそ、平に!……」

と断って、早々に帰って御座ったと申す。……

 ――かかる祈誓がために、かのうら若き娘子の新仏の墳墓に詣でて御座った――

 なんどと申さんは、これ、如何にも不名誉極まりなきことなれば、その後(のち)は、かの寺への参詣も、これ思い留まらざるを得なんだと申す。

……夜の尿(しと)の……あとのこと知りたや……

中島敦 南洋日記 十二月十四日

        十二月十四日 (日)

 朝來、我が機の低空飛行を見、漸く安堵す、十時頃アルモノグイの水道に入る。擬裝せる燈、アルマテン、綠の島々、時々スコールあり。十二時投錨。一時過下船、役所へ行く。喘息面白からず、夜、土方氏の家に行きコーヒーの馳走に預かる。パラオは案外靜かなり。未だ敵機の影を見ずといふ。

[やぶちゃん注:「アルモノグイ」パラオ島中央部西岸の入り江の北方の地名、当時はこの複雑に入り組んだ湾奥に大和村(現地名ガスパン)、その北に朝日村があった。

「アルマテン」湾の北アルモノグイの西に突き出た岬の突端部分の地名。この時にあったかどうかは不明であるが、現在も日本海軍の砲台が戦跡として残っている。

「土方氏」土方久功。冒頭のに既注。

 この日附で太平洋戦争勃発後最初の妻たか宛書簡が残る。以下に示す。

   *

〇十二月十四日(中島たか宛。封書。封筒なし。)

 いよいよ來るべきものが來たね。どうだい、日本の海軍機のすばらしさは。ラジオの自由に聞けるそちらがうらやましいな。

 所で、僕の豫定も急に變つて、いそいでパラオに歸ることになつた。普通の船は無いが、丁度十日(十二月)の日に軍の御用船が寄つたものだから、賴んでそれに乘せて貰ふことにした。御用船といつたつて、鎌倉丸(もとのちちぶ丸)しかも、その一等に乘つてるんだから、たいしたもんだよ。二人一室のかなり廣い洋室を僕一人で占領してゐる。この一室に電燈は五つもつくし、鏡は、むやみにたくさんついてるし、ちよつと、ホテルに泊つてるみたいだ。たゞね、お前もラヂオで聞いたらうけど、パラオ港外で敵の潛水艦が沈められたり、敵機十臺パラオを襲(オソ)うたが十臺とも落されたとか、一寸氣になるやうなニウスがはいつてゐるのでね、しかし、まあ大したこともあるまいとは思ふ。潛水艦が出やしないか、とビクビクしながら航海するのも面白い經驗かも知れない。とにかくこの船は、全く大きな船で、散歩なんかしてると道にまよつて部屋に歸れなくなりさうだ。今日なんて甲板(カンパン)で自轉(テン)車に乘つてた人がある。勿論エレヴェーターもついてゐる。かういふ船の豪奢(ゴウシヤ)な部屋にはいつて、一等の御馳走をたべて、船賃が、なんと、一日につき一圓三十錢とはウソみたいな話だらう? 實際の食費だけ、といふことになつてゐるが、陸に上つたら、この船の食事一食分だつて一圓三十錢では食べられやしない。餘りやすいんで、困る、こちらが氣がひける位だ。

◎昨日十二月分として二百圓送つた。受取つたらうと思ふ。お前は、サイパン支廰宛に飛行便を出しやしないかい? 出さなきやいいが、出したとすると、それを受取らないで、オレは、船にのつて了つたわけだ。いづれ、パラオに廻送はされるが、この際だから、一月や二月はかかるかもしれない。だから、もし、その手紙の中に大事なことでも書いてあるなら、それを(同じことを二度書いたつて構はない)もう一度書いてパラオ宛に出しておくれ。

 戰爭が始まつて、そちらでは、さぞ、南洋の方のことを心配してくれてゐることと思ふ。しかし、このサイパン・テニヤン地方は、全く平靜(へイセイ)だ。實際の所、グヮムは他愛(タアイ)なく、つぶれるし、この邊は空襲を受ける心配もまづ無いからね。パラオの方は、フィリッピンに近いので、幾分の危險があることは確かだが、それも、大したことはあるまい。

 さう心配してくれなくても大丈夫のやうだ。そりや戰爭のことだから、多少の危險があることは覺悟してゐるさ。しかし、むしろ、怖(コハ)いのは、喘息といふ病氣の方だよ。いづれパラオについたら、防空のために走りまはらなければなるまいが、そのたびに、喘息を起すのでは、ちよつと、やりきれない。これだけは、どうにも憂鬱(イウウツ)だな。この際、個人の病氣のことなど言出すのは、ゼイタクかも知れないが。

◎さて、今迄は少々強がりを言つてゐたが、實は、内心、本當にセンスヰカンが出やしないかと、夜なども、枕もとに、救命具(キュウメイ)(ウキ)を置(オ)いて寐(ネ)るしまつで、あまり良い氣持ぢやなかつたが、もう大丈夫だ。今朝は日本の飛行機が、迎へに來てくれて低空飛行をしてゐる。もう大丈夫。センスヰテイなんか、いくらでも出て來いだ。もうぢきパラオが見えてくるだらう。

 

◎無事パラオ着。パラオが案外おちついてゐるのでビックリした。空襲警報はあつたけれど、實際に敵機を見た者は誰もないし、爆彈の音を開いた者も無いらしい。パラオと一口にいつても、コロ-ルからは、ずつと離れた南の方の小さい島もあるんだが、どうやら、その邊(ヘン)に敵機が現れて、しかも直ぐ逃げて行つたらしいんだよ。この程度だから、まづく安心してくれ。

 たまにパラオに歸つてきて見ると、小雨が降つてゐて、むしあつい。敵機よりも雨と暑さの方がヨツポドゆううつだよ。當分、汽船は駄目かもしれないので、飛行便でばかり、通信することになるだらう。

 この前途つた二百圓の中、百五十圓は十二月分として、殘りの五十圓を(少いが、)みんなへのお年玉にしてくれ。おぢいちやんへも十圓、お前へも十圓、澄子へも十圓、桓へも十圓、格のチビへも十圓。おぢいちやんと格が同じぢや、をかしいけれども、とにかく、みんな十圓づつにしておくれ。

 さて、明日(十五日)、そち又、三百圓送るつもり。これは、お前への年末(ねんまつ)のボーナス。

 今度の出張では、たしかオレはフトツたよ。この前の時より、たしかだ。バナナとイモばかりたべてたせゐだね。とにかく、おしりに肉が出來てきたからヲカシクテ仕方がない。ホツペタも、もうゲソツと落ちてやしないぜ。

◎(パラオに歸つて直ぐ大急ぎで、書いた)

   *

太字「ちちぶ」「しり」は底本では傍点「ヽ」、下線「ヨツポド」は傍点「〇」。

「丁度十日(十二月)の日に軍の御用船が寄つたものだから」この抹消は検閲を危惧してのものと思われる。

「鎌倉丸(もとのちちぶ丸)」日本郵船の貨客船秩父丸(日本郵船の保有船大刷新の目玉である浅間丸型客船の一隻として昭和五(一九三〇)年に建造、当時の日本に数少ない本格的客船として北米航路に就航、「太平洋の女王」と称された)は昭和一四(一九三九)年に鎌倉丸(かまくらまる)と改名されていた(以上はウィキ秩父丸」に拠る)。

「澄子」は異母妹(田人の最初の後妻カツの子)。実家に同居していたものと思われる。

 妻の心配を払拭するためでもあろうが、開戦直後の戦地直近乍ら、頗るポジティヴな内容であるのは、敦自身にも戦況への期待に基づく楽観があったことが窺える。]

中島敦 南洋日記 十二月十三日

        十二月十三日(土) 晴、

 朝食後正午迄、又、睡る。甲板の散歩、讀書、無事、

杉田久女句集 34 母と寢てかごときくなり蚊帳の月

  上阪 一句

 

母と寢てかごときくなり蚊帳の月

 

[やぶちゃん注:「上阪」は小倉からの大阪行であろうが、久女の実家は東京であり不審(愛知県西加茂郡小原の義母杉田しげは大正二(一九一三)年に逝去している)。編年式編集の角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」からこの句は大正一四(一九二五)年の句であることが分かり、底本年譜の同年の三月と思しい部分に『実母を訪う』とある。しかし年譜上の記載からも大阪と実母さよの接点は見当たらない。「かごと」(託言。心が満たされずに不平を言う・愚痴をこぼす・嘆くの意の「かこつ」の名詞節「かこちごと」が元)という、(人のせいにしていう)恨み言・不平・愚痴という表現からは、大正九(一九二〇)年八月から腎臓病のために一年ほど東京上野桜木町の実家に戻った際、宇内との離婚問題が起こった(主に久女の実家側かららしい)ものの、翌年七月に小倉に帰っている。その際、実家で母さよから『子供のために辛抱して、夫が俳句を嫌うなら俳句をやめるように説得された』(久女長女石昌子さん編の年譜記載)とあるのは句柄と合致するが、やはり大阪ではないし、角川版の時系列とも齟齬する。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年 寒夜 

 寒夜

 

駅に降(お)り北風(きた)にむかひて家に歸る

 

北風つよく抗(あらが)ひ來るに身をかばひ

 

寒(かん)の星昴(すばる)けぶるに眼をこらす

 

北風吹けり夜天あきらかに雲をゆかす

 

枯木鳴り耀く星座かかげたる

 

星天は嚴(いつ)しく霜の地を照らす

萩原朔太郎 短歌三首 明治四四(一九〇三)年三月

欄に寄り酒をふくめば盃の底にも秋の愁ただよふ

 

赤城山鹿の子まだらに雪ふれば故郷びとも門松を立つ

 

町内の屋臺を引きし赤だすき十四の夏が戀の幕あき

 

[やぶちゃん注:『スバル』第三年第三号(明治四四(一九〇三)年三月発行)に「萩原咲三」名義で掲載された(「咲二」の誤りで校正漏れか誤植)。朔太郎満二十四歳。

 二首目はこの年の医師で従兄萩原栄次(彼の短歌の指導者で、かの詩集「月に吠える」は彼に捧げられている)宛年賀状に初出する。以下に示す(筑摩版全集書簡番号一二。消印一月五日前橋。「大坂府河内郡三木本村字南木本 萩原榮次樣」宛。)。

   *

 昨年中の御無沙汰平に御海容被下度願上候

              まへばしニテ

                     朔太郎

 

賀正

 赤城山かのこまだらに雪ふれば 故郷びとも門松を立つ、

   *

なお編者注には、夕暮れの山村風景を描いた版画の絵葉書で「松川」の印がある、とある。無沙汰の挨拶は表書きの下、後半の年賀と短歌はその版画の余白に記されてある。]

蒼白い きりぎし   八木重吉

蒼白い きりぎしをゆく

その きりぎしの あやうさは

ひとの子の あやうさに似る、

まぼろしは 暴風(はやて)めく

黄に 病みて むしばまれゆく 薰香

 

惱ましい まあぶるの しづけさ

たひらかな そのしずけさの おもわに

あまりにもつよく うつりてなげく

悔恨の 白い おもひで

 

みよ、悔いを むしばむ

その 悔いのおぞましさ

聖榮のひろやかさよ

おお 人の子よ

おまへは それを はぢらうのか

 

[やぶちゃん注:太字「まあぶる」は底本では傍点「ヽ」。]

鬼城句集 冬之部 寒鮒

寒鮒    寒鮒を突いてひねもす波の上

2014/01/27

萩原朔太郎 短歌六首 明治四三(一九〇二)年六月

淸元の神田祭のメロデイに似たる戀しぬたちばなの花

 

行く春の淡き悲しみいそつぷの蛙のはらの破れたる音

 

忘られず活動寫眞の幕切れにパリの大路を横ぎりしひと

 

しかれども悲劇の中の道化役の一人として我は生くべき

 

わが妹初戀すとは面白しオーケストラの若き笛ふき

 

日まはりの雄々しき花も此の國の人はかなしく捨てたまふ哉

 

[やぶちゃん注:『創作』第一巻第四号・明治四三(一九〇二)年六月号に「萩原咲二」名義で掲載された。朔太郎満二十三歳。二首目の太字「いそつぷ」は底本では傍点「ヽ」。『創作』は同年三月に若山牧水(当時満二十五歳)が編集者として創刊した文芸総合雑誌で、当時、全文壇の注目を集めたが、版元との意見が合わず翌年九月に廃刊となった。]

中島敦 南洋日記 十二月十二日

       十二月十二日(金) 曇、細雨、後晴

 今朝未明に出帆せるものの如し。將棋。救命胴衣をつけて避難練習。午睡。三時のラヂオよく聞えず。讀書室のコスモポリタンを讀み、BUNRAEUの寫眞を見る。夜に至る迄潛水艦現れず。

 Everything is hunky-dory. とは Everything is all right. の意なり。この slang は横濱の本町通が分れば、船に歸る路が判り、即ち all right なりとて、米國水夫の言ひ慣はしより起りしものとぞ。ホンチョウドホリがハンキイ・ドーリとなりしものなり。

[やぶちゃん注:以下一行空けで、底本では長歌は全体が一字下げ。]

 

鱶が栖む 南の海の 綠濃き 島山陰ゆ 山菅の やまず、しぬばゆ、あきつ島大和の國に 吾を待たむ 子等がおもかげ。桓はも さきくあらむか 格はも 如何にあらむと あかねさす 晝はしみらに ぬば玉の 夜はすがらに、はしきやし 桓が姿 あからひくさ丹づらふ 格が頰の まなかひに 去らずかかりつ、うまじもの あべ橘の たををなる 枝見るごとに 時じくの かぐの木の實が 黄金なす 實を見るなべに みくだもの 喜び食(を)さむ 子等が上、常し思ほゆ、椰子高き 荒磯(ありそ)の眞砂 檸檬咲く 丘邊を行けど、ぬばたまの 黑き壯漢(をのこ)が 棹させるカヌーに乘れど、沖つ浪 八重の汐路を はろばろに 子等と離(さか)りて 草枕 旅にぬる身は不樂(さぶ)しさの 日(ひ)に日(ひ)に益(まさ)り 戀しさの 甚(いた)もすべなみ にはたづみ 流るゝ涙 とゞめかねつも、

反歌無し、     (於鎌倉丸一四二號船室)

[やぶちゃん注:敦の正式な長歌形式の和歌は現存するものではこの一首のみと思われる。以下、一部は屋上屋であるが、私のやぶちゃん版中島敦短歌全集 附やぶちゃん注の本長歌について注した内容をほぼ転載して注に代える。

hunky-dory」はアメリカ口語の形容詞で「すばらしい」「最高の」の意で、この単語自体が“Everything is OK”・“excellent”、則ち総てに於いて申し分がない、すべてついて満足の謂いを持つ。ここで敦が語る語源説は眉唾と思われる方もあろうかと思うが、個人ブログ「Jackと英語の木」の「横浜はOkey-dokeyでHunky-doryだよ。英語になった横浜本町通り。」を読むと、どうして、十分に信じ得る語源説であることが分かる。敦はここまでの日記本文では大戦の勃発直後ながら、一見、泰然自若とまではいかないまでも、意識的に平常の生活をしようと心掛けているように思われるが、この異例の山上憶良ばりの長歌の作歌には、単なる妻子や故国への思慕憧憬以上に、この今始まったばかりの戦争が意味するところの「相當に危險ならんか」(十二月十日附日記)という不吉な危惧が通奏低音のように流れているように思われてならない。

「山菅の」「やま」と同音で「止まず」にかかる枕詞。

「桓」は「たけし」で敦の長男。当時満八歳。

「格」は「のぼる」で敦の次男。当時未だ満一歳と十ヶ月程。

「しみらに」副詞。一日中断え間なく。絶えずひっきりなしに。

「はしきやし」は「愛しきやし」で形容詞「愛(は)し」の連体形に間投助詞「やし」がついたもの。愛おしい、懐かしいの意。

「あからひく」は「赤ら引く」明るく照り映える。また、この意から「日」「朝」にかかる枕詞であり、二男の名格(のぼる)のそれ(昇る朝日)に準じさせようとしたものか。

「さ丹づらふ」(「つらふ」は「頬(つら)」の動詞化とされる)赤く照り映える意で、通常は「色」「黄葉(もみぢ)」「君」「妹」などの枕詞であるが、ここはその原義を生かした。

「うまじもの」は「うましもの」の誤り。美味しいものの意から「阿部橘」に掛かる枕詞。「馬じもの」では馬のようなさまをして、となってしまう。

「阿部橘」柑橘類。

「時じくの かぐの木の實」「非時の香の菓」で橘の実のこと。夏から早春まで永く枝にあって香りが消えないことに由来する。

「みくだもの」「実果物」か、果物に美称の接頭語を附したものか。私は後者で採る。

「不樂(さぶ)しさ」淋(さぶ)しさ。心が楽しくなく晴れないこと。「不樂」で「さぶし」と訓ずるのは「万葉集」の上代特殊仮名遣である。

「甚(いた)もすべなみ」「甚もすべ無み」で、「甚も」は上代の副詞(形容詞「いたし」の語幹+係助詞「も」)で甚だしくも・大変の意、「すべなみ」(「なみ」は上代語で形容詞「なし」の語幹+原因理由の意を表す接尾語「み」)は「術無み」で仕方がないので、の意。「思ひあまり甚もすべ無み玉たすき畝傍の山にわれは標結ふ」(「万葉集」巻之七・一三三五番歌・作者不詳)など上代歌謡にしばしば見られる語法。

「にはたづみ」「潦」で原義は雨が降って地上に溜って流れる水。そのさまから「流る」「すまぬ」「行方しらぬ」等に掛かる枕詞となったもの。]

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海蝦

読みと注に不満があったのでリロードする。



海蝦 本草載曰有小毒此ヱヒ伊勢ヨリ多ク來ル故

伊勢蝦ト號ス江戸ニハ鎌倉ヨリ來ル故鎌倉ヱヒト稱

ス諸州ニモ往々有之此ヱヒ最大ニシテ味ヨシ歷久タルハ

有毒不可食國俗春盤用之

〇やぶちゃんの書き下し文

海蝦(イセヱビ) 「本草」に載せて曰く、『小毒有り。』と。此のゑび、伊勢より多く來たる故、伊勢蝦と號す。江戸には鎌倉より來たる故、鎌倉ゑびと稱す。諸州にも往々之有り。此のゑび、最も大にして味よし。久しきを歷(へ)たるは毒有り、食ふべからず。國の俗、春盤(しゆんばん)に之を用ふ。

[やぶちゃん注:抱卵(エビ)亜目イセエビ下目イセエビ上科イセエビ科イセエビ Panulirus japonicas。他に私の電子テクストである寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」(蟹類を含む「巻第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」ではないので要注意)の「紅鰕 いせゑび かまくらゑび」も参照されたい。

「海蝦」の「イセヱビ」というルビは底本では左ルビである。

「本草」「本草綱目」。鱗之部四「海蝦」に『氣味。甘、平、有小毒。時珍曰同豬肉食、令人多唾』(氣味、甘にして平、小毒有り。時珍曰く、豬肉と同じうして食すれば、人をして多唾せしむ)とある。

「伊勢蝦」ウィキの「イセエビ」の文化の項によれば、伊勢海老の名称がはじめて記された文献は永禄九(一五六六)年の「言継卿記」(ときつぎきょうき:戦国期の公家山科言継の大永七(一五二七)年から天正四(一五七六)年の間の約五十年に渡る日記。)であると考えられているとある。

「鎌倉鰕」例外を注記するならば、カマクラエビは関東に於いてイセエビを指すが、和歌山南部ではイセエビ下目セミエビ科ゾウリエビ Pariibacus japonicas を指すと「串本高田食品株式会社」の以下のページにある。

「春盤」民間に於いて、知己に立春の挨拶として贈る祝い物で、生菜などを盤の上に載せたものという(私は見たことがない)。ウィキの「イセエビ」の文化の項によれば、江戸時代には井原西鶴が貞享五・元禄元(一六八八)年の「日本永代蔵」四の「伊勢ゑびの高値」や元禄五(一六九二)年の「世間胸算用」に於いて江戸・大阪で諸大名などが初春のご祝儀とするために伊勢海老が極めて高値で商われていた話を書いているとあり、元禄一〇(一六九七)年の「本朝食鑑」(医師人見必大(ひとみひつだい)が元禄五(一六九二)年に著した遺稿を子である人見元浩が岸和田藩主岡部侯の出版助成を受けて五年後に刊行した食物本草書)には『伊勢蝦鎌倉蝦は海蝦の大なるもの也』と記されており、海老が正月飾りに欠かせないものであるとも紹介しているとした後にこの「大和本草」の記載を紹介している。以下、『イセエビという名の語源としては、伊勢がイセエビの主産地のひとつとされていたことに加え、磯に多くいることから「イソエビ」からイセエビになったという説がある。また、兜の前頭部に位置する前立(まえだて)にイセエビを模したものがあるように、イセエビが太く長い触角を振り立てる様や姿形が鎧をまとった勇猛果敢な武士を連想させ、「威勢がいい」を意味する縁起物として武家に好まれており、語呂合わせから定着していったとも考えられている』とあって、さらに『イセエビを正月飾りとして用いる風習は現在も残っており、地方によっては正月の鏡餅の上に載せるなど、祝い事の飾りつけのほか、神饌としても用いられている』と記す。]

ブログ・アクセス540000突破記念 サイト完全版大手拓次詩集「藍色の蟇」(やぶちゃん注附初版再現版)+縦書版

ブログ・アクセス540000突破記念としてサイト完全版・大手拓次詩集「藍色の蟇」(やぶちゃん注附初版再現版)+縦書版を「心朽窩 新館」に公開した。ブログ版をルビ化し、細部をブラッシュ・アップして、少なくとも現在、出版されているもの及びネット上に存在するところの、大手拓次詩集「藍色の蟇」を標ぼうするものの中では、最も原本に忠実なテクストである自信はある。豪華な装幀も詩と一緒にご覧あれ。

本日

昨夜半よりちょっと大きなテクスト編集に入っている。今日は夕刻に妻の新しい杖を受け取りに行かねばならぬが、それまでに公開したいと考えている。――と書いた途端に先方の手違いで受け取りが延期になったので確実に公開出来る、乞うご期待。

杉田久女句集 33 古日傘と蚊帳

照り降りにさして色なし古日傘

 

麻蚊帳に足うつくしく重ね病む

 

稻妻に面をうたす蚊帳かな

 

母の帶卷きつゝ語る蚊帳の外

 

コレラ怖ぢ蚊帳吊りて喰ふ晝餉かな

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年の作。この二年前の大正五(一九一六)年の夏、本邦ではコレラが流行、死者七千四百八十二人を数えた。これは呪(まじな)いではなく、れっきとしたコレラ感染予防の蠅対策で、小児の昼寝の際などには奨励された。]

 

蚊帳の中團扇しきりに動きけり

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年 忌籠り

 忌籠り

 

忌に籠り野(ぬ)の曼珠沙華ここに咲けり

 

曼珠沙華咲くとつぶやきひとり堪ゆ

 

曼珠沙華あしたは白き露が凝る

 

露のあさ忌にゐてをみなは髮を梳く

 

露のあさ帶も眞黑く喪の衣(きぬ)なり

 

曼珠沙華けふ衰へぬ花をこぞり

こころ 暗き日   八木重吉

やまぶきの 花

つばきのはな

 

こころくらきけふ しきりにみたし

やまぶきのはな

つばきのはな

鬼城句集 冬之部 鷹

鷹     鷹老いてあはれ烏と飼はれけり

      老鷹のむさぼり食へる生餌かな

      老鷹の芋で飼はれて死ゝけり

      椋鳥や大樹を落つる鷹の聲

2014/01/26

栂尾明恵上人伝記 70

 同四〔壬辰〕正月上旬の比より所勞次第重く成りて憑(たのみ)なき體(てい)なり。病中に常に結跏趺坐(けつかふざ)して入定(にふぢやう)、其の間彌勒の帳(とばり)の前に安置する處の土砂、忽ちに紺靑(こんじやう)色の如くにして、光焰(くわうえん)相具して其の室に散在せるを見る。入定の隙には法門を説いて、諸衆を誠め、沒後(もつご)の行事を定め給ふ。

[やぶちゃん注:「同四〔壬辰〕正月」寛喜四(一二三二)年一月。この年は四月二日に貞永元年に改元されている。この一月十九日に明恵は示寂する。

「入定」は広義の真言密教に於ける究極的修行の呼称で、一切の妄想を捨て去り、弥勒出世の時まで衆生救済を唯一の使命とする絶対安定の精神状態に入ることを指すが、ここでは最早、原義としての生死の境を超越して悟りを得ることと同義的なニュアンスである。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 海水浴場

    ●海水浴場

富士見橋を西に渡りて新宿に出で、養神亭と呼減る旅館の下を左りに沿うふて來れば、波の音と名もいと高き逗子の海濱、廣漠としたる海水浴場に出づ。

逗子停車場より此處まで僅々十町足らずの行程、海濱弓形を爲して、西には豆相翠巒煙の如く、富岳の雲表(うんへう)に聳ゆるを仰ぎ右には鎌倉の海濱、遠く大磯小磯打ち越して、小田原に連なるを望むべく、江の島は呼べば應ふるの間近に浮びて、靑松白砂の磯つゞき、干潟三町許(ばかり)、浪(なみ)平穩(おだやか)にしてそこは一面の眞砂(まさご)白く波の洗ふにまかせつ。

濱邊に葭簀(よしず)繞(めぐ)らしたる小屋あり、浴客(よくかく)は此内に衣物懸け置くを例となせり。

偖(さ)て男となく女となく、悉(み)な麥藁笠(むぎわらかさ)を被り、白き肌着を身にまとひて、折りかへる波を避くるもあれば、足を空にして碎くる波を蹴りゆくもあり、水沫(みづあは)を飛ばし合ひて、泳ぎ競べするは、何れかの學生なるべく、板(いたこ)を前にして辛(から)うして泳げるは某華族の姫君にもやあらむ、斯く海士が子のさまを學ぶも、身を健康に保たんと樂(ねが)へばこそ、父は蟹を捕へて持ち來れば、小兒は砂地に池を堀り山を作りて傍目(わきめ)もふらず、時々潮來りて築きし山を洗ひ去れは、小兒はあれよあれよと呼ぶ。

[やぶちゃん注:「十町足らず」凡そ一キロメートル。この冒頭の記述のような迂回路では無理だが、事実現在、最短コースをとれば横須賀線逗子駅から約一キロメートルで逗子海岸に出られる。

「三町許」三二八メートル前後。]

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 二 原始動物の接合(2) ゾウリムシ~本文追加リロード

昨日公開した部分が、切れ目が上手くないことに気付いたので、本文を追補し、挿絵の位置も変更した。

Zourimusibunnretu

[「ざうり蟲」の分裂]

 

 花瓶内の古い水を一滴取つてこれを顯微鏡で調べて見ると、その中に長楕圓形で全身に纖毛を被つた蟲が活潑に泳ぎ廻つて居るが、これは「ざうり蟲」と名づける一種の原始動物である。體の前端に近い方の腹側に漏斗狀の凹みがあるが、これはこの蟲の口であつて、黴菌や藻類の破片などの微細な食物が絶えずこゝから體内へ食ひ入れられる。常に忙しさうに泳ぎ廻つて食物を探し求め、砂粒などに衝き當ればこれを避けて迂廻し、更にあちらこちらと游ぐ樣子を顯微鏡で覗いて居ると、如何にも運動も活潑、感覺も鋭敏であるやうに思はれ、まるで鼠か「モルモット」でも見て居るやうな心持がする。かく絶えず食物を求めてこれを食ひ、漸々生長して一定の度に達すると體が二つに分れて二疋となるが、その際にはまづ核が縊れて二つとなり、一個は體の前方に一個は體の後方に移り、次に身體が横に縊れて恰も瓢簞の如き形になり、終に切れて二疋の離れた蟲となつてしまふ。「ざうり蟲」の蕃殖法は通常はかやうな簡單な分裂法によるが、しかしこの方法のみによつていつまでも繁殖し續けることは出來ぬらしい。或る人の實驗によると、以下に食物を十分に與へ生活に差支のないやうに注意して飼うても、分裂生殖を何度も繰り返して行うて居ると、蟲が段々弱つて來て、身體も小さくなり勢も衰へ、二百目か三百代目にもなると、終には自然に悉く死に絶える。しからば「ざうり蟲」が實際種切れにならずに、どこにも盛に生活して居るのは何故であるかといふに、これは分裂生殖を續ける間に折々系統を異にする蟲が二疋づつ寄つて接合するからである。接合によつて二疋の蟲が體質を混じ合せると、一旦衰へかゝつた體力を囘復し勢が盛んになつて、更に分裂によつて繁殖し續け得るやうになるのである。

[やぶちゃん注:「ざうり蟲」クロムアルベオラータ界 Chromalveolata アルベオラータ Alveolata 亜界繊毛虫門貧膜口(梁口)綱ゾウリムシ目ゾウリムシ科ゾウリムシ Paramecium 属。ウィキの「ゾウリムシ」によれば、『水田や沼や池など淡水の止水域に分布する。細胞表面の繊毛により遊泳するため、単細胞生物としては移動力が大きい。障害物などに接触すると、繊毛逆転により遊泳方向を反転する(後退遊泳)』。細胞の長さは 90~150マイクロメートル、幅は40マイクロメートル程度で、『名前は平たい印象を与えるが実際には円筒形に近く、中腹には細胞口というくぼみがややねじれるように入っている。細胞表面には約3500本の繊毛を持っており、ゾウリムシはその繊毛を使って泳ぐ。繊毛は体表の繊毛列にそって生えている。ゾウリムシの繊毛は細胞全体にほぼ均一に生えているが、細胞口の奥の部分では細胞咽頭に向けて特殊な配置と動きが見られる。細胞口の奥には細胞内へ餌を取り込む細胞咽口があり、餌はここを通って食胞に取り込まれる。食胞内で消化が行われ、有用な成分は細胞内へ吸収されながら、食胞は細胞内をぐるっと回るように移動する。排泄物は細胞後方の細胞肛門から放出される』。『細胞の前後には、大きな星形もしくは花に見える放射状の細胞器官がある。これを収縮胞と言い、細胞内の浸透圧調節を担っている。収縮胞は中央の円形の部分と、周囲に花びらのように並ぶ涙滴型の部分からなる。水の排出時にはまず涙滴型の部分に水が集まり、ここから中央の円形の部分に水が移され、細胞外に水が放出される』。『細胞内には大小2つの細胞核があり、それぞれ大核と小核と呼ばれる。大核は普段の活動に関わる。小核は生殖核とも呼ばれ、有性生殖に関して働くとされる。細胞内に機能的に分化した核を持つのは繊毛虫類の特徴である』。『ゾウリムシは主に細菌類を餌とする。ただし近似種のミドリゾウリムシ(Paramecium bursaria)は、体内に緑藻であるクロレラを共生させており、光合成産物の還流を受けて生活することも可能である。逆にゾウリムシの捕食者は大型のアメーバや、ディディニウム(Didinium、シオカメウズムシ)といった他の繊毛虫である。ディディニウムは細胞前端の口吻部にエクストルソーム(extrusome)と呼ばれる射出器官を持っている。捕食時にはこれをゾウリムシに打ち込んで動きを止め、細胞全体を飲み込んで消化する』。『無性生殖は分裂による。他の繊毛虫同様、体軸方向の前後の部分に分かれるようにして分裂する。有性生殖としては細胞の接合が行われるが、その方法はやや特殊である。接合に先立ち、大核が消失するとともに生殖核である小核が減数分裂を行い、4つの核に分かれる。この内3つは消失し、残った一つがさらに2つに分裂し、この内の1つの核を互いに交換する。その後それぞれの細胞内の2核が融合することで接合は完了する。この間、2個体のゾウリムシは互いに同一方向を向いて寄り添うが、細胞間に連絡を持つだけで細胞そのものの融合は行われない。なお接合後、大核は小核を元にして改めて形成される』とある。]

Zourimusisetugou

[「ざうり蟲」の接合]

 

 かやうに二匹の「ざうり蟲」が接合する所を見るに、まづ腹と腹とを合せ、口と口とで吸ひ附き、互に出來るだけ身體を身體を密接せしめ、次に腹面の一部が癒合し、身體の物質が相混ずる。この際最も著しいのは核が複雜な變化をすることであるが、結局いずれの蟲も核が二分し、一半はその蟲の體内に留まり、一半は相手の蟲の體内に移り行いてその内にある核と結び付き、兩方ともに新たな核が出來る。これだけのことが濟むと、今まで相密接して居た二疋の蟲は再び離れて、各々勝手な方へ游いで行き、さらに盛に分裂する。そしてかく接合するのは必ず血緣の稍々遠いもの同志であつて、同一の蟲から分裂によつて蕃殖したばかりのものは決して互に接合せぬ。それ故一疋の「ざうり蟲」を他と隔離して飼うて置くと、たゞ分裂して蟲の數が殖えるだけで、一度も接合が行なわれず、後には漸々體質が弱って來る。そこへ別の器に飼うてあつた別の「ざう川蟲」の子孫を入れてやると、非常に待ち焦れて居たかの如く、悉く相手を求めて同時に接合する。これから考へて見ると、接合とは幾分か體質の違つたものが二疋寄つてその體質を混じ合ふことで、體質の全く相同じものの間にはこれを行つてもなんの功もなく、また實際に行はれることのないものらしい。繪の具でも、紅と靑とを混ぜれば紫といふ別の色となるから、混ぜた甲斐があるが、同じ紅と紅とを混ぜても何の役にも立たぬのと恐らく同じ理窟であらう。

[やぶちゃん注:「移り行いて」はママ。講談社学術文庫版はこのままで「移り行(ゆ)いて」とルビするが、「ゆきて」のイ音便としても一般的な表現ではなく、徹頭徹尾いじくってしまっている講談社版が、わざわざこれをそのまま採るというのは如何にも私には不審である。]

耳嚢 巻之八 口中妙藥の事

 口中妙藥の事
 昆布を煎じて口中を洗(あらひ)、西瓜の上の皮を黑燒にして附(つけ)れば奇々妙々治す。舌疽を愁(うれひ)し人に施せしに立所(たちどころ)に治せしと、官位長嶋某密(ひそか)に傳之(これをつたふ)。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。民間療法シリーズ。
・「昆布」昆布自体の黒焼きが口内炎に効果があるという記載がネット上には散見される。口臭予防薬としての効能も挙げられてある。
・「西瓜の上の皮」ネット上の記載には西瓜の皮を焦がして粉にして口に含むと口内炎に効くとあり、また現在の漢方では西瓜の皮は重要な薬の原料でコレステロール減少効果や血管拡張作用を持つともある。
普通、私たちは、果肉だけを食べて皮は捨ててしまいますが、中国では皮を漬け物にしたり、前菜料理に使ったり、フルに利用されています。
皮の部分に、栄養が多いことを考えれば、実に合理的なムダのない利用法といえます。
・「官位」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『官医』とする。底本の鈴木氏注に、『長島家は瑞得が半井驢庵の門人で綱吉に仕え、五世の孫秀門(ヒデユキ)は、名を元説といい、天明五』(一七八五)『年番医となった』とある。番医は番医師で若年寄支配、営中の表方にあって医療を受け持ち、また、桔梗の間に宿直して不時の際の治療に当たった官医のこと。
■やぶちゃん現代語訳
 口内炎の妙薬の事
 昆布を煎じたもので口の中を洗浄した後、西瓜の一番上の部分の皮を黒焼きにしてつければ、信じ難いほどに即効で治る。
「舌に出来た腫れ物を愁えていた患者にこの処方を施したところ、立ち所に治癒致いた。」
と御番医師の長嶋某殿、こっそりとこの処方を私に伝えて下された。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 3 市中嘱目2

M303
図―303
 

 私は一人の男が紙に艶(つや)を出しているのを見た。竹竿の一端にすべっこい、凸円の磁器の円盤がついていて、他の一端は天井に固着してあるのだが、天井が床を去ること七フィート半なのに、竹竿は十フィートもあるから、竿は大いに攣曲している。その結果磨滑常に大きな力が加わり、人は只竹の端を紙の上で前後に引張りさえすればよい(図303)。いろいろな仕事をやる仕掛が、我々のと非常に違うので、すぐに注意を引く。彼等は紙に艶を出す装置のように、竹の弾力によって力を利用する。また私は二人の小さな男の子が、ある種の堅果か樹皮かを、刻むのを見た。刻み庖丁は、丸い刃を木片にくっつけた物で、この木片から二本の柄が出ていて、柄の間には重い石がある(図304)。子供達は向きあって坐り、単に刻み庖丁を、前後にゴロゴロさせるだけであった。

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図―304

[やぶちゃん注:ここに現れた二種の器具について(後者は薬研のそれに錘が附いているもののようには見える)知らない。識者のご教授を乞う。

「七フィート半」約2メートル29センチ。

「十フィート」約3メートル。]

中島敦 南洋日記 十二月十一日

        十二月十一日(木) 晴、

 目さむれば、船は依然昨日と同じくサイパン沖にあり。朝將棋、デッキ散歩、十一時過漸くテニアンに着く。

 上陸。西澤氏と街を歩き、ミルクを飮み、ようかんを食し、すしをくひ、落花生を買ふ。ひ雜貨店、食料品店をひやかす。ちなみに西澤氏は水産試驗所の技手にして毒魚の毒素について調査中の人なり。三時四十分歸船。就寢迄には船未だ動かず、朝鮮人人夫多數下船、

[やぶちゃん注:個人的にこの「西澤氏は水産試驗所の技手にして毒魚の毒素について調査中の人」に興味が湧く。ネット上で検索しても見当たらない。魚毒専門家の御教授を乞う。]

杉田久女句集 32 水色うちわ

四季の句のことに水色うちわかな

 

[やぶちゃん注:「水色うちわ」(「うちわ」はママ)は高級品の奈良団扇と思われる。「大呂俳句会」公式サイトの「季語散策3 団扇」に『淡い水色やほんのりとした鳥子(とりのこ)色が特徴で、奈良の風物である鹿や、正倉院に伝わる文様などが切り絵にされて貼ってある』とある(他に両面に漆を塗った岐阜特産の岐阜団扇の一種に、「水団扇」といって透けるように薄い雁皮紙にニスを塗って作られた団扇がある。耐水性が高いために水で濡らして煽ぐことで涼味を楽しむものらしいが、採らない)。季語そのものを詠唱の対象とした面白い一句である。]

 

なつかしき水色うちわ師の句かな

 

[やぶちゃん注:「水色うちわ」はママ。現在のところ、虚子の句に「水色うちわ」を詠んだ句を発見出来ない。識者のご教授を乞う。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年 月光と菊

 月光と菊

 

颱風過しづかに寢(い)ねて死にちかき

 

死に近き面(も)寄り月の光(て)るをいひぬ

 

月光にいのち死にゆくひとと寢る

 

月光は美し吾は死に侍りぬ

 

夫(つま)うづむ眞白き菊をちぎりたり

 

菊白く死の髮豐かなりかなし

 

[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年、一月に小倉の櫓山荘へ一家で避寒したが、その帰阪後に夫豊次郎は発病、同年九月三十日に享年五十歳で逝去した。底本の堀内薫氏の年譜によれば、『療養していた数か月間、多佳子は、病弱の夫に付ききり、妻、秘書、看護婦、母と、虚弱な一身に数役を背負うて大任を果す。豊次郎は生前に墓を作り、自分と多佳子との戒名を刻み、年月日を入れればよいようにしておいた。葬後、ノイローゼによる心臓発作つづく』とある。]

萩原朔太郎 短歌四首 明治四三(一九〇二)年四月

民はみなかちどきあげぬ美しき捕虜(とりこ)の馬車のまづ見えしとき
寒き風吹くと思ひぬ故郷の赤城の牧の古榎より
幼き日パン買ひに行きし店先の額のイエスをいまも忘れず
二月や笛の稽古に通ひたる故郷の町の橋のうす雪
[やぶちゃん注:『スバル』第二年第四号(明治四三(一九〇二)年四月発行)に「萩原咲二」名義で掲載された。朔太郎満二十三歳。第一首はキリストの捕縛後の情景か。「馬車」というのが私には解せないのであるが。]

空が 凝視(み)てゐる   八木重吉

空が 凝視(み)てゐる

ああ おほぞらが わたしを みつめてゐる

おそろしく むねおどるかなしい 瞳

ひとみ! ひとみ!

ひろやかな ひとみ、ふかぶかと

かぎりない ひとみのうなばら

ああ、その つよさ

まさびしさ さやけさ

 

[やぶちゃん注:「凝視(み)てゐる」の「み」のルビは「凝視」の二字に対して附されてある。]

鬼城句集 冬之部 寒雀

寒雀    枯枝に足踏みかへぬ寒雀

2014/01/25

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 六代御前墓 

    ●六代御前墓

田越川邊小名柳作に在り、塚の高さ五間、上に槻樹あり、圍二丈餘、樹陰に碑を建(たて)、六代御前墓と銘す、近き頃水戸の士齋藤仁左門の建る所なり、側に五輪の舊碑ありしも今は破壞す、六代は小松三位中將維盛の嫡男なり、文治元年十一月二十一日北條時政に虜(りよ)せられ、已に誅せらるべきを、文覺上人師弟の昵みある由を以て、再三請ふ是に依(よつ)て暫く宥められ、則上人に預けらる、是より高雄山に居住剃髮して、三位禪師と號し、法名妙覺と云、文覺流罪の後又た召捕られ、當所にて誅せらる事は平家物語に詳なり。但異本平家物語には〔中院本〕鎌倉六浦坂(むつらさか)にて誅せらると云、保曆間記には芝と云ふ所なりと記す。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げでポイント落ち。]

平家物語曰、六代御前は三位禪師とて、高雄の奥に行すまして御座しけるを、鎌倉殿さる人の子なり、さる人の弟子なり、假令頭を剃玉ふとも、心をば剃り玉はずとて、召捕ふて失ふべき由、公家へ奏聞申されたりけれは、頓て判官助兼に仰て、召捕ふて關東へそ下されける、駿河國の住人岡部權守安綱に仰て、相摸國田越川の端にて、遂に切られにけり。十二の年より三十に餘るまで保ちたるは、偏に初瀨の觀音の利生とそ聞へし。平家物語中院本曰、六代御前の事、右大將も御かくれありぬ、又文覺も流され給て後、鎌倉に其沙汰ありて、平家の正統なり、文覺坊もなし、打捨て難しとて、官人助高に仰て搦取て、駿河國の住人岡部三郎太夫か手にかけて、鎌倉の六浦坂にて、二十九の年終に斬られ給ひぬ、十二の年より二十九まで活けるは、長谷寺の觀音の御計ひにそ覺えたる、夫よりしてぞ、平家の子孫は、斷えにける、保曆間記に曰、正治元年四月、高雄文覺坊土佐の國へ流さる彼聖に預置れし六代殿、出家して山々寺々修行せられけるを、世の末になる事も有べしやとて、尋ね出し鎌倉へ下し進じで、芝と云ふ所にて被誅畢りぬ。按ずるに當所墳墓あるは。平家物語に記す所是なるべし。

[やぶちゃん注:「六代御前」は平高清(承安三(一一七三)年~建久十(一一九九)年)。平重盛嫡男維盛の嫡男で平清盛曾孫。六代は幼名で平正盛から直系六代に当たることからの命名。「平家物語」の「六代斬られ」等、「平六代」で記載されることが殆どである。寿永二(一一八三)年の都落ちの際、維盛は妻子を京に残した。平氏滅亡後、文治元(一一八五)年十二月、母とともに.嵯峨大覚寺の北の菖蒲谷に潜伏しているところを北条時政の探索方によって捕縛された。清盛直系であることから鎌倉に護送・斬首となるはずであったが、文覚上人の助命嘆願により処刑を免れて文覚預りとなった。文治五(一一八九)年に剃髪、妙覚と号し、建久五(一一九四)年には大江広元を通じて頼朝と謁見、二心無き旨を伝えた。その後は回国行脚に勤しんだが、頼朝の死後、庇護者文覚が建久十(一一九九)年に起こった三左衛門事件(反幕派の後鳥羽院院別当たる土御門通親暗殺の謀議疑惑)で隠岐に流罪となるや、六代も捕らえられて鎌倉へ移送、この田越川河畔で処刑された。享年二十七歳であった。没年は建久九(一一九八)年又は元久二(一二〇五)年とも言われ、斬首の場所も「平家」諸本で異なっている(以上は主にウィキの「平高清」を参照した)。彼及び御最期川(現在の田越川)については「新編鎌倉志卷之七」の「多古江河〔附御最後川〕」及び「六代御前塚」の条と私の注を参照されたい。

北條九代記 大炊渡軍 付 御所燒の太刀 承久の乱【十六】――幕府軍、尾張一の宮に着き布陣、武田・佐々木両将の元へ官軍への参入を求める院宣を持参した院使来訪するも殺傷す。武田、武藤新五に命じ、大炊の渡しの瀬踏みをさせる

 

東海道の先陣相摸守時房は、六月五日の辰刻に、尾張國一の宮に著陣して、軍の手分をせられけり。東山道より押上る大將は、武田五郎父子八人を初として、其勢五萬餘騎何も聞ゆる勇士共なり。武田既に本國を出る日は、十死一生とて極(きはめ)たる惡日なり。「如何あるべき。只明日軍立(いくさだち)し給へかし」と申す者多かりけり。武田五郎いひけるは、「何條さる事のあるべき。侍の軍に向ふ程にては命生きて歸るべしとは覺えず。是こそ吉日なれ」とて勇進みて上りしが、既に市原に陣を取る。かゝる所へ院宣の御使とて、武田五郎、小笠原次郎兩人が中へ三人までぞ下されける。「一天の君の思召し立ち給ふ此度の御大事に、爭(いかで)か御敵と成りて内侍所に向ひ奉り、矢を發つべき道なし。只とく東方に參りて朝敵を討ちて奉れ」とありければ、小笠原即ち武田が方へ使を以て、「如何御計ひ候」と云はするに「只切りて捨て給へ」と云ふ。「信光もさこそ思へ」とて三使の中に、二人は首を刎ねて、一人は追放(おひはな)ちて京都にぞ歸しける。武田五郎が郎等に、武藤新五と云ふ者あり。水練の達者なり。「大炊渡(おほひのわたり)瀨蹈(せぶみ)して見よ」と云ひければ「畏(かしこま)り候」とて渡の瀨蹈仕果(しおほ)せて歸り乗る。「河の西の岸極て高く、輒(たやす)く馬を扱ひ難く、水底(すゐてい)七八段(たん)に菱を種(うゑ)流し、亂株逆茂木(らんぐひさかもぎ)を打ちて候を、馬四五疋を上げ候程菱を取捨て亂株を払捨て、驗(しるし)を立てて置きたり」と申す。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【十六】――幕府軍、尾張一の宮に着き布陣、武田・佐々木両将の元へ官軍への参入を求める院宣を持参した院使来訪するも殺傷す。武田、武藤新五に命じ、大炊の渡しの瀬踏みをさせる〉

「武田五郎」武田信光(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)。既注であるが再掲する。甲斐源氏信義の子。治承四(一一八〇)年に一族と共に挙兵して駿河国に出陣、平家方を破る。その後、源頼朝の傘下に入って平家追討戦に従軍した。文治五(一一八九)年の奥州合戦にも参加するが、この頃には安芸国守護となっている。その後も阿野全成の捕縛や和田合戦などで活躍、この後の承久の乱の際にも東山道の大将軍として上洛している。弓馬に優れ、小笠原長清・海野幸氏・望月重隆らとともに弓馬四天王と称された。当時五十七歳(以上は「朝日日本歴史人物事典」及びウィキの「武田信光」を参照した)。

「十死一生とて極たる惡日」現在の暦注にも残る十死日(じっしび)のこと。陰陽道で、総てに大凶とする日で、特に戦闘・嫁取り・葬送に悪いとする。

「小笠原次郎」小笠原長清(応保二(一一六二)年~仁治三(一二四二)年)。甲斐源氏の一族加賀美遠光次男。信濃守護家小笠原氏の、また特に弓馬術礼法小笠原流の祖として知られる。先の武田信光とともに弓馬四天王の一人。

「七八段」「段」は「反」と同じで距離単位。一段(反)は六間(約十一メートル)であるから、七十七~八十八メートル。

 以下、「承久記」(底本の編者番号38~40のパート)の記載。

 六月五日辰時ニ、尾張ノ一宮ニ著テ、軍ノ手分ヲセラレケリ。大炊ノ渡へハ東山道ノ手向ハンズレバトテ、鵜沼ノ渡へハ毛利藏人入道、板橋へハ狩野介入道、氣ガ瀨へハ足利武藏守前司、大豆ノ渡へハ相模守時房、墨俣へハ武藏守・駿河守殿被レ向ケル。

 東山道ニ懸テ上ケル大將、武田五郎父子八人・小笠原次郎親子七人・遠山左衞門尉・諏方小太郎・伊具右馬人道・南具太郎・淺利太郎・平井三郎・同五郎・秋山太郎兄弟三人・二宮太郎・星名次郎親子三人・突井次郎・河野源次・小柳三郎・西寺三郎・有賀四郎親子四人・南部太郎・逸見入道・轟木次郎・布施中務丞・甕中三・望月小四郎・同三郎・兩津三郎・矢原太郎・鹽川三郎・小山田太郎・千野六郎・黒田刑部丞・大籬六郎・海野左衞門尉、是等ヲ始トシテ五萬餘騎、各關ノ太郎ヲ馳越テ陣ヲトル。

 其中に武田五郎、國ヲ立家ヲ出ル日、十死一生卜云フ惡日也。跡ニ留ル妻子ヲ始トシテ有ト有物、「今日計ハ留ラセ給ヒテ、明日立セ給へカシ」ト申ケレ共、武田五郎、「何條サル事ノ可レ有ゾ。タトヘバ十死一生トハ、多ク出テ少ク歸ルトゴサンナレ。軍ニ出ルヨリシテ、再ビ可ㇾ歸トハ不ㇾ覺。是コリ吉日ナレ」トテ、軈テ打立ケル。

 市原ニ陣ヲトル時ニ、武田・小笠原兩人ガ許へ、院宣ノ御使三人迄被ㇾ下タリケリ。京方へ參卜也。小笠原次郎、武田ガ方へ使者ヲ立テ、「如何ガ御計ヒ候ゾ。長淸、此使切ントコソ存候へ」。「信光モサコソ存候へ」トテ、三人ガ中二人ハ切テ、一人ハ、「此樣ヲ申セ」トテ追出ケリ。武田五郎、子共ノ中ニ憑タリケル小五郎ヲ招テ、「軍ノ習ヒ親子ヲモ不ㇾ顧、マシテ一門・他人ハ申ニヤ及。一人拔出テ前ヲカケ、我高名セント思フガ習ナリ。汝、小笠原ノ人共ニ不ㇾ被ㇾ知シテヌケ出テ、大炊ノ渡ノ先陣ヲセヨト思ハ如何ニ」。「誰モサコソ存候へ」トテ、一二町拔出テ、野ヲフムヤウニテ、其勢廿騎計河バタヘゾ進ケル。武田小五郎ガ郎等、武藤新五郎卜云者アリ。童名荒武者トゾ申ケル。勝レタル水練ノ達者也。是ヲ呼デ、「大炊ノ渡、瀨蹈シテ、敵ノ有樣能見ヨ」トテ指遣ス。新五郎、瀬ブミシヲホセテ歸來テ、「瀬蹈コソ仕テ候へ。但、河ノ西方岸高シテ、輙ク馬ヲアツカヒ難シ。向ノ岸渡瀨七八段ガ程、菱ヲ種流シ、河中ニ亂株打、ツナハヘ、逆茂木引テ流懸、四五段ガ程、菱拔捨テ流シヌ。綱キリ逆茂木切テ、馬ノアゲ所ニハシルシヲ立テ、其ヲ守へテ渡サセ給へ」トゾ申ケル。武田小五郎、先ザマニ存知シタリケレバ、河ノハタへ進ム。]

栂尾明恵上人伝記 69 我が死なんずることは、今日に明日を繼ぐに異ならず

 同三年十月〔辛寅〕より所勞の氣(け)ありて不食(ふじき)に成り給ふ。上人語りて云はく、我が身に於いて、今は世間出世に付きて所作なし。存命(ながらへ)て久しくあらば、還て諸人の諍(あらそひ)を增すべし。云ふ所の法門は一々に人に似ず。佛説は三科・薀(うん)・處(しよ)・界(かい)の法門も人我無生の理を顯して、凡夫の我執(がしう)を翻せんが爲なれども、是を習ひながらますます我見を增長す。大乘無相(むさう)・無生(みしやう)の妙理、五法三性(しやう)の法門、又越(おつ)百六十心生廣大功德(しんしやうくわうだいくどく)と説き、本初不生阿字(ほんしよふしやうあじ)の密行(みつぎやう)、本尊の瑜伽(ゆが)も、徒に名相妄想(めいさうまうぞう)の塵(ちり)に埋もれて、空しく名利の棘(いばら)に隱れたり。聞くと聞く處佛法を囀(さへづ)るに似たれども、併(しかしなが)ら邊に住し邪に止りて、正慧(しやうゑ)の門戸(もんこ)開けたる詞(ことば)を聞かず。是を制して捨てしめば、名字の教法猶皆絶えぬべし。是を依止(えし)して尋ねんとすれば、佛道の直路(ぢきろ)すべて入門を知らず。佛道入り難く知識あひ難しと云ふこと、誠なるかなや悲しむべし、若し證果(しやうくわ)の聖者たらば、今は彼の阿難尊者の、若人生百歳不見衰老鶴(にやくにんしやうひやくさいふけんすゐらうかく)の偈(げ)を聞いて、入滅せしが如くに、入滅してまし。倩(つらつ)ら此の如き事を思へば、彼の法炬陀羅尼經(ほふこだらにきやう)の中に、過去十四億の如來に親近(しんごん)し奉ると云へ雖も、法を得ざる菩薩ありと説ける、誠に理(ことわり)なりと覺ゆ。何れの世何れの生にか佛法の大意を得、如來の本意を知るべきや。十惡(じふあく)國に充ちて、賢者世を捨つる時は、山河併て其の濁(にごり)に染(そ)みて、國も國にあらず。然れば今は佛法も佛法にあらず、世法も世法にあらず。見るにつけ聞くに觸れても心留るべきに非ざれば、死せん程はよき期也。我が死なんずることは、今日に明日を繼ぐに異ならず。又人の大きなる所知庄園を得て出立する樣に覺ゆ。生處分明(しやうしよぶんみやう)なり。聖教の値遇、聞法の益、決定(けつぢやう)して疑なし。豈又千聖(せんしやう)の遊履(いうり)し給ふ處、知らざるにあらんやと云々。

[やぶちゃん注:ここにあるのは当時の(そしてより今の)仏教界宗教界のみならず現実世界への痛烈な指弾であると同時に、明恵の「あるべきやうは」というゾルレンの思想基づく、確信犯としての来世の還想回向の期待に満ち満ちてている。そしてそれがこの「我が死なんずることは、今日に明日を繼ぐに異ならず」という覚悟の確信の言葉となって出現しているのである。

「同三年」寛喜三(一二三一)年。明恵満五十八歳、入滅の前年。

「世間出世に付きても所作なし」俗世間の問題についても、また、現状の仏教界に於いても、やらねばならぬことは最早、なくなった。

「一々に人に似ず」それを聴いた人毎にその受け取り様はみな違っている。

「三科・薀・處・界」。「三科」は、以下の仏教に於ける一切法(この世に存在する一切のもの。この世界を世界たらしめているシステム)を分類した五蘊・十二処・十八界の三範疇を指す。五薀は色(しき)蘊(本来は人間の肉体を意味したが後に総ての物質の存在様態を包括する謂いとなった)・受蘊(感受作用)・想蘊(表象作用)・行蘊(意志作用)・識蘊(認識作用)を指し、十二処は感覚器官の認識作用で、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)意(い)の「六根」に、どの「六根」の対象(前項に順に対置する)であるところの色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)の「六境」を加えたものを指す。十八界は、この「十二処」に認識作用としての「六識」(やはり前掲に順次対置)眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識を加えたものをいう。]

耳嚢 巻之八 廻文章句の事

 廻文章句の事

 

 文化の頃、俳諧の點者に得器といゝて滑稽の頓才なる有(あり)しが、田舍渡(わたり)せしころ、奉納の額に梅を畫て、お德女の面をかきしを出して、是一讀せよと申けるゆゑ、一通りにては面白からじと、即興に廻文(くわいぶん)の發句せし。

  めんのみかしろしにしろしかみのむめ

 達才の取廻しともいふべきか。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:和歌技芸譚から俳諧技芸譚へ。

・「文化の頃」「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏。因みに文化は十五年(一八一八)年までで同年に文政に改元している。

・「廻文」回文。和歌や俳諧などで上から読んでも下から逆に読んでも同じ音になるように作ってある文句。かいもん。

・「得器」方円庵得器。神田お玉ヶ池在住の江戸座の中の談林派俳諧に属した宗匠島得器。底本鈴木氏の注に『寛政ごろ活躍』したとある。

・「田舍渡」俳諧師の営業法の一つで、岩波版長谷川氏注には『田舎をまわり、揮毫や俳諧の指導などをし歩くこと』とある。

・「お德女の面」底本鈴木氏の注に、『原本には、本ノママと傍書あり(三村翁)。尊経閣本「お福女の面とある』とあるから、所謂、お多福の面である。

・「めんのみかしろしにしろしかみのむめ」は、

 面のみか白しに白し神の梅

である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 回文(かいもん)章句の事

 

 文化の頃、俳諧の点者にて方円庵得器(ほうえんあんとっき)と申し、滑稽の頓才が御座ったが、田舎渡りを致いて御座った頃のこと、とある地方の社(やしろ)にて、奉納の額にて、梅を描いたものにお多福の面を添え書きしたものを出だされて、

「これに一句詠まれよ。」

と申しつけられたによって、

「――これ――ただ一通りの発句にては、面白う御座るまい。」

と、即興に回文(かいもん)の発句をものしたと申す。

  めんのみかしろしにしろしかみのむめ

 いや、なかなかに達者なる才気の執り成しともいうべきものにて御座ろうか。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 2 市中嘱目1

M299
図―299

 

 今日、五月五日には、男の子の祭礼がある。この一事に就ては既に述べた。私は空中に漂う魚を急いで写生した。風が胴体をふくらませ、魚は同時に、まるで急流をさかのぼっているかの如く、前後にゆれる。一年以内に男の子が生れた家族は、この魚をあげることを許される(図299)。

[やぶちゃん注:「この一事に就ては既に述べた」『「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 13 鯉の滝登りの絵 / 端午の節句とこいのぼり』を参照されたい。]

M300

図―230

 

 男が小さな荷物を頸のまわりにむすびつけ、背中にのせたり、顎の下にぶら下げたりしているのは奇妙である(図300)。彼等は必ず、我国の古風なバンダナ〔更紗染手巾〕か、包ハンケチに似た四角い布を持っていて、それに包み得る物はすべてひっくるむ。私は一人の男が、彼の衣服のひだから、長さlフィートの包を引き出すのを見た。

[やぶちゃん注:「バンダナ」“bandanna”。底本では直下に石川氏の『〔更紗染手巾〕』という割注が入る。失礼乍ら今や最早、化石のような割注である。

「lフィート」三〇・四八 センチメートル]

 

  去年の六月に私が来た時と、今(五月)とは、景色がまるで違う。稲の田は黒いが、あちらこちらにに咲く菜種のあざやかな黄色の花に対して、よい背地をなしている。菜種からは菜種油をとる。桜と李が沢山あって、そして美しいことは驚くばかりであるが、而もこれ等の花の盛りは、すべて過ぎたのだそうである。我国の林檎の木ほどの大きさのある椿の木には、花が一面についていて、その花の一つ一つが、我国の温室にあるものの如く大きくて完全である。小さな赤い葉をつけた矮生の楓樹は、庭園の美しい装飾である。葉は緑になる迄、長い間赤いままである。野や畑は、色とりどりの絨氈のように見える。何から何までが新鮮で、横浜、東京間の往復に際して景色を眺めることは、絶間なきよろこびである。

 

 日本人がいろいろに子供の頭を剃ることは、我々がいろいろに我々の顔を剃る――髭(くちひげ)だけで鬚(あごひげ)が無かったり、鬚だけで髭が無かったり、両方の頰髭(ひげ)を残して顎を剃ったり、顎だけに小さな鬚(ひげ)をはやしたり、物凄く見せかける積りで、頰髭を両方から持って来て、髭を連結させようとしたりする――ことが、彼等に奇妙に思われると同様、我々には奇妙に思われる。莫迦(ばか)げている点では、どっちも大差はない。

M301

図―301

 

 図301は大工の長い鉋(かんな)で、傾斜をなして地面に置かれ、他端は木製の脚立にのっている。鉋をかけらるべき木は、鉋の上を前後に動かされるのだが、常に大工の方に向って引張られる。旅行家が非常に屢々口にする、物事を逆に行うことの一例がこれである。鉋の代りに木を動かし、押す代りに手前へ引き、鉋それ自身はひっくり返っている。

[やぶちゃん注:私はどう考えてもモースは誤解していると思うのだが……こんな置いて用いる巨大な据え付け型鉋が存在するというのはちょっとわつぃは聴いたことがないのである。識者のご教授を乞う。]

M302

図―302

 

 先日私が見た抽斗(ひきだし)が四つある漆塗の箱は、抽斗に取手がまるで無いという、変な物であった。抽斗がぴったりとはまり込んだ無装飾の、黒くみがき上げた表面があるだけなのだが、抽斗の一つを開けるには、開け度いと思う分の上か下かの抽斗を押すと、それが出て来る。抽斗の背後に槓杆仕掛(てこじかけ)があって、それによって抽斗はどれでも出て来ることが出来るのである(図302)。

[やぶちゃん注:「槓杆仕掛(てこじかけ)」原文“A lever device”。所謂、「からくり箪笥」と呼ばれるもの。同ワードで検索をかけるとなかなかに面白いものが陸続と出ますぞ!]

中島敦 南洋日記 十二月十日

        十二月十日(水) 晴

 午前十時、武德殿にて長官の訓示あり。急に、御用船鎌倉丸便乘と決る。高里氏は後に殘ることとなる。大急ぎで支度。ニュースによれば、パラオ港外にて敵潛水艇一隻を撃沈せりと。この航海相當に危險ならんか? 午後四時乘船。流石に巨船なり。乘船後のニュースによれば、シンガポールにて、我が海軍機、敵戰艦二隻を撃沈せりと。又曰く、本日、敵飛行機十パラオ空襲、但し全部撃墜さると。

 甲板上に群がる鮮人人夫。女、幼兒、十二月の朝鮮より來りしものとて、皆厚着せり。板の上に死物の如く伸び横たはれる子持の女。

[やぶちゃん注:「十二月の朝鮮より來りしもの」当時、朝鮮は日韓併合によって朝鮮総督府の統治下に置かれていたが、この頃の日本政府は未開発である朝鮮半島の開発に力を入れ、開発工事や運営の主な労働力を朝鮮人に求めることで雇用を創出、これにより朝鮮人の海外への流失を抑制し、日本本土への流入も抑えて本土の失業率上昇や治安悪化をも防止しようとしていた(この部分、ウィキの「日本統治時代の朝鮮」の「概要」を参照した)。この南洋にやってきた朝鮮人の人々は日中戦争による治安の悪化を避けるためとも思われるが、いわばそうした本土外移民の積極政策の一環であったともとれるように思われる。]

杉田久女句集 31 洗ひ髮かわく間月の籐椅子に

洗ひ髮かわく間月の籐椅子に

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年 天神祭

 天神祭

 

渡御まちぬ夕の赤光河にながれ

 

渡御の舟みあかしくらくすぎませる

 

[やぶちゃん注:大阪天満宮の天神祭であろう。同宵宮は七月二十四日、本宮は七月二十五日であるが、船渡御(ふなとぎょ)の景であるからこれらの句は昭和一二(一九三七)年七月二十五日に特定出来る。]

萩原朔太郎 短歌八首 明治四三(一九〇二)年一月

ばらばらとせまき路次より女どもはしりかかりぬにぐるひまなし 蒼、修、賢

 

たのしされどやや足らはぬよ譬ふれば序樂をきかぬオペラみるごと 

 

夕さればそぞろありきす銃機屋のまへに立ちてはピストルをみる 

 

死なんとて蹈切近く來しときに汽車の煙をみて逃げ出しき 

 

始めての床に女を抱く如きものめづらしき怖れなるかな 萬、賢

 

春の夜は芝居の下座のすりがねを叩く男もうらやましけれ 蒼、蕭、萬、晶、賢

 

祭の日寢あかぬ床に寺寺の鐘きく如きもののたのしさ 晶、萬、蒼、啄

 

ひるすぎの HOTEL の窓に COCOA のみくづれし崖のあかつちをみる 萬、修、修、賢

 

[やぶちゃん注:『スバル』第二年第一号(明治四三(一九〇二)年一月発行)に「萩原咲二」名義で掲載された。朔太郎満二十三歳。底本筑摩版全集の編者注によれば、各首の下は選者の略称で、『蒼(大井蒼梧)・修(平出修)・賢(川上賢三)・蕭(茅野蕭々)・萬(平野萬里)・晶(與謝野晶子)・啄(石川啄木)』とある。複数個は秀逸点か。以下、選者歌人のデータを示す。

・大井蒼梧(明治一二(一八七九)年?~昭和一二(一九三七)年)

・平出修(ひらいでしゅう 明治一一(一八七八)年~大正三(一九一四)年):弁護士で小説家・歌人。大逆事件の弁護人として知られる。

・川上賢三:明星以来の同人か。モ—パッサン「農夫の妻」の訳などがあるから仏文出身である。

・茅野蕭々(ちのしょうしょう 明治一六(一八八三)年~昭和二一(一九四六)年):ドイツ文学者で歌人。長野県生で本名儀太郎、初号は暮雨。東京帝大卒。明星派新進歌人として注目された。『明星』廃刊後は白秋・啄木らと『スバル』に作品を発表した。三高・慶応大学・日本女子大学教授を勤めた。著作に「ゲョエテ研究」「独逸浪漫主義」、訳書に「リルケ詩抄」など(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

・平野萬里(ひらのばんり 明治一八(一八八五)年~昭和二二(一九四七)年)は歌人・詩人。埼玉県生。明治三四(一九〇一)年、郁文館中学卒業の年に新詩社入社、翌年九月に一高へ入学、明治三十八年、東京帝大工科大学応用化学科に進んだ。『明星』に短歌・詩・翻訳などを多数発表している。明治四〇(一九〇七)年に歌集「わかき日」を刊行、翌年に大学を卒業後は横浜でサラリーマンとなり、明治四十三年には満鉄中央試験所技師として大連に赴任した。その間、『明星』廃刊を受けた『スバル』創刊に尽力、同誌にも小説・戯曲を発表している。大正の初めには三年ほどドイツに留学して帰国後には農商務省技師となり、昭和一三(一九三八)年に商工省を退官するまで勤めた。大正前期に作歌を一時中断したが、大正一〇(一九二一)年の第二次『明星』創刊の参画から与謝野夫妻の没するまで鉄幹・晶子と相い伴うように協力同行して作品を発表し続けた(以上はウィキの「平野里」に拠る)。

・與謝野晶子(明治一一(一八七八)年~昭和一七(一九四二)年):この時、『スバル』発刊(明治四二(一九〇九)年。終刊は大正二(一九一三)年)の翌年で、当時満三十二歳。

・石川啄木(明治一九(一八八六)年~明治四五(一九一二)年):当時は『東京朝日新聞』校正係をする傍ら、『スバル』創刊発行名義人として尽力した他、前年の初旬に終えた「二葉亭全集」の校正以後、同全集の出版事務全般をも受け持っていた。この年の八月下旬には評論「時代閉塞の現状」を執筆している。当時満二十四歳。]

霧が ふる   八木重吉

霧が ふる

きりが ふる

あさが しづもる

きりがふる

鬼城句集 冬之部 海鼠

海鼠    市の灯に寒き海鼠のぬめりかな

[やぶちゃん注:海鼠フリークの私からすると世にある海鼠の句の中では秀逸の一句と存ずる。]

2014/01/24

ブログ・アクセス540000記念 濁流   火野葦平

たった今(540000アクセスは2014年1月24日PM8:50)、ブログは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、遂に540000アクセスに達した(ライヴ記述)。アクセス者は

2014/01/24 20:54:58

のユニーク・アクセス

「Blog鬼火~日々の迷走: 「相棒」season9第8話「ボーダーライン」という救い難い悲哀」

を見に来たあなた。どうか、幸いあれ。

合わせて記念テクストを以下に配す。


   濁流   火野葦平

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。本テキストは僕のブログのアクセス540000突破記念として公開した。藪野直史【2014年1月24日】]

 

 すさまじい雨のあと、裸山をすべりだした水は各所からその矛先をあつめると、あふれたつ濁流となつて、いたるところの堤防を決潰(けつくわい)した。大地の坤吟(しんぎん)するやうな轟音(がうおん)が渦卷く流れの底に鳴りはためいて、田も畑も家も林も埋沒されるころには、人間も動物もつねに悲劇がその構成の要素として來た自然の法則をもはや怒ることも笑ふこともできなくなつてゐたのである。家は根こそぎ持ちあげられて、松茸の笠のやうな屋根がぶかぶかと幾つも浮いて流れ、疊や、板戸や、金盥(かなだらひ)や、鍋蓋や、洗面器や、簞笥のひきだしや、帽子や、下駄や、襖や、表札や、手紙や、新聞紙や、腰卷や、林木や、樹木や、花びらや、茄子や、蓮の葉や、そして、人間やが、濁流の緩漫にしたがつて、あるところでは自動車の早さで流れ、あるところでは動くともないゆるやかさで流れ、あるところではさういふものが廻り燈籠のやうにくるくると渦を卷いてゐた。境防を洗ふ奔流はしだいにやはらかい土を削りとつて、新な決潰口をつくり、なほも山間からあふれて來る水量を加へ、和紙のうへに亂暴に落した水滴がしみひろがつてゆくやうに、その領域を擴張してやまないのであつた。水とたたかふ人々の努力はつづけられたが、不幸の度合はこれと反比例した。堤防や、丘のうへにはいたるところに俄づくりの部落ができて、塵や襖や簞笥や茣蓙(ござ)などで周圍をかこまれた無天井の家家には、やうやく難をのがれた人々の呆けたやうな顏があつた。これらのドノゴオ・トンカには黄金の夢はもとよりのこと、いかなる種類のよろこびも望みもなかつたことは勿論である。洪水とともにおこつた阿鼻叫喚の聲はとだえたが、その靜(せいひつ)謐の方がさらに陰慘で、魂を拔かれた人間たちの活氣をうしなつた靑い顏はいまは絶望の色で濃く塗られてゐた。夜になると月が出た。晝間はいくらか元氣のあつた人々もたそがれとともに暗い顏色になつて、聲も音もとだえる。暖をとるために水上の屋根でたくかすかな火が狐火のやうに點々とのぞまれる。そして、馬鹿々々しいことに水に追はれた人々がときに水上に火災をおこしたが、その焰のうらさびしさはいひやうもなかつた。また夜になると、ひそひそとかたらふ聲とともに、あやしげな行爲を、浮かんだ屋根の上でする者もあつた。そのうすぎたなさと悲しさはいひやうもなかつた。かくて、人間世界はこの絶望のなかで終るものかとも思はれた。しかしながら、これが錯覺であつたとはあまり時間を置かずして證明された。人間がいかなる場合にもその天性の活氣を顯現するものたることは、まことに歷史的な事實なのであつた。

 洪水によつて當惑し、かつ活氣を失つたのは、むしろこの川一帶に棲息してゐた河童たちであつた。河童は濁水を好まない。またけたたましい流れをも、氣ちがひじみた激流をも好まない。もともと、ときどき角力をとることぐらゐのほかはおふむね荒々しいことからは遠ざかつてゐた河童は、つねはゆるやかな淸流のなかにあつて、肌の美しい魚たちと暮し、かはせみよしきりが鳴いて飛ぶ眞菰(まこも)のなかにしやがんでゐて、雲のゆくへを見たり、水紋の亂舞をながめたり、葦の葉で舟をつくつて幾つも幾つも下流にむかつて流してみたりするのが好きである。馬の蹄(ひづめ)あとの水たまりにも三千匹は樂に棲める河童は、自分のつくつた葦舟に乘つてくだることも容易である。風流は河童の顯著な資性の一つであつた。潔癖な河童たちは漁師たちが網を入れたり、さすまたで蟹をつきに來たりして水底をにごすのさへ氣に入らず、すぐに澄むちよつとの濁りにも、避難したりする。さういふ河童たちが思ひがけぬ川の氾濫(はんらん)と濁流の奔騰(ほんとう)に辟易(へきえき)したことはいふまでもあるまい。かれらは人間たちの不幸などは考へるいとまもないほど、自分たちの不幸のために歎き悲しんだ。しかしながら、ひとたび涙を流せばたらまち靑苔の液體となつて、身體が溶解してしまふきぴしい傳説の掟をおそれて、涙を胸の底にのんだ。數ははつきりわからないけれども、古老の話によれば、この川にゐた河童の数は百匹をくだるまいといふことである。別に頭目も親分も居ず、仲よく暮してゐたこれらの河童たちは、濁流をながめながらただ呆然とためいきばかりついてゐた。あまりに洪水の範圍がひろくて、移住する場所が見つからず、名案はさらに浮かばず、途方に暮れるばかりである。

 もともと暗愚な河童であるから、かれらの才覺のなさを笑つてもよいけれども、かれらが新な天地へ輕々しく轉任し得なかつた理由も考へてやらねばならない。それは故郷たるこの川への愛著にほかならなかつた。狡猾(かうくわつ)に愼重に思案すれば他に場所がないわけでもなかつたが、やはり生まれて育つたこの川を捨てきれなかつた。さうして、おたがひに妙に深刻な目つきでうなづきあひ、この川の澄む日を待つことにした。しかしながら、滔(たう)々たるこの眞赤な濁水が昔の淸澄さにかへるのはいつの日のことであらうか。水かさは減るどころか、床まで來てゐた場所も、疊がつかり、佛壇がつかり、しだいに天井まで濡れてゆくのであつた。河童たちは自分たちの不幸のなかに、たよりないながらも若干の方針がたつと、人間たちの樣子にも眼がとまるやうになり、自分たちと人間たちとどちらが不幸であらうかなどと比較してみる餘裕もできて來た。さうして、自分たちも不幸であるが、人間達の不幸もほぼこれに匹敵するものであることをうなづくことができた。しかしながら、やがて河童たちは人間の活躍に眼をみはりはじめたのである。なかなか氣力の快復せぬ自分たちにくらべて、茫漠たる濁流に浮かぶ人間世界がただならぬ活況を呈して來たからであつた。

 河童たらは日とともに空腹をおばえて來たが、これまでのやうに水中に餌をとる術はなかつた。糞尿をもあはせ流す異樣な臭氣と味のある濁水のなかにゐることができなくて、人氣のない堤防のかげや、根だふしになつて頭だけ水面に出しておる樹木の枝や、浮いてゐる屋根のうへなどに、ちよこんと瘦せた膝を抱いてうづくまつてゐたのであるが、好物の蝦や目高を得る望みはなく、わづかに流れて來る茄子や胡瓜をひろつては露命をつなぐほかはなかつた。實は大好物の尻子玉(しりこだま)が眼前にうるさいほどちらつく。多くの人間たちの屍骸が流され、また底に沈んでゐる。その肛圓から尻子玉を拔くことはきはめて容易で、しばしば食指がうごいたのであるが、決行を躊躇させるなにものかがあつた。それは不幸へのおそれとはにかみ、感情の潔癖、兩者の不幸の鏡が照應しあつたのである。また嗜好としても死人の尻子玉は腐つた蛸(たこ)に似た異臭があり、味も落ちる。そこで河童たちは眼前に尻子玉を見ながらそれに手をつけなかつた。さうして、たまに流れて來る野菜類で空腹をしのいでゐたのであるが、日が經つにつれて、自分たちの不幸と人間たちとの不幸の均衡(きんかう)へしだいに疑惑の心が兆(きざ)して來た。

 いかなる活氣であらうか。濁流のうへは騷然として來た。堤防のドノゴオ・トンカから水上の屋根々々へ幾隻もの小舟が往還しはじめた。食糧がはこばれる模樣である。また水上の家から荷物がはこびだされる。屋根のうへに蒲團を敷いて暮してゐる人間が舟を呼ぶ。舟は濁水の湖の上を右往左往する。モーターボートまで走る。メガホンでどなつたり、笛を鳴らしたり、鉦(かね)をたたいたりしてゐる。屋根にとりのこされてゐた人間たちに生色がよみがへつて、舟が來て去つたあとは、けたたましくなにか喚(わめ)きながらもぐもぐ口を動かしてゐる。月光の下で、湖上の夜の燈もにはかにあかあかと篝火のやうに燃えたつた。夜もなにごとか休みない蠢動(しゆんどう)がつづけられてゐる。

 かういふ樣子を見てゐて、河童たちは羨望の念にたへなくなつて來た。もはや人間の不幸が自分たちとはぼ同等と考へるわけにはいかなくなつた。救援の手がさしのべられて、人間はあきらかに不幸と訣別しはじめたと思はれた。そのことはいつか孤獨の寂寥をさそひ、ただ、いつ引きいつ澄むとも知れぬ赤い流れを見て歎息するばかりである。

 ところが、河童たちは不思議なものを見つけた。舟は晝夜の別なく茫洋たる濁水の湖に、出沒したが、人間たちは奇妙なことをしてゐた。軒までつかつてゐる家の屋根の下をつたひながら行く傳馬船のなかは、いつかきまざまな荷物で一杯になる。眼のするどい數人の屈強の男が乘つてゐた。また屋根だけしか出てゐない家に舟をつけると、男たちは褌(ふんどし)ひとつになる。姿が水中に消える。しばらくするといろいろな品物をたづさへて浮きあがつて來、舟に乘る。濡れた百圓紙幣を一枚一枚ひろげて舟の舳(へさき)や艫(とも)の板張にならべることもある。乾かすのであらう。河童たちはあきれた。自分たちでさへ忌(い)みきらつて入ることを好まない濁水にもぐるとは、いかなる性の者であらうか。彼等が自家の品をとりだしてゐるのでないことは、ところきらはず誰もゐない家々ばかりを狙ふのでわかる。彼等の一人はいつも見張りに立つてゐて、危險を知らせる。水中にぼつんと浮かんでゐる屋根に人間が殘つてゐる。堤防から來た救護船が避難所へ案内しようといつても動かない。荷物の番をしてゐるのだといふ。その荷物は無論屋根から下の水中にあるのである。水賊たちはさういふ場所も遠慮しない。彼等の手にはたいてい短刀か拳銃かがある。一人が張り番の男をしばりあげ、他の連中が水中にもぐつて荷物を盜みだす。水賊船同志が掠奪戰を演じるときもある。また大勢が屋根や二階に殘つてゐるところへは食糧船が行く。罹災者が欲しいものを賣つて金を拂はうとすると、値段をいはない。おぼしめしで結構といふ。少い金を出すと品物を持つてかへるといひ、法外の代金をまきあげる。水上を往き來するものは舟だけではない。筏(いかだ)に盥。これが交通機關である。亂雜に丸太を五六本組んだ筏、これも速製の筏屋がべらぼうな値で賣りつけてゐる模樣。これらの逞(たくま)しい人物どもはさらに河童をおどろかせた。流れて來る土左衞門も彼等からのがれることはできなかつた。屍骸を舟に引きあげて、その懷をさぐり、着物をはがせると、また水のなかに投げこんだ。或る者は口をくだいて金齒をとることもあり、美しい女の裸體に奇妙なしぐさをしてゐることもあつた。

 かういふ状況を見てゐて、すこしづつその意味を理解しはじめると、河童たちはしだいに怒りに燃えて來た。怒りといつてはあたらないかも知れない。河童がなにもつねに正義人道の信奉者であつたこともなければ、罪惡を仇敵硯する修身の先生であつたこともない。河童の感じたのはまづ自分たちのお人よしから來る照れくささ、はにかみ、情なさ、はぐらかされた反撥、不幸と不幸との照應といつたんはうなづいたひとりよがりな自己陶醉への自嘲、おさへにおさへてゐた生理の反射作用、活氣の傳染――いはばさういふ内面の葛藤(かつとう)がいつか怒りのやうな(裏がへせば復讐のよろこびともなるやうな)荒々しい感情となつて、河童たちに生氣をふきこんだのである。沈滯してゐた河童たちは突如として氣ほひたつと、果敢な行動にうつつた。とはいへ、つまりはこれらの水賊や闇屋たちを得意の角力で投げたふして、その生きた尻子玉にありつかうといふ魂膽にほかならない。

 河童は水賊のかくれがにしてゐる堤防のかげに姿をあらはした。そこには水門があつたのであるが、はるか水の下になつて、いくつも卷貝のやうにほげた渦卷がはげしい速度で廻轉してゐた。ぎよろりと眼の光る赤ら顏の、手の大きな人間はおつといふやうな顏をした。それから河童の角力の申し入れをきくと、鷹揚にうなづいて、では一番といつてお辭儀をした。河童はおどろいた。閉口した。傳説の掟のきびしさは氷もただならぬ冷徹さである。いかなる結果を生ずるともその掟にそむくことはできない。人間がお辭儀をすればこちらもそれにならはなくてはならない。それは禮儀ではない。規律である。河童は苦痛の面持で頭を下げた。傾いた頭の皿から水がこぼれ落ちた。皿の水は河童の力の根源である。水の半(なかば)を失つた河童は力の半を喪失した。肩のあたりの筋肉がゆるみ、ふんばつた膝頭が浮き、腰がゆらめくのを感じた。取り組むと同時に、人間からしたたかに投げとばされ、甲羅にひびが入ると、腦震蕩(なうしんたう)をおこして人事不省となつた。そのまま濁流に落ちたが、死んだ河童が溶けたので、赤かつた卷貝模樣の渦がしだいに靑味を帶びて來た。

 つぎつぎに河童たらは人間に角力をいどんだ。さうしてつぎつぎに先陣の河童と同じ運命に落らた。或る者は皿の水は失はなかつたが、手を引き拔かれて敗けた。河童の手は右左つづいてゐるので、どちらかを強く引くと拔けてしまふのである。河童が案山子(かかし)と親戚であることは古典が證明してゐる。古事記に書かれた多くの神々のうち、五穀を司つてゐた山田の曾富騰(そほと)こそ河童の祖先なのであつて、その子孫に心がけの惡い者があつたため、山に追はれては山姥となり、川にくだつては河童になり、田にのこつては案山子となつたことは天下周知のことである。手を拔かれては勝負にならない。また或る者は唾をはかれて眼がつぶれ、赤褌をされて力が拔け、相手に佛飯を食べて來られて腰がくじけた。河童たちの最初の計畫はかくしてことごとく畫餅(ぐわべい)に歸していつたのであるが、それにしてもこの不覺はいかなる理由によるものか。河童の敵が人間の唾であり、赤褌であり、佛飯であるといふことを、つまりさういふ祕密な傳説の掟をどうして人間たちが知つてゐるのであらうか。河童の挑戰を知つた人間どもがさういふことを研究したのであらうか。それとも偶然の一致なのだらうか。不幸をも無視し、惡徳の逞しい實踐者となつたこれらのえせニヒリストたちは、また傳説をも乘り超える兇惡無殘さを持つてゐるのであらうか。まこと彼等の醜惡さはかぎりがない。

 しかしながら、河童たちはかういふ活氣にあふれた人間たちの尻子玉の味のよさもよく知つてゐるのである。鯉の卵のやうに脂ぎり、齒ぎれもよく、こくがあつて、一個食べれば優に一ケ月は保つのである。河童たちは死力をつくして、これを得るためにたたかつた。さすれば河童たちの賤しさも醜惡さも、これらの人物たちと大した逕庭(けいてい)もないといふべきか。ともあれ、いまは戰ひが、つまりどちらが勝つかといふ問題があるだけであつた。さうして河童たちはその悲壯な決意と努力とにもかかはらず、ことごとく人間からうち敗かされて、あへない最期をとげたのである。水賊と闇屋たちとはなほも晝夜の別なく、悠々として濁水の湖を跳梁跋扈(ていりやうばつこ)した。殘る河童たちはなんとかして所期の目的をはたさんと、きらに盡力するところがあつたが、最期には彼等に近づくことすらできなかつた。敵が戰慄すべき呪文(じゆもん)をとなへるやうになつたからである。

 ――いにしへの約束せしを忘るなよ、川絶ち男氏(うぢ)は菅原。

それは彼等の祕密はすべて洩れてゐる。その昔、菅原道眞が築紫へ流される折、さやうなやんごとなき人とは知らぬ仲間の一匹が、いたづらをしかけて取りひしがれ、そのとき以來、菅公の名をいはれれば近づくことのできぬ掟ができた。かくて敵どもがことごとく調伏の呪文を知つてゐるとすれば、河童どもの手段はここに盡きたのである。かくと悟つて河童たちは無念さに泣いた。その無念さは單に人間どもの絢爛(けんらん)たる尻子玉を得ることができなかつたことばかりではなく、傳説の掟のあまりのきびしさ、冷たさ、そしてその恐しさに泣いたのである。泣くことはまた禁令の一つである。濁水に棲息する場所を失つて、あやふく外部に洩らしさうになつた涙を胸のうちにのんだ河童も、いまはすでにその忍耐をうしなつた。いかなる忍耐にも限度がある。がんじがらめの掟づく、掟があまり嚴としてゐる故に、最期の犧牲者は實直な河童にほかならなかつた。

 河童たちは泣いた。その慟哭(どうこく)のこころよさに、いまは掟の存在もうち忘れた。そして、法則にしたがつて、靑いどろどろの液體となつて溶けて果てた。その前に戰ひやぶれた河童も、後に悲しみで溶けた河童も、おなじく液體となつて濁水のなかに混じた。河童の體液は色名帳のなかにもない色、強ひていへば河童色といふほかはない、濃綠の、媚茶(こびちや)まじりの、胡粉が浮いた、色素の厚いものであつて、普通の場所で溶けたならば、その土は腐り、作物も死し、その色とにほにひとが永く消えないのであるが、滿々たる濁流の水量のなかではものの數ではなかつた。幾つかの山々から流れだして來て、大河を氾濫させたすさまじく赤い水のなかにたらまち吸收されて、その色さへも明らかではなかつた。そして、ほんのこころもち靑昧を帶びた濁流は、なほも雨を含んでたれ下つた黑雲の下に音たててひろがり、人間界を包んでゐた。その夜は月も見えなかつた。

 

[やぶちゃん注:この一篇は河童生態学の視点からも頗る興味深い。

「ドノゴオ・トンカ」ドノゴー=トンカ(Donogoo-Tonka)とは「未だ嘗て地上に存在したことない幻の理想郷」「新たなる未知の世界」を意味する造語らしく(フランス語で“tonka”は熱帯アメリカ産のトンカ豆を指すが関係ありやなしやは知らず)、これはフランスの作家で詩人のジュール・ロマン(Jules Romains 一八八五年~一九七二年)が一九三〇年に発表、初演された戯曲の題名に基づくものと思われる(私は未読なれば確かなことは言えない)。なお、同名のモダニズム系の文芸雑誌『ドノゴトンカ』なる雑誌が一九二八年から一九三〇年にかけて岩佐東一郎や西山文雄によって刊行されているから、それもこの火野の用辞には何かの影響があるのかも知れない。

「ほげた」「ほげる」は福岡方言で「穴があく」の意。

「山田の曾富騰(そほと)」古事記にみえる神久延毘古の異名とされる。歩けないが、天下のことをことごとく知る神とされた。これは「崩え彦」「壞え彦」、で「壊れた男」の意ともされ、案山子(かかし)の表象かともされる。

「その色とにほにひとが永く消えない」(最終段落内)は底本では「その色とはほひとが永く消えない」であるが誤植と断じて訂した。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 田越川

 

    ●田越川

 

源(みなもと)を田越村沼間の谷間より發し西に流れ、櫻山(さくらやま)に至て海に入る、此(この)川凡(をよそ)四名あり、水源にては矢の根川、櫻山に入て烏川 小名逗子の界(さかい)を流れて淸水川と稱す、小坪の界に至て始て田越川の名を得、東鑑には多古江川と書し、承久記は手越川(たごえがわ)に作る。建久五年八月鎌倉將軍河邊遊覽の事あり。

 

[やぶちゃん注:以下「吾妻鏡」の引用の一行は、底本では一字下げでポイント落ち。]

 

東鑑曰八月廿六日將軍家御不例減氣等次逍遙多古江河邊給云々

 

文覺流罪の後、六代午前此川邊にて害せられし事、平家物語に見ゆ、此故に古は御最後川(ごさいごかは)ろも唱へしなり。

承久の亂に三浦平九郎胤義勤王し、軍敗るゝの後、胤義が幼兒を此河原にて誅せらる。

 

[やぶちゃん注:以下「承久記」の引用は、底本では全体がポイント落ち一字下げ。]

 

承久記曰平九郎判官胤義が子供五人あり。十一、九、七、五、三なり、うばの尼の養て、三浦の屋部と云所にありける。彼の子供、皆切らるべきに定めらる。伯父駿河守義村承て、郎等小河十郎、屋部に向て此由申ければ、十一になる孫一人止て、九、七、五、三なる子供を出しけり。鎌倉へは入るべからずとて、手越ノの河端に下し置きたれば、九、七、五は乳母に取付て、切らんとすると心得て泣悲む、三の子は何心もなく、乳母の乳ぶさに取付て、すさみしてぞ居たりける。目も當てられぬ有樣なり。日既に暮れたれば、さて有べき事ならずとて、四の首を取て參りぬ。

 

嗚呼何等の悲慘ぞや、嘉祿元年九月辨僧正定豪して、河原に許多の石塔を建てしめられし事所見あり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡脱漏」の引用は、底本では全体がポイント落ち一字下げ。]

 

東鑑脱漏曰多胡江河原爲立八萬四千基石塔辨僧正弟等具之武州駿州三浦駿河前司以下行向之被沙汰

 

末流灣頭に注ぐの邊、風光絶美なり、河畔を逍遙せよ、晴天波穩やかなるの日、河心白扇の倒まに懸るを見るべし、田越川の逆富士(さかさふじ)と稱す、橋あり富士見橋と呼ぶ。

 

[やぶちゃん注:最初の「吾妻鏡」の引用は前掲「逗子案内」の注で私が引用した部分であるが、脱落があるので必ず比較されたい。

 

次の「承久記」の引用も途中を端折ってある(が、却って読み易くはなっている)。これは「承久記」の流布本である古活字本系統の「下」の殆ど終わりの部分である。岩波新古典文学大系の「承久記」に資料として所載する同本の当該部分(編者による段落通し番号106相当部)を恣意的に正字化して示しておく。承久の乱(承久三(一二二一)年)の戦後処分(七月以降)の下りである。

 

   *

 

其外、東國ニモ哀レナル事多キ中ニ、平九郎判官胤義ガ子共五人アリ。十一・九・七・五・三也。ウバノ尼ノ養ヒテ、三浦ノ屋部卜云所ニゾ有ケル。胤義其罪重シトテ、彼ノ子共、皆可ㇾ被ㇾ切ニ定メラル。叔父駿河守義村、是ヲ奉テ、郎等小河十郎ニ申ケルハ、「屋部へ參テ申サンズル樣ハ、「力不ㇾ及、胤義御敵ニ成候シ間、其子孫一人モ助カリガタク候。其ニ物共、出サセ可ㇾ給ㇾ由、可ㇾ申」トテ遣ス。十郎、屋部ニ向フテ此由申ケレバ、力不ㇾ及、十一ニナル孫一人ヲバ留メテ、九・七・五・三ニナル子共ヲ出シケリ。小河十郎、「如何ニ、ヲトナシクヲハシマス豐玉殿ヲバ出シ給ハヌ哉覽」ト申ケレバ、尼上、「餘ニムザンナレバ、助ケント思フゾ。其代リニハ尼ガ首ヲトレ」ト宣ケレバ、ゲニハ奉公ノ駿河守ニモ母也、御敵胤義ニモ母也、ニクウモイト惜モ有間、力不ㇾ及、四人計ヲ輿ニノセテ返リニケリ。鎌倉中へハ不ㇾ可ㇾ入トテ、手越ノ河端ニヲロシ置誰バ、九・七・五ハ乳母乳母ニ取付テ、切ントスルト心得テ泣悲ム。三子ハ何心モナク、乳母ノ乳房ニ取付、手ズサミミシテゾ居クリケル。何レモ目モアテラレヌ有樣也。日已ニ暮行バ、サテアルベキ事ナラネバ、腰ノ刀ヲ技テ搔切々々四ノ首ヲ取テ參リヌ。四人ノ乳母共、空キカラヲカヽヘテ、聲々ニ呼キ叫有樣、譬テ云ン方モナシ。ムクロ共輿ニノセ、屋部へ歸リテ孝養シケリ。祖母ノ尼、此年月ヲフシタテナレナジミヌル事ナレバ、各云シ言ノ葉ノ末モワスラレズ、今ハトテ出シ面影モ身ニ添心地シテ、絶入給ゾ理ナル。

 

   *

 

最後の「此年月ヲフシタテナレナジミヌル事ナレバ」の部分、意味が取れない、識者のご教授を乞うものである。

「旅行記 こだわりの 旅 紀行」の「鎌倉のかくれ里」にある
『「神々の坐す里」桜山・逗子編』によれば、現在の東逗子駅の近くにある田越川河畔の荒神社、通称「ニコー様」はこの屋部の尼を祭ったもので、これはこの辺りの豪家であった蓮沼矢部家の屋敷神であり、同矢部家の先祖はまさにこの時に助命された豊玉殿であったと伝承されているらしい(このリンク先及び一連の同シリーズのPDF資料は恐らく他に例を見ない詳述された逗子郷土資料と思われ、他の名所旧跡についてもまことに詳しく、必見必読である)。

 

「吾妻鏡脱漏」の引用部分も引用し直して、書き下しておく。これは嘉禄元(一二二五)年九月八日の記事である。

 

〇原文

 

八日丙寅。於多胡江河原。爲立八萬四千基石塔。辨僧正門弟等相具之。武州・駿州・三浦駿河前司以下被行向之。被沙汰云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

 

八日丙寅。多胡江(たこえ)河原に於いて、八萬四千基の石塔(しやくたふ)を立てんが爲に、辨僧正が門弟等、之を相ひ具す。武州・駿州・三浦駿河前司以下、之に行き向はれて、沙せらると云々。

 

「八萬四千基の石塔」の数字は釈尊の説いた経の数とされるもの。

 

「武州」北条泰時。この供養の主催者である。

 

「駿州」北条義時三男で泰時の弟重時。当時は幕府小侍所別当。

 

「三浦駿河前司」義村。]

耳嚢 巻之八 爲家千首和歌の事

 爲家千首和歌の事

 

 爲家卿は俊成の孫定家の子なりしが、壯年のころ數多(あまた)歌よみ給ひしに、父定家かくはあらじとて、幾度見給へど稱譽もなくて過(すぎ)しが、我心にも詠(よみ)得たると思はざれば、歌は詠(よま)じとて述懷ありしを、慈鎭聞(きき)て、父租の業(わざ)を捨(すて)給はんは本意(ほい)なし、よく味(あじは)ひ讀(よみ)なば其道も得給はんと異見ありし故、夫(それ)より寐食をわすれて此道を修行なし、五日の内に千首までよまれしを、慈鎭と西行評して點なせしを、千首の家の集とて今も好人(すきびと)のとりなやむなり。物は積進によりて、其業を成就なすと人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、和歌技芸譚だが鎌倉時代と恐ろしく古く、歌道の故実考証譚の一種と考えてよかろう。

・「爲家千首和歌」藤原為家(建久九(一一九八)年~建治元(一二七五)年:定家と内大臣藤原実宗娘の子。法名は融覚。早くに後鳥羽上皇次に順徳天皇に近仕したが歌道よりも蹴鞠に熱中して父定家を嘆かせた。承久の乱後は作歌活動も本格化し、後嵯峨院歌壇の中心的存在として「続後撰和歌集」を単独で選進、また「続古今和歌集」の選者にも名を連ねた。晩年は後妻阿仏尼との間にもうけた冷泉為相を溺愛し、二条・京極・冷泉の歌道三家分立の因を残した。以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)が貞応元(一二二二)年、満二十四歳の時に日吉(ひえ)神社に詣でて献じた「為家卿千首」。千首和歌は和歌の修練などを目的として一人或いは数人で和歌一千首を続けて詠んだものであるが、本作は現在最古といわれるものである。岩波の長谷川氏注には、『歌人としての前途を悲観し出家しようとし、慈円に諌められ思い止まり五日間で詠んだもの』とあり、底本の鈴木氏注には、『これに定家が朱点を、慈円(西行は誤り)が黒点を加えた。為家の代表作』とある。

・「述懷」ここでは、一般的な思いや過去の出来事や思い出などを想起して述べるというフラットな用法ではなく、「恨み言を述べること・愚痴や不平を言うこと」の意である。

・「慈鎭」慈円(久寿二(一一五五)年~嘉禄元(一二二五)年)は天台僧。没後十三年して慈鎮と諡(おくりな)された。「愚管抄」の著者で歌人としても知られる。父は摂政関白藤原忠通。永万元(一一六五)年に十歳で延暦寺青蓮院に入り、翌々年に鳥羽天皇第七皇子覚快法親王の下で出家して道快と名乗った後、養和元(一一八一)年に慈円と改めた。混乱の続く貴族社会の中にあって関東の武家との協調を図る同母兄兼実の庇護の下で活動し、建久三(一一九二)年には天台座主、建仁三(一二〇三)年には大僧正に任ぜられて後鳥羽上皇の護持僧にもなったが、政局の推移につれて天台座主の辞退と復帰を繰り返し、補任は四度に及んでいる。源頼朝死後、後鳥羽上皇の周囲が討幕に傾いていく中、公武協調派であった兼実と同じ立場に立っていた彼が自身のゾルレンとしての史観に基づいて記したものが「愚管抄」であった。なお、後鳥羽上皇は西行のそれを慕った慈円の平明な歌風を高く評価しており、「新古今和歌集」には西行の九十四首に次ぐ九十一首もの歌が収められた。家集に「拾玉集」(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。底本の鈴木氏注によれば、為家が自身の歌才に絶望して出家を決意し、『慈鎮に諌止されたことは『井蛙抄』に出ている』とある。「井蛙抄(せいあしょう)」は正平一五・延文五(一三六〇)年〜正平一九・貞治三(一三六四)年頃の成立になる頓阿著の歌論書。

・「とりなやむ」小学館「日本国語大辞典」に、「とりなやむ」(取悩・他動詞マ行四段活用・「とり」は接頭語、「なやむ」は扱う意)として「取り扱う」「扱う」とする。そこに出る例文は近世以降のものであり、「なやむ」を「扱う」とする記載も同じ。

・「積進」底本には右に『(精進)』と訂正注がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 「為家千首和歌」の事

 

 為家卿は俊成卿の孫であらるる定家卿の御子息に当たらるるが、壮年の頃、あまた、和歌を詠んでみられたにも拘わらず、これ、父君定家卿は、

「……こげな代物にては……全く話に、ならぬわ。」

とけんもほろろに突き返され、幾度ご覧じにならるるも、一言一句の褒め言葉さえ、これ、御座なく、ただただ無為に過ごしておられたところが、遂には、

「……我らも会心の詠みを得たると思うこと、これ、一度たりとも御座らなんだによって……かくなる上は……歌は――詠むまい。」

とお嘆き遊ばされ、出家を決意、歌人としても名高き知れる慈鎮殿が元へ参って、かく告解致いたところが、それを聴かるるや、慈鎮殿、

「――父租伝来の業(わざ)を捨て給わんは本意(ほい)なきことじゃ!――よぅく味おうて詠みあげたならば――必ずや、その道を得らるること、これ、間違い御座らぬぞ!」

と、強ぅに異見なさったゆえ、それより一念発起なされた為家卿は、寝食を忘れて和歌の道の修行を、まずはなさんと、五日の内に、たったお独りで、一気に千首までもお詠みあそばされたを、慈鎮殿とかの西行法師さまがこれを点評なされたを、これ、「千首の家の集」とて、今も和歌の道を志す好き人は頻りに教導の歌集として大いに奉じ扱うとのこと。

 物は精進によって、その技(わざ)を成就致すことこれあり、とは、さる御仁の語りで御座った。

中島敦 南洋日記 十二月九日

        十二月九日(火) 晴

 正午、はじめて空襲警報を聞く。事無し。三十分ばかりにして解除。午後小田電機にてラヂオを聞く。昨日のハワイ空襲は多大の戰果をあげたるものの如し。マレー半島上陸も大成功なりしと。御用船はパラオに行かず。山城丸も缺航か? 東京にては、さぞ心配せるなるべし。夜、市街闇黑にして、店舖の營業せるものを見ず。餘りに過度の緊張は、却つて、長續せざる所以に非ざるか?

[やぶちゃん注:「マレー半島上陸も大成功」マレー作戦(日本側作戦名「E作戦」)は太平洋戦争序盤に於ける日本軍のイギリス領マレー及びシンガポールへの進攻作戦で、日本の対英米開戦後最初の作戦であった。当時、大本営はこのマレー上陸とアメリカ属領ハワイに対する真珠湾攻撃との関係に苦慮していた。何故なら、陸軍はマレー上陸が長途の海上移動の危険を伴うことから奇襲を絶対条件としたのに対し、海軍も真珠湾での奇襲に絶大なる期待をかけていたためであったが、これは、もし一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなることを意味していたからである。マレーとハワイとでは約六時間の時差があることから、双方を辛くも両立させ得るのが、マレーの深夜、ハワイの早朝、という作戦開始のタイミングなのであった。十二月八日の日本時間午前一時三十分、陸軍第十八師団支隊がマレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。これは真珠湾攻撃日本時間三時十九分(現地時間七時四十九分)、に先立つこと一時間二十分で、所謂、太平洋戦争は実はまさにこの時間に開始されたのであった。世界史的見解に於いては本攻撃によって第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大したとされる。一九四一(昭和一六)年十二月八日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍はイギリス軍と戦闘を交えながら五十五日間で約千百キロを進撃、翌年の一月三十一日に半島南端のジョホール・バル市に突入した(これは世界戦史上稀に見る快進撃であるとする)。作戦は大本営の期待を上回る成功を収めて日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った(以上はウィキの「マレー作戦」に拠る)。

「御用船」戦時に軍が徴発して軍事目的に転用した民間船舶。ここで敦が乗船している「鎌倉丸」はかつてサンフランシスコ航路の客船であったものを海軍が徴用していた日本郵船所属のそれを指すものと思われる(同船はこの二年後の昭和一八(一九四三)年四月十八日に将兵及び民間人多数を乗せてボルネオ島東岸のマッカサル海峡に面したパリクパパンへ向かう途中、米潜水艦からの魚雷攻撃を受けて沈没していることがこちらの頁で確認出来た)。開戦直後であることから、安全を考慮してテニアン行の船便が海軍徴用船鎌倉丸に変更されたものかと思われる。

「山城丸」十月二十一日に既注。]

生きてゐる耶蘇  萩原朔太郎

     生きてゐる耶蘇

 

 耶蘇が生きてゐたら、彼の多くの宗派に對して、悉く皆意義を唱へたらう。「それは私の宗派ではない。」と。それからして異端とされ、すべての宗派から火刑にされる。一般に後繼者等は、單なる偶像としての禮拜の外、決してその開祖を許容しない。生きてゐる開祖は、常に至るところで邪魔にされる。

 

[やぶちゃん注:『作品』第二巻第九号・昭和六(一九三一)年九月号に他十四篇のアフォリズムとともに掲載されたもので、後に「絶望への逃走」(昭和一二年第一書房刊)に所収された。太字「生きてゐる開祖」は底本では傍点「ヽ」。私はこのアフォリズムが頗る附きで好きである。]

萩原朔太郎 短歌二首 明治四十二(一九〇九)年十一月

心臟に匕首たてよシヤンパアニユ栓拔くごとき音のしつべし

 

拳もて石の扉を打つごとき愚(おろか)もあへて君ゆゑにする

 

[やぶちゃん注:『スバル』第一年第十一号(明治四十二(一九〇九)年十一月発行)の「昴詠草」欄に「萩原咲二」名義で掲載された。朔太郎満二十三歳。

杉田久女句集 30 後妻の姑の若さや藍ゆかた

後妻(うはなり)の姑の若さや藍ゆかた

 

[やぶちゃん注:笑顔の久女の見る目はいたって穏やかだが、その眼底に、何かどきっとする一閃が、私には感じられる。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年 向日葵

 向日葵

 

向日葵に天よりあつき光來る

 

向日葵の萼たくましく日に向へり

 

向日葵は火照(ほて)りはげしく昏れてゐる

 

向日葵に夜の髮垂りてしづくせる

 

[やぶちゃん注:この四句、凝っと見ていると、何かドキッとする。それは詠唱する主体たる観察者の姿が全く消失して描写客体即主体即多佳子と読めるように、これらは確信犯で創られてあるからであると思う。……即ち――向日葵に――多佳子の身に「天よりあつき光」が「來る」のであり――多佳子の肉体の「萼」が「たくましく日に向」っているのであり――多佳子「は火照りはげしく」「昏れ」た宵闇の中にその肉身を佇立させ「てゐる」のであり――多佳子の「夜の」ほの白き身に、夜の闇たる「髮」が静かに「垂」れて来、そしてそのしっとりとした「しづく」が髪から落ちるからであろう……これはもうタルコフスキイではないか!……]

そらの はるけさ   八木重吉

こころ

そらの はるけさを かけりゆけば

豁然と ものありて 湧くにも 似たり

ああ こころは かきわけのぼる

しづけき くりすたらいんの 高原

 

[やぶちゃん注:「くりすたらいん」“crystalline”は形容詞で、「水晶のような・水晶から成る」及び物理化学に於ける「結晶(質)の・結晶体から成る」、「透明な」の意。なお、辞書を見ると、“crystalline heaven”(=crystalline sphere)という単語がある。これはその他の記載などと読み比べてみると、古代ギリシアのプトレマイオスの天動説に於いて考えられた宇宙を構成する二つの球体の一つで、天の外圏である球体(天球“celestial spheres”)と恒星界との間にあると想像された球体(但し、プトレマイオスは「恒星は天球に張りついているか若しくは天球に空いた穴である」と述べているから、この球体は殆ど天球内側に密着する球体ということになるように思われる)の謂いらしい。無関係かもしれないが“heaven”は気になる(重吉がこの単語を見知っていればなおのことである)、イメージを膨らませるにはよいと思われたのでここに記しおくこととした。]

鬼城句集 冬之部 鮟鱇

鮟鱇    鮟鱇の愚にして咎はなかりけり

2014/01/23

中島敦 南洋日記 十二月八日――真珠湾攻撃当日――

        十二月八日(月) 曇、雨、後晴、

 午前七時半タロホホ行のつもりにて支廰に行き始めて日米開戰のことを知る。朝床の中にて爆音を聞きしは、グワムに向ひしものなるべし。小田電機にて、其後のニュースを聞く。向ひなる陸戰隊本部は既に出動を開始。門前に、少女二人、新聞包の慰問品を持來れるあり。須臾にして、人員、道具類の搬出を終り、公會堂はカラとなりしものの如し。腕章をつけし新聞記者二人、號外を刷りて持來る。ラヂオの前に人々蝟集、正午前のニュースによれば、すでに、シンガポール、ハワイ、ホンコン等への爆擊をも行へるものの如し。宣戰の大詔、首相の演説等を聞いて歸る。午後、島木健作の滿洲紀行を讀む、面白し。蓋し、彼は現代の良心なるか。とこ屋に行く。ゲートルをつけ警防團のいでたちをなせる親方に頭髮を刈つて貰ふ。靑年團、消防隊等の行進、モンペ姿の女等。夜の街は、すでに警戒管制に入れることとて、まつくら。

[やぶちゃん注:太字「カラ」は底本では傍点「ヽ」。

「島木健作の滿洲紀行」「滿州紀行」は作家島木健作が昭和一四(一九三九)年に満州を旅行、翌年に創元社から出版したルポルタージュ。私は未読であるが、ネット上の情報によれば、国策文学の代表的作品とされ、島木が満州開拓団を訪問、その苦労話を聴取し、彼らの『前向きな開拓者』の姿が前面に押し出されているという。但し、島木はさりげなく「五族協和」という理想的なスローガンと現地の実態とが乖離していることをも書き込んでおり、日本が満州を支配するために掲げていた口当たりのいい『タテマエ』に対して、現地に於ける日本人の振る舞いの中にある傲慢さをも語っているらしい。そこで島木はあくまでも日本の掲げた『理想』を推し進めるべきだという論調をとることで国策に協力しながらも、その「理想」が現実とは異なることを、読者の中でも解る人には解るように書いてあるという。孰れにせよ、かの特異点の時空間の直近の、非日常のただ中にあった敦になってみよう。

 

……僕は朝の寝床の中で夢うつつに航空機の「爆音」を聴いて、眠い目を擦りながら飛び起きた……

「遂におっ始(ぱじ)まったか……」

……表へ出ると、とりあえず近くの「電機」屋の店先へと向かうと、「ニュースを聞」いてみた……

……そこで何気なく振り返ってみると、その電気屋の向いにあった「陸戰隊本部」が、殺気立って「出動を開始」しているのが見えた……

……その「陸戰隊本部」の門前には。呆けた顔の少女が二人、「新聞包の慰問品を持」ってぼんやり立っていた……

……瞬く間に、「人員、道具類の搬出を終り、公會堂は」嘘のように「カラとな」っていた……

……そこへ腕章をつけた「新聞記者二人」が、早くも威勢のいい声を挙げながら、「号外!号外!」と未だインク臭い刷りのそれを持ち来たっては、盛んにばらまいている……

……その頃にはもう、「電気」屋の「ラヂオの前に」は人々が雲霞の如く「蝟集」していた……

……暫く経って、報じられた「正午前のニュースによれば、すでに、シンガポール、ハワイ、ホンコン等への爆擊をも行へる」という電光石火の戦況を伝えていた……

……それから……ラジオから流れたのは……「宣戰の大詔」……「首相の演説」……あれやこれや……

……僕はとぼとぼと宿舎へと帰っていった……

……帰った僕は……

……この……世界が恐るべき修羅場と化したただ中にあって……

……自室に寝っ転がって……

……「午後は」ゆっくり「島木健作の滿洲紀行を讀」み耽った……

「……面白いね。畢竟、島木は『現代の良心』ではあるだろうがなぁ……」

……と呟いた……

……それからぶらりと出て、床屋に行った……

……仰々しく「ゲートルをつけ警防團のいでたちを」した親方に「頭髮を刈つて貰」ってすっきりした……

……帰り道、「靑年團、消防隊等の行進、モンペ姿の女」なんどが行き過ぎてゆくのを……僕は……ぼんやり眺めていた……

……夜になった……

……「夜の街は、すでに警戒管制に入」っていて、すっかり……

……「まつくら」……なのであった……

 

敦がまさに自身の日常を平々凡々と『死守』し、戦争という獣的な非日常の軋轢に何とか抗おうとしているさまが見てとれるではないか……(注:間違ってもらっては困る。私が言いたいのは――人間は非日常が日常と化すことへの自己防備として『仮想の日常』を『死守』しようとする頗る生物学的な意味での生き物だ――ということ一点なのである。……あの3・11後の粗方の日本人のようにである。……)

 

 ウィキの「真珠湾攻撃」の「トラ・トラトラ」より引用する。――『ハワイは現地時間12月7日日曜日の朝だった。7時10分(日本時間8日午前2時40分)に、アメリカ海軍の駆逐艦DD-139「ワード(ウォード)」がアメリカ領海内において国籍不明の潜水艦を発見し、砲撃によりこれを撃沈した(ワード号事件)。これは日本軍の特殊潜航艇であった。ワード号は直後に「未識別の潜水艦」を撃沈した旨を太平洋艦隊司令部へ打電したが、ハワイ周辺海域では漁船などに対する誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されず、アメリカ軍は奇襲を事前に察知する機会を逸した』。『7時49分(同3時19分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田美津雄海軍中佐が各機に対して「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・のト連送)を下命した。7時53分(同3時23分)、淵田は旗艦赤城に対して「トラ・トラ・トラ」を打電した。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する符丁である。7時55分(同3時25分)翔鶴飛行隊長の高橋赫一海軍少佐が指揮する急降下爆撃隊がフォード島への爆撃を開始した』。『7時58分(同3時28分)、アメリカ海軍の航空隊が「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」と警報を発した。戦艦「アリゾナ」では7時55分頃に空襲警報が発令された。8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800キロ爆弾が四番砲塔側面に命中。次いで8時6分、一番砲塔と二番砲塔間の右舷に爆弾が命中した。8時10分、アリゾナの前部火薬庫は大爆発を起こし、艦は1,177名の将兵と共に大破沈没した。戦艦「オクラホマ」にも攻撃が集中した。オクラホマは転覆沈没し将兵415名が死亡または行方不明となった』。同「第二波攻撃」。『ハワイ時間午前8時54分(日本時間4時24分)、第二波空中攻撃隊が「全軍突撃」を下命した。奇襲から立ち直った米軍は各陣地から猛烈な対空射撃を行い、日本軍航空隊を阻止しようとした』。『第二波攻撃隊は、米軍の防御砲火を突破する強襲を行い、小型艦艇や港湾設備、航空基地、既に座礁していた戦艦「ネバダ」への攻撃を行った。第二波攻撃隊の被害は第一波攻撃隊と比べて大きく、「加賀」攻撃隊(零戦9機、艦爆26機)だけでも零戦2機、艦爆6機を失い、19機が被弾した』。『また「飛龍」所属の零戦(西開地重徳 一飛曹)は』『ニイハウ島に不時着、12月13日のニイハウ島事件で死亡した』(最後の部分はウィキのニイハウ島事件を参照されたい)。同「特殊潜航艇による攻撃」より。『機動部隊とは別に特殊潜航艇の甲標的を搭載した伊号潜水艦5隻は下記の編成で11月18~19日にかけて呉沖倉橋島の亀ヶ首を出撃し、12月7日オアフ島沖5.3~12.6海里まで接近した。特殊潜航艇はハワイ時間午前0時42分(日本時間20時12分)から約30分間隔で順次真珠湾に向かって出撃した』。『攻撃は5隻全艇が湾内に潜入することに成功し、3隻が魚雷攻撃を行った。しかし4隻が撃沈、1隻が座礁・拿捕され、帰還艇なしという結果に終わった』。『その後、行方不明であった特殊潜航艇が発見され、魚雷は未発射であったことから魚雷攻撃を行ったのは2隻とされている』。『近年までは、中村秀樹のように成果なしと評価するものがあったが』、『特殊潜航艇によって戦艦ウェストバージニアと戦艦オクラホマへの雷撃が行われており、このうちオクラホマは特殊潜航艇による雷撃が転覆をもたらしたとするアメリカ側からの評価がなされている』。最後に「帰投」の項。『日本時間午前8時30分頃、空中攻撃隊は順次母艦へ帰投した。午前9時頃、日本海軍空母機動部隊は北北西に変針し日本への帰路についた』。――

 

日本。

12月8日朝7時丁度のラジオの臨時ニュース。

日本放送協会館野守男アナウンサー「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申上げます。大本營陸海軍部午前六時發表。帝國陸海軍部隊は本八日未明、西太平洋に於いて亞米利加・英吉利軍と戰鬪狀態に入れり。」…………]

画像検索のエクスタシー

Ernst Haeckel:Kunstformen der Natur

日本語訳は「自然の造形」、成立刊行は1899年から1904年。ヘッケルは「個体発生は系統発生を反復する」の言葉で有名なドイツの生物学者。

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 二 原始動物の接合 (1) 原生生物群

    二 原始動物の接合

Midorimusi

[みどり蟲]

[(イ)口 (ロ)收細胞 (ハ)核]

 

 普通の動植物の身體を成せる細胞は、各々その專門の役目を務めるに適するやうに變化して居るから、種類の異なつたものが多數に相集まつて、初めて完全な生活を營むことが出來る。もしも一つづつに離して互に相助けることを妨げたならば、各細胞は到底長く生活することは出來ず、暫時の後には必ず死んでしまふ。例へば胃の細胞は胃液を出して蛋白質を消化する働はあるが、呼吸も出來ず運動も出來ぬから獨立しては生きては居られぬ。また肺の細胞は酸素を吸ひ入れ炭酸瓦斯を排出して呼吸する性質を具へて居るが、食ふ力も消化する力もないから、血液と離れては命を保つことは出來ぬ。しかるに廣く生物界を見渡すと、かやうなものの外に細胞が一つ一つで長く生活して居るものがある。これは即ち單細胞生物と名づける顯微鏡的の極めて小さな生物で、その中植物らしいものを原始植物、動物らしいものを原始動物と名づける。高等の動物と植物とではその間の相違が著しいから誰も間違へるものはないが、顯微鏡で見るやうな下等の動植物になると、その間の區別が頗る曖昧で到底判然した境界は定められぬ。それ故ある種類の單細胞生物は、動物學の書物には動物として掲げてあり、また植物學の書物には植物として掲げてある。例へば「みどり蟲」や「蟲藻」の類は皆かやうな仲間に屬する。單細胞の生物は全身が單一の細胞から成るが、この一つの細胞を以て、運動もすれば消化もし、呼吸もすれば感覺もする。そして生殖するに當つては、通常は簡單な分裂法よつて二疋づつに分れるが、多くの種類ではなほその外にときどき二疋づつ相接合して身體の物質を混ぜ合はすことが行はれる。これは高等生物の雌雄生殖によく似たことで、確にその起原とも見做すべき極めて面白い現象であるから、次に少しく詳細に述べて置かう。

Musimo

[蟲藻]

 

[やぶちゃん注:「原始植物」「原始動物」これらの多くを現在、合わせて界として独立させて原生生物(原生生物。プロチスト。“Protist”。後述)界(プロチスタ。Protista)と呼称している。その内訳は褐藻類・紅藻類といった総ての真核藻類、鞭毛を持つ卵菌類・ミズカビ類などの菌類的生物、粘菌・細胞性粘菌などの旧変形菌門に所属していた生物、そしてアメーバやゾウリムシなどの原生動物から成る。

「みどり蟲」エクスカバータ Excavata 界ユーグレナ門 Euglenida ユーグレナ藻綱ユーグレナ(ミドリムシ)目ユーグレナ(ミドリムシ)科ミドリムシ属 Euglena の総称。参照したウィキの「ミドリムシ」及びそのリンク先によれば、『鞭毛運動をする動物的性質をもちながら、同時に植物として葉緑体を持ち光合成を行うため、「単細胞生物は動物/植物の区別が難しい」という話の好例として挙げられることが多い。これはミドリムシ植物がボド類のような原生動物と緑色藻類との真核共生により成立した生物群であるためである。それゆえミドリムシ植物には Peranema 属のように葉緑体を持たず捕食生活を行う生物群も現存する』(「ボド類」はキネトプラスト類(kinetoplastid)の一種。キネトプラスト(多くのミトコンドリアDNAのコピーを含む巨大なミトコンドリアが集合した円盤状顆粒のこと。この類にのみ存在し、通常は鞭毛基部に隣接している)を持つ鞭毛虫の一群。人間や家畜に深刻な感染症を引き起こす寄生虫のリーシュマニアやトリパノソーマを含むことで有名であるが、それ以外に自由生活性のものも土壌などから見出される)。かつては『原生動物門鞭毛虫綱の植物鞭毛虫などとして扱われた』。ミドリムシは『淡水ではごく普通に見られる生物で』、『止水、特に浅いたまり水に多く、春から夏にかけて水田ではごく頻繁に発生する。水温が上がるなどして生育に適さない環境条件になると、細胞が丸くなってシスト様の状態となり、水面が緑色の粉を吹いたように見える』。〇・一ミリメートル以下の『単細胞生物で、おおよそ紡錘形である。二本の鞭毛を持つが、一本は非常に短く細胞前端の陥入部の中に収まっている為、しばしば単鞭毛であると誤記述される。もう一方の長鞭毛を進行方向へ伸ばし、その先端をくねらせるように動かしてゆっくりと進む。細胞自体は全体に伸び縮みしたり、くねったりという独特のユーグレナ運動(すじりもじり運動)を行う。この運動は、細胞外皮であるペリクルの構造により実現されている。ペリクルは螺旋状に走る多数の帯状部で構成されており、一般的な光学顕微鏡観察においても各々の接着部分が線条として観察される』。『鞭毛の付け根には、ユーグレナという名の由来でもある真っ赤な眼点があるが、これは感光点ではない。感光点は眼点に近接した鞭毛基部の膨らみに局在する光活性化アデニル酸シクラーゼ (PAC) の準結晶様構造体である。真っ赤な眼点の役目は、特定方向からの光線の進入を遮り、感光点の光認識に指向性を持たせる事である』。『細胞内には楕円形の葉緑体がある。葉緑体は三重膜構造となっており、二次共生した緑藻に由来する。従って緑藻同様、光合成色素として』クロロフィルa及びクロロフィルbを持つ。『ミドリムシでありながらオレンジ色や赤色を呈する種もあるが、これは細胞内に蓄積されたカロテノイドやキサントフィルによるものである』とある。ミドリムシは近年、『バイオ燃料の研究や医療技術の転用、環境改善、豊富な栄養素を持つことから食用としての研究が進んで』おり、脚光を浴びている生物群でもある。

「蟲藻」クロムアルベオラータ界 Chromalveolata アルベオラータ亜界 Alveolata 渦鞭毛植物門渦鞭毛藻綱ペリディニウム目ペリディニウム属 Peridinium の仲間(標準種 Peridinium cinctum)である。筑波大学のプロジェクト・ページ原生生物図鑑「霞ヶ浦のプロチスタ」(“Protista”は「原生生物(界)」でエルンスト・ヘッケルによる一八六六年の命名)のペリディニウム属 Peridiniumによれば、単細胞自由遊泳性で光独立栄養性。世界中の淡水・止水域に広く生育するプランクトンで、細胞形態は菱形・球形などを呈する。大きさは10~70µm(マイクロメートル)。細胞前端や後端(縦溝両脇)がときに突出する。細胞は縦溝と横溝を持ち、細胞腹面中央付近から生じる縦鞭毛と横鞭毛が付随している。普通、厚い鎧板があり、細長い橙褐色の葉緑体を多数持つ。二分裂法によって増殖するが、幾つかの種で同型配偶子(通常は栄養細胞と同形)接合による有性生殖が知られている。非常に大きな属で多数の種を含むが、未だ詳しい調査がなされていない種が多数存在する。ダム湖などで大増殖することがある、とある。リンク先の顕微鏡写真では似ても似つかぬと思われるであろうが、以下に掲げるヘッケル「自然の造形」に載る “Alveolata”群の図譜(Ernst HaeckelKunstformen der Natu, 1899-1904)の右中央の「7」を見て戴ければ、これがこの渦鞭毛虫であることがお分かり戴けるはずである。

Peridinea_ernst_haeckel

……しかし……なんと美しいことだろう……]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 1 モース、再来日す

 第十一章 六ケ月後の東京 

 一八七八年五月一日

 再びこの日記を、以前記録の殆ど全部を書いた同じ家で始めることが、何と不思議に思われることよ! 米国大陸を横断する旅行は愉快であった。私は、平原地方では停車場でインディアンの群を研究し、彼等の間に日本人に似たある特徴が認められるのに興味をもった。これ等の類似が日本人との何等かの人類学的関係を示しているかどうかは、長い、注意深い研究をした上でなくては判らぬ。黒い頭髪、へこんだ鼻骨等の外観上の類似点、及び他の相似からして、日本人と米国インディアンとが同じ先祖から来ているのだと考える人もある。

 * これ等の類似の一例として以下の事実がある。一八八四年フィラデルフィアに於て、私はオマハ・インディアンのフレッシ氏を菊池教授に紹介した所が、同教授はただちに日本語で話しかけ、そして私が彼に、君はオマハ・インディアンに話しをしているのだといったら、大きに驚いた。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、モースはエレン夫人、十三歳の娘イーディスと七歳の息子ジョンを伴って一八七八(明治一一)年四月一日にサンフランシスコから出帆、風のために難航してやや遅れて四月二十三日、横浜に着いた。この時、後にモースの助教として親しく近似することになる高嶺秀夫と同船し、親交を結んでいる。高嶺秀夫(安政元(一八五四)年~明治四三(一九一〇)年)は教育学者。旧会津藩士。藩学日新館に学んで明治元(一八六八)年四月に藩主松平容保(かたもり)の近習役となったが九月には会津戦役を迎えてしまう。謹慎のために上京後、福地源一郎・沼間守一・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の塾で英学などを学び、同四年七月に慶応義塾に転学して英学を修めた(在学中に既に英学授業を担当している)。八年七月に文部省は師範学科取調のために三名の留学生を米国に派遣留学させることを決定、高嶺と伊沢修二(愛知師範学校長)・神津専三郎(同人社学生)が選ばれた。高嶺は一八七五年九月にニューヨーク州立オスウィーゴ師範学校に入学、一八七七年七月に卒業したが、この間に校長シェルドン・教頭クルージに学んでペスタロッチ主義教授法を修めつつ、ジョホノット(一八二三年~一八八八年:実生活にもとづく科学観に則る教授内容へ自然科学を導入した教育学者。)と交流を深め、コーネル大学のワイルダー教授(モースの師アガシーの弟子でモースの旧友でもあった)に動物学をも学んだ。偶然、このモースの再来日に同船して帰国、東京師範学校(現在の筑波大学)に赴任、その後、精力的に欧米最新の教育理論を本邦に導入して師範教育のモデルを創生した。その後,女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授や校長などを歴任した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「インディアン」「の間に日本人に似たある特徴が認められる」ウィキの「インディアン」の「人種」の項には、『人種的にはモンゴロイドの系列にあり古モンゴロイドに分別される(イヌイットとエスキモーなどを除く)。アラスカ、カナダ、アメリカ合衆国北部の部族は肌の色が赤黒く鼻筋が通り高く盛り上がっており鷲鼻である人が多い。一方、アメリカ合衆国南部、中南米においては東南アジア人に似た部族も存在する等、一様ではない。日本人と似た外見の者も多い。また、ヨーロッパ人(コーカソイド)との混血、アフリカ黒人(ネグロイド)との混血が進んだ部族も存在する。純血の民族はメキシコ、グアテマラ、エルサルバドル、ペルー、ボリビアなどに多く存在する。しかしブラジルやアルゼンチン、ウルグアイなどのスペイン人と激烈な戦いを繰り広げた地域では、純血な先住民はスペイン人の暴虐な侵略でほぼ絶えている』とある。

「菊池教授」菊池大麓(だいろく 安政二(一八五五)年~大正六(一九一七)年)は数学者・教育行政家。男爵・当時、東京大学理学部教授(純正及び応用数学担当)。江戸の津山藩邸に箕作阮甫(みつくりげんぽ)の養子秋坪の次男として生まれたが、後に父の本来の実家であった菊池家を継いだ。二度に亙ってイギリスに留学、ケンブリッジ大学で数学・物理を学んで東京大学創設一ヶ月後の明治一〇(一八七七)年五月に帰国、直ちに同理学部教授。本邦初の教授職第一陣の一人となった。後の明治二六年からは初代の数学第一講座(幾何学方面)を担任し、文部行政面では専門学務局長・文部次官・大臣と昇って、東京・京都両帝国大学総長をも務めた。初期議会からの勅選貴族院議員でもあり、晩年は枢密顧問官として学制改革を注視し、日本の中等教育に於ける幾何学の教科書の基準となった「初等幾何学教科書」の出版や教育勅語の英訳に取り組んだ。(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。動物学者箕作佳吉は弟で、大麓の長女多美子は天皇機関説で知られる憲法学者美濃部達吉と結婚、その子で元東京都知事美濃部亮吉は孫に当たる。]

耳嚢 巻之八 篠原團子の事 

 篠原團子の事

 

 江戸市中に篠原團子とて賞翫(しやうかん)す。加賀の篠原にゆえんあるや、また齋藤實盛に由緣あるや、篠原團子、或はさねもり團子など看板出し口ずさみぬるが、みな附會の説にて、篠原團子は江州(がうしう)姥(うば)が餅など商ふ最寄に、篠原村といふあり、至(いたつ)て米性(こめしやう)よきゆゑ、右米にて拵(こしらへ)る故其味ひも佳なりとて、篠原團子ともてはやすと人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:旧蹟由来検証譚から品名由来検証譚で連関。但し、この名の江戸前の団子は現在は知られていないようである。

・「賞翫(しやうかん)」「しょうかん」で近世までは清音であった。

・「加賀の篠原」石川県加賀市篠原新町。斉藤別当実盛が討死した場所と伝えられ、篠原古戦場実盛塚がある(但し、地図で見る限りでは現在はここだけが篠原町として陥入している。また、底本の鈴木氏注によれば、これは後の時宗の歴代の遊行上人が巡化(じゅんげ:僧が諸国を巡り歩いて説法し教化(きょうけ)すること。)の際、必ずこの塚の前で念仏供養することを仕来りとするようになり、時宗の唱導家らによって実盛の墓と言い習わすようになったものかと推測される、とある)。

・「齋藤實盛」(大治元(一一二六)年?~寿永二(一一八三)年)は越前国生まれで武蔵国長井に移り住む。源義朝に仕えて長井斎藤別当と称し、保元・平治の乱に参加の後、平家に仕えた。寿永二(一一八三)年に源義仲追討のために北国に発向したが、加賀篠原で討死した。かつて幼き日に駒王丸(義仲)を救った彼は義仲の除名を察知し、老武者と侮られぬために白髪白髯を墨を以って黒く染めて、名乗りも上げずに死に赴いた「平家物語」の話はあまりにも有名。

・「江州姥が餅」東海道五十三次の一つで中仙道との分岐点に当たる近江路随一の宿場町草津の名物。近江源氏佐々木(六角)義賢が慶長三(一五九八)年に信長に滅ぼされた際、その三歳になる曾孫を託された乳母福井とのは郷里であった草津に身を潜めて幼児を抱いて住来の人に餅を売って養育の資として質素に暮らした。そのことを周囲の人たちも知り、乳母の誠実さを感じて、誰いうことなく「姥が餅」と言い囃したのを由来とするという(一部で滋賀県草津市大路二丁目に現存する「うばがもちや」の公式サイトの「う物語」を参考にさせて戴いた。リンク先ではその後、江戸時代に爆発的にヒットしてもて囃され、家康・芭蕉・蕪村らにも食されたことなど、その後の経緯についても詳しい。必見)。

・「篠原村」岩波版長谷川氏注に『滋賀県野洲郡野洲町。また草津市野路辺を野路の篠原という』とある。前者は現在は野洲市で大篠原と小篠原という名が残る。底本の鈴木氏注には、『両地の距離は十キロ程でしばしば混同される』が、『筆者がいずれをさしていうか不明』とされる。私は今に銘菓を伝えている「うばがもちや」に敬意を表し、後者をとりたい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 篠原団子の事

 

 江戸市中に「篠原団子」と申し、しきりに賞翫されておる団子が御座る。

 これは加賀の篠原に所縁(ゆかり)があるものか、または、そこに関われるところの知られた齋藤別当実盛に由縁するものなるか、「篠原団子」或いは「さねもり団子」などと看板を出だし、巷間にも称して御座るが、これ実は皆、牽強付会の説で御座って、「篠原団子」は、これ、近江国にてやはり知られたる「姥(うば)が餅」など商ふ最寄りに、篠原村と申すところの御座って、ここがまた、いたって米の性(しょう)のよき土地柄ゆえ、その米を以って拵えたるによって、その団子の味わいも佳なるものなりとて、「篠原団子」ともて囃して御座ったを、それをまた真似て、江戸市中にても「篠原団子」として売り出だいたるもの――とは、さる御仁の話で御座った。

幻影を追うて  萩原朔太郎

       幻影を追うて

 

『熱情的な詩人』は實際それほどに『熱情的な人物』でない。むしろ彼は、熱情的な何物かを欲求してゐるのである。ある場合に於ては、それが彼の人體の缺陷として思惟される。

 

[やぶちゃん注:『新興』創刊号・大正一三(一九二四)年二月号に「情緒と想念」という総標題で載ったアフォリズム八篇の内の一篇。太字は底本では傍点「ヽ」。これはこれより数年の後に、萩原朔太郎が親しくなった(二人は大正一四年に室生犀星を介して知己となった)生前の芥川龍之介に対して、「芥川龍之介――彼は詩を熱情してゐる小説家である。」(萩原朔太郎「芥川龍之介死」より。リンク先は私の電子テクスト)と断じたことを理解する上で、非常に興味深い資料となるものである。]

水市覚有秋 萩原朔太郎 短歌七首 明治四一(一九〇八)年十二月

   水市覺有秋

 

むらさきす路上の花のちひさきを愛づるばかりにゆく車かな

 

千石の水あぶ心地日ぐらしの一時に啼きぬ木蔭路入れば

 

海戀し山に登れば遠山は波のやうなり風の音さへ

 

櫻貝二つ並べて海の趣味いづれ深しと笑み問はれけり

 

[やぶちゃん注:三年前の前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十二号(明治三八(一九〇五)年七月発行)に発表した「ゑかたびら」十二首連作の掉尾の、

 

さくら貝、ふたつ重ねて海の趣味、いづれ深しと笑み問(と)はれけり。

 

の改作。初出に劣る。]

 

大坂やわれをさなうて伯母上が肩にすがりし木遣(きやり)街かな

 

[やぶちゃん注:三年前の前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十二号(明治三八(一九〇五)年七月発行)に発表した「ゑかたびら」十二首連作の一首、

 

大坂やわれ小なうて伯母上が、肩にすがりし木遣り街かな。

 

の標記違いの同一作。]

 

あめつちの途(みち)にははぢぬ我ながら歌を一人の君にかくしぬ

 

ほと〻ぎす女に友の多くしてその音づれのたそがれのころ

 

[やぶちゃん注:前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に発表した八首連作の一首、

 

ほとゝぎす女(をんな)に友(とも)の多くしてその音(おと)づれのたそがれの頃

 

の標記違いの同一作。

 以上七首は、第六高等学校『交友会誌』明治四一(一九〇八)年十二月号に掲載された。朔太郎満二十二歳。彼はこの前年九月に熊本の第五高等学校第一部乙類(英語文科)に入学したが、この年の七月に第一学年を落第、同月、岡山の第六高等学校を受験して合格、同年九月に同校第一部丙類(独語文科、独語法科)に入学していた。因みに但し、結局、定期試験を受けずに問題視されて六高も翌明治四十二年七月に落第、翌四十三年四月には慶応義塾大学部予科一年に入学するも同月中に退学(理由不明)、同年六、七月頃には六高もまた退学している(当時、チフスに罹患しており、表向きの退学理由はそれであるように底本年譜の記載では読めるように書かれてある)。学歴の仕切り直しは明治四四(一九一一)年五月の応義塾大学部予科一年の再入学であるが、ここもまたしても六ヶ月後の同年十一月に退学し、これが萩原朔太郎の最終学歴となった。]

杉田久女句集 29 夏袷

衣更て帶上赤し厨事

 

みづみづとこの頃肥り絹袷

 

眉かくや顏ひき締る袷人

 

[やぶちゃん注:言わずもがな乍ら、「袷人」は「あはせびと(あわせびと)」。]

 

夏の帶廣葉のひまに映り過ぐ

 

夏の帶翡翠にとめし鏡去る

杉田久女句集 28 松の根の苔なめらかに淸水吸ふ

松の根の苔なめらかに淸水吸ふ

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年二十八の時の作。彼女の句群の中にあるだけでこの叙景が妖艶になるというこれぞ久女マジック。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年 首夏雜草

 首夏雜草

 

捕虫網子等は穗わたをかゆがれる

 

捕虫網草原に且つ靑かりき

 

捕虫網草原の日に出て燒くる

 

樹々にほひ更衣のあした嵐せり

 

[やぶちゃん注:「首夏」(しゆか/しゅか)は初夏。陰暦四月の異称でもある。]

おほぞらの 水   八木重吉

おほぞらを 水 ながれたり

みづのこころに うかびしは

かぢもなき 銀の 小舟(おぶね)、ああ

ながれゆく みづの さやけさ

うかびたる ふねのしづけさ

鬼城句集 冬之部 河豚

河豚    河豚の友そむきそむきとなりにけり

      將門と純友と河豚の誓かな

[やぶちゃん注:前句「そむきそむき」の後半は底本では踊り字「〱」。次句は平将門と藤原純友が盟約を交わして共同謀議による天慶の乱をそれぞれに起こしたという、室町期の成立と思われる「将門純友東西軍記」辺りによる伝承に基づく歴史仮想吟。同書には偶然に京都で出会った将門と純友が、承平六(九三六)年八月十九日に比叡山に登って、平安城を見下ろしながら「將門は王孫なれば帝王となるべし、純友は藤原氏なれば關白にならん」と誓約、双方が国に帰って反乱を起こしたとするが、それに関わる「河豚」の故事は知らない。単に乱の顛末を射程にした、河豚を食らわば肝までもといった、死を賭した不惜身命の祈誓という諧謔的謂いと取り敢えずは採っておく。]

2014/01/22

悼 十勝のかっちゃん

先日1月15日午前10時13分に筋萎縮性側索硬化症で46歳で亡くなられた十勝のかっちゃんへショパンの「別れの曲」を送ります……安らかに……天国で、同じ病いで旅立った僕の母と一緒に聴いて下さい……

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 延命寺の舊址

    ●延命寺の舊址

停車場より二三丁行けば、延命寺の舊址(きうし)あるへし、黄靈山地藏院、古義眞言宗、本尊延命地藏尊、行基の作なり、長六寸五分、當寺は行基の開基にして、僧朝賢中興す、三浦氏及北條氏代々の祈願所なりしといふ、惜しむべし囘祿の災に罹る

[やぶちゃん注:現在、JR逗子駅近く(門前まで三八〇メートル)の当該地(逗子市逗子三丁目)に高野山真言宗黄雲山延命寺、通称、逗子大師として再興されて現存する。同寺公式サイトの「お寺案内」によれば、『奈良時代聖武天皇の天平年中、行基菩薩自ら作られた延命地蔵尊を安置したことが当山の始まりで』、平安時代に『弘法大師が当山に立寄り、延命地蔵菩薩の厨子を設立せられる。その後、住民の尊信が高まり、この地を「厨子」と呼び現在の「逗子」という地名の発祥と伝わっている』とし、鎌倉時代には『三浦氏の一党が大いに当寺を修補して祈願寺と』した。室町時代には『北条氏の三浦攻めに敗れた三浦一族の一人、三浦道香主従は当山に於いて自害する。現在、主従の墓は境内に存す』とある。戦国期には『北条氏の帰依を得、天文年間、僧朝賢が中興の祖となる。天正年間(天正19年11月)には徳川家康公より御朱印五石を下附される。頼雄・尊栄の師資相次いで復興を計り貞享年間(貞享4年)伽藍竣工し新たに大日如来尊像造立して本尊と』して続いたが、近代に至り、本誌刊行の二年前の『明治29年に大火災により鐘楼を残し全て焼失し』て本文のような仕儀となり(但し、公式サイトには廃寺の記載はない)、『更に関東大震災により仮本堂9棟全潰の災厄にあい、第七十一世本瑞代、震災直後直ちに復興に着手し、大正13年11月起工し大正14年に旧本堂を完成』、昭和になって『第七十二代祐瑞代に弘法大師御誕生千二百年記念事業として昭和49年起工し昭和52年4月末完工、新本堂落慶を記念して「逗子大師」と称号し、その後第七十三世神田宜圓代に、檀信徒及び参詣者の増加により旧会館の狭小及び老朽の庫裡等の改築を発願し諸般の協力を得て弘法大師御遠忌千百五十年記念事業として檀徒会館及び庫裡の建築に着手、昭和58年10月着工、昭和59年9月に完成し現在に至る』とある。

「二三丁」約二一八~三二七メートル。

「六寸五分」約一九・七センチメートル。

 なお以下は、底本では全体が一字下げで標題はポイント落ちである。]

   ●三浦道香の墓

五輪塔なり、高三尺許、寺傳に道香は入道道寸の弟なり、道寸北條氏綱と矛盾の時、永正十年七月七日、道香氏綱と此地に戰ひ、軍破れ此寺に入て自害す。寺に道香の帶せし正宗の短刀を傳へしかと、慶長頃失へりといふ、又道香が一族の墓碑六基あり。

[やぶちゃん注:三浦道香(どうこう ?~?)三浦義同(道寸)の弟で逗子住吉城城主。北条早雲によって岡崎城を攻められた道寸は弟道香の守る住吉城に退いたものの、同城も攻められて落城、道寸は三浦新井城に逃れたが、道香は最後まで戦って七騎で落ちのびた末に、ここ延命寺で自刃したと伝えられている。これらは道香とその家臣たちの冥福を祈るために家臣菊池幸右衛門が延命寺に建立したもの。本文には五輪塔とあるが、ネット上の写真(私は未訪問)を見ると孰れも宝篋印塔である。]

耳嚢 巻之八 粂の平内兵衞の事

 粂の平内兵衞の事

 

 淺草寺境内に粂(くめ)の平内の像とて、石を人の形程に作り立髮(たてがみ)にて上下(かみしも)を着し、何かりきみたる像なり。いかなるものと尋(たづぬ)るに、平内兵衞は稻葉家の浪人なりといふ。近頃京傳といへる遊子(いうし)の作りたる奇蹟考といへる書に平内が事しるせしも、甚だ非説なりと、人の語りし故、彼(か)の人に尋問(たづねとひ)しに、右石像は平内兵衞が像にはあらず。平内兵衞は稻葉の浪人には相違なく、右平内兵衞深く禪學を好み、右禪學の師たる鈴木九太夫入道正三(しやうさん)の像を、平内兵衞造立(ざうりふ)なせしよしなり。其證は右像の脇に平内兵衞夫婦の石牌(せきはい)もありとなり。正三は御旗本の健士にて、禪學は名高き人にて平内兵衞も信仰の門弟にて、正三沒後、仁王身(にわうしん)の姿を以(もつて)造立なせしと人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:故実譚から旧蹟由来検証で連関。

・「粂の平内兵衞」底本の鈴木氏注に、『平内兵衛長守。九州の浪人で、武技に達し、江戸に出て内藤丹波守政親に仕えたが、再び浪人し赤坂で道場を開いた。千人斬を行ない、折からの正雪の乱が原因で取締りが厳しくなると、旗本青山主膳に身を寄せ、久米氏と改めた。この主膳は番町皿屋敷の主人公であるという。平内はたまたま鈴木正三の門に入って禅を学び、浅草寺の金剛院で修禅し改悟して、滅罪のためにわが像を仁王門の傍において衆人の眼にさらしたものという。天和三年没。ただし異説多く、正確な伝記は明らかでない』とあり、岩波版長谷川氏注には、『小田原城主稲葉丹後守家来で、浪人して浅草に住み久米兵内左衛門長盛と称し金貸をしたが情深しとか、兵藤平内兵衛といい、久米は妻の姓、青山主膳の臣、また千人斬をし鈴木正三門に入り仁王座禅の法を修する、天和三年(一六八三)没などといろいろ伝える』と記されてある。また、稲垣史生「考証 江戸の面影(二)」(電子本)によれば、戦前まで浅草寺宝蔵門脇にこの石像を祀った「粂平内堂」があり、縁結びの霊験あらたかとして参詣人を集めたとあり、講談の伝える石州津和野藩士粂兵内の話を載せるが(江戸市中で弱きを助け強きを挫く血気盛んな壮士で悪人をバッタバッタと斬り倒すも、幡随院長兵衛や柳生但馬守が正道への導き役として登場、遂には殺人の前非を悔いて座禅した自らの石像を手ずから彫り、それをこの浅草寺の地中に埋めて参詣人に踏ませたというぶっ飛び話である)、稲垣氏によれば、この人物について分かっている信ずべき事実は『三州挙母(ころも)藩士で後に浪人、江戸赤坂に道場をひらいて平内流(柳生支流)の剣および鉄扇術をおしえた。天保三年(一六八三)六十六歳で死んだ』ということだけで、「浅草区誌」(上巻)にも、同兵内堂の項には『本尊久米兵内兵衛 由緒未詳 堂宇一坪七合四勺五才』とあるのみとある。

・「立髮」月代(さかやき)を剃らずに長く伸ばした髪形。元禄(一六八八年~一七〇四)頃、伊達男たちに好まれた。

・「遊子」本来は旅人の意であるが、山東京伝は江戸生であるし、ここは「遊士」で、遊び人、放蕩者という卑小語であろう。京伝は寛政の改革中に過料や手鎖五十日の処分(寛政三(一七九一)年に彼の洒落本三作が禁令を犯したという理由による筆禍)を受けており、南町奉行であった根岸の立場上は悪感情はなくとも(事実なかったと思う)、こう綴る必要があったのかも知れない。

・「奇蹟考」「近世奇蹟考」。前にも注したが、「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年の直近である文化元(一八〇四)年に板行された山東京伝の考証随筆の白眉。底本の鈴木氏の注には、『江戸時代の著名な人物の逸事を考証した随筆。文学・工芸・遊芸・侠客など各方面に及ぶ』とある。私は所持していないため、ここではその内容が誤っているというコンセプトで訳したが、もしかすると違うかもしれない。識者のご指摘を乞うものである。

・「鈴木九太夫入道正三」仮名草子作者鈴木正三(しょうさん 天正七(一五七九)年~明暦元(一六五五)年)。本名は「しょうぞう」と読む。元は徳川家に仕えた旗本で、九太夫と称し、石平道人などとも号した。三河国東加茂郡足助郷の徳川家家臣鈴木重次の長子として生まれた。慶長五(一六〇〇)年の関ケ原の戦い、同十九年の大坂冬の陣、元和元(一六一五)年大坂夏の陣に出陣するが、同六年、江戸にて出家したが、寛永一五(一六三八)年には平定された島原・天草の乱に弟重成が出陣して同十八年には天草の初代代官に任じられると、正三も翌年に天草へ渡った。三年間の天草滞在によって仏教への帰依を説き、諸寺を建立、「破吉利支丹」を著した。正三の仏法は「仁王禅」といわれる特異なものであった。著作に『七部の書』とされる「二人比丘尼」「念仏草紙」などがある(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」による)。岩波版長谷川氏注に『晩年は牛込天徳寺内の了心庵にいた』とある。この寺は現在の新宿区赤城元町にあったものらしいが現認出来ない。『七部の書』の一つである没後出版の「因果物語」は近世仏教説話中でも怪談物のとして頗る面白い。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 粂(くめ)の平内兵衛(へいないびょうえ)の事

 

 淺草寺境内に粂(くめ)の平内の像と申し、石を人の形に等身大ほどに作り、立髪(たてがみ)にて裃(かみしも)を着し、何かしらん、力んで御座る像である。

 これはいかなる所縁(ゆかり)のものかと訊ねてみたところが、平内兵衛と申すは稲葉家の浪人であったと申す。

 近頃、

「山東京伝とか申す遊び人の作った「近世奇蹟考」と申す書に、この平内のことを記して御座るが、これ、はなはだしき誤説で御座る。」

と、さる御仁が語って御座ったゆえ、その人にさらに詳しく訊き質いたところ、

「……この石像は平内兵衛が像にては、これ、御座ない。平内兵衛は確かに稲葉の浪人には相違御座らぬが、かの平内兵衛、深く禅学を好み、彼の禅学の師であった鈴木九太夫入道正三(しょうさん)の像を、平内兵衛が造立致いたものと聞いて御座る。その証拠にはかの像の脇には平内兵衛夫婦の石碑もちゃんと御座いまする。」

とのことであった。正三と申すは御旗本の立派な武人にて、禅学に於いては名高き人にて御座って、平内兵衛もその信仰の門弟にて御座って、正三の没後、仁王身(におうしん)の姿を以って造立なしたものであると、その御仁が語って御座った。

中島敦 南洋日記 十二月七日――太平洋戦争勃発前日――

        十二月七日(日) 晴、暑し

 朝テニアン行のつもりにて用意をとゝのへ、小田電機に行くに、高里氏やめにするといふ。明日タロホホに行かんといふ。

 實業學校の國書室より本を借出して謹む。鏑木淸方「蘆の芽」山口剛「紙魚文學」を讀了。

[やぶちゃん注:「タロホホ」サイパン島中央部やや北寄りの東方の地名。当時は泉村とい日本名が附いていた。

『鏑木淸方「蘆の芽」』相模書房昭和一三(一九三八)年刊。明治の末頃からの風俗などを含む随筆集。著者の挿絵が数多く所収されており、知られた清方の好きだった樋口一葉の絵も所収する。「窓硝子の中」氏のブログ「以下余白」の「蘆の芽。鏑木清方著。」で表紙(函のそれと思われる)と一葉の絵が見られる。

『山口剛「紙魚文學」』三省堂昭和六(一九三一)年刊。山口剛(たけし 明治一七(一八八四)年~昭和七(一九三二)年)は国文学者。大正一三(一九二四)年に母校である早稲田大学教授となった。近世文学研究の基礎を築き、井原西鶴・近松門左衛門の研究で知られ、中国文学の翻訳書もある。著作に「西鶴・成美・一茶」「江戸文学研究」など(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。本書は発売の前年に逝去した母に捧げられた随筆集で、山口の生前最後の著作である。

 この日附のたか宛書簡が残る。以下に示す。

   *

〇十二月七日附(消印サイパン郵便局一六・一二・七。世田谷一六・一二・二〇。パラオ南洋庁地方課。東京市世田谷区世田谷一の一二四 中島たか宛。封書。航空便)

十二月三日、サイパンといふのは島の名前で、僕の今ゐる町(サイパンの港のある町)はガラパンといふ。彩帆(サイパン)柄帆(ガラパン)といふ漢字をあててゐる。今日はガラパンの町から二里近く離れたチャランカ(茶蘭花)といふ町へ行つた。バスで。ここは砂糖會社のある所。ここの國民學校へ寄つて、二年生の授業をのぞいたら、丁度「よみかた」四の、かぐやひめの所をやつてゐた。桓もきつと、今頃この邊(へん)を習つてゐるんだらうと思ひながら、見て來た。風が強いのは、涼しくていいが、ほこりが立つて、かなはぬ。靴がまつ白になる。とにかく、どうしても十二月のやうな氣がしないね。毎日普通の御飯のほかに、燒いも二百匁と、バナナ二十本ぐらゐ喰べるんだよ。少し胃擴張(かくちやう)になるかもしれないね。パラオに歸つたら、こんなに喰べられないから、今の中に、たべとくんだ。

 十二月四日、今日、チャランカより、もう少し遠いアスリートといふ所へ行つた。あたり一面のさとうきび畑(甘庶(かんしよ)畑)。さとうきびは、すすきみたいな穗(ホ)を出すんだね、それが風になびいてゐると、一寸内地の秋の野原のやうだ。サイパンは中中大きい島だな。今日はバスがないので、郵便局の赤白動車に乘せてもらつて行つた。

 十二月五日、今日も赤自動車にのつけて貰(もら)つて、マタンシャといふ所に行く。海岸の景色の良い所だ。ここも山の中腹までずうつと、甘庶(さとうきび)畑がつづいてゐて、みごとだ。今日は、ここへ來て始めてほんの少し雨が降つた。この前トラックにゐた時は二十日間ぶつつゞけに雨が降つたが、今度は、まるで降らない。へんなものだね。

 田舍道の自動車はずゐぶんゆれるので、かなり疲(つか)れる。三日間田舍行きがつゞいたから、明日は休みにしよう。ガラパンの町には岩波文庫を少し竝べてゐる店があるので、毎日一さつづつ買つて讀んでゐる。僕一人で、ここの岩波文庫を買占めて了ひさうだ。

 十二月六日。昨日、内地からの船が着いたので、今日は、町の店といふ店が活氣づいてゐる。色んな品物が一ペんに來るので、買手の方も今日は急(いそ)がしい。今日はじめて内地の蜜柑(ミカン)を二つ喰べたよ。柿(カキ)も來たといふことだが、僕等の手には、はいらなかつた。(みかんの方は。パラオ迄行くけれど、柿はパラオ迄行かない。遠いので、日數がかかるので駄目になるから、)南貿(ナンポウ)(南洋貿易(ボウエキ)株式會社)といふ小さな百貨店へ行つて、文藝春秋(十二月)を買ひ、それから、そのほかの中央公論や改造や、色んな雜誌をガツガツ立ち讀みして來た。サイパンはさすがに雜誌が早く讀めていいな。この舶船はパラオへ行かない船なので、十二月號の雜誌は、パラオでは十二月二十五日頃でなければ讀めない。大變な違ひさ。今日は罐詰(カンヅメ)なんか、方々の店に一杯竝んでゐる。何だか心丈夫だね。サイパンは藥(くすり)も、パラオより、ずつと、やすい。パラオでは八十五錢のビオフェルミンが、サイパンでは七十五錢だし、パラオで一圓六十錢のエビオスが、ここでは一圓三十五錢。それにナガヰのではないが、とにかくエフェドリンもあるし、(パラオには絶對(ゼツタイ)に無い)、サイパンで藥を少し買ひためて行かうと思つてゐる。大陸、サイパンはパラオにくらべて、三割以上、(何でも)物價が、やすいさうだ。八百屋の小賣の公定(サイパンだけの)價格を教へてやらうか。今、目の前に、その表(ヘウ)がはりつけてあるんだ。それに依(よ)るとね、「百匁について、茄子(九錢)バナナ(五錢)サツマイモ(四錢)キウリ(八錢)里芋(七錢)ヤマノイモ(とろろいも)(七錢)大根(九錢)」となつてゐる。ほかのものは、とにかく、いも類と茄子(ナス)だけは毎日たくさん喰はせられるよ。

 今日は、南興(ナンコウ)水産といふ會社のサイパン出張所長の鈴木といふ男に會つた。一高を僕より一年前に出た男だ。釘本と同級さ。とにかく、此の土地では一流の名士らしい。ずゐぶん、いそがしさうだ。晝飯を御馳走してくれた。南洋には今の所、一高の同窓生は僕とこの男と二人しかゐないんだよ。土地では大變評判(ヘウバン)の良い男らしいぜ。

 前にも書いたが、僕の今泊つてゐる家も、細君が内地へ歸つてゐるので、夜は、俄(ニワカ)(男)やもめ二人で、わびしいこと夥(オビタダ)しい。アメリカとの間が、決裂となつた場合、出張中のオレなんか一體どういふことになるのやら、まるで見當(ケンタウ)もつかない。其の時にならなければ、何もかも判(ワカ)らない。

 考へても仕方のないことは考へないことにして、まづ當分の間バナナといもばかり喰つてゐることにしよう。

 十二月七日。今日は日曜。朝、島民の集まる教會へ行つて見た。讚美歌(サンビカ)は中々上手だ。島民の女達の一番うしろに、日本人の女が一人、ひざまづいて祈(イノ)つてゐた。ちやんとよそ行きの和服を着てゐるが、顏は、白い薄布(ヴエイル)で覆(おほ)つてゐるので見えない。わざと、顏をかくしてるんだと思ふ。日本人だつてカトリック(伊庭なんかが行つてた教會と同じ)の信者があつたつて、フシギではないわけだが、島民の中に、たつた一人まじつて、島民の言葉のお祈(いの)りにあはせて頭を下げてゐるのは、何だか、いたましいやうな氣がした。

 今日の午後は、テニアンといふ島へ渡つて、そこで三四日とまつて來るつもりだ。テニアンにゐる間に内地行の飛行機が來るだらうから、この手紙は、少し早すぎるけど、今日ここでポストへ入れて郵便局へ出しておくことにする。テニアンからは飛行便が出せないので。

 テニアンへはポンポンで二時間位だが、風が強いから相當ゆれるだらう。テニアンには島民は一人もゐない。日本人ばかり。それも南洋興發(コウハツ)といふ砂糖會社に關係した人ばかり(甘煮畑の農民等)のゐる所。僕の仕事には何のあまり關係のない所だが、日本人の國民學校が四つばかりあるので、一寸見て來るんだ。

 オレが手紙ばかり出すもんだから、お前も大分南洋の島の名前をおぼえたらう? 自分が旅行したやうな氣になつてるんぢやないかい?

 テニアンから歸つて、ヤップ向けの船にのる迄の間――十日から十七・八日頃迄の間に、お金(十二月分)を送るつもり。旅先で、旅費の中から送るんだから、いつもの通り送れるか、どうか判(ワカ)らない。パラオへ歸つたら直ぐ足(タ)りない分を送る。お年玉も送らう。但し、これはミンナ、情勢に變化のない場合のことだ。いざとなつたら、全然送れなくなるかもしれぬ。

 パラオよりは涼しい、とは、いふものの、日中(ニツチユウ)の暑さは、相當なものだ。太陽の直射(チヨクシヤ)の強さ、といつたら、ないね。手の甲から、見てゐる中(ウチ)に、プツーリと汗(アセ)の玉が湧(ワ)き出してくるよ。もう内地の冬なんて、とても考へられないな。あゝあ、暑い暑い。

 年内に、南洋から、そちらへ行く船がないから(そちらから來る船はある)これからは飛行便ばかりだ。

 桓の、この學期の成績が惡くても、叱(しか)らないでくれよ。學校がかはると、色々勝手が違つて、うまく行かないものだし、又、色んな心理的な動搖(ドウエウ)のことも考へに入れてやらなければ可哀さうだ。たゞ、おだやかにはげましてやつてくれ。

 お前達は、もう世田谷の生活に慣れたらうが、しかし、オレの想像の中には、本郷町の家にゐるお前達しか、浮かんでこない。オレの書さいの机の下にゴソゴソもぐりこんでくる格や、スコップをもつて、花だんをつつついてゐる格や、家(ウチ)の前の道で遊んでゐる桓や、牛屋のだんだんの所でオレの歸りを待つてゐる桓や、墓所でをかしな歌をうたひながら、仕事をしてゐるお前やそんな昔のすがたばかりが何時も眼の前に浮かんできて仕方がない。

   *

太字は底本では傍点「ヽ」。

・「二百匁」「百匁」一匁は三・七五グラムであるから百で三百七十五グラム、二百で七百五十グラム。

・「ナガヰのではないが、とにかくエフェドリンもある」気管支喘息の特効薬エフェドリンの発見者長井長義(弘化二(一八四五)年~昭和四(一九二九)年)は半官半民の大日本製薬合資会社(後の大日本製薬株式会社、現在の大日本住友製薬株式会社)の技師長を務めていたことがあるから、同成分の製剤を同社が「ナガヰのエフェドリン」として販売していたものかとも思われる。

 ほん書簡中の、「アメリカとの間が、決裂となつた場合、出張中のオレなんか一體どういふことになるのやら、まるで見當(ケンタウ)もつかない。其の時にならなければ、何もかも判(ワカ)らない」及び「但し、これはミンナ、情勢に變化のない場合のことだ。いざとなつたら、全然送れなくなるかもしれぬ」の部分に着目されたい。……この日記と書簡が書かれたのは昭和一六(一九四一)年十二月七日……真珠湾攻撃の前日なのである……]

萩原朔太郎 短歌二首 明治三九(一九〇六)年十一月

おどろきぬ日輪みれば紅熱してひまわりばなとくちづけするに

 

お染さまあれ久さまとより添ひてふたりゆく手に闇のあやなき

 

[やぶちゃん注:『無花果』(明治三九(一九〇六)年十一月発行)に「美棹」の筆名で掲載された。朔太郎満二十歳。「ひまわり」はママ。この第一首は先に掲げた『坂東太郎』第四十四号(明治三九(一九〇六)年七月発行)の一種と表記違いの同一歌である。]

杉田久女句集 27 青嵐

萱の中に花摺る百合や靑嵐

 

一間より僧の鼾や靑嵐

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年 櫓山荘

 櫓山莊

 

夫の手に壁炉の榾火たきつがれ

 

[やぶちゃん注:「炉」は底本の用字を採った。「櫓山莊」については既注。]

胡蝶   八木重吉

へんぽんと ひるがへり かけり

胡蝶は そらに まひのぼる

ゆくてさだめし ゆえならず

ゆくて かがやく ゆえならず

ただひたすらに かけりゆく

ああ ましろき 胡蝶

みづや みづや ああ かけりゆく

ゆくてもしらず とももあらず

ひとすぢに ひとすぢに

あくがれの ほそくふるふ 銀糸をあへぐ

 

[やぶちゃん注:二箇所の「みづや」はママ。「銀糸」とは嬰児キリストのベツレヘムからエジプトへの逃避の途上、追手を眩まし、且つ、夜の砂漠の冷たい風から防ぐために蜘蛛が張った糸のイメージだろうか。識者の御教授を乞うものである。]

鬼城句集 冬之部 笹啼

笹啼    笹啼や蕗の薹はえて二つ三つ

[やぶちゃん注:「笹啼」「笹鳴き」は冬にウグイスが舌鼓を打つように「チチッ」と鳴くこと。]

2014/01/21

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 一 細胞(3) 細胞という存在の様態

 以上述べた如く、細胞にも組織にもさまざまの種類があるが、これは皆身體を組み立てる材料であつて、如何なる器官でもそのいづれかかより成らぬものはない。身體を家屋に譬へて見れば、種々の組織は板・柱・壁・疊などに相當するもので、肺・肝・腸・胃などの器官は恰も玄關・居間・座敷・臺所などに當る。即ちこれらの器官は形も違ひ働きも異なるが、いづれも若干の組織の組み合せで出來て居るといふ點は相均しい。されば細胞が集まつて組織を成し、組織が組み合つて器官を成し、器官が寄つて全身を成して居るのであるから、細胞は身體構造上の單位とも見做すべきもので、これをよく了解することは身體の如何なる部分を論ずるに當つても必要である。そして各細胞の壽命は全身の壽命に比して遙かに短いから、絶えず新陳交代して居るが、子供が漸々成長するのも、病氣で瘦せたのが囘復するのも、皆その間に細胞の數が殖えることによる。恰も毎日人が生まれたり死んだりして居る間に、三千五百萬人が四千萬人五千萬人となつて、日本民族が大きくなつたのと同じである。

 

 また人間でも他の生物でも親なしには突然生ぜぬ通り、細胞の殖えるのも決して細胞のない處へ偶然新な細胞が生ずるといふ如きことはなく、必ず既に在つた細胞の蕃殖によつて數が增してゆくのであつて、その際には毎囘まづ始め一個の細胞の核が分裂して二個となり、次に細胞體も二個に分れてその間に境が出來、終に二個の完全な細胞になり終るのである。但し場合によつては核が分裂しただけで細胞體は分れぬこともあり、また細胞と細胞との境が消え失せて相繫がつてしまふこともあるから、實物を調べて見ると幾つと算へてよいか分らぬやうなことも往々ある。特に或る種類の海藻では、大きな體が全く境界がない原形質から成り、その中に無數の核が散在して居るだけ故、細胞といふ字は全くあて嵌らぬ。生物體は細胞より成るといふのは決して間違ではないが、かやうな例外とも見える場合のあることを忘れてはならぬ。

Saibounakisourui

[細胞のない海藻類]

[やぶちゃん注:図「細胞のない海藻類」であるが、これは緑藻綱イワズタ目イワズタ科イワズタ属タカノハズタ Caulerpa sertularioides f. longipes に似ているように私には思われる。匍匐茎が円柱状に見える点、奇麗に鷹の羽状に揃った小枝が平面的に広がって陸上の草のように見え、さらに先端部が尖っている点、直立葉の軸が直線状に立ち上がっている点などから、かく同定した。]

中島敦 南洋日記 十二月六日

        十二月六日(土) 晴、

 高里氏に電話を掛けて貰ひ、鈴木榮氏に會ふことにする、正午、南興水産の事務所に高里氏と行き、よか樓にて晝餐の馳走に預かる。昭和四年卒業文乙、釘本松島等と同級者なり。

[やぶちゃん注:「昭和四年卒業文乙」文乙はドイツ語。敦は大正一五(一九二六)年四月に第一高等学校文化甲類(英語)入学であるが、翌年の春に肋膜炎罹患により一年休学しているため、卒業は昭和五(一九三〇)年四月である。

「釘本」一高の旧友釘本久春。既注。

「松島」釘本と並列している以上、やはり一高の旧友と思われるが、不詳。]

中島敦 南洋日記 十二月五日

        十二月五日(金) 曇・晴、雨、

 昨夕七時より今朝六時迄熟睡、更に朝食後、七時半より九時半より採椅子によりて眠る。快適。正午高里氏と赤自動車に乘る、今日はマタンシャ行なり。築港、軍の建物。松林中の油樽、陸稻畑。珍し。綿花、キャッサバ、甘庶。タナバコの島民部落、教會。一時マタンシャ國民學校に着く、前は細きメリケン松の海岸、背後は山、風景佳。海沿ひの一本道を行くこと三十分餘。キャッサバ畑、甘庶畑。遙か山の中腹に及ぶ迄甘庶の穗。沖繩人の家。牛、山羊。家に歸る小學校生徒。甘庶の葦を嚙れる兒。海、リーフ線の白き一線。マタンシャに歸り、松林の中にて海風に肌をさらしつゝ、「家畜系統史」を讀む。面白し。四時又、赤自動車に乘る。

 今日は珍しく埃立たず、

[やぶちゃん注:「マタンシャ」サイパン島西岸北方の南寄りにある地域名。今回、この地名を捜すためのネット検索の中で、貴重な戦前の多くの地図と写真を含むサイト「サイパン パウパウツアーズ」のサイパン島の古い地図や資料を発見した。必見である!

「タナバコ」マタンシャの南に接する地域名。南で当時のガラパン町に接する。

「家畜系統史」スイスの動物学者コンラット・ケルレル(一八四八年~一九三〇年)の著で加茂儀一訳の岩波文庫昭和一〇(一九三五)年刊のものであろう。岩波書店公式サイトの解説によれば、『数千年にわたって,われわれ人類の親しい友としてともに歴史を歩んできた家畜たち.犬,猫,馬,豚,ラクダ,牛,山羊,羊や家禽類の系統を野生時代から現在へと概観する.個々の家畜については,それぞれくわしい研究もあり,書物も多いが,本書のように,総括的にしかもコンパクトにこれをまとめたものは少ない.写真・挿絵40葉』とある。]

中島敦 南洋日記 十二月四日

        十二月四日(木) 晴

 午前十時半バスにて、高里氏とチャランカ。それより郵便局の赤自動車にてアスリートに赴く、丘の起伏一面に亙る丈高き甘煮。薄の如き、長き穰の靡き。碧空を割るタッポウチョウの頂。國民學校は四方、軍の施設に取圍まれあるものの如し、南陽神社。電信兵の練習、風、甘庶の穗を吹いて、秋の如し。四時、又、赤自動車に搖られ埃の道を歸る。

 夜近江丸入港

[やぶちゃん注:「アスリート」現在のチャランカの西方、サイパン島南部の内陸を南北に走る道に“Aslito Rd”という道路名とその中ほどにアスリートを冠した地名が認められる。

「タッポウチョウ」タポチョ山(Mt.Tapochau)。サイパン島の中央に聳えるサイパン島最高峰の火山。タッポーチョ山とも表記する。標高は四百七十三メートルと低いものの、太平洋の洋上を吹き抜ける気流がこの山に当たることにより気流が乱れるため、天候の変化が激しく、山頂部は霧がかかり気温が低く、温帯気候となっている。そのため、標高によって植生が異なり、山麓には熱帯林が広がっているが、山頂部にはススキの草原が広がっている。サイパン島は世界最深のマリアナ海溝の隆起した部分であり、タポチョ山の山底はその海底にある。そのため裾野に当たるマリアナ海溝から測るならば、実に一万千三百八十四メートルの高さがあり、ハワイ島のマウナ・ケア山と同様、世界で最も高い海底山の一つである(以上はウィキの「タポチョ山」に拠った)。]

中島敦 南洋日記 十二月三日

        十二月三日(水) 晴、
 朝支廳、八時半、高里氏とチャランカに行く。バス。海沿の埃道。興發。ハマチリの竝木宜し。國民學校に行く。二年生よみ方「かぐやひめ」見學。晝食をよばれて、村役場に少憩、後、ガラパンに歸る。
[やぶちゃん注:現在のサイパン島西岸のガラパンから七キロメートルほどの海岸線にチャランカノアという地名を見出せる。
「ハマチリ」不詳。識者の御教授を乞う。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 52 モース、一時帰国の途へ 第十章~了

M297
図―297

 

 先日河に沿って歩いていたら、迫持(せりもち)の二つある美事な石の橋があった。その中央の橋台には堅牢な石に亀が四匹、最も自然に近い形で彫刻してあるのに気がついた(図297)。

[やぶちゃん注:この橋不詳。挿絵もあり、橋脚の亀の彫刻といい、特徴的である。知っておられる方は是非、御一報を。]

 

 汽船は十一月五日に出帆することになっている。私は送別宴や、荷づくりや、その他わ仕事の渦の中をくるくる廻っている。学生の一人は荷物を汽船へ送る手伝いをし、松村氏は私が米国へ生きた儘持って帰らねばならぬサミセンガイの世話をやいてくれた(これは生きていた)。私の同僚及び親愛にして忠実なる学生達は、停車場まで送りに来てくれた。横浜で私は一夜を友人の家で送り、翌日の午後は皇帝陛下の御誕生日、十一月三日を祝う昼間の花火の素晴しいのを見た。これは色のついた煙や、いろいろな物が空中に浮び漂(ただよ)ったりするのである。大きな爆弾を空中に投げ上げ、それが破裂して放射する黄、青、緑等の鮮かな色の煙の線は、空中に残って、いろいろな形を現す。その性質と美麗さとは、驚く可きものであった。夜間の花火は昼間程珍しくはなかったが、同様に目覚しかった。港の船舶は赤い提灯で飾られ、時々大きな火箭(ひや)が空中に打上げられて、水面に美しく反射した。

[やぶちゃん注:「皇帝陛下の御誕生日、十一月三日」天長節。当初は旧暦九月二十二日であったが、明治六年の改暦以降は新暦に換算した十一月三日となっていた。但し、当時は休日ではない。後の昭和二(一九二七)年三月四日に当時の休日法「休日ニ関スル件」が改正されて祝祭日に設定された。

「花火」ウィキの「花火」によれば、『打揚花火は、1751年(宝暦元年)に開発されたとされている。それ以前の花火は、煙や炎が噴き出す花火であったと考えられている』とあり、この伝統的な古い花火がこのモースの「昼間の花火の素晴し」さと一致する。また『明治時代になると、海外から塩素酸カリウム、アルミニウム、マグネシウム、炭酸ストロンチウム、硝酸バリウムといった多くの薬品が輸入され、それまで出せなかった色を出すことができるようになったばかりか、明るさも大きく変化した』とはあるものの、これらの物質の輸入開始は明治一二(一八七九)年から明治二〇(一八八七)年にかけての時期に『段階的に行われ、日本の花火の形は大きく変化した。これ以前の技術で作られた花火を和火、これ以後のものを洋火と言い分けることもある』とあるから、今のようなカラフルな花火をイメージしてはいけない。]

 

 我々は十一月五日に横浜を出帆し、例の通りの嵐と、例の通りの奇妙な、そして興味のある船客とに遭遇した。然しこれ等の記録はすべて個人的だから略す。ただここに一つ書いて置かねばならぬことがある。船客中に、支那から細君と子供達とを連れて帰る宣教師がいた。この家族はみな支那語を話す。私は「ピース・ポリッジ・ホット」を子供達とやって遊び、彼等の母親から支那語の訳を習って、今度は支那語でやった。もう一人の宣教師は、立派な支那語学者で、私に言葉の音の奇妙な高低を説明してくれた。上へ向う曲折はある事柄を意味し、それが下へ向くと全然別の意味になる。我々は――すくなくとも私は――正確な曲折を覚えることが出来なかった。そしてこの宣教師は「ピース・ポリッジ・ホット」が、我々式の発音では次のような意味になるといった。

 

 頭 隠気な 帽子

      {苦痛が多い

 頭 隠気な{ぶるぶる 振える

      {同じこと

 頭 隠気 歩く

 古い 時の 竈(かまど)

[やぶちゃん注:「{」は底本では三行に渡る大きな一つの「{」括弧である。]

 

 彼はそこでそれを漢字で書き(私はそれをここへ出した。図298がそれである)、私には判らなかった曲折の形式を、漢字につけ加えた。

M298

図―298

 

 私は一人の日本人に「ピース・ポリッジ・ホット」を訳し、彼等の文章構成法に従って漢字を使用してそれを書いてくれと頼んだ。次にそれを別の日本人に見せ、済みませんが英語に訳して下さいと頼んだ結果、以下の如きものが出来上った。

 

 Pea juice is warm

 And cold and in bottle

 And has already been

 Nine days old.

 

[やぶちゃん注:最後の英文は前とバランスをとるため、前後を一行空きとした。この段落最後には底本では石川氏による以下の割注〔 〕で附されてある。

   *

ピース・ポリッジ・ホットとは、

 Pease Porridge hot,

 Pease Porridge cold,

 Pease Porridge in the Pot

 Nine Days old

 云々と、意味のないことをいって遊ぶ子供の遊戯の一である。

   *

これはマザーグースの古い童謡であり、日本の「せっせっせーのよいよいよい」のような手合わせ遊びの歌でもある。遊び方は英文ウィキの“Pease Porridge Hotに詳しく、メロディも聴ける。サイト「ミント音声教育研究所」の「Pease porridge hotによれば、一例として以下の様な歌詞があるので引用させて戴く(訳文と解説は諸星蝸牛氏)。

   《引用開始》

Pease porridge hot

豆のシチューがあったかい

Pease porridge cold

豆のシチューがつめたい

Pease porridge

豆のシチューがなべの中

Nine days old.

9日古い

Some like it hot

ある人は好きあったかいのが

Some like it cold

ある人は好きつめたいのが

Some like it in the pot

ある人は好きなべにあるのが

Nine days old.

9日古い

 

[やぶちゃん注:以下は、「解説」パート。]

 

日本の「せっせっせ」のような、手合わせ歌です。

だんだん速く歌いながら手を叩き合って、寒さを吹き飛ばしたそうです。

Pease

 昔の言葉で pea えんどう豆 の複数形です

Pease porridge hot

 いまでもイギリスでは寒い冬の朝に食べるおかゆで、燕麦の粉を水やミルクで煮て作る濃いスープで、トロットしています

 アメリカで言う オートミール のことです

Nine days old

 一度作っておいて、食べるときには、暖め直します

 1週間以上もつのですね!?

   《引用終了》

「言葉の音の奇妙な高低」中国語の四声。

 

『そしてこの宣教師は「ピース・ポリッジ・ホット」が、我々式の発音では次のような意味になるといった。……』この部分、原文を以下に歌詞も含めて示して、ちょっと考察してみたい(括弧の用法は本文と同じ)。

……and the missionary said it conveyed the following meaning to him: —

                Head murky hat

                           Painful

                Head murky shaky

                           all the same

                Head murky walk

                Old time furnace

これはちょっとわかり難いが、ネィテイヴの英語の発音を中国語として聴くと次のように言っているように聴こえる、ということではなかろうか? 二行目の三つの並列は奇妙でこれは“cold”が三様に聴こえたことを意味しているものと思われる。

 例えばこれは全くの私の推測であるが、試しにそれらしい語を捜して現代中国語の拼音(ピンイン)と漢字表記を以下に示してみたい(中国語の出来ない私が暴虎馮河で中日辞書をひっくり返して思い付いたことでしかないのでご注意あれ。但し、以上に述べた如く、二行目と三行目を読み換えて考えて見た)。 

Pease”は“pītóu” (「劈頭」:副詞で「真っ向から」「いきなり」の意。)とかに

porridge”は“píqi  yīnyù”(「脾气阴郁:「性格が陰鬱な」の意。)とかに

pot”は“mào”(「帽」:「帽子」の意。)とかに

cold”は三様に聴こえて

  kǔ”(「苦」:形容詞「苦しい」「つらい」の意。)のようにも

  dǒu”(「抖」:動詞「震える」の意。)のようにも

  tóng”(「同」:形容詞「同じ」。訳は名詞節化してあるが、英文を見る限り問題ない。)のようにも

in the pot”は、この一語で“xíngzǒu”(「行走」:動詞「歩く」「通る」の意。)とかに

Nine”は“niánmài”(「年邁」:形容詞「老齢の」「高齢である」の意。)とかに

Days” は“diǎn”(「点(點)」:名詞で「定められた時刻」の意がある。)とかに

old” は“huǒ”(「火炉」:「ストーブ」「炉」の意。)とか“lúzi”(「炉子」:「竈」「ストーブ」の意。)とかに

 

に聴こえる、というようなことなのではなかろうか? ネット上のネイティヴ発音の音声なども参照にしたが、もっと相応しい語もあるであろう。また、私のこの部分全体の解釈方法そのものに対する疑義や反論もあろうかとは存ずる(但し、この注作業の中で私のコンセプトは恐らく正しいという自信は得られた気がする)。大方の御助言と御批判を俟つものである。現在、中国語に堪能な教え子とともに新たに仕切り直して再考証中。ちょっとだけ述べておくと、どうもこれは、モースたちの下手な中国語ではこういうトンデモない意味になってしまいますよ、ということなのではなかろうか?(これこそ真のピース・ポリッジ・ホットだ!)しばしお待ちあれかし!

 

「彼はそこでそれを漢字で書き(私はそれをここへ出した。図298がそれである)、私には判らなかった曲折の形式を、漢字につけ加えた。」原文は“Then he wrote it in Chinese characters, which I have appended (fig. 298), with the form of inflection, which I did not understand, marked on the character.”。後の「漢字」は「文字」(アルファベット)の誤りである。現在の拼音のそれのように附してあるということである(現在の拼音は一九五八年の中華人民共和国の制定になる漢語拼音方案によって生まれた)。

「図―298」を電子化しておく。但し、モースが附した四声染みた記号は形が判然としない(しかもどうも当該文字に示すのではなく、語全体に附している感じがして記号そのものの意味が明確でない)ので省略した。モースの筆記体は非常に読み難い。教え子の手を借りて、とりあえず以下のように判読した。

 豆粥熱  Dau chuk it

 豆粥凍  Dau chuk dung

 豆粥响煲 Dau  chuk  heung  bo

 九日老    Kau  yat  lo

「煲」(とろ火で長時間煮るの意)は元画像では「保」+「灬」であるが、表示可能な字体で示した。なお、今のピンインとは全く一致しないので要注意。例えば現代中国語普通話(北京語)の「豆」は“dòu”、「粥」は“zhōu”で、「熱」は“rè”、「凍」は“dòng”である。「响」は「響」の異体字で“xiǎng”(アルファベット綴りがやや近い。但し、これだと何だか意味が通じないのだが)である。試みに現代中国語普通話(北京語)拼音で示して見る。

 豆粥熱   Dòu  zhōu  rè

 豆粥凍   Dòu  zhōu  dòng

 豆粥响煲 Dòu  zhōu  xiǎng  bào

 九日老      jiǔ  rì  lǎo

以下、現在、教え子がさらに考証中で、少し述べておくと、このモースの写した発音記号は北京語ではなく、広東語の由。今、暫くこちらもお待ちあれかし!

【二〇一四年二月十日追記開始】

 以下は中国語に堪能な教え子が非常な苦労をして考証して呉れた一部始終である(一部表記に変更を加えたが、殆んど元のメールのままである)。モースの本記載について、ここまで分析した人物は恐らく今までにいないものと私は考える。そうして殆どの人々(日本人のみならず世界中の本書を読んだ人々)がどこか曖昧なままに読み過ごしてきたこの箇所を目から鱗で日本語で解説してくれた教え子に私は心から快哉を叫びたい。

   《引用開始》

 先生、私なりの解答です。

 まず、これは間違いなく広東語です。熱をit(北京語はre)、日をyat(同ri)と発音していることから明白です。

 さて、もうひとつの大きな論点。

『そしてこの宣教師は「ピース・ポリッジ・ホット」が、我々式の発音では次のような意味になるといった』

という文章の意味がどうにも取りにくいことです。一体「我々式」とは何のことでしょう。英語を母語とする人々のことなのか……。

 いや、どうもしっくり来ません。その時はたと気づいたのです。

「モース先生式の下手な発音では、こんな意味の中国語に聞こえてしまうよ。」

と宣教師がたしなめたのではなかったか?

 そうに違いありません。

 では宣教師の耳に聞こえたモース先生の中国語の歌を漢字で書き起こすことに挑戦してみます。細かい検証は後にし、まず先に私の結論を示します。

 

頭濁役

頭濁(痛・動・同)

頭濁向歩

古日爐

 

 それでは説明いたします。宣教師の書き残した漢字による歌詞は次のようなものです。

 

豆粥熱

豆粥凍

豆粥响[注1]

九日老

 

[注1:これは「呴」と読めなくもないが、そうだとしたら広東語の読みは「ホーイ」、最後にn音が現れないため手書きの発音記号と大きく異なり、無理が生じてしまうのです。]

 

 では、広東語の発音を書き記します。広東語に不案内な私は以下に記す広東語発音提供サイトで読みを自分の耳で聞きました。そしてアルファベットによる発音表記と、実際に耳で聞いた場合の聞こえ方には、かなりの違いがあることに驚きました。そこで読み方を音としてイメージしやすいように、敢えてカタカナで表現してみます(発音が複数ある場合にはそれらのひとつを私の判断で採用しました)。(参考サイト:http://humanum.arts.cuhk.edu.hk/Lexis/lexi-can/

 

dau6 zuk1 jit6                  ダウ ジョッ イッ

dau6 zuk1 dung3                 ダウ ジョッ ドーン

dau6 zuk1 hoeng2 bou1           ダウ ジョッ ヘーン ボーウ

gau2 jat6 lou5                  ガウ ヤッ ローウ

 

 モース先生自身による英語の記述によれば、宣教師はモース先生の下手な中国語発音だと次のような意味なると言ったとのことです。

 

Head murky hat

       Painful

Head murky  shaky

            all the same

Head murky walk

Old time furnace

 

 さて、ここからが頭の体操となります。上記の英語の意味を持ち、且つ先に示した発音に近い広東語を特定させていく作業です。以下、補足が必要な箇所だけ説明を加えます。

 murkyは「薄暗くて陰気な」という意味がありますが、これを表わす漢字で「ジョッ」に近い発音を持つものは見つけられませんでした。そこでmurkyのもうひとつのニュアンス「どんよりと濁った」で物色すると、まさに「濁」に出会いました。発音はzuk6です。

 Hatは「帽子」ですが、これを意味する漢字で「イッ」に近い発音を有するものは見出せません。そこでhatの別の意味である「仕事、職業、役職」で探すうち、「役」を見つけました。発音はjik6です。

 shakyですが、その意「震える、揺らぐ」では解決しません。そこで頭を柔らかくして「揺れる、動く」というニュアンスで見つけたのが「動」です。発音はdung6です。

 Walkは「ヘーン ボーウ」にあたる部分です。件のサイトで同じ発音を有する字を検索し、そこから見出したのが「向歩」。発音はhoeng3 bou6

 

 では最後にもう一度、私の解答を示し、その発音記号、そして耳で聞いた場合のカタカナ表記をお示しします。

 

頭濁役

頭濁(痛/動/同)

頭濁向歩

古日爐

 

tau4 zuk6 jik6                  タウ ジョッ イッ

tau4 zuk6 (tung3/dung6/tung4)   タウ ジョッ (トーン/ドーン/トンー)

tau4 zuk6 hoeng3 bou6           タウ ジョッ ヘーン ボーウ

gu2 jat6 lou4                   グー ヤッ ロー

 

 如何でしょうか? 正確な歌詞の発音と、モース先生が口にしたと思われる発音、両者のカタカナ表記はとても似ています(先の広東語発音提供サイトで実際に発音を耳にしてみて下さるともっと明確にその近似性が感じられるものと思われます)。なお、広東語の発音は実に難しいです。モース先生が正確に発音出来なかったことは、決してモース先生のセンスのなさが原因ではなかったように思えます(追記:広東語の促音。イッとかジョッなど……。唐代中原地方の中国語にも促音があったそうです。おそらく宋代もその影響が濃厚であったと思われます。その後北京を首都とする元朝や明朝、北方異民族支配による清朝を経て、現在の北京官話が形作られましたが、いつの間にか声調は四つだけに減少し、促音は消え去るという単純化が進んでしまいました。北京語を学んだ僕は広東語の発音が好きになれないと以前書きましたが、もしかしたら、古典詩を朗読した際に際立つその発音の美しさを自分が決して真似できないという嫉妬心が、そんなことを僕に言わせるのかもしれません)。

   《引用終了》

 モース先生がこれを読んだら、どんなにか喜んだろう! これこそがモース先生も望まれた、真に純粋に学究的な態度というものだと私はしみじみ思うのである。なお、ブログ版では私のトンデモ誤釈を抹消線で残し、貧しい私の愚劣さを記念(かたみ)として永く記しおくこととする。【二〇一四年二月十日追記終了】


 春、メットカーフ氏と一緒に日本へ来た時、我々はサンフランシスコに数日いたので、案内者をつれて支那人町を探検した。我々はこの都会の乱暴な男女の無頼漢共と対照して、支那人の動作に感心し、彼等が静な、平和な、そして親切な人々であるということに意見一致した。今や、半年を日本人と共に暮した後で、私は再びこの船に乗っている三百人の支那人を研究する機会を得たのであるが、日本人との対照は、実に顕著である。彼等は不潔で、荒々しく、これ等の支那人は、行儀の点では、サンフランシスコや支那にいる同階級の人々よりも、ずっと優れているのであるが、生活の優雅な温良に関しては、日本人の方が支那人より遙かに優秀である。

[やぶちゃん注:「メットカーフ氏」“Mr. Metcalf”。ウィリアム・ヘンリー・メトカーフ(William Henry Metcalf 一八二一年~一八九二年)。ミルウォーキーの実業家にして旅行家でアマチュア写真家。どうも、こちらのLuke Gartlan 氏の英文論文“Japan Day by Day? William Henry Metcalf, Edward Sylvester Morse and Early TouristPhotography in Japanを読む限り、モースの日光旅行にも彼は同伴していたらしい。

 磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、モースの一時帰国は『来日前に契約していたアメリカ各地での講演を行ない、また東京大学のために大学用の書籍や雑誌、標本類を集め、あわせて妻子を日本に連れてくるため』であったが、他にも東京大学から依頼されていた物理学と経済学の教授探しもあった(物理学教授にはトマス・メンデンホールを選び、経済学は畑違いの御存知フェノロサを推挙した(彼は当時ハーヴァード大学及び大学院で哲学を修し、当時はボストン美術学校に通っていた)。彼の日本近代美術史への貢献は言わずもがなながら、山口静一氏の研究によればフェノロサの日本美術への激しい傾倒の動機はモースの陶器蒐集に触発されたものだとも言われる。モースの影響力、恐るべし!)ここに出た帰国の旅の道連れたるシャミセンガイは、彼が江ノ島で採集した五百個体の一部で、帰米後の『十二月十九日のボストン博物学会例会などで展示した。八月二十日以来海水を二度取り替えただけなのに、死んだ個体は一匹もいなかったという。この動物は非常に生命力が強いので有名なのである』……そんな青森県以南に棲息する、かつては江の島で五百匹も採取出来たシャミセンガイ……あなたは見たことがありますか?……海岸生物フリークの私でさえ……最早、自然の彼等を見たことはないのです……]



これを以って「
日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚」の全注釈を終了した。

耳嚢 巻之八 食物をまづ試るをおにといふ事

  食物をまづ試るをおにといふ事

 

 食味を試(こころみ)るを、おにをするといふ事、埒(らち)なき事哉(かな)とおもひぬるに、禁中におにの間といふ所あり。關東御賄所(まかなひどころ)にもおに役といふ者あれば、おにといふ事、古き事なるべし。文字は於煑などゝもかくやと、語りし人に尋(たづね)けるが、それはしらずと答ふ。有職の再論をまつためこゝに記す。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:禁中有職故実由来俚言譚二連発。

・「おに」には飲食物の毒味役の意がある。「鬼食ひ」は貴人の食物の毒味を謂い、禁中に於いて元旦に天皇が飲む屠蘇を薬子(くすりこ)と称する少女が鬼の間(後注参照)から出て試食したことに由来するとされている。酒や湯茶の毒味の場合は「鬼飲み」などとも言った。

・「おにの間」鬼の間。清涼殿内の西南の廂の間の一室の名(南側が天上の間東端で北は女房の詰め所である台盤所)。東の殿上の間との境に当たる南壁に魔除けとして白沢王(はくたくおう:古代インド波羅奈国(はらなこく)の王で鬼を捕らえた剛勇の武将と伝えられる人物。)が鬼を斬る絵が描いてあったことに拠る。

・「關東御賄所」江戸城内の調理担当部署。

・「於煑」食い物を火にて煮て毒を消し去る毒消し、また、地獄の鬼の釜の中で煮るに等しき毒消、いや、毒味なれば地獄の鬼に釜で煮らるる如き苦渋決死の役という冗談ででもあろうか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  食物の毒味を致すを「おに」と申す事

 

 食味の毒味を試むることを「おにをする」と申すが、これは埒(らち)もないことじゃとずっと思って御座ったところが、禁中に「おにの間」と申す所が、これ、あるとのこと。

 実に関東御賄所(おんまかないどころ)に於いても、「おに役」と申す毒味役の者が御座るによって、実にこの毒味を「おに」と申す、相当に古きことなので御座ろう。

「……字は、これ……『於煑(おに)』なんどとでも書くので御座ろうか?」

と、試しに、これを語って呉れた御仁に訊ねてみたが、

「……いや、どのような字を書くかは、これ、存じませぬ。……」

と答えで御座った。

 これが如何なる淵源を持ったる言葉なるか、有職故実の再論議を俟たんがために、ここに記しおくことと致す。

耳嚢 巻之八 長竿といふ諺言の事

 長竿といふ鄙言の事

 

 下ざまの諺に、長竿(ながさほ)にする、又長竿に成るといふは、人の首尾あしき事などいふなり。倒(たふ)るといふ事にや、其子細わかたざりしに、先年京都御普請に登りし人の物語りに、禁中にさほの間といふあり、長き間に留(とま)りは一段落(おち)て、しらす樣の由。禁中伺候の輩不埒なる者は、右竿の間にて其罪を申渡(まうしわたし)、右白洲樣の處へ突出す事の由。鄙諺(ひげん)長竿も、かゝる事によつて云習(いひならは)しけるやしらずと、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:付句の由来と故事由来譚で軽く連関するか。寧ろ、一つ前の「すあまの事」などの有職故実シリーズである。

・「鄙言」「ひげん」と読む。田舎の言葉。また、世俗の言葉。鄙語(ひご)。

・「長竿にする、又長竿に成る」とは、当時一般的には、俗語で遊女が客に冷たく当たること、また、客が遊女と縁を切ることをいう。根岸はその辺をちょっとぼかして言ったのであろう。

・「さほの間」棹の間は小板敷(こいたじき)の間(清涼殿の南面から小庭に突き出た殿上の間に登る所にあった板敷きの部分。最下層の殿上人である蔵人らが伺候する場所であった)の西にあった間で、底本鈴木氏によれば、『御椅子の覆いをかけておく棹がある所』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 長竿という俚言の事

 

 下世話の謂いに、「長竿(ながさお)にする」また「長竿になる」と申すは、所謂、その方面の遊び人の、これ、首尾のよろしからざることなんどを申す語で御座る。

 長過ぎる竿は立てとして倒るること多ければ、それより、不首尾に終わる、と申す意に転じたものででも御座ろうか、なんどと勝手に思うておったものの、その子細に就きては一向分からず御座ったところが、先年、京都の御所御普請のため、上洛致いた御仁の物語りに、

「……禁中清涼殿には棹(さお)の間と申すところが御座る。このひょろ長き間の、清涼殿の前の小庭へ出るとどのつまり、端っぽのところは、板敷がさらに一段落ちて御座いまして、そこは丁度、お白洲のようになって御座います。……」

との由にて、

「……さても禁中伺候(しこう)の輩の内、不埒なる行いを致いたる者は、この棹の間にてその罪を申し渡しまして、かのお白洲の如き所へ、どんと、突き出だすを、これ、習いと致いて御座る由にて……かの、根岸殿のご不審で御座った俚諺の例の『長竿』と申すも、このような故事によって言い習わされたることか……あ、いや、確かなことにては御座いませぬが……」

と、その御仁が語って御座った。

ひまはりばな 萩原朔太郎 短歌五首 明治三九(一九〇六)年七月

   ひまはりばな

 

驚(おどろ)きぬ日輪(にちりん)みれば紅熱(ぐねつ)して向日葵(ひまはり)ばなと接吻(くちつけ)するに

 

極熱(ごくねつ)の印度(いんど)の人は色黑(いろくろ)く物(もの)いふさまも惓(う)き形(かたち)かな

 

南國(なんこく)の窓(まど)に芭蕉(ばせう)の實(み)を割(わ)るとさゝくれしたる人(ひと)を夢(ゆめ)みぬ

 

支那(しな)へ行(ゆ)く大路(だいろ)もとむと朝(あさ)いでゝ夕(ゆふべ)かへらぬ逍遙人(せうえうびと)は

 

夢(ゆめ)ざめや涙(なみだ)の痕(あと)にをどろきて少(すこ)しく思(おも)ふよし幼(おさ)なごと

 

[やぶちゃん注:前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十四号(明治三九(一九〇六)年七月発行)に「美棹」の筆名で掲載された。朔太郎満十九歳。

 四首目「逍遙人(せうえうびと)」のルビは初出では「せうよぶびと」。誤植と断じ、訂した。底本校訂本文も無論、「せうえうびと」とする。

 五首目「をどろきて」及び「幼(おさ)なごと」はママ。]

杉田久女句集 26 炎夏の叙景

    *


縫ふ肩をゆすりてすねる子暑さかな

 

髮の香のいきるる夜かな鳴く蛙

 

[やぶちゃん注:「いきる」はラ行四段活用の自動詞「熱(いき)る」「熅(いき)る」と同じラ行下一段活用の自動詞「熱れる」「熅れる」。あつくなる・ほてる・むしむしするの意。熱気のためにむっとする「草いきれ」の「熅(いき)れ」はこれが名詞化したもの。なお、この一句前の前に打たれたアスタリスクは特異で、しかもその意図が読者には判然としない。これは久女の中の隠された意識の一つの区切りのようにも思われる。

 

月の輪をゆり去る船や夜半の夏

 

日盛の塗下駄ぬげば曇りかな

 

旱魃の鋪道はふやけ靴のあと

杉田久女句集 25 雛祭

春燈消えし闇にむき合ひ語りゐし

 

大江戸の雛なつかしむ句會かな

 

雛菓子に足投げ出せる人形たち

 

手より手にめで見る人形宵節句

 

ほゝ笑めば簪(かんざし)のびらや雛の客

 

[やぶちゃん注:「簪のびら」「びら」は銀などの金属性の簪の装飾具の一種で、細長い板状の下げ飾り。ウィキによれば、これをメインにした簪には、例えば「ビラカン」「扇」「姫型」と呼ばれるものがある。これは『金属製の簪が頭の部分が扇子のような形状をしているものや、丸い形のものがあり、家紋が捺されている。頭の平たい部分の周りに、ぐるりと細長い板状のビラが下がっている。耳かきの無い平打に、ビラをつけたような形状。現代の舞妓もこれを用い(芸妓になったら使用しない)、前挿しにする。その場合、右のこめかみ辺りにビラカン、左にはつまみかんざしを挿す』とあり(「つまみかんざし」とは布を小さくカットしたものを折り畳んで竹製のピンセットでつまんで糊をつけ、土台につけていき、幾重にも重ねたりなどして花を表現したものを纏めて簪にしたもの。多くは花をモチーフにしていることから「花簪」ともいう。布は正絹が基本で、かつては職人が自分で染めから手掛た。布製であったため、昔のものは残りにくい。その辺りも花らしいといえる。現代では舞妓たちが使うほか、子供の七五三の飾りとして使われることが多い。少女向け。と同ウィキにはある)、また「びらびら簪」と称するものもある。それは『江戸時代(寛政年間)に登場した未婚女性向けの簪。本体から鎖が何本も下がっていて、その先に蝶や鳥などの飾り物が下がっている派手なもの。裕福な商人の娘などが使ったもので、既婚者や婚約を済ませたものは身に付けない。天保二年から三年頃には、京阪の裕福な家庭の若い子女の間で、鎖を七・九筋垂らした先に硝子の飾り物を下げた豪勢なタイプが人気を博していたと記録されている。本格的に普及したのは明治以降である。左のこめかみあたりに挿す用途のものとする』とある。]

 

幕垂れて玉座くらさや案の雛

 

函を出てより添ふ雛の御契り

 

古雛や花のみ衣(けし)の靑丹美し

 

[やぶちゃん注:「み衣(けし)」「御衣(みけし)」の形で「ころも」の意。上代の「着る」の尊敬語であるサ行四段活用動詞「着(け)す」の連用形が名詞化したもの。「靑丹」は「あをに(あおに)」で、ここは襲(かさね)の色目の名であろう。表裏ともに濃い青に黄を加えた色で染めたもの、若しくは、表が濃い香色(赤味の強い茶色)、裏は薄い青色。]

 

雛愛しわが黑髮をきりて植ゑ

 

古雛や華やかならず﨟たけれ

 

髮そぎて﨟たく老いし雛かな

 

古りつつも雛の眉引匂やかに

 

紙雛のをみな倒れておはしけり

 

雛市に見とれて母におくれがち

 

雛買うて疲れし母娘食堂へ

 

瓔珞搖れて雛顏暗し藏座敷

 

雛の間や色紙張りまぜ広襖

杉田久女句集 24 春蘭にくちづけ去りぬ人居ぬま

春蘭にくちづけ去りぬ人居ぬま

 

[やぶちゃん注:「春蘭」単子葉類クサスギカズラ目ラン科セッコク亜科シュンラン連Cymbidiinae 亜連シュンラン Cymbidium goeringii。土壌中に根を広げる地生蘭の代表種。春咲き。参照したウィキシュンランの冒頭には、『古くから親しまれてきた植物であり、ホクロ、ジジババなどの別名がある。一説には、ジジババというのは蕊柱を男性器に、唇弁を女性器になぞらえ、一つの花に両方が備わっていることからついたものとも言われる』と記す。こういうところがウィキの粋なとこ。無粋な私の評釈なんぞ、最早、不要。]

杉田久女句集 23 活くるひま無き小繡毬や水瓶に

活くるひま無き小繡毬や水瓶に

 

[やぶちゃん注:「小繡毬」バラ目バラ科シモツケ亜科シモツケ属コデマリ Spiraea cantoniensis。知られた花であるが、続けた注とのバランスからグーグル画像検索「Spiraea cantoniensisを示しておく。なお、繍毬花(てまりばな)と書くと、歳時記上は六月頃にアジサイに似た球形の青白い花を枝の両側につけるキク亜綱マツムシソウ目スイカズラ科ガマズミ属オオデマリ Viburnum plicatum 変種ヤブデマリ Viburnum plicatum var. tomentosum 若しくはその更なる変種を指す(グーグル画像検索「Viburnum plicatum var. tomentosum)。]

杉田久女句集 22 菜の花

捨てである花菜うれしや逢はで去る

 

花畠に糞する犬を憎みけり

 

花大根に蝶漆黑の翅をあげて

 

月おそき畦おくられぬ花大根

杉田久女句集 21 青麦

靑麥に降れよと思ふ地のかはき

 

靑麥ややたらに歩み氣が沈む

 

靑麥に潮風ねばく吹き狂ふ

杉田久女句集 20 躑躅

莊の道躑躅となりて先上り

 

花ふかく躑躅見る歩を移しけり

 

[やぶちゃん注:この嘱目吟、私は高い確率で橋本豊次郎・多佳子夫妻の小倉市中原(なかばる。現在の小倉北区中井浜)にあった豊次郎自ら設計建築になる、大正九(一九二〇)年落成の三階建和洋折衷西洋館櫓山(ろざん)荘でのものと読む。櫓山荘については私のブログ電子テクスト橋本多佳子句集「海燕」 昭和十年 櫓山日記の注を参照されたい。]

杉田久女句集 19 木の芽

木々の芽の苞吹きとべる嵐かな
 
今掃きし土に苞ぬぐ木の芽かな
 
晴天に苞押しひらく木の芽かな

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年  聖母学院 

 聖母學院

 

見さくる野黄なりここなる園も枯れ

 

枯園に聖母(マメール)の瞳碧をたたへ

 

ただ黑き裳すそを枯るる野にひけり

 

枯園に靴ぬがれ少女達を見ず

 

學び果てぬ日輪枯るる園に照り

 

[やぶちゃん注:「聖母學院」現在の大阪府寝屋川市美井町にある私立女子校、大阪聖母女学院中学校・高等学校であろうが、多佳子との関係は年譜上の知見では不詳。多佳子のいた大阪帝塚山とは直線距離でも二十一キロメートルを越えるので近隣ではない。学校法人聖母学院は大正一〇(一九二一)年にフランスの「ヌヴェール愛徳及びキリスト教的教育修道会」より創立者メール・マリー・クロチルド・リュチニエはじめ七人の修道女が来日、大正121923)年に大阪市玉造に於いて聖母女学院を創立、同年四月に開校、大正一四(一九二五)年開校の聖母女学院高等女学校は昭和七(一九三二)年の大阪府寝屋川市校舎(現在、香里(こおり)キャンパスと呼称)の落成によってここに移転、また同年四月には聖母女学院小学校開校していた(聖母女学院中学校の発足は戦後の昭和二二(一九四七)年の学制改革による。以上は学校法人聖母学院」公式サイトの「沿革」に拠る)。同公式サイトの「建物について」によれば、『香里キャンパスの校舎の建築は、一九三一年三月十二日、創立者メール・マリー・クロチルド・リュチニエの「鍬入れ」に始まり、翌年(一九三二年)の年明けに完了しました。設計に当たったのは、軽井沢夏の家(現ペイネ美術館)、東京女子大学、聖アンセルモ教会など、多くの名建築を日本各地に残し、日本の近代建築の発展に大きく寄与したことで有名な建築家アントニン・レーモンド氏です』。『当時、レーモンド氏は自ら、東京から汽車に揺られて何度もこの地に足を運び、この小高い香里の丘の上に、アーチを多く使った、この白く華やかな校舎を完成させました』とあって、現在、国登録文化財(有形文化財建造物)に指定されているとある。行ったことも見たこともなく、句には枯れたその庭園のみが描かれるのであるが、かの多佳子(当時三十八歳)を歩まするに如何にも相応しい景観という気がする。

「見さくる」「見放(さ)く」(他動詞カ行下二段活用)は、はるかに見る・遠く見やる・みはるかすの意の万葉以来の古語。

「マメール」フランス語“Ma mere”。「私の母」。]

おもたい かなしみ   八木重吉

おもたい かなしみが さえわたるとき
さやかにも かなしみは ちから

みよ、かなしみの つらぬくちから
かなしみは よろこびを
怒り、なげきをも つらぬいて もえさかる

かなしみこそ
すみわたりたる すだまヽヽヽとも 生くるか

鬼城句集 冬之部 木兎

木兎    木兎のほうと追はれて逃げにけり

2014/01/20

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 1 大森貝塚第二回発掘 所載に係る大森貝塚出土品20個体を同定

2013年11月25日にアップした
に現われたる20個体の大森貝塚出土品スケッチ総てについて、本日、モースが明治一二(一八七九)年に東京大学理学部紀要第一号として刊行した“Shell Mounds of Omori”(「大森貝塚」)の図版及び、それに再録されていない現在の東京大学蔵の大森貝塚標本資料(「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の各標本)によって、それぞれが現在の公式のどの標本に当たるかを同定して注に増補した。
同データベースには、土器だけでも896個体あるが、それらを一応、総て視認しつつ、本日早朝4時より初めて延べ13時間かけて取り敢えず完了した。
最近の作業の中では、最も苦労した仕儀であったが、相応の達成感はある。
「……だから何だって?……そりゃねぇ……ただ心底楽しかったことをね……ちょっとだけ……好きな君に囁きたくなっただけ、さ……」

2014/01/19

犬と散歩しながら

毎日、アリスと散歩しながら思うことがある。

今時、僕の住んでいる大船の場末でも、山々は切り崩され、すっかり宅地化が進んでしまった。

たまに辛くも生き残った山の一画の踏み分け道を辿って見ても、突如、無粋なフェンスが立ち現われなかったとしても、所有者と思しい人間に立ち去れと手を振られるのがオチだ。

僕らが小さな頃は、違っていた。
家と家の間には抜け道があり、路地裏が幾らも小さな迷宮として、僕らの眼前にあって、山へ分け入る小径には、蛇や獣の匂いがして、何時でもちょっとした未知の世界として忽然と立ち現われてくれたものだった(それは今よりもずっと背が低く、勢い、ある種の怖さを以って自然を見上げていたからだとも言えるし、そもそもその頃の僕らの中の地図は山向こうが白くなっていたからだとも言えよう)。

ところが今や、普通の市街地にあっては、そうした「探検の動悸」を感じることは最早、なくなってしまった。
そこには「私有地につき立ち入りを禁ず」という看板か、潜り込む隙もない柵か、管理者の蛇のような監視の眼があるばかりであって、そうしてそこで感じるのは「神経症的な動悸」なのである。
いや、そればかりではない。ちょっとした猫の額ほどの公園でさえも「犬を連れてくるのはやめましょう」などという注意書きがあったりして、アリスと僕は呆然としてしまうばかりなのだ。……

僕には聴こえてくる……
……「こら、起きろ。ここはみんなのもので、誰のものでもない。ましてやおまえのものであろうはずがない。さあ、とっとと歩くんだ。それが嫌なら法律の門から地下室に来てもらおう。それ以外のところで足をとめれば、それがどこであろうとそれだけでおまえは罪を犯し たことになるのだ。」……
という、カフカの「審判」をインスパイアした阿部公房の「赤い繭」の、あの台詞が……

そうして……そうして実は、僕には……
これらが今の僕らの前に突き付けられた
――今の現実世界そのものの表象――
だとしか思われないのである。

……かつての妖しげな「抜けられます」という饐えた臭いのする路地を、ドキドキしながら走り抜け、獣道のようなところに迷い込んでも、葦原を必死で掻き分けて行けば、そこには懐かしい家々の夕餉の匂いが漂っていたり、時には飛び出たそこが知らない場所であっても、そこには目の覚めるような美しい海が広がっていてわくわくしたりする……そんな――希望――は最早、今の僕らには許されていないではないか……

……その代わりに今、僕らの行く手にあるのは
――奇体なナショナリズムで「私有地」化された幻想の思想の「OFF LIMIT」という看板であり
――「危ないから~してはいけません/~はしないようにしましょう」という真綿で首をやんわり締める『人間にやさしい』抑圧命令の立札
ばかりではないか?……
僕はあの小説の主人公が遂に赤い繭になってしまう意味が、何だかすっかり、今――分かってしまった――ような気が、するのである……



どうもやり残していることが一つあってそれが咽喉に刺さった骨のように気になる。明日は朝から一切のテクスト更新をやめてそれをやり遂げよう。――こう書けば、やらずにはおれなくなるから――

中島敦 南洋日記 十二月二日

        十二月二日(火) 晴

 朝高里氏とポンタムチョウの女學校に赴く、海に接して大木多く茂れる良き所なり。

 午後、第一、第二國民學校に行く。月良し、航空便を出す。

 奉安丸入港、

[やぶちゃん注:「ポンタムチョウ」サイパン島中央部の北西端に位置するガラパン(Garapan。当時は柄帆町という和名も与えられていたらしい)の市街地名。ウィキの「ガラパン」によれば、現在はアメリカ合衆国『北マリアナ諸島自治連邦区、サイパン島最大の市街地で、観光産業の中心地でもある』。『主要なホテルやレストランおよびショップ、サイパンの戦いで犠牲となった米兵を追悼するアメリカ記念公園、マリアナ諸島最大の小学校などがある』とある。当時はここに日本の『南洋庁サイパン支庁が設置されたことにより、サイパン島の行政・経済の中心地となった。サイパン支庁を境に北側を「北ガラパン」、南側を「南ガラパン」と称して』おり、『松江春次の起こした南洋興発株式会社の事業拡大にあわせて、ガラパンは都市としての機能が整備され、多くの日本人が移り住むようになった。内地と同様の生活を享受するために、学校、病院、地方法院(裁判所)などの公共施設や、南洋興発、建設会社、銀行、新聞社などのオフィス、映画館、公衆浴場といった商業施設があった。最盛期には、邦人の人口が』約一万四千人にまでなり、『日本を模した街づくりが進められたため、「南洋の東京」と呼ばれた』。昭和七(一九三二)年『に南洋群島部落制に基づく「ガラパン町」となった』とある(リンク先には日本統治時代当時の写真もある)。

 この日附で横浜高等女学校時代の教え子(前日の諸節とは別人)に宛てた葉書とたか宛書簡(こちらが本文の航空便)が残る。以下に示す。

   *

〇十二月二日附(消印サイパン郵便局一六・一二・二 パラオ南洋庁地方課。横浜市中区豆口台六九 川口直江宛。「カナカ土人若き男女の語らひ」の絵葉書)

(どうも少し俗惡な繪葉書で困るけれど)

 今、サイパンといふ所にゐます、毎日バナナを二十本ぐらゐづつたべてゐますよ、そちらはもう寒いだらうな、今僕は、すつぱだかで汗を流しながら書いてゐるんだが、

   *

〇十二月二日附(消印サイパン郵便局一六・一二・二 世田谷一六・一二・二〇。パラオ南洋庁地方課。東京市世田谷区世田谷一の一二四 中島たか宛。封書。航空便)

 先づお父さんに賴んで貰ひたいこと、「岩波文庫の『サミエル・ジョンスン傳』(上)〔ポズウェル著神吉三郎譯〕(六十錢)」を買つていたゞき度いこと。之は古本屋でなく、澁谷でも横濱でも三軒茶屋でも、その邊の本屋で買つていたゞいて、それをお前が地方課宛に送つて呉れ。「上」と書いたが、「下」も出てゐれば一緒に送つてほしい。多分まだ出てゐまいと思ふが。

○毎晩毎晩、良い月夜がつゞく。夕方、まだ暗くならない中に、月が明るく輝(かゞや)き出すので、夜中過まで、ずうつと、暗くならずに、明るさが續く。東京は近頃晴れてゐるかな? そちらで見る月はさぞ寒々(さむざむ)としてるだらうな。こつちではウチワを使ひながら、月を見てるんだが。サイパンは道が良く、廣く、眞白な砂の道(そのかはり、晝間のまぶしいこと! 日よけめがねを掛けなくちや、とても歩けない)だから、月夜の散歩は、とても、氣持が良い。毎晩一時間か二時間はブラく歩き廻る。途中で、犬にふざけたり、島民兒童と話をしたりしながら。所々の木の蔭に、牛や山羊の寐てゐるのも面白い。月の光は明るくて美しいが、しかし、寂しいなあ! 所で、オレは宿舍をかへたよ。サイパンに實業學校があるが、そこの先生のウチに同居することになつた。先生といつても、オレと同じくらゐの年齡(トシ)で、今は一人でゐるんだ。勿論、二人とオレもその人も、外で飯を喰つてゐるんだ。家はたゞ寐るだけだ。この先生もこの八月に細君をクニへ歸した所で、やはり職をやめて内地へ歸りたがつてゐるんだが、中々やめさせて貰へないんだ。慶應(ケイヲウ)を出た人なんだがね、面白いことに、この人も内地で、喘息が苦しくてたまらないので、南洋へ逃げて來たんださうだ。サイパンへ來てから喘息は起らないが、その代り、細君が身體を惡くして了つて困つたさうだ。僕が喘息の藥をのむのを見て、自分の、三年前の苦(くる)しみを思出したらしく、色々と喘息の話をし合つたんだが、「今は喘息が起つてもいいから、内地へ歸りたい、南洋にゐると頭がどうかなつて了ふ」と言つてゐた。オレの場合は簡單(カンタン)さ。オレの喘息は、南洋へ來たつて、起るんだから、これは勿論、内地へ歸つた方が良いにきまつてゐる。しかし、田邊(タナベ)氏(之が、その先生の名前だ)の場合は、内地へ歸れば喘息が起り、南洋なら起らないんだ。それでも、今は、内地へ歸りたいといふんだよ。オレが歸りたがるのも無理はないだらう。この人も、畫(ヱ)や音樂が好きらしい。家の中に油畫が三つ四つ、かかつてゐる。文化人は、肉體的にも、精神的にも、南洋には住めないらしいな。全く頭が狂ひさうになるよ。お前達の戀しさばかりぢやないんだ。精神的にほ完全な島流しだし、肉體的には、しよつちう、火あぶりにあつてるやうなものだ。

 ここの公學校の教育は、ずゐぶん、ハゲシイ(といふよりヒドイ)教育だ。まるで人間の子をあつかつてゐるとは思へない。何のために、あんなにドナリちらすのか、僕にはわからない。僕が生徒をつかまへて話しかけても、向ふはコチコチで、「ハイ! ×××で、あります。」といつた風な、ガツカリするやうな返辭(へんじ)しか、しない。まるで打ちとけないんだ。内地人の先生はコハイものときめてかかつてゐるんだね。こんな教育をほどこす所で、僕の作る教科書なんか使はれては、たまらない。今の教科書で十分なんだ。先生達も大體、今の讀本で滿足してるんだし、今更、僕なんぞ出て來なくても良かつたんだ。或る學校へ行くと、讀方は今のままで良いから、算術の教科書を作つてくれといふ。理科の教科書がほしいといふ所もある。ひどいのになると、裁縫(サイホウ)の教科書を作つてくれといふ所もある。(オレにサイホウの教科書を作れつていふんだぜ。)驚いたなあ! これなら、小學校の先生あがりの人でもやとへば良かつたんだよ。とにかく、オレが出て來たのは間違ひだつたな。南洋廳のためにも、オレの爲にも。

 時局はどうなるのか。この二三日で急に何とかなるのではないか。さうなれば、しばらくそちらとの交通は、とぎれるのでだらう。いやでも神經を尖(トガ)らせない譯に行かない。サイパンを朝出た飛行機が、晩には、この便りを横濱に運(はこ)んで行く。それを考へると、何か、たのしいが、しかし、手紙ではなく、僕自身が飛んで行けるのは、何時になることやら。月を見て故國をしのぶ氣持も、近頃はやうやく解つて來たよ。

 

 今、この島に咲いてゐる花。――佛桑華(ブツソウゲ)(ヒビスカス)・カンナ・日々草・鳳仙(ホウセン)花・百日革・素馨(ソケイ)(ジャスミン)・芙蓉(フヨウ)。千日坊主(何時かお前が新池から持つて來た、白や桃色の玉の咲く草)矢車天人菊(本郷町の家にあつたらう? 何年も續(つづ)いて、一本か、二三本づつ咲いてゐた茶色のやうな黄色のやうな花)。猩々(シヨウジヨウ)草。その他、名の分らない花が大分あるが、その中のいくつかの花びらを同封しておく。色が變るか、どうか分らないが。キヨウチクトウも咲いてゐる。

 本郷町の家では、今時分は、庭のべコニヤなんかを鉢に移して、家の中に取入れるので、いそがしかつたね。資(すけ)さんの家では、今年はベコニヤは全滅だらうなあ。可哀さうに。秋海棠(シユウカイドウ)なら、又、來年出るが、ベコさんは、どうかな。二三年前に作つたベコニヤはとても大きかつたつけね。

 花を見る度に、あの小さな庭のことを考へないことはない。冬の寒さはイヤだつたが、あの書(シヨ)サイの冬の花達は可愛かつたな。クロッカスやパンジイやボケや色んな種類の櫻草が、硝子(ガラス)越の日だまりに咲いてゐた有樣を思出すよ。

 こちらは年中ヒビスカスの眞赤な花が眼をさすやうだ。あれを見ると、暑くるしくなるよ。アナトール・フランス全集(英語の)の朱色(しゆ)の背(セ)に、陽(ヒ)のあたつてゐたのなんかもなつかしいな。精神的にも、もうオレはアナトール・フランスからまるで遠く離(ハナ)れて了つた。妙な人間になりはてたよ。釘本からも手紙が來て、何か、書くやうに言つて來たが、こちらは書くどころの騷ぎぢやない。サイパンへ來て、多少涼しい風が吹くので、少し本でも讀んで見たい氣が起つた位のところだ。原稿を書くなんて、何處か、よその世界の話のやうな氣がする。さういふ意味の返事を釘本に出してやつたよ。それでもね、パラオにはないが、サイパンには、岩波文庫を(ほんの少しだけど)竝べてゐる店が一軒あるんだよ。それだけでも、いささか賴もしい氣がしたよ。寒い間、子供達の身體に氣をつけてやつておくれ。お前自身の身體は勿論のこと。無理して働き過ぎるなよ。

   *

高圧的な皇民化教育の現状に顔を歪めんてうんざりしている敦、自身に課された国語教科書編纂任務への深い失望感が滲む。しかも、恐らくは彼の南洋勤務という立場上得られた、軍関係からの情報によって、六日後に迫った「トラ! トラ! トラ!」を、具体な内容は別として、明らかに知っているらしい叙述であることが頗る興味深い。

「岩波文庫の『サミエル・ジョンスン傳』(上)〔ポズウェル著神吉三郎譯〕」〔 〕は書簡では珍しい割注ポイント落ち。サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson 一七〇九年~一七八四年)はイングランドの文学者。「英語辞典」(一七五五年)の編集で知られ、十八世紀英国に於いて「文壇の大御所」と呼ばれた。その有名な警句から、しばしば「典型的なイギリス人」と呼ばれる。主著は他に「詩人列伝」「シェイクスピア全集」(校訂・注釈)など(ウィキサミュエル・ジョンソンに拠る)。岩波文庫の神吉三郎訳「サミュエル・ヂョンスン傳」は全三巻で、その上巻はこの昭和一六(一九四一)年六月二十八日に既に発行されている。但し、敦は遂にこの続きを神吉の訳で読むことはなかった。何故なら中巻は戦後の昭和二一(一九四六)年、下巻は昭和二三(一九四八)年に発行されているからである。因みにこの下巻はネット上の情報では古書として極めて稀少であるらしい。

「矢車天人菊」キク亜綱キク目キク科キク亜科テンニンギク属ヤグルマテンニンギク Gaillardia pulchella var. lorenziana。北アメリカ原産地のテンニンギクの改良品種で、先端が開いた筒状の花びらをつける。なお、調べるうちに、この元の花テンニンギクが喜界ヶ島に於いて「特攻花」と呼ばれいる事実を知った。以下に引用して彼等の冥福を祈りたい。『太平洋戦争末期、九州と沖縄の中間に位置する喜界島は九州(鹿児島知覧)から出撃する特攻機の中継地点があった。自らの命を犠牲にして沖縄戦に向かう若い特攻隊員が、最期に飛び立った場所が喜界島だった』。『夜明け前に特攻出撃する若い隊員たちに、地元の娘たちは野の花を贈っていた。隊員たちは「花も一緒に散っていくのは忍びない・・」との思いからか、空から花を落とし別れを惜しむように沖縄に向かった。そして、何かを願うように滑走路にそっと花を置き、静かに沖縄に向け飛び立っていった。 その花の種が風に舞い、60年を経った今も、毎年飛行場跡に咲き続けている。 島の人たちはこの天人菊(テンニンギク)をいつしか「特攻花」と呼ぶようになり、平和を願う花として今でも大切にしている』(奄美群島情報サイト「奄美人」(あまみんちゅ)の仲田千穂さんの特攻花」より引用)。]

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 一 細胞(2) 細胞間質

Nannkotusosiki
[軟骨組織]

[細胞間質の多いのを示す]

 

 動物でも植物でもその身體には、柔い處や堅い處、濡れた處や乾いた處と種々の異なつた部分があるが、これは皆その部を成してゐる細胞の形狀・性質や集まり方に相違があるによる。例へば人間の身體にも乾いた表皮や濡れた粘膜、柔い筋肉や堅い骨などがあるが、それぞれその部分の細胞が違ふ。そして細胞は細長いものや扁たいもの、柔いものや堅いものが、雜然と一所に混じて居る如きことは決してなく、必ず同じやうな細胞ばかりで數多く集まつて居る。即ち扁平な細胞ならば多數集まつて層をなし、細長い細胞ならば多數竝んで束となり、乾いて堅い細胞は相集まつて爪などの如き乾いて堅い部分を造り、濡れて柔い細胞は頰の内面の如き濡れて柔い部分を造る。かやうに同種の細胞の數多く集まつたものを組織と名づける。細胞が組織を造るに當つては、細胞が互に直接に相觸れて集まることもあれば、また各細胞が或る物質を分泌し、細胞はその物質のために隔てられて相觸れずに集まつて居る場合もある。かやうな物質を細胞間質という。細胞間質によつて細胞が隔てられて居る有樣は、恰も煉瓦がモーターで隔てられて居る如くであるが、組織の種類によつては細胞間質が細胞よりも遙に分量の多いものもある。かやうな場合には細胞間質が堅ければ組織全體も堅く、細胞間質に彈力があれば組織全體にも彈力があることになる。骨の組織の堅いのは細胞間質が石灰を含んで堅いからであり、骨膜や腱の組織の強靭なのは細胞間質が纖維性で強いからである。兩方とも細胞自身は頗る柔い。

[やぶちゃん注:「モーター」目地塗りに用いる、セメントあるいは石灰と砂とを混ぜて水で練ったモルタル(mortar)のこと。ネイティブの発音は「モーター」の方が遙かに正確。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 51 モース先生一時帰国のための第二回送別会 又は モース先生、指相撲に完敗す 又は モース先生、大いに羽目を外す

 月曜の夜には、大学綜理のドクタア加藤が、昔の支那学校の隣の大きな日本邸宅で、私の為に晩餐会を開いてくれた。外国人は文部省督学のドクタア・マレーと私丈で、文部大輔田中氏及び日本人の教授達が列席した。長い卓子は大きな菊の花束で装飾してあった。献立表は印刷してあり、料理は米国一流の場所で出すものに比して遜色なく、葡萄酒は上等であり、総ての設備はいささかの手落もなかった。ドクタア・マレーは私に、この会は非常に形式的であるに違いないから、威儀を正していなくてはならぬと警告してくれたが、事実その通りであった。食後我々は、葉巻、珈琲、甘露酒その他をのせた別の卓の周囲に集った。食事をした卓を、召使達が静に取片づける問、長い衝立が、それを我々から隠した。

[やぶちゃん注:明治一〇(一八七七)年十月二十九日月曜日。

「ドクタア加藤」当時の東京大学法文理三学部綜理加藤弘之。既注

「支那学校の隣の大きな日本邸宅」底本では「支那学校」の直下に石川氏の『〔聖堂?〕』という割注が入る。これは湯島聖堂のことを指しているから、それが正しいとすれば、湯島聖堂「隣の大きな日本邸宅」に適合するものを尾張屋版江戸切絵図で確認すると、本郷通りを挟んだ北に「藤堂秉之丞」、北西の道(ここも本郷通り)を隔てた現在の東京医科歯科大学医学部附属病院敷地内に「土井能登守」、その南西に接して「佐藤一斎」の三つである(それ以外の湯島聖堂の西南側は神田川沿い、東南は町屋、東一帯は本郷通りを挟んで神田明神で大きな武家の邸宅は見当たらない。絵図面上では藤堂家が格段に広くはある)。私の考証はせいぜいここまでである。後は東京の郷土史家の方のご援助を願う。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」にも前日の会も含め、宴席の会場は記されていない(恐らく、記録にはない)。もし、この湯島聖堂が正しければ、少なくともこの十月二十八日にモース送別会が行われた茶屋が具体的に特定出来るはずである。

「ドクタア・マレー」文部学監デーヴィッド・マレー。既注。なお、彼は数学者・天文学者でもあったが、「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」で磯野先生は、『文学部教授外山正一もミシガン大学化学科卒であり、明治初期の文部行政関係者に理学畑出身者が多かったことは注目されてよいよいのではないだろうか』と述べておられる。

「文部大輔田中氏」田中不二麿(ふじまろ 弘化二(一八四五)年~明治四二(一九〇九)年))。明治維新期の著名人物としては非常に稀少な尾張藩士の一人。尾張国名古屋城下に生まれ、慶応三(一八六八)年に新政府の参与となった。明治四(一八七一)年、文部省出仕と同時に岩倉使節団理事官となり、欧米に渡って教育制度の調査に当たった。帰国後は文部大輔まで進み、学制実施と教育令制定を主導、明治一三(一八八〇)年に司法卿に転じ以後、参事院副議長・駐伊特命全権公使・駐仏特命全権公使・枢密顧問官・司法大臣を歴任、晩年は再び枢密顧問官を務めた。明六社会員で、島崎藤村の長編小説「夜明け前」や井上ひさしの戯曲「國語元年」に登場する(ここまではウィキの「田中不二麿」に拠る)。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、彼が『マレーを招聘、彼と組んで教育制度の基礎を築』き、『その教育政策は自由主義的だったことが知られる』とある。]

 

 このように席を退いてさえも、人々は依然として威厳を保ち、そして礼儀正しかった。私はやり切れなくなって来たので、日本のある種の遊戯が米国のに似ていることをいって、ひそかにさぐりを入れて見た。すると他の人々が、こんな風な芸当を知っているかと、手でそれをやりながら私に聞くようなことになり、私は私で別の芸当をやってそれに応じた。誰かがウェーファーに似た煎餅を取寄せ、それを使用してやる芸当を私に示した。この菓子は非常に薄くて、極度に割れやすい。で、芸当というのは、その一枚の端を二人が拇指と人差指とで持ち、突然菓子を下へ向けて割って、お互により大きな部分を取り合おうというのである。我国でこれに最も近い遊戯は、鶏の暢(ちょう)思骨を引張り合って、より大きな部分を手に残そうとすることであるが、これはどこで鎖骨が最初に折れるか、全く機会によって決定されることである。次に私は、他の遊戯を説明し、彼等は代って、いろいろな新しくて面白い遊びを教えてくれた。拇指で相撲をとるのは変った遊戯であり、私はやる度ごとに負けた。これは右手の指四本をしっかり組み合せ、拇指で相手の拇指を捕えて、それを手の上に押しつけようと努めるのであるが、かなりな程度に押しつけられた拇指を引きぬくことは不可能である。とにかく、三十分も立たぬ内に、私はすべての人々をして、どれ程遠く迄目かくしをして真直に歩けるかを試みさせ、またいろいろな遊戯をさせるに至った。菊池教授が二人三脚をやろうといい出し、外山と矢田部とが右脚と左脚とをハンケチで縛られた。菊池と私とも同様に結びつけられ、そして我々四人は、他の人々の大いに笑うのに勇気づけられて、部屋の中で馳け出した。我々は真夜中までこの大騒ぎを続けた。ドクタア・マレーと私とは各大きな菊の花束を贈られたが、それを脚の間に入れて人力車に乗ったら、人力車一杯になった。ドクタア・マレーは繰返し操返し、どうして私があんな大騒ぎを惹き起し得たか不思議がった。彼はいまだかつて、こんな行動は見たことが無いのである。私は四海同胞という古い支那の諺を引用した。どこへ行った所で、人間の性質は同じようなものである。

[やぶちゃん注:「さぐり」原文は“a gentle intrusion”。美事な訳と思われる。

「暢思骨」原文“a wish-bone”。研究社「新英和中辞典 」の“wishbone”には、鳥の胸の叉骨とあり、その後に、食事の際に皿に残ったこの骨を二人で引き合って長い方を取ると願い事がかなうという目から鱗の解説があった。

「どれ程遠く迄目かくしをして真直に歩けるか」これは本邦の茶屋遊びの目隠し鬼と同形で恐らくは同席した日本人たちも大いに楽しんだであろうことは想像に難くない。

「四海同胞」原文“in the four quarters of the world men are brothers”。四海兄弟(しかいけいてい)。世界中の人々が兄弟であるということ、または、総ての人間は人種・民族・国籍を問わず兄弟のように愛し合うべきであるということ。「論語」の「顔淵」にある「四海の内皆兄弟なり」に拠る。]

耳嚢 巻之八 寶晉齋其角實名の事

 寶晉齋其角實名の事

 

 或る人語りけるは、俳諧の中興其角は輕き御家人抔相勤(つとめ)候ものゝ由。俗名は小和田八十八(やそはち)と云(いへ)る由。深川に住(すみ)て徂徠先生の隣なりける由。右の事しらざりしが、與風(ふと)誹席にて、隣の梅も匂ふ八十八といふ句をしたる人有(あり)し故、右はいかなる譯やと尋ねしに、八十八は其角が俗名にて、其角が發句に、梅咲や隣は荻生惣右衞門といふ句あれば、右によりて附句せしといひしに、格物(かくぶつ)なせしと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。二つ前和歌(というより狂歌並)譚から連句(付句)譚で連関。

・「寶晉齋其角」は「はうしんさいきかく(ほうしんさいきかく)」と読む。蕉門十哲の一人宝井其角(寛文元(1661)年~宝永四(一七〇七)年)の号。本名は竹下侃憲(ただのり)で別号は他に螺舎・狂雷堂・晋子など。江戸堀江町で近江国膳所藩御殿医竹下東順の長男として生まれた。延宝年間(一六七三年~一六八一年)の初めの頃には父親の紹介で芭蕉の門に入り、俳諧を学んだ。当初、母方の榎本姓を名乗っていたが、のち自ら宝井と改めている(ここまではウィキの「宝井其角」に拠る)。岩波版長谷川氏の注によれば、この「寶晉齋」という号は元は『米元章が硯に彫り入れた号で、その硯を得てこのように号した(五元集)』とある。米元章は北宋末の文人で書家の米芾(べいふつ 一〇五一年~一一〇七年)。「五元集」は延享四(一七四七)年刊の生前の其角自選を含む小栗旨原(おぐりしげん)編の句集。全四冊。自選千余句の発句集「五元集」及び句合わせ「をのが音鶏合(ねとりあわせ)」・旨原編「五元集拾遺」からなる。

・「小和田八十八」底本鈴木氏注に、『三村翁注「宝井氏、源助とあり。八十八といふ事、所謂巷談なるべし』とし、岩波版長谷川氏注も『所拠不詳』とされる。

・「深川に住て徂徠先生の隣なりける由」荻生徂徠(寛文六(一六六六)年~享保一三(一七二八)は事実、近所に住んでいたらしい(後文参照。少なくとも後世そう信じられてたし、現在も信じられているといってよい)。岩波版長谷川氏注に、『元禄末に茅場町薬師堂辺に住み、近所植木店の地に荻生徂徠居住(近世奇跡考・三)』とある。「近世奇跡考」は「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年の直近である文化元(一八〇四)に板行された山東京伝の考証随筆の白眉。また、ウィキ宝井其角にも、『芭蕉の没後は日本橋茅場町に江戸座を開き、江戸俳諧では一番の勢力となる。なお、隣接して、荻生徂徠が起居、私塾蘐園塾を開いており、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句がある』と記載する(次注も参照のこと)。

・「與風(ふと)」は底本のルビ。

・「梅咲や隣は荻生惣右衞門」岩波版長谷川氏注に、『上五を「梅が香や」とし、どの集にも見えぬが其角句ともっぱら伝えると『近世奇跡考』三にいう』とある。天保年間(一八三〇年~一八四三年)に斎藤月岑が著わした「江戸名所図会」にも、

   *

俳人寶晉齋其角翁の宿 茅場町藥師堂の邊りなりといひ傳ふ。元祿の末ここに住す。すなはち終焉の地なり。

按ずるに、「梅の香や隣は荻生惣右衞門」といふ句は、其角翁のすさびなる由、普(あまね)く人口に膾炙す。よつてその可否はしらずといへども、ここに注してその居宅の間近きをしるの一助たらしむるのみ。

 

徂徠先生居宅の地 同書植木店(うけきだな)なりといふ。先生一號を蘐園(かんえん)といはれし。蘐(かん)は萱(かや)と同じ字義なれば、稱せられしなり。よつて、この地に住せらしこと知るべし。

   *

と続いて出る(底本はちくま学芸文庫版を用いたが、恣意的に正字化した)。因みに「蘐園(かんえん)」は一般には「けんえん」と読む。どうも人口に膾炙しているものの、彼の作とは言い難い、所謂、都市伝説の類いと考えてよかろう。

・「格物」は宋代以降の儒学に於いて主体の陶冶方法として特に注目された概念を指す。朱子学では特にこれを「物に格(いた)る」と読み、個々の事物の理りを究明してその極みに至ろうとすること、窮理をいう。陽明学では「物を格(ただ)す」と読んで対象に向かう心の働きを正しく発揮することをいう。「大学」の「致知在格物。物格而后知至。」(知を致すは物に格(いた)るに在り。物、格ってのち、知、至る。)に基づく。ここは無論、目から鱗、単にすっかり納得出来たという謂いであるが、徂徠絡みなれば「格物」と事大主義的に呼ばわったところが面白い。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 宝晋斎其角の実名の事

 

 ある人の語ったこと。

 

……俳諧の中興と称せらるる其角と申す御仁は身分軽き御家人などを相い勤めて御座ったものの由にて、俗名は小和田八十八(おわだやそはち)と申した由、さらに、深川に住んで御座って、そこは徂徠先生のすぐ隣りでも御座った由にて御座る。

 このこと、我ら知らずに御座ったが、とある俳諧連句の座に於いて、

  隣の梅も匂ふ八十八

と申す句をものしたる御仁のあったゆえ、

「……その句は如何なる意にて御座いましょうや?」

と訊ねたところ、

「――これ、八十八は其角の俗名にて、また、其角の発句に、

  梅咲や隣は荻生惣右衛門

と申す句のあれば、かくも附句致いて御座る。」

と申されたによって、格段に格物(かくぶつ)致いて御座った。……

 

と語て御座ったよ。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 逗子

   ●逗子

逗子は相模國三浦郡にあり、田越村(たごしむら)に屬す、新編相模國風土記には、都士牟良逗子村に作る。又古より村に傳ふる、天正十八年北條氏の文書には、豆師に記し、正保(しやうほ)の改には豆子と載す、北條氏の臣山中上野某氏康に仕へ、三浦厨子城を預り、後氏康の命に依り、美濃守氏規の家老となると、家譜に見ゆ。厨子の唱同じければ、此地なるべし、今土人其城跡を傳へず云々、しかるに近年無比の海水浴場として、逗子海岸海濱の譽れ俄かに高まりしより、田越村の一小部分たりし逗子の、いつしか田越村全體はをろか、左に、

      {逗子、小坪、久木、山ノ根、

  田 越 村{

      {池子、沼間、櫻山、

 

      {堀内、長柄、一色、下山口、上山口、

  葉 山 村{

      {木古庭、

 

  中西浦村{秋谷、蘆名、佐島、長坂}

葉山、中西浦村に亘りて、此名の総稱せらるゝに至れり。氣候夏は凉しく冬は暖かなり、暑中も華氏寒暖計八十五度を超ゆることなく、寒中は四十度内外なり、四季共に健康を養ふの最大良地なり。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「●」。村名箇条書部分の田越村と葉山村の「{」の部分は底本では三行に亙った「{」でその下位のクラスは実際には中央の空行は存在しないし、誤読をさけるために入れた一行空きもない。逗子は本誌刊行九年前の明治二二(一八八九)年四月一日の市町村制施行により、桜山村・逗子村・山野根村・沼間村・池子村・久木村・小坪村が合併して三浦郡田越村(たごえむら)として発足、同年六月十六日には官設鉄道(横須賀線の前身)は開通して逗子駅が開設されている。この後、大正一三(一九二四)年四月一日に田越村が町制を施行して逗子町と改称、昭和五(一九三〇)年四月一日には湘南電気鉄道(京浜急行電鉄の前身)逗子線が開業し、湘南逗子駅(新逗子駅の前身)が開設された。昭和一八(一九四三)年四月一日には横須賀市へ編入されたが、昭和二五(一九五〇)年七月一日、横須賀市より久木・小坪・山野根・新宿・逗子・桜山・池子・沼間の各地区(旧逗子町域)が分離独立して三浦郡逗子町が再置され、四年後の昭和二九(一九五四)年四月十五日には単独市制を施行して逗子市となって現在に至る(以上はウィキの「逗子市」に拠った)。

「天正十八年」西暦一九五〇年。

「正保の改」よく分からないが、ネット上でも各所にこの言葉は出る。察するに正保年間(一六四四~一六四七年)に行われた全国規模の(正保元年に幕府は諸大名に国ごとの地図である国絵図の作成を命じている)行政区画再編及びインフラの整備(道路整備・架橋など)が行われたことを指すように思われる。

「華氏寒暖計八十五度」摂氏二十九・四度。

「四十度内外」摂氏四・四度前後。これと前の暑中最高気温を足して割ると摂氏十六・九度になる。因みに現在の逗子市の平均気温は公称十五・九度であるから、これ、なかなか、いい線いってる。]

杉田久女句集 18 花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ

花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ

 

[やぶちゃん注:「いろいろ」は底本では踊り字「〱」。言わずもがな、久女の句の艶を最もシンボライズするヌーヴェル・ヴァーグ風のモンタージュである「花衣」は春の季語で花見に着る晴れ着のこと。大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」(明治書院昭和四二(一九六七)年刊)で大野は本句の鑑賞文の中で、久女の作を『不羈奔放、華麗、情熱的で男をたじたじさせるものがある。始終誰かを恋いしないではいられなかったといわれるが、肯かれることだ。万葉の額田王、中国の魚玄機に擬せられる所以であろう』とし、同時期の画期的な女流俳人の中でも長谷川『かな女、久女ともにその作品で優に男に頡頏した作家である』と記す(こうした叙述はある意味で肥大した久女伝説を助長しており、的を射ている部分は部分として、批判的な読みも同時に不可欠であると言いたい)。本句について大野は、『肉体を幾重にも緊繋している紐類だが、それをいま、つぎからつぎへと解き捨ててゆくことに肉体の解放感が思われ、艶麗である。句に詠まれていることは作者の足許にすでに散らばり、また、まだ肉体にまつわり残る紐だが、脱ぐものが花見衣裳であるだけにこの紐類また華麗、肉体の解放感と相俟って艶麗さを一句に与えている。いえばヌード一歩手前であり、女の匂いが濃厚で、つつましやかとは裏腹である』と評している。しかしこの評言、実に男の脂ぎった視線が感じられてなんだかいやらしい。三文の中で「肉体」という語を四度も用い、「緊繋している紐類」という謂いには恰もそれが生々しい猥雑なクリチャーででもあるかのような生理的嫌悪感をさえ私は抱く。最後の一文などは評者自身の中年男性の如何にも猥褻な視線が感じられて、まさに「鑑賞と批評」という「つつましやか」な標題「とは裏腹である」と返したい気がしてくる。]

杉田久女句集 17 花の雨

褄とりてこゞみ乘幌花の雨

 

[やぶちゃん注:和服の褄、人力の黒い幌、落ち散る桜――色彩と匂いの実に豊かな一句である。]

 

バイブルをよむ寂しさよ花の雨

杉田久女句集 16 落ちる椿の行方

椿流るゝ行衞を遠くおもひけり

 

木立ふかく椿落ちゐし落葉かな

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年  北風を航く

 北風を航く1

 

船室(キヤビン)より北風(きた)の檣(マスト)の作業みゆ

 

煖房に闇守(も)る水夫(かこ)の瞳(め)を感ず

 

浴槽(バス)あふれ北風航くことをわすれたり

 

 北風を航く2

 

北風(きた)の扉(と)がひらかれ煌と吾を照らす

 

無電技士わかく北風航く夜をひとり

 

北風を航くその搖れにゐて無電打つ

 

わが電波北風吹く夜の陸(くが)よびつ

窓に寄る日 萩原朔太郎 短歌六首 明治三九(一九〇六)年

 窓に寄る日

 

燈灯のまへに君ありわれのありうれしけれども言の葉のなき

 

寒き日や胡瓜畑の霜を思ひ湯あみする窓を月のぞきけり

 

別れ居る心は淋しけだものを飼ひて生くべき日とよう似たる

 

山の上に一人家する夢を見て寢ざめの床はうるほひにけり

 

逢瀨山また口惡き博士等が見たまはずやと人のきづかひ

 

里川の底にうつれる星くづをいくつ數へて人にあふべき

 

[やぶちゃん注:『晩聲』創刊号(明治三九(一九〇六)年四月発行)に「美佐雄」の筆名で所収された。当時、朔太郎満十九歳。『晩聲』という雑誌は不詳。明治三七(一九〇四)年十一月十五日創刊の君島東陽編輯の暁声雑誌社の評論雑誌に同名のものがあるが、創刊年や雑誌の性質から別物である。

 巻頭の「燈灯」は底本全集校訂本文は「燈火」と『訂』する。

 「逢瀨山」の「口惡き博士」は何か典拠があるのだろうか。識者の御教授を乞うものである。]

丘を よぢる   八木重吉

丘を よぢ 丘に たてば

こころ わづかに なぐさむに似る

 

さりながら

丘にたちて ただひとり

水をうらやみ 空をうらやみ

大木(たいぼく)を うらやみて おりてきたれる

鬼城句集 冬之部 冬蠅

冬蠅    冬蠅をなぶりて飽ける小猫かな

      冬蠅のしきりに迷ひ飛ぶ夜かな

[やぶちゃん注:底本では「し」は「志」を崩した草書体表記。]

      人起てば冬蠅も起つ爐邊かな

2014/01/18

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 一 細胞(1)

    一 細 胞 

 さて普通の動植物の身體が無數の細胞より集まり成ることは、今日では殆ど誰でも知って居るやうであるが、卵と精蟲との素性を明にするには、まづ細胞や組織のことを稍々詳しく述べて置く必要があるから、念のためこゝに一通り細胞のことから説明する。

Neginosaibou

[「ねぎ」の葉の表皮]

Souruinohatuga

[藻類の細胞の内容が壁から離れて水中へ游ぎ出し後に至つて新に壁を生ずるのを示す] 

 抑々生物の身體が細胞から成ることの始めて知れたのは、今より僅に八九十年前のことで、それ以前にはかやうなことには少しも心附かずに居た、そしてその後にも細胞といふ考は段々變化して今日まで進み來たつたから、同じ細胞といふ文字を用ゐても八九十年前と今日とでは大分意味も違つて居る。植物の組織では各細胞に膜質の壁があつて、互の間の境が頗る判然して居る。試みに「ねぎ」の葉を取つて、その表面の薄皮を剝ぎ取り、これを度の低い顯微鏡で覗くと、無數のほゞ同大の區劃があつて、恰も細かい小紋の模樣の如くに見えるが、その區劃の一つ一つが即ち細胞である。またコルクの一片を薄く削つて顯微鏡で見ると、一面に孔だらけでまるで蜂の巣のやうであるが、その孔の一つ一つが細胞である。但しこの場合には全部が干からびて居るから、細胞はただ壁ばかりとなつて内部は全く空虛である。かやうに植物では細胞を見ることが比較的容易であるから、最初細胞の發見せられたのも植物であつた。そして最初は細胞の壁のみを重く考へ、細胞を一種の嚢と見做し、植物の體はかやうな顯微鏡的の小さな嚢の無數に集つて成れるものと思つた。しかし段々調べて見ると、嚢の壁は必ずしもなくてはならぬものではなく、却つてその内容の方が生活上最も大切なものであることが明になつた。そのわけは植物でも、芽の出たての若い柔い部分を取つて見ると、細胞の壁は極めて薄く、最も若い處ではあるかないか殆どわからぬ程で、たゞ内容の方が充滿して居る。また淡水産の微細な藻類などを顯微鏡で見て居ると、往々細胞の内容だけが壁から離れ、壁の割れ目から水中へ游ぎ出すことがある。初めてこれを見付けた學者は、植物が變じて遽に動物になつたというて大騷ぎをしたが、かやうに游ぎ出した内容物は、直に壁を分泌して完全な藻類となり、内容の拔け出した壁の方は、終にそのまゝ枯れてしまふ。即ち眞に生活するのは嚢の内部を充たす反流動體の柔い物質であつて、壁はたゞこれを包み保護するに過ぎぬ。今日では柔い生きた物質を原形質と名づける。されば昔植物の體は無數の小嚢が集まつて成れるものの如くに考へたのは誤であつて、實は原形質の小塊の無數に集まつたものである。そして各小塊はその周圍に細胞膜質を分泌して壁を造り、後には原形質は死んでなくなり、細胞の壁のみが殘るから、たゞ嚢のやうに見える。なほ各細胞をなせる原形質の小塊の中央には、恰も桃や梅の實の中央に核がある如くに必ず一個の特別な丸いものが見える。これを同じく核と名づける。それ故、今日では細胞の定義を次の如くにいふことが出來る。即ち細胞とは一個の核を有する原形質の小塊であると。植物でも動物でも身體は多數の細胞の集まりであるといふのは、かやうな意味の細胞であつて、決して昔考へたやうな嚢のことではない。細胞といふ譯語もこれに對する原語も共に嚢といふ意味の字であるが、これは昔細胞を一種の嚢と考えた頃からの遺物であつて、今日ではたゞ習慣上用ゐ續けて居るに過ぎぬ。

Saibouiroiro

[やぶちゃん注:以上の挿絵は底本ではキャプションがそれぞれの図の右手に縦書で以下のように附されている。右から、

[頰の内面の扁平細胞三箇]

[肝臟の球形細胞十箇]

[結締組織の星型細胞六箇]

である。] 

[やぶちゃん注:「生物の身體が細胞から成ることの始めて知れたのは、今より僅に八九十年前のこと」これ本底本である大正十五(一九二六)年東京開成館刊の第四版で、講談社学術文庫では大正五年初版を参照したものらしく、「七八十年前」となっている。細胞の英語“cell”(小さな部屋)という命名はイギリスの博物学者ロバート・フックが著わした一六六五年刊の“Micrographia”(「顕微鏡図譜」)が最初とされる。一六六五年、彼はコルクガシのコルク層の小片を自作の顕微鏡で観察している時にこの構造を始めて発見し、生物は細胞から作られていると考えた。但し、彼が実際に観察したものは、まさにここで丘先生が述べたように内容物を失った後の細胞の遺骸たる細胞壁に過ぎなかった。その後、オランダの商人科学者で「微生物学の父」と称せられるアントニ・ファン・レーウェンフックが自ら発明した高性能顕微鏡で一六七〇年代に細胞の観察を行っているが、本格的な生物組織の細胞説は、一八三八年のドイツの植物学者マティアス・ヤコブ・シュライデンの植物組織の、翌一八三九年のドイツの生理学者テオドール・シュワンの動物組織の観察を待たねばならなかった。二人はその観察結果から、生物は細胞から構成されており、細胞は生物共通の構造であって発生の基本単位であるとする「細胞説」を唱えた。この時点での細胞説では細胞がどのように発生するかを説明していなかったが、これは一八五五年にドイツの生物学者ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョーが「細胞は分裂して増える」という説を発表、続く一八六〇年に近代細菌学の開祖たるフランスのルイ・パスツールによって生物の自然発生説が否定され、生物は細胞増殖で成長するという理論が定着をみた(この部分、ウィキ細胞」の歴史の項の文章を参考にさせてもらったが、その元記載には重大な誤りが含まれている。それについてはウィキノート」に藪野直史の実名で署名記載をしておいた)。大正十五(一九二六)年から「八九十年前」となると、西暦一八三六~一八四六年でシュワンとシュライデンの初期の細胞説の定着期に一致する。

「淡水産の微細な藻類などを顯微鏡で見て居ると、往々細胞の内容だけが壁から離れ、壁の割れ目から水中へ游ぎ出すことがある」図の右手から発芽している個体の様子などは緑色植物亜界ストレプト植物門接合藻綱ホシミドロ目ホシミドロ科アオミドロ属 Spirogyraに属する藻類の有性生殖の接合後に生じた楕円形の接合胞子の発芽した藻体に似ていなくもない。

 キャプションにある「結締組織」というのは結合組織(connective tissue)のこと。現在でも結合織・結締組織ともいう。狭義には各器官及び各組織の間(例えば上皮組織と筋組織の間)といった体のあらゆる部分の間を埋め、結合作用を営む組織をいう。真皮・皮下組織・粘膜下組織・骨膜・筋膜・腱・血管の外膜などは総てが結合組織である。中胚葉に由来し不活性。構造的には細胞が比較的疎らで豊富な細胞間質の中に繊維成分が存在するのを特徴とする。結合組織に存在する細胞成分を結合組織細胞とよぶ。繊維芽細胞・細網細胞・組織球・形質細胞・リンパ球・脂肪細胞・肥満細胞・顆粒白血球・色素細胞などが挙げられる。星型を成している点では間充織(mesenchyme:間葉。動物の個体発生初期に外胚葉と内胚葉との間に形成される結合組織で突起をもつ星形の細胞がまばらな集団を形成する)か、色素結合組織細胞(ヒトの場合は眼球中膜と強膜及びクモ膜や皮膚に限定的に存在する)か。]

耳嚢 巻之八 すあまの事

 すあまの事

 

 紋所に、すあま又すはまと唱へ、

Suama_3

 如此(かくのごとき)形をいふ。或時洲濱と書(かき)しものありしゆゑ、げにも形に文字も的當なりといゝしに、水野若州知れる者へ尋(たづね)しとて、書留(かきとめ)來りぬ。

 洲濱〔今云島臺、江次第案二脚之上置――奇岩怪石嘉樹芳草白砂綠水

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。紋所有職故実譚。サイト「苗字と家紋」の洲浜紋では、『洲浜の形は献上品などを載せる台で、藤原姓小山氏一門の代表紋として知られ』、『洲浜は河口にできた三角洲など、水辺にできる島形の洲をいう。いわゆる河と海などの接するところで、曲面の入り組んだ洲の様子を表す言葉である。水の流れでいろんな姿に変わる、それを柔軟なフォルムで捉えたまるみをおびたラインが特徴。また洲浜は、蓬莱山の仙境を意味したり、竜宮城を指したりしてめでたい形とされた。平安時代から慶賀の式などにおける飾りや調度品は、蓬莱山に通じる州浜を象った洲浜台が用いられた。江戸時代には婚礼の飾りものとして用いられるようになり、州浜は目出たいことを表す言葉にもなった。 いまでも目出たい菓子のひとつに「洲浜」と名づけられたものがあるのは、その名残りである』とあり、『洲浜は吉兆をあらわすものとして、平安時代より衣服や調度、絵巻物などに文様として多用された。はじめは州浜の実景を描いていたものが、次第に洗練され、さらに州浜台の形を象った意匠へと収斂されていった。そして、州浜のもつ瑞祥的意義もあって家紋に採用されたようだ。また、州浜はその定まることのない姿が世の中の変幻をも表すものとして、神社の紋としても用いられ、紀州熊野神社の奥院に位置づけられる玉置神社のものが知られる。神官玉置氏も「洲浜」を家の紋とし、熊野神社の神官である鈴木氏もこの紋を用いている。戦国時代、紀伊手取山城に拠った玉置氏も神官玉置氏の一族を称して州浜を用いた』。『州浜紋の史料への初出は、『太平記』に「三●」と記されているもので三つ洲浜紋である。文字が鱗に似ているところから 「三つ鱗紋」と誤解されるケースもあるが、誤読であることはいうまでもない』。『中世の武家では源頼朝落胤説を有する小田氏一族の代表紋として知られ、関東永享の乱を記した『羽継原合戦記』に「小田氏の紋は足長洲浜」と記されている。小田氏は宇都宮氏から分かれた一族で、源頼朝に仕えた八田知家を祖とする。鎌倉時代には常陸国守護職をつとめたが、 南北朝期に南朝方として活動したため、一時期、衰退して守護職は佐竹氏にとって代わられた。しかし、よく勢力を保ち 戦国大名に列した』。『戦国時代、上杉謙信が参陣してきた関東諸将の幕紋を書き留めた『関東幕注文』には、小田中務少輔「すわま」とあり、一族の宍戸中務大輔、筑波太夫、柿岡刑部大輔、岡見山城守らも「すはま」と記されている。同書には、下野国の本田・市場・大屋・岩下の諸氏、上野国の薗田・津布久・阿久津の諸氏らも洲浜紋を用いたことが記され、洲浜紋が関東地方に多く分布していたことがわかる。小田氏の場合、州浜紋の由来を源氏の先祖六孫王経基王の「六」の 字を紋章化したものというが、家系伝承にいう清和源氏説を粉飾する付会というものだろう』。『おそらく、はじめは宗家の宇都宮氏と同じく巴紋を用いていたものが、 やがて、宗家と区別するために巴を州浜に変えたのではなかろうか。ちなみに州浜は「巴くずし」ともいわれ、その丸みを帯びた意匠、使用家の分布が巴紋のそれと重なっていることなどから 小田氏の州浜紋は巴紋がベースであったのでは?と思えるのである』。『一方、『見聞諸家紋』には陶山・寺町・茨木・吉田・伊庭・宍戸氏らの洲浜紋が収録されている。室町時代、州浜の紋を使用した武家が全国的に多かったことが知られる。ところで、見聞諸家紋には小田氏の一族と思われる小田又次郎知憲がみえ紋は「亀甲に酢漿草と二月文字」とある。また、諸家紋にみえる宍戸氏は小田氏の一族ではあるが、安芸国高田郡の所領に移住したものである。 その家紋は「花洲浜」とよばれ、通常の洲浜に比べて意匠が凝っているのが特長である。先にも記したが、より六孫王の六の 字を意識したものとなっている。時代が下るにつれ、家系源氏説が一般化した結果かもしれない』と詳説なさっておられる。これ以上の本話へのすぐれた注釈はないと考え、例外的に敢えてほぼ全文の三分の二を引用させて戴いた。なお、現在、「州浜」というと、大豆や青豆を煎って挽いた州浜粉に砂糖と水飴を加えて練りあわせて作った和菓子の一種が知られるが、これは鎌倉時代に京にあった菓子店松寿軒の考案によるもので、江戸時代には豆飴と呼ばれ、後、京都の和菓子店植村義次によって作られた豆飴の断面が州浜紋に似ていたため、州浜という呼ぶようになった。現在では州浜粉を使った菓子全体を「州浜」「すはま」と呼ぶようになっているとウィキ洲浜」にあり、また、和菓子嫌い(私は洋菓子党である)の私が唯一好物な和菓子で、やはり関東で祝儀に用いられる「すあま(寿甘、素甘)」があるが(漢字は当字らしい)、これは全く別の菓子である(ただ、その連関性がないとは言えないように思うのだが……識者の御教授を乞うものである)。

・「的當」的確にその洲浜という地形の形を示してしかも如何にも相応しい文字をこれに当てている、という謂いであろう。岩波版長谷川氏注には『そのものずばりである』とある。

・「水野若州」水野若狭守忠通(ただゆき)。底本鈴木氏注に、『安永四年(二十九歳)家督。千二百石。天明六年長崎奉行、八年日光奉行、十年大坂町奉行』とある。安永四年は西暦一七七五年であるから、彼は延享四(一七四七)年生まれである。天明六年は一七八六年であるが、以下の記載は岩波版長谷川氏注では『寛政八年(一七九六)日光奉行、十年大坂町奉行』となっており、長谷川氏の方が正しいものと思われる。根岸より十歳年下であるから、「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年当時は六十一歳であった。

・「洲濱〔今云島臺、江次第案二脚之上置――奇岩怪石嘉樹芳草白砂綠水〕」以下に、訓点と岩波版の長谷川氏の補われた送り仮名をも参考に書き下しておく。

 洲濱〔今云ふ、「島臺」。「江次第(がうしだい)」案ずるに二脚の上に――を置き、奇岩・怪石・嘉樹・芳草・白砂・綠水を作る。〕

・「島臺」は「しまだい」と読み、婚礼その他の祝儀の際に用いる飾り物のこと。州浜台(州浜形にかたどって作った台。木石・花鳥などの景物をあしらい、宴会などの飾り物としたり、婚礼・正月などの料理を盛るのに用いた)の上に松竹梅を作り、これに尉(じょう)・姥(うば)の人形を立たせ、鶴・亀などを配したもので、蓬莱山をかたどったものといわれる。

・「江次第」平安後期に成立した儒者で歌人の公卿大江匡房(まさふさ)の著になる有職故実書「江家次第(ごうけしだい)」のこと。全二十一巻(現存は十九巻)。この時代の朝儀の集大成として評価が高い。「江次第(ごうしだい)」が当初の書名と考えられ、諸書に「江帥次第」、「江中納言次第」、「匡房卿次第」、「江抄」などと引用されている。正確な編纂の開始時期は不明であるが、「中外抄」(院政期の聞書集。知足院関白藤原忠実の言談を大外記中原師元が筆録したもの)などの記述によると、匡房が藤原師通の命令を受けて編纂が始められ、大江匡房の没した天永二(一一一一)年まで書き続けられたと思われる。のちに加筆増補が行われた(以上はウィキ江家次第に拠る)。

・「上に――を置き」恐らくは「江家次第」本文が判読不能であったのであろう。当該箇所を調査中であるが、何分、厖大なので暫くお待ちを。

・「嘉樹」松竹梅などの目出度い樹木。

・「芳草」春を告げる香草や草花。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 すあまの事

 

 紋所に、「すあま」または「すはま」と唱えるものが御座るが、それは

Suama_5

 のような感じの紋型を申す。

 ある時、これに「洲浜」と漢字を当てて書いたものが御座ったによって、

「如何にも、実際の洲浜の形も文字も、この紋を確かに言い当てて妙で御座るの。」

と述べたところが、水野若狭守忠通(ただゆき)殿が、

「かの『洲浜』のこと、我ら、知れる者へ尋ねてみましたところが、これ、相い分かり申した。」

と、書き留めたものを持参して参られた(以下、その写し)。

 

 「洲浜」

 今に言うところの「島台」のこと。大江匡房の「江家次第(ごうけしだい)」に、『案ずるに二脚の上に〇〇を置き、奇岩・怪石・嘉樹・芳草・白砂・緑水を作る。』とある。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 50 モース先生一時帰国のための第一回送別会 又は ここにいる二人の自殺者の経歴がこれまた数奇なること

 十月二十八日の日曜の夜、日本人の教授達が日本のお茶屋で、私の為に送別の宴を張ってくれた。この家は日本風と欧洲風とが気持よく融和していた。すくなくとも椅子と、長い卓とのある部屋が一つあった。彼等は大学の、若い、聡明な先生達で、みな自由に英語を話し、米国及び英国の大学の卒業生も何人かいる。彼等の間に唯一の外国人としていることは、誠に気持がよかった。出席者の中には副綜理の浜尾氏、外山、江木、井上、服部の各教授がいた。最初に出た三品は西洋風で、青碗豆(グリンピース)つきのオムレツ、私が味った中で最も美味な燔肉(やきにく)、及び焙鶏肉であった。だが私は純正の日本式正餐がほしいと思っていたので、いささか失望した。然し四皿目は日本風で、その後の料理もすべて本式の日本料理だった。彼等は私に、私が日本料理を好かぬかも知れぬと考えて、先ず西洋風の食物で腹を張らさせたのだと説明した。これは実に思慮深いことであったが、幸にも私は、その後の料理を完全に楽しむ丈の食慾を持っていた。有名な魚、タイ即ち bream は、美味だった。生れて初めて味った物も沢山あったが、百合(ゆり)の球即ち根は、馬鈴薯の素晴しい代用品である。砕米薺(みずたがらし)に似たいく種かの水草もあった。魚をマカロニみたいに調理したものもあった。銀杏の堅果はいやだったが、茶を一種の方法で調製したものは気に入った。このお茶は細い粉で出来ていて、大きな茶碗に入れて出し、濃いソツプに似ている。これは非常に高価で、すぐ変質する為に輸出出来ないそうである。我々は実に気持のよい社交的な時を送った。私の同僚の親切な気持は忘れられぬ所であろう。

[やぶちゃん注:「浜尾氏」法理文三学部綜理補浜尾新(あらた)。既注

「外山」文学部教授(心理学及び英語担当)外山正一(まさかず)。既注

「江木」当時東京大学予備門の教諭(教授とは呼ばない)であった江木高遠(えぎたかとお 嘉永二(一八四九)年~明治一三(一八八〇)年)。以下、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載及びウィキの「江木高遠」によって記す。備後福山藩儒官で開国論者であった江木鰐水(がくすい)の第四子として福山に生まれ、安政三(一八五六)年七歳で藩校誠之館に入り、明治元(一八六八)年十九歳の秋には長崎でフルベッキに学んで、翌年、藩の推薦により東京の開成学校に転じた後、明治二(一八六九)年には慶應義塾に入ったが、明治三年二十一で華頂宮博経親王(かちょうのみやひろつねしんのう:伏見宮邦家(くにいえ)親王第十二王子。知恩院門跡から勅命により還俗して華頂宮家を創立。明治三(一八七〇)年に志願して皇族の海外留学第一号となり、アメリカで海軍軍事を学び、帰国後は海軍少将となったが、明治九年二十六歳で夭折した。)の随員の一人としてニューヨークへ渡り、コロンビア法律学校(現在のコロンビア大学)に学んで法学と政治学を修めた(途中、病気の親王と帰国、一八七四年に再渡米して一八七六年に卒業、その間の一八七五年には後の専修大学の母体である日本法律会社の結成にも関わっている)。帰国後、翌明治一〇(一八七七)年に東京英語学校教諭に着任、東大設立後は予備門の英語教諭を勤めたが、外山正一・井上良一両東大教授と並ぶ論客として独自の視点から啓蒙講演会の組織的運営を企画して名声を馳せた。明治一一(一八七八)年六月三十日には「なまいき新聞発刊記念講演」(『なまいき新聞』は、同六月、生意気新聞社が創刊した週刊新聞。同年十月には『芸術叢誌』と改名して美術雑誌となった)と称し、浅草井生村(いぶむら)楼に於いて五百人を超す客を集め、考古学と大森貝塚発掘に関するモースの講演会を開いている。この時は井上がモースを紹介江木が通訳した。これが濫觴となって同年九月二十一日に会費制学術講演会「江木学校講談会」を発足させた。社員(常任講師)として、外山正一・福沢諭吉・西周¥河津祐之(後の東京法学校校長)・藤田茂吉(『生意気新聞』主筆)・モースが名を連ねた。この講談会は明治一二(一八七九)年十月まで三十回近く催され、常任講師のほかにも長谷川泰(日本医科大学の前身「済生学舎」創設者)・沼間守一(自由民権家として知られたジャーナリスト)、トマス・メンデンホール(モースの推薦によって明治十一年に東京帝国大学物理教師となり富士山頂で重力測定や天文気象の観測を行った本邦の地球物理学の租。本郷区本富士町(現在の文京区本郷七丁目)に竣工した東京大学理学部観象台の観測主任ともなった)やアーネスト・フェノロサなども登壇した。この間、江木は明治一一(一八七九)年十二月に東大を去り、元老院大書記官となるも、直ぐに外務省一等書記官に転じた。明治十三年三月、帰任の吉田清成駐米大使に随行してワシントン公使館員として赴任したが、同年六月六日、公使館内に於いてピストル自殺した。享年三十一。自殺の動機については磯野先生によれば、『無関税で工芸品をアメリカに持ち込んだことを、在米日本人業者から糾弾されたためという』とある。

「井上」井上良一(よしかず)法学部教授(イギリス法律学担当)。彼に就いては夭折したためかデータが乏しい。以下は法制史専攻の Seiichi Hashimoto 氏の「法制史研究」の中の「明治初年の法学教育」及び aso**otoh氏のブログ『「a song for you」の可能性を求めて』の「日本人最初のハーバード大卒業生が目指した日本の音楽教育」の記載に拠った。福岡藩士として慶応三()年米国に留学、ハーバード法律学校(現在のハーヴァード大学。)を明治七(一八七四)年に同大学最初の日本人留学生として、東洋人初でもあった学位LL.B.(法学士)を取得して卒業、帰国後、私立学校福吉舎を開校(Seiichi Hashimoto 氏の「法制史研究」の中の「明治初年の法学教育」によれば、明治七年十一月に井上と本間英一郎なる人物の両名によって開業願が提出されており、そこには学科は「英学」のみで井上が「法律学」を本間が「造営学」をそれぞれ担当するとされてありという。特に『法律学については、「英学」の看板にもかかわらず、教授内容としては「法律学一式 万国公法,本邦之律例規則布告布達類取調」(法律学一般から国内現行法の理解まで)を標榜していた。まさしく法学専門教育をその内容としていると言ってよい』。『つまり、福吉舎はハーバード・ロースクール卒業生が法学専門教育を提供するという点で、法律学舎』(従来本邦初の私立法学校とされた明治七年に元田直によって東京神田五軒町につくられた法学校)『よりもはるかに充実した教育内容を備えていたのではないかと推測される。その意味で、日本最初の私立法学校という名称に拘るならば、それは法律学舎ではなく福吉舎にこそ冠せられるべきではないだろうか。ただ、残念ながら、福吉舎の活動はごく短期間のうちに終了したようである』とある)、明治八年には東京英語学校二等教諭兼開成学校教授補に任命され、この明治一〇(一八七七)年四月の東京大学発足と同時に、二十六歳の若さで法学部最初の唯一人の日本人教授となった。ところが、それから一年九ヶ月を経た明治一二(一八七九)年一月に『発作的な自殺を遂げた』とある(ここは aso**otoh氏のブログ『「a song for you」の可能性を求めて』の「日本人最初のハーバード大卒業生が目指した日本の音楽教育」に拠る)ウィキの「ハーバード・ロー・スクール」の「著名な修了生(日本人)」に享年二十八とあるから、これが正しければ彼の生年は嘉永五(一八五二)年である。

「服部」服部一三予備門主幹。既注

「タイ即ち bream」原文は“the tai, a bream,”。但し、訪米人には“sea bream”とした方が誤解が少ないと思われる。何故というに、“bream”は一般にはまず、淡水魚である条鰭綱コイ目コイ科ウグイ亜科アブラミス属ブリーム Abramis brama を指すからである。ブリーム(英名は Carp bream 又は Bream)はヨーロッパの河川や湖沼・用水路に広く分布する淡水魚で、漁獲対象種としても知られるからである。

「砕米薺(みずたがらし)」原文は“water-cress”。この英語は葉をサラダやスープにする湿地や水中に植生するオランダガラシ・ミズガラシ・クレソンを指す。石川氏の訳だと、これは双子葉植物綱ビワモドキ亜綱フウチョウソウ目アブラナ科タネツケバナ属ミズタガラシ(水田芥子) Cardamine lyrata、英名 Bunge を限定的に指す。ミズタガラシは『日本(関東以西)を含む東アジア一帯に自生する。また、アクアリウムで観賞用に栽培され、学名のカルダミネ・リラタで通る』。茎が太く稜があり、数十センチメートルの『直立茎と基部から出る匍匐茎がある。葉は奇数羽状複葉で互生し、頂小葉は大きく側小葉は小さい。匍匐茎では円形の頂小葉だけのこともある。花は直立茎の先に総状花序をなし、水中に生育する場合は水上に抽出する。直径』一センチメートル『程度の白い十字花で、初夏に開花し、花後直立茎は倒れる。果実は秋に熟し、細長い莢状で翼のある種子を含む。

日本では和名の通り水田の用水路などに生育する』。『タガラシ(キンポウゲ科、田枯らしの意味といわれる)とは直接関係ない』と参照したウィキミズタガラシにはある。而して、このウィキのミズタガラシの画像を見てみると、これはタイの刺身に添えられた同じアブラナ科の山葵(ワサビ)ではなかったかと思われる。

「マカロニ」直下に石川氏は『〔管饂飩〕』と割注されておられるが、笑っちゃいけないが、今やこの割注の方がはるかに分かり難く、注をしたくなる。これは竹輪を指しているか?

「銀杏の堅果」原文“the nut of the gingko tree”“gingko は“ginkgo”と同語で、公孫樹(イチョウ)のこと。昔、欧米人が「銀杏」を「ギンキョウ」と誤読したことに基づく、珍しい日本語由来の古い英語である。“ginkyo”の“y”を、さらに“g”と誤読して今の綴りとなり、発音も“kou”になったと、小学館の「プログレッシブ英和中辞典」にあるが、まさにこの銀杏の実の硬さを伝えるようで面白いではないか。

「茶を一種の方法で調製したもの」言わずもがな、抹茶である。]

萩原朔太郎 短歌六首 明治三八(一九〇五)年十二月

夕(ゆう)ざれやもろこし畑(はたけ)吹く風に衣手(ころもで)さむき秋は來にけり

 

春の夜や歌(うた)に更(ふ)かせし小人(せうじん)の口元可愛(かわ)ゆき笑(ゑみ)をしぞ思ふ

 

ほとゝぎす鳴(な)きぬ藤氏(とうし)を語る夜に秀才(しうさい)なれば簾(みす)まきあげよ

 

梅雨(つゆ)ばれの大河(たいが)流るゝ國(くに)を北(きた)に晝顏(ひるがほ)うゑぬ夢(ゆめ)みる人と

 

古家(ふるがや)に昨日(きのふ)咲(さ)きたる五月花(さつきばな)つみな玉(たま)ひそ雨降り出でむ

 

君見れば二條に生ひし街粧(まちづく)り扇もつ手(て)の品(しな)づくりけり

 

[やぶちゃん注:前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された「ろべりや」他二十六首の掉尾を飾る六首連作。当時、朔太郎満十九歳。これらは例えば三首目が「枕草子」の「鳥は」と「香炉峰の雪」に基づく(「藤氏を語る」は後発の「大鏡」の「藤氏物語」に引っ掛けた話しであろう)、一種の時代夢想詠で統一されているように私には見える(但し、総てについての典拠を私は理解している訳ではない。また残念ながら、これらの短歌の印象はそれを探りたいという興味も私には湧かせないものでもある)。

 一首目「夕ざれ」の読み「ゆう」はママ。

 二首目「可愛ゆき」の読み「かわ」はママ。

 五首目は初出では下句が「つみ玉ひそ雨降り出でむ」となっているが、脱字と断じて「な」を補った。底本校訂本文も無論、そうなっている。

 六首目「品づくり」を底本校訂本文は誤字として「品つくり」と『訂正』している。私は従えない。]

杉田久女句集 15 蜂

指輪ぬいて蜂の毒吸ふ朱唇かな

 

さしゝ蜂投げ捨てし菜に歩み居り

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年   蒼光

 昭和十二年 

 

 蒼光

 

夜光虫星天海を照らさざる

 

夜光虫火星が赫く波に懸る

 

夜光虫垂直の舳(へ)を高く航く

 

夜光虫夜の舷に吾は倚る

 

[やぶちゃん注:中句は「よのふなばたに」であろう。]

 

夜光虫さびしさや天の星を見る

 

[やぶちゃん注:「夜光虫」は底本の用字のままとした。「蟲」としなかったのは一つの可能性として多佳子はこの「蟲」の字を好まなかった可能性(結構高いと思う)を配慮した。これは例えば芥川龍之介などに顕著に見られる傾向であるが但し、例えば多佳子の場合、寧ろ好まなかった故に「蟲」を用いた方が効果的と考えて使用した場面もあったかも知れない。序でに申し上げておくと「垂」の字も多くの近代作家は旧字の「埀」を書かないし、活字にも用いない傾向が強いことから正字表記していない。]

白き響   八木重吉

さく、と 食へば

さく、と くわるる この 林檎の 白き肉

なにゆえの このあわただしさぞ

そそくさとくひければ

わが 鼻先きに ぬれし汁(つゆ)

 

ああ、りんごの 白きにくにただよふ

まさびしく 白きひびき

鬼城句集 冬之部 動物 冬蜂

  動物

 

冬蜂    冬蜂の死にどころなく歩きけり

[やぶちゃん注:鬼城の真骨頂であり、眼目であり、連続する生死の実相を漸近線で描いた名吟である。大正四(一九一五)年、鬼城満五十歳の折りの作。本書の「序」で鬼城を境涯俳人として名指した大須賀乙字とその共同正犯高浜虚子は(無論、「序」は虚子、乙字の順で、「境涯」という語を確信犯としてバリバリに用いたのは乙字であるからこれを主犯と言い、やはり確信犯で鬼城の疾患と貧困と数奇不遇な半生を余すところなく語り切った点で共同正犯と私は表現するものである)そのの「序」の中で、この句の冬蜂は『最う運命が決まつてゐて、だんだん押寄せて來る寒さに抵抗し得ないで遲かれ速かれ死ぬるのである。けれどもさて何所で死なうといふ所もなく、仕方がなしに地上なり緣ばななりをよろよろと只歩いてゐるといふのである。人間社會でもこれに似寄つたものは澤山ある。否人間其物が皆此冬蜂の如きものであるとも言ひ得るのである』などと、虚子らしい如何にもな、いやったらしさ、で評釈している。こういうのを、ない方がなんぼかマシ、な評言と云うのである(私の境涯俳句・俳人という語への生理的嫌悪感については「イコンとしての杖――富田木歩偶感――藪野直史」をお読み戴ければ幸いである)。]

2014/01/17

耳嚢 巻之八 日野資枝歌の不審答の事

 日野資枝歌の不審答の事

 

 忍戀(しのぶこひ)の題にて、資枝詠出ありし歌に、

  すえついに人もゆるさぬ契あれと思ふが中は猶しのびつゝ

此のとの字、にごりてどと解する人もあり、すみてとなりといふ者、江戸門人の内數多(あまた)論じ合(あひ)ければ、資枝へ承りに遣しければ、其答に、とともど共(とも)解す人の心次第にてよしとの答へなり。門人の意氣をも不折(おらず)、歌の意にも害なき面白き答へなりと人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:日野資枝(すけき)関連で直連関。

・「日野資枝」前話「耳嚢 巻之八 不計詠る歌に奇怪を云ふ事」の注を参照。

・「不審答の事」一応、「こたへつまびらかならざるのこと」と訓じておく。

・「すえついに人もゆるさぬ契あれと思ふが中は猶しのびつゝ」この「契(ちぎり)あれと」の「と」がそのまま清音で引用の格助詞「と」であると解するなら、未だ事実はその禁断の忍ぶ恋は成就されていない、しかし、それを切望する命令形で、「あれ」かしと思う、がしかしそう現に焦がれている思いは、その成就を望むのならばなおのこと秘やかに隠し通さねば、という意味になるが、普通に行われることが多い濁音の無表記であって「契あれど」と逆接の接続助詞「ど」であるとするならば、その許されぬ恋は実は既に成就している、しかしなお、それは許されぬものであるがゆえに色にしも出してはならぬのだあ、といった解釈になる。孰れであっても歌意としては問題がない。……私ならどっちかって?……それはもう後者に決まってるさぁね ♪ふふふ♪……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 日野資枝(すけき)殿の和歌に就きての疑義への審らかならざるお答えの事

 

 「忍恋(しのぶこい)」との題詠にて、日野資枝殿が詠み出だされた歌を記したものに、

  すえついに人もゆるさぬ契あれと思ふが中は猶しのびつゝ

と御座った。

 この「と」の字であるが、濁りて「ど」と解する人もあり、逆に清(す)みて「と」で御座ると申す者もあって、江戸の日野殿のご門人の内にても、これ、頻りに論じ合いとなって御座ったによって、ともかくも資枝殿に直(じか)に承るに若くはなしと諸人決し、人を伺わせてお訊ね申し上げたところが、その答えは、

「――『と』とも――『ど』とも――これ、解さるるお人の――そのお心次第にて宜しゅう――おじゃる――」

とのお答へで御座った。

 門人の意気軒昂たる双方の言い分の孰れをも潰すことのぅ、また和歌の意にも、これ、害のなき、まっこと、面白き答えで御座った、と私の知れるお人が語って御座ったよ。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 49 教え子の昆虫少年を訪ねる

 私の普通学生の一人が私の家へ来て、彼が採集した昆虫を見に来てくれる時間はないかと聞いた。彼が屋敷の門から遠からぬ場所に住んでいることが判ったので、私は彼と一緒に、町通りから一寸入った所にある、美しい庭を持った小ざっぱりした小さな家へ行った。彼の部屋には捕虫網や、箱や、毒瓶や、展趨板や、若干の本があり、典型的な昆虫学者の部屋であった。彼はすでに蝶の見事な蒐集をしていて、私にそのある物を呉れたが、私が頼めば蒐集した物を全部くれたに違いない。翌日彼に昆虫針を沢山やったら、それ迄普通の針しか使用していなかった彼は、非常によろこんだ。数日後彼は私の所へ、奇麗につくり上げた贈物を持って来た。この品は、それ自身は簡単なものだったが、親切な感情を示していた。これが要するに贈物をする秘訣なのである。

[やぶちゃん注:「私の普通学生の一人」この「普通」はこの年に再編された東京大学予備門のことで、再編された旧東京開成学校にいた人物で、しかも蝶を蒐集していたという点から、これは後に帝国大学農科大学(のちの東京帝国大学農学部)教授となった石川千代松であることが分かった。ウィキ石川千代松を見ると明治九(一八七六)年、『東京開成学校へ入学した。担任のフェントン(Montague Arthur Fenton)の感化で蝶の採集を始め』、翌明治十年十月に、『エドワード・S・モース東京大学教授が、蝶の標本を見に来宅した』とあり、翌明治十一年に『東京大学理学部へ進んだ』とあるので間違いない。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 48 鉄扇の驚くべき用法(ホンマかいな!?)

 東京に沢山ある古道具屋で、時折り鉄の扇、というよりも、両端の骨が鉄で出来ている扇や、時として畳んだ扇の形をした、強直な鉄の棒を見受ける。この仕掛は昔、サムライ階級の人々が、機に応じて持って歩いた物だそうである。交戦時、サムライが自分の主を訪れる時、彼は侍臣の手もとに両刀を残して行かねばならなかった。習慣として、襖を僅に開け、この隙間に訪問者は頭をさし込むと同時に低くお辞儀をし、両手を下方にある溝のついた場所へ置くのであるが、彼はこの溝に例の扇を置いて、襖が突然両方から彼の頸をはさむことを防ぎ、かくて或は暗殺されるかも知れない彼自身を保護するのであった。これは老いたるサムライが私に語った所である。鉄扇はまた、攻守両用の役に用いることも出来ると彼はいった。

[やぶちゃん注:「古道具屋」原文は“the bric-a-brac shops”。“bric-a-brac”はフランス語で「古道具・骨董品」、俗語で「古道具屋・骨董商」(他に比喩的に「古くさい手法」の意もある)を意味する“bric-à-brac”由来で、古い小物類(装飾品,・小さな家具)・古物の意。

「鉄の扇」“an iron fan”。鉄扇が護身具であったことは知っているものの、こんな驚くべき防備用法は知らなかった。確かに使おうと思えば、そのように使用は出来ようが……ちょっと……信じ難い感じもしないではないのだが……是非とも識者の御教授を乞うものである。

「交戦時」原文“In hostile times”。これは誤訳であろう。「絶対君主制の時代には」「封建時代には」ではないか?]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 48 鉄扇の驚くべき用法(ホントかい!?)

 東京に沢山ある古道具屋で、時折り鉄の扇、というよりも、両端の骨が鉄で出来ている扇や、時として畳んだ扇の形をした、強直な鉄の棒を見受ける。この仕掛は昔、サムライ階級の人々が、機に応じて持って歩いた物だそうである。交戦時、サムライが自分の主を訪れる時、彼は侍臣の手もとに両刀を残して行かねばならなかった。習慣として、襖を僅に開け、この隙間に訪問者は頭をさし込むと同時に低くお辞儀をし、両手を下方にある溝のついた場所へ置くのであるが、彼はこの溝に例の扇を置いて、襖が突然両方から彼の頸をはさむことを防ぎ、かくて或は暗殺されるかも知れない彼自身を保護するのであった。これは老いたるサムライが私に語った所である。鉄扇はまた、攻守両用の役に用いることも出来ると彼はいった。

[やぶちゃん注:「古道具屋」原文は“the bric-a-brac shops”。“bric-a-brac”はフランス語で「古道具・骨董品」、俗語で「古道具屋・骨董商」(他に比喩的に「古くさい手法」の意もある)を意味する“bric-à-brac”由来で、古い小物類(装飾品,・小さな家具)・古物の意。

「鉄の扇」“an iron fan”。鉄扇が護身具であったことは知っているものの、こんな驚くべき防備用法は知らなかった。確かに使おうと思えば、そのように使用は出来ようが……ちょっと……信じ難い感じもしないではないのだが……是非とも識者の御教授を乞うものである。

「交戦時」原文“In hostile times”。これは誤訳であろう。「絶対君主制の時代には」「封建時代には」ではないか?]

萩原朔太郎 短歌五首 明治三八(一九〇五)年十二月

ほしいまゝくづほれ泣(な)けば寒(さむ)き世(よ)も光そひくる心地(こゝち)のみして

 

夜(よ)は夜にて晝(ひる)は晝にて戀(こ)いてあらばエトナの山(やま)はもえであるべし

 

からくりに見(み)たる地獄(ぢごく)の叫喚(けいかん)が待(ま)ち居(ゐ)るものと思(おも)ふ可笑(をか)しさ

 

寂律(さびしみ)や葦(あし)に物(もの)いふ夕澤邊(ゆうさわべ)鴫立つからに思(おも)ふ西行

 

古年(ふるとせ)や王者(わうしや)に似(に)たる思(おもひ)いでゝ浮(うか)び來淡(あは)く秋の夕雨

 

[やぶちゃん注:前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された五首連作。同号にはこの前に、前に掲げた「ろべりや」七首の他、二歌群が載る。当時、朔太郎満十九歳。

 二首目「戀いて」はママ。「エトナ」はイタリア南部シチリア島の東部にあるヨーロッパ最大の活火山エトナ山(Etna)。ギリシャ神話ではガイアの息子で不死の怪物の王ティフォンが封じられているとされ、また鍛冶神ヘパイストスはこの山精であるエイトナを愛人とし、その情熱的な生涯の最後の仕事場としてこの山を選んだとも伝えられる。ただ、私が馬鹿なのかこの歌の意味は今一つ、よく汲み取れない。自分の恋情の炎が日夜絶えず激しければ、永遠の火を噴くはずのエトナ山でさえも、その私の情熱故に燃え尽きてしまうであろう、とでもいうのであろうか? どうも短歌の苦手な私には分からぬ。識者の御教授を乞うものである。

 三首目「叫喚」は初出では「叫嗅」であるが、誤植と断じて訂した。無論、底本全集校訂本文も「叫喚」とする。「けうかん」の読みはママ。

 四首目「ゆうさわべ」の読みはママ。]

杉田久女句集 14 蝶

 


藪風に蝶ただよへる虛空かな

 

蝶來初めぬ北窓畠に開けてすむ

 

もつれ映りて河を橫切る蝶々かな

 

蝶の目に觸れてきびしき小花かな

 

蝶去るや葉をとじて眠るうまごやし

 

蝶とまりて靜に翅をたたむ花

 

すこし飛びて又土にあり翅破れ蝶

 

旭注ぐや蝶に目醒めしうまごやし

 

[やぶちゃん注:底本索引から「旭注ぐや」は「ひそそぐや」と訓じているものと思われる。久女は蝶を詠わせたら、右に出る者はない。彼女にとって蝶は傷心の自身の肉体であり、後に

 足袋つぐやノラともならず教師妻

と詠む「人形の家」のノラの自己投影の表象であり、そうして――そうして

 蝶追うて春山深く迷ひけり

と詠んだ彼女の、凄絶なる魂の迷宮(ラビリンス)への誘いででもあったのである。]


 

杉田久女句集 13 燕來る軒の深さに棲みなれし

燕來る軒の深さに棲みなれし

 

[やぶちゃん注:個人的に閨怨の情頗る切にして好きな句である。]

杉田久女句集 12 入學兒に鼻紙折りて持たせけり

入學兒に鼻紙折りて持たせけり

 

[やぶちゃん注:長女昌子の小学校入学の景とすれば、大正七年四月の詠かと思われる。底本年譜は昌子氏の編になるが、同年の項にはしっかりと入学の記載があることからこの可能性は極めて高いと私は考えている。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十一年   髮 / なげきの友に / 葬

 髮

 

百合にうづみ骸の髮生きてゐる

 

百合匂ひ看護婦は死の髮を梳く

 

百合そへしなつかしき死の髮に触る

 

 なげきの友に

 

若人の葬そ炎ゆる日をかゝげ

 

母に遺す一高の帽白き百合

 

 葬

 

曼珠沙華身じかきものを燒けぶり

 

曼珠沙華多摩の翠微をけぶらしぬ

 

曼珠沙華はふりのけぶり地よりたつ

 

曼珠沙華灼熱の骨を灰にひらふ

 

曼珠沙華はふりの車輪(わ)をふれぬ

何故に 色があるのか   八木重吉

なぜに 色があるのだらうか

むかし、混沌は さぶし かつた

虛無は 飢えてきたのだ

 

ある日、虛無の胸のかげの 一抹(いちまつ)が

すうつと 蠱惑(アムブロウジアル)の 翡翠に ながれた

やがて、ねぐるしい ある夜の 盜汗(ねあせ)が

四月の雨にあらわれて 靑(ブルウ)に ながれた

 

[やぶちゃん注:非常に難解であり乍ら、しかもまさに「蠱惑」される一篇である。私は私がこの詩を解釈し得るとは到底思っていない。思っていないが、この一篇の世界に恐るべき透明度を持った深宇宙の果てを『慄っとするほど感じている』ことだけは確かである。

「蠱惑(アムブロウジアル)」“ambrosial”は形容詞で、神々に相応しい、神々しい、又は、非常に美味な、この上なく匂いのよい、香(かぐわ)しい、という意である。ところが「蠱惑」という語は、人の心を引きつけて惑わすこと(特に惑わすの方に重心がある)、ひいては女が色香で男を惑わすことを指す。従ってこのルビ附けは、八木重吉のすこぶる個人的な心内辞書にによる変換であることに着目せねばならない。しかもその「蠱惑」は「混沌」(無論、これは「荘子」の「応帝王篇」に出るあの無面目の混沌である)の「翡翠に」「ながれ」るのである。この「蠱惑の」の「の」は同格の格助詞ととるべきであろう。また、「翡翠」は無原罪の混沌の換喩ともとれるし、全く逆に混沌の「四月の雨にあらわれ」た無垢の肌を流れ落ちる「蠱惑」の「靑(ブルウ)」の「盜汗(ねあせ)」ともとれる。寧ろ、後者か。何れにせよ、「秋の瞳」のここまでの流れの中で、超弩級に複雑な詩人の心性による特異点の詩であることに間違いない。]

鬼城句集 冬之部 風邪~湯婆 38句一挙掲載

風邪    風邪ひいて目も鼻もなきくさめかな

足袋    禰宜達の足袋だぶだぶとはきにけり

[やぶちゃん注:「だぶだぶ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

麥蒔    麥蒔や土くれ燃してあたゝまる

      麥蒔くいて一草もなき野面かな

麥踏    麦踏の影いつしかや廻りけり

[やぶちゃん注:「廻」の用字はママ。]

      小男のこまごまと蹈むや麥畑

[やぶちゃん注:「こまごま」の後半は底本では踊り字「〲」。]

      麥踏んですごすごと行く男かな

[やぶちゃん注:「すごすご」の後半は底本では踊り字「〱」。]

餅搗    のし餅や狸ののばしゝもあらむ

      餅搗に祝儀とらする夜明かな

      雀來て歩いてゐけり餅筵

[やぶちゃん注:「餅」の用字はママ。]

酉の市   人の中を晏子が馭者の熊手かな

[やぶちゃん注:他人の権威に依存して得意になることを意味する「晏子の御」(あんしのぎょ)を酉の市(十一月の酉の日に行われる鷲(おおとり)社〔「おおとり」を社名とする神社で日本武尊の白鳥伝説と関わるとされる。大阪府堺市西区鳳北町(おおとりきたまち)にある大鳥大社を総本社とするという。〕を祀った神社の祭礼に立つ市で最初の酉の日を一の酉とし以下、二の酉・三の酉〔三の酉まである年は火事が多いといわれる〕と呼ぶ。金銀を搔き集めるというところから熊手が縁起物として売られ、東京浅草の鷲神社のものが有名。とりのまち。お酉様。)の嘱目にカリカチャライズした。「晏子の御」は「史記」の管晏列伝による故事成句で、春秋時代の斉(せい)の名宰相晏嬰(あんえい ?~前五〇〇])の御者(馭者)を務めていた男がそのことを得意としているのを知った彼の妻が恥じて離縁を求めた。御者は大いに恥じて精励し、晏嬰に認められて大夫にまで出世したという故事から。]

冬籠    緣側に俵二俵や冬籠

頭巾    親の年とやがて同じき頭巾かな

      深く着て耳いとほしむ頭巾かな

日向ぼこ  大木(たいぼく)に日向ぼつこや飯休み

      うとうとと生死の外や日向ぼこ

[やぶちゃん注:「うとうと」の後半は底本では踊り字「〱」。]

亥の子   草の戸や土間も灯りて亥の子の日

[やぶちゃん注:そうした習俗環境に育たなかったことから全く知らないので、以下、ウィキの「亥の子」(いのこ)から引用する。亥の子とは旧暦十月(亥の月)の上(上旬=最初)の亥の日に行われる年中行事。玄猪(げんちょ)・亥の子の祝い・亥の子祭りとも呼ぶ。『主に西日本で見られる。行事の内容としては、亥の子餅を作って食べ万病除去・子孫繁栄を祈る、子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ)いて回る、などがある』。歴史的には古代中国に於いて旧暦十月亥の日亥の刻に『穀類を混ぜ込んだ餅を食べる風習から、それが日本の宮中行事に取り入れられたという説』や、古代日本に於ける『朝廷での事件からという伝承もある。具体的には、景行天皇が九州の土蜘蛛族を滅ぼした際に、椿の槌で地面を打ったことに由来するという説である。つまりこの行事によって天皇家への反乱を未然に防止する目的で行われたという。この行事は次第に貴族や武士にも広がり、やがて民間の行事としても定着した。農村では丁度刈入れが終わった時期であり、収穫を祝う意味でも行われる。また、地面を搗くのは、田の神を天(あるいは山)に返すためと伝える地方もある。猪の多産にあやかるという面もあり、またこの日に炬燵等の準備をすると、火災を逃れるともされる』。『行事の実施形態はさまざまで、亥の子餅を食べるが石は搗かない、あるいはその逆の地方もある』亥の子餅は一般には旧暦十月亥の日亥の刻に食べるとする。『餅は普通のものや茹で小豆をまぶした物などが作られるが、猪肉を表した特別なものが用意されることもある』。また「亥の子石」と呼ばれる石が用いられる地方もある。これは旧暦十月の亥の日の『夕方から翌朝早朝にかけて、地区の子供たち(男子のみの場合もある)が集まり一軒一軒を巡って、歌を歌いながら平たく丸いもしくは球形の石に繋いだ縄を引き、石を上下させて地面を搗く。石の重さ』も一~一〇キログラムと『地方により異なる。地方によって歌の内容は異なるが、亥の子のための歌が使用される。歌詞は縁起をかつぐ内容が多いが例外もある。子供たちが石を搗くとその家では、餅や菓子、小遣いなどを振舞う。振る舞いの無い家では悪態をつく内容の歌を歌われることもある。石のほか藁鉄砲(藁束を硬く縛ったもの)を使う地方もある。藁鉄砲を使う事例により、東日本における旧暦』十月十日『に行われる同様の行事、十日夜(とおかんや)との類似性が指摘できる』とある。以下、引用元には各地方のこの時に歌われる「亥の子の歌」なども採録されているので必見である。]

柴漬    柴漬やをねをね晴れて山遠し

[やぶちゃん注:老婆心ながら、「柴漬」は「ふしづけ」「しのづけ」「しばづけ」で、一般に冬場、河川湖沼や河口内湾に於いて魚を獲るために柴を束ねて沈めておき、それに棲みついた魚を捕らえる漁法を指す語である。]

石藏    石藏をめぐりて水の流れけり

       註、石を積上げて柴漬をつゝみたらんが如く

         冬の山川に魚を誘ふ仕掛なり

[やぶちゃん注:「石藏」は「いしくら/いしぐら」または「いはくら(いわくら)」と読むものと思われる。三重大学図書館の三重県漁業」のデータベース第五巻にある「鰻漁の圖」の中に『石藏或ハ漬石ト唱ヒカラ石トモ云/大河海ニ注入ナス近傍ニ設ケ置三月頃ヨリ十月頃迠此漁事』(事は旧字「古」+「又」表記)とある。これは図を見たところでは円形の網代を作りその中に石を多量に配しておき鰻を潜ませ易くした漁法である。非常に美しい図絵で必見。]

冬座敷   片隅に小さう寐たり冬座敷

北窓塞   北窓を根深畑に塞ぎけり

襟卷    襟卷や猪首うづめて大和尚

毛布    冬の野を行きて美々しや赤毛布

[やぶちゃん注:老婆心ながら、「赤毛布」は「あかげつと(あかゲット)」と読む。一般には田舎から都会見物に来た人、お上りさんのことを指すが(慣れない洋行者を指す場合もあった)、ここはあくまでフラットな意味。揶揄の意は明治初期に東京見物の旅行者の多くが赤い毛布を羽織っていたことに基づく東京人が評した蔑称であって、耳にする響きは私などには頗るよくない。「ゲット」は“blanket”(ブランケット)の略である。]

冬構    あるたけの藁かゝへ出ぬ冬構

    はらはらと石吹き當てぬ冬構

[やぶちゃん注:「はらはら」の後半は底本では踊り字「〱」。]

乾鮭    乾鮭や天秤棒にはねかへる

爐開    四五人の土足で這入る圍爐裏かな

[やぶちゃん注:京都の和菓子店「甘春堂」公式サイトの「亥の子餅・玄猪餅」の商品解説に、先に上がった部立「亥の子」に絡んで、以下のような記載がある。『亥は陰陽五行説では水性に当たり、火災を逃れるという信仰があります。このため江戸時代の庶民の間では、亥の月の亥の日を選び、囲炉裏(いろり)や炬燵(こたつ)を開いて、火鉢を出し始めた風習ができあがりました。茶の湯の世界でも、この日を炉開きの日としており、茶席菓子 として「亥の子餅」を用います』とある。]

柚子湯   柚子湯や日がさしこんでだぶりだぶり

[やぶちゃん注:「だぶりだぶり」の後半は底本では踊り字「〱」。]

竹※    小舟して竹※沈める翁かな

[やぶちゃん注:「※」=「竹」(かんむり)+「瓦」であるが、「廣漢和辭典」にも載らない。国字に「笂」があり、これは矢を背負うための壺形の具である靱(うつぼ)の意で、これは川漁に用いる同形の漁具と似ているから、この字と同字ではないかと推測する。この漁具は「竹筒」「鰻筒」などと現在呼ぶが地方によってはウケ・モジリ・セン・ドウ・ツツ・カゴ・サガリ・モンドリ・モドリ・マンドウなどとも呼ぶ。ここで鬼城はルビを振っていないので確定は出来ないが、音数律と響きからは「もじり」「さがり」「もどり」であろうか。識者の御教授を乞うものである。]

柚味噌   柚味噌して膳賑はしや草の宿

      柚子味噌に一汁一菜の掟かな

埋火    埋火や思ひ出ること皆詩なり

燒芋    苦吟の僧燒芋をまゐられけり

寒行    寒行の提灯ゆゝし誕生寺

[やぶちゃん注:「誕生寺」誕生寺は千葉県鴨川市小湊にある日蓮宗大本山。建治二(一二七六)年に日蓮の弟子日家が日蓮の生家跡に高光山日蓮誕生寺として建立したが、後に二度の大地震と大津波に遭い、現在地に移転された。現在、生家跡伝承地は沖合いの海中にある(以上はウィキ誕生寺」に拠る)。但し、既に見てきた通り、村上家の宗旨は曹洞宗である。]

褌      演習

      雜兵や褌を吹く草の上

飾賣り   飾賣りて醉ひたくれ居る男かな

[やぶちゃん注:「飾賣り」は年末に出る正月用の注連飾り売りのこと。しめうり。ここも音数律から「しめうりて」と訓じているか。]

湯婆    兩親に一つづゝある湯婆かな

[やぶちゃん注:老「婆」心乍ら、「湯婆」は「たんぽ」と読む。湯たんぽのこと。「兩親」も言わずもがなであるが、「ふたおや」と訓ずる。]

      生涯の慌しかりし湯婆かな

[やぶちゃん注:私は『境涯俳句』という呼称や分類に頗る嫌悪を感ずる人間である(それについては私のイコンとしての杖――富田木歩偶感――藪野直史をお読み戴ければ幸いである)。この句、まさに鬼城自身がそうした『境涯』と呼ばれる他者の格附けを美事にカリカチャライズした句として好ましいと感じている。]



以上を以って「鬼城句集 冬之部 人事」を終わる。


2014/01/16

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 逗子案内

 

   〇逗子の部

    ●逗子案内

避暑探勝の客の爲めに、道しるべにもなれかしと、ものしたる逗子案内、しるすべしや。

東京より東海道行滊車に搭じ、大船に到り、此所より横須賀支線に乘りかへて、鎌倉の驛を過ぎ、八幡宮の鳥居を濱の松風にながめて、やがて暗々(あんあん)たる第二號の隧道(とんねる)を越せば、間もなく逗子の停車場なり、東京(とうけい)よりの路程(みちのり)三十四哩なるも、僅々にて着するを得べく、此の賃錢三等金三拾四錢、二等の賃金は三等の二倍、一等は三倍と知るべし。

[やぶちゃん注:「三十四哩」は五四・七キロメートル。因みに現在のJR東日本の走行距離では五四・九キロメートル。以下の段落は最後まで改行せずに続くが、読み易くするために適当な箇所で切り、注を挟んである。なお、今回より行末で内容が切れて、しかも句読点がない箇所は一字空けを施して読み易くすることとした。以下、この注は略す。]

この停車場は、近年逗子の繁榮に伴ふて開かれたるものゝ由にて、こゝには人力車(くるま)もあれば、乘合馬車もありて、海水浴場までは凡そ十町程、其間に川あり、田越川(たごしかは)といふ、稻田麥圃の間を流れて、水は平穏(おだやか)に、川幅六間もあるべし、東鑑には多古江川と書し、承久記には手越川(たごしかは)に作る、建久五年八月、將軍河の邊に遊覽の事ありきとぞ、开は下流なるべし、橋あり、田越橋といふ、橋を渡らば左に折れて、六代御前の墓を吊せよ、路の傍小丘の上に、圍二丈餘あるべき槻の老木ありて、其蔭に角石(かくいし)の苔蒸したるに「六代御前墓」と刻まれたるが建てり、六代は三位維盛(これもり)の嫡男なり、文治三年、年廿二のころ、北條時政に虜はれ、既に誅せらるべきを、文覺上人師弟の昵みある由を以て、宥免(ゆうめん)を請ひければ、上人に預けらる、後高尾山に住し、剃髮して三位禪師と號し、法名を妙覺といふ、文覺流罪の後、又捕はれ、當所にて誅せられしといふ。

[やぶちゃん注:「十町」一一〇〇メートル弱。

「六間」約十一メートル弱。

「承久記」古活字本の下の終盤では、承久の乱で上皇方について自害した三浦胤義の幼い子どもたちが、乳母の尼の助命嘆願も空しく、この「手越ノ河端ニヲロ」されて首を刎ねられるまでの一部始終を仔細に描いている。

「建久五年八月、將軍河の邊に遊覽の事ありき」「吾妻鏡」巻第十四の建久五 (一一九四) 年八月二十六日の条に、

〇原文

廿六日甲寅。御不例減氣之間。相具右武衞。御參勝長壽院。永福寺等。次逍遙多古江河邊給。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿六日甲寅。御不例減氣の間、右武衞を相ひ具し、勝長壽院、永福寺等へ御參、次に多古江(たこえ)河邊へ逍遙し給ふ。

とある。「御不例減氣」とは、直前の二十二日の条に「將軍家聊御不例。御齒勞云々。依之雜色上洛。被尋良藥云々」(將軍家、聊か御不例。御齒の勞(いたは)りと云々。之に依つて雜色上洛し、良藥を尋ねらると云々。)とあった、激しい歯痛が軽快したこと言う。この「右武衞」は当時右兵衛督であった公卿一條高能(いちじょうたかよし 安元二(一一七六)年~建久九(一一九八)年)。同八月十四日に下向した来ていた。藤原北家頼宗の子孫である一条能保の嫡男。母は源義朝娘で頼朝の同腹の妹。頼朝の後援を得て若くして官界に出仕、この二年後の建久七(一一九六)年十二月には参議に列した。この間、ここに見るように鎌倉に長期逗留(「吾妻鏡」におれば大倉幕府内の小御所を旅宿としている)して頼朝・政子夫妻と親しく交わった。「吾妻鏡」のやはりこの同じ月の前の十八日の条には、彼と頼朝の長女で木曽義高の一件で深い心的外傷を受けた大姫との婚姻が政子主導で企てられるも、病み上がりの大姫は頑なに拒絶、それを聴いた高能の方からこの話を断わった旨の記載が載る。大姫の重篤なPTSDの様態も含め、印象的な部分なので引用しておく。

〇原文

十八日丙午。姫君御不例復本給之間。有御沐浴。然而非可有御恃始終事之由。人皆含愁緒。是偏御歎息之所積也。可令嫁右武衞〔高能〕給之由。御臺所内々雖有御計。敢無承諾。及如然之儀者。可沈身於深淵之由被申云々。是猶御懷舊之故歟云々。武衛傳聞之此事更不可思召寄之由。属女房被謝申之。武衞傳聞之此事更不可思召寄之由。属女房被謝申之。

〇やぶちゃんの書き下し文

十八日丙午。姫君の御不例、復本し給ふの間、御沐浴有り。然れども、御恃(たの)み有るべきに非ざるは始終の事の由、人皆(ひとみな)、愁緒(しうしよ)を含む。是れ、偏へに御歎息の積む所なり。右武衞〔高能。〕に嫁せしめ給ふべきの由、御臺所内々に御計らひ有ると雖も、敢て承諾無く、
「然るごときの儀に及ばば、身を深淵に沈むべし。」
の由申さるると云々。
是、猶御懷舊の故かと云々。
武衛、之を傳へ聞き、
「此の事を更に思し召し寄すべからず。」
の由、女房に屬(ぞく)して、之を謝し申さるる。

高能はまた、大姫入内のための対朝廷交渉にも関与していたともいわれている。この時、大姫より二つ年上で満十八歳、その死も大姫逝去の翌年で二十二歳の若さだった。

「开は」不審。「开」は「開」の意であるが、それでは意味が通じない。これは「其」の古字である「一」(上)+「丌」(下)の誤植で、「そは」と読ませているか?

「六代御前」は平高清(承安三(一一七三)年~建久十(一一九九)年)。平宗盛嫡男維盛の嫡男で平清盛曾孫。六代は幼名で平正盛から直系六代に当たることからの命名。「平家物語」の「六代斬られ」等、「平六代」で記載されることが殆どである。寿永二(一一八三)年の都落ちの際、維盛は妻子を京に残した。平氏滅亡後、文治元(一一八五)年十二月、母とともに嵯峨大覚寺の北の菖蒲谷に潜伏しているところを北条時政の探索方によって捕縛された。清盛直系であることから鎌倉に護送・斬首となるはずであったが、文覚上人の助命嘆願により処刑を免れて文覚預りとなった。文治五(一一八九)年に剃髪、妙覚と号し、建久五(一一九四)年には大江広元を通じて頼朝と謁見、二心無き旨を伝えた。その後は回国行脚に勤しんだが、頼朝の死後、庇護者文覚が建久十(一一九九)年に起こった三左衛門事件(反幕派の後鳥羽院院別当たる土御門通親暗殺の謀議疑惑)で隠岐に流罪となるや、六代も捕らえられて鎌倉へ移送、この田越川河畔で処刑された。享年二十七歳であった。没年は建久九(一一九八)年又は元久二(一二〇五)年とも言われ、斬首の場所も「平家」諸本で異なっている(以上は主にウィキの「平高清」を参照した)。

「吊せよ」「吊」は「弔」の俗字。「とむらひせよ」と訓じているか。]

詣で終らば縣道に沿ふえ濱邊に出でよ、田越の下流に架する富士見橋を渡りかへせば、養神亭となん呼べる旅館あり、二階建(にかいだて)宏壯の樓榭(ろうしや)にして、前に田越川あり、後(うしろ)は恰も海水浴場に當たれる灣口(わんかう)を望みて、風色絶美なり、

[やぶちゃん注:「養神亭」現在の逗子市新宿一丁目六-一五(現在の京浜急行新逗子駅から徒歩十分ほどの田越川に架かる河口近くの渚橋とその上流にある富士見橋の西岸一帯と推測される)にかつてあった旅館。徳富蘆花が「不如帰」を執筆した宿として知られた。逗子の保養地としての開発に熱心であった元海軍軍医大監で帝国生命取締役矢野義徹の出資で、明治二二(一八八九)年に内海用御召船蒼龍丸の司厨長であった丸富次郎が逗子初の近代旅館として創業したもの。主にウィキの「養神亭」に拠ったが、詳細は既に電子化注釈を行った田山花袋「逗子の海岸」(大正七(一九一八)年博文館刊の田山花袋「一日の行楽」より)の本文及び私の注を参照されたい。

養神亭より右に里道を行けば、白瀧不動、八幡社 正覺寺、住吉明神、住吉古城(こじやう)の舊跡なり。此邊りを小坪といふ 鎌倉道なり、治承四年、畠山重忠、和田義盛と戟を交ゆ、延元三年南北朝爭亂の時、北畠顯家鎌倉に攻入り、此地にて桃戰ありしことゞも見へたり、海岸巖腹(がんぷく)壁立して、東方近く森戸の濱あり、西方鎌倉靈山(れいざん)が崎突出し、中央に江の島浮び出で、遠く大磯小磯を見渡して、富岳の雲際(うんさい)に聳ゆるを望む、養神亭より左縣道に復(ふく)し、濱邊傳ひに山蔭を行けば鳴鶴(なきづる)が崎に出づ。往昔 將軍源賴朝公、此處を通行(つうかう)ありて、景色(けいしよく)の秀美なるを眺めらる 折しも鶴啼き渡りて耳を掠(かす)めけれは、賞觀ありて、暫時休憩せられしことあり、因て鳴鶴が崎と呼ぶとぞ。此の邊の小名を鐙摺といふ、賴朝公三浦遊覽の時、山路狹く乘馬の鐙を摺り、往來自由ならず、故に此名(このな)起るといふ、海岸の孤山を軍見山と呼ふ、高(たかさ)五六丈山上に古松あり、三浦義澄の城跡と云傳ふ。山蔭に旅館あり。日蔭の茶屋と呼ぶ。海に面して宏樓洋風を摸し 鮮肴美酒立ろに命ずべく、凡そ逗子に游ぶもの多く此の旅館に投ず、蓋(けだ)し逗子一等の地なり。

[やぶちゃん注:「養神亭より右に里道を行けば」後に続く社寺古跡から養神亭の向こうに海を見て、その玄関前に道があってそれを右、則ち、小坪の大崎の岬方向へ向かうと、の謂いである。

「治承四年、畠山重忠、和田義盛と戟を交ゆ」所謂、「小坪合戦」若しくは「由比ヶ浜合戦」と呼ばれるもの。治承四(一一八〇)年八月十七日の頼朝の挙兵を受け、同月二十二日、三浦一族は頼朝方につくことを決し、頼朝と合流するために三浦義澄以下五百余騎を率いて本拠三浦を出立、そこにこの和田義盛及び弟の小次郎義茂も参加した。ところが丸子川(現在の酒匂川)で大雨の増水で渡渉に手間取っているうち、二十三日夜の石橋山合戦で大庭景親が頼朝軍を撃破してしまう。頼朝敗走の知らせを受けた三浦軍は引き返したが(以下はウィキの「石橋山の戦い」の「由比ヶ浜の戦い」の項から引用する)、その途中この小坪の辺りでこの時は未だ平家方についていた『畠山重忠の軍勢と遭遇。和田義盛が名乗りをあげて、双方対峙した。同じ東国武士の見知った仲で縁戚も多く、和平が成りかかったが、遅れて来た事情を知らない義盛の弟の和田義茂が畠山勢に討ちかかってしまい、これに怒った畠山勢が応戦。義茂を死なすなと三浦勢も攻めかかって合戦となった。双方に少なからぬ討ち死にしたものが出た』ものの、この場はとりあえず『停戦がなり、双方が兵を退いた』とある。但し、この後の二十六日には平家に組した畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの大軍勢が三浦氏を攻め、衣笠城に籠って応戦するも万事休し、一族は八十九歳の族長三浦義明の命で海上へと逃れ、義明は独り城に残って討死にしている。

「延元三年南北朝爭亂の時、北畠顯家鎌倉に攻入り」延元三年・建武五(一三三八)年、奥州にあった官軍の武将北畠顕家は後醍醐天皇の命を受けて再び足利方と戦い、義良親王を奉じて鎌倉を攻略陥落させた、その際の戦さ(「桃戰」は「挑戦」(戦いを挑むこと)の誤植であろう)。朝比奈から侵攻して杉本寺の背後にあった杉本城での交戦がとみに知られるが、飯島方面での交戦もあったらしい。顕家はしかし、この年の石津の戦いで二十一歳の若さで亡くなっている。

「靈山(れいざん)が崎」極楽寺坂から稲村ケ崎に落ちる峰。「りやうぜんがさき」が正しい。現在は一般には「霊仙山」と書く。

「鳴鶴が崎」田越川に沿って逗子湾に落ちる低い峰の旧称。現在の桜山九丁目附近。

「將軍源賴朝公、此處を通行ありて、景色の秀美なるを眺めらる 折しも鶴啼き渡りて耳を掠めけれは、賞觀ありて、暫時休憩せられしことあり、因て鳴鶴が崎と呼ぶとぞ」口伝。

「鐙摺」「鐙摺」葉山町堀内にある鐙摺山。旗立山とも呼ぶ。『大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「鎌倉の海」(明治二九(一八九六)年の鎌倉風景) 3』で注したが、再掲する。これも口伝であるが、情報量は遙かに多い。NPO葉山まちづくり協会公式サイト「葉山地域資源MAP」の「葉山の文化財 58 旗立山(鐙摺山)」によれば、伊豆蛭ヶ小島に配流されていた源家の嫡流頼朝が、治承元年(一一七七)、三浦微行(びこう)の折り、鐙摺山城に登る際に、馬の鐙(あぶみ)が地に摺れたのでこの名が付いたと言われる(この記載は蜂起以前のことととれる)。先の注と一部ダブるが、「源平盛衰記」では、『石橋山に旗上げした頼朝に呼応した三浦一族の三浦党は、この鐙摺の小浜の入江から援軍として出陣したとしている』。『この合戦で頼朝は敗走するが、三浦党も酒匂川畔まで行き、敗戦を聞き引き返す途中、小坪あたりで畠山重忠軍と遭遇したとき、お互いの誤解から合戦になるが、この時、鐙摺山城にいた三浦党の』惣領『三浦義澄はこの様子を望見し援軍を送ったが、和解が成立し、再び軍をこの鐙摺山城に引きかえした』。『鐙摺山城を旗立山(はたたてやま)と呼ぶのはこのためである』。また、「曽我物語」によれば、『伊豆伊東の豪族伊東祐親は、頼朝配流中は、頼朝の暗殺を図ったため、鐙摺山上で自刃、現在その僕養塔が山上に祀られている』。また、「吾妻鏡」によれば『頼朝の籠女亀(かめ)の前(まえ)が、小坪飯島』の伏見広綱の邸内『にかくまれていたのを、北條時政の妻牧(まき)の方(かた)に見つかり、牧の方はこれを頼朝の御台所政子に告げたため、憤激した政子は、牧の三郎宗親に命じて』広綱邸を破却させたが、『広綱はいち早く亀の前を大多和義久の鐙摺山城へ逃亡させ、事なきを得た』(この一件については引用元に脱文が認められるので私が補った)が、その後今度は頼朝が『鐙摺山城を訪れ、牧の三郎宗親を呼び「お前の主人はこの頼朝か政子か」と迫り、宗親の元結(もとゆい)を切った。このため、義父の北條時政は怒って伊豆へ引き揚げるという一幕もあった』。歌人佐佐木信綱によれば、建保五(一二一七)年に実朝が『この地に観月し、「大海の磯もとどろに寄する波 われてくだけてさけて散るかも」と詠んだと』する。現在、山上には三〇〇坪に『余る平坦があり、ここから見る景色は富士、箱根、江の島など、抜群である』とある。

「軍見山」「いくさみやま」と読む。鐙摺山とも。この逗子海岸左手に見える山について「佐々木家のホームページ」内の「葉山の散歩道(1)鐙摺・旗立山周辺…①」によれば、永正九(一五一二)年、三浦道寸義同(よしあつ)が北条早雲に攻められて小坪の住吉城を退却した際、弟の次郎高處(たかおき)の居城であったこの鐙摺城に登り、敵情を視察したことから軍見山(いくさみ)ともいわれているとある。これは本文の「三浦義澄の城跡と云傳ふ」とするのとは齟齬するが、伝承であり、戦国期以前に砦があったとしてもおかしくなく、三浦氏のそれであったとすれば、これもまた自然ではある。ところが、多くの情報は実は、ここをまた同時に「旗立山」とも呼んでいて、次の本文の記載と食い違う。そこでは明らかに――「ここ」からずっと南東五キロメートル以上海岸線を下った現在の秋谷地区、古名「大崩」の「上」に「旗立山」がある――としているのである。するとそれは大楠山から西南に下る尾根のどこかを指すことになってしまう。これはとんでもない齟齬なのであるが、これが単なる筆者の勘違いなのか、それともそのような異説があるのか、識者の御教授を乞いたいものである。なお、往古の日蔭茶屋の面影と美しい鳴鶴ヶ崎の絵葉書をグーグル画像検索「軍見山」でご覧あれ(このリンク方法、最近私は下手な単一サイトをリンクするよりもよっぽど気が利いてお洒落だと勝手に思っているのである)。

「五六丈」十五~十八メートル。

日蔭の茶屋を過ぎて、荒磯傳ひに山又山の麓を行けば、一帶の沿岸風色(ふうしよく)すべて佳なり、崖を削り濱邊を埋め立てゝ別莊を設くるもの其所此所(そここゝ)にあり。川あり 森戸川と呼び、橋を森戸橋といふ。橋を渡るに、一岬松深く白沙に映ずる處、明神の祠あり、緣記(えんぎ)に依れば治承四年九月八日賴朝三島神社を勸請(くわんせう)したるにて、是れ賴朝豆州配流の日、源家再興の事を三島の神に祈り、遂に志を得たる故なりといふ、境内に千貫松、腰掛松、飛混柏等名木(めいぼく)多し。此の濱を御殿の浦と稱す、賴朝森戸明神へ祈願の折々、休憩して風景を賞し、一日の遊覽を爲して歸へるを例(れい)とせしものゝ如く、海濱に館ありければ、祠後濱を御殿が浦といふとぞ、

[やぶちゃん注:「明神の祠」森戸明神。「新編鎌倉志卷之七」に、

〇杜戸明神〔附名島〕 杜戸(もりどの)〔或守殿、或作森(或は守殿、或は森に作る)。〕明神は、杜戸村の出崎なり。社(やしろ)の北の山岸(やまぎし)に川あり。森戸川と云ふ。社司の云、賴朝卿、治承四年九月八日、三島の明神を勸請す。故に今に至て此の日祭禮をなすと云ふ。今按ずるに、賴朝卿、治承四年十月六日、相模國に著御、同九日、大庭(をほば)の平太景義(かげよし)を奉行として、大倉郷(をほくらのがう)に御亭を作り始めらるとあり。しからば賴朝いまだ鎌倉へ入り給はざる前(さき)に、勸請の事如何ん。社領七石の御朱印あり。神主物部(ものべ)の姓にて守屋氏なり。弓削守屋(ゆげのもりや)が後也と云ふ。

「大庭の平太景義」(大治三(一一二八)年?~承元四(一二一〇)年)は桓武平氏支流で鎌倉権五郎景政の曾孫に当たり、代々相模国大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市大庭)を根拠地とした。若くして源義朝に従ったが、保元の乱で敵方についた義朝弟為朝の矢を受けた結果、歩行不自由となってしまい、家督は弟景親に譲って隠居した。後に頼朝蜂起の際には、弟が平家方追討軍の主将となったのに対して兄景義は頼朝に従った(弟景親の処刑には頼朝から嘆願の有無を問われたが一切の処置を御意に任せた)。後の幕府では老臣として重きをなした。「物部の姓にて守屋氏」「弓削守屋」とは飛鳥時代の大連(おおむらじ)物部守屋(?~用明天皇二(五八七)年)のこと。彼の母は連弓削倭古やまとこの娘であり、守屋は実に物部弓削守屋大連と複数の姓を称した。]

有栖川宮御別邸の前を過ぎて又川あり、下山口川と呼ぶ、濱邊に黑門嚴かに建られ、衞士の肅然として控ゆるは、是なん葉山の御用邸なる、 畏くも仰ぎ奉りて、石坂を登り、長者園までは猶七八町もあらむべし、漁村網を干して、鰹魚(かつを)捕る舟の二三艘、沖に浮べる、既にしえ長者園に達す、旅館なり、凡そ逗子にある旅館は、養神亭 日蔭の茶屋、及び長者園の三戸に過ぎず。園は眺望尤も勝れたる處に位置をしめ、一岬秀づる處長者が崎と爲す、形狀鵜の頸を延ばせるが如し、故に又鵜が崎の名あり、風光絶佳、富士の根は雲の中帶(なかおび)ゆたかに引きながし由比が濱、稻村が崎、七里が濱の波は玉を延べて、江の島の山は寔に盆石を浮かべたり。長井の荒崎は南に長く、天神が島は近く、三浦が崎は遠く、蒼々十幾里 大島の煙は微かに空をかすめて、伊豆の山脈は蜿々遙かに雲煙の中に出沒す。其後丘を旗立山といふ、治承四年北條父子此山上に旗押立てゝ和田義盛と戰ふ、其下を大崩れと稱す、古(いにしえ)此地の山嶽崩れて海に入りたるより此稱あり、永正(えいせう)年中(ねんちう)三浦道寸北條早雲の爲めに住吉城を攻落され、新井城へ退去の時、此所にて敵兵を支へたる、有名の古戰場なり、讀者よ、大崩れまで來らば、更に秋名の山に登れ、海面抽く七百二十五尺、山巓には大樹老木なく眼界豁然として開け、馳望(てうぼう)千里、壯絶無比の大風景を認(みと)めむ。

[やぶちゃん注:「有栖川宮」は江戸初期から大正にかけて存在した伏見宮・桂宮・閑院宮とならぶ世襲親王家の宮家。本誌の刊行された明治三一(一八九八)年当時の当主は有栖川宮家最後の有栖川宮威仁(たけひと)親王。現在の三浦郡葉山町にある別邸跡は威仁親王の薨去後に高松宮別邸などを経て、神奈川県が用地を取得、現在は神奈川県立近代美術館葉山館となっている。

「長者園」先行する私の電子化テクスト大和田建樹「散文韻文 雪月花」の「汐なれごろも」(明治二七(一八九四)年の鎌倉・江の島風景)でであるが再掲しておく。葉山長者ヶ崎にあった旅館兼料亭。山野光正氏のブログ「Kousyoublog」の「三浦半島八景のひとつ、葉山の長者ヶ崎海岸」に、『現在の長者ヶ崎海岸に併設する県営駐車場の付近に明治に入って長者園という旅館兼料亭があり、葉山御用邸の建設頃から観光客や天皇行幸の際の随行団のお泊り所として繁盛しており、いつしか、その長者園の名にちなんで長者ヶ崎と呼ばれるようになったという』。『長者園は長蛇園とも呼ばれ、それにあわせて長蛇ヶ崎と呼ばれたこともあった。その長蛇園の方の由来として、当初長蛇園と名づけたが気持ち悪いので長者園に改めたとされ、その名付の基として東宮侍講として明治天皇に仕えた漢学者三島中洲の詠んだ漢詩に由来するともいう。また、その岬が大蛇の蛇の背のように見え、大蛇が棲んでいたという伝承もあり、そこに由来するとも呼ばれる』とあり、この『長者園には志賀直哉も泊まったといい、与謝野晶子もこの地を歌に詠んでいる』とある。リンク先には山野氏の撮影になる美しい風景写真の他、長者ヶ崎の伝承やここを舞台とした泉鏡花の「草迷宮」についての記載などがあり、すこぶる附きで必見である。

「七八町」凡そ七六四~八七三メートル。

「旗立山」前段の私の「軍見山」の注を参照のこと。ここではしかも確信犯的に「治承四年北條父子此山上に旗押立てゝ和田義盛と戰ふ」という前の注に引用したものとは異なる、更に遡った由来譚を確信犯的に附加して述べている点にも着目したい。

「秋名の山」これは大楠山の山頂付近の古い地名である蘆名(芦名)で大楠山のことであろう。

「抽く」「ぬく」と読む。突き出る。

「七百二十五尺」凡そ二一九・七メートル。大楠山の標高は二四一・三メートルである。

逗子に遊ぶもの、汐馴衣(しほなれころも)うるさかるべき朝旦(あした)には、折にふれ、山寺の勝景を尋ぬるも興は深かるべく、邃林幽谷(すいりんゆうこく)又趣きあらむ 神武寺と爲し、延命寺と爲し、海寶院、岩殿觀音、法性寺の古刹、名士の墳墓古蹟あれば、一日草鞋(わらじ)がけにて歷覽するもよけん、緣起由來等(とう)は別に記す處あり。

[やぶちゃん注:惹きつけるための概説ガイド部分であるから、初めとこの終わりはちょいと表現が「ブンガク」している感じ。]

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 プロローグ

  第十章 卵と精蟲
 
 前章に述べた通り、生物の生殖には種々の異なつた方法があるが、その中で最も進んだ、且最も廣く行はれて居るものは、無論雌雄による有性生殖である。人間を始として多數の高等動物では、生殖といへば即ちこの方法のみで、その他には個體の數を殖やす途はない。そして雌雄の間には生殖器官の構造を異にする外に、雌雄相求めるための特殊の性質を具へたもの、生まれた子を育てるための特殊の構造を有するものなどがあり、特に多數相集まつて團體を造る種類では、雌雄の別に基づく複雜な心理的の關係も生じて、生物界における各種の現象中でも最も興味の深いものがある。雌雄の相合するため、竝に子を育てるために、兩性の間に分業の行はれる場合には、雌の方に乳房が大きくなり、雄の方に牙が鋭くなるといふ如き身體上の變化の外に、慈愛・勇氣・堪忍・冒險などの如き精神上の性質も、雌と警の間に不平均に分たれ、心理狀態も著しく異なるに至るであらうから、長い間かやうな分業の行はれて居た動物では、雄は心理的に雌を理解することが出來なくなり、雌の擧動を見て永久に不可解の謎の如くに感ずるかも知れぬ。しかもかく相異なるに至つた源を糺せば、一方は卵巣内に卵細胞を生じ、一方は睾丸内に精蟲を生じて、互に性質の相異なつた生殖細胞を體内に生ずるからである。されば雌雄の別に基づく身體の構造や精神の作用を論ずるに當つては、まづ卵細胞と精蟲との由來を十分明にして置かねばならぬ。
[やぶちゃん注:「長い間かやうな分業の行はれて居た動物では、雄は心理的に雌を理解することが出來なくなり、雌の擧動を見て永久に不可解の謎の如くに感ずるかも知れぬ」何だか面白い謂いである。こんな風に感ずる「動物」はヒトしかいないはずである。丘先生、微妙な性の問題を語り出すに、微苦笑を交えながら、なかなかお洒落な謂いをなさっておられるという気が私にはするのである。]

寄生蟹の歌 萩原朔太郎 (「寄生蟹のうた」初出形) 附 全再録形

 

 寄生蟹の歌 

 

潮みづのつめたくながれて

貝の齒はいたみに齲ばみ酢のやうに溶けてしまつた

ああ ここにはもはや友だちもない 戀もない

渚にぬれて亡靈のやうな草を見てゐる

その草の根はけむりのなかに白くかすんで

春夜のなまぬるい戀びとの吐息のやうです

おぼろにみえる沖の方から

船びとはふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く檝の音がきこえてくる

あやしくもここの海邊にむらがつて

むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまはる

それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹(やどかり)の幽靈ですよ。 

 

[やぶちゃん注:『日本詩人』第二号第六号・大正一一(一九二二)年六月号に掲載され、後に多少の標字の変更と句点追加を施して詩集「靑猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)に所収され、後の詩集「蝶を夢む」(大正一二(一九二三)年七月新潮社刊)及び「定本靑猫」(昭和一一(一九三六)年版畫莊刊)にも同様の仕儀がなされて再録されている朔太郎遺愛の詩の一つである。「檝」は「かぢ」と読む。

 広く知られるようになった「靑猫」版は以下の通り。

   *

 

 寄生蟹のうた 

 

潮みづのつめたくながれて

貝の齒はいたみに齲ばみ酢のやうに溶けてしまつた

ああここにはもはや友だちもない 戀もない

渚にぬれて亡靈のやうな草を見てゐる

その草の根はけむりのなかに白くかすんで

春夜のなまぬるい戀びとの吐息のやうです。

おぼろにみえる沖の方から

船人はふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く楫の音がきこえてくる。

あやしくもここの磯邊にむらがつて

むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまはる

それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹(やどかり)の幽靈ですよ。

 

   *

次に「蝶を夢む」版を示す。

   *

 

 寄生蟹のうた 

 

潮みづのつめたくながれて

貝の齒はいたみに齲ばみ酢のやうに溶けてしまつた

ああ ここにはもはや友だちもない戀もない

渚にぬれて亡靈のやうな草を見てゐる

その草の根はけむりのなかに白くかすんで

春夜のなまぬるい戀びとの吐息のやうです。

おぼろにみえる沖の方から

船びとはふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く楫の音がきこえてくる。

あやしくもここの磯邊にむらがつて

むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまはる

それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹やどかりの幽靈ですよ。

 

   *

最後の「定本靑猫」版。

   *

 

 寄生蟹のうた 

 

潮みづのつめたくながれて

貝の齒はいたみに齲ばみ 酢のやうに溶けてしまつた

ああ ここにはもはや友だちもない 戀もない。

渚にぬれて亡靈のやうな草を見てゐる

その草の根はけむりのなかに白くかすんで

春夜のなまぬるい戀びとの吐息のやうです。

おぼろにみえる沖の方から

船びとはふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く楫の音がきこえてくる。

あやしくもここの磯邊にむらがつて

むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまわる

それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹(やどかり)の幽靈ですよ。

 

   *

「定本靑猫」版の「這ひまわる」はママ。また、そこでは、「寄生蟹(やどかり)」のルビは「寄生」の「やど」が一字ずつで、「蟹」に「かり」の二字が割り当ててある

萩原朔太郎 短歌八首 明治三八(一九〇五)年十二月

靑(あを)すだれ吹く夕風(ゆふかぜ)は美(よ)き人の稽古(さらへ)おへたる窓よりもれて

 

ほとゝぎす女(をんな)に友(とも)の多くしてその音(おと)づれのたそがれの頃

 

稻(いね)の穗(ほ)は淺間(あさま)かくすに丈(たけ)たらず君と行く子に日(ひ)は照(て)りそへど

 

微風(そよかぜ)の歌語(うたかた)り吹く途(みち)すがら四の袖(そで)に螢(ほたる)おさへぬ

 

はなあやめ二十六夜の月影(つきかげ)に透(す)かして見たる帷子(かたびら)の人

 

春(はる)の夜(よ)やとある小路(こじ)に驚(おどろ)きぬ巨人(きよにん)のように見えし水甕(みがめ)に

 

見代(みかは)せば何(なん)の奇(き)もなく友(とも)はあり相別れては胸(むね)やぶるまで

 

圓(ま)ろやかに名手(めて)は胸の上(うへ)に置き左(ひだり)苺(いちご)の草(くさ)つむ少女

 

[やぶちゃん注:前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された八首連作。同号にはこの前に、前に掲げた「ろべりや」七首、この後には後に掲げる二群からなる十一首が載る。当時、朔太郎満十九歳。

 一首目「夕風」のルビは「ゆふやぜ」であるが誤植として訂した。「稽古」の「稽」の字の(つくり)の中の「匕」は初出では「上」の字体。「おへたる」はママ。

 六首目「小路」の「こじ」はママ。底本全集校訂本文では「こうぢ」とする。「ように」もママ。

 掉尾の「名手(めて)」はママ。底本全集校訂本文では「馬手(めて)」とする。]

杉田久女句集 11 押し習ふ卒業式の太鼓判

  私立女學校に圖畫を教ふ 一句

 

押し習ふ卒業式の太鼓判

 

[やぶちゃん注:久女は特別な絵画教育を受けたわけではないようだが、夫で中学校美術教師であった宇内は東京上野美学校西洋画科卒でもあり、大正一一(一九二二)年に橋本多佳子が弟子入りした際も、『作句もしたし絵も描かされた』(底本年譜。因みにこの年譜は久女の長女石昌子氏の編になる、めったにない書く人の情の伝わってくる優れた年譜である)とある。ここで言う「私立女學校に圖畫を教ふ」というのは、年譜に於いて、大正一二(一九二三)年『四月に私立勝山女学校(現在の市立三萩野商業)にて宇内の代理として図画と国語を教える。校長吉村女史の経営の苦労を援助して、市立に昇格するまで数年間教壇に立』ったとあることを指している(珍しく作句時期が限定出来る句である)。他にも大正一三(一九二四)年の項に福岡『県立京都(みやこ)高等女学校(福岡県京都(みやこ)郡行橋(ゆくはし))にて、卒業生と父母を対象とする手芸、フランス刺繡の講習会講師。鍛冶町にメソジスト教会建設のバザー出品のため、刺繡、手工芸品(貝合わせ玩具など)製作』とあり、久女には美術工芸の素養があり、手先も器用であったことが窺われる。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十一年 六甲ホテル

 六甲ホテル

 

[やぶちゃん注:兵庫県神戸市灘区六甲山町南六甲一〇三四番地、六甲山山上に現在も営業する阪急阪神第一ホテルグループの六甲山ホテルのことであろう。昭和四(一九二九)年に宝塚ホテル分館として開業した(後に独立)。古塚正治設計による開業当時の建物は現存しており、二〇〇七年に国の近代化産業遺産に登録されている(以上はウィキ六甲山ホテルに拠る)。]

 

霧あをし紫陽花霧に花をこぞり

 

霧ごもり額(がく)の濃瑠璃が部屋に咲く

 

[やぶちゃん注:「濃瑠璃」は「こきるり」と読むと思われるが、「額の」「咲く」という二語からはどうみても具体な花を指しているとしか思われない。しかし「濃瑠璃」と通称する植物や花はない。しかし「瑠璃草」はある。シソ目ムラサキ科ルリソウ Omphalodes krameri は落葉林のやや湿った場所に植生し、花期は五~六月で花弁は五枚。花の形や色は同科のムラサキ科ワスレナグサ(勿忘草)属 Myosotis とかなり似ている。グーグル画像検索Omphalodes krameri及びMyosotisをリンクしておく。]

 

炉火すゞし山のホテルは梁をあらは

 

[やぶちゃん注:「炉火」の「炉」は底本表記字を用いた。]

 

霧にほひホテル夕餐燈(ひ)がぬくき

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。]

くちばしの黄な 黑い鳥  八木重吉

くちばしの 黄いろい

まつ黑い 鳥であつたつけ

ねちねち うすら白い どぶのうへに

籠(かご)のなかで ぎやうつ! とないてゐたつけ、

 

なにかしら ほそいほそいものが

ピンと すすり哭(な)いてゐるような

そんな 眞晝で あつたつけ

 

[やぶちゃん注:底本では第二連冒頭の「なに」の二字分だけが左の次の行との行間にずれているが、植字工の版組の誤りと判断して再現しなかった。]

鬼城句集 冬之部 火事

火事    庵主のしはがれ聲に近火かな

[やぶちゃん注:底本では「し」は「志」を崩した草書体表記。]

      あはれさや犬鳴き歩く火事の中

      上人や近火見舞うて御ねんごろ

[やぶちゃん注:「火事」は冬の季語(三冬)。歳末火災特別警戒など、冬は空気が乾燥して強風の日が多く、また暖房器具を用いるため火災が起きやすいことから人事の季語となった。]

2014/01/15

丘淺次郎「生物學講話 第八章 團體生活」HP版

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に丘淺次郎「生物學講話 第八章 團體生活」HP版を公開した。

また、同目次ページに原本表紙画像を国立国会図書館の許諾を得て挿入した。

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 六 再生 / 第九章 生殖の方法~了

     六 再生

 

 こゝに再生といふのは、一度死んだ者が再び生き返ることではない。一度失うた體部を再び生ずることである。敵に襲はれたとき、身體の一部を自身で切り捨てて逃げ去るもののあることは、已に前の章で述べたが、かやうな動物では再生の能力がよく發達して、忽ちの間に失つた體部を囘復する。例へば、「かに」は足を切られても再び足が生じ、「ひとで」は腕の先を折られても忽ちその先が延びる。これはその動物に取つては最も必要なことで、もしこの力がなかうたならばたとひ一應は敵の攻撃を免れ得ても、その後食つて産んで死ぬのに忽ち差支が生ずるに違ない。しかしながら再生といふことはかやうな動物に限つたわけではなく、よく調べて見ると如何なる動物でもこの力の具はつて居ないものはない。元來再生とは、失つた部分を再び獲るだけであつて、別にそのために個體の數が殖えるわけでないから、生殖といふ中には無論入らぬが、分裂や芽生の如き無性生殖に比べて見ると、その間には決して境が定められぬ程に性質の相均しいもの故、參考のためにこの章に加へておく。

[やぶちゃん注:ヒトデの再生については直前を参照されたい。]

Hitodenosaisei

[「ひとで」の再生]

[やぶちゃん注:この写真は底本ではカットされているので、昨日、国立国会図書館ホームページの底本画像の使用許可を得て示した(ブログ使用許可番号国図電1401064-1-159 号)。]

 

 分裂生殖では、親の身體が二分して二疋の子となるのであるから、出來たばかりの子は、大きさが親の半分よりないといふ外に、身體の部分が半分不足して居る。「いそぎんちやく」の如くに縱に切れるものでは、右の半分には左半身だけ足らず、左の半分には右半身だけ足らぬ。また「ごかい」の如くに横に切れるものでは、前の半分には後半身が足らず、後の半分には前半身が足らぬ。それ故分裂によつて生じた各個體は、まづこれらの不足する體部を生じなければ完全なものとはならぬが、不足する體部を生ずるのは即ち再生である。されば分裂生殖は再生とは離るべからざるもので、再生によつて補はなければ、到底分裂生殖は行はれぬ。芽生もこれと同樣で、殆ど極度まで發達した再生力と見做すことが出來る。苔蟲の横腹に生じた小さな瘤から一疋の新しい苔蟲が出來るのも、一本の腕の切れ口から新しい「ひとで」の殆ど全部が生ずるのも、發生の模樣は全く同じであり、「ゐもり」の足が一度切られた後に再び生ずるのも、人間の腕が胎内で漸々出來上るのも、殆ど同一の經路を通過するのを見れば、分裂も芽生も再生も生長も皆同一の現象の異なつた姿に過ぎぬやうに思はれ、かやうな例を數多く竝べて見ると、個體の數を殖やす生殖も、その根本を尋ねれば個體の大きさを增す生長と同じ性質のものであることが明に知れる。次に人體にも普通に行はれて居る再生の例を擧げて見よう。

[やぶちゃん注:『「ゐもり」の足が一度切られた後に再び生ずる』私は富山県立伏木高等学校在学中、生物部に所属していたが(演劇部とのかけ持ちではあった)、そこでのメインはイモリの再生実験であった。何度も前肢の一方を肩の部分から切除して再生を待った。切断面から肉芽が伸び出し、中にはそれが指状に分岐しかけるところまではいったが、すべては途中で腐って失敗だった。当時の生物の顧問の先生によれば、どんなにエアレーションをして循環させても水槽内に雑菌が多く繁殖していて、そのために感染症を起す結果だと言われた。大学の研究室などなら抗生物質などを水槽に投与するが、そんな金は出せないとけんもほろろに言われ、室内でそんなことをするのではなく、もっとフィールド・ワークをしなさいとも言われた。今考えれば、確かにあの頃の私のいた伏木周辺にはまだまだ豊富な自然が残っていたから、その通りであったとしみじみ思うのだ。……ワークするための自然を身近に求めること自体が望めなくなった今では……。]

 

 失つた手や足を再び生ずる程の著しい再生力は高等の動物には全く見られぬ。「ゐもり」の切られた足が再び生ずるのを除けば、脊椎動物には目立つ程の再生の例は殆どない。しかし目立たぬ再生ならば到る處に絶えず行はれて居る。例へば我々が湯に入つて皮膚をこ擦ると澤山に垢が出るが、垢は決して外から附著した塵や内から浸み出した脂ばかりではない。その大部分は皮膚の表面から削り取られた細胞である。それ故、垢が取れただけ皮膚は薄くなるべき筈であるに、幾度湯に入つて何度擦つても皮膚が實際薄くならぬのは、全く皮膚の下の層で絶えず新たな細胞が殖えるからである。人間や獸類の皮膚は表皮と眞皮との重なつたもので、表皮は更に表面の乾いた角質層と、その下の濡れた粘液層とに分けることが出來る。皮膚を深く擦り剝ぐと無論血が出るが、極めて薄く摺り剝いたときには血が出ずして單に濕うた表面が現れる、これが即ち粘質層である。さて垢となつて取れるのは、いふまでもなく角質層の上部であるが、新な細胞の絶えず殖えて居るのは粘質層の下部である。粘質層の下にある眞皮までは血管が來て居るから、粘質層の下部に位する細胞はこれから滋養分を得て常に增殖し、舊い細胞を段々上の方へ押し上げると、その細胞は次第次第に形狀も成分も變化し、始め濡れて丸くあつたものが、漸々扁平になり角質に變つて、終に皮膚の表面まで達するのである。されば皮膚の厚さは始終同じであつても、決して同じ細胞が長く止まつて居るわけではなく、表面の舊い細胞は絶えず垢となつて捨てられ、深い層の細胞が常に殖えてこれを補うて居るから、恰も瀧の形は昨日も今日も同じでありながら、瀧の水の一刻も止まらぬのとよく似て居る。

 

 かやうに細胞の新陳代謝するのは、決して皮膚に限つたわけではない。身體の内部に於ても理屈はほぼゞ同樣である。食道や腸胃の内面の黏膜でも、決して同じ細胞がいつまでも止まつて居るのではなく、常に新しい細胞と入れ換つて居る。その他如何なる組織でも生きて居る間は細胞の入れ換らぬものはないが、特に毎日忙しく全身を循環して、瞬時も休まぬ赤血球が如きは、一箇一箇の壽命が甚だ短いもので、暫時役を務めた後は新に出來たものと交代する。身體内では常に新な細胞が出來て、舊い細胞の跡を襲ぐから、擦り剝けた處も少時で治り、傷口も次第に癒える。赤痢や腸チフスで蹴、腸が壞れたのが後に至つて全快するのも、同じく新しい細胞が生じて舊い細胞の不足を補ふからであるから、これなども立派な再生といへる。かくの如く再生は如何なる動物の生活にも必要なことで、日々の生活は殆ど再生によつて保たれるというて宜しいが、人間や獸類では表皮の不足を殘りの表皮から補ひ、粘膜の不足を續きの粘膜から補ふ位の程度に止まり、指を一本失つてもこれを再び生ずる力はない。それ故、「かに」が足を再び生じ、「ひとで」が腕を再び生ずるのを見て、餘程不思議なことの如くに感ずるが、よく考へて見ると、これは垢として取れた表皮細胞をその下層から常に補うて居るのに比べて、たゞ程度が違ふのみである。低度の再生と高度の再生との間には素より判然たる境界はないが、高度の再生と分裂・芽生等の無性生殖との間にも境界がなく、體内芽生と單爲生殖との間にも、いづれとも附かぬ曖昧な場合があるとすれば、世人が生殖といへば、たゞそれのみである如くに思つて居る雌雄交接を要する有性生殖から、世人が生殖とは何の關係もない如くに考へて居る表皮の再生までの間に順々の移り行きがあるわけで、その間にはどこにも明瞭な境界線はなく、すべて新しい細胞の增殖に基づくことである。たゞその結果として個體の數が殖えれば生殖と名づけ、個體の大きさが增せば生長と名づけ、一度失つた部を補ふ場合にはこれを再生と名づけて區別するに過ぎぬ。



以上を以って「生物學講話」のほぼ半分が終わった(講談社学術文庫版の本書を改題した「生物学的人生観」(上下二冊)はここで上巻が終わっている)。

耳囊 卷之八 不計詠る歌に奇怪を云ふ事

 

 不計詠る歌に奇怪を云ふ事

 

 水門の史館萬葉方(かた)相勤めける小池源太左衞門と申(まうす)もの和歌を好て、先年日野一位資枝(すけき)の門弟に成(なり)て出精(しゆつせい)なし、日野家にても其精心を感じ、口傳(くでん)等も有(ある)べしとありしかば、修行の暇(いとま)ねがひて上京し、一年餘も隨身(ずゐじん)して大事の傳授もありしと聞(きき)しが、文化三四年の年にやありし、水戶神應寺(じんおうじ)といへる境内にありし雷神の社へ和歌奉納ありしに、源太左衞門が歌に、

  雨雲をわけいかづちの神よそもふりすてずいま守りましてよ

とありしを、右の歌にて病人平癒いたすと申(まうし)出し、右和歌をもらひに來(きた)る者群集いたして、天地紅(てんちべに)の半切紙(はんせつがみ)を細く斷(たち)て認(したた)め遣(つかはし、金八兩程も、筆墨紙に費しければ、素より禮錢進物等をも不申請(まうしうけざる)ゆゑ、改(あらため)て當時は隣なる町人方にて賣(うり)、認(したため)候も間に不合(あはず)、板刻になして遣(つかはし)けるに、近邊はさらなり奥羽總野(さうや)の國よりもとりに來りし。日によりて二千人位も遠近(をちこち)より來り集(あつま)り、禮參りして雷神へ參詣いたし、賽物(さいもつ)も多く集り、右歌を板にすつて渡せるものは德つきたる事となり。かゝる事、山師といえるものゝ巧(たくみ)たる事ならんといふ者も有(あり)しが、彼(かの)小池は至(いたつ)て愚直なる者にして、かゝる事有(ある)べからずと、其近き隣にて由緖もありける水戶の醫師原玄嶼(はらげんしよ)より、谷中善光寺坂に住ける大内意三といふ同職の者方へ申越(まうしこ)せし書翰ありと、人の携へ來りしを爰に記し置(おき)ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:和歌綺譚二連発。

・「不計詠る」「はからずよめる」と読む。

・「水門の史館萬葉方」「水門の史館」は常陸水戸藩初代藩主徳川光圀が「大日本史」編纂のために置いた修史局(史局)である彰考館で江戸小石川藩邸に置かれていた。「萬葉方」とは恐らく、光圀が編纂を指示し、真言僧で国学者であった契沖が著わした万葉集注釈書「万葉代匠記」(元禄三(一六九〇)年成立)などの資料収集や研究を担当した部署であろう。

・「小池源太左衞門」底本の鈴木氏注に、『三村翁注に「小池桃洞、名は友賢、源太左衛門と称すれども宝暦四年に七十二歳にて歿す。此の人なるべし。」この桃洞(友賢)は通称七左衛門。関流の算家(大人名事典)。なお同事典によれば、源太左衛門は小池友識の通称。友識は武術家で歌人。友賢はその祖父で史館総裁、父友貞は馬廻組。友識の武術は、剣は東軍流、田宮流、鎗は宝蔵院流。歌は日野資故に学んだ。文政八年没、七十三。これが当っていよう』とある。宝暦四年は西暦一七五四年、文政八年は一八二五年である。ここに載る、儒者で和算家の小池桃洞(とうどう 天和三(一六八三)年~宝暦四(一七五四)年)は母が室鳩巣の妹であった水戸藩士で、水戸彰考館に入り、享保四(一七一九)年に同館総裁となった。建部賢弘(たけべかたひろ)に関流和算を、渋川春海(はるみ)に暦学を学んだ。因みに同号で、名も一字違い、しかも同時代人であった本草学者小原桃洞(おはらとうどう 延享三(一七四六)年~文政八(一八二五)年 和歌山藩士の子として生まれ、京に出て、吉益東洞に医学を、小野蘭山に本草学を学んだ。和歌山藩医本草方に抜擢されて寛政四(一七九二)年には創立直後の同藩医学館本草局主宰となった。蘭山の享和元(一八〇一)年の日光採薬や翌二年の紀州採薬にも随行し、文化三(一八〇六)年には「紀伊続風土記」新編纂の藩命を受けた。同書は未完に終わったが、広く山野に採集して動植物を調査、優れた博物誌「桃洞遺筆」を残した人物(この部分は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)がいるので要注意。何故そんなこと書くかって? 「桃洞遺筆」は私の大好きな作品だからである。

・「日野一位資枝」「耳嚢 巻之五 日野資枝卿歌の事」「耳嚢 巻之五 鄙賤の者倭歌の念願を懸し事に既出。再注しておく。日野資枝(元文二(一七三七)年~享和元(一八〇一)年)は公家。日野家第三十六代当主。烏丸光栄の末子で日野資時の跡を継ぐ。後桜町天皇に子である資矩とともに和歌をもって仕えた。優れた歌人であり、同族の藤原貞幹(さだもと)・番頭土肥経平・塙保己一らに和歌を伝授した(著書に「和歌秘説」日)。画才にも優れ、本居宣長へ資金援助をするなど、当代一の文化人として知られた(以上はウィキの「日野資枝」に拠る)。

・「文化三、四年」「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏のことであるから、直近の噂話である。

・「水戶神應寺」茨城県水戸市元山町にある時宗の寺。天正一九(一五九一)年に佐竹義宣が焼失していた時宗遊行派の本山藤沢清浄光寺に代わる本寺として遊行三十二代上人他阿弥陀仏普光(ふこう)を開山に招いて創建、藤沢道場と称した寺。底本の鈴木氏注には『上市向井町。新義真言宗豊山派。同市屈指の名刹』とするのは不審。

・「雷神の社」鈴木氏注には、先の注に示した普光上人が雷神の感応を受けて神応寺(鈴木氏は感応寺とするが従わない)を『創建、側に別雷大神を祀った。のち佐竹氏が秋田に移封して』神応寺は『寺領を失ったが、光圀の時現地に移され、雷神社の別当寺となる。明治にいたり神仏分離され、同社は別に境内を設けた』とある。岩波版長谷川氏注でも、『大坂雷神が境内にあった。現在別雷皇大神として寺の隣にある』とある。サイト「関東の神社めぐり プチ神楽殿」の「別雷皇太神(茨城県水戸市)」が画像入りで詳しい。それによれば現在は「べつらいこうたいじん」と呼称しているらしい。神名自体は「わけいかずち」である。

・「雨雲をわけいかづちの神よそもふりすてずいま守りましてよ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は(正字化して示した)、

 雨雲をわけいかづちの神よそにふりすてゝいま守りましてよ

とあるが、ここは「すてず」でないと、神の御加護にはなるまいという気がするが、如何? 岩波版長谷川氏注には、『わけいかづちは雨雲を分けると別雷神を掛ける』とする。「雨雲」「いかづち」「ふり」は縁語であろう。病気の懊悩を押し開き、神聖なる電光によって病魔を退散する呪言としては相応しい。

・「天地紅」紙の上下の端を紅付けしたものであろう。

・「半切紙」半折。唐紙・画仙紙などの全紙を縦半分に切ったもの。現在の書道用紙でいうと三四八×一三六〇ミリメートル。

・「改て」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は(歴史的仮名遣と正字で示す)『斷(ことわり)て』とするが、これは意味としてはやや衍字っぽい。

・「總野」上総・下総・上野・下野の総称。

・「原玄嶼」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は(正字化して示す)『原玄與』とする。「耳嚢 巻之五 水戸の醫師異人に逢ふ事」に水戸藩藩医原玄養が出るが、これはそこで注した通り、「原玄與」の誤りである。原玄与は水戸藩医昌術の子として水戸に生まれ、父について学んだ後、京都へ赴いて古医方や産術等を修得、安永四(一七七五)年、帰郷して江戸南町(小石川)に居住した。医書の字句や常則に拘泥せず、臨機応変の治療をすることで知られた。御側医から、享和二(一八〇二)年には表医師肝煎となった。著作に「叢桂偶記」「叢桂亭医事小言」「経穴彙解」、軍陣医書(軍医の戦場医術心得)の嚆矢として知られる「戦陣奇方砦草(せんじんきほうとりでぐさ)」や鼠咬毒について論じた「瘈狗傷考(けいくしょうこう)」など多数(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。訳では原玄与とした。

・「谷中善光寺坂」鈴木氏注に、『信濃坂とも。上野山内。もと善光寺があったその前の坂。後に同寺は青山に移ったので、そこの坂もまた善光寺坂と呼ぶ』とある。現在の台東区谷中二丁目にある。位置トとより詳しい解説はサイト「東京23区の坂道」の「台東区の坂(2)~谷中方面」の巻頭をご覧あれ。

・「大内意三」不詳。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『大内意立』とする。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 偶然詠まれた歌が奇怪な噂を広めたる事 

 

 水門の彰考館の万葉方(まんようがた)を相い勤めて御座る小池源太左衛門殿と申さるる御仁、和歌を好みて、先年、日野一位資枝(いののいちいすけき)殿の門弟となって歌道に精進なされ、日野家に於いてもその誠心をお感じになられ、口伝など授くることも考えようとの思し召しなれば、歌道修行のため、藩へ暇まを願い出でて許され、上京致いては、そうさ、一年あまりも日野殿へ随身(ずいじん)しては、まさにお言葉通り、大事の伝授も、これ、御座った由に聞き及んで御座る。

 さて、その源太左衛門殿、文化三、四年の年のこととか、水戸は神応寺(じんのうじ)と申す寺の境内にあった雷神(らいじん)の社(やしろ)へ和歌を奉納致いたが、源太左衛門殿その折りの歌は、

  雨雲をわけいかづちの神よそもふりすてずいま守りましてよ

というもので御座ったと申す。

 すると暫く致いて、

――この源太左衛門殿の和歌によって病人が平癒致いた――

という噂が瞬く間に広ごりだし、その和歌を貰うためにやって参る者が、これもう、雲霞の如く群集をなしたと申す。

 何でも、源太左衛門殿、天地紅(てんちべに)の半切紙(はんせつがみ)を細く截(た)って、かの和歌を認(したた)めては、参る者に遣わして御座ったが、そのために金八両ほども筆・墨・紙に費したれど、もとより礼銭や進物なんどは一切申し請けずにただで配って御座ったと申す。

 その後も余りの参集なれば、それまでの源太左衛門殿の自筆で認(したた)めるというのでは、とてものこと、間に合わずなったれば、改めて今は、直筆を元といて板刻(はんこく)なしたるものにて摺りなし、それを隣りに住める町人方にて、売り与えることとなって御座る由。

 しかしていよいよ、近辺は言うに及ばず、果ては、はるばる奥羽や総野(そうや)の国々よりも、この和歌を請け取り来たることと相い成って御座るとも申す。

 日によってはなんと、二千人ほども、遠近(おちこち)より来たり、群聚(ぐんじゅ)致いては、平癒のお礼參りと称し、雷神の社へも参詣致いて、賽銭や供物もこれ、まっこと多く集まって、その、歌を板に摺って売り渡しておる隣りの町人と申す者は、これ、莫大な利益を受け、富み栄えておるとのことで御座る。

 この一件については、

「どこぞの山師のような怪しい奴が言い出した流言飛語による謀(はかりごと)ではなかろうか。」

と申す者も御座るが、

かの小池殿と申すは、これ、至って愚直なる人物にして、かかることを謀るようなこと、決してあろうはずがない。

と記したものが、源太左衛門殿近隣の御方にて由緒も相応の、かの水戸藩藩医としてよう知られて御座る医師原玄与(はらげんよ)殿より、谷中善光寺坂に住んでおらるる同じく医師大内意三(いぞう)と申さるるお方へ申し越して御座った書翰の中に書かれてあると、その現物を、さる人が携えて参って見せてくれたによって、ここに記しおくことと致す。

 

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 47 日本猫には尻尾のない語(こと)

 私は今迄に屢々、何故日本には尻尾の長い猫がいないのだろうと、不思議に思った。日本の猫はすべてマンクス種であるかどうか、とにかく尻尾が無い。日本人は、猫が後足で立って、いろいろな物を床に引き下すのを防ぐ為に、尻尾を切るのだと信じているが、そうすると猫はカンガルーみたいに、尻尾で身体の均合いを取るものらしい。彼等はこの切断は代々伝わると考えている。これと同じ考が、キューバで行われている。キューバでは、猫が砂糖黍(きび)の畑をさまよい歩くことを防ぐ為に、耳を切断する。熱帯地方で突然降る雨は、それが耳に入れば入る程、猫を煩わすが、猫は特に水が耳に入ることを嫌う。その結果猫は、驟雨の時、すぐ雨宿りをすることが出来るように、家の近くを離れないでいる。

[やぶちゃん注:「マンクス種」原文“the Manx breed”。以下、ウィキの「マンクス」によると、イギリスのマン島(Isle of Man又は Mann。グレート・ブリテン島とアイルランドに囲まれたアイリッシュ海の中央に位置する島。面積約五百七十二平方キロメートルの小さな島であるが、複数の国の間で統治権が移動する複雑な歴史があるために周辺の島やイングランド及びアイルランドとも異なる独自の文化を築いてきた。法的にはグレートブリテン及び北アイルランド連合王国の一部でもなく、また主権国家でもないため、イギリス連邦(commonwealth)の加盟国でもなく、自治権を持ったイギリスの王室属領(Crown dependency)とされる、イギリスの特別領域である。この部分はウィキの「マン島」に拠った。)を発祥とする尻尾のないネコの品種名。尻尾がない猫はこのマンクスとキムリック(Cymric:カナダ原産。マンクスに長毛種をかけ合わせて偶然発生した猫の品種。マンクス同様、前肢より後肢の方が長く、兎の如く跳ねるように動くことと、モコモコしたぬいぐるみのような毛が特徴。イギリスのウェールズ地方で愛されることからキムリック(=ウェールズ族の)と命名された。この部分はウィキキムリック」に拠る)しかなく、マン島で突然変異的に数百年前に発生した無尾の猫の遺伝因子が、島嶼という閉ざされた環境の中で固定され、島特有の固定種として定着したものと考えられている。前肢より後肢が発達するため、やや腰高になっており、兎のように跳ね回るような独特な歩き方をすることから「ラビット・キャット」という渾名もある。この腰高で尻尾がないこと、顔も丸いことから、全体的に丸っこい印象を持つ。なお、この無尾の遺伝子は致死遺伝子でもある。同様の短い尻尾を特色とする猫の品種で最も有名なのはジャパニーズ・ボブテイルであるが、マンクスの短尾の遺伝子はジャパニーズ・ボブテイル(Japanese Bobtail:日本猫を起源とする猫の一品種。ポンポンのように丸まった短い尾を最大の特徴とする。丸まった短い尾の猫は古来より日本に生息していたが、これはアジア大陸から太古の日本列島へと移り住んだ猫の中に切り株のように切れた尾を持つ個体が混ざっており、それらの切れ尾の劣性遺伝子が在来の限られた遺伝子プールに拡散していったという説があるらしい。ジャパニーズ・ボブテイルの歴史はこのような日本猫の直裔として二十世紀のアメリカ合衆国で始まったとして、この部分の参照したウィキ「ジャパニーズボブテイルに詳しい経緯が載る)の原型たる日本猫のそれとは無関係である、とある。なお、マンクスには様々な迷信や伝説があり、例えばネズミを追いかけていた猫がノアの箱舟に最後に飛び乗ろうとして尻尾が扉に挟まれてしまったとか、マン島を根城にしていた海賊が帽子の飾りとして長いネコの尻尾をみんな切り取ってしまったとかといった無尾の伝承である。以上、参照にしたウィキマンクス」には最後に「性格」として『もの静かで利口な性格。引っ込み思案で用心深い面があるため、飼い主以外の見知らぬ人には懐きにくい可能性がある』とある。今回、幾つかのウィキの猫類の記載を読んでみたが、相当なネコ・フリークの方が執筆している模様で、どれも大変面白い。]

疾病 萩原朔太郎

 

 疾病 

 

雪山の絕頂りんりんたり、

この眞冬のあひだ、氷りの人は疾患する、

疾患ししつゝ天にひるがへるところのたましひがある、

病人の靑いたましひがある、

懺悔者のふるへるたましひがある。 

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集第三巻「未發表詩篇」に載る。取消線は抹消を示す。「疾患ししつゝ」はママ。衍字と思われる。編者注に『「ノート」より』とある。]

ろべりや 萩原朔太郎 短歌七首 明治三八(一九〇五)年十二月

   ろべりや

 

共住(ともづみ)の好(このみ)少なき君にして六月植(う)ゑぬろべりやの花

 

夏花(なつばな)に趣(しゆ)ある小家(こいへ)の人なれば面影(おもかげ)に似し戀もする哉

 

振袖(ふりそで)の桔梗(きゝやう)の花の色(いろ)のよきなつかし人(びと)と涙もよほす

 

姉に似し女(をんな)も見たるその家に撫子(なでしこ)うゑむ京(きやう)ぶりにして

 

綾唄や或は牛の遠鳴(とほなき)や君待(ま)つ秋(あき)の野は更(ふ)けにけり

 

あはたゞし燒(も)ゆる焰(ほのほ)の火車(ひぐるま)を忘(わす)れて行(い)にしつらき君かな

 

御手(みて)そへて悲しみ給(たま)へ野かざるを戀(こひ)なき人の十九夏草

 

[やぶちゃん注:前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された七首連作。同号には他に後に掲げる三群からなる十九首が載る。当時、朔太郎満十九歳。

 「ろべりや」キキョウ目キキョウ科ミゾカクシ(溝隠)属 Lobeliaのロベリア・エリヌス Lobelia erinus、和名ルリチョウソウ(瑠璃蝶草)及びその園芸品種をいう。南アフリカ原産の秋播きの一年草で、高さ二十センチメートルほどでマウンド状に広がる。四月から七月頃に青紫色の美しい花を咲かせ、花色は赤紫色やピンク・白色などがある。(weblio辞書の「植物図鑑」にあるロベリア・エリヌス瑠璃蝶草に拠った。画像はグーグル画像検索「Lobelia erinusも参照されたい)。

 一首目の「ともづみ」の読みはママ。

 五首目は、本初出では、

唄或は牛の遠鳴(とほなき)きや君待(ま)つ秋(あき)の野は更(ふ)けにけり

であるが、これでは音数がおかしく、しかもこれは先の『白虹』第一巻第四号(明治三八(一九〇五)年四月発行)に

綾唄やあるひは牛の遠鳴や、君まつ秋の野の更けにげり

(「けり」は初出では「げり」と誤植)と同歌稿であるから、かく訂した(底本全集校訂本文もこれを採る)。

 六首目の「あはたゞし」「燒(も)ゆる」はママ。これはやはり『白虹』第一巻第四号に載る、

あはた〻し燃ゆる災の火車を忘れていにしつらき君かな

(「災」は「炎」の誤植と思われる)と同歌稿である。

 七首目の「野かざるを」は意味不明。「野飾るを」か。にしても韻律がすこぶる悪い。]

杉田久女句集 10 姉ゐねばおとなしき子やしやぼん玉

姉ゐねばおとなしき子やしやぼん玉

 

[やぶちゃん注:宇内と久女の次女光子(大正五(一九一六)年生)。長女昌子は明治四四(一九一一)年生。]

杉田久女句集 9 靑き踏むや離心を抱ける友のさま 

靑き踏むや離心を抱ける友のさま

 

[やぶちゃん注:この「友」は……もしかすると……橋本多佳子(リンク先は私のブログ・カテゴリ「橋本多佳子」)かも知れない。橋本多佳子は久女より九歳下で、大正一一(一九二二)年に夫雄次郎の小倉の櫓山荘のサロンで高浜虚子や久女と出逢って俳句を始めたが、その当初の師は久女であった(底本年譜によれば大正一四(一九二五)年五月に吉岡禪寺洞に指導を譲っている)。私は多佳子の俳句の輝きはこの久女の情熱的な指導を濫觴とすると信じて疑わない人間である。]

杉田久女句集 8 種を蒔く

簷に吊る瓢の種も蒔かばやな

 

芥子蒔くや風に乾きし洗ひ髮

杉田久女句集 7 草摘み

道のべの茶すこし摘みて袂かな

 

嫁菜摘むうしろの汽笛かへり見ず

 

草摘む子幸あふれたる面かな

 

草摘むとしもなく子等を從へし

杉田久女句集 6-2 春の重い鬢

鬢かくや春眠さめし眉重く

 

風をいとひて鬢に傾げし春日傘

杉田久女句集 6 春着

春著きるや裾踏み押へ腰細く

 

髷重きうなじ伏せめに春著かな

 

春襟やホ句會つゞくこの夜ごろ

杉田久女句集 5 春、水辺の叙景

春泥に柄浸けて散れる木の實赤

 

浮きつづく杭根の泡や水ぬるむ

 

ぬるむ水に棹張りしなふ濁りかな

 

水ぬるみ網打ち見入る郵便夫

 

少し轉げてとどまる蜷や水ぬるむ

 

土出でて歩む蟇見ぬ水ぬるむ

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十一年 闇を翔くる 

 闇を翔くる

 

あぢさゐの夕燒天にうつりたる

 

蝙蝠は天の高きに飛びて燒けぬ

 

蝙蝠は夕燒消ゆる地を翔くる

 

蝙蝠の飛びてみとりの燈も濃きよ

 

蝙蝠を闇に見たりきみとる夜半

 

[やぶちゃん注:くどいが、これも夫雄次郎ではない。不詳。しかし、前の「みとり」「葬」句群同様、極めて近親者の「みとり」としか読めない。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十一年 鵜篝

 鵜篝

 

闇に現れ鵜篝並(な)めて落し來る

 

[やぶちゃん注:「落し來る」は「らつしくる」と私なら読む。]

 

鵜のあはれ鵜繩の張ればひかれたる

 

篝もえ舳(へ)のつかれ鵜を片照らす

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十一年 涼しき地下

 涼しき地下

 

地下涼し炎日の香は身に殘り

 

電氣時計(シンクロン)涼しき地下の時を指す

 

[やぶちゃん注:「電氣時計(シンクロン)」は少し手間取ったが、神戸大学附属図書館のデジタルアーカイブの「新聞記事文庫 機械製造業」の『中外商業新報』昭和九(一九三四)年十二月の記事に漸く発見出来た。その「(下ノ一) 掛時計から置時計へ 需要層は拡大する」によれば(恣意的に正字化して引用した。それ以外はママ(歴史的仮名遣ではない点)である)、大正一四(一九二五)『年頃から早くも東京電氣時計會社では横山氏發明の交流式電氣時計を製造して斯界に先鞭をつけ、同時計をシンクロンと名附けたのである、しかし當時は復興事業に追われ、停電も多いので兎角不正確となり勝であり、宣傳も不十分であったので世人の認識を喚起するまでには至らずその進歩も遲々たるものであり、同社もやや經營の困難を感ずる始末であった、また一方それに前後してアメリカのG・E製品たるテレクロンを輸入發賣していた東京電氣も同品の國産化を實現せんと計畫していた、しかし昭和六年東京電燈は率先してタイム・サービスを企圖し發電所にマスター・クロックを設備して周波數の統制を期したので交流式電氣時計進出の機運を漸く熟成し得たのである、かくて先ずこれに呼應したのがシンクロンである』。『他方東京電氣でも前述せるテレクロンの日本國内における製造販賣權の讓渡を受けてから同品をマツダと改稱して國産化を實現した、さて純國産と誇るシンクロンの製造會社たる東京電氣時計は東京電燈の助力を得て着々とその製品の充實を期し、シンクロン、マツダの兩電氣時計は逐次その需要層を開拓したのだ、昭和七年春には周波數も關西六十サイクル、關東五十サイクルと統一したことは既述せるところであるがこれに依って發展の基礎工作が全く成り一層その進出を早めた譯である、斯界の舞臺にも兩電氣時計を初めとして三菱のサイクロン(目下製造中止)日本周波電氣時計のニホン周波電氣時計、次いで八年十一月には精工舍のA・B式電氣時計が發賣される等陸續として交流式電氣時計が登場し、更に來春早早には東京時計製造會社もこれに一枚加わろうとしているからますます斯業は前途多事である』『またこの東京時計の進出は手捲き時計製造家の注目するところであって如何に同品への製造熱が横溢しているかが窺えよう、しかも最早世人は電氣時計の眞價を認め、その需要は逐年増加を示しかつ從來の掛時計に止まらず更に置時計をも各社競って製造して家庭内にもその需要を擴大せんの勢いである、目下市場活躍している製品は

東京電氣時計會社(東電電氣商品會社)=シンクロン・バイクロン

東京電氣會社(本社直賣)=マツダ電氣時計

日本周波電氣時計會社(日本電氣會社)=ニホン周波電氣時計

精工舍(服部時計店)=セイコー(括弧内は販賣會社名)

等である』とある。また、この記事の前の部分で名称の「シンクロン」は当時(一九三〇年代)既にアメリカで普及していた同期式電気時計“synchronous clock”(シンクロナス・クロック) とアメリカのジェネラル・エレクトロニック社製の“Telechron”(但し、この名は一九一二年にヘンリー・ウォーレンが造った電気時計会社が濫觴である)を捩ったネーミングであることも推測される。]

 

走輪去り地下響音を斷ちて涼し

 

[やぶちゃん注:存在を確認出来ないが、私はこの電気時計を備えた地下室は「櫓山荘」にあったものと確信するものである。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十一年 涼しき地下

 涼しき地下

 

地下涼し炎日の香は身に殘り

 

電氣時計(シンクロン)涼しき地下の時を指す

 

[やぶちゃん注:「電氣時計(シンクロン)」は少し手間取ったが、神戸大学附属図書館のデジタルアーカイブの「新聞記事文庫 機械製造業」の『中外商業新報』昭和九(一九三四)年十二月の記事に漸く発見出来た。その「(下ノ一) 掛時計から置時計へ 需要層は拡大する」によれば(恣意的に正字化して引用した。それ以外はママ(歴史的仮名遣ではない点)である)、大正一四(一九二五)『年頃から早くも東京電氣時計會社では横山氏發明の交流式電氣時計を製造して斯界に先鞭をつけ、同時計をシンクロンと名附けたのである、しかし當時は復興事業に追われ、停電も多いので兎角不正確となり勝であり、宣傳も不十分であったので世人の認識を喚起するまでには至らずその進歩も遲々たるものであり、同社もやや經營の困難を感ずる始末であった、また一方それに前後してアメリカのG・E製品たるテレクロンを輸入發賣していた東京電氣も同品の國産化を實現せんと計畫していた、しかし昭和六年東京電燈は率先してタイム・サービスを企圖し發電所にマスター・クロックを設備して周波數の統制を期したので交流式電氣時計進出の機運を漸く熟成し得たのである、かくて先ずこれに呼應したのがシンクロンである』。『他方東京電氣でも前述せるテレクロンの日本國内における製造販賣權の讓渡を受けてから同品をマツダと改稱して國産化を實現した、さて純國産と誇るシンクロンの製造會社たる東京電氣時計は東京電燈の助力を得て着々とその製品の充實を期し、シンクロン、マツダの兩電氣時計は逐次その需要層を開拓したのだ、昭和七年春には周波數も關西六十サイクル、關東五十サイクルと統一したことは既述せるところであるがこれに依って發展の基礎工作が全く成り一層その進出を早めた譯である、斯界の舞臺にも兩電氣時計を初めとして三菱のサイクロン(目下製造中止)日本周波電氣時計のニホン周波電氣時計、次いで八年十一月には精工舍のA・B式電氣時計が發賣される等陸續として交流式電氣時計が登場し、更に來春早早には東京時計製造會社もこれに一枚加わろうとしているからますます斯業は前途多事である』『またこの東京時計の進出は手捲き時計製造家の注目するところであって如何に同品への製造熱が横溢しているかが窺えよう、しかも最早世人は電氣時計の眞價を認め、その需要は逐年増加を示しかつ從來の掛時計に止まらず更に置時計をも各社競って製造して家庭内にもその需要を擴大せんの勢いである、目下市場活躍している製品は

東京電氣時計會社(東電電氣商品會社)=シンクロン・バイクロン

東京電氣會社(本社直賣)=マツダ電氣時計

日本周波電氣時計會社(日本電氣會社)=ニホン周波電氣時計

精工舍(服部時計店)=セイコー(括弧内は販賣會社名)

等である』とある。また、この記事の前の部分で名称の「シンクロン」は当時(一九三〇年代)既にアメリカで普及していた同期式電気時計“synchronous clock”(シンクロナス・クロック) とアメリカのジェネラル・エレクトロニック社製の“Telechron”(但し、この名は一九一二年にヘンリー・ウォーレンが造った電気時計会社が濫觴である)を捩ったネーミングであることも推測される。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十一年 潮路

 潮路

 

船長も舵手も夏服よごれなき

 

羅針盤しづけき雷火たばしるに

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十一年 霧の停船

 霧の停船

 

  サドル島沖にて 

[やぶちゃん注:「サドル島」戦前の中国に於いて欧米列強が幅を利かせていた頃に付けられた島名と思われ、英文サイト“American Merchant Marine at War”(戦争中の米国商戦の資料サイト)のこちらのページに載る上海の地図(右手)で(当該ページは教え子が“saddle island shanghai”の検索で発見して呉れた)、上海の中心から西南西へ凡そ百キロメートル、長江河口左岸南東尖端の巨大な砂嘴の先から七十キロメートルほどの位置に、東シナ海に浮ぶ“Saddle Island”を認めることが出来る。海上の島の形が馬の鞍に似てでもいたのであろう。ここは現在の地図で確認すると彩旗島という島に相当する。]

 

霧はさびし海の燕がゐて飛ばす

 

押ならぶ海燕さへ霧はさびし

 

海燕霧の停船夜ともなりぬ

 

海燕するどき尾羽も霧滴(た)りつ

 

海圖ありこもれる霧に燈(ひ)をともす

 

霧はさびし水夫(かこ)の手燈(たひ)さへもの照らさず

 

霧笛しきりわだなかにして波をきかず

 

わだなかのこのしづけさに霧笛きゆ

 

海燕われも旅ゆき霧にあふ

 

[やぶちゃん注:それにしても「海燕」本句集の題名でもあり、多佳子はウミツバメが殊の外好きだったようだ。グーグル画像検索「ウミツバメ」を再掲しておく。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十一年  上海

 上海

 

[やぶちゃん注:この前年の昭和一〇(一九三五)年五月、多佳子は夫豊次郎とともに上海・杭州方面を旅行している。第一次上海事変(昭和七(一九三二)年)から三年後で抗日運動が激しい高まりを見せていた頃で、底本の堀内薫氏に年譜によれば、多佳子は『身の危険を感じ』たとある。同年譜には、この昭和十一年の項に、『一月、豊次郎は、淳子、国子を同伴して上海、香港、マニラに旅行。』とあるが、この書き方は明らかに多佳子は連れ立っていないことを意味しているから、以下の句はやはり前年の回想吟である。]

 

  四川路

激戰のあと夏草のすでに生ひぬ

 

旅を來し激戰のあと燕とび

 

草靑く戰趾に階が殘りたる

 

[やぶちゃん注:三句ともに第一次上海事変の爪痕を描く。第一次上海事変は昭和七(一九三二)年一月~三月に上海共同租界周辺で起こった日中両軍の武力衝突。以下、平凡社「世界大百科事典」及びウィキの「第一次上海事変」の記載に拠って見る(『 』の直接引用部分はウィキのもの)。当時の上海市には英、米、日、伊などの国際共同租界及びフランス租界からなる上海租界が置かれており、日本は北四川路及び虹江方面に約二万七千の在住民を有していたため、居留民警護の名目で海軍陸戦隊千人を駐留させていた(この頃の共同租界の防衛委員会は義勇軍・市参事会会長・警視総監の他に、英・米・日・仏・伊各軍司令官によって構成されていた)。一九三一(昭和九)年九月十八日の柳条湖事件を契機に満州を舞台として日華両軍は一触即発の状態にあったが、その直後から上海では激しい抗日運動が展開されていた。上海公使館付陸軍武官補佐官田中隆吉少佐らはこれを制圧するとともに満州国樹立工作から列国の目を逸らさせるための謀略として、翌一九三二年一月十八日買収した中国人に日本人托鉢僧を襲撃殺傷させ、日中間の対立を一挙に激化させた。村井倉松上海総領事は呉鉄城上海市長に対して事件について陳謝・加害者処罰・抗日団体解散などを要求、第一遣外艦隊の武力を背景として、同月二七日に最後通牒を発した。翌二十八日午後に最初の軍事衝突が発生、『翌日にかけての夜間に戦闘が続いた。その詳細は、「北四川路両側の我警備区域の部署に著かむとする際、突然側面より支那兵の射撃を受け、忽ち90余名の死傷者を出すに到れり。依て直に土嚢鉄条網を以て之に対する防御工事を施せり。元来此等の陸戦隊を配備したるは、学生、労働者等、暴民の闖入を防止するが目的にして、警察官援助に過ぎざりき。然るに、翌朝に至り前夜我兵を攻撃したるは、支那の正規兵にして広東の19路軍なること判明せり。」』(枢密院「上海事件ニ関スル報告会議筆記」大角海軍大臣発言)。『日本側資料によると、日本側からの先制攻撃ではなかったこと』が強調され、『「今回の上海事変は反政府の広東派及び共産党等が第十九路軍を使嗾して惹起せしめたるもの』で『斯の如く支那特有の内争に基き現政府に服して居らぬ無節制な特種の軍隊が軍紀厳粛なる帝国陸戦隊に対し、国際都市たる上海に於て挑戦し租界の安寧を脅かして居ることは、実に世界の公敵と云ふべきであって、我は決して支那国を敵として戦って居るものではなく、此第十九路軍のやうな公敵に対して自衛手段を採って居るに過ぎないと云ふべきである』(日本海軍省「上海事変と帝国海軍の行動」昭和七(一九三二)年二月二十二日)と専ら正当性を訴えている。この軍事衝突発生を受けて日本海軍は第三艦隊の巡洋艦四隻・駆逐艦四隻・航空母艦二隻及び陸戦隊約七千人を上海に派遣(一月三十一日現着)、犬養内閣はさらに二月の二個師団の派遣を決定、これに対し、国民党軍は二月十六日に上海の作戦に参入した。二月十八日、日本側は更なる軍事衝突を避けるため、列国租界から中国側へ十九路軍が二十キロメートル撤退すべきことを要求したが、これを十九路軍軍長蔡廷鍇(さいていかい)が拒絶、同二十日を以って日本軍は総攻撃を開始した。日華両軍の戦闘は激烈を極めた(混成第二十四旅団の工兵らの所謂、「肉弾三勇士」が知られる)。二十四日に日本陸軍二個師団からなる上海派遣軍が進発し、三月一日にその内の第十一師団が国民党軍の背後に上陸、十九路軍は退却を開始、日本軍は三月三日を以って戦闘の中止を宣言している。日本側の戦死者は七百六十九名、負傷二千三百二十二名。中国軍の損害は一万四千三百二十六人。三十六日間の戦闘によって上海全市は凡そ十五億六千元の損害を被ったとされる。中国側住民の死者は六千八十名、負傷二千名、行方不明一万四百名と発表された。戦後日・中及び英・米・仏・伊四ヶ国による停戦交渉が上海で開始されたが、上海を始めとする中国での列国の利権が脅かされたため、英米列強の反応は満州事変に比べ、遙かに強硬であった。五月五日、日本軍の撤退及び中国軍の駐兵制限区域(浦東・蘇州河南岸)を定めた停戦協定が成立したが、この停戦交渉中の四月二十九日、上海日本人街の虹口公園で行われた天長節祝賀式典に際し、朝鮮人尹奉吉(ユン ポンギル)が爆弾を爆発させて白川義則大将・河端貞次上海日本人居留民団行政委員長が死亡、野村吉三郎中将・植田謙吉中将・村井倉松総領事・重光葵公使らが重傷を負った上海天長節爆弾事件が起こっている。停戦協定により、上海租界を含む外国人居住地域の北・西・南へ十五マイルを非武装地帯となった。その後、一九三七(昭和一二)年には大山勇夫海軍中尉殺害事件が起き、『それに続く中国政府軍による上海攻撃で日中両軍は全面戦争に突入する第二次上海事変が勃発することとなる』。]

 

  佛蘭西租界

 

春曉の路面かつかつと馬車ゆかす

 

春曉の街燈ちかく車上に過ぎ

 

幌の馬車春曉の街の角に獲し

 

[やぶちゃん注:「獲し」は「えし」と読ませるのであろう。]

 

春曉の外套黑き夫と車上

 

春曉のひかり背がまろき馭者とゆけり

 

春曉の靄に燐寸の火をもやす

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十一年 薔薇を贈る

 薔薇を贈る

 

花舗くらく春日に碧き日覆せり

 

薔薇欲しと來つれば花舗の花に迷はず

 

薔薇を撰り花舗のくらきをわすれたり

 

花舗いでゝ街ゆき薔薇が手にまぶし

 

病院の匂ひ抱ける薔薇のにほひ

 

薔薇にほひあさきねぶりのひとがさめぬ

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十一年  當麻

 當麻
 

[やぶちゃん注:底本は「当麻」。「たいま」と読む。当時は奈良県北葛城郡當麻村一帯のの地名で、現在は葛城市當麻。本尊として祀られている當麻曼荼羅で知られる七世紀創建の二上山(にじょうざん)當麻寺(たいまでら)で知られる(現在、同寺院は高野山真言宗と浄土宗の並立寺院)。]
 

牡丹照り二上山(ふたかみ)ここに裾をひく

 

牡丹照り女峰男峰とかさなれる

 

[やぶちゃん注:金剛山地北部の奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町に跨がる二上山(かつては大和言葉による読みで「ふたかみやま」と呼んだが、現在の正式な読みは「にじょうざん」である)は北方の雄岳(五一七メートル)と南方の雌岳(四七四メートル)の双耳峰である。]

 

牡丹照り厨の噴井(ふきゐ)鳴りあふる

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十一年 野火

 野火

 

葛蔓(くづ)帶の阿蘇のくにびと野(ぬ)火かくる

 

[やぶちゃん注:「葛蔓(くづ)帶」とは葛を図柄とした帯のことを指しているか。グーグル画像検索「葛 帯 柄」を参照。

「野」を「ぬ」とするのは本来的には上代の東国方言であった。但し、上代特殊仮名遣、所謂、万葉仮名に於いて、「の」の甲類音を表すとされる「努」「怒」「弩」などを主に江戸時代の国学者が「ぬ」と訓(よ)んだことから「野()」の義に解して「野火(ぬび)」「野辺(ぬべ)」などと読んだ結果、それが慣用化してしまったものである。]

 

火の山の阿蘇のあら野に火かけたる

 

霾(よな)が降る阿蘇の大野(ぬ)に火かけたる

 

[やぶちゃん注:「霾」は音「バイ」で、黄砂現象の古名。モンゴルや中国北部で吹き上げられた黄土(粒子の大きさは十分の二から十分の五ミリメートル程)が季節風に吹き流されて浮遊し日本まで飛来、空を黄褐色に覆いながら徐々に落下してくる現象を指す。太陽も赤みを帯びる。歳時記では春の季語とする。「霾」一字で「つちふる」とも読む他、「霾曇」「霾晦」で「よなぐもり」と読んだり、音読みして「霾風(ばいふう)」「霾天(ばいてん)」と読んだりもする。他にも「よなぼこり」「つちかぜ」「つちぐもり」「胡沙(こさ)」「黄塵万丈」「蒙古風」など黄砂に関する言葉は多数ある(別称の部分は「Wikipedia日英京都関連文書対訳コープス」による自動英文和訳を参照した)。]

 

火かければ大野風たち風驅くる

 

火の山ゆひろごる野火ぞ野を驅くる

 

[やぶちゃん注:「ゆ」言わずもがなであるが、名詞に付く上代の格助詞で、①動作・作用の起点を表す。「~から」。②動作の移動・経由する場所を表す「~を通って」。③比較の基準を表す。「~に比べて」「~より」。④動作の手段・方法を表す。「~によって」「~で」。ここは無論、①の意であるが、この「ゆ」、俳諧俳句での使用例はあまり多くないものと私は思う。]

 

野にをらびくにびと野火とたたかへる

 

[やぶちゃん注:「をらぶ」上代からある古語「叫(おら)ぶ」としか思えないが、だとすれば歴史的仮名遣は「を」であって「お」は誤りである。]

 

天にちかきこの大野火をひとが守る

 

草千里野火あげ天へ傾けり

 

野火に向ひ家居の吾子をわが思(も)へり

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十一年 葬

 葬

 

雪しまきわが喪の髮はみだれけり

 

わが眼路の柩かくしぬ雪しまき

 

雪の野ははるけしここに人を燒く

 

葬(はふり)の炉火が入りしまく天鳴れり

 

吹雪きて天も地もなき火の葬り

 

[やぶちゃん注:これも夫の死ではない。但し、慟哭甚だしく、近親の葬儀の様と思われるが年譜的情報はない。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十一年 地下の花舗

 地下の花舗

 

凩は遠き地に鳴り地下をゆく

 

落葉あり地下の掃除夫路を洗ふ

 

ひとを運ぶ階は動けり地下凍てず

 

地下の花舗温室(むろ)の白百合路にあふれ

 

地下の花舗汗ばむ毛皮肩にせり

 

ひと待ちぬ約せし花舗に毛皮ぬぎ

 

[やぶちゃん注:どこのデパートの地下街かは特定出来ないが、小倉近くでは門司港の中心商店街の栄町地区 (現在の門司港レトロ地区)に昭和九(一九三四)年末に開業した、北九州最古の百貨店である山城屋百貨店が営業していた(この情報はウィキ山城屋 (百貨店)に拠る)。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十一年  六甲山上 / 二月

 六甲山上

 

スケートの面(おもて)粉雪にゆき向ふ

 

スケートの手組めりつよき腕と組めり

 

スケートの手組めり體はたえずななめ

 

スケートの汗ばみし顏なほ周(めぐ)る

 

スケートに靑槇雪をふきおとす

 

雪去れりスケートリンク天と碧き

 

[やぶちゃん注:六甲山スケート場」というPDF資料(地図附)によれば、このスケート場は、元は明治時代より六甲山上にあった天然氷を切り出すための複数の製氷池であった。昭和になって冷蔵庫の普及に伴い見捨てられたが、昭和七(一九三二)年に六甲山観光によって六甲山上までのケーブルカーが開通すると、親会社である阪神電鉄株式会社は山上一帯の開発を展開、製氷池は水深も浅いために結氷し易かったため、これをスケート場に転用した。最初にオープンしたのはケーブル山上駅に最も近い、つげ池スケート場」でここには貸し靴の用意もあった。続いて新池・八代池・三国池の各スケート場もオープン、それ以外にも多くの製氷池が転用されて六甲山には至る所にスケート場が出来たという。昭和四七(一九七二)年の地図には「新池スケート場」が記載されているものの、昭和四〇年の始めには既に利用できなくなっていたとある。先立つ昭和三九年に 六甲山人工スキー場がオープンしており、それを期にスケート場は見捨てられたものらしい。この記事を書かれた方はとてもこのスケート場に思い入れのある方らしく、最後の方には国土地理院昭和四九(一九七四)年の地図に基づく昭文社「六甲山」の地図には「新池」にのみスケート靴のマークが入っているという。『この新池の横に“新池遊園地”(現、オルゴールミュージアム)があったため最後まで存続したものと思われ、新池スケート場を最後に六甲山からスケート場が消えた』と擱筆されておられる。こういう拘り、私はとても好きだ。

 なお、言わずもがな乍ら、知らない方のためにここで断っておくがが、多佳子の意味深な句の殆ど総ての相手は夫雄次郎である。イメージを広げるのはご自由乍ら、才媛の多佳子に淫らなあなたの邪推は禁物である。]
 

 二月

 

煖爐たき吾子抱き主婦の心たる

 

煖爐もえ末子(まつご)は父のひざにある

 

[やぶちゃん注:「末子」は四女美代子(大正一四(一九二五)年十二月十五日生まれ)で、当時、満一〇歳。]

 

書をくりて風邪の憂鬱ひとり默す

 

[やぶちゃん注:「憂鬱」の「鬱」は底本の用字。]

 

ひとりゐて落ちたる椿燻べし爐火

 

[やぶちゃん注:「煖爐」の「爐」は底本では総て「炉」。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十一年  凩

  凩

 

凩の白雲ひとつ光(て)りてゆけり

 

凩は地に鳴り路を白らめたる

 

凍てし燈(ひ)の光の尾さへ風が奪ふ

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字である。]

 

凩の天鳴り壁の炉が鳴れり

 

吾子そろひ凩の夜の炉がもゆる

 

[やぶちゃん注:二句とも「炉」は底本の用字を採用した。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十年 ひと日臥し

 ひと日臥し

 

ひと日臥し庭の眞萩もすでに夕べ

 

靑き蛾の飛びて夜が來ぬひと日臥し

 

[やぶちゃん注:多佳子の句の重要なアイテムである蛾の公的な初出である。]

 

秋の蚊帳枕燈ひくくよみて寢ず

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字である。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十年 京都島原

 京都島原

 

冬の燭遊び女に吾にまたたかず

 

冬の燭見て吾を見しにあらざりし

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十年  醍醐寺路

 醍醐寺路

 

里びとは北しぐれぞいひつ濡れ

 

北しぐれ野菊の土はぬれずある

 

野をゆきつ吾にも馴れし北しぐれ

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十年  みとり

 みとり

 

莖高く華もえ澄めり曼珠沙華

 

曼珠沙華みとりの妻として生きる

 

[やぶちゃん注:この二句目は恐らく大方の読者は多佳子自身を詠んだものと思うであろうが、この「妻」は他者である(誰かは不詳であるが、私は多佳子の育ちの良さなどから多分に近親者に対する悼亡句であるような感じがする)。多佳子の夫雄次郎の死は、この二年後の昭和一二(一九三七)年であり、発病も同年一月のことである。しかし何か不吉な感じである。また、そうした確信犯として句集を編む際に多佳子自身が配したとしか思われない。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十年  曼珠沙華

 曼珠沙華

 

曼珠沙華咲きて日輪衰へず

 

曼珠沙華折りたる手にぞ火立(ほだち)もゆ

 

曼珠沙華火立の花瓣うづまける

 

野路ゆきて華鬘つくらな曼珠沙華

 

[やぶちゃん注:「華鬘」は「けまん」で花鬘とも書く。仏前を荘厳(しょうごん)するために仏殿の内陣や欄間などに掛ける仏具。金銅製・牛革製で、円形又は楕円形の形のものに唐草や蓮華を透かし彫りにし、下縁に総状の金物や鈴を垂らしたもの。]

 

曼珠沙華折りて露草わすれたる

 

曼珠沙華日はじりじりと襟を灼く

 

曼珠沙華日は灼けつつも空澄めり

橋本多佳子句集「海燕」 昭和十年 磯

 磯

 

月照りて野山があをき魂送り

 

月の砂照りてはてなき魂送り

 

わが袂磯砂にある魂送り

 

月光にもゆる送り火魂送り

 

おぼえなき父のみ魂もわが送る

[やぶちゃん注:多佳子(本名山谷多滿)の父山谷雄司(公務員)は明治四二(一九〇九)年七月四日に亡くなっているが、この時、多佳子は満十歳である。父の記憶がないというのは、何か解せない気が私にはする。この謂いには、現在知られている多佳子の年譜的事実以外の何かが隠されているような気がしてならない。]
 

浦人の送り火波に焚きのこる

 

送り火が並び浦曲を夜にゑがく
 
[やぶちゃん注:「浦曲」「うらわ」「うらま」と読む(浦廻とも書く)。上代語で「み」とよむべき「廻」の字を旧訓で「わ」と慣用読みしてしまったために生じた語で、元は浦廻(うらみ。浦回)。「み」は動詞「廻(み)る」の連用形が名詞化したもので、曲がり廻(めぐ)ること、また、そのようになっている地形、主に海岸の湾曲した箇所を指す語である。なお、「万葉集」では舟で浦を漕ぎ巡っていくことの意でも用いられている。]

橋本多佳子句集「海燕」 昭和十年 日輪と龍舌蘭

 日輪と龍舌蘭

 

龍舌蘭咲きて大きな旱り來ぬ

 

龍舌蘭灼けたる地(つち)に葉を這す

 

高き葉ゆ蜥蜴の尾垂り龍舌蘭

 

龍舌蘭の花日輪を炎えしめぬ

 

龍舌蘭旱天の花驕り立つ

 

龍舌蘭旱天の花驕り立つ

 

龍舌蘭夏天の銀河夜々濃ゆし

 

 
[やぶちゃん注:栞を差し違えていることに気づかず、かなりの句を抜かして電子化していたことに、愚かにも先ほど気づいた。飛ばした箇所まで立ち戻って、削除し、これより仕切り直して、既公開部分まで辿り着こううと存ずる。本カテゴリをお読み戴いている方々、失礼した。悪しからず。暫くお待ちあれ。]

痴寂な手  八木重吉

癡寂(ちせき)な手 その手だ、

こころを むしばみ 眸(め)を むしばみ

山を むしばみ 木と草を むしばむ

 

痴寂な手 石くれを むしばみ

飯を むしばみ かつをぶしを むしばみ

ああ、ねずみの 糞(ふん)さへ むしばんでゆく

 

わたしを、小(ち)さい 妻を

しづかなる空を 白い雲を

痴寂な手 おまへは むさぼり むしばむ

 

おお、おろかしい 寂寥の手

おまへは、まあ

ぢぶんの手をさへ 喰つて しまふのかえ

 

[やぶちゃん注:「ぢぶん」はママ。「痴寂」とは聞き慣れない言葉である。「おろかしい 寂寥の手」と出ること、また「白い雲を」「痴寂な手 おまへは むさぼり むしばむ」とあるのが「痴雲」(落ち着きなく行き消える雲のこと)と云う熟語を連想させることなどから全体の印象としては焦燥と苛立ちを生み出すところの痴愚な寂寥感、愚かな淋しさの謂いである。但し、最終連はその心性を重吉は実は決して完全に嫌悪しているのではなく(完全なる嫌悪対象であるとすればそれは重吉の中では詩を生まないと私は考える)、実はどこかでそれに対して密やかな愛さえも感じているのではなかろうか? そういう意味ではこの語は、掻き毟りたくなるような愚直なる淋しさであるとも言えるように私は読む。大方の御批判を俟つ。]

鬼城句集 冬之部 霜除

霜除    大寺霜除しつる芭蕉林
 
[やぶちゃん注:「霜除」は「しもよけ」と読む。冬、霜の害を防ぐために植木や栽培植物などに覆いを掛けること。除霜(じょそう)。]

2014/01/14

もうじき僕のキャラクターが出来る

♪ふふふ♪

いいね♡――

耳嚢 巻之八 實情の歌は見る所有事

 實情の歌は見る所有事

 

 岡野瀧四郎は、予が地方(ぢかた)奉行せし頃は普請役なりしが、昇進して支配勘定をなん勤(つとめ)しが、不幸にして早く身まかりぬ。其子形彦〔岡野次郎兵衞〕は、物書(ものかき)畫かきなどして予が許へも來りぬ。母は屋代弘賢がはらから也。瀧四郎が手植せし八重梅を、形彦が母、夫の七廻りの忌に當りければ、

  春來れはうぐひすきなく梅はあれど植にし人のなきぞ悲しき

とよみて形彦に見せければ、其はしに言葉書(ことばがき)して形彦のよめる、

  梅の花うつし植にし父まさで我のみ聞も鶯の聲

とよめる由。其叔父なる弘賢ふところにして見せぬ。形彦が歌よむと言ひ、かの母の此道に志有(あり)といふ事も聞(きか)ざれど、其情の思ひ出る所は、かく有(ある)べきと爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。二つ前の「白川侯定信屋代弘賢贈答和歌の事」の和歌譚と屋代弘賢談話で直連関。

・「岡野瀧四郎」不詳。

・「地方奉行」本来は江戸幕府初期にしかなかった職名で幕府直轄地の民政を取り扱ったが、ここは「地方」を「遠国」と同義で用い、遠国奉行として根岸が務めた佐渡奉行のことを言っている。根岸は天明四(一七八四)年三月十二日から天明七(一七八七)年六月まで佐渡奉行を勤めた。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、凡そ二〇年前である。

・「普請役」勘定所詰御普請役。享保九(一七二四)年設置され、延享三(一七四六)年には、主に関東の四川(しせん:鬼怒川・小貝川・下利根川・江戸川)流域の普請を担当する四川用水方御普請役と、十五ヶ国幕領の河川及び用水管理特に東海道五川(大井川・酒匂川・天竜川・富士川・安倍川)を専管する在方(ざいかた)御普請役、及び諸国臨時御用を勤める勘定所詰御普請役に分課された(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「支配勘定」勘定奉行に所属し、幕府の財政・領地の調査を掌った。奉行―勘定組頭―勘定―支配勘定の序列。

・「春來れはうぐひすきなく梅はあれど植にし人のなきぞ悲しき」読み易く書き直すと、

 春來れば鶯來鳴く梅はあれど植えにし人のなきぞ悲しき

・「梅の花うつし植にし父まさで我のみ聞も鶯の聲」読み易く書き直すと、

 梅の花移し植えにし父坐さで我のみ聞くも鶯の聲

で、下句「うくひすのこへ」の「うく」は「憂く」(憂し)を掛けて、私独りだけで聞くのも春を告げると申すに鴬の声は何故か憂いもので御座います、と掛ける。音韻的にもこの両首を合わせて詠ずると、ウ音が対照的に反射するように広がってすこぶる美しい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 真心から詠ぜられた歌は見所がある事

 

 岡野瀧四郎殿は、私が佐渡奉行を勤めて御座った頃は普請役で御座って、昇進致いて支配勘定をも勤めて御座ったれど、不幸にして早(はよ)うに身罷られた。

 その子息形彦殿(岡野次郎兵衛と申す。)は、物書きや絵描きなどを得意と致いて、暫らくは私の元へもよく参ったものであったが、彼の御母堂はまた、我らが知己の屋代弘賢殿と御姉弟でもあられた。

 瀧四郎殿が生前手づからお植えになられた八重の梅を、形彦殿の御母堂、夫の七回忌に当たるとて、

  春来れはうぐひすきなく梅はあれど植にし人のなきぞ悲しき

と詠んで形彦殿に見せたところ、その歌の脇に書き添えて形彦殿が唱和致し、

  梅の花うつし植にし父まさで我のみ聞も鴬の声

と詠まれらと申す。

 その叔父なる弘賢殿が、それを大事に残しおいたによって、先日、私にも見せてくれた。

 形彦殿が歌を詠むと申すも、また、かの御母堂が歌道に志しのあったと申すも、これ、とんと聞いたことはなきことなれど、その真情の思ひ出でたるところの歌というものは、これ、かくも美しきものならんと感じ入ったればこそ、ここに記しおくことと致いた。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 46 モース、永遠の少年たる学生松浦佐用彦の宿舎を訪ねる(英語原文附)

 先日私は松浦に、彼の書斎を見せて貰うことにし、一緒に大学の建物の裏にある、大きな寄宿舎へ行った。学生達の部屋は、奇妙な風に配列してある。寄宿舎は二階建で、その各階に部屋が一列に並び、広い廊下に向けて開いている。各二部屋に学生が七人入っているが、下の部産が勉強部屋で、二階のが寝室である。これ等の部屋位陰欝なものは、どこを探しても無いであろう。寒くて、索莫としていて、日本の家の面白味も安楽さもなく、また我国の学生の部屋の居心地よさもない。人が一人入れる軽便寝台が七つ、何の順序も無く部直に散在し、壁にはもちろん絵などはなく、家具も軽便寝台以外には何も無い。書斎の方は、壁に学生達がいたずらに筆で書いた写生図があったりして、いく分ましであった。これ等の部屋は非常に寒いが、ストーヴを入れつつあった。何物を見ても、最も激しい勉強を示している。

[やぶちゃん注:ここは以下に記すようにモースには深い思い入れがあったに違いなく、私にとっても、当時の学生宿舎の様子や彼等の気風が彷彿としてとても面白いと同時に、ある種のモースの懐かしいしみじみとした感懐が伝わってくる箇所であるからして、まず原文を総て掲げておきたい。

   *

The other day I asked Matsura's permission to see his study room, and we went together to a large dormitory in the rear of the University buildings. The students' rooms are arranged in a curious fashion. The dormitories are two stories in height. A single row of rooms on each story opens on a broad veranda. Each two rooms accommodate seven students, the one below being the study room and the one above the bedroom. Nothing could be more cheerless than these rooms. Gold and barren, they had neither the interest nor comfort of the native house nor the coziness of a student's room at home. A narrow crib for one person only, and seven of these scattered without order about the room, no pictures on the walls, of course; no furniture except the cribs. The study room was a little better, as on the walls were a few brush sketches of some of their pranks. The rooms were very cold, but stoves were being put in. Everything indicated the hardest of study.

   *

「松浦」松浦佐用彦。「第七章 江ノ島に於る採集 24 ホイト・ゲーム/松浦佐用彦のこと」に詳注済み。この寄宿舎の彼の部屋の訪問は「ストーヴを入れつつあった」という描写と、この後に「十月二十八日の日曜の夜、日本人の教授達が日本のお茶屋で、私の為に送別の宴を張ってくれた」という叙述が手掛かりになる。モースが何故、松浦の部屋に行ったか? それはとりもなおさず、彼がモース遺愛の教え子で、翌年七月に享年二十二歳で夭折してしまった、本書を執筆していた当時のモースにとっても最も忘れ難い青年であったからに違いない(次の段の談笑の内容からもその親近感は強烈に伝わってくるし、何よりリンク先に示したようにモースは何と彼の墓碑銘さえ記しているのである)。特に松浦は佐々木忠二郎とともにモースからモース帰国後の大森貝塚の後の発掘調査を託されていたほどであるから(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に拠る)、モースとすれば彼との惜別の念の中での訪問、則ち、モースの一時帰国直前の出来事であった。モースの帰国は明治一〇(一八七七)年十一月五日(横浜発)であったから(必ずしもモースは厳密な時系列で本書を記しているわけではないと思われるし、江の島臨界実験所の冒頭など、他の部分の叙述では大きな記憶の錯誤もあるにはあるが)、暖房が設置され「つつあった」という表現からも、これはまさに十月二十八日前後であることは間違いない。――モースにとって松浦佐用彦は文字通りの puer eternus――プエル・エテルヌス――永遠の少年であり続けたのであった……]

 

 私は松浦に、彼等が秘密結社を持っているかと質ねた。彼は、結社はあるが、秘密なものではないと答えた。しばらく話をしている内に、私は松浦から、日本の学生達は一緒になると、乱暴な口を利き合ったり、隠語を使ったりするのだという事実を引き出し、更に私は、彼等が米国の学生と同様、外国人の教授達に綽名(あだな)をつけていることを発見した。一番年をとった教授は「老人」、四角い頭を持っている人は「立方体」、頭が禿げて、赤味がかった、羊の肋肉に似た頰髭のある英国人の教授は「烏賊(いか)」である。松浦は、両親達が大学へ通う子供達の態度が無作法になることに気がつき、彼等自身も仲間同志で、何故こう行為が変化するのか、よく議論したといった。私は彼に、米国の青年達も、大学へ行くようになると、無作法になり、先生に綽名をつけるという、同じような特質を持つにいたることを話した。(大学へ入る前に我々が如何に振舞うかは話さなかった。)私は更に松浦に向って、少年は本来野蛮人なのだが、家庭にいれば母親や姉に叱られる、然るに学校へ入ると、かかる制御から逃れると同時に、復誦へ急いだり、ゴチャゴチャかたまったりするので、いい行儀の角々がすりへらされるのだと話した。

 (日本の学生及び学生生活に就ては、大きな本を書くことが出来る。ヘージング〔新入生をいじめること〕は断じて行わぬ。先生に対する深い尊敬は、我国の大学の教授が、例えば黒板に油を塗るとか、白墨を盗むとか、あるいはそれに類したけちな悪さによって蒙る、詰らぬ面倒から教授を保護する。我国で屢々記録されるこの非文明で兇猛な行動の例証には、プリンストン大学の礼拝堂から聖書と讃美歌の本を盗み出し、ハーヴァードのアップルトン礼拝堂の十字架に、一人の教授の人形を礫にしたりしたような、我国の大学生の不敬虔極る行動や、仲間の学生をヘージングで不具にしたり、苦しめたり、死に至らしめたりさえしたことがある。

 日本の男の子は、我国の普通の男の子達の間へ連れて来れば、誰でもみな「女々しい」と呼ばれるであろう。我国では男の子の乱暴な行為は、「男の子は男の子」という言葉で大目に見られる。日本では、この言草は、「男の子は紳士」であってもよい。日本の生活で最も深い印象を米国人に与えるものは、学校児童の行動である。彼等が先生を尊敬する念の深いことは、この島帝国中どこへ行っても変りはない。メイン、及び恐らく他の州の田舎の学校で、男の子たちが如何に乱暴であるかは、先生が彼等を支配する為に、文字通り、彼の道を闘って開拓しなければならぬという記録を、思い出す丈で充分である。ある学校区域は、職業拳闘家たる資格を持つ先生が見つからぬ以上、先生なしである。日本に於る先生の高い位置を以てし、また教育に対する尊敬を以てする時、サンフランシスコ事件――日本人学童が公立中小学校から追放された――程、残酷な打撃をこの国民に与えた事はない。ここにつけ加えるが、日本人はこの甚深な侮辱を決して忘れはしないが、このようなことを許した政治団体の堕落を理解して、そのままにしている。)

[やぶちゃん注:ここの前文部分は原文では改行せずに前段に続いており、先と同様の理由から、まず原文を示す。

   *

I asked Matsura if they had secret societies and he said they had societies, but not secret ones, and after a little conversation I got out of him the fact that their herding together led to rough talk or slang; then I discovered that they had nicknames for their foreign professors as students have in America. The oldest professor is known as the "Old Man"; another, who has a square head, is called "Cube"; an English professor who is bald-headed and has reddish mutton-chop whiskers is called "Cuttlefish." Matsura said that parents observed that boys attending the University became brusque in their manners, and they had often discussed among themselves the reason for this change in behavior. I told him that the same abruptness of behavior and the using of nicknames for their teachers were characteristics of American boys attending college. (I did not tell him how we acted before coming to college.) I also told him that the young boy is essentially a savage, and at home he is chided by his parents and sisters; in getting away from these restraints, and with the hurrying to recitations and crowding together, some corners of good manners are rubbed off.

 [A large volume might be written on students and student life in Japan. Hazing is never known. The profound respect shown to teachers protects the professor from the trifling annoyances he is subject to in our colleges at home, such as greasing the blackboard, stealing the chalk, and other petty deviltries. The impious behavior of students in our colleges, such as stealing the Bible and hymn-books from the chapel of Princeton University, the crucifying of an effigy of a professor on the cross of Appleton Chapel at Harvard, and disfiguring, torturing, and even causing the death of brother students in hazing, are illustrations of this barbarous and savage behavior often recorded in our country.

There is not a boy in Japan who would not be called a "sissy" if brought in contact with the usual run of our boys. In our country the hoodlum behavior of a boy is condoned by saying "Boys will be boys." In Japan the saying might well be, "Boys will be gentlemen." No feature in Japanese life impresses an American more than the behavior of schoolchildren. Their profound respect for the teacher is universal throughout the Empire. One has simply to recall the records of country schools in Maine and possibly other States, where the boys are so turbulent that a teacher has literally to fight his way before getting control ! Some school districts are without teachers unless a man with the ability of a prize-fighter can be found. With the high position of teachers in Japan and the respect for education, no deeper blow could be dealt to a nation than the San Francisco affair, when Japanese children were excluded from the public schools, and I may add that the Japanese, though never forgetting the deep insult, for such it was, let the matter rest realizing the degradation of the community which permitted it.]

   *

「秘密結社」原文“secret societies”。直下に石川氏は『〔米国の大学にはよくある〕』と割注されておられ、この場合は、大学当局の正式な公認を得ていない、広義の非公認団体・同人組織という意味であろう。欧米の一部のそれらは多分に政治的・宗教的な秘密結社を意味するが、モースはそうした重大な非合法組織というニュアンスの水を半ば冗談で、しかし半ばどこかに反体制的な若者たちの鬱勃たるパトスをも期待しつつ、松浦にしかけたという気がしないでもない。

「復誦へ急いだり、ゴチャゴチャかたまったりするので、」原文は“and with the hurrying to recitations and crowding together”。石川氏に悪いが、ちょっと悪訳という気がする。“recitations”は暗誦・復誦の謂いではなく、朗唱の意ではるまいか? “the hurrying to recitations”とは、めたやたらに大声で歌や詩を歌うこと、thecrowding together”は互いに群れたがることで、ここは

 好んで徒党を組んでは、高歌放声したりするので、

という意味ではあるまいか?

「老人」“Old Man”「爺さん」「じじい」「じい」か。

「立方体」“Cube”。「四角」「角」「箱」若しくは、ややアブナいがそのまま「きゅうぶ」か。

「烏賊」“Cuttlefish”。これはもうモロに「いか」であろう。

「ヘージング」“Hazing”。底本では直下に『〔新入生をいじめること〕』という石川氏の割注がある。“haze”は主に米国で、苛める、特に大学で上級生が新入生にひどい悪戯をしていじめる、しごく、の意。「ヘイズィング」で新入りいじめ。英語版ウィキの“Hazingがすこぶる詳しい。日本版の「いめ」と読み比べてみると、英語版の方が、こうした内容を奇術するに際し、英語圏の人々の方が遙かに自由でマルチプルでしかも学術的な立脚点に立っているのがよく分かる。

「男の子は男の子」“"Boys will be boys.”は「第二章 日光への旅 2 田舎の寺子屋・鳥居」で既注であるが、再掲しておく。「若い男には若い男の特性がある」という諺。人間の生得特性を許容する謂い。男の子は乱暴なもの、若者は常に腹をすかせ、とかく羽目を外したがるといった意味で、同様の表現としては“God's lambs will play.”(神の子羊たちは戯れるもの。)、“Young colts will canter.”(子馬は駆けるもの。)、“A growing youth has a wolf in his belly.”(育ち盛りの若者の胃袋の中には狼がいる)、“Youth must have its fling.”(若者は羽目を外さないと承知しない)といったものがある(安藤邦男「英語ことわざ教訓事典」に拠った)。

「サンフランシスコ事件」本書の刊行された一九一七年(大正六年)に先立つ、一八九三年(明治二十六年)と一九〇六年(明治三十九年)にアメリカのサンフランシスコで起こった二度の日本人学童隔離事件。不学にして私は全く知らないことなので、以下、個人サイト「日系移民の歴史」の日米紳士協約より引用させて戴く(一部の数字を全角化させて戴いた)。

   《本文引用開始》

 1893年、サンフランシスコの市教育委員会は驚くべき決議を発表した。市内の公立学校は日本人生徒の入学を拒否するべきだ、というのである。その理由は、「日本人は他の生徒より年齢が高い」から。

 つまりこういうことである。学校に入学する日本人移民は、英語を学ぶ目的であるため実際の年齢よりも低いクラスに入る。当時17歳以下の児童には1人当たり9ドルの補助が政府から下りたのだが、日本人学生を受け入れても17歳以上であることが多いので学校は補助を得られない。また、学齢以上に達した日本人男子がクラスで女子生徒と一緒になることは好ましくない――と、正直なところずいぶんもってまわった理由であった(*2)。この決議は当時の日本領事珍田捨巳らの運動によってなんとか取り消されたが、教育界における日本人排斥の動きはその後も活発になっていく。

 1901年、カリフォルニア州とネバダ州の州議会が「日系移民を制限せよ」との建議書を中央議会に送る。1905年にはサンフランシスコに「日韓人排斥協会(The Japanese and Korean Exclusion League)」が組織され(のち「アジア人排斥協会(The Asiatic Exclusion League)」に改名)、日系移民に注がれる視線はいよいよ厳しさを増していった。

 そして1906年、またしてもサンフランシスコ学務局で以前と同じ決議が下された。日本人生徒を公立小学校から隔離し、中国人学校に編入させるという決定である。今回の理由は、同年起こったサンフランシスコ大地震の影響で学校のスペースが足りなくなってしまったからというものだった。呆れるほどにこじつけの理屈である。だいたい、当時公立学校に通っていた日本人学生の数は全員あわせても100名に満たない(*3)。こんな少数の生徒を排除したところで、どれほどのスペースが確保できるというのか。

   《本文引用終了》

注記『(*3)』は、

   《注記引用開始》

*3Japanese Immigration, p55によれば92(名以下、「北米百年桜」p15によれば93名(男65・女28)。また当時のサンフランシスコの公立学校69校中、日本人学生を受け入れていたのは22校であり、一校平均4、5名の計算になる。

 年長の日本人男子が女子生徒と机を並べるという問題についても、その根拠は数字の裏づけを得られない。Wilson and Hosokawa, East to America, p53によると、日本人生徒93名のうち25名はアメリカで生まれたアメリカ市民であり、残る68名に関しては15名が女子、男子21名が15歳以下であった。以上を差し引けば、非難の対象となりうる「年長の日本人男子」の数はわずかに32名であったということになる。

   《引用終了》

この事件にかくも歯に物着せることなく(日本人以上にと言ってよい)義憤ぶちまけているモースが今も生きていて、今の沖縄の現状や辺野古の自然破壊(モースは今や絶滅が危されているシャミセンガイを専門とする海洋生物学者であることを忘れないで戴きたい)を知ったら……と考えるたら、私は体に戦慄が走る!……]

中島敦 南洋日記 十二月一日

        十二月一日(月) 晴

 朝支廳、高里氏と公學校、校長、菅沼訓導と午食、午後喘息の小發作あり、月明るし、

[やぶちゃん注:同日附で横浜高等女学校時代の教え子に宛てた葉書が残る。以下に示す。

   *

〇十二月一日(消印サイパン郵便局一六・一二・二。パラオ南洋庁地方課。横浜市中区初音町三ノ六一 諸節登志子宛。「カナカ娘とバナナ」の絵葉書)

 九月の中旬から旅に出て、まだ、うろついてゐます、目下サイパンに滯在中、正月迄にはパラオに歸るつもりです、もうそちらは隨分寒いだらうな、僕は今、はだかで汗を流しながら書いてるんだが、

   *]

民衆の正義とは? 萩原朔太郎 (初出形)

       ●民衆の正義とは?

 民衆の正義とは、富豪や、嫉妬を感ずることである。資産家やに對して、利己的なさもしい嫉妬を感ずることである。

 いかに? 嫉妬ですらが、尚正義であるか?

[やぶちゃん注:『改造』第七巻第七号・大正一四(一九二五)年七月号に掲載され、昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虛妄の正義」の「社會と文明」に再録されたが、その際、

       ●民衆の正義とは?

 民衆の正義とは、富豪や、嫉妬を感ずることである。資産家や、貴族や、その地の幸福なものに對して、利己的な嫉妬を感ずることである。

 いかに? 嫉妬ですらが、尚正義であるか?

と改稿された。]

ゑかたびら 萩原朔太郎短歌十二首 明治三八(一九〇五)年七月


   ゑかたびら

 

山ずみの一人ありて文きぬと、封をし切らばたちばなこぼれむ。 

 

通夜(つや)の夜を燈灯(ともしび)かこむ物語、欠伸(あくび)かはゆき子の姿かな。 

 

夏の日や、簾あまねくたれこめて、凉しと書きぬまづやる文へ。 

 

ほとゝぎす、梅雨(さみだれ)ばれの白日や、大河流るゝ音きゝ居れば。 

 

さつきやみ烟たなびく暮れ方を、夢のようにて人に添ふみち。 

 

大坂やわれ小なうて伯母上が、肩にすがりし木遣り街かな。 

 

花やかに、かんてら燭(とも)すえん日を、二人いづれば月のぼりけり。 

 

山百合の一輪うえて人まつと、まつり日いでし好(よ)きあにびとよ。 

 

梅雨(つゆ)ばれの柳色ます門邊をば、草笛ふきて君よぎりぬと。 

 

山吹の垣根つくりてある夕、少女すむ家と仲へだてけり。 

 

夕月や橋の袂に衣白き、人と別れぬ山百合のはな。 

 

さくら貝、ふたつ重ねて海の趣味、いづれ深しと笑み問(と)はれけり。 

 

[やぶちゃん注:前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十二号(明治三八(一九〇五)年七月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された「ゑかたびら」と題する十二首連作。当時、朔太郎満十八歳。

 五首目「夢のように」はママ。

 六首目「小なうて」は「をさなうて」と読む(後注参照)。底本改訂本文では「幼なうて」と『訂正』するが採らない。

 八首目「うえて」はママ。

 十一首目「袂」はママ。

 このうち、六首目「大坂や」と掉尾「さくら貝」の二首は、後に見るように第六高等学校『校友会誌』(明治四一(一九〇八)年十二月号)に、「美棹」署名で「水市覺有秋」の題の七首の中にに配されて、それぞれ(順序は逆転されている)、
 

 

大坂やわれをさなうて伯母上が肩にすがりし木遣(きやり)街かな 

 

櫻貝二つ竝べて海の趣味いづれ深しと笑み問はれけり 

 

と改稿されている。以前にも「さくら貝」の短歌を単独で挙げた際にも述べたが、短歌を解さない私ではあるが――であるが故に――この一首は断然、この初出形の方が美しい。]

杉田久女句集 4-2 花曇

春の雨苗すこやかに届きけり

 

春雨や土押し上げて枇杷二葉

 

春雨の畠に燈流す二階かな

 

[やぶちゃん注:底本「燈」は「灯」。迷ったがここはシークエンスから見て正字を採った。]

 

春雨や疊の上のかくれんぼ

 

菓子ねだる子に戲畫かくや春の雨

杉田久女句集 4 春の雨

春の雨苗すこやかに届きけり

 

春雨や土押し上げて枇杷二葉

 

春雨の畠に燈流す二階かな

 

[やぶちゃん注:底本「燈」は「灯」。迷ったがここはシークエンスから見て正字を採った。]

 

春雨や疊の上のかくれんぼ

 

菓子ねだる子に戲畫かくや春の雨

幼い日  八木重吉

おさない日は

 

水が もの云ふ日

 

 

木が そだてば

 

そだつひびきが きこゆる日

鬼城句集 冬之部 煤掃

煤掃    煤掃や馬おとなしく畑ヶ中

 

      煤掃いて蛇渡る梁をはらひけり

 

      煤掃の人代(ひとだい)を召す吉良家かな

 

[やぶちゃん注:「煤掃の人代」討ち入りを警戒して、わざわざ選りすぐって信頼出来る煤払いのためのみの雇い人(ひいてはその人の代(雇い賃)として支払われる金)を「召す」(呼ぶ・買うの尊敬語)ということか。「人代」はもしかすると「代官」「目代」などの職名を掛けた皮肉かも知れない。識者の御教授を乞う。]

 

      煤掃いて卑しからざる調度かな

 

[やぶちゃん注:こうした歳旦を迎える、素朴でしかも凛とした気分をとうの昔に忘れてしまったのではあるまいか?]

2014/01/13

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 五 分裂 ヒトデの場合

Hitodenobunretuseisyoku

[「ひとで」の分裂生殖]


 「ひとで」の類にも常に分裂によつて蕃殖ものがある。普通の「ひとで」でも腕が一本切れたときには、直にその代りが生ずるが、熱帶地方に産する種類には、自身で體を二分し各片が成長して終に二疋の完全な個體となるものがある。「ひとで」の體は中央の胴と、それから出て居る五本の腕とから成るが、普通の「ひとで」では腕が一本切れると、胴の方から再び腕を生じて體が完全になる。しかし切れた腕の方はそのまゝ死んでしまふ。しかるにある種類のものでは胴から新に腕が生ずる外に、切れた腕の方からは新に胴と四本の腕とが生じて都合二疋となる。人間に比べていへば、右の腕を一本切り取ると胴の方からは右の腕が新に生じ、その切り取つ右の腕は傷口から肉を增してまづ胴が出來、次に頭と左の腕と兩足とが延び出て、終に二人の完全な人間になることに當る。これは分裂ではあるが、體の一小部分が基礎となつて殘餘の部分が悉く新に生ずるのであるから、餘程芽生にも似て居る。畢竟分裂といひ芽生といふのも一個體が二片に分れる時の兩半の大きさによることで、もしも兩半の大きさがほゞ相均しければこれを分裂と名づけ、兩半の大きさが著しく違つて大きい方は舊の個體そのまゝに見えるときには、これを芽生と名づけるに過ぎぬ。前に例に擧げた「ごかい」類の分裂生殖でも、今こゝに述べた「ひとで」の分裂生殖でも、見やうによつては芽生の一種と名づけられぬこともなからう。

[やぶちゃん注:ヒトデの生態に関わる記載で最も私が学術的に面白いと思ったものは、北海道地方独立行政法人北海道立総合研究機構水産研究本部の公式サイト「マリンネット」の「試験研究は今」三九四号の釧路水産試験場主任専技渡辺雄二氏の「ヒトデについて」である。短い報告ながら、そこではヒトデの再生(次章参照)や自切による生殖に関する大切なポイントが殆んど網羅されていると思われるからである。以下、当該部分を引用すると、『ヒトデは腕のどの部分を切っても再生は行われます。再生の速さは腕の基部で切った方が再生が速いですが、元の形に戻るまでにかなり時間がかかります。あるものでは完全に再生されるまで1年以上もかかります』。『再生には一般的に盤(盤は体の部分で腕と盤から1個体のヒトデになっています。概略図参照)の一部が付いていることが必要で、再生に必要な量は、種によってかなり異なって、盤の量は少なくとも20~75%が腕に付いているときは完全に再生されると言われています。それでも種類によっては1腕から再生した報告もあります』とあり、『普通では見られないと思いますが、腕を上下に切った時には、その腹側の半分からは再生されますが、背側の方からは再生はされません』という再生するための重要な条件が示されてある。『そのほかに、今回の試験では、自切が、観察されました。それは、ヒトデを切断して、再生と生残の確認のため飼育を行っている時に、ヒトデ自らが更に切断して細分化してしまうものでした。この時は、ヒトデの主部分も、他の小さな部分も生きていました』とあって、彼等が不可抗力による切断での再生以外に、丘先生がこの分裂の章で書かれているような自律的な自説による「分裂」を行うケースが種によっては起こる事実が記されてある。さらに『また、無性生殖を行う種類(主に多腕種、6腕以上の種類で、穿孔板を複数以上持っている)では、自切により、増殖することが知られています。増える時には、およそ腕や穿孔板は半分に分かれていき、盤の分裂する位置は切れやすい構造となっています。このように分裂して増えるのは幼個体に見られるものです』という。リンク先の模式図とともに必見である。なお、本来なら次章の注に相応しいが、切断された腕からの再生の様態が如実に分かる画像がブログ「真鶴 栄寿司My検索図鑑 海の生き物たち♪」の「ヒトデの再生」にある。これも必見である。

 ただ、これらは「再生」現象を主体とした記載で、今一つ、本章の「分裂」による生殖行動としての補説としては弱い気がする。そこで何かここに注するに相応しいものはないかと蔵書の山をひっくり返した結果、TBSブリタニカ二〇〇二年刊の佐波征機氏と入村精一氏の共著になる「ヒトデガイドブック」の中のコラム「わが身を裂いて増えるヒトデ――無性生殖」の記事を見つけたので、これを紹介しておきたい。著作権上の問題はあるが、このコラム全体を示すと、まさに丘先生がここで述べておられる内容の最新の知見が補われると判断し、以下に例外的に引用したい(文中の同図鑑の各種参考注記は省略した。問題があるならばヒトデのように分節して示しようはあるが、それでは如何にもまさにヒトデナシになろうかと私は考えるものである。なお、「すいせい」は底本ではルビ)。

   《引用開始》

 ヤツデヒトデは盤を2分裂して2個体になる。体の半分ずつが管足を底質に吸着して互いに反対方向に引っ張り、盤の中央から2つに引き裂かれる。口になる部分を残して傷口は再生じた皮膚で閉じられ、やがて失われた体の半分が再生する。分裂は種によってはかなり普通に行われており、小笠原簿島や魔球諸島産のカワリイトマキヒトデやコサメハダヒトデは個体群のほとんどすべてが再生中の短い腕を持ち、正常な形の個体はまれである。一般に分裂をするヒトデは小型種で、肛門や穿孔板が2個以上あり、半数の腕が再生中で短いものが多い。

ゴマフヒトデやルソンヒトデは自切した1本の腕から4~5本の腕と盤を再生して新しい個体をつくる。再生中の4~5本の短い腕を持つ個体は形が彗星(すいせい)(ほうきぼし)に似ているので“コメット”と呼ばれる。自切で生殖するヒトデはほとんどがサンゴ礁にすむ小型種で、ときには有性生殖もするが主に無性生殖で個体群を維持している。同種の個体数が少なく、或熟した雌雄が出会う機会が少ないサンゴ礁の生活に適応した繁殖戦略の1つと考えられている。

 幼生や稚ヒトデも無性生殖をする。メキシコ湾産のスナヒトデの一種は、ビピンナリア幼生が腕の一部を自切して新しいビピンナリア幼生をつくる。幼生が生活史の中で何回自切を繰り返すかはわかっていないが、幼生の自切による生殖は浮遊期問を延長してより広い範囲に分散できる利点があると考えられている。ニッポンヒトデのブラキオラリア幼生でも自切、出芽が報告されている。

   《引用終了》

以下、引用文中に現われるヒトデについて主に同書をもとに学名を示しておく。

「ヤツデヒトデ」は本邦沿岸に於いて普通に見られるヒトデで、腕が八本前後あるヒトデ綱マヒトデ目マヒトデ科ヤツデヒトデ Coscinasterias acutispina

「カワリイトマキヒトデ」は本邦産の最小のヒトデの一種であるアカヒトデ目イトマキヒトデ科カワリイトマキヒトデ Asterina anomala

「コサメハダヒトデ」は体表に小棘が密生してざらついた感触を持つアカヒトデ目イトマキヒトデ科コサメハダヒトデNepanthia belcheri

「ゴマフヒトデ」はピンク色の地に赤や黒の小斑紋を多数持つアカヒトデ目ホウキボシ科ゴマフヒトデ Linckia multifora

「ルソンヒトデ」はカラー・ヴァリエーションの多いルソンヒトデ目ルソンヒトデ科ルソンヒトデ Echinaster luzonicus

「スナヒトデ」は浅海の砂底に棲むモミジガイ目スナヒトデ科 Luidiidae の総称

「ニッポンヒトデ」は輻長(盤の中心から腕の先までの長さ)が二十五センチメートルにもなる大型種で養殖貝類の典型的食害種であるマヒトデ目マヒトデ科ニッポンヒトデDistolasterias Nippon

 

なお、「ピピンナリア幼生」(bipinnaria larva)及び「ブラキオラリア幼生」(brachiolaria larva)とは、一般的なヒトデ発生過程での幼生の名称。ヒトデの多くは体外受精で、孵化した幼生はプランクトン生活をする。幼生は左右相称で、体表面の繊毛帯を盛んに動かして自由生活する。生育するに従って繊毛帯は次第に体表面で複雑な曲がりくねった形を形成し始め、その一部が三対の突起となって突き出した状態をビピンナリア幼生、さらにそれが長い突起物として伸び出したものをブラキオラリア幼生を経て稚ヒトデとなる(但し、種によってはビピンナリア幼生或いはブラキオラリア幼生を欠いたり、稚ヒトデをそのまま産む卵胎生のものなどもいる)。]

杉田久女句集 3 東風

東風吹くや耳現はるゝうなゐ髮

 

[やぶちゃん注:「うなゐ髮」髫・髫髪。昔、七、八歳の童児の髪を項(うなじ)の辺りで結んで垂らしたもの。また、女児の髪を襟首のあたりで切り下げておくもの。単に「うなゐ」とも言った。そこから髪形をうない髪にした童児や幼い子の意ともなる。語源は「項居(うない)」の意かとされる。]

 

船板に東風の旗かげ飛びにけり

杉田久女句集 2 晩春の一時

ゆく春やとげ柔らかに薊の座

 

ゆく春の流れに沿うて歩みけり

 

[やぶちゃん注:後の「蝶追うて春山深く迷ひけり」(英彦山雜吟 百二十句の内)を私は何処かで久女の辞世のように錯覚することを好んでいる。……久女さん、この句はその迷い行くことを望んだ貴女の最初の一歩だったのではありませんか?……]

 

のぞき見て塀穴ふさぐ日永かな

 

あたたかや水輪ひまなき廂うち

 

[やぶちゃん注:「水輪」は「みなわ」であろう。庭の池塘か雪解けの溜り水の水面(みなも)のそれが煌めく晩春の陽光をしきりに廂の下の蔭に差しかけてくる。タルコフスキイ好みのスカルプティング・イン・タイムである。]

 

弥生盡芥子こまごまと芽生えけり

 

淡雪にみな現はれし葉先かな

杉田久女句集 1 春の日の小景

[やぶちゃん注:カテゴリ「杉田久女」を創始する。私は既に電子化した筑摩書房一九六七年刊「現代日本文学全集 巻九十一 現代俳句集」に所収する「杉田久女集」及び「杉田久女句集(やぶちゃん選)」を公開しているが、今回、本年年初に久女に初期に指導を受けた橋本多佳子の全句電子化(一部に評釈を附す)を目指すカテゴリ「橋本多佳子」を開始した関係上、どうにもこの美わしき二大才媛の一人を、同じような目論みの中でブログに語らない訳にはいかなくなったのだとご理解戴きたい。

 底本は「杉田久女句集(やぶちゃん選)」でも用いた一九八九年立風書房刊の「杉田久女全集」を用いるが、彼女は戦前から活動した作家であり、しかもその活動期は事実上、昭和一四(一九三九)年で終っていることから、私の特に俳句のテクスト化ポリシー(この理由については俳句の場合、特に私には確信犯的意識がある。戦後の句集は新字採用のものもあるであろうが、それについては、私の「やぶちゃん版鈴木しづ子句集」の冒頭注で、私の拘りの考え方を示してある。疑義のある方は必ずお読み頂きたい)に従い、恣意的に漢字を正字化して示すこととした。

 また、基本となる死後の句集「杉田久女句集」(角川書店昭和二七(一九五二)年十月二十日刊)の序は昭和二六(一九五一)年八月二十六日のクレジットを持つ高浜虚子の手になるものであるが、「虛子ぎらひかな女嫌ひのひとへ帶」と詠んだ、私の愛する久女のためにも彼女の珠玉の句と一緒には並べたくないという思いが強い。されば今のところ、それを電子化する気持ちはないこともここで一先ず断わっておくこととする。

 ブログでの副題は私が勝手に附したものであるので、悪しからず。

藪野直史【2014年月13日始動】]

 

 境町(大正七年より昭和四年まで)

 

[やぶちゃん注:「境町」杉田久女は大正七(一九一八)年二十八歳の時、夫で中学校美術教師であった杉田宇内(うない)と二人の娘とともに福岡県小倉市境町百十一番地に転居している。因みに彼女の句が「ホトトギス」に載ったのはこの前年大正六年一月号の「台所雑詠」欄であった。以下にその全五句をここに示しておく。

 

鯛を料る俎せまき師走かな

 

皿破りし婢のわびごとや年の暮

 

冬野朝道々こぼす手桶(おけ)の水

 

へつついの灰かき出して年暮るゝ

 

凩や流シの下の石乾く

[やぶちゃん注:「水桶」はこれで「おけ」と読ませている。]

 

春寒や刻み鋭き小菊の芽

 

麦の芽に日こぼす雲や春寒し

 

春寒の髮のはし踏む梳手かな

 

春寒やうけしまゝ置く小盞

 

揃はざる火鉢二つに餘寒かな

 

鳥の餌草摘みに出し餘寒かな

 

春曉の窓掛け垂れて睡りけり

 

春曉の夢のあと追ふ長まつげ

 

春曉の紫玉菜抱く葉かな

 

[やぶちゃん注:「紫玉菜」ムラサキキャベツ。アカキャベツともいう。今でこそポピュラーだが、俳句では珍しい。しかもこの時代にである。その葉を「抱く」と捉えてクロース・アップするところに久女のモダンさが垣間見えると私は思う。]

 

草庵やこの繪ひとつに春の宵

 

小鏡にうつし拭く墨宵の春

 

[やぶちゃん注:艶麗にして春怨を美事に描いた一句である。]

 

春の夜のねむさ押へて髪梳けり

 

鐡瓶あけて春夜の顏を洗ひ寢し

 

春の夜や粧ひ終へし蠟短か

 

[やぶちゃん注:……夜化粧……ジジジ……と細る灯明……何という妖艶!……]

 

春の夜のまどろゐの中にゐて寂し

 

吊革に春夜の腕のしなはせて

 

[やぶちゃん注:久女には独特のアップの画像の妖しい美しさが光る。これもその一句。]

北條九代記 大炊渡軍 付 御所燒の太刀 承久の乱【十五】――官軍、尾張河の各渡しに兵を分散配備す

      ○大炊渡軍 付 御所燒の太刀
一院は、關東大軍にて攻上(せめのぼ)る由聞召(きこしめさ)れ、「京都の内へ入來(いりきた)らば惡(あし)かりなん。出向うて追散すべし。先(まづ)宇治勢多の橋をや引きて待べき。尾張河へや向へらるべきしと評定あり。「尾張河まで走(は)せ向うて、若敵強くして、味方破れたらん時にこそ、宇治勢多にても防がるべけれ。尾張河には九瀨(こゝのせ)あり。手分して、瀨々(せゞ)に遣し防がれん」とて、大炊渡(おほひのわたり)へは駿河〔の〕大大判官、糟屋(かすやの)四郎左衞門尉、筑後〔の〕太郎左衞門尉、同六郎左衞門尉、に西面の者ども二千餘騎を差副へて遣さる。鵜沼渡(うぬまのわたり)へは美濃の目代帶刀(たてはき)左衞門尉、神土(かんづちの)蔵人入道父子三人に一千餘騎を差副へて向へられたり。板橋渡(いたはしのわたり)へは、朝日〔の〕判官代、海泉(かいせんの)太郎その勢一千餘騎をむかはせらる。氣瀨渡(きせのわたり)へは富來(とみきの)次郎判官代、關〔の〕左衞門尉一千餘騎、大豆途渡(まめどのわたり)へは能登守秀康、平九郎判官胤義、下總前司盛綱、安藝(あきの)宗内左衞門尉、同藤左衞門尉これをはじめとして、都合一萬餘騎にて向ひたり。食渡(いひのわたり)は阿波〔の〕太郎入道、山田左衞門尉五百餘騎にて馳せくだる。稗島渡(ひえじまのわたり)は矢野(やのの)次郎左衞門尉、長瀨〔の〕判官代五百餘騎、墨俣河(すのまたがは)へは河内判官秀澄、山田〔の〕次郎重忠一千餘騎、市河前(いちかはまへ)の渡(わたり)は、加藤伊勢〔の〕前司光定五百餘騎、以上一萬七千五百餘騎なり。敵の人數に比ぶれば、十が一にも及ばざるに、しかも是を分遣(わけつかは)し小勢にて大軍を防ぐ其謀(はかりごと)はありもぞすらん、先(まづ)は拙(つたな)き軍謀(ぐんばい)かなと、心ある人は思ひけり。
[やぶちゃん注:〈承久の乱【十五】――官軍、尾張河の各渡しに兵を分散配備す〉ここも各パートで分離して示す。標題は「「おほひのわたりいくさ つけたり ごしよやきのたち」と読む。
「尾張河」諸注は現在の境川の古称とするが、以降の叙述を見る限りでは現在の境川を含め、木曽川及び長良川の流域を包括的に指すと認識した方が理解し易いように私には思われる。
「大炊渡」美濃国可児郡土田大井戸郷(現在の岐阜県可児市)にあった渡し。以下の同定は岩波新古典文学大系版「承久記」の本文(慈光寺本)の脚注を参考にした(但し、慈光寺本では表記や配された武将に「北條九代記」が拠った古活字本とは異同が見られる)。
「鵜沼渡」慈光寺本では「賣間瀨(うるませ)」とある。美濃国。現在の岐阜県各務原市の木曽川北岸にあった旧鵜沼村辺り。
「神土蔵人入道父子」慈光寺本は「神地殿」で「かうづち」とルビを振る。脚注に、『神地頼経。美濃国武芸郡上有知(こうずち)庄(現、岐阜県美濃市)より起こる。清和源氏』とある。武芸とは「むげ」と読むようである。
「板橋渡」美濃国加茂郡。鵜沼下流直近の、現在の各務原市鵜沼小伊木町附近か。
「氣瀨渡」慈光寺本の「伊義渡(いぎのわたり)」。美濃国。生瀬ともいったと脚注にある。
「大豆途渡」慈光寺本「大豆戸」。別の箇所の脚注に、摩免戸・前渡とも書き、山名の渡しとも呼称した旨の記載がある。美濃国、現在の各務原市。
「食渡」慈光寺本は「じきのわたり」とルビし、注に『美濃国。印食ともいった』とあって、別の注で現在の『岐阜県羽島市岐南町。かつての木曽川の氾濫原だった』とある。岐南町は「ぎなんちょう」と濁る。
「稗島渡」不詳。
「墨俣河」美濃国。現在の岐阜県安八郡墨俣町附近。そもそも墨俣川は現在の長良川の古称である。
「市河前の渡」不詳。
 以下、「承久記」(底本の編者番号36のパート)の記載。
 先、討手ヲ可ㇾ被ㇾ向トテ、「宇治・勢多ノ橋ヲヤ可ㇾ被ㇾ引」、「尾張河ヘヤ向ルべキ」、「尾張河破レタラン時コソ、宇治・勢多ニテモ防レメ」、「尾張河ニハ九瀨アンナレバ」トテ、各分チ被ㇾ遣。大炊ノ渡へハ駿河大夫判官・糟屋四郎左衞門尉・筑後太郎左衞門尉・同六郎左衞門尉、是等ヲ始トシテ西面者共二千餘騎ヲ被二差添一。鵜沼ノ渡へハ美濃目代帶刀左衞門尉・神土藏人入道親子三人、是等ヲ始テ一千餘騎ゾ被ㇾ向ケル。板橋へハ朝日判官代・海泉太郎、其勢一千餘騎ゾ向ハレケル。氣瀨ハ富來次郎判官代・關左衞門尉、一千餘騎ニテゾ向ケル。大豆途へハ能登守秀康・平九郎胤義・下總前司盛綱・安藝宗内左衞門尉・藤左衞門尉、是等ヲ始トシテ一萬餘騎ニテゾ向ヒケル。食ノ渡へハ阿波太郎入道・山田左衞門尉、五百餘騎ニテ向フ。薭島へハ矢次郎左衞門・長瀬判官代、五百餘騎ニテ向ケリ。墨俣へハ河内判官秀澄・山田次郎重忠、一千餘騎ニテ向。市河前〔へ〕ハ賀藤伊勢前司光定、五百餘騎ニテ向ケル。以上一萬七千五百騎、六月ノ晦、各都ヲ出テ、尾張ノ瀨々へトテゾ歩セケル。]

耳嚢 巻之八 かくなわの事

 かくなわの事

 

 蜘手(くもで)かくなわ十文字など、ふる物語抔書しが、蜘手十文字は分りぬ、かく繩の事、其(その)出る所をしらず。横田退翁、予が許(もと)へ來りしとき、かくなわの事、有(ある)事にて見出しぬと云ふ。和名抄にも結菓と書(かき)て、カクのアハと唱へ、右を後世かくなわと略しいふならむ。今アルヘイにて、結びたる菓子は、京都にてかくなわといふと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし(前話の最後は家紋の話で「一文字」の文字が出て、字面の見た目は、何やらん「十文字」で繋がったようには見える)。八つ前の「火爐の炭つぎ古實の事」の横田袋翁談で連関。このところ、この横田翁のソースが多くなっている。話柄の関係上、「かくなわ」の種明かしの注は例外的に順序を無視して最後に回した。

・「蜘手」単に「蜘蛛手」と言った場合は、①蜘蛛の足のように、一ヶ所から四方八方に分かれている様態。②「に」を伴って副詞的に、あれこれと心の乱れる様子。③材木などを四方八方に打ち違えて組む方法を指すが、ここは「蜘手かくなわ十文字」で武道でのセットの表現。周囲の敵と戦うに際して蜘蛛の足のように四方八方に駆け巡っては刀剣などを自在に振り回すことを指す。

・「十文字」前注同様、戦闘の際に、周囲の敵の中を十文字に、則ち縦横に刀剣を振り回して戦うさま。

・「退翁」「耳嚢 巻之七 養生戒歌の事」などに「泰翁」「袋翁」と複数既出で注も附したが、鈴木氏は底本の本話の注で今までに示しておられない新たな情報を提示されておられるので、ここにそれを纏めて示しておきたい。まず、鈴木氏はリンク先の「養生戒歌の事」の注で、『袋翁が正しいらしく、『甲子夜話』『一語一言』ともに袋翁と書いている。甲子夜話によれば、袋翁は萩原宗固に学び、塙保己一と同門であった。宗固は袋翁には和学に進むよう、保己一には和歌の勉強をすすめたのであったが、結果は逆になったという。袋翁は横田氏、孫兵衛といったことは両書ともに共通する。『一宗一言』には詠歌二首が載っている』と書かれているが、今回、ここの注では『三村翁の注に、「横田退翁は、袋翁なるべし、萩原宗固門人、号翻錦亭、其伝擁書漫筆に見ゆ」とある。ただし『擁香漫筆』には袋翁の伝記というべきものはなく、その詠歌が出ている。その一つに「横田袋翁が牛込袋町の翻錦亭にて人々歌よみける時」と詞書があり、住所を知ることができる』と追補されておられる。萩原宗固(元禄一六(一七〇三)年~天明四(一七八四)年)は御先手組所属の幕臣にして歌人。烏丸光栄らに師事して和歌・歌学を学んだ。江戸の武家歌人として名高い。「擁書漫筆」は文化一四(一八一七)年板行の小山田与清の随筆。因みに「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏である。訳は正しく「袋翁」とした。

・「和名抄にも結菓と書て」「和名抄」(正しくは「和名類聚抄」。源順(したごう)撰になる事物の和名字書。二十巻。)には(以下は元和三(一六一七)年の序を持つ早稲田大学蔵のものを視認し、後に訓点に従って書き下した)、

結果 揚氏漢語抄云結果〔形如結緒此間亦有之今案和名加久乃阿和〕

〇やぶちゃんの書き下し文(読みと送り仮名を勝手に補った)

結果 「揚氏漢語抄」に云ふ、「結果」は形、結べる緒のごとく、此の間に亦、之れ有り、今、案ずるに、和名、加久乃阿和(かくのあわ)。

とある。

・「アルヘイ」有平糖。南蛮菓子の一つ。水飴よりも砂糖の分量を多くした硬い飴。以下、ウィキ有平糖によれば、金平糖とともに日本に初めて輸入されたハード・キャンディとされている。阿留平糖・金花糖・氷糸糖・窩糸糖とも呼ばれる。語源にはポルトガル語のアルフェロア(alféloa:糖蜜から作られる茶色の棒状の菓子。)とする説とアルフェニン(alfenim:白い砂糖菓子)とする説とがある。『製法は、原料の砂糖に少量の水飴を加えて煮詰め、火からおろした後に着色や整形を行って完成させる。初期の頃は、クルミのように筋がつけられた丸い形をしていたが、徐々に細工が細かくなり、文化・文政期には有平細工(アルヘイ細工)として最盛期を迎えた』。『棒状や板状にのばしたり、空気を入れてふくらませたり、型に流し込んだり、といった洋菓子の飴細工にも共通した技法が用いられ』『江戸時代、上野にあった菓商、金沢丹後の店の有平細工は、飴細工による花の見事さに蝶が本物の花と間違えるほどとされた』。『有平糖は茶道の菓子として用いられることが多く、季節ごとに彩色をほどこし、細工をこらしたものが見られる。縁日などで行われている即興的な飴細工とは異なるものである』。『一方、技巧が進化し高価なものとなってしまった有平糖を、見た目よりも味を重視して廉価にしたものとして榮太樓本店の「梅ぼ志飴」や、村岡総本舗の「あるへいと」などがある』とある。

・「かくなわ」底本の鈴木氏注に、『三村翁注に「人心思ひ乱るゝかくなわのとにもかくにも結ぼゝれつゝと古今集にありとか、結菓はねぢて油揚にしたる菓子なるべし、今いふねぢん棒にさも似たり。」』と引用されておられる。

小学館の「日本国語大辞典」によれば、「かくのあわ」と同じとする。「結果(かくにあはわ)」の項には、

古代の菓子の名。小麦粉を練って緒を結んだ形に作り、油で揚げたものか。かくなわ。

として、先の「和名抄」を引く。

 さらに「かくなわ」の項には、②として、

(「かくのあわ」が曲がりくねって結ばれているように)心が思い乱れるさまにいう。

として、「古今和歌集」巻十九「雑躰(ざつてい)」の巻頭にある一〇〇一番歌、よみ人知らずの長歌(原典は奇妙なことに「短歌」と表示する)の一節、

  ……ゆく水の たゆる時なく かくなわに おもひみだれて ふる雪の……[やぶちゃん注:以下略。]

及び、「風雅和歌集」巻第十二の恋三の二品法親王覚助の一一九四番歌、

    文保三年後宇多院へめされける百首の歌に

  人心思ひみだるるかくなはのともにかくにもむすほほれつつ

を引用している(孰れも当該引用ではなく原典に当たって示した)。なお、「文保三年……」というのは「続千載和歌集」撰定に当たって文保三(一三一九)年に後宇多院が召した「文保百首」のことを指す。覚助は後嵯峨院皇子で三井寺長吏、聖護院。

 続いて③に本文に出る「蜘手かくなわ十文字」の意味を示す以下の記載がある。

(「かくのあわ」が縦横に交差しているように)太刀などを縦横に振り回して使うさまをいう。

と記されてある。

 角川書店「新版 古語辞典」には、

かくなわ【結果・角縄】名⦅「かくのあわ」の約。「かく」は香菓、「あわ」は沫緒(あわを)で紐の結び方。「かくなは」とも表記⦆

とある。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 「かくなわ」という語の事

 

 「蜘手かくなわ十文字」などと、よく古き物語なんどに記されて御座るが、「蜘手」と「十文字」は理解出来るものの、「かく縄(なわ)」については、これ、その出所と意味がよく理解出来ずに御座った。

 かの横田袋翁殿が先般、私の元へ参られた折り、

「……かねてより貴殿のお疑いで御座った『かくなわ』のことにつき、ある説を見い出して御座った。」

と申された。

「――『和名抄』にも『結菓』と書きて『カクのアハ』と称し、これを後世に於いて『かくなわ』と略して言うようになったものと思われまする。――これは、ほれ、今に申すところの、かの『アルヘイ』にて御座っての。――結びたる菓子のことは、これ、京都にては『かくなわ』と申しますのじゃ。」

と語られた。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 45 精神病患者の悲哀

 市立救貧院へ行った時は悲しかった。ここには何人かの狂人が入れられていた。これ等の不幸な人達が、長く並んだ、前に棒のある部屋に、まるで動物園の動物みたいに入っているのは、悲しい光景であった。番人達は、恐怖の念を以て彼等を見るらしく思われる。彼等は親切に取扱われてはいるが、全体として、狂人を扱う現代的の方法には達していない。私はニューヨーク州のユテイカにある大きな収容所で見たのと同じ様な、痴呆と欝憂病の典型的な容態を見た。私はある人々と握手をし、彼等はすべて気持よく私と話したが、彼等の静かな「サヨナラ」には何ともいいようのない哀れな或物があった。

[やぶちゃん注:「市立救貧院」原文“the city poorhouse”。この“poorhouse”とは、アメリカ合衆国の郡や基礎自治体に於いてかつて公的に運営されていた、要支援状態にある貧者や病者のための住居提供施設を指すが、ここでモースが訪れたのは恐らく、ウィキ精神障害者の「日本の歴史」の項にある、明治五(一八七二)年にロシア皇太子が訪日するに当って明治政府が、モースの住んでいた教師館と同じ敷地内であった元加賀藩邸跡(現在の東京大学構内)空き長屋に営繕会議所附属養育院(現在の地方独立行政法人東京都健康長寿医療センター)を設置、巷間の生活困窮者などを狩り込み収容する、とある。明治七(一八七四)に文部省医務課が医務局になった翌年、文部省は東京府・京都府・大阪府に対して医制を発布、癲狂院設立を規定しているから、既に別にそうした精神疾患を患うと断じられた人々を強制監禁した施設がどこかにあったものかとも思われるが、私はモースの謂いから見て、同じ加賀屋敷内の人目に触れない場所という感じがする。さらに同ウィキには、精神障害者部門はこの後の明治一二(一八七九)年七月に上野恩賜公園内に「東京府癲狂院」(後の東京都立松沢病院)が設置されたのを濫觴とするとする記載があるのだが、一方、ウィキ都立松沢病院」の沿革の項を調べてみると、明治一二(一八七九)年七月に養育院が東京府神田に移転した際に収容者を調査したところ、百二十人中六十八人が精神疾患者であることが判明し、彼らを収容する目的として同年七月に東京府上野の上野恩賜公園内に松沢病院が建てられたとあるから、私の推理は正しいと信ずるものである。

「ユテイカ」“Utica”。ユティカはニューヨーク州中央部の商工業都市。人口六万九千(一九九〇年)。モホーク川とニューヨーク州エリー運河に面する。周辺は酪農業の盛んな地域で、その取引中心地である。各種の繊維製品や自動車部品・航空機部品・電子部品・機械器具などの工業も盛ん。一七七三年に集落が建設され、一七九二年にはモホーク川に架橋されて駅馬車の宿駅となった。一八二五年のエリー運河開通によって工業が発達した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。]

中島敦 南洋日記 十一月三十日

        十一月三十日(日) 晴

 朝、食事に行くに、日曜の朝とて、チャモロ女が盛裝し、頭は白布(或は黑布)を被き、三々五々教會に向ふを見る、終日寐椅子によりて、讀み且つ眠る、田邊氏の喘息患者なりしは偶然意外なり。南洋に來て治れる由、

詩と詩人に就いて――詩人の發育不全―― 萩原朔太郎

  詩と詩人に就いて
     詩人の發育不全
 詩人は永遠の子供である。――といふ事實は、詩人的性格の範疇が、一種の「發育不全」であることを證左して居る。原則的に言へば、より永久に子供らしい詩人ほど、概してより天才的な詩人である。
[やぶちゃん注:『蠟人形』第十一巻第四号・昭和一五(一九四〇)年五月号に掲載された。死の二年前、満五十五歳のアフォリズム。底本全集「アフォリズム拾遺」の掉尾にある。]

萩原朔太郎 短歌五首 明治三八(一九〇五)年四月



あはた〻し燃ゆる災の火車を忘れていにしつらき君かな


[やぶちゃん注:「あはた〻し」「災」はママ。底本改訂本文は、
あわただし燃ゆる炎の火車を忘れていにしつらき君かな
と訂す。]


た〻願ふ君の傍へにある日をば夢のようなるその千年をば


[やぶちゃん注:「ようなる」はママ。「た〻」は初出「だ〻」であるが、初出誌の誤植と断じて訂した。底本全集改訂本文も「ただ」。]


われ君を戀はん戀しき心より君を思へば胸ただ火なり


綾唄やあるひは牛の遠鳴や、君まつ秋の野の更けにけり


[やぶちゃん注:初出「更けにげり」。初出誌の誤植と断じて訂した。]


風ふきぬ木の葉地をうつ秋の夜はまたる〻君かさびしさ思へ


[やぶちゃん注:以上五首は『白虹』第一巻第四号(明治三八(一九〇五)年四月発行)の「小鼓」欄に掲載された。萩原朔太郎満十八歳。]

或る日の こころ  八木重吉

ある日の こころ

 

山となり

 

 

ある日の こころ

 

空となり

 

 

ある日の こころ

 

わたしと なりて さぶし

鬼城句集 冬之部 淺漬 淺漬や糠手にあげる額髮 

淺漬    淺漬や糠手にあげる額髮

 
[やぶちゃん注:ああっ……なんと優しい鬼城の視線……]

2014/01/12

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 蝦

蝦 河海ニ多シ河蝦大ニシテ足ノ長キアリ海ヱヒヨリ味ヨシ

杖ツキヱヒト云山州淀川ノ名産也凡ヱヒハ腹外ノ水カキ

ノ内ニ子アリ蟹モ腹ノ外ニ子アリ海中ニヱヒ多シ凡蝦ニ

ハ毒アリ不可多食瘡腫及痘疹ヲ患ル者勿食久シテ

味變シタル尤毒アリ雷公曰無鬚者及煮熟反テ白キ

者有大毒〇靑蝦長一寸許海草ノ内ニ生ス有毒不

可食雞食之必死ス

〇やぶちゃんの書き下し文

蝦〔えび〕 河海に多し。河蝦〔かはえび〕、大にして足の長きあり、海ゑびより味よし。杖つきゑびと云ふ。山州淀川の名産なり。凡そゑびは腹外の水かきの内に子あり。蟹も腹の外に子あり。海中にゑび多し。凡そ蝦には毒あり、多食すべからず。瘡腫〔さうしゆ〕及び痘疹〔とうしん〕を患へる者、食ふ勿れ。久しくして味變じたる、尤も毒あり。雷公曰く、「鬚の無き者及び煮熟〔にじゆく〕して反つて白き者、大毒有り。」と。靑蝦〔あをえび〕、長さ一寸許り、海草の内に生ず。毒有り。食ふべからず。雞〔にはとり〕、之を食へば必ず死す。

[やぶちゃん注:「蝦」節足動物門 Arthropoda 甲殻亜門 Crustacea 軟甲(エビ)綱Malacostraca ホンエビ上目 Eucarida エビ(十脚)目 Decapoda に属する生物の内、異尾(ヤドカリ)下目 AnomuraAnomala)とカニ(短尾)下目 Brachyura を除いた生物群の総称であるエビについては、他に私の電子テクストである寺島良安の「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鰕」本文及び私の注をも参照されたい。

「河蝦」エビ(十脚)目エビ(抱卵)亜目コエビ下目テナガエビ上科テナガエビ科 Palaemonidae 若しくはその下位のタクソンテナガエビ亜科 Palaemoninae の内、淡水及び汽水域に棲息する仲間、若しくは淡水産の代表種である同テナガエビ亜科スジエビ Palaemon paucidens を指していよう。但し、後に異名として出す「杖つきゑび」という呼称からは寧ろ、テナガエビ亜科テナガエビ属 Macrobrachium(狭義には Macrobrachium nipponense に「テナガエビ」の和名が与えられているが同属には多くの種が含まれる)の方がその呼称にはすこぶる相応しいと考えられる。但し、この呼称は現在では顕著な差別和名として認められないであろう。残念ながら。

「山州」山城国(現在の京都府中南部)。

「蝦には毒あり」一般的なエビ類全般には個体由来の有毒成分はない。過食に依る消化不良、本文にも出る他の病気で免疫力の低下した患者の雑菌やウィルスの経口感染若しくは腐敗毒(これも本文に「久しくして味變じたる」とある)による食中毒や寄生虫症、及び有毒プランクトン摂取によって毒化した個体の摂取、さらには甲殻類アレルギーなどの、稀なエビ食による食中毒の症例や症状を指していると考えておく。

「瘡腫」瘡蓋の出来る腫れ物を広義に指す。

「痘疹」天然痘。もがさ。

『雷公曰く、「鬚の無き者及び煮熟して反つて白き者、大毒有り。」と』の部分は中国の本草書「証類本草」(「経史証類備急本草」。本来は北宋末の一〇九〇年頃に成都の医師唐慎微が「嘉祐本草」と「図経本草」を合してそれに約六六〇種の薬と多くの医書・本草書からの引用文を加えて作ったものだが、後世に手が加えられている)の「巻第二序例下」の「淡菜」の「蝦」の項に全く同一の文が載る。「雷公曰」とあるが、これは中国最古の医学書「黄帝内経(こうていだいけい)」の元となった「素問」などで黄帝が対話する架空の神人である。

「靑蝦」この名と「一寸許り」(約三センチメートルほど)で海産とあるところからは、私などは北海道太平洋岸から根室野付半島までの浅いアマモ場などに棲息する薄緑色を呈する抱卵亜目タラバエビ科モロトゲエビ属ミツクリエビ Pandalopsis pacifica が頭に浮かんだ大きさも一~五センチメートルで、成体の体色はすこぶる鮮やかである。但し、無論、ここに記されるような毒性はないし、これは前の「雷公」の注意書きに惹かれて、何らかの本草書からおどろおどろしい怪しげな叙述を引いたとしか私には思われない。なお、アオエビという和名を持つエビは実在するが、これは似ても似つかぬややグロテスクな(と私は思う)抱卵(エビ)亜目異尾(ヤドカリ)下目コシオリエビ上科 Galatheoidea に属する、最近は食用に供されるようになってきたところの、深海性大型種オオコシオリエビ Cervimunida princeps の仲間である Cervimunida jhoni に与えられているもので本記載とは無縁である。]

耳嚢 巻之八 竹橋起立の事

 竹橋起立の事

 

 會津の藩中に有竹(ありたけ)五郎左衞門隆尹といへる有(あり)。其先租は相州小田原北條の家士、荒木有竹多米(ため)大道寺荒川の其一人にて、在竹は伊勢の在名(ざいみやう)平氏也。應仁のころ在竹兵衞尉其子攝津守、其子も攝津守と號す。永祿七子年正月七日八日、江戸渡し向(むかふ)鴻(かう)の臺(だい)におゐて、北條氏康同氏政父子、二萬五千にて、房州里見義弘、加勢に佐竹義重、兩敵合戰を交(まじへる)の刻(とき)、攝津守手勢六拾三騎召連(めしつれ)、旗は鳥居にて、正月八日討死也。其子彦四郎、父攝津守討死の軍忠(ぐんちゆう)に依(より)、上總國椎津(しゐづ)の城を給(たまひ)、其身は江戸城二曲輪(にのくるは)に被置(おかれ)、常陸表出陣の節、先を可務(つとむべき)由也。彦四郎家中の者共、神田竹橋に差置(さしおかれ)候。依之(これによつて)在竹橋と唱(となふる)所、今は申能儘(まうしよきまま)に竹橋と唱云(となふといふ)。彦四郎は小田原沒落の節、椎津の城にて討死。定紋幕の紋釘貫(くぎぬき)に一文字也と、或る書系に有と人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。武辺物地名由来譚。因みに、ブログ「大佗坊の在目在口」の腰越会津藩墓地 在竹氏にある『榕窓主人の筆記に云……』以下の引用は殆んどこの「耳嚢」の記事と同じであるが、『榕窓主人』は不詳。

・「竹橋」東京都千代田区北の丸公園に残る。清水濠の上に架り、一ツ橋一丁目と北の丸公園とを結んでいる。ここに示されたように徳川家康の関東入国以前にすでにあった。竹橋の名は竹を編んで渡した橋だったからとも、またここに記される如く後北条家の家臣在竹四郎が近在に居住しており、「慶長見聞録」(慶長六(一六〇一)年から十六年に至る記録。中神守節手校本)及び江戸地誌「紫の一本」(戸田茂睡著・天和三(一六八三)年成立)には「在竹橋」と呼んだのが変じたものとも言われている。「別本慶長江戸図」には「御内方通行橋」と記してあり、主として大奥への通路に用いられたらしい(以上はウィキの「竹橋」や底本鈴木氏の注に拠る)。

・「有竹五郎左衞門隆尹」底本では「有竹」の右にママ注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『在竹』。後文から訳では「在竹」で統一した。詳細は不詳。「隆尹」「たかただ」と読むか。

・「有木有竹多米大道寺荒川」伊勢新九郎盛時こと若き日の北条早雲が関東の覇者たらんとして駿河へ下向した際、連れだっていた荒木兵庫・在竹兵衛尉・多目権兵衛(本文は「多米」であるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも「多米」であるので、ここはママとした)・大道寺太郎重時・荒川又次郎・山中才四郎ら六人の親友(後に「御由緒六家」と呼ぶ)。彼等は伊勢で神水を酌み交わし、一人が大名になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという話が残る(ここはウィキ早雲」などを参照した)。

・「在名」住む土地の名をとって附けた名前。ざいめい。

・「應仁」西暦一四六七年から一四六九年まで。

・「永祿七子年正月七日八日」北条早雲の孫氏康は、永禄七(一五六四)年一月七~八日、里見義堯(よしたか)・義弘父子と上総などの支配権を巡って戦い(第二次国府台(こうのだい)の戦い)、氏康の奇襲により里見軍は敗れて安房に撤退した。永禄七年は甲子(きのえね)。

・「鵠の臺」現在の千葉県千葉市国府台にあった国府台城。

・「旗は鳥居にて」旗印は鳥居の紋で。

・「椎津の城」現在の千葉県市原市椎津にあった椎津城。安房に退却した里見義弘を追撃した北条氏政は椎津城を攻め、守将木曾左馬介を敗退させている。なお義弘はこのずっと後の天正五(一五七七)年になって北条氏と和を結んでいる(房相一和)。同城をめぐる攻防戦についてはウィキ椎津城記載が異様に詳しい。

・「常陸表」岩波の長谷川氏注に、『北条氏は下総関宿、上州館林まで進出してい』たとあつ。

・「小田原沒落の節、椎津の城にて討死」天正一八(一五九〇)年七月、豊臣秀吉による北条氏の小田原征伐の際、千葉氏を始めとする関東の諸将は小田原に参陣していたが、秀吉は空城同然であった房総の各城を浅野長政に攻略させた。この時、椎津城も落城し、城を守っていた北条の家臣白幡六郎は敗走の末、討死にしている。北条氏政は同月十一日に切腹した。

・「定紋幕の紋釘貫に一文字」底本鈴木氏注に、『「釘貫に一ツ引」と同じであろう』として、以下の①の図が、更に『なお「釘貫に貫木(かんぬき)」ならば』として②の図が掲げられてある。こればかりは画像で示すのが一番であるので、特に画像をトリミングして示す。

Mon1

Mon2

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 竹橋の起立(きりゅう)の事

 

 会津藩中に在竹(ありたけ)五郎左衛門隆尹(たかただ)と申される御仁がある。

 その先租は相州小田原北条の有力な家士、荒木・在竹・多米(ため)・大道寺・荒川という、所謂、御由緒六家の内の一人にして、在竹は伊勢の在地姓で、平氏の流れを汲んで御座る。

 応仁の頃、在竹兵衛尉とその子摂津守(そのまた子も父と同様、摂津守を号して御座った)。永禄七子年の正月七日から八日にかけて、今の江戸川の渡しの北向いに当たる、鴻(こう)の台(だい)の城に於いて、北条氏康・同氏政父子二万五千騎、対する房州の里見義弘(加勢に佐竹義重)、両敵合戦を交えた折り、この子摂津守、手勢六十三騎を召し連れ、旗印は鳥居のそれにて、果敢に戦い、正月八日、討死致いた。

 その子彦四郎、父摂津守討死の戦さ忠顕により、上総国は椎津(しいづ)城を賜わり、自身は当時の江戸城の二曲輪(にのくるわ)に江戸の守りとしてさし置かれ、北条氏常陸表への出陣の節には、常にその先陣を務めたと申す。

 彦四郎の家中の者どもは、今の神田は竹橋と称している辺りにさし置かれて御座ったが、これによつて、かの橋や一帯を「在竹橋(ありたけばし)」と称するようになったが、今は言い易きように略して「竹橋」と唱えておるのだと申す。

 彦四郎は秀吉小田原攻めの際、椎津城にて討死に致いた。

 在竹氏のその定紋及び幕の紋は「釘貫(くぎぬき)に一文字」であると、とある記録にあると人の語って御座った。

中島敦 南洋日記 十一月二十九日

        十一月二十九日(土) 晴
 朝公學校、兒童の彫刻(本立)を見る、パラオ丸正午入港、高里氏來、紀之國屋に入つて語る。彼の世話にて、實業學校教諭田邊氏宅に移る。高里氏はラヂオ屋に落付く。月明の白き街道に立ち、通りすがる島民兒童に菓子を與ふるは、娯しきかな。彼等幼き者の、はじめ驚き懼れ、さて、疑ひ、つひに歡ぶ狀、興あり。
[やぶちゃん注:同日附中島たか宛の葉書が残る。以下に示す。
   *
〇十一月二十九日附(消印・サイパン郵便局一六・一一・二九。パラオ、南洋庁地方課。 東京市世田谷区世田谷一ノ二一四 中島たか宛)
 まだ十日頃の月だのに、とても明るい。夜涼しいのでバナナの葉の下の白い路をどんどん歩いて行つたら、街に出て、劇場にぶつつかつた。琉球(リウキウ)の芝居をやつてゐるので、物好に、はいつて見た。言葉がまるで解らない。二時間ばかり見てゐたが、解つた言葉は四つ五つしかない。それ程沖繩(ヲキナハ)の言葉は、標準語と違ふんだよ。しかし、琉球の風俗と、踊とが面白かつた。僕がサイパンに來てゐることまで、ここの新聞に出るんだから、隨分狹(せま)い島だなあ。
   *
旧全集「書簡Ⅰ」番号一四六である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 44 「日本先住民の証跡」講演 / 一時帰国の送別会

 十月十三日の土曜日には、横浜の日本亜細亜(アジア)協会で「日本先住民の証跡」という講演をした。私はかってこんなに混合的な聴衆を前にしたことがない。大部分は英国人、少数の米国人と婦人、そして広間の後には日本人が並んでいた。福世氏は私を助けて材料を東京から持って来て呉れ、私は稀に見る、かつ、こわれやすい標本を、いくつか取扱った。

[やぶちゃん注:「日本先住民の証跡」原文は“Traces of Early Man in Japan.”。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」では、「日本における古代民族の形跡」と訳しておられる。

「日本亜細亜協会」この講演の様子を含め、総て既注。そこにも記したが、残念ながら、この時の講演内容の詳細は不明である。

「福世氏」既注。]

 

 私は冬の講演の為に米国へ帰るので、送別宴が順順に行われる。私は特別学生達を日本料理屋に招いて晩餐を供し、その後一同で展覧会へ行った。これは初めて夜間開場をやるので、美しく照明されている。海軍軍楽隊は西洋風の音楽をやり、別の幄舎(パビリオン)では宮廷楽師達が、その特有の楽器を用いて、日本の音楽を奏していた。日本古有の音楽は、何と記叙してよいのか、全く見当がつかない。私は殆ど二時間、熱心に耳を煩けて、大いに同伴の学生諸君を驚かしたのであるが、また私は音楽はかなり判る方なのであるが、而も私はある歌詞の三つの連続的音調を覚え得たのみで、これはまだ頭に残っている。それは最も悲しい音の絶間なき慟哭である。日本の音楽は、人をして、疾風が音低く、不規則にヒューヒュー鳴ることか、風の吹く日に森で聞える自然の物音に、山間の渓流が伴奏していることかを思わせる。楽器のある物は間断なく吹かれ、笛類はすべて調子が高く、大きな太鼓が物憂くドドンと鳴る以外には、低い音とては丸でない。翌日一緒に行った学生の一人に、前夜の遊楽の後でよく眠られたかと聞いたら、彼は、「あの発光体の虚想が私の心霊に来た為に」あまり眠れなかったといった。これは博覧会に於る点燈装飾のことなのである。

[やぶちゃん注:「幄舎」(“pavilion”)は「あくしゃ」と読む。四隅に柱を立てて棟や檐(のき)を渡し、布帛(ふはく)で覆った仮小屋。

「あの発光体の虚想が私の心霊に来た為に」原文は“imagination of that luminary came to my mind,”。

「点燈装飾」原文は“the brilliant display”。現在ならイルミネーションと訳すところ。]

殺せかし!殺せかし! 萩原朔太郎 (詩集『氷島』の「殺せかし! 殺せかし!」初出)

 殺せかし!殺せかし!

 

いかなればかくも氣高(けだか)く

優しく、麗(うる)はしく、かぐはしく

すべてを越えて君のみが匂ひたまふぞ。

我れは醜き獸)じう)にして

いかでみ情(なさけ)の數にも足らむ。

もとより我れは奴隷(どれい)なり、家畜なり

君がみ足の下に腹這(はらば)ひ

犬の如くに仕へまつらむ。

願くば我れを蹈(ふ)みつけ

侮辱(ぶじよく)し

唾(つば)を吐きかけ

また床の上に蹴り

きびしく苛責(かしやく)し

ああ遂に――

わが息の根の止まる時までも。

 

われはもとより家畜なり、奴隷なり、犧牲なり

悲しき忍從に耐えむより

はや君の鞭の手をあげ殺せかし。打ち殺せかし。

 

[やぶちゃん注:『蠟人形』第二巻第十二号・昭和六(一九三一)年十二月号に掲載され、後に詩集「氷島」に以下の形で再録された。「耐えむ」は「氷島」ともにママ。

 

 殺せかし! 殺せかし!

 

いかなればかくも氣高く

優しく 麗はしく 香(かぐ)はしく

すべてを越えて君のみが匂ひたまふぞ。

我れは醜き獸(けもの)にして

いかでみ情の數にも足らむ。

もとより我れは奴隷なり 家畜なり

君がみ足の下に腹這ひ 犬の如くに仕へまつらむ。

願くは我れを蹈みつけ

侮辱し

唾(つば)を吐きかけ

また床の上に蹴り

きびしく苛責し

ああ 遂に――

わが息の根の止まる時までも。

 

我れはもとより家畜なり 奴隷なり

悲しき忍從に耐えむより

はや君の鞭の手をあげ殺せかし。

打ち殺せかし! 打ち殺せかし!

 

『蝋人形』は西条八十が創刊し、主宰した詩誌(昭和五(一九三〇)年~同一九(一九四四)年。月刊。通刊百六十三号)。戦前の昭和にあって十四年余も月刊で続いた詩誌は他にない。しかも百頁近い大冊で、詩を中心とした文芸総合誌としては大きな影響力を持ったという(この部分、大島博光氏のブログ西條八十と『蝋人形』と大島博光に拠った)。]

口紅に新春少女十六の笑(ヱミ)うつくしき梅の園生や 萩原朔太郎

 
口紅に新春少女十六の笑(ヱミ)うつくしき梅の園生や
 
[やぶちゃん注:『文庫』第二十八巻第二号(明治三八(一九〇五)年二月発行)に「上野 美佐雄」という名義(過去に見られない雅号である)で掲載された。渡邊光風選。萩原朔太郎満十八歳。渡邊光風は、この新派和歌運動胎動期に当『文庫』や『青年文』(せいねんぶん)『少年文庫』といった文芸投稿誌の短歌選者として知られた歌人。]

雲   八木重吉

くものある日

 

くもは かなしい

 

 

くもの ない日

 

そらは さびしい

鬼城句集 冬之部 莖漬

莖漬    小さうもならでありけり莖の石

 

      老いが手に抱きあげにけり莖の石

2014/01/11

栂尾明恵上人伝記 68 自らの死の予知夢

 上人、夢に、大海(だいかい)の邊に大盤石さきあかりて高く聳え立てり。草木華葉鬱茂(うつも)して、奇麗の勝地也。大神通力(だいじんづうりき)を以て大海と共に相具して十町計りを拔き取りて、我が居所の傍に指し置くと見る。夢覺めて語り給はく、此の夢は死夢なりと覺ゆ。來世の果報を現世に告ぐるなりと命ぜしめ給ふ。

[やぶちゃん注:「あかりて」は岩波文庫版「ではあがりて」。この夢は「高山寺明惠上人行狀」の中にも記されてあり、それはやや叙述が異なり、また実は見た際の明恵の病態が尋常ではなかったことなども分かるので、今、国立国会図書館のデジタル化資料「史籍雑纂」(国書刊行会編明治四四(一九一一)~大正元・明治四五(一九一二)年刊)に載るものを視認して示すこととする。

   *

一同三年〔辛卯〕十月一日より、年來の痔所勞更發し、又不食の氣に煩ふ、同十日夜、殊大事なり、仍臨終の儀に住して、彌勒の像の御前に端坐して寶號を唱ふ、すなはち衆に示して曰く、我れ自ら寶號を唱ることは時に隨ふへし、諸衆寶號を唱へしと云て、我は坐禪入觀す。數刻の後出觀して、又理供養の儀をもて行法あり、其後暫く稱名す、後夜に臨て休息す、其後漸々に聊少減を得といへども、恒に不快なり、上人夢に大海の邊に大盤石さきあかりて高く聳へ立り、草木花菓茂欝して奇麗殊勝なり、大神通力をもて大海と共に相具して十町許りをすき取て、我か居處のかたはらにさしつくと見る、此の夢は死夢と覺ゆ、來生の果報を現世につくなり。

   *

私はこの電子化とは別に「明恵上人夢記」の電子化訳注を並行して行っている関係上、この夢記述はすこぶる興味深い。まずは取り敢えず、この二稿の夢に私の電子化訳注に準じて訳してみたい。①としたのが「伝記」版の、②としたのが「行状」版である。「十町」は一・一キロメートル(四方)に相当する。「數刻」一刻は二時間であるから、四~六時間後という感じか。

   §

 ご上人さまが、ある日見た夢であらせられる。

「大海のほとりに一枚板の大きな岩が、屹立して高く聳え立っている。草木や花や葉が鬱蒼と繁茂して、すこぶる綺麗なる景勝地なのであった。私は聖なる神仏の神通力を以って、大海とともに合わせて十町計りの空間を抜き取って、私の居んでいる場所の傍らに、その景観を丸ごと据えおくことに成功したのであった。」

この夢からお醒めになったご上人さまは、

「……この夢は私の死を告げる予知夢であると感じている。……がしかし、これは私の来世(らいせ)での果報のありさまを如実に現世(げんせ)の私に告げ下すったものである。」

と、宣言なさったのであった。

   §

一、同三年〔辛卯(かのとう)。〕十月一日より、年頃、お患いなさっておられたところの痔疾の状態が悪化なされ、かなりお苦しみになられるようになって、加えてご食欲が殆んどなくなられるといったご容態になられた。同月十日の夜、殊に病態が悪しくなられたによって、御自ら、臨終の儀式に臨まんものと、弥勒菩薩の御像の御前に端坐なされ、弥勒の尊き御名号(おんみょうごう)をお唱えになられた。そうして、直ちに会衆に示唆なさって、

「……我れら、自ら弥勒のあらたかなる御名号を唱えるは――まさに時に当たって従っているのだとお心得あれかし――諸衆もともに安らかに高らかにあらたかなる名号をお唱えになられよ。――」

と仰せられて後、御自身は座禅なさったままに観想にお入りになられた。

 数刻の後、観想からお戻りなられて、また作法通り、齟齬なき供養の儀を以って行法をなさった。その後、暫く神仏の称名をなさった。その後、やっと夜になってから御休息をなされた。その後はだんだんといささか生気を取り戻されたようであられたが、依然として御不快のご気配であらせられた。

 その時、ご上人さまは次のように宣われた。

「我ら、夢を見申した。……

大海のほとりに一枚板の大きな岩が、屹立して高く聳え立って御座った。――

草木や花や葉が鬱蒼と繁茂して、それはそれは綺麗なる景勝地で御座った。――

我ら、聖なる神仏の神通力を以って、大海とともに合わせて十町計りの空間をすっぽりと透き取って、我らが居所の傍らに、その景観を丸ごと、接ぎ足し据えて御座った――

……と申す夢を見申した。……さても……この夢は我らの死を告げる夢と存ずる……いや……我らが現世(げんせ)の生(しょう)の果てを来世(らいせ)に接ぐものと心得て御座る。……」

と。

   §

 これは明恵にして見ることの出来た己れの入寂、否、浄土への転生の美事な予知夢と言ってよい。いや、彼ならば浄土から再び衆生を救うためにあえて戻ってくるはずであろうから、これは明恵の生まれ変わりが見た現実の未来の紀州かどこかの景色ででもあったに違いないと私は思うのである。ご存知ない方のために老婆心乍ら述べさせてもらうと、再び戻ってくるというのは、還相回向(げんそうえこう)のことを述べたものである。中国は南北朝の僧で浄土教の開祖とされる曇鸞は「浄土論註」巻下の中で往相(おうそう)・還相(げんそう)の二種の回向を説いている。往相回向とは「往生浄土の相状」の略で、自分の善行功徳を他の対象に廻らし、他の対象の功徳としてともに浄土に往生しようという誓願を指す。即ち、共時的な連帯した極楽へのベクトルを持った往生である。ところが「還来穢国の相状」の略である還相回向というのは、極楽浄土へ往生し者を、あまたある煩悩に縛られた衆生を救うために再び現世へ還り来たらしめんとするところの願いのことを指す(浄土教ではこれら利他のはたらきを阿弥陀仏の本願力の回向とする)。私は明恵は必ず還相回向をせんとする人と考えるのである(往相及び還相回向の部分にはウィキ回向」の記載を一部、加工用に用いさせて戴いた)。

 なお、この部分について、河合隼雄氏は「明惠 夢に生きる」の中で、以下のように述べておられる(河合氏の「行状」の引用は、私が先に掲げたものとは新字の漢字片仮名交じりで、一部に異同があるので表記その他が異なる)。

   《引用開始》

 「此ノ夢ハ死夢ト覚ユ」と断定するところがなんとも言えないが、その内容もまた意表をつくものがある。「大海ノ辺(ほとり)ニ大盤石」云々という景色は、明恵の好んだ白上の峰を思わせるものがあるが、それをもっと素晴らしくしたものであろう。それを神通力で運んできて、自分の居処の傍に置いたのだから、もう死ぬ準備はできたと考えたのであろう(この「来生ノ果報ヲ現世ニツグナリ」という文における「ツグ」は、その前の文にある「サシツグ」と同じ意で、「接ぐ」と解せられるが、『伝記』の文は「来世の果報を現世に告ぐる也」となっている。どちらとも考えられて断定し難い)。

 ユングも死ぬ少し前に、死の夢と彼が感じた夢を弟子たちに告げている。それは次のような夢である。

 「彼は『もう一つのボーリンゲン』が光を浴びて輝いているのを見た。そして、ある声が、それは完成され、住む準備がなされたことを告げた。そして、遠く下の方にクズリ(いたちの一種)の母親が子どもに小川にとびこんで泳ぐことを教えていた」

 ボーリンゲンは、ユングが特に愛した彼の別荘ある。はじめ彼は自ら煉瓦を積んで塔をつくり、電気、水道などを一切用いず、ここでよく瞑想にふけったりしていた。夢のなかで、彼は「もう一つのボーリンゲン」が「あちら」に完成され、新しい住人を待っていることを知らされるのである。明恵の場合は、「あちら」の世界を神通力で引き抜いてくるのだが、ともかく、両者共に、次に住むべき所が夢のなかに提示され、どちらもそれを「死夢」と判断しているのは興味深いことである。

   《引用終了》

私は、二十六年前、河合氏の当該書を読んで、最も感動したのはこの箇所であった。特に明恵の大神通力なんぞより何より、ユングの夢の最後の「遠く下の方にクズリの母親が子どもに小川にとびこんで泳ぐことを教えていた」という箇所にこそ、深く心打たれたのを忘れないのである……]

明恵上人夢記 31

31

一、同六日の夜、夢に云はく、石崎入道之家の前に海有り。海中に大きなる魚有り。人云はく、「是鰐也。」一つの角生ひたり。其の長(たけ)一丈許り也。頭を貫きて之を繫ぐ。心に思はく、此の魚、死ぬべきこと近しと云々。

[やぶちゃん注:「同六日」建永元(一二〇六)年六月六日。

「石崎入道」底本注に明恵の庇護者であった『湯浅氏の一族宗景か。同人の邸が湯浅石崎にあった』とある。湯浅石崎は現在の和歌山県有田郡湯浅町で海浜の地である。

「一丈許り」凡そ3メートルほど。

「鰐」であるが、結論からいうとこれはノコギリザメのような(そのものだと言うのではない)、異様な角を持った軟骨魚類の鮫、サメと断ずるものである。以下、まずは博物学的な迂遠な注にお付き合い戴きたい。なお、途中からは夢の解釈に移ってゆくので悪しからず。

 「康熙字典」編纂の先例となった中国の明代の張自烈撰の字書「正字通」には「鰐」は「鱷」の同字とし、「鱷」の項には怪魚として説明されてある。そこには、頭は虎に似て四足、鼉(ダ:ワニ。)に似る。体長は二丈(六メートル)余り、喙(くちばし)は三尺(九〇センチメートル)、長い尾を持ち、その歯は鋭利。その尾を以って物を取る様は象が鼻を用いるようである。民の受ける害は甚大であるとあって、その後に続く引用では、河にいる淡水産の怪魚としたり、海産の魚類であるが蜥蜴に似るなどともある(以上は「中国哲学電子化計画」のPDF画像を視認した)。

 因みに、荒俣宏氏は「世界大博物図鑑 3 両生・爬虫類」(平凡社一九九〇年刊)の「ワニ」の項で、この「正字通」を要約された後に、これらは『鼉がヨウスコウワニ(アリゲーター)をあらわし』ており、鰐は『ガビアルをあらわしていたのかもしれない』と推理されている。因みに前者はワニ目アリゲーター科アリゲーター属ヨウスコウアリゲーター Alligator sinensis を指す。現在の安徽省・江西省・江蘇省・浙江省の長江下流域に棲息する固有種で、太古には太鼓の皮に利用され、雅楽の鼉太鼓も本種の皮が用いられていた。ヨウスコウアリゲーターはおとなしく、人を襲った記録はない(この部分はウィキの「ヨウスコウアリゲーター」に拠る)。後者はワニ目ガビアル科ガビアル属インドガビアル Gavialis gangeticus(単にガビアルとも呼ぶ)でインド・ネパールに棲息し(かつてはパキスタン・バングラデシュ・ブータン・ミャンマーにもいたが絶滅した)、体長は四~六メートルに達する大型種であるが、こちらも専ら魚食性であるため、人を襲うことはないとされる(この部分はウィキの「ガビアルに拠る)。

 しかし、どうもこの明恵の夢に現われたそれは、そのような想像上の怪魚ではなく、また、見たこともない爬虫類のワニでもないと私は考えるのである。何故なら、それらに共通する四足を持つことが、夢記述に現われていないからである。とすれば、この場合の「鰐」は、まずは私は「古事記」の因幡の白兎に出るところの実在するサメを指しているように思われてならない(ご存知の方も多いとは思うが、現在も出雲地方では鮫を「ワニ」と呼び、を鮫を食べる習慣もあって「ワニ料理」と言う)。確かに角のある点(これは後に述べるように聖痕である)では怪魚ではある。しかし、ノコギリザメのように角のある鮫も実在するから(極めて明瞭な鋸状吻を持つ軟骨魚綱板鰓亜綱ノコギリザメ目 Pristiophoriformes 以外にもより一般的に日本近海で見られるツノザメ目 Squaliformes はまさにその名が示す通り、特徴的な尖った円錐形の吻部を持つ)を持明恵が見たのは全くの奇形のモンストロムであったのとは言えないだろう。何より、明恵がこの「鰐」の夢をはっきりと記憶していたのは、まさに普通の鮫としての「鰐」に、奇体な「角」があったからである。もし「手足」があったら、絶対にそれを叙述しないでいられぬはずである。「角」よりも遙かに「四足」の方が魚にとっては奇体だからである。さらに言うなら、これに四足があれば「之を繫ぐ」のに「頭を貫」いただけでは如何にも不十分であるからである。しかも舞台は湯浅石崎で海浜の地である。以上から私はこれを「角を持った鮫」と採る。この推定については大方の御批判を俟つものである。

 さて、そうなると今度は専ら「鮫」と「角」の問題に移ることになる。ところが本邦に於ける鮫のシンボリズムや文化誌・博物誌というのはあまり知られておらず、また十分に研究されているとも言えない気がする。これから手掛かりとするところの荒俣氏の「世界大博物図鑑 2 魚類」(平凡社一九八九年刊)の「サメ」の記載にも、本邦の「古事記」や古典の中では多様で複雑な属性を持つところの「鰐」は『神話中の異獣として敬して遠ざけている感』がある、と知しておられる。

 まずは荒俣氏が「サメ」の「神話・伝説」に記す、最も古形に位置するアイヌの伝承から見たい。アイヌ語でも鮫は「シャメ」で、海の守り神として祀られたとして、兄と妹の海上での危機回避神話が語られ(神話の内容は当該書を参照されたい)、そこに登場する舟をかつぐようにして速く進むシアチャンクル(年上のサメ)=レプンコル・カムイ(沖を支配する神)という荒神と、同じく舟を乗せながらも静かに優しく走らせるモアチャンクル(年下のサメ)=ヤンケソッキコロ・カムイ(浜に近く寝床をもつ神)として、孰れも海神として春の祭りに於いて祀られるとある。

 また「宇治拾遺物語」の第百七十八話「魚養(うをかひ)の事」には、遣唐使であった男が現地妻との間の子を残して帰ってしまい、恨みを含んだ母によって「宿世(すくせ)あらば、親子の中は行き逢ひなん」と海に投げ入れられるも、その少年が魚に乗って難波の浦の父の元へと辿り着く。後には名筆家となり、「魚養い」と名乗って南都七大寺の額も彼が書いたとあるのだが、その名前から推して恐らくはその少年の乗って来た魚とは「鱶(ふか)」、鮫である(以上の記載は原典に当たった)。

 また沖縄には、暴風にあって船は沈むも、鮫に乗せられて助かった話が多く残り、本土には見られない明らかに鮫をトーテムとする氏族が存在すると荒俣氏の「民話・伝承」の記載にはある。

 これらの話に、鮫を騙して島と陸の架け橋を作らせてそこを「渡って行く」という因幡の白兎の話しを足すならば、孰れも鮫の背に乗って浜へと無事に辿り着くというモチーフの共通性が見られることに気づく。これはとりもなおさず、鮫が漂着神若しくはその使者や回路としての属性を鮫が担っているからに他ならないと私は考えている。

 「宇治拾遺物語」の魚養は、まさに唐土からはるばる「渡海」してきて、まさに類い稀なる「宿世」の縁によって父の元へと辿り着いたのである。このルートを逆に辿ってみると、その大陸の果てには、明恵が切に渡航を願って果たせなかった天竺がある(その二度目の断念はまさにこの夢を見た前の年である)。とすれば、この神聖なスティグマ(角)を持った「鰐」(鮫)とは、他者から区別された、修行者としての仏道精進の使命を帯びたところの明恵自身の、天竺渡航への西遊の思い、そこ象徴される原型としての仏教への明恵の復古回帰の強い願望が裏打ちされていると考えても、なんら無理がないと私は信ずるものである。

 しかし今、その「鰐」(鮫)は頭部に無惨に穴が空けられ、太い舫(もや)い綱のようなものによって係留柱(ビット)に結わえ附けられ、自由を奪われている。しかも、それを見ている明恵は『この魚は死期が近い』とある意味、冷静に心に思うのである。

 私はこの渡海をも出来得るはずの神聖な鰐(鮫)とはとりもなおさず明恵自身であり、それが今まさに瀕死の状態にあるというのを、夢の中で明恵自身が冷静に眺め、そして「自身の一つの死」を確かなものとして観察し予感するというシークエンスは、明恵自身の中の人格的成長を期した予知夢の一種であるように思われてならないのである。

 これが私のいい加減な思い付きではない証左として、河合隼雄氏が前掲の「明惠 夢に生きる」で、二度、この夢を取り上げた中で、『このような大魚の死は、明恵の内界における相当な変化を予示している。明恵はおそらくこの夢によって、自分にとっての一つの転換期が到来しつつあることを予感したのではなかろうか』とされ、この夢に続く『短時日のうちに相ついで生じた一連の夢は、明恵が後鳥羽院から賜わる地所を受けるための、心のなかでの内的な準備がはじまっていることを示している、と考えられるのである。あるいは、十一月には正式に高山寺の方に居を移しているので、この夢を見たあたりで内々の交渉があったのかもしれない』と述べられた上で、『明恵にとって高山寺の土地を後鳥羽院より受けとることは、彼の生き方を根本的に変えることになり、大変な覚悟が必要であっただろう。「法師くさい」のが嫌だと言って二十三歳のときに神護寺を出た彼が、約十年を経て、その神護寺の別所を院より賜わって住むことになる。それらすべての事象に、彼は「相応等起」の感をもったであろうし、高山寺に住みつくとしても、それはあくまで自らの求道の姿勢と矛盾するものとはならない、という自信に裏づけられて、彼は院の申し出を受けたのだろう、と思われる。これら一連の夢は、彼のそのような心の動きを反映しているものであろう』と述べておられることを附け加えておきたい。なお、文中の「相応等起」という語は、この八つ後の夢記述に出る語で、底本注に、『事に応じて出現すること』とある。]

 

■やぶちゃん現代語訳

31

一、同六月六日の夜、見た夢。

「石崎入道の家の前に海が広がっている。その海の中に大きな魚がいる。ある人が、

「これが鰐(わに)だ。」

と言った。

 その鰐の頭部には、突き出た一つの角が生えていた。

 その体長は一丈ばかりであった。

 その鰐が頭を貫かれて、岸辺の杭(くい)に繋がれているのであった。

 私は心に思った。

『――この魚(さかな)は――もう、直きに死ぬんだなぁ……』

と。……

栂尾明恵上人伝記 67

 寛喜二年〔庚寅〕、和字に八齋戒自誓の式を撰して道俗に示す。

 同年七月に孟蘭盆經(うらぼんぎやう)の式を作りて之を行ふ。

 又善財(ぜんざい)、五十五の善知識の次位(じゐ)の建立、得法(とくほふ)の軌則(きそく)に依りて、十門の科文(くわもん)を出して大衆に告げて云はく、此の法文は年來習學修練(しゆうがくしゆれん)する處なり。各此の法文を聽聞あるべしとて、常に講じ給ひけり。此の十門を以て華嚴一部の大綱を括(くゝ)り、五十五聖の法門をふさねて、金剛見聞(けんもん)の種(しゆ)を裹(つゝ)みて、善財の跡を尋ね、解行圓滿(げぎやうゑんまん)の果に望みて、十佛の覺(さとり)を開かんが爲なり。

[やぶちゃん注:「裹みて」の「裹」は底本では上部の(なべぶた)がない。

「寛喜二年」西暦一二三〇年。明恵満五十七歳。入滅の二年前。

「和字」国文仮名(恐らくはカタカナ)混りの表記法。

「八齋戒」八戒。在家男女が一日だけ出家生活にならって守る八つの戒め。性行為をしない(在家の信者が普段守らなければならないとされる五戒、不殺生戒・不偸盗戒(盗みを働かない)・不邪淫戒(性行為をしない)・不妄語戒(嘘をつかない)・不飲酒(ふおんじゆ)の五種の内の不邪淫戒(不道徳な性行為の禁止。特に強姦や不倫・性行為に溺れることを指す)をより厳格な性行為を行わないという不淫戒に変え、さらに、不坐臥高広大床戒(高く立派な寝台に寝ない)と、不著香華瓔珞香油塗身戒+不作唱技楽故往観聴戒(装身や化粧をしない+歌舞音曲を視聴しない)と、不過中食戒(非時を摂らない。仏家では食事は午前中の一度だけを原則とするが、それではもたないので、それ以外に食す食事を総て「非時」と言った。具体的には正午から日の出までの間の食事摂取行為である。但し、通常、水はこの限りではない)の三つを加えたもの。

「ふさねて」ナ行下二段活用「總(総)ぬ」(ふさぬ)で、纏める・総括するの意。

「善財」善財童子。「華厳経入法界品」の主人公である菩薩行の理想的修行者の少年。サンスクリット名はスダナ。福城(ダーニヤーカラ)の豪商の子であったが、福城の東の荘厳幢娑羅林(しようごんどうさらりん)で文珠菩薩の説法を聞いて仏道を求める心を発し、その指導によって南方に五十三人(本文には「五十五の善知識」とあるが、これは物語の中の人物の数え方によって五十四人とも五十五人ともされるためである)の善知識(優れた指導者。但し、その中には比丘や比丘尼のほかにも外道(仏教徒以外の宗教者)・遊女と思われる人物・少年や少女なども含まれている)を訪ねて遍歴、再び文珠のもとに戻って遂には普賢菩薩の教導によって修行を完成させたという(ここまでは主に平凡社「世界大百科事典」に拠った)。ウィキ善財童子の「派生作品」の項には、まさに『昔からこの様子が多くの絵や詩歌に描かれており、日本では、明恵上人高弁による善財童子の讃嘆が有名であ』るとある。因みに『一説には、江戸時代に整備された東海道五十三次の五十三の宿場は、善財童子を導く五十三人の善知識の数にもとづくものとされる』とある。最後のは驚きだ。

「次位の建立」善財童子の菩薩行によった悟達の次期を自らに願うところの心内の誓いという意味か。

「得法の軌則」「得法」は仏法の真理を会得すること(転じて物事の奥義をきわめることの意にも用いる)。「軌則」は本筋・本質といった意味か。

「十門の科文」三国時代末期から統一新羅初頭にかけて活躍した朝鮮人僧元暁(六一七年~六八六年)は「十門和諍論」(じゅうもんわじょうろん)の中で、仏法は一観であり、説けば十門となって百種類の異論を生ずる。それらを調和させて一味の法海に至るようにする(「和百家之異諍。歸一味之法海)と、根本的な唯一の仏法を「和諍」の思想から世に提示した、とウィキ朝鮮仏教」にある。

「科文」「くわもん(かもん)」と読み、経論の本文を解釈する際、その内容を説意によって大小の段落に分け、各部分の内容を簡単な言葉に纏めた評釈文を指す。

「金剛見聞」しっかりとした正しい知見。「金剛」は堅固で崩れぬ形容。

「十佛」この「十」は名数ではあるまい。完全なる総ての仏のことであろう。]

山頂 萩原朔太郎

 

 山頂

 

かなしければぞ、

眺め一時にひらかれ、あがつまの山なみ靑く、

いただきは額(ひたひ)に光る。

ああ尾ばな藤ばかますでに色あせ、

手にも料紙はおもたくさげられ、

夏はやおとろへ、

山頂(いただき)風に光る。

           ――一九一四、八、吾妻ニテ――

 

[やぶちゃん注:『銀磬』第四年第一号(大正四(一九一五)年一月刊)に掲載された。同誌は詩誌と思われるが不詳。クレジットの同年八月十三日まで朔太郎(満二十八歳)は群馬県吾妻郡中之条町四万温泉の積善館に避暑に赴いている。

 この前年辺りに永遠のエレナ(馬場ナカ)との悲恋が始まっている。この詩には、その陰鬱な影が落ちているように私には思われ、またそのイマージュは後の「月に吠える」の「淋しい人格」後半部分の淵源のようにも思えるのである。]

萩原朔太郎 短歌四首 明治三七(一九〇四)年十一月

ゆふ月のさせば武藏の母もきてありしむかしの夢さそふ夜や

月ふめばそぞろさびしき名はうせて濱の夕べをおどり笑む人

慕ひ行くにそこは名の囗、智惠の囗二度おもふ戀はいづかた

あひ行くに秋雨ほそう道ほそし人よみ手なる傘をたまへな

[やぶちゃん注:『白虹』創刊号(明治三七(一九〇四)年十一月発行)の「九輪草」欄に掲載された。萩原朔太郎満十八歳。「囗」は「國」の古字。

 『白虹』は「はっこう」と読み、岡山にあった血汐会(明治三十六年に当時、関西中学に在籍していた入沢涼月(本部は岡山市大字花畑の彼の自宅)・有本芳水・美土路昌一(元朝日新聞社長)らによって結成された文芸結社)が発行した文芸雑誌。同誌には尾上紫舟・小山内薫・正宗白鳥・小川未明ら中央の作家も寄稿した。

 一首目は先の『明星』卯年第十二号(明治三六(一九〇三)年十二月発行)に、

夕月のさせば武藏の母もきてありし昔の夢さそふ夜や

の表記で既発表。

 三首目は先の『文庫』第二十五巻第六号(明治三七(一九〇四)年四月発行)に、

そゞろ行くに、ここは名の國智慧の國。ふたゝび思ふ戀はいづかた。

のヴァリアントである。なお本歌は底本改訂本文では、漂泊洗浄が施されてしまい、

慕ひ行くにそこは名の國、智惠の國、二度おもふ戀はいづかた

と綺麗に乾されてある。]

哀しみの海  八木重吉

哀しみの

うなばら かけり

 

わが玉 われは

うみに なげたり

 

浪よ

わが玉 かへさじとや

鬼城句集 冬之部 納豆

納豆    智月尼の納豆汁にまじりけり

 

[やぶちゃん注:河合智月(寛永一〇(一六三三)年頃~享保三(一七一八)年)は京に生まれ、近江国に住んだ蕉門きっての女流俳人。山城国宇佐に生まれ、大津の伝馬役兼問屋役河合佐右衛門に嫁いだ。貞享三(一六八六)年頃夫と死別して剃髪、後に自身の弟乙州(おとくに)を河合家の養嗣子とした。元禄二(一六八九)年十二月から芭蕉を自邸へ迎える機会が多くなり、元禄四(一六九一)年には東下する芭蕉から「幻住庵記」を形見に贈られている。智月は膳所滞在中の芭蕉の身辺の面倒をよく見、芭蕉がしばしば湖南へ出かけたのは、智月を始めとする暖かく芭蕉を迎える近江蕉門の存在があってのことであったとも言われる(ここまではウィキの「河合智月に拠る)。芭蕉の葬儀に際しては智月と乙州の妻が芭蕉の好みに合わせて茶の浄着を縫っている(芭蕉は白衣を好まなかった)。因みに彼女は芭蕉より十ほど歳上である。幾つかの句を示しておく。

  麥藁の家してやらん雨蛙

  やまつゝじ海に見よとや夕日影

  稻の花これを佛の土産哉

  やまざくらちるや小川の水車

  ひるがほや雨降たらぬ花の貌

  年よれば聲はかるゝぞきりぎりす

  御火焼の盆物とるな村がらす

  待春や氷にまじるちりあくた

  鶯に手もと休めむながしもと

  わが年のよるともしらず花さかり

養子乙州も芭蕉に師事し、元禄三(一六九〇)年のこと、芭蕉は乙州邸で越年しており、その翌元禄四年に乙州が江戸へ下向するに際し、後に「猿蓑」に載った有名な、

  梅若菜丸子(まりこ)の宿のとろろ汁 芭蕉

という餞別句を発句とする歌仙を巻いているが、その連衆には智月もいた。

 この鬼城の句、一読意を解しかねるが、さればこそ乙州や智月の家族的な温もりを伝えるかの「とろろ汁」の相伴の余香を受けた「納豆汁」の連衆と洒落たものであろうか。とんでもない誤釈かも知れぬ。大方の御批判を俟つものである。]

 

      納豆や僧俗の間に五十年

 

      納豆に冷たき飯や山の寺

2014/01/10

探検の出来ない世界

アリスを散歩させながら思うことある。

昔、路地や家屋の隙間やけもの道みたようなところを僕らは探検しなかったか?

ところが今や――「この先行き止まり」「私有地につき立ち入り禁止」「関係者以外立ち入り禁止」といった立札が乱立し、有刺鉄線の代わりにロープと塀がそこらじゅうに張り巡らされている。

僕らは小さな頃、毎日、「探検」をしてぞくぞくしていた。

そんな世界が今は鮮やかに払拭された。…………

『だが、なぜ……なぜすべてが誰かのものであり、おれのものではないのだろうか? いや、おれのものではないまでも、せめて誰のものでもないものが一つくらいあってもいいではないか。ときたまおれは錯覚した。工事場や材料置き場のヒューム管がおれの家だと。しかしそれらはすでに誰かのものになりつつあるものであり、やがて誰かのものになるために、おれの意志や関心とは無関係にそこから消えてしまった。あるいは、明らかにおれの家ではないものに変形してしまった。では公園のベンチはどうだ。むろんけっこう。もしそれが本当におれの家であれば、棍棒をもった彼が来て追いたてさえしなければ……たしかにここはみんなのものであり、誰のものでもない。だが彼は言う。€€€「こら、起きろ。ここはみんなのもので、誰のものでもない。ましてやおまえのものであろうはずがない。さあ、とっとと歩くんだ。それが嫌なら法律の門から地下室に来てもらおう。それ以外のところで足をとめれば、それがどこであろうとそれだけでおまえは罪を犯したことになるのだ。」さまよえるユダヤ人とは、すると、おれのことであったのか? 日が暮れかかる。おれは歩きつづける。』(阿部公房「赤い繭」より)

……僕は今、あの頃の「探検」の心躍る気持ちを持ちたくてしょうがない。

……でももう――僕らの世界には――「抜けられます」というウエットな看板もなければ、どきどきするラビリンスも、一切、掻き消えたのだ――

――それが/その恐ろしい魂の貧困こそが――『来たるべき未来』であったのだ…………

北條九代記 鎌倉軍勢上洛 承久の乱【十四】――承久の乱【十四】――院使推松、京都に帰さる。その報を聴きし後鳥羽院、恐懼す

北條右京權〔の〕大夫義時は、鎌倉総軍家の執權たり。若君を守護し奉りて、態(わざ)と留りおはしけるが、院宣の御使推松を召出し、「汝をば京都に歸すべし。院に參りて申すべき樣は、義時昔より忠義をのみ存する身を、讒(さかしら)を信ぜられ、違勅(ゐちよく)の者になり候。舎弟時房を初(はじめ)て、子にて候、泰時朝時以下三方の軍勢、都合十九萬餘騎を參らせ候。御腹居(はらゐ)させ給ふべし。未だ叡慮治(をさま)らずは、三郎重時、四郎政村を先として、二十萬騎を伴ひ義時參りて申すべしと、必ず奏聞致せよ」とて、追出されたりければ、辛き目を許され命助かりたるが嬉しさに、跡をも見返らず。六月朔日京著して、嘉陽門の御所に參りしかば、物にも覺えぬ公卿殿上人、立ち出で給ひ「推松歸(かへり)參りたり。如何に義時が首をば、誰か取りて參らするぞ。關東には合戰の始りしか。義時鎌倉に泳(たま)り得じ。何方へも落行く音(おと)は聞えざりしか。さこそ彷徨(うろたへ)恐るらん。如何に如何に」と仰せければ、推松打涙ぐみて申しけるは、「平九郎判官の御文を三浦駿河守義村受取りて、權〔の〕大夫義時に見せしより、鎌倉中騷動し、推松は深く忍びて其有樣を見候に、大名、小名諸国より、走集(はせあつま)り、京都を指して三方より押し上り候、十九萬餘騎とは申せども、如何樣百萬騎も候らん、鎌倉より尾張までは野にも山にも軍兵充滿(みちみ)ちて押して行く。一時(じ)も早く告(つげ)申さんとて、急ぎ上りて候」と申す、公卿殿上人、皆、興を醒(さま)して物をも申されず。一院聞召(きこしめ)し、「武士共の上らん後(あと)にて、義時が首は取りて參らする者のあらんするぞ」とは、勅定ありけれども、思(おもひ)の外の大軍に厭(あぐ)みでぞ、思召(おぼしめ)されける。
[やぶちゃん注:〈承久の乱【十四】――院使推松、京都に帰され、その報を受けた後鳥羽院、恐懼す〉
「御腹居」御立腹。
「承久記」(底本の編者番号31から35のパート)の記載。
 討手ノ輩、五月廿二日方々へ向フ。同二十七日、院宣御使推松カラフ被ㇾ戒テ人ニ被ㇾ預シヲ、權大夫ノ前ニ召出シテ、「汝歸參テ申サンズル樣ハナヨ、『義時、昔ヨリ君ノ御爲ニ忠義有テ無二不義一。然ルヲ讒奏スル者候トテ、遣勅ニ罷成候上ハ兎角申ニ不ㇾ及候。軍御好ナレバ、舍弟時房、子ニテ候泰時・朝時、是等ヲ始メテ、海道十萬餘騎、東山道五萬餘騎、北陸道四萬餘騎、十九萬餘騎ヲ進ラセ候。是等ニ軍能サセラレテ御見物可ㇾ有候。猶アキ思召候ハズハ、三郎重時・四郎政村、是等ヲ先トシテ廿萬騎ヲ相異シテ、義時モ急參ランズルニテ候』ト申セ」トテ、被二追出一ヌ。
 推松、院宣ノ御使トテ關東へ下リナバ、大名共ニ賞セラレテ、馬鞍被ㇾ引、德付テ上ランズルトコソ思シニ、德迄ハ無トモ、カカルカラキ目ニ逢ツル事ノ悲シサヨ。サレ共、命ノイキタルゾ不思議ナルト思テ、泣々上リケルガ、抑、我ガ首ハモトノ如ク付タルヤラン、ゲニ我ハ元ノ身ニテ行ヤラン、ウツヽ共不ㇾ覺シテ、常ハ首ヲサグリ足ヲサグリ、夢路ヲ行心地ヲシケレ共、一兩日過テコソ、夜ノ明ル心地シテ、眞ニ頸モ手足モツヽガ無リケリト不思議ニ覺へテ、ウカリシ鎌倉ヲソロシク、イトヾ後ロヲ遠ザカラント、夜ヲ日ニ繼デ急上リケル程ニ、五月廿七日ノ午刻ニ鎌倉ヲ出テ、六月一日ノ午刻ニ賀陽院へゾ走リツク。
 公卿・殿上人、「推松參タリ。如何ニ義時ガ首ヲバ誰カ取テ進ラスルゾ。關東ニハ合戰スルカ、タテアフカ。如何ニ如何ニ」トロ々聲々二被ㇾ問ケレ共、ウツブシ涙ニ咽ンデ物モ不ㇾ申。「餘ニ苦シサニナクバカリ」ナド、人人笑アヘリ。長久有テ、推松涙ヲノゴヒ心ヲ靜メテ申ケルハ、「五月、都ヲ出テ罷下候。同十九日ノ午刻ニ、鎌倉近キ片瀨ト申所ニ著テ候シニ、平九郎判官ノ使ハ案内者ニテ先ザマニ鎌倉へ入テ、駿河守ニ文ヲ付テ候へバ、返事ヲバセズシテ、軈テ權大夫ノ見參二人テ候ケル程ニ、鎌倉中以外ニ馳騷ギ候事、申計モ不ㇾ候。是モ鎌倉へ軈テ罷入候シカ共、人ノ足モ早ク聞へソウソウニ候間、如何樣ニモヤウノアルゴサンナレト存候テ、トアル所ニ立入テ、サシモ出ズ候シ程ニ、鎌倉中セバシト被ㇾ尋候間、葛西ノ宿ヨリサガシ被ㇾ出、引ハリ先ニタテヽ、權大夫ノ御前へ參テ候シカバ、院宣被二奪取一候ヌ。軈テ推松ハ人ニ被ㇾ預テ候間、只今ヤ被ㇾ切ト心ノ隙ナク思ヒシニ、同廿七日二又權大夫ノ前ニ召出シテ、「申セ」ト候ツルハ、海道十萬餘騎、東山道五萬餘騎、北陸道四萬餘騎、三ノ道ヨリ十九萬餘騎ヲ進ラセ候。東山道・北陸道ハ見不ㇾ候。海道十萬餘騎、鎌倉ヲ出候シ日ヨリ、一段共馬ノ足ノ雙バズト云所ナク、一町共旗ノ手ノ靡ヌ所ハ不ㇾ候、ヒシト續キテ候ガ、何樣百萬騎モ候ヤラン」ト申ケレバ、公卿・殿上、被ㇾ笑ツルモ皆アヲザメテ興ヲ失ヒ、如何ナルベシ共覺へヌサマ也。一院、ヘラヌ體ニ、「ヨシヨシ物ナ云ソ。武士共上ラン跡ニ、義時ガ首ヲバ取テ進ラスル者有ンズルゾ」ト仰ケル。
●「汝歸參テ申サンズル樣ハナヨ」「ナヨ」はママ。私には解せない。これは「ナヲ」の誤りではなかろうか?]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 明治館 / 鵠沼の部~了

   ●明治館

明治村にあるを明治館と爲す。旅館なり。藤澤驛を距る十餘町株式の組織にして、宏大なる二層樓、今年七月新築落成開業式を行へり。

地勢高きに據れるを以て、眺望甚だ佳なり、一帶の川流(せんりう)迂曲して其前を過ぐ、川の前面は松林を隔てヽ稻田綠を湛へ、其盡る所又一帶の松樹(せいじゆ)を以て之を界し、海波其外に渺漠なり、大山の翠髻蜿々(えんえん)相連り、伊豆の大島は樓の正面に當り、遙かに指點すべく、江の島は稍(やや)東位(とうゐ)に在りて、松林海を蔽ひて見えず、故に恰も一山の觀なり、其間、近くしては農夫の籠を荷ふて林間を過るさま、遠くして、白帆の徃來するやう、眞に一幅の畫圖なり。

江の島鵠沼邊に遊ばヽ明治館にも一泊せよ、此樓の誇るべきものは涼風にして、欄干に恁(よ)れば颯々として衣を弄し、飄々として羽化せんとす。井水の淸冷(せいれい)にして飮用に適すれば、避暑療養二(ふたつ)なから宜きを得、其海岸を距(さ)ること七八町なるを以て、川流を利用し、之に小舟を浮べて、客を海水浴場に送る。

開館以來其日未だ淺ければ充分なる準備に至らず、今後の計畫は、前面に釣堀を鑿ち、後背に大弓場(だいきうば)を設け、四邊に梅櫻桃李を植え込み、大に面目を新たにし、自然私設公園地の趣を成すといふ

[やぶちゃん注:以下、本文一行字数を底本に合わせた。「藤澤停車場前」の部分は「ふじさわていしやばぜん」とルビがある。]

  因に、當明治館、並に鵠沼の東屋に投宿せんとする客の爲

  めに告ぐ、藤澤停車場前に、三笠亭と稱する茶店あり、乘

  客の荷物を預り、休憇所として夏は氷など商ふ店なるが、

  特約を結びて前記旅館の客と聞けば、親切に取扱ふといふ。

[やぶちゃん注:と強烈なタイアップ広告記事である。しかも東屋・明治館と三笠亭のタイアップも示されていてなかなか凄い。「親切に取扱ふ」とはどんなことをして呉れたんだろう?……つまらないことが気になる、私の悪い癖……

「明治館」不詳。不思議なことにネットを管見しても一向に見当たらない。直ぐに廃業してしまったものか? それでも「藤澤驛を距る十餘町」(ニキロ弱ととる)、「其海岸を距ること七八町」(七六四~八七三メートルほど)、しかも「地勢高きに據れるを以て、眺望甚だ佳な」る場所で、「一帶の川流迂曲して其前を過ぐ」という描写から、この旅館が引地川河畔に建っていることが分かる。この引地川の「川流を利用し、之に小舟を浮べて、客を海水浴場に送る」という海水浴場は現在の湘南海岸公園の引地川を挟んだ西側の鵠沼海水浴場と考えてよいだろう。但し、この後の関東大震災によって恐らくは地盤沈下が起っているし、その後の海岸線整備事業によって、この距離は現在はもっとあると考えてよい。ここに記された藤沢駅からの距離で見ると、せいぜい引地川の右岸だと現在の鵠沼河岸六丁目北附近、もしくは左岸の長久保公園・都市緑化植物園が限界である。そこで本誌を繰ってゆくと、「逗子」の部分のとんでもない箇所(当該誌二十頁と二十一頁の間)にこの明治館の山本茂三郎松谷描く「明治村明治館の圖」が挿入されていることに気づいた。この図を見ると、明らかに引地川の左岸のそれもかなり奥に建っていることが分かる(引地川の河口近くでの東へ大きく廻る蛇行部分がかなり向こうの海岸近くに描かれている)。館の右手にはかなり高い小山があり、その山頂には四阿が設えてあるところをみると、これも明治館の付属施設のように見受けられる。この小山が大きなポイントになるはずなのだが、現在、私が候補地としている周辺は宅地化が進んでおり、この山を発見出来ない。しかし、この絵図によって私はほぼ間違いなく引地川右岸の現在の辻堂太平台二丁目にある長久保公園及び都市緑化植園周が旧明治館の跡地なのではなろうかと踏んでいる(リンク先はグーグル・マップ。但し、ここから海岸線までは現在は1・8キロメートルもある。前掲の事情を考慮しても「其海岸を距ること七八町」という表現とは齟齬する。但し、絵を見ても海岸線までは、とても一キロ未満とは感じられないことからも、私はこの「七八町」は実は正確ではなのではないかと疑っている)。郷土史研究家の方の御教授を是非とも乞うものである。

「翠髻」「すゐけい」と読む。「髻」は「もとどり」で髪を頭上で束ねたもの。緑なす黒髪の謂いであるが、ここは大山の美しい緑を指す。

「恁(よ)れば」はママ。「恁」は音「イン」で思う、かくのごとく、の意で「よりかかる」の意はない。「凭」の誤字か誤植である。

「三笠亭」不詳。前の明治館とタイアップで、基、一緒に御教授下さると嬉しい。]

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 五 分裂 イソギンチャクの分裂/ノウサンゴ

Isogintyakubunnretu
[「いそぎんちやく」の分裂]


Nousanngo

[腦珊瑚]

 

 「いそぎんちやく」も分裂によつて蕃殖する。多くの種類では體は碾臼か茶筒の如き圓筒形であるから、上から見れば圓いのが常であるが、分裂せんとする時には、まづ楕円形になり、次に瓢簞の如き形になる。それより兩半は次第に相遠ざかり、瓢簞の縊れはだんだん細くなつて、終に體の下部から分れ始め、最後には僅に一本の細い絲で兩半が連絡して居るだけになり、更に後にはこの細い絲も切れて全く二疋に分かれてしまふ。これだけのことは「いそぎんちやく」を長く海水中に飼うておくと容易に見られる。珊瑚の類にも全くこれと同樣な分裂を行ふものが頗る多い。「菊目石」と名づけるものはその一例である。「いそぎんちやく」は各個體が相離れて獨立に生活して居るから、分裂は完全に行なわれ、始め一疋のものが後には必ず二疋になり終わるが、珊瑚類の如き群體を造る動物では分裂が往々不完全に行なわれ、一疋が二疋に分れ終るまでに至らず、途中で止まつて兩半が更に各々分裂を始めることがある。即ち瓢簞の縊れが細くならぬ間に兩半が更に瓢簞の形となり、その新しい縊れが細くならぬうちに四半分づつのものが更に各々瓢簞の形になり掛る。かやうに分裂し始めるだけで分裂し終らぬ生殖法が引き續いて行はれると、無論多數の身體の相繫がつた一群體が生ずるが、個體の間の縊れが不明瞭でどこにあるかわからぬやうな場合には、その群體の中に何疋の個體があるか算へることが出來ぬ。「腦珊瑚」と稱する珊瑚の一種はその一例で、群體であることは誰にも明に知れるが、個體の境がないから、一疋二疋と勘定することは出來ぬ。言葉を換へれば、この動物の身體は群體として存在するだけで個體には分れて居ない。一體、「腦珊瑚」といふ名は、その塊狀の骨骼の表面に個體の區劃が少しも見えず、恰も人間の腦髓の表面に見る如き彎曲した凸凹がある所から附けたのであるが、この珊瑚の海中に生きて居る所を見ると、石灰質の骨骼の外面には極めて柔い身體の薄い層があり、その表面には食物を食ふための若干の口と、食物を捕へるための多數の觸手とが、波形をなして竝んで居る。これを人間に比べていへば、百人分の身體をかためて一塊とし、これを百疊敷の座敷に薄く延ばして擴げ、百箇處に口を附け、二百本の腕を口の間に竝べ植ゑ附けた如くであらう。食物が流れ寄れば、最も近くにある腕でこれを捕へ、最も近くにある口の中に入れる。個體の境界などはあつてもなくても、食つて産んで死ぬるにはなんの差し支へもない。世人は常に個體に分れた動物のみを見慣れて居るために、個體に分れぬ動物のことには考へ及ぼさぬが、生物はすべて種族として食つて産んで死ぬのに都合のよい形を採るもので、個體に分れて居る方が食つて産んで死ぬに都合のよい種類では、個體が判然と分かれ、その必要のない種類では必ずしも個體に分れるには及ばぬ。人間は自分らが個體に分れているから、何事でも個體の區別を基として定めてあるが、これは餘り當然のことで却つて誰も氣が附かずに居る。しかし生物界にはこゝに述べたやうな個體の差別のない社會もあるから、哲學者などが物の理窟を考へるときに、戲れにでもこれをも參考して見ると面白からう。權利とか義務とかいふ個體間の喧しい關係はいふに及ばず、毎日用ゐる「君」とか「僕」とかいふ言葉までが、かやうな社會へ持つてゆけば全く意味を失つてしまふ。しかもいづれでも食つて産んで死ぬことは出來る。

[やぶちゃん注:『「いそぎんちやく」も分裂によつて蕃殖する』やや問題のある表現で、イソギンチャクの生殖が無性生殖で専ら分裂によるわけでは実はない。しかし、恐らく知らない人がここを読むと一見、単純な腔腸動物にしか見えないイソギンチャクは分裂でのみ増えるんだと思い込む。事実、小学二年生の私は学習漫画図鑑でイソギンチャクの分裂の絵を見てしまって以来、小学校高学年になるまでずっとそう思い込んでいたのだから間違いない。ところが寧ろ、イソギンチャク総体において概説する場合は、ウィキの「イソギンチャク」の「特徴」の記載のように、他の定在性の刺胞動物門の動物群の殆んどが『無性生殖によって数を増やし、多数が集まった群体を形成する場合が多い』のに対して、例外的に『イソギンチャク類は、すべてが単独生活であり、群体を作らない』。『無性生殖によって増殖するものもしばしば見られる』ものの、群体を作らず、分離した新生個体は足盤を活発に動かして寧ろ一定の距離を保ち、各個虫が明確なテリトリーさえ持つものもある。従って刺胞動物内では相対的に単体個虫は群体性刺胞動物よりも『大きなものが多』く、巨大種では口盤径が六〇センチメートル達するものもある。一般にはイソギンチャクは『雌雄異体であり、体外受精する』と説明する方が普通である。以下、有性生殖では『受精卵は孵化すると楕円形で繊毛を持ったプラヌラ幼生となり、これが定着して成長し、成体となる。中にはプラヌラ幼生を親の体内で育てるものもある。無性生殖を行うものも多く、分裂や出芽をするものが知られている』と無性生殖の分裂と出芽は稀とは言えないものの、最後に持ってくるのである(因みに花虫鋼六放サンゴ亜綱内腔(イソギンチャク)目イマイソギンチャク亜目足盤族内筋亜族ウメボシイソギンチャク科のコモチイソギンチャク Cnidopus japonicusのように有性生殖による受精卵を体腔内で育て、さらに生まれた幼体を体壁の外側に多数付着させるような種もあり、これらはかつて出芽と誤認されていたことも付け加えておかなくてはならない)。さて本題の分裂によって増えるものは、内筋亜族ハタゴイソギンチャク科サンゴイソギンチャク Entacmaea quadricolor と同ハタゴイソギンチャク科センジュイソギンチャク Heteractis magnifica がつとに知られ、丘先生のおっしゃるように飼育水槽の中でも容易に分裂する。イソギンチャクの分裂を撮った動画を幾つか見て見たが、nakamuy 氏の「イソギンチャクが分裂する連続写真」は別して美事で、丘先生の「最後には僅に一本の細い絲で兩半が連絡して居る」状態から分離するまでがしっかりと捉えられている。必見。

「菊目石」花虫綱六放サンゴ亜綱イシサンゴ目キクメイシ科Faviidae に属する珊瑚の総称若しくはキクメシイ属 Favia の仲間。個虫を側方に出芽しながら増やし、大きなものでは直径二~三メートルに達する塊状や球状の群体性のイシサンゴの仲間である。相模湾以南に分布し、黒潮沿岸の水深二~二〇メートルmに普通に産する。莢(きょう)は直径一〇ミリメートル前後で円形を成す(部分によっては多角形)。これを外から見た時、菊の花の模様に見えることから菊目石の名がついた。莢と莢との間には明瞭な溝があって近似種とは容易に区別出来る。莢内には薄い隔膜が多くあって、その中で十六から十八個が中央まで達しており、上縁には鋸歯状の歯がある(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。因みにカラフルで美しいグーグル画像検索「Faviaもリンクしておく。

「腦珊瑚」キクメイシ科ノウサンゴ属 Platygyra の仲間若しくはその代表種であるノウサンゴPlatygyra lamellina を指す。ノウサンゴ(英名:brain-coral)は駿河湾から南太平洋にかけて広く分布する造礁サンゴの重要な一種で、盤状または塊状の群体を形成し、大きなものでは直径一メートルを超えるものもある。潮通しのよい浅瀬のサンゴ礁域を好むが、北は北海道まで分布を広げてもいる。莢壁に囲まれた莢孔は長く畝って全体がヒトの大脳のような形状を呈する。隔壁は一センチメートルに十二~十八本ある。昼間はポリプを伸ばさず、緑色の莢孔内に隠れているが、夜になると活動を始めて半透明の触手を数センチ突出させる(以上は主に平凡社「世界大百科事典」に拠る)。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 43 もーす、帝都東京ノ火消トナル語(こと)

M295
図―295

 

 とうとう、私は、家を五、六十軒焼いた、かなり大きな火事を見る機会に遭遇した。晩の十時半、スミス教授――赤味を帯びた頭髪と頰髭とを持つ、巨人のようなスコットランド人――が、私の部屋に入って来て、市の南方に大火事があるが見に行き度くないかといった。勿論私は行き度い。そこで二人は出かけた。門の所で一台の人力車を見つけ、車夫を二人雇って勢よく出発した。火事は低い家の上に赤赤と見え、時々我々はその方に走って行く消防夫に会った。三十分ばかり車を走らせると、我々は急な丘の前へ來た。その向うに火事がある。我々は人力車を下り、急いで狭い小路をかけ上って、間もなく丘の上へ来ると、突然大火が、そのすべての華麗さを以て、我々の前に出現した。それ迄にも我々は、僅かな家財道具類の周囲に集った人々を見た。背中に子供を負った辛棒強い老婆、子供に背負われた頼りない幼児、男や女、それ等はすべて、まるで祭礼でもあるかのように微笑を顔に浮べている。この一夜を通じて私は、涙も、焦立ったような身振も見ず、また意地の悪い言葉は一言も聞かなかった。時に纏持(まといもち)の命があぶなくなるような場合には、高い叫び声をあげる者はあったが、悲歎や懸念の表情は見当らなかった。スミスと私とは生垣をぬけ、上等な庭を踏み、人の立退いた低い家々を走りぬけて、両側に家の立並んだ長い通へ出た。これ等の家の大部分は、燃えつつある。低い家屋の長い列の屋根は、英雄の如く働き、屋根瓦をめくり、軽い杮(こけら)板をシャベルで落し、骨組を引張ったり、切ったりしてバラバラにしている消防夫達で、文字通り覆われ、一方、屋の棟には若干の纏持が、ジリジリと焦げながら、火よりも彼等や消防夫に向ってよりし屢々投げられる水流によって、消滅をまぬかれて立っている。破壊的の仕事をやっている男が四人乗っていた広い張出縁が、突然道路に向って崩れ、彼等は燃えさかる木材や熱い瓦の上に音を立てて墜落したが、一人は燃えつつある建物の内部へ墜ちた。勿論私は、この男は助からぬと思ったが、勇敢な男達が飛び込んで彼を救い、間もなく彼はぐんなりした塊となって、私の横をかつがれて行った。死んだのかどうか、私は聞かなかった。この場所からスミスと私は別の地点へ急ぎ、ここで我々は手を貸した。一つの低い張出縁を引き倒すのに、消防夫達の努力が如何にもたわい無いので、私は辛棒しきれず、大きな棒を一本つかんで、上衣を破り、釘で手を引搔きながらも飛び込んで行った。私が我身を火にさらすや否や、一人の筒先き人が即座に彼の水流を私に向けたが、これはドロドロの泥水であった。私は私の限られた語彙から、出来るだけ丁寧な日本語で、彼に向ってやめて呉れと叫んだ所が、筒先きは微笑して、今度は水流をスミスに向けた。すると彼は、若し私が聞き違えたのでなければ、スコットランド語で咒罵した。だが我々の共同の努力によって、建物が倒れたのを見たのは、意に適した。かかる火事に際して見受ける勇気と、無駄に費す努力との量は、若く程である。勇気は十分の一で充分だから、もうすこし頭を使えば、遙に大きなことが仕遂げられるであろう。纏持が棟木にとまっている有様に至っては、この上もなく莫迦気(ばかげ)ている。彼等は勇敢な者達で、屢々彼等の危険な場所に長くいすぎて命を失う。この英雄的な行為によって、彼等は彼等の隊員を刺激し、勇敢な仕業(しわざ)をさせる。私はまた、彼等が立っていた建物が類焼をまぬかれると、彼等が代表する消防隊が金員の贈物を受けるのだということも聞いた。図295はこの火事のぞんざいな写生である。消防夫の多くは、この上もなく厚い綿入りの衣服を身につけ、帽子は重い屋根瓦から頸を保護する為に、布団に似ている。図296はかかる防頭品のいくつかを示している。火事で見受ける最も変なことの一つは、消防夫が火のついた提灯を持っていることである。

M296

図―296

 

[やぶちゃん注:当時の消防組織については、「日本消防協会」公式サイトの「消防の歴史」に以下のよう記されてある。

   《引用開始》

明治維新に伴い、定火消や大名火消は廃止になりましたが、町火消は東京府に移管され、明治5年(1872年)「消防組」に改組されました。消防事務は、東京府、司法省警保寮、東京警視庁などと所管が転々としましたが、明治14年(1881年)警察、消防の事務はいっさい東京警視庁に移管となり、これが明治時代の消防の基礎になりました。しかし、まだ全国的には公設の消防組は少なく、ほとんどが自治組織としての私設消防組であり、それも名前だけというのが多かったのが実情でした。そこで政府は、消防制度を全国的に整備して効率的な消防組織を育成するため、明治27年(1894年)勅令で「消防組規則」を制定し、消防組は知事の警察権に入り、費用は市町村の負担とされました。

   《引用終了》

ここで描かれるのも、そうした素人の「自治組織としての私設消防組」と考えられる。

「スミス教授」Robert Henry Smith(英文サイトでも生没年は調べ得なかった。滞日は明治七(一八七四)年から明治一一(一八七八)年であるらしい)は機械工学教授でモースの加賀屋敷内教師館五番館の三つ東にあった八番館に住んでいた。

「三十分ばかり車を走らせる」ネット上からの孫引きであるが(dotuitare56氏の「箱根じんりきとACC(芦ノ湖カヌーイスト倶楽部)なのだ!」の人力車の速度)斉藤俊彦「くるまたちの社会史」によれば、人力車は計画速度で8~10km/h、実際の運行速度で6~8km/hとあるから、平均値を7km/hとすると、三十分で達する距離は3・5キロメートルほどである。但し、単純に東大前から南下するとこの距離では皇居にぶつかるから、皇居の東または西側と考えられ、とすれば現在の日本橋の北辺りか、皇居の東北の靖国神社附近が想定される。「急な丘の前へ來た。その向うに火事がある」という描写がヒントであろうが、東京に詳しくないのでここまでである。何方か、この生き生きと活写された火事場を特定出来ないだろうか? よろしくお願い申し上げる。

「纏持(まといもち)」原文“the standard-bearers”。陸海軍の旗手や政党・運動などの首唱者・唱導者を指す語。

「咒罵」「じゅば」と読んでいよう。聞き慣れない語であるが、現代中国語でも立派に他者を軽蔑し、罵って責めることを言う。

「図296はかかる防頭品のいくつかを示している。」この部分の原文は“Figure 296 represents a few of these head protectors.” なお、図―296の下のモース自筆(恐るべき悪筆であることが分かる)のキャプションは、珍しく辛うじて判読出来、どうも“firemen’s huts”と書いてあるようである。江戸時代の町火消の盛装は印半天・腹掛。股引などであったが、火事場へはさらに刺子頭巾(猫頭巾:目の部分だけが開いているもの。)を被ったとウィキ火消」にはあるから、これらはその刺子頭巾の目の下の覆いを外したものででもあるのかも知れない。

「火事で見受ける最も変なことの一つは、消防夫が火のついた提灯を持っていることである。」この部分、原文は“One of the oddest things about a fire is that the firemen carry lighted lanterns!”と感嘆符が附いている。]

 

 火事が鎮った時、我々は加賀屋敷まで歩いて行くことにした。その上、広い水田をぬけて、近路をすることにした。我々には大約の方角はついていたのだが、間もなく、小路の間で迷って了った。我々は路を問う可き人を追越しもしなければ、行き合いもしなかった。この地域は完全に無人の境だったのである。暗くはあったが、星明りで、小路はおぼろ気に照らし出されていた。最後に向うから提灯が一つ近づいて来て、午前二時というのにどこかへ向う、小さな男の子と出会った。我々は彼に、屋敷への方向を尋ねたが、私は彼が落つき払って、恐れ気もなく、我々――二人とも髯(ひげ)をはやし、而も一人は大男である――の顔へ提灯を差し上げた態度を、決して忘れることが出来ない。静に方向を教えながら上へ向けた彼の顔には、恐怖の念はすこしも見えず、また離れた後にでも、我々を振り返って見たりはしなかった。

[やぶちゃん注:「大約」は老婆心乍ら、「たいやく」と読む。無論、おおよそであること、あらまし、大体の謂いである。このエンディングも素晴らしい。これらは一篇の美事な火事場小説である。]

耳嚢 巻之八 白川侯定信屋代弘賢贈答和歌の事

 白川侯定信屋代弘賢贈答和歌の事

 

 白川の養母身まかりし喪を、弘賢が母のうせし歎きにくらべて、歌詠(よみ)て公へ奉りしを、定信侯答歌(たふか)有(あり)と、弘賢が歌のはしに書(かき)し言の葉、定信の答の始末を寫して、弘賢見せけるをしるしぬ。

  春ながら野山の花をとひもせではゝその森に歎きこるらん

                           弘 賢

  したひにしこぞの柞の下露も今思しる春雨のそら 少將定 信

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、六つ前の「火爐の炭つぎ古實の事」の考証が実は屋代弘賢のそれと酷似していたこと、やはりそこで注した尊号事件が定信辞任の主因であったことと、さらにこの本文から根岸鎮衛が弘賢と懇意であったことも分かって、字背には強い人的な連関性があることが分かる。

・「白川侯定信」松平定信(宝暦八(一七五九)年~文政一二(一八二九)年)。以下、ウィキ松平定信」によれば、御三卿田安徳川家初代当主徳川宗武七男であったが、幼少期より聡明で、田安家を継いだ兄の治察が病弱で凡庸であったために一時期は田安家の後継者、いずれは第十代将軍徳川家治の後継と目されていたとされる。しかし、田沼意次の政策を賄賂政治として批判していたために存在を疎まれ、意次の権勢を恐れた一橋徳川家当主治済により安永三(一七七四)年に久松松平家庶流陸奥白河藩第二代藩主松平定邦の養子とされた。天明の大飢饉の最中である天明三(一七八三)年に藩主に就いたが、実際には『それ以前から養父・定邦に代わって藩政を代行していたと言われている。定信は天明の大飢饉で苦しむ領民を救うため、自らが率先して倹約に努め、さらに領民に対する食料救済措置を迅速に行なったため、白河藩内で天明の大飢饉による餓死者は出なかったと言われている。特に東北地方における被害が大きかった天明の大飢饉で、これは異例のことと言ってもよい。これは、近隣の会津藩の江戸廻米を買い取る、西国より食糧を買い入れるなど迅速な対応によるものだった』という。これによってその手腕を認められ、天明六(一七八六)年に家治が死去し第十一代将軍家斉の代となって田沼意次が失脚すると、その翌年、徳川御三家の推挙を受けて、少年の家斉の下で老中首座・将軍輔佐となり、『天明の打ちこわしを期に幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した』。寛政五(一七九三)年七月二十三日、三十四歳で将軍輔佐及び老中等御役御免となったが、この辞任は尊号一件が主因であったとされる。その後は白河藩の藩政に専念した。享年七十二歳であった。

・「屋代弘賢」(やしろひろかた 宝暦八(一七五八)年~天保一二(一八四一)年)は国学者。江戸生まれの幕臣。国学を塙保己一に、儒学を山本北山(ほくざん)に学び、柴野栗山(りつざん)の「国鑑(くにかがみ)」や塙の「群書類従」の編集を輔けた。天明二(一七八二年)年に幕府の表右筆として出仕、天明六年には本丸附書役、寛政五(一七九三)年、奥右筆所詰支配勘定格となった。文化元(一八〇四)年には勘定格として御目見以上に昇進した。翌文化二年にはロシアに対する幕府の返書を清書している。幕府右筆として「寛政重修諸家譜」「古今要覧稿」などの編集に従事している。蔵書家で、上野不忍池池畔に不忍文庫をたてた。享年八十四歳(以上は講談社「日本人名大辞典」及びウィキ屋代弘賢に拠った)。

・「養母」宝蓮院(あるいは法蓮院)通子(享保六(一七二一)年~天明六(一七八六)年)。近衛家久娘で田安徳川家初代当主徳川宗武正室。名は初め知姫、その後森姫、通姫と改めた。享保一八(一七三三)年、江戸城二の丸に入り、享保二〇(一七三五)年に宗武と婚姻。宗武との間には七人の子女を儲けた。明和八(一七七一)年の宗武の死後に落飾、天明六年一月十二日に六十五歳で死去、寛永寺凌雲院に葬られた(以上はウィキ宝蓮院に拠る)。天明六年当時、松平定信は満二十七歳で幕政への抜擢の直前、屋代弘賢は既に本丸附書役で満二十八歳であった。

・「春ながら野山の花をとひもせではゝその森に歎きこるらん」「とひ」は「訪ひ」、「はゝその森」は柞の木の森。柞はブナ目ブナ科コナラ Quercus serrate のこと。ホウソとも呼ぶ。但し、ここはこれで山城国相楽(さがら/そうら)郡(現在の京都府相楽郡精華町祝園(ほうその))にある紅葉の名所を指す固有名詞で、母の意に掛けて用いる歌枕である。「歎きこるらん」は「歎き」の「き」に「木」を掛詞として、「きこる」(木樵る)、その木を伐るようだよ、という悲傷の絶唱である。

・「したひにしこぞの柞の下露も今思しる春雨のそら」「こぞ」は「去年」。岩波の長谷川氏注に、去年の『秋の柞の下においた露は今春の雨の前兆。母の死に今春涙した』と解を記されておられる。

・「少將」定信は老中等を辞任した際、左近衛権少将に叙されている。ということはこの「始末を寫し」たとする贈答歌の書き物は、寛政五(一七九三)年七月二十三日の辞任後の書であることが分かり、「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、そこから遡る十五年前までの何時かに限定出来る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 白川侯松平定信公と屋代弘賢殿の贈答の和歌の事

 

 白川侯の養母であらせられた宝蓮院様が天明六年の年に身罷られたその喪(も)に、屋代弘賢殿、自身の母の亡くなられた折りの歎きに公の心痛を引き比べて、歌を詠んで公へ奉ったところ、定信侯より答歌(とうか)が、これ、御座った。それにつき、弘賢殿が歌として詠み記したその詞(ことば)と、それに対し、定信公がお答えになった歌をともに合わせて書写なされたものを、弘賢殿が見せて下された。以下にそれを記しおくことと致す。

 

  春ながら野山の花をとひもせではゝその森に歎きこるらん

                            弘 賢

 

  したひにしこぞの柞の下露も今思しる春雨のそら 少將 定 信

中島敦 南洋日記 十一月二十八日

        十一月二十八日(金) 晴

 午前中公學校。偶々京大の中山腎醫學博士とかの島民兒童智能檢査に立合ふ。中々面白し。パラオのカナカの方、遙かに此の地の者より優れたる由。校長及訓導の酷烈なる生徒取扱に驚く。オウクニヌシノミコトの發音をよくせざる生徒數名、何時迄も立たされて練習しつゝあり。桃色のシャツを着け、短き笞を手にせる小さき少年(級長なるべし)こましやくれた顏付にて彼等を叱りつゝあり。一般に生徒級長は授業中も室内を歩き廻り、怠けをる生徒を苔うつべく命ぜられをるものの如し。帽子を脱ぐにも一、二、と號令を掛けしむるは、如何なる趣味にや。

 夜、又、月を仰ぎつゝ、チャムロ家屋多き海岸通を歩く。白き道、微風、印度素馨、臥牛の傍らに、犬よりも大なりと見しは山羊なりけり。

[やぶちゃん注:威圧的な皇民化政策が垣間見られ、それへの敦の批判的な視線が如実に伝わってくる。

「印度素馨」リンドウ目キョウチクトウ科インドソケイ連インドソケイ Plumeria rubra。落葉樹で属名からプルメリアとも呼ばれる。原産地は中米であるが、亜熱帯・熱帯で広く栽培されている。樹高・樹幅ともに七~八メートルほどになり、白い芳香のある花をつける。多肉質の茎・太く短い枝を持ち、樹皮は灰色で枝はやや脆く、折れた断面からは皮膚を刺激する白い樹液が滲み出す。葉は長さ三十~五十センチメートルに達し、枝の先端に互生して冬には落葉する。花は夏から秋にかけて咲き、頂生する。花弁は五枚で白、中心はピンクから黄色に染まる。非常に強い芳香がある。蕾は螺旋状で、花の直径は 五~七・五センチメートル。Plumeria obtusa との交雑種も栽培され(葉が丸みを帯び、落葉性が低い)、ハワイでは花の中心が黄色い栽培品種“Singapore”が通年栽培され、お馴染みのレイとして用いられる(以上はウィキインドソケイに拠った)。]

橋本多佳子句集「海燕」 昭和十年  上海

 上海

 

[やぶちゃん注:昭和一〇(一九三五)年五月、多佳子は夫豊次郎とともに上海・杭州方面を旅行している。第一次上海事変(昭和七(一九三二)年)から三年後で抗日運動が激しい高まりを見せていた頃で、底本の堀内薫氏に年譜によれば、多佳子は『身の危険を感じ』たとある。]

 

  四川路

 

激戰のあと夏草のすでに生ひぬ

 

旅を來し激戰のあと燕とび

 

草靑く戰趾に階が殘りたる

 

[やぶちゃん注:三句ともに第一次上海事変の爪痕を描く。第一次上海事変は昭和七(一九三二)年一月~三月に上海共同租界周辺で起こった日中両軍の武力衝突。以下、平凡社「世界大百科事典」及びウィキの「第一次上海事変」の記載に拠って見る(『 』の直接引用部分はウィキのもの)。当時の上海市には英、米、日、伊などの国際共同租界及びフランス租界からなる上海租界が置かれており、日本は北四川路及び虹江方面に約二万七千の在住民を有していたため、居留民警護の名目で海軍陸戦隊千人を駐留させていた(この頃の共同租界の防衛委員会は義勇軍・市参事会会長・警視総監の他に、英・米・日・仏・伊各軍司令官によって構成されていた)。一九三一(昭和九)年九月十八日の柳条湖事件を契機に満州を舞台として日華両軍は一触即発の状態にあったが、その直後から上海では激しい抗日運動が展開されていた。上海公使館付陸軍武官補佐官田中隆吉少佐らはこれを制圧するとともに満州国樹立工作から列国の目を逸らさせるための謀略として、翌一九三二年一月十八日買収した中国人に日本人托鉢僧を襲撃殺傷させ、日中間の対立を一挙に激化させた。村井倉松上海総領事は呉鉄城上海市長に対して事件について陳謝・加害者処罰・抗日団体解散などを要求、第一遣外艦隊の武力を背景として、同月二七日に最後通牒を発した。翌二十八日午後に最初の軍事衝突が発生、『翌日にかけての夜間に戦闘が続いた。その詳細は、「北四川路両側の我警備区域の部署に著かむとする際、突然側面より支那兵の射撃を受け、忽ち90余名の死傷者を出すに到れり。依て直に土嚢鉄条網を以て之に対する防御工事を施せり。元来此等の陸戦隊を配備したるは、学生、労働者等、暴民の闖入を防止するが目的にして、警察官援助に過ぎざりき。然るに、翌朝に至り前夜我兵を攻撃したるは、支那の正規兵にして広東の19路軍なること判明せり。」』(枢密院「上海事件ニ関スル報告会議筆記」大角海軍大臣発言)。『日本側資料によると、日本側からの先制攻撃ではなかったこと』が強調され、『「今回の上海事変は反政府の広東派及び共産党等が第十九路軍を使嗾して惹起せしめたるもの』で『斯の如く支那特有の内争に基き現政府に服して居らぬ無節制な特種の軍隊が軍紀厳粛なる帝国陸戦隊に対し、国際都市たる上海に於て挑戦し租界の安寧を脅かして居ることは、実に世界の公敵と云ふべきであって、我は決して支那国を敵として戦って居るものではなく、此第十九路軍のやうな公敵に対して自衛手段を採って居るに過ぎないと云ふべきである』(日本海軍省「上海事変と帝国海軍の行動」昭和七(一九三二)年二月二十二日)と専ら正当性を訴えている。この軍事衝突発生を受けて日本海軍は第三艦隊の巡洋艦四隻・駆逐艦四隻・航空母艦二隻及び陸戦隊約七千人を上海に派遣(一月三十一日現着)、犬養内閣はさらに二月の二個師団の派遣を決定、これに対し、国民党軍は二月十六日に上海の作戦に参入した。二月十八日、日本側は更なる軍事衝突を避けるため、列国租界から中国側へ十九路軍が二十キロメートル撤退すべきことを要求したが、これを十九路軍軍長蔡廷鍇(さいていかい)が拒絶、同二十日を以って日本軍は総攻撃を開始した。日華両軍の戦闘は激烈を極めた(混成第二十四旅団の工兵らの所謂、「肉弾三勇士」が知られる)。二十四日に日本陸軍二個師団からなる上海派遣軍が進発し、三月一日にその内の第十一師団が国民党軍の背後に上陸、十九路軍は退却を開始、日本軍は三月三日を以って戦闘の中止を宣言している。日本側の戦死者は七百六十九名、負傷二千三百二十二名。中国軍の損害は一万四千三百二十六人。三十六日間の戦闘によって上海全市は凡そ十五億六千元の損害を被ったとされる。中国側住民の死者は六千八十名、負傷二千名、行方不明一万四百名と発表された。戦後日・中及び英・米・仏・伊四ヶ国による停戦交渉が上海で開始されたが、上海を始めとする中国での列国の利権が脅かされたため、英米列強の反応は満州事変に比べ、遙かに強硬であった。五月五日、日本軍の撤退及び中国軍の駐兵制限区域(浦東・蘇州河南岸)を定めた停戦協定が成立したが、この停戦交渉中の四月二十九日、上海日本人街の虹口公園で行われた天長節祝賀式典に際し、朝鮮人尹奉吉(ユン ポンギル)が爆弾を爆発させて白川義則大将・河端貞次上海日本人居留民団行政委員長が死亡、野村吉三郎中将・植田謙吉中将・村井倉松総領事・重光葵公使らが重傷を負った上海天長節爆弾事件が起こっている。停戦協定により、上海租界を含む外国人居住地域の北・西・南へ十五マイルを非武装地帯となった。その後、一九三七(昭和一二)年には大山勇夫海軍中尉殺害事件が起き、『それに続く中国政府軍による上海攻撃で日中両軍は全面戦争に突入する第二次上海事変が勃発することとなる』。]

 

  佛闌西租界

 

春曉の路面かつかつと馬車ゆかす

 

春曉の街燈ちかく車上に過ぎ

 

幌の馬車春曉の街の角に獲し

 

[やぶちゃん注:「獲し」は「えし」と読ませるのであろう。]

 

春曉の外套黑き夫と車上

 

春曉のひかり背がまろき馭者とゆけり

 

春曉の靄に燐寸の火をもやす

草の神經 萩原朔太郎

 

 草の神經

 

ぴんととがつた草の尖端へ

かすかに、かすかにしらみかけ

ふるへるちつぽけな毛蟲の毛

くさはもろむき

いつさい天日をさしてのびあがり

瞳はそのてつぺんに光るなり

くさのしんけいはまつしろい毛蟲の毛

いともささやかにかすめるものを

かすれたきずのいたましさ、おそろしさ。 

 

[やぶちゃん注:底本全集第三巻「未發表詩篇」より。太字「きず」は底本では傍点「﹅」。]

夏衣 萩原朔太郎 短歌八首 明治三七(一九〇四)年六月

   夏衣

 

御送りの燭灯(ともし)百千は櫻(さくら)とて天童かざす別とあらば。

 

[やぶちゃん注:ブログでは単独既出であるが再掲する。本首、精霊流しの情景かと思われるが私は歌意が汲めない。識者の御教授を乞うものである。]

 

昔見し花ちる里の古き井にありける影や幼な君われ。

 

古山の木樵男が瘤とりし鬼なつかしや舞はむともども。

 

[やぶちゃん注:「ともども」の後半は踊り字「〱」。本歌は、

 

ふる山のきこりをとこが瘤とりし鬼なつかしや舞はむともども

 

の表記で前月の『明星』辰年第六号(明治三七(一九〇四)年六月発行)に発表済み。]

 

音なしう涙おさへてあればとて春の光はくれであらめや。

 

スラブみなしはかれ聲に御軍の吾たたゑなむ日をも待つべし。

 

[やぶちゃん注:ブログでは単独既出であるが再掲する。「しはかれ」「たゝゑなむ」はママ。底本改訂本文では、

スラブみなしはがれ聲に御軍の吾たたへなむ日をも待つべし。

と『訂正』されてある。

 「スラブ」はスラヴ民族の連帯と統一を目指す汎スラヴ主義の思想者を指すか。「吾」とはそうした戦闘的汎スラヴ主義を唱える闘士を漠然と指すか。これは何か汎スラヴ主義運動のニュース報道や映像その他に触発された、朔太郎自らを汎スラヴ主義者に仮想したところの空想の一首か。今一つ、歌意を汲めない。識者の御教授を乞う。]

 

今ぞ世は驚かれぬるパン神の領かたまたま堪へぬ寂寞(しゞま)に。

 

[やぶちゃん注:ブログでは単独既出であるが再掲する。「たまたま」の後半は踊り字「〱」。

 詩人の歎きというか、猥雑なる外界との断絶感は分かるが、私が馬鹿なのか、今一つ、「パン神の領か」が指弾している対象の核心が今一つ見えてこない。どなたか、是非、御教授を願いたい。]

 

小羊の頸ふる鈴の優し音に似しともきゝし野行く春風。

 

人の歌は誦さむに寒ういたいたし。つめたければや胸たりるなし。

 

[やぶちゃん注:「いたいたし」の後半の「いた」は踊り字「〱」。

以上八首は『坂東太郎』第三十九号(明治三七(一九〇四)年七月発行)に掲載された。萩原朔太郎満十七歳。]

今ぞ世は驚かれぬるパン神の領かたまたま堪へぬ寂寞(しゞま)に。 萩原朔太郎

今ぞ世は驚かれぬるパン神の領かたまたま堪へぬ寂寞(しゞま)に。
[やぶちゃん注:『坂東太郎』第三十九号(明治三七(一九〇四)年七月発行)に掲載された「夏衣」の前書を持つ八首の第六首。萩原朔太郎満十七歳。「たまたま」の後半は踊り字「〱」。
 詩人の歎きというか、猥雑なる外界との断絶感は分かるが、私が馬鹿なのか、今一つ、「パン神の領か」が指弾している対象の核心が今一つ見えてこない。どなたか、是非、御教授を願いたい。]

スラブみなしはかれ聲に御軍の吾たたゑなむ日をも待つべし。  萩原朔太郎

スラブみなしはかれ聲に御軍の吾たたゑなむ日をも待つべし。
[やぶちゃん注:『坂東太郎』第三十九号(明治三七(一九〇四)年七月発行)に掲載された「夏衣」の前書を持つ八首の第五首。萩原朔太郎満十七歳。「しはかれ」「たゝゑなむ」はママ。底本改訂本文では、
スラブみなしはがれ聲に御軍の吾たたへなむ日をも待つべし。
と『訂正』されてある。
 「スラブ」はスラヴ民族の連帯と統一を目指す汎スラヴ主義の思想者を指すか。「吾」とはそうした戦闘的汎スラヴ主義を唱える闘士を漠然と指すか。これは何か汎スラヴ主義運動のニュース報道や映像その他に触発された、朔太郎自らを汎スラヴ主義者に仮想したところの空想の一首か。今一つ、歌意を汲めない。識者の御教授を乞う。]

御送りの燭灯(ともし)百千は櫻(さくら)とて天童かざす別とあらば。  萩原朔太郎

 

御送りの燭灯(ともし)百千は櫻(さくら)とて天童かざす別とあらば。
 
[やぶちゃん注:『坂東太郎』第三十九号(明治三七(一九〇四)年七月発行)に掲載された「夏衣」の前書を持つ八首の巻頭歌。萩原朔太郎満十七歳。
 本首、精霊流しの情景かと思われるが私は歌意が汲めない。識者の御教授を乞うものである。]

おもひで  八木重吉

おもひでは 琥珀(オパール)の

 

ましづかに きれいなゆめ

 

さんらんとふる 嗟嘆(さたん)でさえ

 

金色(きん)の 葉の おごそかに

 

ああ、こころ うれしい 煉獄の かげ

 

 

人の子は たゆたひながら

 

うらぶれながら

 

もだゆる日 もだゆるについで

 

きわまりしらぬ ケーオスのしじまへ

 

郭寥と 彫られて 燃え

 

焰々と たちのぼる したしい風景

 

[やぶちゃん注:「嗟嘆でさえ」「きわまりしらぬ」はママ。

「ケーオス」“khaos”。カオス。混沌。

「郭寥」は「くわくれう(かくりょう)」と読む。広々として寂しいさま。また、もの寂しいさま。普通「廓寥」と書くが、「郭」は広いの意があるから、漢字の意味としてはこれでも通じる。]

鬼城句集 冬之部 風呂吹

風呂吹   風呂吹や朱唇いつまでも衰へず

2014/01/09

中島敦 南洋日記 十一月二十七日

        十一月二十七日(木) 晴

 午前九時公學校に到り小山田校長と語り、授業を見る。凡て此の學校の軍隊式、形式的訓練の徹底は驚くばかりなり。その可否は未だ言ふべからず。

 夜、月すでに明るし。月明に乘じ白き路を辿り行くに、街に出づ。琉球史劇、北山風雲錄なる看板に惹かれて彩帆劇場に入る。開演前に沖繩舞踊數種あり。何處やらに單調な蛇皮線の音す。「戻り駕籠」歌舞伎なる所作事面白し。北山風雲錄の劇中、聞きとれしは、數語に過ぎず。「タシカニ」この語、最も多く聞かれたり。「昔カラコノカタ」「ヤマミチ」その他。

[やぶちゃん注:「北山風雲錄」不詳。現在、昭和二一(一九四六)年の「北山」をもとにした作品「現代版組踊 北山の風 今帰仁城風雲録」というがあるが、同作のパンフを見ると、琉球北山(ほくさん)『王朝最後の王「攀安知」と、「北山の山狗」と揶揄された副将「本部太原」の確執、そして王の遺児「千代松」による仇討を描いた、もう一つの北山落城の物語』とある。「本部太原」は沖縄方言で「もとぶてーはら」と読む。この同時代を描いたウルトラの脚本家金城哲夫の沖縄芝居「虎! 北へ走る」などの脚本は読んだことがあるが、戦前の琉球史劇についてはよく分からない。識者の御教授を乞うものである。それにしても当時、沖繩から有意に多くの人々が南洋に移住していたことが分かる(そうでなければ沖縄繩方言による沖繩芝居を平常的に興行することは考えられない)貴重なシークエンスである。そういえば、ここまでの日記中にも南洋での沖繩の人々が有意に記されていた。

「戻り駕籠」琉球舞踊の大家玉城盛義の作詞及び振付になる短編舞踏喜歌劇。関洋氏の「たるーの島唄まじめな研究」でその詳細な歌詞が読める(これは必見!)。関氏によれば、『元は大和の歌舞伎舞踊というジャンルでは有名な『戻駕籠色相肩』(もどりかご いろにあいかた)』に基づくとあり(さればこそ敦が一度「歌舞伎」と書いたのにはそれなりの意味があったのである)、『それゆえ大和言葉、表現が多い』。『駕籠に乗せた女性の客をめぐり、それを担ぐ男の滑稽で、かつリアルな葛藤、そして対立が笑える』。『けれども結末は二人の思いとは正反対に』。(以下、ネタバレにならぬように省略)。関氏は、『男たちの欲望は、リアルであり、見るものをひきつけ』、『世間というものを二人の駕籠かきに凝縮』させており、『沖縄では今でも、どこかでこの芝居が演じられている』とあって、沖繩の舞踏では人気の演目であるらしい。動画で何本かがアップされているが、私は敢えて駕籠搔き二人を美しい女優が演じた masamithu iha 氏の「戻り駕籠(短編舞踊喜歌劇)・仲程沙耶花、崎濱美智枝」をリンクさせておく。お楽しみあれ。

 同日附の書簡は三通が残る一通は中島たか宛のもの(旧全集「書簡Ⅰ」番号一四五)。他の二通は知人男性への葉書(同一四三と一四四)。以下に示す。

   *

〇十一月二十七日附(サイパン郵便局一六・一一・二七。パラオ南洋庁地方課。東京市淀橋区上落合二ノ五四一 田中西二郎宛。葉書。)

二月餘り方々を廻つて來て、今、サイパンにゐます、ここは餘りに内地化してゐるので面白くありません、ヤルートに行つた時、「風と共に散りぬ」の譯者を案内してマーシャルの島々を歩いたといふ役人に會ひました、僕が、大久保氏の南洋のことを書いた小説を讀んだといつたら、しきりに讀みたがるので、何時か御惠贈に預かつた「妙齡」の中二册を送るつてやることにしました、

 パラオは暑いが、ここは風があつて、大變凌ぎよい所です

   *

以上は十月一日の日記と注に引いた、たか宛書簡及びその私の注をまず参照されたい。なお、田中西二郎については既にそこに名が出ていたが、注をし忘れていたのでここで以下に注する。田中西二郎(明治四〇(一九〇七)年~昭和五四(一九七九)年)は英米文学者。東京生。東京商科大学(現在の一橋大学)卒。中央公論社や日本文芸家協会などに勤務する傍ら、メルビルの「白鯨」を本邦で初めて完訳した。「愛の終り」をはじめとするグレアム=グリーンの殆んどの作品を翻訳したことで知られる(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

   *

〇十一月二十七日附(パラオ南洋庁地方課。横浜市中区竹ノ丸一〇 山口比男宛。葉書。)

 風のたよりによれば、御慶事があつたものの如くですね、御本人からしらせを貰はないのにお目出度うといふのもヘンだが、こちらは旅烏(九月以來ずつと、歩き廻つてゐます、目下サイパンに在り)で、いい加減に見當をつけて挨拶するほかは無い、とりあへず、鳳凰木(サイパンには、もう椰子がない)の蔭から遙かに敬意を表しておきます、トラックには一月ゐて島々を廻りました、飛行機の上から見る珊瑚礁の色は非常にキレイなものですよ。

   *

太字は底本では傍点「ヽ」。山口比男は横浜高等女学校時代の同僚。「鳳凰木」はマメ目マメ科ジャケツイバラ亜科ホウオウボク Delonix regia。原産はマダガスカル島で、主に熱帯地方で街路樹として植えられる。日本では沖縄県でよく見られ、台湾でも一八九六年に種子が入れられて台南市や廈門市では市樹となっている。樹高は十~十五メートルで樹冠が傘状に広がり、葉は細かい羽状複葉。直径十センチメートルほどの五弁で緋紅色の蝶形をした花が総状花序で咲く(以上はウィキの「ホウオウボク」に拠る。グーグル画像検索「Delonix regiaをリンクさせておく。その開花した樹の全体像の鮮やかさには私は正直、オーストラリアの修学旅行引率で見た素敵な jacaranda――シソ目ノウゼンカズラ科キリモドキ属ジャカランダ(和名キリモドキ)Jacaranda mimosifolia ――の印象と同じ位に度胆を抜かれた。必見! 序でにグーグル画像検索「Jacaranda mimosifoliaもどうぞ!)因みに「サイパンには、もう椰子がない」というのは、南洋=ヤシという短絡的神経しか持っていなかった私にはガツンときた。

   *

〇十一月二十七日附 サイパン郵便局一六・一一・二七。南洋群島パラオ南洋庁地方課。東京市世田谷区世田谷一丁目百二十四番地 中島たか宛。封書。)

 十一月二十五日。おひるにやつとサイパン入港。公學校の校長さんの出迎を受けて上陸。涼しいのに驚いた。土地の人に聞くと、ここでは七月が一番暑く(僕がはじめて、構濱から來た時上陸して、暑いのにびつくりしたのは、七月だ)十二月、一月、二月は、大變涼しいんださうだ。パラオから見て大分北に寄つてるから、日本あたりの冬と多少似た氣候になるのかも知れないね。夜なんか、涼し過ぎる位。この所、大分雨が降らないと見え、水不足で弱ってゐる。とうとう今日は風呂へはいらない。内地では、(殊に冬なんか)僕は風呂へはいらないことのは平氣だつたが、熱帶で風呂の無いことは、たまらないものだよ。ここの宿舍はね、支廳のクラブの宿泊(シユクハク)所でね、四十疊(でふ)位の部屋にずつと、ウスベリを敷いてあるだけの、殺風景(サツプウケイ)な所さ。そこに同宿者が二組あり、それが兩方とも赤ん坊を連れた夫婦者だから、閉口した。夜、本を讀むことも何も出來ないんだ。それに、あてがはれた蚊帳が、恐ろしく小さいんだよ。二疊づりつていふのかな。敷ブトンの大きさと丁度同じなんだ。犬小舍(ゴヤ)みたいで、をかしくてしやうがない。四十疊の部屋に二疊づりの犬小舍みたいな蚊帳をつつて、そこへ、もぐり込んでる委を想像してくれ。それにね、小さな蚊帳のくせに、穴(あな)だけは大きなのがあいてるんだよ。しかし四十疊の部屋は、喘息にはたしかに良いね。廣いから、イキグルしくない。食事がね、これが又、大變さ。近くの食堂へ行くんだが、こんなひどい米をたベたことがない。全部ボロボロの外米。少しの日本米もまじらない純外米。オドロイタネエ、コレニハ。サイパンはパラオと違つて、一週二囘肉の配給があるんださうだが、この米はひどい。しかたがないから、御飯はよくかんで、一杯ほどたべ、あとは、バナナとサツマ芋でおぎなひをつけることにした。バナナとサツマイモだけは豐富だ。バナナはパラオの半分位のネダン。喫茶(キツサ)店へ行つて、一皿(六七本位)十錢でたべられる。近くにヤキイモ屋もある。フカシイモなら百匁九錢、ヤキイモなら十五錢で、之もいくらでも喰へる。まづサイパンが南洋で一番、食物は豐かなんだらう。しかし、あのボロボロ米にはびつくりした。

 船の都合で豫定が變り、十二月十八・九日頃迄サイパンに逗留(トウリウ)することになるだらう。パラオに歸るのは豫定どほり。從つて、ヤップ滯在がひどく短くなるだらう。面白くないが、仕方がない。十二月十日の水曜迄に出してくれたら(飛行便)(サイバパン支廳氣付)、サイパンでお前の手紙が受取れよう。しかし、無理に書けといふんではない。

年末迄にとどくやうに地方課宛に出した方が、たしかだ。横濱から持つて來たあのチックの匂をかぐと、たかの髮の匂がするね。お乳の匂をかぐと格の髮の匂がするんだが、この頃ずつと牛乳にありつけないから、駄目だ。

 十一月二十六日。

 六月の終に、はじめてサイパン丸で南洋へ來る時、同じ船室に、ふとつた坊さんがゐて、坊さんのくせに、音樂が好きで歌ばかりうたつてゐたんだが、そのことを、手紙に書かなかつたかな。所で、その坊さんは、船が、サイパンに着くと、今迄浮かれて歌なんぞ歌つてゐたのが急にマヂメな顏になり、赤い旗をもつて埠頭まで出迎へに來た日蓮宗の信者達を從へて、堂々と上陸して行つたんだ。その時以來、五ケ月近く會はないので、今日、その坊さんを訪(たづ)ねて行つたよ。ら、大變よろこんでくれた。丁度風呂から出た所で、二十一貫の裸のまゝで、話をしたが、愉快な坊さんさ。二三日後の船で東京へ行つて、正月頃又南洋へ來るなんぞ、と言つてゐた。

 サイパンとパラオとは全く氣候が違ふ。サイパンは、水のとぼしいのだけは困るが、夜などムシムシすることがなくて良い。夜、床の中で汗もかかない。パラオでは毎晩ビツシヨリだ。

 十一月二十七日。今日から、ここの公學校通ひ。東の方の島々と違つてこの邊(ヘン

の子供(島民)は、日本語が達者だ。それだけ生(ナマ)意氣かも知れない。

 イモとバナナばかりたべてるので、オナラが出て、しやうがない。

 涼しいが、少し風が強すぎる。

 明日多分パラオ丸が東から來て、横濱へ向つて出て行くので、桓あてに小さな小包を送る。オモチヤの方は、九月頃横濱の生徒(金子)がパラオに送つてくれたものだが、オレが持つてても仕方が無いから桓にやる。マーシャル(ヤルート)土人の編んだバンドは、色が幼稚だから、格のにでもするより外ないだらう、これも貰ひものだ。金具をつければ(穴(アナ)をあけるバンドにしちや駄目だよ。和夫君のハンドみたいにすれば良い)バンドになる。

 今日はこれだけ。

   *

「百匁」三百七十五グラム。

「六月の終に、はじめてサイパン丸で南洋にへ來る時、同じ船室に、ふとつた坊さんがゐて……」十一月二十六日の日記と私の注を参照のこと。

「横濱の生徒(金子)」昭和一六(一九四一)年の手帳の住所録の中に『金子以く子 中區新山下町一の一』とあるのが彼女か。時に……この子が南洋の敦にわざわざ送った「オモチヤ」とはどんなものだったんだろう? わざわざ桓宛に送るほどのもの……南洋まで送られ、過酷な熱帯で二ケ月を過ごし、しかもまたしても南洋から日本へと帰国するというオモチャ……これ、当時としてはとんでもない距離を行ったり来たりしても壊れることがない頑丈なものではあった訳だ……何?……妙なことが気になるのが、私の悪い癖……。

「穴をあけるバンドにしちや駄目だよ。和夫君のハンドみたいにすれば良い」というのはフリー・スライド・バックル式のことか? ああいったものが当時普通にあったというのは意外(私は実に二十になるぐらいまで、ああした穴なしのバンドをしたことがなかったから)。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 八松原

    ●八松原

八松原は。鵠沼より西舊辻堂村の海濱に在る砂原をいふ。もと砥上原の内なり。八株の老松あるに因り名くといふ。又八的にも作れり。古書に其の證あり。今何れか是なりかを知らず。舊幕府の時は。砲術場(ほふじゆつば)に充てられしが。今日の遺風ありて。大砲の試験場(しけんば)に供せられ。時々轟然の聲耳を驚かし。漠々の煙海風に颺揚せるを見る。風土記に據りて歴史を擧れは左のことし

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

砥上原〔附八松原〕 地理を案するに。郡の東南海濱の地。今の鵠沼村より茅ヶ崎村に至る。迄の間。當時一圓の曠原。凡東西二里餘。南北六町程の地なりしなるべけれど。後世村落をなし。田地を開きたれば。昔の形狀知るべからす。今の砲術場は其遺名なり。鎌倉將軍義兵を擧げし初。和田小太郎義盛八松原を押通(おしとほ)りし事あり。

[やぶちゃん注:以下、一字下げの部分は再現し、一行字数を底本に合わせた。但し、ブログでは読みを入れたため、下がさがっている箇所がある。]

 源平盛衰記曰。治承四年八月二十五日。和田義盛三百餘騎

 にて。鎌倉通に腰越、稻村八松原大磯 小磯打過きて酒匂

 の宿に着けり。

 又木曾追討佐々木四郎高綱。砥上八松等の原を馳過(はせすぎ)し事も

 あり。又(また)曰佐々木四郎高綱。片瀨川、砥上原、八松原馳過

 て相模川を打渡。

内大臣宗盛捕れて鎌倉に入る時の記にも見ゆ。

 平家物語曰。小磯大磯の浦々八的砥上ケ原云々打過きて。

 鎌倉へこそ入給ふ。案するに八的八松の轉化ならん。

又西行法師行脚の時砥上ケ原を過きて和歌を詠す。

 西行物語に。相模國大場と云ふ所。砥上ケ原を過るに。野

 原の霧の際(きわ)より風に誘れ鹿の鳴(なく)聲聞えければ。

  芝まとふ葛のしげみに妻籠めて砥上か原に牡鹿鳴くなり

其後鎌倉將軍賴朝八的原に怪事に逢給ひし事。保曆間記に見えたり。

 建久九年冬。右大將殿相模川の橋の供養に出て還らせ給

 ひけるに。八的か原と云ふ所にて。亡されし源氏義廣義經

 行家已下の人々の怨靈現して。將軍に目を合せり

又鴨長明羈旅の歌に。

  浦近き砥上か原に駒とめて片瀨の川の汐干をぞ待

  立かへる名殘は春に結びけん砥上が原のくすの冬枯れ

此二首歌枕名寄に見ゆ。(浦近きの歌は詞書なけれども。片瀨の汐を待合たるなれば。鎌倉下向の道なるを知るべし。立かへるの歌は。東よりかへりのぼりけるに。砥上ケ原にてとあり)。又海道記に貞應中の景色を記して。相模川を渡りぬれば。懐島に入り。砥上原を出(いで)て南の浦を見やれば。浪の文(あや)おりはえて白き色を爭ひ。北の原を望めば。艸の綠染め成て。淺黄さらせり。中に八松と云ふ所あり。

 八松の八千世の蔭に思馴て砥上か原に色も替らじ

東關紀行に據に天文の頃尚曠原なりしこと知らる。

 曰、相模川の舟渡しして行ば。大なる原あり。砥上原とぞ。是れ

 は當國の歌に入れりとなん。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「●」。「相模國風土記」の記載については一部表記に問題があるため、例外的に原本(大日本地誌大系版)に当たって一部(読み易く書き直してある部分もあるのでそれは私の判断で残した)を補正した。

「新編鎌倉志卷六」の「砥上原」の項には以下のようにある。

   *

〇砥上原〔附八松原〕 砥上(とがみ)が〔或作砥見又作科見(或は砥見に作り、又、科見に作る。〕が原は片瀨より西に當る。【西行物語】に、とかみが原を過るに、野原の露のひまより、風にさそはれ、鹿シカのなく聲きこへければ、歌に「柴松の、くずのしげみに妻こめて、砥上が原に小鹿鳴くなり」。鴨の長明が歌に、「浦千かき、とがみが原に駒とめて、片瀨の川のしほひをぞまつ」。又、「立歸る名殘は春に結びけん、とがみが原のくずの冬がれ」。此北に八松(やつまつ)が原と云所あり。【盛衰記】に三浦の人々、 石橋の軍さ散じて、洒勾の宿より三浦へ通らんとて、馬を早めて行程に、八松が原・腰越・稻村・由比の濵を打越て、小坪坂を上るとあり。鴨の長明が歌に、「八松の八千代のかげにをもなれて、とがみがはらに色もかはらじ」。

   *

●「浦千かき」及び最後の「八松の」の歌は鴨長明が飛鳥井雅経と共に鎌倉に下向、将軍源実朝と会見する入鎌前の、ここでの嘱目吟である(建暦元(一二一一)年編「鴨長明集」所収)。

●「立歸る名殘は春に結びけん、とがみが原のくずの冬がれ」は鴨長明の歌ではなく、冷泉為相の歌である(嘉元元(一三〇三)年頃編「為相百首」所収。以上二つの注はウィキの「砥上ヶ原」を参照した)。そこからこの二つの「原」の「位置と範囲」も以下に引用して参考に供しておく。『砥上ヶ原の範囲については諸説がある。相模国高座郡南部の「湘南砂丘地帯」と呼ばれる海岸平野を指し、東境は鎌倉郡との郡境をなしていた境川(往古は固瀬川、現在も下流部を片瀬川と呼ぶ)であることは共通する。西境については、相模川までとするものと引地川までとする』二説が代表的で、相模川説の方は連歌師谷宗牧が天文十三(一五四四)年に著した『「東国紀行」で「相模川の舟渡し行けば大いなる原あり、砥上が原とぞ」とあるのが根拠とされる。一方、後者は引地川以西の原を指す古地名に八松ヶ原(やつまつがはら)あるいは八的ヶ原があり、しばしば砥上ヶ原と八松ヶ原が併記されていることによる。後者の説を採るならば、砥上ヶ原の範囲は往古の鵠沼村、現在の藤沢市鵠沼地区の範囲とほぼ一致する』とある。なお、本文の「相模国風土記」の引用にもある通り、この「八的ヶ原」という名称は、謎とされる頼朝死去の記録の中の「保暦間記」の記載に、『大將軍相模河の橋供養に出で歸せ給ひけるに、八的が原と云所にて亡ぼされし源氏義廣・義經・行家以下の人々現じて賴朝に目を見合せけり。是をば打過給けるに、稻村崎にて海上に十歳ばかりなる童子の現じ給て、汝を此程隨分思ひつるに、今こそ見付たれ。我をば誰とか見る。西海に沈し安德天皇也とて失給ぬ。その後鎌倉へ入給て則病付給けり』(この橋は稲毛重成が北條時政娘であった亡妻追善のために建立したもの)とあり、頼朝の見る幻視の最初の場所として記憶されている場所である。

「舊幕府の時は。砲術場に充てられしが。今日の遺風ありて。大砲の試験場に供せられ。時々轟然の聲耳を驚かし。漠々の煙海風に颺揚せるを見る」旧幕府相州炮術調練場とその後に跡地の一部が用いられた横須賀海軍砲術学校辻堂演習場のこと。「鵠沼」の項に既注。

「東西二里餘。南北六町程」東西約七・八五キロメートル、南北約六五五メートル。

「源氏義廣」源義広(?~元暦元(一一八四)年)。以下、ウィキの「源義広 (志田三郎先生)に拠って叙述する。河内源氏第五代で源為義三男。志田三郎先生(しだのさぶろうせんじょう)、義範、義憲(よしのり)とも称した。志田氏の実質的な祖。平頼盛に近く、平家政権中も常陸国信太荘(茨城県稲敷市)で難なく過ごした。「平家物語」では治承四(一一八〇)年五月の以仁王の挙兵の際、末弟の源行家が甥頼朝に以仁王の令旨を伝達したのち、義広の元に向かったとする。「吾妻鏡」によれば同年八月に頼朝が挙兵したのち、同年十一月の金砂城の戦いの後に義広が行家と共に頼朝に面会したとするが、合流することはせず、その後も常陸南部を中心に独自の勢力を維持した。その後、頼朝の東国支配の展開とともに両者の対立は深まり、寿永二(一一八三)年二月二十日、義広は下野国の足利俊綱・忠綱父子と連合して頼朝討滅の兵を挙げ、常陸国より下野国へ進軍した。この直接の動機は鹿島社所領の押領行為を頼朝に諫められたことへの反発であったが、計画が未然に発覚、下野国で義広軍と頼朝軍が衝突することとなった。下野国の有力豪族小山朝政は当初、偽って義広に同意の姿勢を見せ、下野国野木宮(現在の栃木県野木町)に籠もっていたが、二十三日、油断した義広の軍勢が野木宮に差しかかった所を、寝返って突如攻めかかり、義広軍は源範頼・結城朝光・長沼宗政・佐野基綱らの援軍を得た朝政に敗れ、本拠地を失った(野木宮合戦)。その後、同母兄義賢の子木曾義仲軍に参加したが、そもそも常陸国から下野国へ兵を進めたこと自体、義仲の勢力範囲を目指した行動であったと見られている。このことが義仲と頼朝との対立の導火線となるが、義仲は義広を叔父として相応に遇し、終生これを裏切ることはなかった。以降、義広は義仲と共に北陸道を進んで一方の将として上洛し、入京後に信濃守に任官された。元暦元(一一八四)年正月の宇治川の戦いで頼朝が派遣した源義経軍との戦いで防戦に加わったが、粟津の戦いで義仲が討死し、敗走した義広もまた、逆賊として追討を受ける身となり、同年五月四日、立て籠もった伊勢国羽取山(現在の三重県鈴鹿市の服部山)合戦の末に斬首された(「吾妻鏡」)。

「貞應中」西暦一二二二年~一二二四年。紀行文「海道記」は作者未詳ながら、貞応二(一二二三)年の成立と考えられている。

「相模川を渡りぬれば……」以下の「海道記」は「相模国風土記」が底本としたもののせいか、非常に読みづらく、私の知っているこの段とは一部に省略や異同もあるので、玉井幸助・石田吉貞校註「海道記 東關紀行 十六夜日記」(朝日新聞社「日本古典全書」昭和二六(一九五一)年刊)を用いて該当部分を引用し直しておく。

   *

相模川を渡りぬれば、懐島(ふところじま)に入りて砥上原を出づ。南の浦を見やれば、浪の綾、織りはへて白き色をあらふ。北の原を望めば、草の綠、染めなして淺黄をさらせり。中に八松(やつまつ)と云ふ所あり。八千歳の蔭に立ち寄りて十八公の榮を感ず。

   八松の八千世ふるかげに思ひなれて

         とがみが原に色もかはらず

   *

以下、引用底本の玉井氏の頭注などを参考に注しておく。

●「懐島」は島嶼ではなく、宿駅の名。相模国高座郡の現在の茅ヶ崎附近にあった古い宿であった。

●「織りはへて」ハ行下二段活用の動詞「織(お)り延(は)ふ」で、織って長く伸ばす、織って長くするの意。

●「八松」松の異名。「松」の字を分解すると「十」「八」「公」となる。十八年も経てば公(貴き存在)となるという意。「和漢朗詠集」の「松」の源順の和歌に(引用は「新潮日本古典集成」に拠ったが恣意的に正字化した)、

十八公(しふはつこう)の榮(えい)は霜の後に露(あらは)れ 一千年(いつせんねん)の色は雪の中(うち)に深し、

 十八公榮霜後露 一千年色雪中深 順

この「一千年」とは松の緑が千年を経ても変わらぬことから、その測り知れぬ福寿の徳を讃えたもの。

●「八松の八千世ふるかげに思ひなれて とがみが原に色もかはらず」は、玉井氏の訳によれば、『八つ松が千歳の古い姿を身につけて、いつまでも十がみの原に同じ色を見せてゐる』で、『「とがみ」に十をかけて八つにあやなした』とある。老婆心乍ら、この「あやなした」というのは、(修辞を)巧みに扱った、という意である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 42 颱風少年モース 或いは puer eternus Edward

 今朝起きた時、空気は圧えつけるように暖かであった。ここ一週間、よく晴れて寒かったのであるから、この気温の突然の変化は、何等かの気界の擾乱を示していた。お昼から雨が降り始め、風は力を強めるばかり。午後には本式の颱風にまで進んだ。屋敷の高い塀はあちらこちらで倒れ、屋根の瓦が飛んで、街路で大部損害があった。午後五時頃、雨はやんだが、嵐は依然としてその兇暴さを続けた。私は飛んで来る屋根瓦に頭を割られる危険を冒して、どんな有様かを見る為に往来へ出た。店は殆ど全部雨戸を閉め、人々は店の前につき出した屋根の下に立って、落日が空を照す実しい雲の景色に感心していた。町では子供達が、大きなボロボロの麦藁帽子をいくつか手に入れて、それ等を風でゴロゴロころがし、後から叫び声をあげながら追っかけて行った。この国の人々が、実しい景色を如何にたのしむかを見ることは、興味がある。誇張することなしに私は、我国に於るよりも百倍の人々が、実しい雲の効果や、蓮の花や、公園や庭園を楽しむのを見る。群衆は商売したり、交易したりすることを好むが、同時に彼等は芸術や天然の実に対して、非常に敏感である。
[やぶちゃん注:北村想の「ザ・シェルター」じゃあないが、台風が来ると血が騒ぐのは子どもの常――モース先生もやっぱり puer eternus ――プエル・エテルヌスだったんだ! だから大好きさ、エドワルド!]

耳嚢 巻之八 解毒の藥の事

 解毒の藥の事

 

 甘草と黒大豆をとうぶんに煎じ用ゆれば、癒(いゆ)る事奇々妙々の由。山本宗英物語なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:山本芸英談話で直連関の民間療法三連発。これ、今もちゃんと販売してまっせ! ご関心の向きは薀蓄も十分に語られた株式会社自然健康社「よもぎ健康市場」のズバリ! 「黒豆解毒茶」をお読みあれ!……しかし売らんかなでこれだけバキバキに薬効を宣伝しておいてしかも、『よもぎ健康市場の許可なく、サイト内の写真・テキストの無断転載を禁じます』たぁ、よく言ったもんだ。引用する気も失せたわ。商売するならコピーや効能ってもんは口コミでもなんでも伝播しなきゃ意味ないぜよ! この私の注の書きようによっては、顧客も増えたかもしれんのに、残念なことで御座ったな。なお、例の通り、「宗英」は「芸英」と訂した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 解毒の薬の事

 

 甘草と黒大豆を等分に調剤なして煎じて服用すれば、如何なる中毒もたちどころに快癒致すこと、これ、奇々妙々の由。

 これもまた、山本芸英(うんえい)の物語で御座った。

耳嚢 巻之八 血留妙藥の事

 血留妙藥の事

 桐の若芽を黑燒にして付(つけ)れば妙なる由。右は或る六部の僧、身内疵だらけなりしを、其同伴尋ければ、今は佛道に入(いり)て何か隱すべき、我等昔は盜賊なりしが、其ころ度々疵を請(うけ)しに、右の桐の黑やきにて血を留(とめ)しとかたりし由。用之(これをもちゐ)妙ありと、これも山本のかたりし。

□やぶちゃん注
○前項連関:山本芸英談話で直連関の民間療法二連発。この六部、わざと体中に偽せ傷を拵えておいて、相手が吃驚してそのことを訊ねて来るや、待ってましたとばかりに、懺悔なし、やおら懐から伝家の桐の黒焼きを取り出して売りつけるという輩にしか私には見えぬのだが。ついでに言えば、この鍼医山本芸英という奴も、ちょっと怪しい気がしてきた。根岸先生、ご用心、ご用心。
・「血留」「ちどめ」と読む。
・「桐の若芽を黑燒にして」ネット上で検索すると、確かに民間療法として、切り傷の出血に、桐の葉を陰干しして粉末にしたものを振りかければ即効で止血出来るとある。他にイボ(葉の絞り汁を塗布)・痔及び瘡(もがさ)や丹毒(葉・樹皮の煎汁を煮詰めて軟膏にしたものを塗付)・腫物及び咳や手足の浮腫(葉・樹皮を煎服)等とある(こちら)。
・「六部」六十六部。元来は室町時代に始まるとされる、天蓋・白衣・笈・錫杖という出で立ちで、法華経を六十六回書写し、一部ずつを六十六ヶ所の国分寺や霊場に納めて歩いた修行僧を言ったが、江戸の頃のそれは納経はせず、仏像を入れた厨子を背負って鉦や鈴を鳴らして諸国社寺を巡礼し、読経の真似事を門付しては米銭を請い歩いた者を言う。三谷一馬氏の「江戸商売図絵」によれば、『借り衣裳で江戸の町を廻る偽物がおり、仲間六部といわれ』たとある。この六部も如何にも仲間六部臭い。

■やぶちゃん現代語訳

 止血の妙薬の事

 桐の若芽を黒焼きにして塗付すれば絶妙なる由。
 これはある六部(ろくぶ)の僧、体中が傷だらけであったを、たまたま道連れになった者が、余りの無体な傷跡に吃驚してその訳を訊ねたところが、
「今は仏道に入って御座れば、何をか隠そうず……我ら……実は昔、盜賊の一味で御座った。……その頃は大ばたらきをやらかしては、たびたび身に傷を被って御座ったれど……ほぅれ、この(と言いつつ懐から何かを出す)……この桐の黒焼きを以って、速やかに血を止めて御座ったものじゃ。」
とその薬を示したという。……
 ……
「……これを用いますと、これ、即効、血が止まりまする。……」
と、これも山本芸英(うんえい)、語りながら、私にその黒焼きを示して見せて御座った。

橋本多佳子句集「海燕」 昭和十年  薔薇を贈る

 薔薇を贈る

花舗くらく春日に碧き日覆せり

薔薇欲しと來つれば花舗の花に迷はず

薔薇を撰り花舗のくらきをわすれたり

花舗いでゝ街ゆき薔薇が手にまぶし

病院の匂ひ抱ける薔薇のにほひ

薔薇にほひあさきねぶりのひとがさめぬ

萩原朔太郎 無題(浪路を越えて行くわるつの浪々悲しげ)

 

浪路を越えて行くわるつの浪々悲しげ

浪路をこえて行くのです、

 

[やぶちゃん注:底本全集第三巻「未發表詩篇」より。]

萩原朔太郎 短歌六首 明治三七(一九〇四)年六月

夢の國は流もありて花さきて音よき鳥さへ住むと聞けども

ふる山のきこりをとこが瘤とりし鬼なつかしや舞はむともども

牧の野の童(わらべ)に似たるあこがれが鞭もて死をば追ひ行くごとし

つめたげの眼(まなこ)百千(もゝち)は地にあれ愛にわが足る天(あめ)の星々(ほしぼし)

手をあげて招けば肥えし野の牛も來りぬよりぬ何を語らむ

朝櫻すこしこぼれぬ折からの歌もおはまば染め出で給へ

[やぶちゃん注:『明星』辰年第六号(明治三七(一九〇四)年六月発行)の「鳴潮」欄に「萩原美棹」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十七歳。
 二首目「ともども」の後半は初出では「〲」。
 四首目のルビの「ほしぼし」は初出では「〱」。
 六首目の「おはめば」は底本全集の校訂本文では、

朝櫻すこしこぼれぬ折からの歌もおはせば染め出で給へ

と訂されてある。]

夾竹桃  八木重吉

おほぞらのもとに 死ぬる

はつ夏の こころ ああ ただひとり

きようちくとうの くれなゐが

はつなつのこころに しみてゆく

[やぶちゃん注:「きようちくとう」はママ。正しくは「けふちくたう」。]

鬼城句集 冬之部 蕎麥湯

蕎麥湯   古を好む男の蕎麥湯かな

2014/01/08

博物学古記録翻刻訳注 ■10 鈴木経勲「南洋探検実記」に現われたるパロロ Palola siciliensis の記載

■10 鈴木経勲「南洋探検実記」に現われたるパロロ Palola siciliensis の記載

 

[やぶちゃん注:私は先に本プロジェクトの「■9 “JAPAN DAY BY DAY” BY EDWARD S. MORSE  “CHAPTER XII YEZO, THE NORTHERN ISLAND に現われたるエラコの記載」でゴカイ食について述べた中で、サモアなどの西太平洋域に於いて多毛綱イソメ科の太平洋パロロ(Palola siciliensis 英名 Pacific palolo)を食用とすることを述べ(信じ難い方のために個人ブログ r-kimura 氏の「~最後の楽園 サモアの国へ~青年海外協力隊」の「サモアの珍“パロロ”解禁!」をリンクもさせてある)、またつい先日アップした「生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 五 分裂 ゴカの横分裂」の注のなかでもそのことを掲げた。特に後者の論考の中で、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」の「イソメ」に記されてある鈴木経勲著「南洋探検実記」のパロロ食を引用した際、当該原本を『国立国会図書館のデジタル化資料で閲覧出来ることが分かったので近日中にこの部分を電子化して追加したく思っている』と述べた。そこに挿入されている原画の使用許可も国立国会図書館から受けたので、以下に電子化する。

 本邦最初の本格的な南方探検家であった鈴木経勲(つねのり(けいくん) 嘉永六(一八五四)年~昭和一三(一九三八)年)は江戸生。土佐出身の武州川島鈴木氏に養子に入った幕臣の父を持った。昌平坂学問所で学んだ後、幕府陸軍語学所でフランス語を学んだ。維新後は静岡に移ったが、明治九(一八七六)年、二十二歳の時、生活のためにラッコ密漁船に乗り込んだ後、逆に密漁取締策を建策して二年後の明治一一(一八七八)年に外務省に雇われ、明治一五(一八八二)年にマーシャル諸島ラリック列島のラエー環礁に漂着した日本人船員が現地人に殺害される事件が起こった際、初めて後藤猛太郎(たけたろう 文久三(一八六三)年~大正二(一九一三)年)は彼と並ぶ南洋探検家で後に日本活動フィルム会社(現在の日活の前身)の初代社長となった。後藤象二郎二男。貴族院議員。伯爵。自らを「天下のならず者」と称した傑物。)とともに南洋行きを命ぜられている。翌年、イギリスの捕鯨船エーダ号で同地に乗り込み、事件を解決するが、その後、独断でマーシャル諸島の領有を企図して日章旗を掲揚したことが外務卿井上馨の怒りを買った(翌明治十七年にこの日章旗を取り外すために再度マーシャル諸島に赴いている)。明治一九(一八八六)年に外務省を退官。井上から与えられた忠信丸で南洋探検を行うが船を失い、その後何度か南洋の島の占領を建策するが入れられなかったという。明治二十二年には軍艦金剛の練習航海に同乗してハワイ・サモアを訪問、明治二三(一八九〇)年、田口卯吉の南洋商会に参加して天佑丸のミクロネシア貿易巡航に同行、それらの経験をもとに明治二五(一八九二)年に本書「南洋探検実記」(博文館刊)及び翌年に「南島巡航記」「南洋風物誌」を著した。明治二七(一八九四)年の日清戦争に際しては従軍記者となって「平壌大激戦実見録」を出版、その後は陸軍のために対ロシアの密偵として働いたとされている。後、保険会社に勤めた(以上はウィキの「鈴木経勲」及びその同リンク先に拠った。なお、後藤猛太郎については「安楽椅子探検家のヴァーチャル書斎」の「南洋の酋長を拉致した後藤猛太郎」も必読。無論、鈴木経勲も登場する)。

 底本は国立国会図書館ホームページ内デジタル化資料の明治二五(一八九二)年博文館刊の「南洋探検実記」の「ヒージー島の部」の当該箇所の画像(170及び171コマ目)を視認してタイプし、挿絵の現画像を挿入した。この現画像を含むコマは国立国会図書館より使用許諾を受けている(許諾通知番号国図電1301044-1-5702号)。なお、底本の「バロヽビリデス」等の誤りと思われるもの忠実に再現した。但し、草書体表記や約物は正字平仮名に直し、繰り返し記号の「ヽ」「ヾ」は「ゝ」「ゞ」に直し、「〱」は正字化した。異体字の漢字でユニコード表記が出来ないものは最も近いと考える正字を用いた。ルビは後に( )で同ポイントで示した。下線は底本では右傍線である。誤植と思われる。後に簡単な注を附した。

 最後に、「生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 五 分裂 ゴカイの横分裂」の注で引用した荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」の「イソメ」の本記事の要約記載部分を再掲しておく(ピリオド・コンマを句読点に代えた。「バロロビリテス」の「バ」には荒俣氏の附したママ注記代わりの傍点「・」が上に附されてある)。

   《引用開始》

 鈴木経勲〈南洋探検実記〉によれば、フィジー島では毎年1回、11月15日になると、〈バロロビリテス〉という海生の奇虫が海の表面に一群となって浮び上がる。現地人はこぞって船を駆って海に出て、この虫を捕獲する。それらを塩漬にして蓄え、祝典用の料理にするという。これはイソメ科の1種パロロ Palola siciliensis である。正確にいえば、毎年2回、早朝に体の後半部が切り離され泳ぎだしたパロロが、水中で生殖を行なうときの奇観である。ちなみに、これを食べた経勲は、淡白で塩味と磯の香りを合わせもったその味はナマコのようで、酒の肴(さかな)などにすれば絶好の珍味であろう、と報告している。なお、この切り離された部分のみをパロロとよぶこともある。

 日本でも日本パロロ(英名 Japanese palolo)の遊泳が見られるが、こちらはイトメ Tylorrhynchus heterochetus の生殖時浮上であり、イソメのなかまではなくゴカイ科 Nereidae に属する生物の活動である。

   《引用終了》
以下、やっと本文を示す。]

 

バロヽビリデス
[やぶちゃん注:以上は頭書。ママであるが、画像を拡大しても判別がし難く、「ビ」は「ピ」のようにも見えるが、後の注で述べるように、これは「ビ」でなくてはならない。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」でも「ビ」である。]

 

レバ港に一奇蟲あり其の名を「バロヽビリデス」と云ふ該虫(がいちゆう)は同港の中に生息すれども平時之を見し人なく又漁具(ぎよぐ)等に罹(かゝ)りたることなし只(たゞ)年々(ねんねん)一度(いちど)即ち十一月十五日の朝(あさ)より晩に至る迄海上(かいじやう)に浮游(ふいう)するものにして土人は之を採り鹽漬(しほづけ)にして貯蓄(ちよちく)し以て祝祭日(しゆくさいじつ)の料理(れうり)に充つるなり祝典(しゆくてん)に際し若し該虫を料理(れうり)の内に欠くときは其の禮式(れいしき)を欠くと同一に當るの習ひなれば土人は該虫を貯(たくは)ふるに心を用ふこと殆んど我國(わがくに)の徃時に於ける端午(たんご)の菖蒲(しやうぶ)重九の菊花(きくくわ)等の如くせり其虫の形は我國(わがくに)の蚯蚓(みゝず)の如くにして只其(その)頭部(とうぶ)と尾端(びたん)は極めて細(ほそ)し其色は深綠色(しんりよくしよく)にして試に之を水中(すゐちう)に放てば其水も亦た綠色(りよくしよく)に變(へん)ずる程に綠汁(りよくじふ)を散(さん)ずるなり其味は海鼠(なまこ)の如く淡白(たんぱく)にして鹽味を帶び且つ磯臭(いそくさ)き匂ひを持てり惟ふに用ひなば至好の珍味(ちんみ)なるべし該島の土人は年月を數(かぞ)ふることを知らざるを以て新月を見る毎(ごと)に之を數へ十一ケ月目に至れば夜に月光(げつくわう)を見て此虫の浮き立つ當日(たうじつ)を卜知(ぼくち)し其日に至れば拂暁(ふつぎやう)に獨木舟(まるきぶね)に乘り各々器具(きぐ)を携帶(けいたい)して海上(かいじやう)に出で以て虫の浮び出るを待つ其虫の浮び出るや殆ど靑天(せいてん)に片雲(へんうん)の浮ぶが如く此に一群(いちぐん)彼に一群と浮流(ふりう)する所を網して船に取入るなり其群(そのぐん)の大なる者は五十メートル四方(しはう)もあるものありて當日全島の土人が其群を遂(お)ふて之を漁するを見る亦一奇觀(きくわん)なりと云ふ

Palola

第五十一圖バロヽビリデス

[やぶちゃん注:当該頁上部にあるパロロ成体(上部)及びその分裂個虫(下部)と思しい挿絵画像(国立国会図書館許諾済・通知番号国図電1301044-1-5703号)]

 

[やぶちゃん注:「バロヽビリデス」本州中部以南からインド洋・西太平洋・地中海・大西洋に広く分布している環形動物門 Annelida 多毛綱 Polychaeta イソメ目 Eunicida イソメ上科 Eunicoidea イソメ科 Eunicidae パロロ属パロロ Palola siciliensis  Grube, 1840、別名太平洋パロロである。鈴木の記載にある「バロヽ」は「パロロ」の誤認(現地音若しくは鈴木に本種の名を伝えた者の発音が微妙で、「パ」と「バ」は区別し難かったのかも知れない)としても、種小名らしき部分は不審である。「WoRMS - World Register of Marine Species - Palola siciliensis (Grube, 1840)を見ると、シノニム・データ他には、

 Eunice adriatica Schmarda, 1861 (subjective synonym)

 Eunice siciliensis Grube, 1840 (objective synonym)

 Nereidonta paretti Blainville, 1828

 Palolo siciliensis (Grube, 1840) (misspelling)

とあるが、他の記載の綴りを見ても「ビリデス」に相当するものは見当たらない。ところが「ビリデス」はラテン語の“virides”(ヴィリデス)であり、これは「緑色をした」という意であるから、パロロの体色をよく表しており、強ちいい加減な謂いではないことが分かる。恐らくは、相応な学識を持った博物学者(フィジーは長く英国領であったからイギリス人であった可能性が強いか。但し、最初に上陸したのはオランダ東インド会社所属のオランダ人探検家タスマン(一六四三年)で、その百三十一年後の一七七四年にイギリス人探検家クックが再上陸してイギリス植民地となっている)がかく呼称したものとも推測される。識者の御教授を乞うものである。

「年々一度即ち十一月十五日の朝より晩に至る迄海上に浮游するものにして」「工房"もちゃむら"の何でも研究室」のドラえまん・柴田康平氏のサイト「ミミズあれこれ」の中の「(3)月とミミズ 月の満ち欠けでミミズが現するメカニズムを考える」は本種の説明を含むネット上の記載としては最も正確で纏まったものと私は考えているが、そこに今島実著「環形動物多毛類」(生物研究社一九九六年刊)からの引用が示されている。私は当該書を所持しないので孫引きさせて戴くと、

   《引用開始》

 多毛綱ゴカイ科の環形動物で、生殖のために遊泳する生殖型個体のうち日本にいるものをバチという。ウキコ、ヒル、エバともいう。イトメのバチを日本パロロ(英名 Japanese palolo)ともいう。イトメは、砂泥中で生活している個体が成熟してくると、10~11月の大潮の夜に雌雄の体の前方1/3がちぎれ、生殖物(雄は精子を、雌は緑色の卵)を充満させて泳ぎだし、生殖群泳する。

 その他のゴカイの生殖時期は種によって異なり、新月後と満月後の数日間に大きな群泳が見られるが、月齢、潮位、天候などに大きく影響をうける。

 また、イソメ(多毛綱イソメ科 Eunicidae に属する環形動物の総称)は、日本ではイワムシ、オニイソメなど19種が知られている。

 Palola siciliensis は本州中部より熱帯域のサンゴ礁にすむが、生殖時期になると大量の生殖型個体が群泳。サモア、フィジー、ギルバート諸島では毎年10月と11月の満月から8日目と9日目の日の出前の1~2時間に生殖群泳をする。泳ぎだす部分は体の後方の3/4くらいで、泳ぎながら生殖が行われる。このように生殖群泳する虫を太平洋パロロという。

 大西洋でも西インド諸島で E. schemacephala が7月に生殖群泳をするが、 これを大西洋パロロと呼んでいる。

   《引用終了》

とある。これによって鈴木の記載の、生殖群泳が「年々一度」と云う部分及びそれが太陰暦での「十一月十五日の朝より晩に至る」一回だけであるという部分は生物学的には厳密ではなく不完全であることが分かる(但し、個人ブログ r-kimura 氏の「~最後の楽園 サモアの国へ~青年海外協力隊」の「サモアの珍味“パロロ”解禁!」には、サモアのケースではあるが、『これまた不思議なのですが、パロロが捕獲できるのは決まってサバイイ島が先で10月、ウポル島が後で11月だそうです』という記載があり、鈴木の体験したフィジーでもそうであったものか、若しくは十月にも生殖群泳は起こるものの、その際には採取をしない、禁忌としていたのだとすれば、強ちこれは誤りとは言えないことになる)。なお、同ページでは直後に柴田氏は『別の資料では、フロリダ地方の浅海底に生息するイソメ科の Eunice fucata は6月下旬から7月下旬の下弦の月のころに生殖群泳を行い,これは大西洋パロロ palolo という』とも附記しておられる。

「レバ港」この位置同定に戸惑ったが、他の部分の記載を見ると、これはどうも現在のフィジー共和国の首都であるビティレブ島のスバの港を指しているものと判断する。鈴木は他の箇所で「スバ」とも書いているのであるが、どうも「レバ」という別な町があるようには思われないからである(旧首都(一八八二年にスバに移転。鈴木のフィジー訪問は一八九〇年)であった「レブカ」があるが、これはビティレブ島の東北洋上に浮ぶ小さな島で前後の内陸探検の叙述からするとどうも違うし、「レブカ」の場合は「レブカ」とちゃんと表記している)。この「スバ」「レバ」の表記違いは或いは単なる誤植なのかも知れない。万一誤りである場合は、御指摘を乞うものである。

「土人は之を採り鹽漬にして貯蓄し以て祝祭日の料理に充つるなり祝典に際し若し該虫を料理の内に欠くときは其の禮式を欠くと同一に當るの習ひ」本パロロが塩蔵の保存食であると同時に、本来は祝祭に用いるハレの特別な祭祀食であったことが窺われる記載である。

「其色は深綠色にして試に之を水中に放てば其水も亦た綠色に變ずる程に綠汁を散ずるなり」という部分は、本種の成体個虫に人が手で触れたり、何らかの刺激が加えられたりした場合には、緑色の体液を放出という記載である。このような生態は管見し得たパロロの記載の中には見当たらないが、事実とすれば大変興味深い現象と言える。パロロの生態にお詳しい方の御教授を乞うものである。

「其味は海鼠の如く淡白にして鹽味を帶び且つ磯臭き匂ひを持てり」先の「サモアの珍味“パロロ”解禁!」がネット上での実際のパロロ食を美事に伝えて呉れているのであるが、食味については、『バターで炒めるのが定番らしい。海水の塩味が効いていて意外とうまい』とあり、生食(私の知る本邦のゴカイ食その他の知見から言うと可能である。リンク先でも『その場でムシャムシャと手づかみで頬張り始めるサモア人もいるとか』という伝聞を記しておられる)や塩蔵品そのもの素(す)の味については述べられていない。なお、このブログ記事では採取に関わる記述が実に豊富で必見なのであるが、そこにはその採取直後(?)のボールに入った写真を掲げ、『色は青みがかった緑で』、体長は四〇センチメートルもある一方、直径は一~一・五センチメートルの細長いもので、『モズクのようにも見えますが、どちらかというとやはり海のミミズです』と描写され、また『一説によると日の出とともに力尽きて融けてしまう(?)という噂もあるので、明け方前のまだ暗いうちに捕獲しないといけません。(明け方には確実になくなっているらしい)』ともある。

「惟ふに」「おもふに」と読む。思うに。

「該島の土人は年月を數ふることを知らざるを以て新月を見る毎に之を數へ十一ケ月目に至れば夜に月光を見て此虫の浮き立つ當日を卜知し」……これは「年月を數ふることを知ら」ないとは言えませんよ、鈴木さん、これは立派な月の暦ではありませんか。あなたはどうも「土人」を馬鹿にしていますね。……まあ、日の丸勝手に立てちゃう人だからねぇ……

「器具」先の「サモアの珍味“パロ”解禁!」には、『サモア人もこの時期になると、夜中の3時頃からボートで沖へ出たり、服のまま浜からサンゴの海へ繰り出していって、すくい網とバケツを使ったり蚊帳を放り投げて海一面にウヨウヨしているパロロを一斉に捕獲』し、その際には『体にもいっぱい付着するらしく、考えただけで気持ち悪い!でもやってみたい~!!』と記されておられ、少なくとも現在の採集法が彷彿とする。浅いイノーでの採取とかなり目の細かいネットを用いた採取直後の参考写真もすこぶる興味深い。是非ご覧あれ! 因みにそこには『早朝にマーケットへ行けば買うこともできますが、昔と違って商売根性が出てきた今の時代は非常に高値で売買されているようです。(片手いっぱいで100タラ=約3500円。サモア人の平均月収の約1割に相当)』とも記されてある。

 以上、多くの引用をさせて戴いた個人ブログ r-kimura 氏の「~最後の楽園 サモアの国へ~青年海外協力隊」様には、この場を借りて改めて感謝申し上げたい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 41 大森貝塚出土の土器三種

M292294


[やぶちゃん注:上から「図―292」・中段「図―293」・下段「図―194」である。今回は分解せずにワン・セットでトリミングしたため、変則的に注で示した。]

 

 我々が発見した大森陶器中の、珍しい形をした物を若干ここ堅不す。国292は妙な形式をしている。横脇にある穴は、ここから内容を注ぎ出したか、或はここに管をさし込んで内容を吸い出したかを示している。図293は直径十一インチの鉢である。図294は高さ一フィート、これに似た輪縁の破片は稀でない。これ等の陶器はすべて手で作ったもので、轆轤(ろくろ)を使用した跡は見当らない。

[やぶちゃん注:これら三種と同一のものと思われるものはモースによる明治一二(一八七九)年に東京大学理学部紀要第一号として刊行された“Shell Mounds of Omori”(「大森貝塚」)の図版中にも掲載されている(但し、こちら図はモースによるものではなく、一九八三年岩波文庫版近藤義郎・佐原真編訳「大森貝塚」序文によれば、日本人『画工木村氏、石版工松田氏』の手に成るより緻密なものであって、当然、完全には一致はしない)。画像「大森介墟古物編」(現画像の日本語の標題は右から左書き)を視認する限り、以下のように同定出来るように私には思われる。一部は「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある大森貝塚出土標本データベース」の各標本ページをリンクさせたので御自身でも検証されたい。

 

●図292は 「第十板」PLATE Ⅹ の「五5」(原画像では縦並び。以下同じ)図

 

とほぼ一致する(「大森貝塚」ではこの横図の上部に上から見た図が配されてあって欠損した右の突起部分がはっきりと分かる)。その解説は、

   《引用開始》

図5 厚さ7㎜. 赤味をおびた黒色。ひじょうに平滑. この土器は, 大森貝塚発見のどの土器にも似ていないから, 多分, 時期の違うものだろう.

   《引用終了》

とある。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-122 参照。そこには縄文土器後期、注口土器(ほぼ完形)とあり、現高は一〇・五センチメートル、最大径一二・八センチメートルとある。

 

●図293は 「第二板」PLATE Ⅱ の「十二 12」(「十二」は右から左書き)

 

ではないかと私は考えている。その解説は、

   《引用開始》

図12 器壁厚さ5㎜, 底部8㎜, 径260㎜. 下半赤く上半は黒い. 内面平滑.

   《引用終了》

とあっる。本図よりも上下幅が有意に広く、上部の縁の隆起部分の形状も若干異なるようにも見えるが、全体のデザインはそっくりである。また、部分的に似た破片類は複数あるものの、他にこれと同じような完品の土器は図版中に見当たらず、何よりも口径260ミリメートルは、本記載の「十一インチ」に極めて近いからである。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝出土標本データベース」標本BD04-21参照。当該データには縄文土器・浅鉢(ほぼ完形)・器高一四センチメートル・口径二六センチメートルとある。

 

●図294は 「第一板」PLATE Ⅰ の「九9」図

 

とほぼ一致する(「大森貝塚」では反時計回りにやや移動)。その解説は、

   《引用開始》

図9 口縁厚さ6㎜, 器体厚さ5㎜, 口径144㎜. 赤みをおびる. 火にかけた形跡がある. この土器に似た口縁部が沢山みいだされた. ある破片は完全ならば口径354㎜になることを示している.

   《引用終了》

である。「東京大学総合研究博物館/人類先史デーベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本BD04-9参照。残念ながら、この標本は現在は行方不明である。

「十一インチ」27・94センチメートル。

「一フィート」30・48センチメートル。]

耳嚢 巻之八 燒尿奇法の事

 燒尿奇法の事

 

 鷄卵の油を付るに即效有。右油のとり樣は、玉子二つ程、玉子ふわふわをこしらへ候通り、燒鍋の内へ入(いれ)かきまわし、扨(さて)胡麻の油を小茶碗(こちやわん)に半分程さして、いり候得(さふらえ)ば少しく色黑く成るを、小蓋樣(こぶたやう)のものをして押(おさ)ば油たるゝなり。右油を付(つけ)て治する事奇妙なり。右胡麻油をさすは、玉子の氣をとる事故、玉子の油といふ由。山本宗英爾談なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:山本宗英(芸英)談話で直連関。三つ前の「肴の尖不立呪文の事」の呪いなどとも連関する民間療法シリーズ。火傷の民間療法は前にも出る。

・「燒尿」底本では「尿」ではなく、「尸」の一画目がない字体。更に「尿」の右に『「(床)カ』と注する。実際これまでも根岸は「耳嚢」の中で火傷を「燒床」「燒尿」と記している。「耳嚢 巻之四 金瘡燒尿の即藥の事」等の私の注も参照されたい。

・「鷄卵の油」卵油・卵黄油と呼ばれるもの。現在は卵黄のみを長時間加熱して得られる少量の黒いエキスを指す。古来より貴重な健康薬とされた。香川県さぬき市津田町の「松本ファーム」の公式サイトに分かり易いり方ページがある。

「玉子ふわふわ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『玉子とじ』。

・「山本宗英」同様に訳では芸英とした。

・「爾談」底本は右にママ注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『示談』。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 火傷(やけど)治療の奇法の事

 

 火傷には鶏卵の油をつくるに、即効、これ、ある。

 この卵油(らんゆ)の採取の仕方は、玉子を二つほどかき混ぜて、柔らかく軽く煮たところの『玉子ふわふわ』を拵えるのと同じよう致し、そこで引き上げず、炒め物用の大きなる鉄鍋の内へこれを移し入れ、焦げつかぬよう、じっくりと掻き回し続ける。ある程度掻き廻したならば、途中、胡麻の油を小さき茶碗に半分ほど注(さ)し入れ、さらにまた延々と炒り続ける。すると、そのうちにかなり色が黒うなって参る。それを小蓋のようなものを持って上から強く押さえつければ、油様のものがじんわりと滲み出でて参る。

 この卵油を火傷に直ちにつけるならば、治すること、これ、絶妙である。

 なおこの製法の途中にて胡麻油を注すは、卵の持つ精気を十全に誘い出ださんがための仕儀にて、かく精製されたものを『卵の油』と称する由。

 かの鍼医山本芸英(うんえい)殿の示し呉れた談話で御座った。

橋本多佳子句集「海燕」 昭和十年 波

 波

白波の沖よりたてり波乘りに

波乘りに靑き六連嶋(むつれ)が垣なせり

波に乘れば沖ゆく船も吾に親し

波に乘り陸(くが)の靑山より高し

波に乘れば高波空を走るなり

波乘りに暮れゆく波の藍が濃き

[やぶちゃん注:二句目「六連嶋」で「むつれ」と読ませている。これは「垣なせり」とあるから明らかに山口県下関市の響灘(ひびきなだ)諸島に属する六連島(むつれじま)一島のみでなく、周囲の馬島(うましま)・片島・和合良島(わごらしま)などの島影を一括して言っている。なお、この内、馬島以下は福岡県北九州市小倉北区に属する。]

別れ 萩原朔太郎


  別れ

            旅の記念として、室生犀星に

 

友よ 安らかに眠れ。

夜はほのじろく明けんとす

僕はここに去り

また新しい汽車に乘つて行かうよ

僕の孤獨なふるい故鄕へ。

東雲(しののめ)ちかい汽車の寢臺で

友よ 安らかに眠れ。

 

[やぶちゃん注:『日本詩人』第二巻第二号・大正一一(一九二二)年二月号に掲載された。]

萩原朔太郎 短歌九首 明治三七(一九〇四)年四月

ああひと日、夢に草花美しう、胸に根こじに貸すことあらば。

 

かくてまた憂いかな春の夕光。きけや身をきる罪の子の歌。

 

五十鈴川五十鈴の宮の大前に、巨鈴なるごとわが詩高鳴る。

 

緋芍藥花ちる庭の艶やかさ、戀は濃雲と凝りにけらしな

 

いつの世より戀か香をもつそよ風の、疾風(はやち)吹雪(ふゞき)となりにしものか。

 

足んぬ智は、敢えてしねがふ歌の幸。來む世思はず、欲らず桂も。

 

そゞろ行くに、ここは名の國智慧の國。ふたゝび思ふ戀はいづかた。

 

たまさかに問へば趣(しゆ)のなき天王寺、姉と拾ひし落椿かな。

 

 母を失ひたる友に代りて

 何者か行方さへぎる夜毎夜毎。母と添寢の夢ならなくに。

 

 

[やぶちゃん注:『文庫』第二十五巻第六号(明治三七(一九〇四)年四月発行)に「上毛 萩原美棹」名義で掲載された九首。服部躬治(既注済)選。萩原朔太郎満十七歳。

 二首目「かくてまた」の「憂い」はママ。

 三首目「五十鈴川」の「五十鈴の宮」は伊勢神宮内宮である皇大神宮の別称。下句の「巨鈴」(「こすず」と読んでいよう)は「五十鈴」(いすず)から掛詞的に引き出された心象である。神仏習合以前の神道の古形を守る伊勢神宮には鰐口(鈴)はない。

 五首目「いつの世より」の「疾風(はやち)吹雪(ふぶき)」の部分は一語と捉えず「疾風」(読みの「はやち」の「ち」は「東風(こち)」の「ち」と同じで、古典で「~(の)風」の意の熟語を作る造語成分。「はやて」に同じい。)から「吹雪」へと推移するイメージと採る。

 六首目「足んぬ智は」の「足んぬ」は、動詞「足(た)る」の連用形に完了の助動詞「ぬ」の付いた「たりぬ」が撥音便化したものの名詞化したもので、満ち足りること。満足。堪能の意(あまり知られていないが、「堪能」という熟語自体、この「たんぬ」が音変化した語で「堪能」は全くの当て字である)。

 七首目「たまさかに」の一首は、先に示した『坂東太郎』第三十八号(明治三七(一九〇四)年三月発行)に

    京の子なりき

たまたまに問へば趣もなき天王寺姉とひろひし落つばきかな

で載る。因みに、迂闊であったが考えてみると、この「姉」は実際の「姉」ではない。朔太郎の実在の姉は確かにいたにはいたが、朔太郎誕生の二年前に出生後幾許もなくして亡くなっている。以下、底本年譜によれば、明治一七(一八八四)年一月十八日生で名はテイである(但し、戸籍上の記載はなく、墓碑に記されるのみである)。この「姉」とは何者か。親族の年上の思いを寄せていた誰彼であろうか、それとも……。]

しづけさ   八木重吉

ある日

 

もえさかる ほのほに みいでし

 

きわまりも あらぬ しづけさ

 

ある日

 

憎しみ もだえ

 

なげきと かなしみの おもわにみいでし

 

水の それのごとき 靜けさ

[やぶちゃん注:「きわまり」はママ。]

鬼城句集 冬之部 煮凝

煮凝    煮凝にうつりて鬢の霜も見ゆ

[やぶちゃん注:これは旨い、基、上手い。]

「騒ぐ子に睡眠薬を」論考

1 僕はライブドア事件の野口英昭氏の沖縄での怪死は殺人だと考えている。

2 「自殺の9割以上は他殺なんです」(元東京都監察医務院長上野正彦)

3 「騒ぐ子に睡眠薬を」≒「野口は口を封じろ」

2014/01/07

耳嚢 巻之八 三雜談可笑事

 三雜談可笑事

 

 文化四年寅の春、芝車町(しばくるまちやう)より出火して大火におよび、予が許へ立入(たちいり)せし鍼醫(はりい)城藝英も神田にて類燒し、當分の住所にこまれる由を語りけるゆゑ、予が元屋敷駿河なる長屋をかして暫く住居せしが、毎夜長屋下を往來する商人、其外物語りおかしき事もあれば、窓のもとに立寄(たちより)夏の暑(あつさ)をしのぎけるに、ある夜四ツ時過(すぎ)九ツにもならんと思ふころ、あきなひなかばすみし樣にて、蕎麥屋田樂屋醴(あまざけ)屋三人長屋下へ荷を卸して、先(まづ)醴屋申けるは、最早しまひなり、殘るあまざけを、一盃たべまじきやと、發言なしければ、蕎麥屋の曰、いやきたなくて、くわるゝものかと、申ければ、いかにも茶碗をあらひ其外水を廻す時、あたりの川堀の水きらひなくとり入ぬれば、きれいにはなけれど、拵へかたは醴に違(ちがひ)なしと、いゝければ、そばやこたへて、われらが蕎麥なども同じ事にて、箸皿をあらふは、小便をなせるどぶの水の淸き所を用ひる由を語り、中にも田樂屋は親方掛りと見へて、我等が田樂は右體(てい)の事はなし、しかし親方は至てのぜんそく持(もち)にて年老(おい)ぬれば、鼻水をふだん垂(たれ)けがす事なるが、田樂の下ごしらへ味噌の仕立(したて)ともに彼(かの)老人のなす事なれば、鼻水も落、痰水をも落(おと)せどかまわずしてこしらへるを見ては、給(た)べばたべ給へ、我等はいやなりといふを、三人打寄(うちより)て、見ぬ事とはいひながら買ふものは能(よく)たべぬると、咄合(はなしあふ)を聞(きく)に、逆吐(へど)もせんこゝちして可笑(をかし)かりしと、宗英かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。かなり汚ない話なれば【閲覧注意】食事の前後にはお勧め致さぬ。

・「三雜談可笑事」は「さんざふたんをかしきこと(さんぞうだんおかしきこと)」と読む。

・「文化四年寅」文化四(一八〇七)年は丁卯(ひのとう)であるからおかしい。寅は前年文化三年丙寅(ひのえとら)。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『文化三年寅』と正しいし、以下の訳はこれで採った。因みに「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏。夏の下世話な都市伝説あるが、類話はよく耳にする。岩波版で長谷川氏注にも、中国の笑話集である『笑府』を原話とする『再成餅』所掲話など小咄の作りかえか(鈴木氏)』とある。「再成餅(ふたたびもち)」と読み、安永二(一七七三)年刊の小咄集。

・「芝車町」現在の港区芝車町。底本の鈴木氏注によれば、『古くは牛町といった。江戸中の牛車のセンターともいうべき処で、牛小屋が軒を並べてあった。大木戸の内側』とある。

・「大火におよび」文化三年三月四日芝車町を出火元とする文化の大火。明暦の大火と明和の大火とともに江戸三大大火の一つとされる。丙寅の年に出火したため丙寅の大火、車町火事、牛町火事とも呼ぶ。詳細は「耳嚢 巻之七 正路の德自然の事」に既注。

・「城藝英」最後は「宗英」であるから誤字であるわけだが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではともに『芸英』とある。これだと、「うんえい」と読み、如何にも医師の名に相応しい。訳も「城芸英(じょうのうんえい)」で採った。因みに、「藝」と「芸」(くさかんむりは切れる)は全くの別字で、「芸(ウン)」は元来は香草の名で、芸香(うんこう)、くさのこう、バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ヘンルーダ Ruta graveolens を指す(和名ヘンルーダはオランダ語に由来)。ヘンルーダは地中海沿岸地方の原産で、樹高は五〇センチメートルから一メートルほど。葉は青灰色を帯びたものと黄色の強いもの、斑入り葉のものなどがあり、対生する。サンショウを少し甘くしたような香りがある。江戸時代に渡来し、葉に含まれるシネオールという精油成分が通経剤・鎮痙剤・駆虫剤などに利用され、料理の香りづけにも使われていたが、毒性があるとされ、今はほとんどその目的には使われていない。乾燥させた葉を栞として使うと本の虫食いを防ぐと言われ、古くは書斎を芸室(うんしつ)ともいった。ミカン科はラテン語でRutaceaeといい、このヘンルーダ属 Ruta が科を代表する模式属になっているため、かつては日本語でもヘンルーダ科と呼ばれていたが、日本人にとってはヘンルーダより蜜柑の方が身近な植物であるため、一九六〇年代半ばよりミカン科と呼称するようになった(ここはウィキの「ヘンルーダ」に拠る)。これによって「芸」は転じて書物を示す漢字として熟語を作ることが多い。例えば「芸帙(ウンチツ)」「芸編(ウンヘン)」は書物、「芸閣(ウンカク)」「芸臺(台)(ウンダイ)」「芸署(ウンショ)」で書庫や書斎の意となる。「藝」の無体な新字化による「芸」が、本来あった「芸」と同じになって、しかも本来の「芸」を駆逐してしまった新字化のおぞましくも悪しきケースである。

・「四ツ時過九ツ」不定時法で、夏の場合は午後十時半過ぎから午前零時前後までの時間帯となる。

・「水を廻す」甘酒の量が減ってきた際、追加を作るのに水を加えることを指している。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 三人の者の雑談(ぞうだん)の面白き事

 

 文化三年寅の春、芝車町(しばくるまちょう)より出火致いて大火に及び、普段より私の元へ出入り致いて御座った鍼医の城芸英(じょうのうんえい)殿も、これ、神田の屋敷を類焼なされたによって、当座の住むところにも困っておる由を語られたによって、私の元の屋敷で駿河台に御座った長屋を暫く、住居としてお貸し申した。その折りの話で御座る。

「……いや、お借り致いて、まっことありがたきことにて。……そうそう、その長屋につき、面白きことが、これ、御座いましての。……毎夜、長屋の軒下を往来致いては一休み致すところの商人(あきんど)やその他の者どもの、その物語り、これ、まっこと、おかしきことが多御座ればこそ、夏の暑さを凌ぎがてら、かの窓の辺りに立ち寄りますこと、たびたび。……さてもそんなある夜のこと、そうさ、もう四ツ時過ぎ、九ツにもならんかと思う頃のこと、商いもあらかた済みたる様子にて、蕎麦屋と田楽屋と甘酒屋の三人、その長屋の軒下へ荷を下ろし、まず、甘酒屋の申しましたことには、

「最早、仕舞いじゃ。一つ、残る甘酒を一盃ずつ、お呑みなさらんかの?」

言ったところが、蕎麦屋の曰く、

「いや! お前さんとこの甘酒なんぞ、これ、穢のうて、口にすることなど、出来るものか!」

と申したによって、甘酒屋も気色ばみ、

「なにぃ! いかにも茶碗を洗(あろ)うその他のことやら、減った甘酒に水を足す時には、辺りの川堀りの水を、まあ、特に選ぶことものぅ、何処でも汲み取って入れて御座れば……まあ、きれいにてはなけれど、出来上がった甘酒の様子は普通のもんと、これ、いっちょも違(たが)わん!」

と応ずる。

 すると蕎麦屋、答えて、

「……まあ、我らが蕎麦なんども同じことでの、箸や皿を洗うには……小便をひる溝(どぶ)の水の……まんず、きれいなる所を用いるようにしてはおるからに。」

と語る始末。

 すると、それを聴いて御座った田楽屋、三人の中でもこれは親方のある者と見え、

「……我らが田楽はそのようなえげつなき仕儀を致すことは、これ、ない。……しかし、我らが親方は、以ての外の喘息持ちにて、年も相当に老いて御座ったれば、鼻水を、これ、普段から……じゅるじゅる……ぬるぬる……っと垂れ流しては、辺りを汚すこと、これ、多御座ってのぅ……そいで以って、我らが売る田楽の下拵えから味噌の仕立てまで、これ、ともにすべて、かの老人のなすことなれば……いや、その田楽や味噌には……鼻水も落ち……痰などをまで……ぽたぽた……だらだら……っつ落とせど、一向に気にせずに拵えておるのを見てはのぅ。……まあ、この残りの田楽、食べるんならお食べ!……おいらは、まっぴら、ご免じゃ!……」

とのたもうて御座いました。

 しこうして、三人打ち寄り、

「……いやはや……人に見えぬこととは言いながら……買ふ者とては……これ、よう……食べるもんで御座るのぅ。……」

と、囁き合(お)うて御座ったを、その窓内にて、こっそり聴いて仕舞いました。……ゲロをも吐かん心地致すとともに、また、なんともおかしき気も込み上がって参りまして御座いました。……」

と、芸英殿の語って御座った話。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 40 明治一〇(一八七七)年十月九日 火曜日 大森貝塚本格発掘

M290
図―290

 

 この前の火曜日に私は労働者を多数連れて、大森貝塚の貝塚を完全に研究しに行った。私は前に連れて行った労働者二人をやとい、大学からは、現場付近で働いて私の手助けをする労働者を、四人よこしてくれた。彼等はみな耨(くわ)やシャベルを持ち、また我々が見つけた物を何でも持ち帰る目的で、非常に大きな四角い籠を持って行った。私の特別学生二人(佐々木氏と松浦氏)、外山教授、矢田部教授、福世氏も一緒に行った。なお陸軍省に関係のあるル・ジャンドル将軍も同行した。彼は日本人の起原という問題に、大いに興味を持っている。また後の汽車でドクタア・マレーとパーソンス教授が応援に来たので、この多人数で我々は、多くの溝や、深い濠を掘った。この日の発掘物は、例の大きな四角い籠を充し、別に小さな包みにしたものに対する運賃請求書には三百ポンドと書かれ、なお大事な標本は私が手提鞄(ハンドバック)に入れて帰った。図290は、貝塚の陶器で充ちた大きな籠をかついで鉄道線路にそって帰る労働者達を写生したものである。前の時と同じように、労働者達は掘りかえした土砂を、耨やシャベルを以て元へ戻し、溝を埋め、灌木や小さな木さえも植え、そしてその場所を来た時と同様にした。彼等は恐しく頑張りのきく労働者達で、決して疲れたような顔をしない。今日の作業の結果を加えると、大学は最も貴重な日本古代の陶器の蒐集を所有することになる。すでに大学の一室にならべられた蒐集でさえ、多大の注意を惹起しつつあり、殆ど毎日、日本人の学者たちが、この陶器を見る許可を受けに来る。彼等の知識的な鑑賞や、標本を取扱う注意深い態度や、彼等の興味を現す丁寧さは、誠に見ても気持がよい。東京の主要な新聞『日日新聞』は、私の発見に関して讃評的な記事を掲載した。図291はそれである。

 

M291
図―291

 

[やぶちゃん注:磯野先生は「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」で、この大森貝塚の本格発掘が、日本人大衆が貝塚という存在を初めて正しく学術的に認知したその瞬間であったことを、以下のように記しておられる(同書第十二章「大森貝塚の発掘」一一八頁)。

   《引用開始》

『常陸風土記』には、今の大串貝塚について昔巨人が貝を食べて捨てた跡だとあり、これが世界最古の貝塚の記述という。その後も大同小異の伝説はあったし、日本人がその存在に気付いていたことは貝塚を地名とする場所が多いことからもわかる。しかし、それが古代人のゴミ捨て場だったこと、学術的に意味をもつ存在であることは、このとき初めて知られたといってよい。

   《引用終了》

「大串貝塚」は茨城県水戸市塩崎町にある縄文前期に形成された貝塚遺跡である。なお、図291はモースの言うように十月八日附『東京日日新聞』の記事である。以下に電子化しておく(対照し易くするため、一行字数を合わせた)。

   *

開成學校お雇ひ大博士イーエス、モールス氏(米國にて

一二を爭ふ有名の探古學者)は曾て汽車にて大森を經過

せし時倉卒の際にも一つの小芥丘をキツト觀察して其只

物に非ざるを豫て疑ひ居りしが疑念勃々胸懷を離れざれ

ば此頃ろ終に其穿鑿に着手して此小芥丘を發ばきければ

地下凡そ一間程の所に至て太古人民の品類甕瓶瓦凡食器

等を夥しく掘出したり其器物類の形狀はさも米國土人の

作爲せる者に似たり依て想像すれば日本太古の人民は則

ち米國太古の人民と同人種にて「アイノー」人種が先づ之

を駆り除け其「アイノー」人種を今の日本人が逐除けて此

國に居住することとはなりしならんかとも云へり尚委細は

いづれモールス氏より世界の學者連へ報道する所あるべ

ければ其報を得て後号に掲ぐべしと民間雜誌に見ゆ

   *

「民間雜誌」とはこういう誌名の学術雑誌で、慶應義塾が初めて発行したもので明治七(一八七四)年創刊、自然科学・社会科学・文学・宗教全般を扱った。明六社の『明六雑誌』(明治七年三月創刊)とほぼ同時期に発刊された。明治八(一八七五)年五月に一旦廃刊するが、明治九年九月に『家庭叢談』を『民間雑誌』と改題して週刊雑誌として新発足していた。福澤諭吉が「売薬論」など数多くの社説を載せ、他にも矢野文雄・朝吹英二・中上川彦次郎など慶應義塾の関係者が数多くの社説を書いて、明治初期の評論界を文部省の発行していた『文部省雑誌』や大槻磐渓の『洋々社談』・中村敬宇の『同人社文学雑誌』などとともに牽引した。この後に出てきたのが徳富蘇峰の『国民之友』(明治二〇(一八八七)年創刊)や三宅雪嶺の『日本人』(明治二十一年創刊)である(以上はウィキの「民間雑誌」に拠った)。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、この『民間雑誌』にモースのこれと同記事が載ったのは二日前の十月七日のことで、孰れもそれに先立つ十月六日発行の英字新聞『トーキョー・タイムズ』の記事に準拠している。但し、この日附と次の私の注で分かるように、これらの記事は本段に記された大森貝塚の本格発掘調査に先立つ二回に亙るプレ発掘調査(九月十六日及び九月十八か十九日かに行われた二回分)を受けてのことである点に注意されたい。

「この前の火曜日」十月九日(火曜)に行われた大森貝塚第三回発掘調査。これが同貝塚の本格的発掘の最初であった。

「佐々木氏」佐々木忠次郎(忠二郎とも表記 安政四(一八五七)年~昭和一三(一九三八)年)は後の昆虫学者にして近代養蚕学・製糸学の開拓者(父佐々木長淳も養蚕学の研究者であった)。東京大学在学中にモースやチャールズ・オーティス・ホイットマンの指導を受け、明治一二(一八七九)年には飯島魁とともに陸平(おかだいら)貝塚(茨城県稲敷郡美浦村霞ヶ浦南岸にある、縄文前期から後期にかけての国内でも規模の大きい貝塚群。日本人によって初めて発掘調査が行われた遺跡であり「日本考古学の原点」と称される。)を発掘調査を行っている。明治一四(一八八一)年に東京大学理科大学生物学科第一回生として卒業後、駒場農学校助教授・教授を経、東京帝国大学農学部教授となった。大正一〇(一九二一)年に退官して名誉教授。害虫研究や蚕研究を行い、多くの著書と論文を発表した。国蝶である鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科コムラサキ亜科オオムラサキ属オオムラサキ Sasakia charonda の属名「ササキヤ」は彼に対する献名(以上はウィキ佐々木忠次郎及び同リンク先の各記載に拠った)。

「松浦氏」松浦佐用彦(まつうらさよひこ)。

「外山教授」外山正一文学部教授(心理学・英語)。複数既注。

「矢田部教授」矢田部良吉理学部教授(植物学)。複数既注。

「福世氏」福与の漢訳の誤りと思われる。既注であるが、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、佐々木忠次郎の伝記中にこの時の同行者として「福与一」の名があり、彼は同行した学生佐々木・松浦と東京開成学校で同期であった福与藤九郎と同一人物であろうとされる。

「ル・ジャンドル将軍」チャールズ・ウィリアム・ジョセフ・エミール・ルジャンドル(Charles William (Guillaum) Joseph Émile Le Gendre 一八三〇年~一八九九年)。フランス生まれのアメリカ軍人・外交官。明治五(一八七二)年から明治七年まで明治政府の外交顧問、一八九〇年から一八九九年まで朝鮮王高宗(一八九七年からは大韓帝国皇帝)の顧問を務めた。十五代目市村羽左衛門は実子。アモイ(厦門)米国領事であった明治五年に帰国する途次、日本に立ち寄った際に政府に対して台湾問題の武力解決を提唱、副島種臣外務卿の意見と一致していたことから、ルジャンドルは直ちに米国領事の職を辞して、外交及び軍事顧問として明治政府に雇用された。明治七年末には顧問を辞任したが、ルジャンドルは明治二三(一八九〇)年まで日本に滞在し、大隈重信の個人的な顧問を務めた(以上はウィキチャールズ・ルジャンドルに拠った)。

「ドクタア・マレー」文部学監ダヴィッド・マレー。複数既注。

「パーソンス教授」原文も“Professor Parsons”であるが、パーソンが正しい。ウィリアム・パーソン(William Edwin Parson 一八四五年~一九〇五年)はお雇い外国人教師の一人で、ペンシルベニア生まれのアメリカ人理学教授。神学校を卒業後、ワシントンD.C.に於いて教会を設け、聖職活動に従事中、日本政府に雇われて明治七(一八七四)年に東京開成学校の数学及び物理学教師として来日、同校が東京大学に昇格後も理学部(正式担当は数学)で教え、この翌明治十一年に帰国した。滞日中はフォールズ(後述)らと共に楽善会訓盲院(後の東京盲唖学校)の創設に参加、日本に於ける障害児教育に寄与した。東大の『学芸志林』(明治一〇年創刊の東京大学法理文三学部編になる科学雑誌)に「宗教理學相矛盾セザルヲ論ズ」が載せられている。帰国後は牧師の職に戻り、また、ハワード大学でヘブライ語やギリシャ語を教えた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。ここに出るフォールズとはイギリス人医師ヘンリー・フォールズ(Henry Faulds 一八四三年~一九三〇年)のことで、彼は明治六(一八七三)年に合同長老教会医療伝道団の一員として来日、東京の築地病院で働き、治療とともに日本人医学生を指導した人物で、指紋研究者でもあったがその濫觴は彼がモースと親しくなって、まさにこの大森貝塚の発掘に参加、そこで発掘された土器に残されていた古代人の指紋に興味を持ったことが契機となって研究を始め、遂には数千セットの指紋を集めて比較対照を行い、現在当たり前に知られている、同一の指紋を持つ者は一人としていないこと、指紋は人体から物理的に除去しても再生すること、児童の指紋が成長しても変わらないことなどを発見したのであった(ここはウィキヘンリー・フォールズに拠る)。

「三百ポンド」136・07キログラム。]

橋本多佳子句集「海燕」 昭和十年 櫓山日記

 櫓山日記

 

山莊やわが來て葛に夜々燈す

 

花葛の濃きむらさきも簾(す)をへだつ

 

ひぐらしや絨毯靑く山に住む

 

[やぶちゃん注:「櫓山」は小倉市中原(なかばる。現在の小倉北区中井浜)にあった夫豊次郎自ら設計建築になるが大正九(一九二〇)年に完成した三階建和洋折衷西洋館櫓山荘のこと。堀内薫氏の底本年譜によれば、この櫓山(やぐらやま)と呼ばれた小山は『旧藩時代に、小倉の小笠原藩の黒船見張所として櫓が建てられた御番所跡で』、『海に突き出た岩礁を「境岬」、その近くを流れる川を「境川」とい』い、『海岸に突き出た丘の上に建つ櫓山荘の居間の窓から海原が展望出来』た。『玄海の波濤が近くまで押し寄せ、東方に響灘、関門海峡、前方に巌流島、彦島、六連』(むつれ)の島々『が見える』という絶景の地にあった。『どの階の窓も大きくて』(下記リンク先の当時の写真で確認出来る)、『ステンドグラスに趣向をこらして』あった。『このステンドグラスも、玄関の白と濃い茶の市松模様の敷石も全て英国からの特別注文』製で、『庭にはテニスコート』もあるという、驚くべきオリジナリティに富んだモダンな別荘で、『ロマンチスト豊次郎の自画像とも言うべき個性ある夢多い建築だった』とある(残念ながら建物は現存しない)。なお、山荘の方は「ろざんそう」と読む。但し、この頃は夫の父橋本料左衛門(大阪橋本組創立者)の逝去に伴って小倉から大阪帝塚山(てづかやま)に転居しており(昭和四(一九二九)年十一月)、ここはその後、昭和一四(一九三九)年まで別荘として使用していた(その間に昭和一二(一九三七)年の豊次郎の死去を挟む)。北家登巳氏のサイト「北九州のあれこれ」の「櫓山荘跡」は豊富な現在の画像とともに洒落たロマンティクなかつての櫓山荘の面影が詳しく載る。必見必読である。]

靑いゆき 萩原朔太郎

 靑いゆき

靑いぞ、
ゆきはまつさを、
もも、さくらぎに花咲かず、
靑いこなゆき、
光る山路に泣きくらす。
靑いぞ、

[やぶちゃん注:『地上巡礼』第一巻第三号・大正三(一九一四)年十一月号に掲載された。]

彫られた 空  八木重吉

彫られた 空の しづけさ

無邊際の ちからづよい その木地に

ひたり! と あてられたる

さやかにも 一刀の跡

鬼城句集 冬之部 火鉢

火鉢    仁術や小さき火鉢に焚落し

[やぶちゃん注:「焚落し」は「たきおとし」と読む名詞で、薪を焚いた後に残った燠(お)き火のこと。医者が病床の家人(視線の高さから本人ではない)のために往診に来、去った直後の病床の景か。何か、とても気になる寂寥感を湛えた句であるように私には思えるのだが。私の解は誤りであろうか? 大方の御批判を俟つ。]

2014/01/06

鈴木の兄イ

35年も前のこと、新米教師としてどう生きるかに迷っていた頃、僕は本郷台の元船乗りのやる如何にも小汚い森食堂で、ガスの配送をしていた青年(僕と同世代)と出逢った。

その彼と僕は一瞬にして意気投合し、二人でとんでもない酩酊の世界を遊んだのだった……

……彼に呼ばれた彼の結婚式は僕の人生初のスピーチでもあった……

……さても……その二人の酔いの世界?……無免許の、しかも酒に酔った僕を運転席に座らせて
「やぶちゃん、運転してみいな!」
に始まり…………いやいや、こればっかりは、とてもブログには書けやしない……それほどにアブナイ面白さだったな……しかし……

しかし――それは確かに僕の「美しくしもやんちゃな青春」だったに違いない……

その彼が今、年賀状で教師を辞めた僕のことを知って(この二年、僕は母と義母の死を挟んで年賀状を出していない。その間に僕は教師を辞めたのである)。気にかけて、電話を呉れたのであった……

時計が鮮やかに巻き戻る…………

あの頃……確かに「僕ら」は自堕落でありながら……確かに――懸命に――「生」を活きていた……

それを僕はしみじみ懐かしく思った……

……そうして……現に僕を愛してくれている数少ない人が彼なのだとも、僕はしみじみ思うのである…………

――ありがとう、鈴木の兄イ!――

追伸:兄イ、静岡の空港の自然破壊を憤って焼身自殺した僕の友、井上英作氏の遺稿「フィリピーナ・ラプソディー」はここです。   

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 明治村

    ●明治村

明治村は。相模國高座郡に屬し。鵠沼村の西隣なり。町村制施行の際。羽鳥(はとり)、大庭(おほば)、辻堂、稻荷の四村を合(がつ)して。此の稱を附せり。改稱の日尚ほ淺きを以て。近邊に至り明治村を問ふも。知る者なく。舊稱を唱ふれは直ちに答へり。海水浴場は。舊辻堂村の海濱に係れは。今聊か同村の事を記すべし。新編相模國風土記に云。

[やぶちゃん注:以下、一行字数を底本に合わせたが、割注を同ポイントで示したため、不揃いとなっている。]

 小田原北條氏の頃は。關兵部丞知行す。

  役帳に。關兵部丞五十二貫四百文。東郡羽鳥辻堂と載す。

 今は御料所にして。

  寶曆十二年より御料となる。其已前は保々藤助、戸田靫負

  高木富三郎、森川左近等知行す。

  又小許の新田あり。明和八年開闢(かいべき)し。翌年江川太郎左衛門

  英征撿地して高入(かふにふ)とす。飛地鵠沼村にあり。〔八段五畝歩〕西北に

  東海道係る。〔當村に一里塚あり〕又大山路あり。〔東海通往還小名四谷より右折す〕南方海

  濱に砲術場の曠原あり。此地(このち)魚獵(ぎよれう)の利多し。又松露初茸を

  産す。

八松稻荷社

田畑明神社 社後に片葉(かたは)の葭(よし)生す

諏訪社 村の鎭守とす。寛永の棟札(むねふだ)あり。〔寛永十五年三月檀主保々石見守と記す〕

寶珠寺 八松山明王院と號す。古義眞言宗。〔藤澤宿感應院末〕本尊不動を

 置く開山を元朝〔元曆三年三月八日寂〕中興を玉鉉〔享和三年寂す寺記の類は元祿七年八月雷火に烏有〕

[やぶちゃん注:上記は底本では頭も一字下げで「寶珠寺八松山明王院と號す……」となっているが、組版の誤りと判断してかくした。]

寶泉寺 海龍山觀音院と號す。本尊正觀音を安置せり。

[やぶちゃん注:「明治村」明治二二(一八八九)年四月一日の町村制施行によって高座郡辻堂村・大庭村・羽鳥村・稲荷村が合併して出来た村であったが、その九年後である明治三十一年の本誌発行から今度はたった十年後の明治四一(一九〇八)年四月一日 には明治村・藤沢大坂町・鵠沼村が合併して藤沢町となった。当時の明治村は現在の藤沢市の辻堂地区・湘南大庭地区及びその旧名を残す明治地区(辻堂駅の東北直近)が該当する。

「寶曆十二年」西暦一七六二年。

「小許」は「すこしばかり」と訓ずる。

「明和八年」西暦一七七一年。

「英征」「ひでゆき」と読むか。

「高入」郡村名や村高(検地によって定められた一村の総石高のこと。原則、年貢・諸役はこの村高に応じて賦課した。風水害等によって耕地が損壊しても次期検地までは原則的に村高は変更されなかったが、現実の年貢収取に当たっては実際に作付けされた耕地の石高(毛付高)を基準とする場合が多かった。)を列記した帳簿を「高帳」と称し、村高に編入することを「高に結ぶ」「高結(たかむすび)」「高入」と言った。

「大山路あり。〔東海通往還小名四谷より右折す〕」大山詣でルートの中でも最も有名な、現在の神奈川県藤沢市から大山へ向かう田村通り大山道。起点の藤沢四ツ谷(現在の辻堂駅北東北約一キロメートル地点)には「一の鳥居」が置かれた。御花講大山道・御花講道とも呼ばれ、東海道と藤沢宿で接続し、藤沢宿を挟んで対称位置にある江の島道にも通じるため、最も賑いをみせた経路であった。現在の神奈川県道四四号伊勢原藤沢線や神奈川県道六一一号大山板戸線が近似したルートを辿っている。

「八松稻荷社」「八松」は「やまつ」と読む。藤沢市辻堂元町四丁目にある。文治年間(一一八五年~一一九〇年)の勧請とされ、名前はこの地域が古くは「八松(やまつ)ヶ原」「八的(やまと)ヶ原」と呼ばれていたことに由来する。これについては次の項の「八松原」で詳述する。

「田畑明神社」藤沢市辻堂元町四丁目にある。現在の社は元禄年間(一六七〇年前後)建立のもの。田畑御繩打ち納めの時にこの縄がここに納められたという。

「片葉の葭」「でんばくさまのさかさあし」というこれに類似した呼称を含んだ辻堂東町に伝わる民話では、梶原景季が戦さのため、この「でんばくさま」(田畑明神の通称である)近くを走りかかった際、畑にいた村人らが景季の鎧が立派でないのを笑ったところ、景季が怒り、鞭代わりにしていた葦を逆さに泥沼の中に挿し込んだ。それ以来、ここの葦は逆さに伸びるようになった、とある(「地域新聞辻堂タイムズ」の「辻堂物語 その1」に拠った)。

「諏訪社」藤沢市辻堂元町三丁目にある。「地域新聞辻堂タイムズ」の「辻堂諏訪神社例大祭」の以下の記載を見る限り、この「辻堂諏訪神社」を指していると考えてよい。本社は『長野県上諏訪、下諏訪の両大社の分神であり、推定、西暦1159年創建以来広く崇拝され『辻堂のお諏訪様』として親しまれてきた。明治6年、神佛分離により、辻堂村社として認可を受け、辻堂総鎮守となる。末社として、八松稲荷神社他6社がある』。

「寛永十五」西暦一六三八年。

「寶珠寺」藤沢市辻堂本町にある。現在は辻堂駅南口から徒歩約十分程のところにあるが、かつては旧辻堂村の中心地付近にあった。文化元(一八〇四)年に現在地へ移築されたもので、辻堂の地名は旧鎌倉街道と村道の交差する辻にあった本寺の不動堂に由来するものである(「藤沢市まちづくり協会」の「辻堂のはなし」に拠る)。

「元曆三年」不審。元暦は二年(西暦一一八五年。文治元年に改元)までしかない。国立国会図書館版(巻之六十・高座郡巻之二)の「鳥跡蟹行社」版及び「大日本地誌大系」版の画像で視認したが間違いではない。識者の御教授を乞うものである。

「玉鉉」「ぎよくげん(ぎょくげん)」と読むか。

「享和三年」西暦一八〇三年。

「元祿七年」西暦一六九四年。

「寶泉寺」藤沢市辻堂元町三丁目にある。真言宗。本尊十一面観音。源頼朝が勧請したとされ、建久元・文治六(一一九〇)年~正治元・建久十(一一九九)年頃の創建と考えられる。俗に「南の寺」と呼ばれ、江戸時代は大山詣での帰りに必ず参詣する寺として賑わった。]

 

【2016年1月13日追加:本挿絵画家山本松谷/山本昇雲、本名・茂三郎は、明治三(一八七〇)年生まれで、昭和四〇(一九六五)年没であるので著作権は満了した。】

Ekzk_meijimura

山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 明治村明治館の図

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)の挿絵。上部欄外に「明治村明治館の圖」というキャプションがあり、左(東方)に「江ノ嶌」の貼り込みがあって、その上の句は、

 

すゝ

  しさや

 冨士

  江の島

     も

  嶋のうち

  惠美ひ壽樓主人

      泉山(○囲み)

 

とある。これは――『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 15 恵比寿楼――に注した、またしても恵比寿楼主人永野泉山政康の句である。江の島の上に配して画賛代わりとしたものであるが、彼はよっぽど『風俗画報』に広告料を払ったものと見える。なお、私は旧明治村の位置(前に注した通り、現在の藤沢市の辻堂地区・湘南大庭地区及び辻堂駅の東北直近の明治地区)に行って検証した訳ではないが、どう考えても、こんなところに富士山が見えるはずはない。寧ろ、句に合わせて景観を盆景化したものと解釈するしかない。ガイド・ブックの挿絵としては事実に反する歪曲画像で今なら、吊るし上げられるところだろう。]

耳囊 卷之八 雷の落んとする席に焚火不燃事

 

 雷の落んとする席に焚火不燃事 

 

 文化丑寅の年にやありし、夏中雷つよく、一ツ橋御屋形内(やかたうち)へあまりし事有しが、其折柄(そのおりから)御次の間にて焚火して居たりしが、何程たきてももえざりしかば、亞相公(あしやうこう)御覽有(あり)て、たき火の燃(もえ)ざるは雷のあまる事あるべし、其席を退(の)き候へと、其火を外へうつし、人をも御退(のけ)せ有(あり)しが、果して其席へ雷あまりしと也。世の中に雷のするとき燃火(もえび)するも、かゝる譯ならんかし。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特に感じられない。自然現象に関わる都市伝説級(実際に一ツ橋邸内に落雷があったことを予見した点で)の伝承譚。落雷現象の直前には何らかのイオン変化は起こるのであろうが、そんな変化が起こったら逃げる間もなく落雷しそうな気がする。科学的な論拠はどうなのだろう? 識者の御教授を乞うものである。

 

・「文化丑寅の年」と続くのは、文化二(一八〇五)年乙丑(きのとうし)と文化三(一八〇六)年丙寅(ひのえとら)。因みに文化は十五年続いたので最後に文化十四(一八一七)年丁丑(きのとうし)と文政元・文化十五(一八一八)年戊寅(つちのえとら)があるが、根岸は文化一二(一八一五)年十一月四日に亡くなっている。因みに、「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏である。

 

・「あまりし」「日本国語大辞典」によれば、「あまる」(「余る」とは別項立て)で、雷が落ちる、落雷するとあって、現在も岐阜・鳥取・島根・岡山・広島・徳島・香川・愛媛・高知・大分・宮崎各県の一部などに方言として残ることが示されてある。語源説として、「大言海」の『アモル(天降)の転か』を示す。「あもる」(天降)は「天(あま)降(お)る」の変化したもので、天井から地上に降下する、天下るの意、転じて天皇がお出ましになる、行幸される、の謂いとして用いられた万葉以来の古語である(但し、「あもる」自体には現象としての落雷することを指す意や用例はないものと思われる)。

 

・「焚火」夏場なれば不審であるが、これは小さな炉か器か何かの中で事実、小枝か何かをくべて火を燃やしているものと思われる。最後に書かれているように落雷予知のために当時、比較的普通に行われていた落雷探知器であったらしい。

 

・「亞相公」一橋治済(はるさだ 宝暦元(一七五一)年~文政一〇(一八二七)は御三卿(ごさんきょう)一橋家第二代。一橋宗尹(むねただ)四男。第八代将軍吉宗の孫。明和元(一七六四)年に家督を嗣ぐ。第十一代将軍家斉(いえなり)の実父であったために家斉は治済を大御所として迎えようとしたが、老中松平定信の反対で実現しなかった。寛政十一(一七九九)年に従二位に昇叙して権大納言に転任後、隠居した(この「亞相」という呼称は以前に注した通り、丞相に亜(つ)ぐの意で大納言の唐名である。以上は主に講談社「日本人名大辞典」に拠った)。文化二、三年の話柄当時は満五十四、五歳である。因みに、偶然とは思われるが、前の火爐の炭つぎ古實の事に登場した公卿伊光が連座した、光格天皇が実父の典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとして定信に拒否された尊号一件は、まさにこの直後に起こっていた。ウィキ尊号一件」によれば、定信は『朝廷に対して尊号を拒否している手前、将軍に対しても同様に拒否をせざるをえなくなり、結果家斉の機嫌を損ね、事件後に松平定信が失脚、辞職する遠因となる』とある。実に面白い。たかが「耳囊」、されど「耳囊」、私は自から注をしながら、大いに勉強させてもらっている。まっこと、有り難く存じまする! 根岸殿!

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 雷が落ちようとする場所では焚き火は燃えないという事 

 

 文化丑か寅の年で御座ったか、夏中(なつじゅう)、実に強烈な雷がよく鳴り、一ッ橋家御屋敷内(うち)へも大きな落雷が御座った。

 

 その折りのこと、御次(おつぎ)の間に於いて控えの者が火を焚いて御座ったところ、何度焚いても直に、これ、消えてしまう。それを凝っとご覧になられておられた御主(おんあるじ)一橋亜相公(あしょうこう)治済(はるさだ)殿、

 

「……焚き火が燃えぬと申すは、これ、雷が落ちる予兆に違いない!――その席を退(の)きて御座れ!」

 

と、焚きかけた炉火を他の部屋へと移し、御次の間に控えて御座った人々をも、一人残らずお退け遊ばされた。

 

……と……

 

――ズッツ! ドオーーーーーーン!

 

と! 果してその次の間のど真ん中へと雷が落ちたとのことで御座った。

 

 世の中に於いて雷が頻りに鳴る折りには、夏場の暑い時期にても、火を燃やすという不思議なことがしばしば行われておるは、このような理由があるものであるらしい。

 

渚 萩原朔太郎

  渚

女はかなしくよりそひて
わが手をみつむ
夕浪のひき去りゆく渚に座り
ほの白く光りて殘る渚を指さし
われ等なにごとか語らむと思ふなり
愛なくしてときのすぎゆくわびしさは
この言葉なきかたらひのひまに。

[やぶちゃん注:底本筑摩版全集第三巻所収の『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』より。これは現在は詩稿は残っていないが、過去に出版された小学館版及び創元社版全集で活字化されているもの、及び著者書簡中に記された詩稿などを収めたものであるが、この詩の出所がそのどこであるかは不思議なことに明示されていない。]

天がける飛鳥かしらずゆかしむは鸚鵡なりにし人の釋迦牟尼 萩原朔太郎

天がける飛鳥(ひちやう)かしらずゆかしむは鸚鵡なりにし人の釋迦牟尼

 

[やぶちゃん注:『白百合』第一巻第六号(明治三七(一九〇四)年四月発行)の「純文社詩稿」欄に「萩原美棹(前橋)」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十七歳。歌意は私には今一つ、不審。因みにヒンドゥ教ならば、インドはタミール族に伝わる伝承で、シヴァとパールヴァティーの息子とされる神カータヴァラーヤンが愛するマーラー姫に逢うために鸚鵡に変じてはいる(詳細なストーリーはブログ「Priyan News & Gossips」の当該神話を映画化した作品についての評レビュー:Kathavarayanに詳しい。しかし「釋迦牟尼」では意味が通らぬ。識者の御教授を乞う。]

橋本多佳子句集「海燕」 昭和十年 月見草

 月見草

 

卷き雲が尾をひき並び夕燒けぬ

 

月見草地の夕燒が去りゆきぬ

 

月見草雲の夕燒が地を照らす

 

高波のくだくる光り月見草

 

月見草闇馴れたれば船見ゆる

 

[やぶちゃん注:これらの「月見草」は、他対照とのパースペクティヴを句の眼目とする四句の内でも、特に「高波の」と「月見草闇馴れたれば」の二句の視線の高さから見て、黄色の知られた双子葉植物綱フトモモ目アカバナ科Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属 Oenothera のマツヨイグサ Oenothera stricta 又はオオマツヨイグサ Oenothera erythrosepala 以外には考えられないが(グーグル画像検索「Oenothera stricta及びOenothera erythrosepala)、私は秘かに私の偏愛してやまない白いツキミソウ Oenothera tetraptera 以外に多佳子に最も相応しい花はないと、かねがね秘かに思っていることをここに告白しておきたい(グーグル画像検索「Oenothera tetraptera)。そうして……そうして私は白い月見草といったら、これを書かずにはいられないのだ……鬼城句集 夏之部 宵待草の花でも書いたが、やっぱり書かずにはいられない……私の古い家の猫の額ほどの庭にはかつて、この真っ白なツキミソウ Oenothera tetraptera の群落があって、夏、十数輪の花を咲かせては独身の頃の孤独な泥酔した僕を待っていてくれたものだった……しかし……ある夜、彼女に逢うのを楽しみに帰ってみると……群落そのものが移植ごて綺麗に根こそぎ(明らかに根を傷つけぬように計算された緻密で丁寧な一定の深さに抉られてあった)、何者かによって一茎も残さずに持ち去られていたのであった(それが何処の誰であるかは実は知っている。私の家の前の道は本来は私道で、その頃、限られた人物しか通らなかったから。山を越えた向こうに住んでいる、その後の私の家の庭に難癖をつけた園芸通を気取っていた、あのむくつけき中年女に違いないのだ)。…………私はユリィデイスを失ったオルフェのように地べたに膝をついて号泣した――]

葉  八木重吉

 

葉よ、

 

しんしん と

 

冬日がむしばんでゆく、

 

おまへも

 

葉と 現ずるまでは

 

いらいらと さぶしかつたらうなゝ

 

 

葉よ、

 

葉と 現じたる

 

この日 おまへの 崇嚴

 

 

でも、葉よ

 

いままでは さぶしかつたらうな

 

[やぶちゃん注:「らうなゝ」の踊り字はママ。誤植の可能性が高いがママとした。「崇嚴」は「すうごん」で容易に近より難くて厳かなこと。]

鬼城句集 冬之部 炭

炭     炭取の火にあぶりて熱き一壺かな

 

      榾の火に大きな猫のうづくまる

 

      天井に高く燃えあがる榾火かな

2014/01/05

耳嚢 巻之八 火爐の炭つぎ古實の事

 火爐の炭つぎ古實の事

 

 文化五卯年春、例の通(とほり)勅使院使參向あり、別段の御禮として、聖護院宮(しやうごゐんのみや)も參向(さんかう)にて〔此(この)聖護院宮は今上の御實弟也。〕二月廿九日御饗應の御能(おのう)ありしに、勅使廣橋(ひろはし)千種(ちぐさ)兩亞相(あしやう)の前へ出せし火鉢の炭、殊の外流れけるを、つぎ候樣にとの沙汰にて、中奧御番(なかおくごばん)〔山本平六郎 黑川左京〕其役を請(うけ)て、炭をもちて手をもてつぎたりしを、兩卿旅館に歸り給ひし其あくる日、京都にて親しふ參りし塙檢校(はなはけんげう)といへる法師、傳奏(でんさう)屋敷へ至り起居(ききよ)を訪ひし頃、廣橋殿申されしは、關東にも古實等はよくよく御糺(おただし)も有(あり)ける也(なり)、此程能見物の節、火鉢の炭流れしを、繼(つぎ)かへし候ものゝ立(たち)ふるまひ、炭つぎ方營中にての式にちがはず、手してつぎかえし事感心せしと被申(まうされ)けるを、彦介立歸りがけ堀田攝津守の許へよりてかたりしを、攝津守聞(きき)給ひて、右中奧の名前、並(ならびに)炭つぎし人を尋(たづね)給ひしゆゑ、いかなる失(しつ)や有(あり)しと中奧にては驚きしが、以來ともつぎかへ候筋は此度(このたび)の通り心得候へと沙汰有(あり)しにて、いづれもあんどなせしとなり。此事を、和學詠歌抔にて人の知る横田袋翁、糺しける事有しと書(かき)て見せぬ。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

徒然草〔普通本二百十二段〕

御前の火爐に火を置く時は、火ばししてはさむ事なし。かはらけよりたゞちにうつすべし。さればころびおちぬ樣に心得て炭をつむべきなり。德治三年後字多法皇八幡御幸に供奉(ぐぶ)の人、淨衣(じやうえ)をして手にて炭をさゝれければ、ある有職(いうそく)の人、しろき物着たる日は、火ばしを用(もちゆ)るくるしからずと申されけり。

めのとのさうし

むかしさる御方に、今まいりの女房の、みぐるしげにてさし出たるが、御前の火鉢に炭を火箸にておかれ候を、御主も傍輩も、御前の炭は手にておくものにて候、はしにてはおかぬものと申候得ども、火ばしにてをきて立のきて、炭のあしく候ほどにと申(まうし)て、その儀御いとま申ける。此人はおさなきより、修明門院(しゆめいもんゐん)の御かたはらにさむらひける人となん聞(きこ)へし。實(げに)も御前の炭はよくのごひてひきて、油をぬりておくなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:武辺古記録から有職故実記録で連関。三つ前の横田泰翁直談話としても連関。

・「火爐」「くわろ(かろ)」と読み、火鉢・囲炉裏などの類い。なお、最後に掲げられた古書からの引用例二つは、この故実の正統性を補強するものでなくてはならない。さればそのような方向性で訳の一部に敷衍を施してある。特に後者の訳は実はとんでもない誤訳なのかもしれない、と注記するほどに自信がないことを告白しておく。是非とも識者の御教授を乞うものである。

・「古実」故実。古くは「こしつ」とも読んだ。儀式・法制・作法・服飾などの古い規定や習慣。

・「文化五卯年」文化五(一八〇八)年は戊辰(ちちのえたつ)であるから誤り。卯年ならば前年の文化四年丁卯(ひのとう)。因みに「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、直近の話柄である。訳では文化五年辰年と訂した。

・「勅使院使」底本鈴木氏も岩波長谷川氏も文化五年のそれを記す。これは以下の担当者からの判断によるものである。この時の勅使ら公卿は、

〇広橋前大納言伊光(ひろはしこれみつ  延享二(一七四五)年~文政六(一八二三)年))。彼は尊号事件〔寛政元(一七八九)年に光格天皇が実父の典仁親王に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとして幕府老中松平定信から皇位に就いていない人物への皇号は先例がない(事実は必ずしもそうではない。ウィキの「尊号一件」を参照されたい)として拒否されるも、寛政三年に天皇が群議を開き、大方の公卿の賛意を得て、尊号宣下の強行を決定した事件。結局、尊号宣下は行われなかった。〕での首謀格として寛政五年に謹慎が命ぜられて二十日間に渡って参朝を停められた人物でもある。当時、満六十三歳。

〇千草前中納言有政(寛保三(一七四三)年~文化九(一八一二)年)。議奏(朝廷の職名。天皇の側近として口勅を伝え、上奏を取り次いだ。清華(せいが)・羽林(うりん)の両家から四、五人が選ばれた。千草家は羽林家の家格を有した。)や武家伝奏(朝廷の職名。諸事に亙って武家との連絡にあたる役。江戸時代には定員二名で関白に次ぐ要職であった。伝奏。)を務め、朝廷の重職を担った。彼は後に大納言になっている。

の勅使二名、院使は、当時、満六十四歳。

〇梅小路前大納言定福(寛保三(一七四三)年~文化一〇(一八一三)年)。思文閣「美術人名辞典」によれば、『儒学を重んじ、余暇に経典を学び、道徳を論じたという』とある。

で、鈴木氏注によると、『三月朔日江戸着、二日登城、五日饗応の猿楽が催された。二月二十九日は誤り』とある。当時、満六十四歳。

・「聖護院宮」盈仁(えいにん)法親王(明和元(一七六四)年~文政一三(一八三一)年)。閑院宮典仁(すけひと)親王第七王子。後桃園天皇の養子で、天台宗聖護院門跡の忠誉入道親王の弟子。天明元年に親王となり、翌年に出家した。後、園城寺長吏・聖護院門跡となった。俗名は嘉種(よしたね)(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。当時、満四十三歳。

・「今上」光格天皇(明和八(一七七一)年~天保一一(一八四〇)年)。ウィキの「光格天皇」によれば、『傍系であった閑院宮家出身のためか、中世以来絶えていた朝廷の儀式の復興に熱心であった。実父慶光院と同じく歌道の達人でもあった。朝廷の権威の復権に努め、朝廷が近代天皇制へ移行する下地をつくったと評価されている。江戸幕府第10代将軍徳川家治の御台所倫子女王は実の叔母(実父の妹)にあたる(つまり、光格天皇は倫子女王の甥にあたり、徳川家治の義理の甥でもある)』とある。

・「亞相」丞相に亜(つ)ぐの意で大納言の唐名。

・「炭、殊の外流れける」儀式の時間内を燃え続けるように置いた炭が、予想に反して燃え尽きてしまって灰がちになったことを言っているようである。

・「中奧御番」「中奥」は江戸城の表と大奥の間にあった、将軍が起居して政務を執った建物。そこの番士。

・「山本平六郎」岩波版長谷川氏注によれば、山本邑良(むらよし)で安永四(一七七五)年に中奥番士となっているとあるから、この時、そんなに若くはない。五十は有に越えていよう。

・「黑川左京」岩波版長谷川氏注によれば、黒田正明(まさあきら)で天明八(一七八八)年に中奥番士となっているとあるから、「山本平六郎」よりかなり若い可能性が高いように思われる。

・「塙檢校」国学者であった検校塙保己一(延享三(一七四六)年~文政四(一八二一)年)。幼名寅之助・辰之助。江戸へ出てから千弥・保木野一と称し、後に保己一と改める。号は水母子。家号を温古堂という。武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市)の農家荻野宇兵衛・きよ夫婦の長男として生まれたが、七歳で失明、十五歳の時に江戸に出て、雨富検校須賀一の門に入った。保己一は音曲や鍼・按摩の修業をしたが不器用で物にならず、寧ろ、強く学問を志した。雨富検校の隣人の松平乗尹の紹介で歌学者萩原宗固に入門、また垂加神道を川島貴林に、故事考証を山岡浚明に学んだ。二十一歳の時、父と西遊して北野天満宮を守護神と定めた。二十四歳で賀茂真淵に入門した(但し、半年後に真淵は逝去している)。安永四(一七七五)年、三十歳で勾当に進み、須賀一の本姓を襲って塙を姓とした。同八年には全国に散在する国書を収集刊行する大事業を発起、その実現を北野天満宮に祈誓して「般若心経」百万巻読誦を発願した。三十八で検校となり、同年中に日野資枝・閑院宮典仁親王・外山光実の各門に入って堂上歌学を学ぶ。四十にして立原翠軒の推薦で水戸藩主徳川治保に謁見、後に「大日本史」校正に参画した。寛政五(一七九三)年、和学講談所と文庫創設を願い出て認められ、やがて林大学頭の支配下で幕府の財政援助を受けることとなった。保己一畢生の大事業は国書大叢書「群書類従」六百七十冊の編纂と刊行(文政二(一八一九)年)及びその続編である「続群書類従」の編纂と言える(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

・「傳奏屋敷」武家伝奏又は勅使の宿所として江戸に設けられた邸宅。

・「起居を訪ひし」岩波長谷川氏注に、『見舞う』とある。

・「關東」幕府方(同義として将軍をも指す)。

・「彦介」不詳。文脈からは塙保己一であるが、彼の呼び名にこのようなものを確認出来ない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『撿挍立帰り掛(が)け』とある。「塙殿」で訳した。

・「堀田攝津守」堀田正敦(ほったまさあつ 宝暦八(一七五八)年~天保三(一八三二)年)。若年寄。近江堅田・下野佐野藩主。摂津守。仙台藩主伊達宗村の八男として仙台で生まれ、天明六(一七八六)年に堅田藩主堀田正富の養子となって翌年に家督相続、寛政元(一七八九)年に大番頭、翌二年に若年寄・勝手掛となって、寛政の改革の財政を担当した。文化四年にはロシア船来航を受けて蝦夷地に赴いてもいる。文政九(一八二六)年に下野佐野に転封、天保三(一八三二)年に七十五歳で致仕するまで四十三年の長きに亙って若年寄の職にあった。この間、「寛政重修諸家譜」編纂を総括するなど、幕府の系譜編纂事業に寄与し、屋代弘賢(後注参照)・林述斎・大槻玄沢・谷文晁といった多くの学者文人と交わって彼らの学問芸術の庇護者ともなった。自らも博物学者として近世最大の鳥類図鑑「観文禽譜」を編纂している。(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「横田袋翁」再注すると、「耳嚢 巻之七 養生戒歌の事」に「横田泰翁」の名で初出する。底本の同話の鈴木氏注に、『袋翁が正しいらしく、『甲子夜話』『一語一言』ともに袋翁と書いている。甲子夜話によれば、袋翁は萩原宗固に学び、塙保己一と同門であった。宗固は袋翁には和学に進むよう、保己一には和歌の勉強をすすめたのであったが、結果は逆になったという。袋翁は横田氏、孫兵衛といったことは両書ともに共通する。『一宗一言』には詠歌二首が載っている』とある。本話に塙保己一が出るのもこれで頷ける。

・「徒然草〔普通本二百十二段〕」「普通本」とは流布本、一般に最も普及している版本という謂いであろう。特に現在しられた「徒然草」の本文の異同はないが、一応、以下に「徒然草」の流布版本の最初である慶長初年(一五九六年)に板行された古活字版を示しておく(但し、そこでは段数が二百十三段である。ただ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は正しく『二百十三段』とあるので単なる誤写と思われるので、訳では訂した)。底本は川瀬一馬校注版(講談社文庫昭和四六(一九七一)年刊)を用いたが、恣意的に正字化し、ルビの一部は省略した。

   *

    第二百十三段

 御前の火爐(くわろ)に火をおく時は、火箸(ひばし)してはさむことなし。土器(かはらけ)より、ただちに移すべし。されば、轉(ころ)び落ちぬ樣にこころえて、炭を積むべきなり。

 八幡(やはた)の御幸(ごかう)に供奉(ぐぶ)の人、淨衣(じやうえ)を着て、手にて炭をさされければ、ある有職(いうそく)の人、「白きもの着たる日、火箸を用ひる苦しからず。」と申されけり。

   *

●「御幸」平安以降、これを「ごかう(ごこう)と音読みした際には、天皇の「行幸(みゆき)」に対して上皇・法皇・女院の外出を指す。但し、古くは「みゆき」でもこれらの人々の場合にも用いた。

・「德治三年後字多法皇」前文の引用でお分かりの通り、これは一種の割注がそのまま本文に出たものである。これについて岩波版注で長谷川氏は、本話のこの「徒然草」「めのとのさうし」二書の引用部分が、大田南畝作の「一話一言」(安永四(一七七五)年~文政五(一八二二)年執筆)に、屋代弘賢の考証として載るものと酷似している旨の記載があり、ここはその『弘賢所引の『徒然草』の傍注を本文にくりこんだ語句』とされておられる。但し、「德治三年」は西暦一三〇八年で今上帝は後二条天皇及び花園天皇、その四代前が後字多天皇で長子であった後二条天皇のこの徳治三(一三〇八)年まで院政を敷いていた(その後、不仲であった実子後醍醐天皇の即位と台頭によって表舞台を去ってゆく。この父子の力関係は未だ複雑で判然としない)。

・「八幡」石清水八幡宮。

・「淨衣」神事仏式の潔斎の際に着用する白い服。

・「有職の人」有職故実(ゆうそくこじつ:先の故実と同じい。朝廷や公家の礼式・官職・法令・年中行事などの先例や典故)に詳しい人物。

・「めのとのさうし」南北朝以前に書かれたと思われる婦女の心得・宮仕の故実等を記した教訓書。作者不詳。

・「今まいり」新たに出仕すること、又は、その新しく出仕した者。新参者。

・「修明門院」後鳥羽天皇の寵妃藤原重子(寿永元(一一八二)年~文永元(一二六四)年)の院号。順徳天皇母。藤原南家高倉流藤原範季の娘で、母は平家一門平教子(清盛の異母弟教盛娘)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 火炉(かろ)の炭継ぎの故実の事

 

 文化五年辰年の春、例の通り、勅使・院使参向(さんこう)これあり、格別の御礼儀として、聖護院宮(しょうごいんのみや)も参向なされて〔この聖護院宮と申すは今上の帝の御実弟であらせられる。〕、二月二十九日、御饗応の御能(おんのう)が催されて御座ったところ、勅使広橋殿・千種(ちぐさ)殿両元大納言の御前(おんまえ)へお出し申し上げて御座った火鉢の炭が、何故か、すっかり燃え尽きてしまったによって、

「炭を継いでたもれ。」

との御沙汰があったによって、中奧御番(なかおくごばん)〔山本平六郎及び黒川左京。〕がその御役をお請け申し上げ、手ずから炭を持って火炉へと継ぎ換え申し上げた。

 さて、その両公卿殿が旅館にお帰り遊ばされた、その明くる日のこと、京にて御二方と親しくし申し上げて御座った塙(はなわ)検校と申さるる法師が伝奏屋敷へと参り、ご機嫌伺い致いた際、広橋殿の申されたことには、

「……関東方にても故実などはよくよくお糺しもこれあらっしゃるのおじゃるのぅ。……この度、御能見物の折節、火鉢の炭の消えたを、継ぎ加えて御座った者の、その立ち居振る舞いや炭継ぎ方……営中にてのその式に違わず……素手を以って継ぎ換えを致いたること、まっこと、感心しておじゃる。」

と申されたを、検校殿、伝送屋敷よりの帰りがけ、堀田(ほった)摂津守正敦(まさあつ)殿の許へ立ち寄られ、そのことをお語りになられたと申す。

 摂津守殿はこれをお聴きになられたによって、後日(ごにち)、かの折りの中奧御番の者の名前、并びに、炭を継いだ者は誰(たれ)か、と係りの者にお尋ねになられたと申す。

 されば、そのこと、小耳に挟んだ者が伝えたによって、

「……い、一体、如何なる失態、これ、御座ったものか?!」

と中奧にては一同、驚愕恐懼致いて御座ったところへ、お上より、

「――向後とも、炭継ぎ換え候う仕儀は、この度の通りと心得るが宜しい。」

との御沙汰があったによって、孰れも安堵致いたとのことで御座った。

 このことにつき、和学や詠歌などに詳しく、有職故実の方面にては人も知るところの、かの横田泰翁殿が、

「――我ら、その謂われにつき、糺いたことが、これ、御座る。」

と申され、以下のように書いて見せて呉れた。

   △

一、「徒然草」〔流布本の二百十三段。〕に載る本件故実を裏付ける例外的措置記載例――

 貴い御方の御前(おんまえ)辺りの火炉に火を入れ置く時には、炭を火箸を以って挟むことは決して、ない。土器(かわらけ)より直接に移さねばならぬ。それゆえ、炭火が転び落ちぬよう、よくよく注意を致いて、炭を積まねばならぬ。

 石清水八幡宮へ上皇さまがお出ましになられた折り〔これは徳治三年の後字多法皇の御事蹟であらせられる。〕、御供の者が、白き浄めの浄衣(じょうえ)を着し、素手にて炭をお継ぎ申し上げたところ、さる有職故実に詳しきお方が、

「白き着物を着したるこのような特別なる祭事の日には、まあ、例外的に火箸を用いても差し支えは御座らぬ。」

と申された、とのことである。

   △

一、「めのとのそうし」に載る本件故実の正統性を裏付ける積極的な記載例――

 昔、さる高貴な御方に、新参者の女房で、如何にもみっともない仕草を致いた女房が、御前(おんまえ)辺りにあったる火鉢に、平然と火箸を以って継ぎ炭を置き申し上げようとしたところが、御主(おんあるじ)もかの女房の傍輩(ほうばい)どももともに、

「――御前辺りへの炭継ぎは、これ、素手にて置くものにて御座る。――おぞましくも火箸にては決して置いてはならぬものなので御座いますぞ。」

と咎め申しましたところが、それを聴き及びながらも、かの女房、結局、そのまま火箸にて炭を継ぎ終えてしまい、御前を退いた後、

「……そやかて何としても、炭が穢のうて。……」

と弁解申したとのことで御座いました。

 されば、この女房の御前への伺候は以後、お差し止めになった、とのことで御座います。

 この高貴なる御方とは、幼き折りより後醍醐天皇の妃であられた後の修明(しゅめい)門院重子さまの御側近くに、親しゅう伺候なさっておられた御方とお聞き及んでおりまする。

 まこと、御前辺りに差し申し上ぐるところの炭は、これ、事前によくよく綺麗に拭(のご)っておき、素手にて継いで後もまた、速やかに火の移るよう、薄く油を塗っておくものなので御座いまする。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 東屋

 

    ●東屋

 

鵠沼にある旅館を東屋といふ。江の島を距(さ)ること十二町。只這ひ流る磯つたひ。樓は明治二十二年の建築なり。境の閑靜なる、景致秀美、魚は新鮮にして、海水浴すべし、避暑療養の客、徐ろに滯在せしむには、江の島よりも優るらめ。

寐ころびて今朝着したる新聞の帶をとく。さて讀みあきて窓によれば。江の島は近く碧波に浮(うか)ひて。眞に一幅の畫圖、烏帽子岩は突兀(とつこつ)として海中に聳へ、海灣を隔てヽ大山翠黛を横へ、箱根の諸山横に連り、其間に芙蓉の峯白雲の上に獨立し、瑠璃色を成して巍然たり、盛夏猶殘雪を認めむ。

邊りは砂地の松原にして、處に茅屋の點在するあり、海は二丁内外の距離あり、朝來麥藁笠をかぶり、白き肌着を身にまとひて農家の庭を縫ひあるきつゝ、近道つたひに往來する人影。

庭の池には白蓮紅蓮を栽培す、廣き運動場(うんどうば)には、鞦韆の設けもあり、保養には適當の旅館なるべし。

  鵠沼には東屋のほか。鵠沼館其他數軒の旅館あり。

 

[やぶちゃん注:「處」太字の「々」は底本では傍点「・」。ここにしか附されていない。この傍点自体が衍字の可能性もある。

「東屋」は明治三〇(一八九七)年頃(本誌の発行の前年)から昭和一四(一九三九)年まで鵠沼海岸(高座郡鵠沼村、現在の藤沢市鵠沼海岸二丁目八番一帯。グーグル・マップ・データ)にあった旅館。多くの文人に愛され、広津柳浪を初めとする尾崎紅葉主宰の硯友社の社中や斎藤緑雨・大杉栄・志賀直哉・武者小路実篤・芥川龍之介・川端康成ら錚々たる面々が好んで長期に利用し、「文士宿」の異名で知られた。約二万平方メートルの広大な敷地に舟の浮かぶ大きな庭池を持ったリゾート旅館であった。ここで「東屋主人」とあるが、参照したウィキの「旅館東屋」によれば、本来の経営権者は創始者伊東将行であるが、実際の切り盛りは初代女将で元東京神楽坂の料亭「吉熊」の女中頭であった長谷川榮(ゑい)が取り仕切り、明治三五(一九〇二)年九月に江之島電気鉄道が藤沢―片瀬(現在の江ノ島)間で営業運転を開始(鎌倉市街との開通は明治四〇(一九〇七)年八月)すると、伊東将行は鵠沼海岸別荘地開発の仕事が多忙となって東屋の経営権は長谷川榮に委ねられたとある(その後にこの経営権の問題で伊東家と長谷川家で意見の対立が生じたものの、大正九(一九二〇)年には和解した模様である)。後年、晩年の芥川龍之介は鵠沼の東屋旅館に養生のためにしばしば訪れた(後には同旅館の貸家イの四号の別荘を用いた)。そのため、幾つかの作品にこの鵠沼海岸が登場する。「鵠沼雜記」「O君の新秋」「悠々莊」など、当時既に自死を決していたゆえに陰鬱な作品が多いが、中でも『蜃氣樓――或は「續海のほとり」――』は晩年の彼の傑作の一つである(リンク先は総て私の電子テクストである)。それらの光景はまだここに記された景色とよく一致している。個人ブログ「www.hbirds.net」の「東屋旅館」の記事が包括的で画像もあり素晴らしい。何よりも芥川龍之介「歯車」(リンク先は私の草稿附電子テクスト)に登場する理髪店の、龍之介自身が出てきそうな店の今の写真が――ブルっ!――とくる。

「十二町」1・31キロメートル。

「芙蓉の峯」言わずもがなであるが、富士山の雅称である。

「二丁内外」一〇九~二一九メートル前後。

「鵠沼館」明治二〇(一八八七)年に鵠沼村で初めて営業を始めた旅館で、読みは「こうしょうかん」が一般的である。大正に入ってすぐに廃業したものと思われる(以上は「鵠沼を巡る千一話」の最初の旅館「鵠沼館に拠った)。]

中島敦 南洋日記 十一月二十六日

        十一月二十六日、(水)
 午前中、曇時々風雨。支廳に到り庶務課長と打合せ、終日ブラブラ、夜世戸應眼氏を訪ぬ。五ケ月ぶりなり。
[やぶちゃん注:「世戸應眼」十一月二十七日の注に後掲する十一月二十七日附たか宛書簡に現われる日蓮宗の僧侶。敦が南洋勤務となってサイパン丸で渡航した際(六月二十八日横浜出航、七月六日パラオ島着)に同じ船室で知り合った。『二十一貫』(七八・七五キログラム)もある『ふとった』『坊さんのくせに、音樂が好きで歌ばかりうた』っている『愉快な坊さん』とある。敦の記載からは、南洋方面の信徒集団指導や現地での布教を目的として日本と行き来している人物らしい(敦の訪問先は寺院ではないと思われる)。幾つかの組み合わせで検索してみたが、日蓮宗系統の僧侶等には「世戸」姓の人物は見当たらない。識者の御教授を乞うものである。]

橋本多佳子句集「海燕」 昭和十年 南風と練習船

  南風と練習船

[やぶちゃん注:「南風」はここでは「はえ」で、特に四月頃から八月頃にかけて吹く南から吹く夏の季節風を指す。]

積雲も練習船も夏白き

南風(はえ)つよし綱ひけよ張れ三角帆

百千の帆綱が南風にみだれなき

帆を統べて檣は南風の天に鳴る

白南風や練習船は舳にも帆を

練習生帆綱の上ぞ南風に堪へ

南風の船並(な)み帆の上に帆を張れる

練習船白南風の帆を並めて航く

[やぶちゃん注:「白南風」は「しらはえ」又は「しろはえ」と読み、先に注した南風(はえ)の中でも梅雨が明ける六月末頃から吹き始める南風を指す。]

若人等幾日ぞ南風鳴る帆の下に

記憶 萩原朔太郎

 

 記憶

 

記憶(きおく)をたとへてみれば

記憶(きおく)は雪(ゆき)のふるやうなもので

しづかに生活(せいくわつ)の過去(かこ)につもるうれしさ。

 

記憶(きおく)に見知(みしら)らぬ波止場(はとば)をあるいて

にぎやかな夜霧(よきり)の海(うみ)に

ぼうぼうと鳴(な)る汽笛(きてき)をきいた。

 

記憶(きおく)はほの白(しら)む汽車(きしや)の窓(まど)に

わびしい東雲(しののめ)をながめるやうで

過(す)ぎさる生活(せいかつ)の景色(けしき)のはてを

ほのかに消(き)えてゆく月(つき)のやうだ。

 

記憶(きおく)は雪(ゅき)のふる都會(とくわい)の夜(よ)に

しづかな建築(けんちく)の家根(やね)を這(は)ひまわる

さびしい靑猫(あをねこ)の影(かげ)の影(かげ)

記憶(きおく)は分身(ぶんしん)のやうなものだ。

 

[やぶちゃん注:底本の「拾遺詩篇」より。『婦人畫報』第二〇八号・大正一二(一九二三)年二月号に掲載された。第二連冒頭「記憶に」はママ。底本校訂本文では「記憶は」に訂されてある。誤字か誤植の可能性が極めて高いが、そのまま示した。同二連二行目「夜霧」の「よきり」の読みもママ。第四連二行目「這(は)ひまわる」もママ。読みが五月蠅いという人のために、一つ残して除去したものを以下に示しておこう。

   *

 

 記憶

 

記憶をたとへてみれば

記憶は雪のふるやうなもので

しづかに生活の過去につもるうれしさ。

 

記憶に見知らぬ波止場をあるいて

にぎやかな夜霧の海に

ぼうぼうと鳴る汽笛をきいた。

 

記憶はほの白む汽車の窓に

わびしい東雲をながめるやうで

過ぎさる生活の景色のはてを

ほのかに消えてゆく月のやうだ。

 

記憶は雪のふる都會の夜(よ)に

しづかな建築の家根を這ひまわる

さびしい靑猫の影の影

記憶は分身のやうなものだ。

 

   *]

萩原朔太郎 短歌三首 明治三七(一九〇四)年三月

われにつらき悲しき君が影氷柱(つらら)いだけば身の凍るらし

感じてはわれおもしろし興ありて神がつくりし此かたは者

今出川菜つみ流ししおもひでや趣(しゆ)なき此日を忌む頻なる

[やぶちゃん注:『明星』辰年第三号(明治三七(一九〇四)年三月発行)の「雛の夜」欄に「萩原美棹(上野)」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十七歳。]

ほそい がらす  八木重吉

 

ほそい

 

がらすが

 

ぴいん と

 

われました

鬼城句集 冬之部 炬燵

炬燵    老ぼれて眉目死したる炬燵かな

 

      老が身の何もいらざる炬燵かな

 

      猫老いて鼠も捕らず炬燵かな

初夢 22歳教師着任夢

僕は22歳で、どこか架空の地方に赴任した、その初日、着任の4月1日である。
その高校の名は「太和高等学校」といった。
[やぶちゃん注:こんな高校は実在しない。また、その様子は僕が実際に勤務した6つのどの学校とも似ていない。更に言うと「太和」という名は「たいわ」ではなく、何か非常に不思議な読み方をするのであるが、実は夢の中の僕はその読み方が覚えられないでいるのである(後述)。]

始業式前であるから生徒はおらず、部活動もしていない。どんな学校なのか皆目見当がつかないが、そんなことは全く気にはならない。
ただ、その学校のある町はアスファルトの道が何処にもなく、薄の穂が繁る荒れ地が目立ち、家があってもそれは悉く、廃屋なのであった。
[やぶちゃん注:そこはどうも震災後の東北のように見えた。しかし、それは覚醒後の僕の印象であって、夢の中での認識ではない。]

着任式を終えると同僚に連れられて、町の一杯飲み屋へ行った。
夜、帰り道、その同僚と淋しい商店街を抜けて行く。
と、間口だけは広い閑散とした駄菓子屋がある。
もう店仕舞いをしかけている。
その割烹着を着た女将さんを見ると、彼女は僕を可愛がってくれた亡き伯母なのであった。
[やぶちゃん注:これは明らかに鎌倉西口の御成通りなのであった。この伯母は僕を殊の外可愛がってくれた実在した鎌倉在の女性で、白血病のために僕が18の時に亡くなっている。この伯母にはよくこの御成通りにあった模型屋でプラモデルを買ってもらったものだったが、その駄菓子屋は今思い出すと、その店によく似ていた(但し、夢の店は実在したその1間強〔2メートル程〕のそれとは違って異様に広く、有に3~4間はあった〕)。]

伯母は
「久し振りねぇ」
と笑顔で僕を迎えながら、店仕舞いをすると、駄菓子屋の前に屋台を引き出し、アセチレンを燈しておでん屋に早変わりするのであった。
[やぶちゃん注:それはもう今はなき、江の島弁天橋に実在した馴染みのおでん屋の情景にそっくりなのであった。覚醒後に思い出して見ると、伯母の顔とその実在したおでん屋の女将は孰れも色が浅黒くて瘦せて似ていて、しゃきしゃきした人柄までも二人はよく似ていたということに気づいた。]

深夜になって同僚は帰り、僕は駄菓子屋の奥の部屋で、伯母と一緒に懐かしい昔の夜咄をしながら寝に就いた。

早朝、6時過ぎ、僕は伯母に別れを告げた。
砂利道の向こうでいつまでも伯母が手を振っていた。
[やぶちゃん注:事実、亡き伯母もいつもそうやって僕を見送ってくれたのだった。]

下宿屋へは歩いて行かねばならない。
『……ここにはバスさえない……』
『……僕は「バスに乗り遅れた」んだ……』
と思いつつ砂利道を歩いて行った。
[やぶちゃん注:この後者の心内語は頗る意味深長であった。]

長い土掘りのトンネルが二本並んでいた。
そこをこっちに向かって沢山の若者が歩いてくる。
それが僕のこれから教える生徒たちであるらしい。
如何にも疲れた、みすぼらしい形(なり)をした、高校生の男女が、悲痛な面持ちで、無言のままに登校してくるのであった。
僕はそれを見ながら、この子たちを何とか元気づけなくては、と思うのであった。
僕は突然、口笛を吹き始めた。
それはモーツアルトの交響曲第25番ト短調K.183の第一楽章であった。
[やぶちゃん注:映画「アマデウス」のオープニングで使用されたあれである。因みに僕はあの曲がモーツアルトの中でも殊の外好きで、実際にあの第一楽章を総て、僕は実際に口笛で完全に吹くことが出来るのである(信じ難い人もいるであろうが、これは本当である)。]

……朝まだき……懸命にモーツアルトを口笛で吹く僕……行き違う悲痛な若者たち……トンネル……向こう側の出口の光明…………

僕はその町はずれに借りた安アパート(二階雑居)へと帰った。
そこは昨日の朝に転居したばかりなのであった。
無断外泊をした僕を、玄関のところで一階に住む大家主人が心配顔で待っていて、
「門限の10時までにお電話を下さらないと。念のために、あなたの会社の電話番号を教えて下さいな。」
と言われ、恐縮するのだが、ところが僕は勤務先の電話番号はおろか、学校名も読み上げられず、僕はただ身分証明書をはにかみながら、頭を掻き掻き見せるしかないのであった。
「……あの●●高校の先生ですか。……それじゃ、まあ……読めなくても仕方がないですねぇ。」
その苦笑を含んだ言いには、難読の校名だから、という以外に、何か曰く言い難い、同情か憐憫のようなものが感じられたのであった。
[やぶちゃん注:この主人役は、僕が大学自分に借りていた下目黒の下宿屋の、元銀行マンであった優しい大家さんであった(事実、門限は大学卒業まで夜の10時であった)。なお、ここでの大家の意味ありげな様子は、かつて僕が、さる課題集中校に勤務していた折り、校名を出しただけでしばしば体験した人々の何とも言えない微苦笑の反応に似ていた。]

僕の部屋は、玄関(これは大家の家のそれとは別建て)から階段を上がった、直ぐ左手の6畳であった。僕の部屋にだけ、一階の大家の家に通ずる階段が別にあった。
[やぶちゃん注:実はその大家の家に通ずる階段の構造に関わって大家の娘(この娘役も実際に、その大学時代の下宿の隣室にいた大家の娘さんであった)と絡んだ相応の記憶するエピソードがあるのだが(それもちゃんと記憶しているのだが)、特に面白くもない上にすこぶる煩瑣なので割愛することとした。なお、僕の実際の大学時代の下宿の、その大家の娘さんとの忘れ難い実際の経験を小説仕立てにした『「御孃さんと私」やぶちやん』がある。お暇ならお読みあれ。僕としては上出来な一篇と秘かに思っている掌篇である)。]

ところが部屋に入って見ると、僕の引っ越し荷物ではない(それはまだ紐を解かずに部屋の隅に段ボール三箱で整然と積まれてあった)ものが所狭しと散乱していて、しかも子供や夫婦ものを含めた7~8人の人々がそこここに坐って談笑しているのであった。
皆、この二階の下宿人たちで、僕の部屋は元はロビーのように、談話室に使用されていたものらしいことが雰囲気から伝わってきた。

例の階下の大家の住居に通じる階段の上がりっぱなで、小学校低学年の少年が僕の荷物から沢山の、僕の置物のアクセサリであるビー玉を勝手にとり出して、それをぶつけて遊んでいた。
見ていると、つい、強く弾き過ぎて、それがパーンと砕け散ってしまうのであった。
――少年が、如何にも哀しそうな潤んだ目で僕を見上げている。
僕は微笑みながら、
「――いいんだよ。」
と慰め、荷物の中のビー玉を片手で掬い出すと、
「星のかけらだよ。」
と言って皆、その少年にあげてしまったのであった。
[やぶちゃん注:ここのみ映画的で、僕を見上げている少年を俯瞰した僕の目線のショットがまずあって、その次に畳面からのアオリのショットで(右手階段脇にあった窓から光線が入ってハレーション気味になっていた)、微笑しつつ台詞を言う僕のショットがモンタージュされていた。……というより……映画好きの方ならここが、僕の大好きなセルジュ・ブールギニョン監督の「シベールの日曜日」(1962年フランス)の、ピエールと少女シベールの出逢いそのマンマのインスパイアであることが容易にお分かり戴けるはずである。いや、だからこそ、なかなかにいい写真だったのである。]

出勤時間が迫っていた。
僕は人々の隙間で、着替えを始めた。
新しいワイシャツにネクタイを締め、背広を着、慌てて階段を駆け下りようとする――
……と
……僕は

――下半身がパンツいっちょであることに気づく――

……僕は泡を食って階段を駆け上がるとズボンを穿いた。……

――腕時計を見ると、もう、7時45分だった。

学校まで徒歩では有に一時間はかかる。

絶望的だ……

僕は教師一日目から遅刻するのだ…………

[やぶちゃん注:このラスト部分、フロイトが喜びそうな性的象徴であることが歴然としているように思われるかも知れない。……しかし、しかし乍ら……僕には遠い昔に、これに類した実体験のトラウマがあるのである。……玉繩小学校1年生の秋雨の降る日の鮮明な記憶である。外は雨が降っていた。身体測定の順番が回ってきて、測定が終わった。担任の小林りん先生(髪のまっ白な退職間際の独身の女先生であった)は計測の途中で、「終わったら戻ってらっしゃい。」と言ったまま保健室を去っていた。僕の姓は「藪野」で、僕が検診の最後だった。隣りの更衣室に戻ると何故か電気が消えているのだった。誰もいなかった。暗くて寒かった。僕は何かに襲われるような恐ろしさを感じ、急いで着替えを済ますと、教室に向かって暗い廊下を早歩きで歩いていた。下がやけにスース―した。……見れば……怖さの余り、ズボンを穿き忘れていたのだった。……廊下には誰もいなかった。……急いで更衣室へ駆け戻った…………因みに、小学一年生の記憶というのが疑わしいと思われるかも知れないが、僕にはどっこい沢山あるのである。それは恐らく、東京から鎌倉への転校(但し、僕の元々の出生地は鎌倉市街である。外務省の外地勤務の親族の子を父母が預かっていた関係で、幼稚園から小学校一年の夏までの一時期、その親族の家のあった練馬の大泉学園に住んでいたのであった)という、激しいカルチャー・ショック(僕は転校して丸一年の間、都会の子としていじめられ続けた。実は夢の中の先に出た「長い土掘りのトンネルが二本並ん」だその隧道は、僕が転校直後に毎日帰りにいじめられた大船フラワーセンターから龍宝寺へと抜ける場所にあったトンネルだったのだ。その永遠に忘れることない屈辱的な経験については、かつて、「耳嚢 京都風の神送りの事 又は 忘れ得ぬ思い出」の注釈で詳しく述べている。これは僕と言う屈折した人格形成の重要な因子の一つであるからして、是非、お読み戴ければと思う)を挟んでいたからだと僕は考えている。]



ともかくも――これが2014年の僕の初夢であった――覚醒時――心臓がバクバクしていた――

――ここまで僕の夢にお付き合い戴いた方に心より感謝申し上げる――

2014/01/04

another dawn

vocal: juliet Heberle
music: arabesque Choche
lyrics: Chouchou


遠くに見えた 私たちの闇
風を纏う間には 忘れさせて

この世界に 耐えられはせずに
この道を歩くの 行方知らず

白む空の向こう 私を 私の火を
教えてくれた赤い光には
ただ目をつむるの
祈りにも 悲鳴にも異なる声をあげて
今すべてが止まるようにと
願いを心から言った


遠くに見えた 音の無い光
あのいかづちすらも 今は彼方

あの嵐を 逃げてこれたのね
風を纏い飛んだ あの鳥達

いつか 抱いた夢 花 貴方の声まで
満ちあふれたもの全て消えても
逢いたいと思ったら
ねぇ いつか闇の果て 心の奥にいても
溢れる陽を 思い出したら
「帰ろう」と貴方から言って
帰るわ

あの日消えた 夜明けへと
いつか 帰るわ

we see our darkness in the distance
while I'm wrapped in the wind, let me forget

with this unbearable world of sorrow
I'm walking on this road to nowhere

over the first gray of dawn
I close my eyes to the red light
that used to shine on me, my life
it's neither a prayer nor a scream
but with all my heart
I just wish I could make time stand still at this moment


we see the silent lightning in the distance
but the thunder is gone now

the birds have escaped from the storm
And now they're flying up in the wind

someday my dream, flowers, your voice
and all the things filled my life may be lost
but if I still want to take them back
someday I may be alone in the deep darkness
but if I still remember the light of hope
I want you to say to me, "Let's go back."
then I will

to the dawn lost on that day



昨年の末からずっと僕の中に鳴っている歌……

エトランジェ

永遠の étranger たらんと欲する者は永遠に孤独であることを身に引き受けなければならない。なぜなら、エトランジェ(異邦の旅人であり続けること。小泉八雲のような帰化人はその限りではない)は愛する人間を必ず不幸にするからである。

中島敦 南洋日記 十一月二十五日

        十一月二十五日(火)

 目覺むれば既にテニアン島の前面にあり。遠かに白き島居見ゆ。十時テニアン着、十二時サイパン着、小山田校長の出迎を受け、晝食後下船。倶樂部の宿泊所に落付く。四十重敷ばかりの、薄緣を敷ける殺風景なる部屋、同宿者他二組あり。食通なるむさくるしき食堂に行き、飯米のボロボロなるに一驚す。サイパンはパラオに比べ頗る涼し。但し避難民然たる此の宿舍には閉口。風あり、涼し。

[やぶちゃん注:同日附中島たか宛書簡があるので以下に示す(太字は底本では傍点「ヽ」)。

   *

〇十一月二十五日附 パラオ島コロール町南洋庁地方課内。東京市世田谷区世田谷一丁目一二四 中島たか宛。封書。)

十一月二十二日。昨夜はロタの港に入りながら、遲(オソ)いので、船の中で、もう一晩泊つた。そして、事務長(船の)や月田氏などと、トランプを一時過までやつたので、今朝はねむい。七時半頃、ロタ島上陸。宿舍は例によつて官舍のあきや。巡査か何かの家なんだ。食事は獨身者達のたべに行く食堂だが、之は、思つたより御馳走がある。人のあきやにもぐり込むなんて、全く、へんな話だが、のん氣でいいよ。ここの僕のもぐりこんだ家の主人は休暇で内地へ歸つてるらしいんだが、雞小舍があつて、雞が三羽庭で餌を拾つてゐる。しかし大分腹をすかしてゐると見え、僕が行くと、アトをついて來て仕方がない。雞は勝手に何處かで餌を見付けてくるんだね。

 ロタは大變景色(ケシキ)のいい所。岩山がそびえ、白い斷崖が切立ち、海の色が鮮(アザ)やかな藍(アヰ)色(パラオのあたりは綠色に近い)で、風が強い所。たゞ殘念なのは、椰子といふ椰子がみんな立枯になつてゐることだ。蟲にやられたんださうだ。珍しい、キレイな蝶が、とても澤山とんでゐる。南洋には珍しく、水の豐富な所で、山の中からドンドン湧出してくるやつを水道にしてゐるんだが、水道の栓(セン)はみんなあけつぱなしで、ジヤアジヤア水が出通しだ。栓をしめると、水がどんどん出て來て、管が破裂するんだとさ。

 ロタの島には、黑い土人はゐない。ゐるのはチャモロといふ、スペイン人と南洋土人の混血ばかり。色は南洋にゐる日本人と大して違はない。午後から、役所の人の案内で、チャモロ部落へ行つて見た。澤山の大きな岩が海の中にそびえてゐる景色のいい海岸を一里ばかり歩いて部落についた。その村の入口に墓地があるが、チャモロはみんなキリスト教徒だから、横濱の外人墓地みたいに十字架が澤山竝んでゐる。たゞもつと、ずつと貧弱で、さびしく、何しろ二十間(ケン)とへだたらない所に太平洋の波が寄せて來てゐるので、心細いやうな、もの悲しい所だ。

 公學校に立寄り、その先生と話をしてから、又、もとの道をかへつたが夕陽に照らされた、海岸のチャモロ部落(みんな一寸した木造の家に住んでゐて、普通の島民のやうにキタナクはないが、何だか、全體に活氣がないんだ)は、何か、ものがなしい風景だつたよ。一つには椰子の枯れてゐることにも依るのかもしれない。さうさう、海岸の草地にはね、猩々草(シヤウジャウサウ)が一面にはえてゐるよ。

 夜一寸町を歩いて見たら、(この島は、チャムロは全部一まとめにして一つの所に住ませて了つたので、内地人の町には島民は一人もゐない。)内地の田舍の町のやうな氣がした。

 十一月二十三日。日曜で、ニヒナメサイだね。又、チャムロ部落へ歩いて行つて見た。今日は國民學校の先生と一緒だ。自轉車に乘れるとらくなんですがなあと、みんなに言はれたよ。全く、一里の道を毎日往復ぢや、少しつかれるね。

 チャモロの子には、中々、可愛いのがゐるよ。午前中、チャモロ部落ですごし、ひるめしは公學校でよばれ、その校長(といつても、ホカに先生はゐない)のうちで、ひるねをして、三時頃、乘合自動車(バス)にのつて、ずつと高くに見える岩山の上まで行つて見た。一時間ほどバスに乘るんだが、この高原(カウゲン)は中々良い。濕度も下とは、大分ちがふ。

 千五百尺位あるからね。一寸内地の秋のやうだ。高原には一面に、猩々(しやうじやう)草が生え、晝顏の花が一杯咲いてゐる。一寸、日光の奧の戰場ケ原のやうな感じがした。(戰場ケ原といつたつて、お前は知らないんだねえ。何故オレは、自分ばかり好きな旅行をして、お前を一度も連れてつてやらなかつたんだらう。今度内地へ歸つたら、早速(サツソク)何處かへ連れてつてやらう。)歸りのバスも海が良く見えて、大變良かつた。とにかくロタは景色がいいので有難い。もつとも岩山ばかりなので、サトウキビなんかが出來ないで困るんださうだが、この高原には鹿が出るさうだ。

 十一月二十四日。昨日は日曜で、公學校の授業が見られなかつたので、今日も亦、チャモロ部落の公學校行。海岸の良い散歩道さ。午後は又、町に戻つて、國民學校に行く。これは校長と話をするだけ。オレもトニカク、用もなく興味(キヨウミ)もないのに、話をすることができるやうになつたから、たいしたもんだよ。

 午後四時半サイパン丸にのりこむ。船に上つて見ると、船の中の燈火管制とかで、暗くて(明るくすれば暑くつて)仕方がない。このサイパン丸にね、地方課の若い人で、今度入營のため歸る人が乘つてゐて、その人が、お前の手紙(十一月十日附の飛行便)を持つて來てくれてゐた。これは、はじめから賴んでおいたからだよ。格が桓のしやベる眞似(マネ)をして、お前にお話をするさうだが、面白いだらうなあ。氷上の所へは、何もお前から、祝ひ狀を出す必要はない。桓は足におできが出來たつて? 自分で電車に乘つて通(かよ)へるやうならたいしたことはないんだらう。桓だつて、二年生にもなれば、ひとりで電車にも乘れるさ。都會の子だもの。なにも驚くことはない。なに、今に、格もぢき大きくなつて、兄貴に、映畫へ連れて行けと、せがむやうになるぜ。格は、比較(ヒカク)的、口のおそい方らしいね? しかし、口が早く、きけたからつて、頭が良いといふ譯ぢやないから、何でもない。もうオレの知つてる格とは、かなり違つて來てるんだらうなあ。

 十一月二十五日。夜の中に船は動き出して、今朝はもうテニアンの港に着いてゐる。サイパンへは今日の午後正午ごろ着くだらう。サイパンの島も、直ぐそばに見えてゐるのだよ。又々、船便の變更(ヘンコウ)で、今後の行動が、わからなくなつた。或ひはサイパンに一月も滯在することになるかも知れない。十一月二十五日午後七時半(まだ朝食にならない。一等の食事は八時半)腹がへつてたまらぬ。近頃はやうやくパンでない朝食になれたよ。しかし、ヨコハマのウチのパンと紅茶のアサメシはウマカツタナア。

 この次はサイパンから、今度は飛行便を出さう。

   *

「たゞ殘念なのは、椰子といふ椰子がみんな立枯になつてゐることだ。蟲にやられたんださうだ」恐らくは鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ゾウムシ上科オサゾウムシ科オサゾウムシ亜科 Rhynchophorini Rhynchophorus 属ヤシオオオサゾウムシ(椰子大長象虫) Rhynchophorus ferrugineus の食害による枯死と思われる。参照したウィキの「ヤシオオオサゾウムシ」によると、東南アジアとオセアニアの熱帯域に分布する体長三~四センチメートルの大型のゾウムシで、ヤシ類を枯死に至らしめる害虫として知られる。成虫はヤシ類の成長点付近を大顎で齧って穴を開け、長さ三ミリメートルほどの白いソーセージ形の卵を産みつける。一匹の♀の産卵数は二〇〇~三〇〇個ほどとみられる。『卵から孵化した幼虫は他のゾウムシと同様に脚がなく、太いイモムシ形をしている。幼虫はヤシ類の成長点付近の組織を食べて成長するが、一つの株に多数の幼虫が食いこむと成長点が激しく食害されて植物体の成長が止まり、食害が進んだ葉柄が次々と折れ、やがて株そのものが枯死するに至る』とあり、終齢幼虫は体長六センチメートルほどに達し、『充分に成長した幼虫は周囲の繊維質を固めて楕円球形の繭を作り、その中で蛹になる』とある。因みに本種は二十世紀末頃より、『日本の西日本、中東、ヨーロッパ各国まで分布を広げており、外来種としても警戒されている』とある。

「二十間」三六・三六メートル。

「乘合自動車(バス)」「バス」は「乘合自動車」のルビ。

「千五百尺」四五四・五四メートル。前に注したが、ロタ島のほぼ中央部にあるサバナ高原の標高は四九六メートルであるから事実は千六百四十尺弱に相当する。

「何故オレは、自分ばかり好きな旅行をして、お前を一度も連れてつてやらなかつたんだらう。今度内地へ歸つたら、早速何處かへ連れてつてやらう」これは私が「やぶちゃん版中島敦短歌全集 附やぶちゃん注」を編集する過程で手帳や年譜を披見して痛烈に感じた彼の性癖でもあった。敦のそれには妻帯者とは思えない異常なまでのエトランジェの性向(事実、御殿場での一人の別荘生活にあっては「やぶちゃん版中島敦短歌全集 附やぶちゃん注」の最後に掲げた小宮山靜との不倫疑惑さえ疑われるのである)が見て執れると言える(因みに私は全く逆に一人旅を殆んどしたことがない『異常なまでの』出不精の性向者であるからわざわざ『異常なまでの』と形容した。私は妻子を置き去りにして旅へ出る敦――それはどこか李徴に似ているではないか――に一種の奇異な感情を持っていることを告白しておく)。敦はかくも、たかに対して言っているのだが、結局、この翌昭和一七(一九四二)年三月十七日の帰国後は喘息が一進一退、凡そ九ヶ月後の十二月四日に亡くなるまでたかを旅に連れて行くことはなかったものと思われる。私は喘息を考慮しても、こういう敦の自分にとって都合のよい物謂いには激しい憤りを感ずるタイプの人間であることをも宣言しておきたい。私はこういうおべんちゃらを言っておいて(過去のたか宛書簡にもこうした表現が散見されるのである)、実際にはちょっとした旅にさえ妻を連れて行くことさえしなかった、その気さえもさらさらなかった敦に対して、男として、激しく『いやな奴』という印象を持つ部類の人間なのである。

「氷上の所へは、何もお前から、祝ひ狀を出す必要はない」既出の手紙でお分かりの通り、敦の親友氷上英廣はこの秋に既に結婚しており(注で示した関係する二通の書簡から見ると、最初の報知は敦からたかへなされているが、結婚後の結婚報告の通知は敦の実家宛で送られてきていたものと推測される)、その祝い状を送らないと失礼ではないか、といったたかの気掛かりへの返信である。

「十一月二十五日午後七時半(まだ朝食にならない。一等の食事は八時半)」の「午後」はママ。]

なみ音の古き嘆きぞ身には沁むロタのチャモロが奧津城どころ 中島敦

元日、中島敦の南洋日記の十一月二十四日の条を電子化した際、そこに載る短歌一首、


なみ音の古き嘆きぞ身には沁むロタのチャモロが奧津城どころ

を、僕は僕の「やぶちゃん版中島敦短歌全集 附やぶちゃん注」で採録し忘れていたことにその時、気がついた(あの短歌全集作成時は南洋日記に取り掛かってさえいなかった、というより、あの短歌全集での拾遺部分での南洋日記の斜め読みが僕に南洋日記電子化注釈の火をつけたのであった)。遅まきながら追加し、注記も附しておいた。

耳嚢 巻之八 肴の尖不立呪文の事

 肴の尖不立呪文の事

 或(人の)語りけるは、魚肴(うをさかな)に不限(かぎらず)、尖(とげ)の不立(たたず)、またたち候ても拔(ぬく)る呪(まじなひ)成(なり)とて、トウキセウコン萬物一體、かく唱ふれば奇驗有(あり)と傳授なしけり。

□やぶちゃん注
○前項連関:なし。呪(まじな)いシリーズ。そういゃ、私は小学校二年の夏休み、客の残して行った鮨の海老の尻尾を齧って飲み込んだ途端、尻尾の棘が美事、咽頭部にブッスリと刺さって、いっかな、抜けず、翌日、母に連れられて歯医者さんで抜いて貰ったのを思い出した。……何故、そんなことを覚えてるかって? だってその術式を僕はしっかり絵日記に記していて、今もそれがこの書斎にあるんだもん。
・「肴の尖不立呪文の事」は「さかなのとげたたざるじゆもんのこと」と読む。
・「魚肴」「魚」が狭義の「さかな」、魚類を指すのに対し、後者の「肴」は酒や主食である飯に添えるところの「さかな」、魚肉・鶏肉・獣肉及び貝や海鼠などの魚以外の魚介類・野菜根菜類を広く指す。
・「(人の)」の右には底本では尊經閣本による追補である旨の傍注がある。
・「トウキセウコン萬物一體」「トウキセウコン」は不詳。それらしい漢字が浮かばぬことはないが、ここはカタカナで真言紛いの雰囲気を添えたものか。

■やぶちゃん現代語訳

 魚の棘が立たぬようにする呪文の事

 或る人が語ったことには、
「魚(うお)や肴(さかな)に限らず、食うて棘が咽喉(のんど)なんどに立たぬようにする、また、立った場合でも容易に抜くる呪(まじな)いであると称して教え呉れた呪文、これあり。
 トウキセウコン萬物一體
と唱うれば、これ、絶妙なる効験、これ、御座る。」
とて、伝授なし呉れた。

橋本多佳子句集「海燕」 昭和十年 國境安別

  國境安別

 

霧の港北緯五十度なり着きぬ

 

船航(ゆ)く港といへども蕗繁り

 

樺を焚きわれ等迎ふる夏爐かな

 

フレツプの涯なき野に雲流れ

 

フレツプの實はほろにがし野に食ぶ

 

[やぶちゃん注:本句群は本句集巻頭昭和以前の注で示した、十年前の大正一四(一九二五)年の七月末より八月にかけて約二週間、鉄道省主催の「樺太・北海道旅行」に身重の身で夫とともに参加、客船高麗丸で安別・敷香・海豹島等に旅した折り(旅当時の多佳子は二十六歳であった)を、追懐した回想吟である。

「フレツプ」双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科スノキ属コケモモ Vaccinium vitis-idaea。フレップとは英語ではなく(コケモモ類の英名は“cowberry”“lingonberry”)、アイヌ語で「赤いもの」を意味する本邦北海道以北でのコケモモの呼称である。ウィキコケモモ」によれば『果実は非常に酸味が強いため、通常は砂糖などで甘みを加えて調理し、ジャムやコンポート(砂糖煮)、ジュース、シロップなどとして食用にする。コケモモのコンポートは肉料理の添え物とすることがある』とある。麝香鹿(じゃこしか)爺さんのブログ「昭和ひとケタ樺太生まれ」のフレップコケモモ)の実に『樺太の代名詞にも使われるほど樺太には沢山自生し秋の野は赤く染まった』、『実は甘酸っぱく、お土産品としてフレップワイン・ジャム・ソーダ・羊羹などがあった』とあり(アイヌ語源記載もこちらを参照した)、また、「私の花物語のページ」の第二回の三土とみ子フレップ(こけもも)の頁に、かつてのサハリン(樺太)での追懐とともに印象的にフレップのことが語られてある。なお、言わずもがなであるが、「食ぶ」は「たうぶ(とうぶ)」と訓ずる。]

夜 萩原朔太郎

 

 

 

なまぐさいみどりの中から

柳しろじろとかすみをかけ

遠火にもえづるうぐひすな

どこかの古い沼のほとりの

びらびら光る藻ぐさの中で

心臟のくさりかけた醉つぱらひが

蛙のやうにたたき殺された。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集第三巻「未發表詩篇」より。「うぐひすな」は「鶯菜」であるが、萩原朔太郎の使用する場合のそれは、コマツナ・アブラナなどの、まだ若くて小さい菜を広く指しており、種を断定は出来ない。]

萩原朔太郎 短歌群「京の子なりき」 明治三七(一九〇四)年三月

    京の子なりき

 

たまたまに問へば趣もなき天王寺姉とひろひし落つばきかな

 

その香故にその花故に人は老を泣きぬ泣かれぬ濃紅椿(こきづきつばき)

 

哀愁(あいしう)の聲よりさめて我みしは一(ひと)つ眼(め)をどる眞洞(まぼら)やみの世

 

春をいまだ朝睡の人の面影やはづかしげなる雲とながれて

 

[やぶちゃん注:『坂東太郎』第三十八号(明治三七(一九〇四)年三月発行)に掲載された。「濃紅椿(こきづきつばき)」はママ。萩原朔太郎満十七歳。

 二首目は既に示した通り、

 その香ゆゑにその花ゆゑに、人は老を、泣きぬ泣かれぬ、こき紅(べに)椿。

の形で、四ヶ月前の『文庫』第二十四巻第六号(明治三六(一九〇三)年十二月発行)に「上毛 萩原美棹」の名義で掲載されている。「濃紅椿(こきづきつばき)」は底本全集改訂本文では、この先行する句形を根拠として「濃紅椿(こきべにつばき)」と訂している。穏当な補正ではある。しかし、しかし果たして本当にこれは単なる、この前橋中学校(現在の県立前橋高等学校)の校友会誌編集者や発行所の誤植であると断じきれるのであろうか? 朱・赤・紅という色からは今のように絶滅してしまう以前にあっては普通に見られた朱鷺(とき:ペリカン目トキ科トキ亜科トキ Nipponia Nippon ――「鴇」「鴾」「桃花鳥」などとも書く。……それにしても何と美しい学名であることか!……日本は「日本」を……とっくに、殺していたのである……)が普通に連想され「鴇色(ときいろ)」という色名さえある。そうして、朱鷺の中国名や古典での別名は「紅鶴」と書き、これを古語では「つき」と読んだ。私はこの事実一つをこの一首に並べてみただけでも、そう簡単には底本全集改訂本文を無批判に支持することは出来ないでいるのである。]

惱ましき 外景  八木重吉

 

 

すとうぶを みつめてあれば

 

すとうぶをたたき切つてみたくなる

 

 

ぐわらぐわらとたぎる

 

この すとうぶの 怪! 寂!

鬼城句集 冬之部 蒲團

蒲團    蒲團かけていだき寄せたる愛子かな

 

      つめたかりし蒲團に死にもせざりけり

 

      殺さるゝ夢でも見むや石蒲團

 

      瘦馬につけて蒲團の重荷かな

2014/01/03

耳嚢 巻之八 友田金平鑓の事

 友田金平鑓の事

 

 右は文化四年、西丸御先手安藤九郎左衞門組同心塚越大兵衞と申もの、御詮儀筋有候處、出奔いたし候。然る處、右大兵衞先祖書に、甲州御陣の節天正十年、甲州一國御案内申上候に付、於駿州に鑓一筋拜領致候由に有之。右鑓取計ひ方の儀に付、先例相糺候處、御弓矢鑓奉行預り之御多門内に委細之儀難分候得共、友田金平所持鑓其外太刀等納有之間、引渡候はゞ可受取旨、御留守居より申開候得共、大兵衞所持鑓は事實も難分、金平身分は如何樣成譯に候哉、糺之儀御沙汰有之ゆゑ、古例には事實難引合ゆゑ、別段取斗相濟候。右金平何れにも書留しかと無之候得共、享保十巳年御側衆加納迄の斷候て、大久保下野守より御弓矢鑓奉行へ相渡候送り證文、左之通有之候。

     覺

  〔伏見より參〕

  一、的木 但袋入 吉田六左衞門と名判有之 壹張

  〔右同斷〕

  一、中卷之野太刀 銘壽命 壹振

  〔右同斷〕

  一、山刀  〔刀銘來國宗作 脇差無銘貮腰〕

  〔右同斷〕

  一、千鳥形十文字鑓 銘兼光 一本

  〔右同斷〕

  一、友田金平大十文字鑓 一本

    躬の内に南無妙法蓮華經之文字歌兩面に有之候。

    銘若州之住宗長於播州姫路玉井彌三兵衞尉作文錄五年二月日。

    一方に、我等儀吉川樣に奉公仕たる者にて服部兵内共申、又は

    德川八郎左衞門共申候。今程は友田金平と申候。

    込錆申候而文字不分明に候得共、右の通之由傳事送御座候。

 如斯御弓矢鑓奉行書出候。御目付松平伊織儀、何も書とめはこれ無候得ども、承傳候おもむきは、金平は武功のものにて、大十文字の躬に記候歌は、

  咲くときは花の數にもあらねども散にはもれぬ友田金平

と記し有之由、承傳へ候。

 有德院樣御代、伏見より御取寄に相成候と及承候趣、咄し候間、爰にしるす。

 

●読み挿入+書き下し版(読点や記号も追加してある。但し、記銘部分等は書き下さずに読みを附して原形を保存した)

 

 友田金平鑓(やり)の事

 

 右は文化四年、西丸御先手(にしのまるおさきて)安藤九郎左衞門組同心、塚越太兵衞(たへゑ)と申すもの、御詮儀筋有り候ふ處、出奔いたし候ふ。然る處、右大兵衞先祖書に、『甲州御陣(ごぢん)の節、天正十年、甲州一國御案内申し上げ候ふに付き、駿州(すんしう)に於いて鑓一筋拜領致し候ふ』由に之れ有り。右鑓取り計(はか)らひ方の儀に付き、先例相ひ糺し候ふ處、御弓矢鑓奉行預りの御多門内(ごたもんない)に委細の儀分かり難く候得(さふらえ)ども、友田金平所持鑓其の外太刀等、納め之れ有る間(あひだ)、引き渡し候はば受け取るべき旨、御留守居より申し聞け候得ども、大兵衞所持鑓は事實も分かり難く、金平身分は如何樣なる譯に候ふや、糺(ただし)の儀御沙汰之れ有るゆゑ、古例には事實引き合ひ難きゆゑ、別段取り斗(はから)ひ相ひ濟み候ふ。右金平、何れにも書留(かきとめ)しかと之れ無く候得ども、享保十巳年、御側衆加納迄の斷り候ふて、大久保下野守より御弓矢鑓奉行へ相ひ渡し候ふ送り證文、左の通り之れ有り候ふ。

     覺(おぼえ)

  〔伏見より參る。〕

  一、的木 但し、袋入。「吉田六左衞門」と名判(なはん)之れ有り。壹張

  〔右同斷。〕

  一、中卷(なかまき)の野太刀(のだち) 銘「壽命」。壹振

  〔右同斷。〕

  一、山刀(やまがたな)  〔刀。銘「來(らい)國宗(くにむね)作」。脇差。無銘。貮腰。〕

  〔右同斷。〕

  一、千鳥形十文字鑓 銘「兼光」。一本

  〔右同斷〕

  一、友田金平大十文字鑓 一本

    躬(み)の内に「南無妙法蓮華經」の文字、歌、兩面に之れ有り候ふ。

    銘「若州之住(じやくしうのぢゆう)宗長於播州姫路(ばんしうひめじにおいて)玉井彌三(やさ)兵衞尉(ひやうゑのじよう)文錄五年二月日」。

    一方に、「我等儀吉川樣に奉公仕(つかまつり)たる者にて服部兵内共申(ともまうし)、又は德川八郎左衞門共(とも)申候。今程は友田金平と申候(まうしさふらふ)」。

    込錆申候而(こめさびまうしさふらふて)文字不分明に候得共、右の通之(とほりの)由、傳事送御座候(つたへしことおくりござさふらふ)。

 斯くのごとく、御弓矢鑓奉行書き出だし候ふ。御目付松平伊織儀、何も書きとめはこれ無く候得ども、承り傳へ候おもむきは、金平は武功のものにて、大十文字の躬(み)に記し候ふ歌は、

  咲くときは花の數にもあらねども散(ちる)にはもれぬ友田金平

と記し之れ有る由、承り傳へ候ふ。

 有德院樣御代、伏見より御取り寄せに相ひ成り候ふと承り及び候ふ趣き、咄し候ふ間、爰にしるす。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。久々の武辺実録本格公文書物である。今回は公文書を主とする本文の体裁をいじらないようにしたいので、読みを附した上に、一部の漢文脈を読み易く書き下したものを後に掲げる特殊な方法を採った。

・「友田金平」ネット上では大坂の陣で豊臣方に与した豪傑とし、ここに掲げられた一首とはやや異なる歌が拾えた。一応、掲げておく。なお、それ以外はここに書かれた以外の内容は見出せない(例えばグーグル「友田金平」検索では十一件しかヒットせず、その内容も乏しい)。この時代に公文書で誰だかよく分からんから調べよと命じているのだから、今の世に流れているそれらも、怪しい気はする。

  咲くときは遅れ先だつ差はあれど散るには負けぬ友田金平

・「文化四年」「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、かなりホットな事実譚である。

・「安藤九郎左衞門」岩波版長谷川氏注に安藤信姿(のぶたね)とし、文化四年西丸先手頭、同六年に西丸先手鉄砲頭とある。

・「甲州御陣」織田信長が徳川家康らを従えて、長篠の戦い以降に勢力が衰えた武田勝頼の領地駿河・信濃・甲斐・上野へ侵攻、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の甲州征伐の最終局面となった天正一〇(一五八二)年三月の天目山の戦いの前後。

・「御弓矢鑓奉行」留守居役支配。江戸城各門に備品としてある槍・弓矢の管理・補修・製造を担当した。定員二名で支配下に組頭四人と同心十九人がいた。

・「多門」城門の上に据えられた渡櫓(わたりやぐら)。一般には石垣との間を渡すように門櫓が建てられることから、このような形状の門櫓を渡櫓という。また、渡櫓は櫓と櫓との間の長屋状の建物である多門櫓を指す言葉でもある。何れにせよ、当時の江戸城内にあった弓鑓奉行支配の武具宝物の保管庫があった建物のことであるが、これが何処か特定の門の固有名詞なのかどうかは不明。識者の御教授を乞うものである。

・「享保十巳年」享保十年は乙巳(きのとみ)で西暦一七二五年。

・「御側衆」側衆。将軍に近侍し、交替で宿直して城中の諸務を処理した。若干名の者は御側御用取次と称し、将軍と老中以下諸役人との間の取り次ぎをも行った。

・「加納迄の斷候て」底本では右に『(尊經閣本「加納遠江守斷にて」)』とある。加納久通(ひさみち 延宝元(一六七三)年~寛延元(一七四八)年)は紀州藩士加納角兵衛久政の養子で第五代藩主徳川吉宗に仕えて御用役兼番頭となる。享保元(一七一六)年の主君吉宗将軍家相続に伴って幕臣となり、新設の御側御用取次に就任、采地千石を与えられて従五位下近江守(後に遠江守)に叙任、途中加増を受けて同十一年には一万石の大名に取り立てられた。同僚の有馬氏倫と共に享保の改革政治に参画して大きな役割を果たしたが、延享二(一七四五)年の吉宗の隠退後は西ノ丸若年寄に転出した。久通は「おいらかにつつしみふか」い性格で吉宗の信頼が厚かったという(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。訳では正確な名を用いた。

・「大久保下野守」底本では右に『(尊經閣本「大久保下總守」)』とある。底本鈴木氏注によれば、大久保忠位(ただたか 寛文元・万治四(一六六一)年~寛保二(一七四二)年)で、彼は先立つ二年前の享保八(一七二三)年に勘定奉行から留守居役となっている。訳では正確な名を用いた。

・「伏見」旧伏見城。元和五(一六一九)年廃城。

・「的木」木製の弓の的。但し、「一張」とあるのは不審。「張」ならば弓本体である。

・「吉田六左衞門」底本鈴木氏注に、『弓術雪荷流(吉田流の流れ)の創始者吉田六左衛門重勝雪荷以来、代々六左衛門を称した。初代』(永正一一(一五一四)年~天正一八(一五九〇)年)は『射芸のみでなく弓の製造にも優れていた』とある。

・「右同斷」前の「的木」と同じく、「伏見より參」の意。

・「中卷之野太刀」長い柄相当部分を持った太刀の一種。鎌倉時代に武人として剛漢であることを誇るための三尺(約九十センチメートル)を超える長大な刀身をもった太刀が造られ、「大太刀」「野太刀」と称されたが、非常に重い上に扱いづらく、それまで太刀の拵えと同じ形状の柄では実用的でなかった。そのため野太刀の柄は次第に長くなり、より振り回し易いように刀身の鍔元から中程の部分に太糸や革紐を巻き締めたものが作られるようになった。このように改装した野太刀は「中巻野太刀」と呼ばれ、単に「中巻」とも呼ばれた。これらは、小柄な体格でも扱いが容易で、しかも通常の刀よりも威力が大きく、振る・薙ぐ・突くといった技で幅広く使えたため広く普及、やがて野太刀をわざわざ改装するのではなく、最初からある程度の長さを持った刀身に長さの同じ若しくは多少長い柄を付けたものが造られるようになり、長い柄に太刀同様に柄巻(つかまき:刀剣の柄を組糸や革などで巻くこと。)を施したことから「長巻」の名で呼ばれるようになった。(以上はウィキの「長巻」に拠る)。

・「山刀」本来は山林伐採や狩猟の際の獲物の皮剝ぎなどに用いる刀、マチューテのようなものを言うが、ここでは脇差と並んでいるから、鉈状にやや歯が広く厚い脇差をことをかく呼んでいるととるべきであろう。平凡社「世界大百科事典」の記載によれば、本来の山刀自体が脇差を切り詰めて製作されることが多くあったとある。

・「壽命」寛永二年に丹後守を受領し、名古屋城下に移って尾張徳川家の庇護を受けた丹後守寿命を始祖とする幕末五代まで本国美濃や隣国尾張で活躍し続けた刀工一門の名である。

・「來國宗」鎌倉時代後期に来派という一派を成した名工来国俊(名刀工国行の子)の子と伝えられる刀工。

・「兼光」備前国に住した刀工備前長船兼光(びぜんおさふねかねみつ)。備前長船兼光を称する刀工は四人いる。一般には南北朝時代に活躍した刀工を指すことが多い。詳細は参照にしたウィキ備前長船兼光を見られたい。

・「千鳥形大十文字鑓」穂先が三叉に別れた槍で、鳥の翼のように横手の両端を張らせたものを言う。グーグル画像検索「千鳥形大十文字鑓」を見られたい。

・「躬」身・槍の穂の部分。

・「若州」若狭国。

・「宗長」これは日本刀サイトを見ていると、刀工ではなくて刀身や込(こみ)に模様や字を彫る彫技師であるようだ。即ち、後に書かれている和歌や記名をした人物ということである。彼は肥前鍋島藩のお抱え工であった同門の初代忠吉(橋本新左衛門)と慶長元年に藩命によって一門の宗長とともに京都埋忠明寿の門に入って、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだと、日本刀販売サイト記載にあるからである。とすれば同所には忠吉の没年を寛永九(一六三二)年としてあるから、次の注と合わせて考えるなら(地名等の考証はしていないが)、この鑓の本体の鍛刀は、まさにこの名刀工忠吉であった可能性が高いような気がする。

・「文錄五年二月日」底本では右に『(祿)』と訂する。訳では正しい字を用いた。西暦一五九六年。

・「込」小身とも書く。刀身や槍の穂の、柄(つか)に入った部分。中子(なかご)。

・「松平伊織」松平康英(明和五(一七六八)年~文化五(一八〇八)年)は旗本。伊織は通称。二千石、図書頭。中奥御番・西ノ丸徒頭・西ノ丸目付・目付・船手頭兼帯を経、文化四(一八〇七)年に長崎奉行となった。ロシア船対策の警備を定めるなどの対外防備を固めた矢先の翌年八月十五日に英国艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎に侵入、佐賀藩の警備不備により撃退が出来ず、食料など給与の要求を受け入れ、捕縛していた人質を解放の上、二日後の十七日退去させたが、その夜に康英は責を負って切腹自害した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。まさにこの「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年夏のことであった。……この和歌と彼の自死……根岸がここでこの話柄を敢えて記したのは……何か偶然ではなかったような気がしてくるのである……

・「有德院」吉宗。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 友田金平の鑓(やり)の事

 

 以下に示す記録は文化四年、西丸御先手(にしのまるおさきて)安藤九郎左衞門組同心、塚越太兵衞(つかごしたへい)と申す者が、さる嫌疑にて御詮儀の筋、これあると申す砌り、何処(いず)かへ出奔致いて行方知れずと相い成って御座った。

 ところが、本来の嫌疑に加えて出奔致せしことへの処置も含め、かの塚越が屋敷へ担当の者が参って家内の者から事情を聴いた上、屋敷内(うち)を改めたところが、この大兵衞(たへい)先祖の書き記した手記の中(うち)に、

『神君家康公甲州御陣の砌り、天正十年、甲斐国一国を御案内申し上げ奉ったにつき、駿河国に於いて、鑓一筋を拝領致いて御座った。』

由の記載のあって、実際にその鑓の現物も御座った。

 されば、この大権現様より御拝領と申す御鑓の取り計らい方儀につき、どのような処置の先例が御座るものかを、その方面の担当の者に糺いてみてところ、

「――御弓矢鑓奉行が管理致いておる御多門内(ごたもんない)には、入手経路や真偽などの正確な委細の儀は不分明なれども、『友田金平所持の鑓・その外の太刀等』と称するものが、実際に保管されてあるにつき、こちらに引き渡したいと申すのであれば、受け取って保管することには問題はない。――」

という旨の回答が、御留守居役より申し下されて御座った。

 但し、不届きにも出奔致いた大兵衛(たへい)所持のその鑓が、畏れ多くも神君家康公より御拝領の鑓であるということが、まことに事実であるかどうかを検証することも難く、いや、そもそもが、この御弓矢鑓奉行の報告の内にあったる『金平』なる人物の氏素性は如何なる者であって、何ゆえにかくも渡櫓の内に保管なされて御座ったものか、まるで分からぬ。さればこそ、その辺りのことをまず、十全に糺いて調べるよう、とのお上の御沙汰が、これ御座ったによって、古い判例の中にはこの『金平』なる人物につき、同一人として適合するような記載が見当たらざればこそ、これだけは別格に、新たに詳しく取り調べを行うことと決し、相応の資料見聞を、ようよう仕上げることが出来た。

 さて、この『金平』なる人物についてであるが、大方の信頼出来る記録の何れにも、明確に彼の出自事蹟等について書き留めたと思われる記載は、これ、残念ながら認めることは出来なかった。が、一つだけ、享保十年巳年(みどし)の、御側衆であらせられた加納遠江守久通(ひさみち)殿が許可をなさり、御留守居役大久保下野守忠位(ただたか)殿より、保管実務担当者であった御弓矢鑓奉行へ確認の上、引き渡しされたるところの品々についての、入庫保管目録受取證文に、次の通り、記されてあることが判明致いた。

   ―――――――――

   覺(おぼえ)

〔伏見城より運び込まれたるもの。〕

一つ、的の木 但し、袋入り。「吉田六左衛門」と名判(なはん)が記されてある。一張

〔右に同じ。〕

一つ、中巻(なかまき)の野太刀(のだち) 銘は「壽命(じゅめい)」。一振

〔右に同じ。〕

一、山刀(やまがたな)〔刀。銘は「來國宗(らいくにむね)作」。脇差。無銘。二腰。〕

〔右に同じ。〕

一、千鳥形十文字鑓 銘、「兼光」。一本

〔右に同じ。〕

一、友田金平大十文字鑓 一本

躬(み)の内には「南無妙法蓮華経」の七字名号の文字(もんじ)及び和歌が各面に、これ彫られて御座る。

銘は「若狭国の住人、宗長(むねなが)、播磨国姫路に於いて玉井弥三兵衛尉(たまいやさひょうえのじょう)。文祿五年二月日」。

一方に、「我等儀、吉川様に奉公仕(ほうこうつかまつ)った者にして服部兵内とも申し、又は、德川八郎左衛門とも申して御座った。今の程は友田金平と申して御座る。」と彫られてある。

 込みはすっかり錆(さび)てしまっておるために文字は不分明にて御座るものの、右の通りに彫られております由、伝え送られたことをそのまま確かにここに確認致しまする。

   ――――――――――

 以上の通り、御弓矢鑓奉行がその古文書を書き写し、御報告申し上げた。

 当時の御目付であらせられた松平伊織(いおり)殿儀、この報告をご覧にならるると、

「……これ以外には『友田金平』なる人物の事蹟は特に見当たらぬものの……この證文によって承り、また今に伝えて御座るところの趣きによれば――この金平なる御仁、確かに武功の者にして――何でも、この千鳥形大十文字鑓の躬(み)に記しおかれたる和歌には、

 

  咲くときは花の數にもあらねども散にはもれぬ友田金平

 

と、これ、記して御座る由、我ら、かねてより伝えられたるを承って御座る。……この鑓は有徳院吉宗公の御代、かつての伏見城より特に将軍家が御取り寄せに相いなられたものであるとと承って御座る。……」

というお話を伊織殿より直々に伺って御座れば、懐かしく、ここに特に記しおくことと致す。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 39 子どものシャングリ・ラ!

 別の小屋では子供達が、穴から何等かの絵をのぞき込み、一人の老人がそれ等の絵の説明をしていた。ここでまた私は、日本が子供の天国であることを、くりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。彼等は朝早く学校へ行くか、家庭にいて両親を、その家の家内的の仕事で手伝うか、父親と一緒に職業をしたり、店番をしたりする。彼等は満足して幸福そうに働き、私は今迄に、すねている子や、身体的の刑罰は見たことがない。彼等の家は簡単で、引張るとちぎれるような物も、けつまずくと転ぶような家具も無く、またしょっ中ここへ来てはいけないとか、これに触るなとか、着物に気をつけるんだよとか、やかましく言われることもない。小さな子供を一人家へ置いて行くようなことは決して無い。彼等は母親か、より大きな子供の背中にくくりつけられて、とても愉快に乗り廻し、新鮮な空気を吸い、そして行われつつあるもののすべてを見物する。日本人は確かに児童問題を解決している。日本人の子供程、行儀がよくて親切な子供はいない。また、日本人の母親程、辛棒強く、愛情に富み、子供につくす母親はいない。だが日本に関する本は皆、この事を、くりかえして書いているから、これは陳腐である。

[やぶちゃん注:

「子供達が、穴から何等かの絵をのぞき込み、一人の老人がそれ等の絵の説明をしていた」言わずもがな乍ら、「覗きからくり」 である。レンズ附の覗き穴のある箱の中に、話柄に合わせた名所の風景や絵が擬遠近法で仕掛けられており、口上が話に合わせて紐を引いて操作し、そのレンズで拡大された立体的で写実的な絵が入れ替わったり、移動したりすることで展開する見世物。江戸では単に「からくり」と呼んだ。ストーリー性の高いものでは「八百屋お七」「お染久松」「お栗判官一代記」などを興行した。機械動作であるが擬似的に再現した「博多町家ふるさと館」、及び「八百屋お七」復元(横浜市歴史博物館で実演公開されたもので、そのからくり内の絵は新潟市指定文化財で百年以上前の製作になるものである)がリンク先の動画で見られる。「のぞきからくり」の学術的な変遷史などは、恐るべきマニアックなサイトである細馬宏通覗きと遠近法がお薦めである。

「小さな子供を一人家へ置いて行くようなことは決して無い。彼等は母親か、より大きな子供の背中にくくりつけられて、とても愉快に乗り廻し、新鮮な空気を吸い、そして行われつつあるもののすべてを見物する。日本人は確かに児童問題を解決している。」原文“Little children are never left alone in the house, but are tied to the back of the mother or one of the older children and have delightful rides, fresh air, and see everything that is going on. The Japanese have certainly solved the children problem,”。これは何と……どこのシャングリ・ラか?……]

橋本多佳子句集「海燕」 昭和十年 志摩 八句

  志摩

 

春潮を着きけり志摩の國に來し

 

春潮のさむきに海女の業を見る

 

若布(め)は長(た)けて海女ゆく底ひ冥(くら)かりき

 

[やぶちゃん注:「若布」二字で「め」と読ませている。二句後のそれも同じ。「底ひ」は万葉以来の古語で、至り極まる場所、涯、窮みの謂いで、「涯底」「底方」などとも表記するが、その語源は「そきへ」「そくへ」(孰れも「退き方」と表記し、遠く離れた所、果ての意)と同語源かとするものの、はっきりはしない。この二つの「へ」は「辺」、接尾語でそちらの方、辺りの謂いであろうから、ハ行同行でイ段に転訛したということか。]

 

わがために春潮深く海女ゆけり

 

若布(め)の底に海女ゐる光り目をこらす

 

海女の髮春潮に漬じ碧く埀る

 

[やぶちゃん注:「漬じ」は「つかじ」と読む。カ行四段自動詞「漬(つ)く」で、本来は水に浸る、濡れる、浸かるの謂いであるが、私はここは、未だ寒き海から上った海女の春潮に濡れた髪が、少しもそれに侵されることなく、碧に輝いているという海女という過酷な業をものともせぬ女の、ヴァイタルなシンボルとしての黒髪への手放しの讃歌と読む。]

 

東風(こち)さむく海女が去りゆく息の笛

 

[やぶちゃん注:「息の笛」言わずもがなであるが、海女が浮上した際に行う激しい呼吸で口笛のように鳴る磯笛である。で(中学の修学旅行で私もただ一度だけ実際に聴いたことがあるが、その如何にも淋しい音色が何故か今もずっと耳を離れずにある)鳥羽のミキモト真珠島での実演中の磯笛が聴ける。]

 

東風さむく海女も去りたり吾もいなむ

やさし手に成りし小兎南天の愛らしひとみものは云はずや 萩原美棹 明治三六(一九〇三)年十二月

やさし手に成りし小兎南天(なんてん)の愛らしひとみものは云はずや

[やぶちゃん注:『明星』卯年第十二号・明治三六(一九〇三)年十二月の「寒菊」欄に「萩原美棹(上野)」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十七歳。]

靜寂は怒る  八木重吉

靜 寂 は 怒 る、

みよ、 蒼穹の 怒(いきどほ)りを

鬼城句集 冬之部 綿入

綿入    綿入や妬心もなくて妻哀れ

2014/01/02

カテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部』始動 /大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠

 

 

[やぶちゃん注:ここでは貝原益軒「大和本草」より水族の部を電子化、簡単な注釈を附す。以下、凡例を記しておく。

・底本は「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」PDF版を視認してタイプする(リンク先は目次のHTMLページ)。各頁中央にある「大和本草卷××  〇×」という柱は省略した。

冒頭の頭書(本文上部罫外)に現われる枠()で囲まれた、
 「外」(本書が主に拠るところの「本草綱目」には載せないが、「外」(ほか)の中国の本草書には載る種の謂い)
 「和品」(「和」国=本邦にはあるが、中国の本草書に同定出来るものがなく、漢名が不明の種の謂い)
の字は、項目の前に【外】【和品】等と示した。
本文中に現われる枠(□)で囲まれた部分は同じ【 】を用いて本文内に示した。

・原文との対照を明確にするために原文は一行字数を同一にした。

・本文中の訓点附漢文部分(途中に漢字カタカナ交り文を含む)はまず白文を示し、その後に訓点に従って書き下したものを直後に「〇やぶちゃんの書き下し文」として示したが、そこでは読み易さを考えて、私の判断で改行や送り仮名・句読点・記号・濁点及び難読部の読みを変更追加してある(送られていない送り仮名を外(本文)に出してもいる)。助詞助及び動詞は平仮名表記とし、ルビ送り仮名総てを平仮名表記とした。なお、読みは底本では殆んどない。底本に認められるものは( )、私が附したものは〔 〕で区別し、読みは総て歴史的仮名遣を用いた。但し、私は「大和本草」の翻刻本その他の注釈書は所持していないので訓読は全くの私の自在勝手版である。電子化の誤植を含めて誤読箇所を見出された場合はご指摘戴ければ幸いである。

・表示不能の字は改行して[やぶちゃん字注]で示した。一部の字体は最も近い正字に直した箇所があり、必ずしもそれを断わっていない。約物は「シテ」「ナリ」「コト」「トモ」等と正字化した。但し、途中から「乄」「ヿ」「𪜈」(最後の「𪜈」(「ドモ」の約物に限っては、総て過去に遡って原本を確認して直しておいた)などが使用出来るようになったため、それに代え、訓読では正字化した。

・各項の最後に私のオリジナルな注釈を施してある。但し、私は既にサイトで寺島良安「和漢三才圖會」の水族の部及び「栗氏千蟲譜」で膨大な注を施しているので、それらを再録した箇所も多い。注の誤りもご指摘戴ければ幸いである。

私の海産無脊椎動物への強い趣味と海鼠好きから、まずは「大和本草巻之十四」から開始する。悪しからず。

藪野直史【2014年1月2日始動】]

大和本草卷之十四

  水蟲 蟲之上【雜記於河海〇蟲有卵生化生

 

   濕生之三類無胎生唯蝮蛇胎生〇水蟲有

 

   可食者數種著于卷首】

 

〇やぶちゃんの書き下し文

(蟲の上【河海を雜記す。蟲に卵生・化生・濕生の三類有り、胎生は無し。唯し、蝮蛇は胎生す。水蟲、食ふべき者、數種有り、卷首に著はす。】)

[やぶちゃん注:「卵生・化生・濕生の三類有り、胎生は無し」等の呼称は、そもそもが「四生」(ししょう)という仏教に於ける生物の成り立ちを説いたものに由来する。「胎生」(たいしょう)は雌の母胎から生まれ出ずるものを(人や獣類等)、「卵生」(らんしょう)は卵から生ずるものを(鳥類等)、「濕(湿)生」(しっしょう)は湿気から生ずるものを(昆虫等の虫類)、「化生」(けしょう)は、以上の現実の理(ことわり)とは違った、自身の前世の業(ごう)によって、忽然と生まれ出ずるものであるとするものである。但し、この「化生」は仏教的な解説によれば、死から転生するまでの中間的霊的存在を表わす等とも言われるものの、発生現象を示すものとしては現在の生物学の洗礼を受けてしまった我々にはピンとこないが、謂わば「胎生」にも「卵生」にも見えない、現実世界からは断絶した異界から突如として出現するもののように見受けられる発生(安部公房の「日常性の壁」の蛇を思い出す教え子諸君も多かろう)、雌雄や卵といった位相的生態・段階的生態の形態が見受けられないものをかく称しているように私には思われる。

「蝮蛇」これは中国で爬虫綱有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属 Gloydius に属する毒蛇類を限定的に示す語である。彼等は卵胎生で幼蛇を二~三年に一度産む点では「胎生」とするのは奇異ではない。] 

 

【外】

海鼠 李時珍食物本草註曰海參生東南海中其


形如蠶大色黑多瘣※一種長五六寸者表裏倶


[やぶちゃん字注:※=(やまいだれ)+中に「畾」。]


潔味極鮮美也功擅補益殽品中之最珍貴者也


今北人又有以驢皮及驢馬之陰莖贋爲狀味雖


略相同形帶微扁者是也固惡物博識者不可不


知味甘鹹平無毒主補元氣滋益五臟六腑去三


焦比熱同鴨肉烹治食之主勞怯虛損諸疾同猪


肉煮食治肺虛欬嗽〇崔禹錫云大冷無毒主補


腎氣黄疸疲瘦其膓尤療痔〇五雜組曰其能温

 

補足敵人參故曰海參遼東海濵有之一名海男


子〇生ナルハ消化シカタシ有冷痰人不可食産後勿

 

食傷人煮テ乾タルヲイリコト云性味尤ヨシ虛ヲ補フ


注夏病人可食殺蟲小兒虛嬴ノ症唐人ハ人參ヲ不


用シテ海參ヲ用ユ甚效アリト云中華人甚賞ス毎年


中夏人イリコヲ數千斤買テ歸ル又生ニテ煮テ即イ


リコニスル法アリウナキノ虫ヲコロスカ如ク虫ヲ殺スイリ


コヲ木ノ梢枝ニカケヲケハ其木虫クハスト云又小兒ノ


疳虫ヲコロス其膓黄ニシテ長シ醢トス味ヨシコノワタト云


凡諸肉醢ノ中是ヲ以テ上品トスウニノ醢次之補虛


治痔有停食者勿生濕痰奥州金花山ノ海參ハ


黄色也キンコト云又黄赤色ナルモ處々ニ生ス〇或説


土肉ヲナマコト云非是

 

〇やぶちゃんの書き下し文[やぶちゃん字注:※=(やまいだれ)+中に「畾」。]


【外】

海鼠(なまこ) 李時珍、「食物本草」の註に曰く、『海參は東南海中に生ず。其の形、蠶〔かいこ〕のごとく大なり。色黑く、瘣※〔くわいらい〕多し。一つ、種、長さ五、六寸なる者、表裏倶〔とも〕に潔く、味、極めて鮮美なり。功、補益を擅〔ほしいまま〕にす。殽品〔かうひん〕中の最も珍貴なる者なり。今、北人、又、驢皮及び驢馬の陰莖を以つて贋〔いつは〕りたること有り。狀味、略〔ほ〕ぼ相ひ同じと雖も、形、微〔すこ〕し扁を帶ぶる者は是なり。固〔もと〕より惡しき物なり。博識の者、知らざるべからず。味、甘鹹、平。毒、無し。元氣を補ひ、五臟六腑を滋益することを主〔つかさど〕る。三焦〔さんせう〕の比熱を去る。鴨肉に同じ。烹治〔にをさ〕めて之を食へば、勞怯・虛損・諸疾を主る。猪肉に同じ。煮食〔にく〕へば、肺虛・欬嗽(がいそう)を治す。』と。

崔禹錫が云く、『大冷にして、毒、無し。腎氣を補ひ、黄疸・疲瘦をして主る。其の膓(ちよう)、尤も痔を療す。』と。

五雜組に曰く、『其の能、温補、人參に敵するに足れり。故に海參と曰ふ。遼東の海濵に之有り、一名、海男子。』と。

生なるは消化しがたし。冷にして、痰人、食すべからず、産後、食す勿れ、人を傷つくる有り。煮て乾たるを「いりこ」と云ひ、性・味、尤もよし。虛を補ふ。注夏病(ちゆうかびやう)の人、食して可なり、蟲を殺す。小兒虛嬴(きよえい)の症、唐人は人參を用ひずして海參を用ゆ。甚だ效ありと云ふ。中華人、甚だ賞す。毎年中夏、人、「いりこ」を數千斤買ひて歸る。又、生にて煮て即ち、「いりこ」にする法あり。うなぎの虫をころすがごとく虫を殺す。「いりこ」を木の梢枝にかけをけば、其の木、虫くはずと云ふ。又、小兒の疳の虫をころす。其の膓、黄にして長し。醢(ひしほ)とす。味よし。「このわた」と云ふ。凡そ諸肉、醢の中、是を以て上品とす。「うに」の醢、之に次ぐ。虛を補ひ、痔を治す。停食に有る者は食ふ勿れ。濕痰を生ず。奥州金花山の海參は黄色なり。「きんこ」と云ふ。又、黄赤色なるも處々に生ず。或る説、「土肉」を「なまこ」と云ふ、是は非なり。)

[やぶちゃん注:「海鼠」棘皮動物門 Echinodermata ナマコ綱 Holothuroidea のナマコ類については、他に私の電子テクストである寺島良安の「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」及び栗本丹洲「栗氏千蟲譜」巻八の「海鼠 附録 雨虎(海鹿)」等の私のマニアックにして遠大なる注をも参照されたい。海鼠類の一種であるキンコ Cucumaria frondosa var. japonica に特化した江戸期の博物学の労作、芝蘭堂大槻玄澤(磐水)「仙臺 きんこの記」も併せてお読み戴ければ幸いである。

『李時珍「食物本草」』元の医家李東垣(りとうえん 一一八〇年~一二五一年:金元(きんげん)医学の四大家の一人。名は杲(こう)。幼時から医薬を好み、張元素(一一五一年~一二三四年)に師事し、その技術を総て得たが、富家であったため、医を職業とはせず、世人は危急以外は診て貰えず、「神医」と見做されていた。病因は外邪によるもののほかに、精神的な刺激・飲食の不摂生・生活の不規則・寒暖の不適などによる素因が内傷を引き起こすとする「内傷説」を唱えた。脾と胃を重視し、「脾胃を内傷すると、百病が生じる」との「脾胃論」を主張し、治療には脾胃を温補する方法を用いたので「温補(補土)派」とよばれた。後の朱震亨(しゅしんこう 一二八二年~一三五八年:「陽は余りがあり、陰は不足している」という立場に立ち、陰分の保養を重要視し、臨床治療では滋陰・降火の剤を用いることを主張し、「養陰(滋陰)派」と称される)と併せて「李朱医学」とも呼ばれる)の著(但し、出版は明代の一六一〇年)。但し、名を借りた後代の別人の偽作とする説もある。 本草書のチャンピオン、明の李時珍は、「本草綱目」(五十二巻。一五九六年頃の刊行。巻頭の巻一及び二は序例(総論)、巻三及び四は百病主治として各病症に合わせた薬を示し、巻五以降が薬物各論で、それぞれの起源に基づいた分類がなされている。収録薬種千八百九十二種、図版千百九枚、処方一万千九十六種に及ぶ)の作者としてとみに知られるが。不可解なことに、「本草綱目」には「海參」はおろか、ナマコと同定出来るものが載らない。というか、海産魚類の記載は誤りが多いのである。これは彼が中国内陸の湖北省出身で、そこから殆んど出ていないという事情によるものだが、とすれば、時珍が「食物本草」にこんな「海鼠」についての細かな注を附すことは出来なかったに違いないので、これは、筆者や書名を含めて、何か、激しい錯誤があるのではなかろうか?

「瘣※〔くわいらい〕」「瘣」は身体の脇に出来た腫物や樹木の瘤を指し、「※」[※=(やまいだれ)+中に「畾」。]は、「瘤」の異体字であろうか(音は不明であるが「畾」から類推した)。多くの瘤(こぶ)があること、海鼠の背部の突起を言っているものと思われる。

「五、六寸」凡そ十五~十八センチメートル。

「功」は「效(効)」で効用。

「補益」食物補給による栄養状態の改善を言う。

「殽品」「殽」は「肴」と同義で、広義の魚、海産生物の謂い。

「驢皮及び驢馬の陰莖を以つて贋り〔いつは〕たること有り」恐るべき叙述であるが、これはかなり知られた記載なのである。なお、「贋〔いつは〕りたること」は訓読には自信がない。識者の御教授を乞うものである。

「三焦」漢方で六腑の一つ。三つの熱源の意で、上焦は横隔膜より上部、中焦は上腹部、下焦は臍下(さいか)にあり、体温を保つために絶えず熱を発生している器官とされる。みのわた。

「勞怯」過労による衰弱。

「肺虛」呼吸器系全般の機能低下によって生ずる症状全般を指す。

「欬嗽」咳。

「崔禹錫」は唐の崔禹錫撰になる食物本草書「崔禹錫食経」で知られる本草学者。「崔禹錫食経」は 平安時代中期に源順(したごう)によって編せられた辞書「倭名類聚鈔」に多く引用されるが、現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。

「五雜組」明の謝肇淛(しゃちょうせい)の十六巻からなる随筆集であるが、殆んど百科全書的内容を持ち、日本では江戸時代に愛読された。書名は五色の糸で撚(よ)った組紐のこと。

「温補」健康な人体にとって必要な温度まで高める力を補う、という意味であろう。

「いりこ」という呼称は、現在、イワシ類を塩水で茹でて干した煮干しのことを言うが、本来は、ナマコの腸を除去し、塩水で煮て完全に乾燥させたものを言った。平城京跡から出土した木簡や「延喜式」に能登国の調(ちょう)として記されている。「延喜式」の同じ能登の調には後に出る「このわた」(海鼠の腸(はらわた)の醢(塩辛))や「くちこ」(海鼠の卵巣の干物)も載り、非常に古い時代からナマコの各種加工が行われていたことを示している。昭和三七(一九六二)年内田老鶴圃刊の大島廣「ナマコとウニ」(本書は私の最初の博物学電子テクスト「仙臺きんこの記 芝蘭堂大槻玄澤(磐水)」の冒頭注に記したように、実は私が博物学書テクスト化を志す動機となったもので、私の座右の銘に相応しい名著である)には、明治二九(一八九六)年の調査になる農商務省報告に、各地方に於けるイリコの製法がいちいち詳述されており、それらを綜合した標準製法が示されているとする(以下同書からの孫引だが、カタカナを平仮名に直し、〔 〕で読み・意味を加え、適宜濁点を補った)。

   *

「捕獲の海鼠は盤中に投じ、之に潮水を湛〔たた〕へ、而して脱腸器を使用して糞穴より沙腸を抜出し、能く腹中を掃除すべし。是に於て、一度潮水にて洗滌し、而して大釜に海水を沸騰せしめ、海鼠の大小を区別し、各其大小に応じて煮熟〔しやじゆく:煮詰めること。〕の度を定め、大は一時間、小は五十分時間位とす。其間釜中に浮む泡沫を抄〔すく〕ひ取るべし。然らざれば海鼠の身に附着し色沢を損するなり。既に時間の適度に至れば之を簀上〔さくじやう:すのこの上〕に取出し、冷定〔れいてい?:完全に冷えること〕を竢〔まつ=待〕て簀箱〔すばこ〕の中に排列し、火力を以て之を燻乾〔くんかん:いぶして干すこと〕すべし。尤〔もつとも〕晴天の日は簀箱の儘交々〔かはるがはる〕空気に曝し、其湿気を発散せしむべし。而して凡〔およそ〕一週間を経て叺〔かます〕等に収め、密封放置し、五六日許りを経て再び之を取出し、簀箱等に排列して曝乾〔ばつかん〕するときは充分に乾燥することを得べし。抑〔そもそ〕も実質緻密のものを乾燥するには一度密封して空気の侵入を防遏〔ばうあつ:防ぎとどめること〕するときは、中心の湿気外皮に滲出〔しんしゆつ:にじみ出ること〕し、物体の内外自から其乾湿を平均するものなり。殊に海鼠の如き実質の緻密なるものは、中心の湿気発散極めて遅緩なれば、一度密蔵して其乾湿を平均せしめ、而して空気に晒し、湿気を発散せしむるを良とす。已に七八分乾燥せし頃を窺ひ、清水一斗蓬葉〔よもぎば〕三五匁の割合を以て製したる其蓬汁にて再び煮ること凡そ三十分間許にして之を乾すべし」

   *

まことに孫引ならぬ孫の手のように勘所を押さえた記述である。なお、最後の「蓬汁」で煮るのは、大島先生によると『ヨモギ汁の鞣酸(たんにん)と鉄鍋とが作用して黒色の鞣酸鉄(たんにんてつ)を生じ、着色の役割をするものである』と後述されてある。

「虛」とは漢方で必要なものが体内に不足している状態を指す。対義語は「実」で、不必要なものが過剰な状態を指す。

「注夏病」漢方でいう夏バテのこと。

「虛嬴」虚弱体質。

「數千斤」千斤は六百キログラム。

「うなぎの虫をころすがごとく」不詳。ここまで「虫」は実際の寄生虫や病原体を指していないから、夏バテを鰻で回復するように、という謂いであろうか? 私は「土用の鰻」というのが平賀源内のキャッチ・コピーであるという説から、夏バテ解消の鰻説を近世以後の眉唾のように思っていた嫌いがあったが、ウィキウナギ」によれば、『夏バテを防ぐためにウナギを食べる習慣は、日本では大変に古く、『万葉集』にまでその痕跡をさかのぼる。以下の歌は大伴家持による(括弧内は国歌大観番号)。「むなぎ」はウナギの古形』として、


   痩人(やせひと)をあざける歌二首

 石麻呂に吾(あれ)もの申す夏やせによしといふ物そむなぎ取り食(め)せ(三八五三)

 瘦す瘦すも生けらば在らむをはたやはたむなぎを捕ると川に流るな(三八五四)


という二首を掲げているから、益軒がかく言ったとしても何ら不思議ではないわけである。

「停食」消化不良になること、胃もたれを起していること。

「濕痰」は漢方で言う「痰湿」のこと。体内での水分の巡りが滞って体にとって有害な物質へと変化することを言う。特に消化・吸収・排泄機能が低下し、更に血流の流れを阻害する状態を指す。

『奥州金花山の海參は黄色なり。「きんこ」と云ふ』樹手目キンコ科キンコ Cucumaria frondosa var. japonica 。体長1十~二十センチメートル。体は概して丸く茄子形で、腹面はやや膨らみ、背面はやや扁平である。体色は灰褐色のものが多いが、黄白色から濃紫色までと色彩変異の幅が大きい。体前部には同大の大きな十本の触手がある。腹面の歩帯には不規則な二~4列の管足、背面の歩帯には二列の管足がある。腹面の間歩帯には管足はなく、背面には少しある。茨城県以北、千島・サハリンに分布。浅海の礫の間に生息する。食用種。二杯酢で生食するほか、煮て乾かして「いりこ」とする(以上は本川達雄他「ナマコガイドブック」(阪急コミュニケーションズ二〇〇三年刊)より。なお、キンコについては私の電子テクスト仙臺 きんこの記 芝蘭堂大槻玄澤(磐水)を参照されたい。

「土肉」ここは私の「和漢三才図会」のかつての注を示したい。寺島は和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚の「海鼠」の項で、

   *

按ずるに、海鼠(なまこ)は中華(もろこし)の海中に之無く、遼東・日本の熬海鼠(いりこ)を見て、未だ生なる者を見ず。故に諸書に載する所、皆、熬海鼠なり。剰(あまつさ)へ「文選」の土肉を「本草綱目」恠類獸の下に入る。惟だ「寧波府志」言ふ所、詳かなり。寧波(ニンハウ)は日本を去ること甚しく遠からず、近年以來、日本渡海の舶の多くは、寧波を以て湊と爲す。海鼠も亦、少し移り至るか。今に於て唐舩長崎に來る時、必ず多く熬海鼠を買ひて去(い)ぬるなり。

   *

と記している。これについて、平凡社一九八七年刊東洋文庫訳注版「和漢三才図会」にはは以下の注を記す(《 》部分は私の補填)。

   《引用開始》

『文選』の郭璞(かくはく)の「江賦」に、江中の珍しい変わった生物としてあげられたものの説明の一つであるが、石華については、「石華は石に附いて生じる。肉は啖(くら)うに中(あ)てる」とあり、《その同じ「江賦」の》土肉の説明が『臨海水土物志』《隋の沈瑩(しんえい)撰。》を引用したこの文である。《「江賦」の記載に於ける》石華と土肉は別もので、どちらも江中の生物。良安は石華を人名と思ったのであろうか。

   《引用終了》

この編者注でちょっと気になるのは、「どちらも江中の生物」と言っている点である。即ち、どちらも「江」=淡水域であるということを編者は指摘している(「江賦」は揚子江の博物誌だから当然ではある)。従って、東洋文庫版編者は「石華」は勿論、「土肉」さえもナマコとは全く異なった生物として同定していると言えるのである(淡水産のナマコは存在しない)。しかし、「土肉」は「廣漢和辭典」にあっても、明確に中国にあって「なまこ」とされている(同辞典の字義に引用されている「文選」の六臣注の中で「蚌蛤之類」とあるにはあるが、ナマコをその形態から軟体動物の一種と考えるのは極めて自然であり、決定的な異種とするには当たらないと私は思う)。さすれば、「土肉」はナマコと考えてよい。次に気になるのは「石華」の正体である。まず、書きぶりから見て、良安は、東洋文庫版注が言うように、「石華」を「土肉」について解説した人名(まどろっこしいが、「文選」注に引用された郭璞の注の中の、更に引用元の人物名ということになる)と誤っていると考えてよい。しかし、そんな考証は私には大切に思えない。「生き物」を扱っているのだから、それより何より、「石華」を考察することの方が大切であると思うのだ。そこで、まず、ここで問題となっている郭璞の注に立ち戻ろう。「石華」と「土肉」の該当部分はウィキの「昭明文選 卷十二から容易に見出せる(今回、記号の一部を変更した)。

   *

王珧〔姚〕海月、土肉石華。[やぶちゃん注:「江賦」本文。〔姚〕は「珧」の補正字であることを示す。以下、注。]

郭璞山海經注曰、珧、亦蚌屬也。臨海水土物志曰、海月、大如鏡、白色、正圓、常死海邊、其柱如搔頭大、中食。又曰、土肉、正黑、如小兒臂大、長五寸、中有腹、無口目、有三十足、炙食。又曰、石華、附石生、肉中啖。

   *

これを我流で読み下すと、

   *

王珧〔=姚〕・海月、土肉・石華。

郭璞「山海經」注に曰く、珧は亦、蚌の屬なり。「臨海水土物志」に曰く、『海月は、大いさ鏡のごとく、白色、正圓、常に海邊に死し、其の柱、搔頭の大いさのごとく、食ふに中(あ)てる。』と。又曰く、『土肉は、正黑、小兒の臂の大いさのごとく、長さ五寸、中に腹有り、口・目無く、三十の足有り、炙りて食ふ。』と。又曰く、『石華、石に附きて生じ、肉、啖ふに中てる。』と。

   *

脱線をすると止めどもなくなるのであるが、「王珧〔=姚〕」は「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部 寺島良安」の「王珧」でタイラギ、「海月」は同じく「海鏡」でカガミガイ又はマドガイである(「海鏡」は記載が美事に一致する。なお、それぞれの学名については該当項の注を参照されたい)。「土肉」はその記載からみても間違いなくナマコである。では、「石華」は何か? 極めて少ない記載ながら、私はこれを海藻類と同定してみたい欲求にかられる(勿論、「肉」と言っている点から、海藻様に付着するサンゴやコケムシや定在性のゴカイ類のような環形動物及びホヤ類も選択肢には当然挙がるのだが、「肉は啖(くら)ふに中(あ)てる」という食用に供するという点からは、定在性ゴカイのエラコPseudopotamilla occelata かホヤ類に限られよう)。すると「石花」という名称が浮かび上がるのだ。本「大和本草」の「卷之八草之四」の「心太(ふと)」の条に、「閩書」(明・何喬遠撰)を引いて「石花菜ハ海石ノ上ニ生ス。性ハ寒、夏月ニ煮テ之ヲ凍〔こほり〕ト成ス」とする。即ち、「石華」とは、一つの可能性として紅色植物門紅藻綱テングサ目テングサ科マクサ Gelidium crinale 等に代表されるテングサ類ではなかろうかと思われてくるのである。
 なお、国立国会図書館蔵の同じ宝永六(一七〇九)年版の
本箇所には手書きの以下のような記載が附箋で記されて本文の途中に添付されている(取り消し線は抹消字を、■は判読不能字示す)。
   *
〇原文

 長崎ニ商フ海参イリコハ漁人トリテ水ニ煮テウル也商人買之再ヒ塩謄(ニガリ)水ニテ煮テ干シ半切桶ニ入アタラシキ草鞋ヲ着踏ミ上テコクリテ后干テ箱ニ入長崎ヘツカワス也。用之ニハコヌカヲ水ニ入テ終日煮ルトキハヤハラカニナル、
〇金海鼠ノ事此者不詳又一本堂■迁ニモ出タリ誤アリ

〇やぶちゃんの書き下し文

 長崎に商ふ海参いりこは、漁人とりて水に煮て、うる也。商人、之を買ひ、再び塩謄(にがり)水にて煮て干し半切の桶に入れ、あたらしき草鞋を着〔つ〕け、踏みみ上てこくりて后〔のち〕、干して箱に入れ、長崎へつかわすなり。之れを用ふるには、こぬかを水に入れて終日煮るときは、やはらかになる。
〇金海鼠(きんこ)の事、此の者、詳らかならず。又、一本、「堂■迁」にも出でたり、誤りあり。

   *

判読不能部分、識者のご教授を乞うものである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 38 謎の駄菓子屋(麸の焼きか?)


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図289

 

 帰途、お寺へ通じる町の一つに、子供の市が立っていた。並木路の両側には、各種の仮小屋が立ち並び、そこで売っている品は必ず子供の玩具であった。仮小屋の番をしているのは老人の男女で、売品の値段は一セントの十分の一から一セントまでであった。子供達はこの上もなく幸福そうに、仮小屋から仮小屋へ飛び廻り、美しい品々を見ては、彼等の持つ僅かなお小遣を何に使おうかと、決めていた。一人の老人が箱に似たストーヴを持っていたが、その上の表面は石で、その下には炭火がある。横手には米の粉、鶏卵、砂糖――つまりバタア――の混合物を入れた大きな壷が置いてあった。老人はこれをコップに入れて子供達に売り、小さなブリキの匙を貸す。子供達はそれを少しずつストープの上にひろげて料理し、出来上ると掻き取って自分が食べたり、小さな友人達にやったり、背中にくっついている赤坊に食わせたりする。台所に入り込んで、薑(しょうが)パンかお菓子をつくつた後の容器から、ナイフで生麪(なまこ)の幾滴かをすくい出し、それを熱いストーヴの上に押しつけて、小さなお菓子をつくることの愉快さを思い出す人は、これ等の日本人の子供達のよろこびようを心から理解することが出来るであろう。国289は、この戸外パン焼場の概念を示している。老人の仮小屋は移動式なので、彼は巨大な傘をたたみ、その他の品々をきっちり仕舞い込んで、別の場所へ行くことが出来る。これは我国の都市の子供が大勢いる所へ持って来てもよい。これに思いついて、貧乏な老人の男女がやってもよい。

[やぶちゃん注:「バタア」原文も確かに“a batter”である。底本では直下に石川氏の『〔麺粉(うどんこ)、鶏卵、食塩等に牛乳を加えてかきまわしたもの〕』という割注がある。この割注通りだと、現在のケーキに用いるバター・クリームのことだが、私にはどうも「バタア」というモースの原文や石川氏の牛乳を加えたものという表現が不審である。明治十年のかくも低級な駄菓子に牛乳が使われていたとは私には思われないからである。一つ、これはもんじゃ焼きやお好み焼きのルーツとされる「麩の焼き(ふのやき)」と呼ばれるものではなかろうか? 以下、ウィキの「麩の焼き」によれば、『小麦粉を主体とした和菓子である。小麦粉を水で溶いて薄く焼き、芥子の実などを入れ、山椒味噌や砂糖を塗った生地を巻物状に巻いて成形する。麩焼き(ふやき)とも呼ぶ』。『巻いた形が巻物経典を彷彿とさせることから、仏事用の菓子として使われた。「秋の膳」の和菓子であり、茶会の茶菓子として安土桃山時代の千利休が作らせていた。利休の茶会記『利休百会記』にもたびたびその名が見える。江戸時代末期には、味噌に替えて餡を巻く助惣焼ができた。また、麩の焼きはお好み焼きのルーツとして知られる』。大方の御批判を俟つ。

「薑パン」原文“gingerbread”。ウィキの「ジンジャーブレッド」によれば、生姜を使った洋菓子の一種で『ジンジャークッキー、あるいはそれを家の形に組み立てたジンジャーブレッドハウス(ヘクセンハウス)を指すこともあるが』、『両者の違いは必ずしも明確ではない』とあり、『生姜はジンジャーパウダー(ショウガの乾燥粉末)、あるいはおろし生姜の絞り汁のみを使う。また甘味を付けるには糖蜜(トリックルもしくはモラセス)を用いるため、ジンジャーブレッドも黒みがかった色になる』。『生地の中にマスタードやレーズン、ナッツ類を加えることや温めたレモンソースなどを添えることもある』と製法を記す。『ジンジャーブレッドの起源は、古代ギリシア時代に、ロードス島のパン屋が焼いたものと言われ』、『中東から十字軍がヨーロッパに持ち帰ったことで各地に広まり、現在では東ヨーロッパからアングロアメリカまで広く見られる』。『イギリスではとても一般的なケーキで』、『ローマ時代に、アフリカ産の良質の生姜とともに伝わったとも言われる』。『なかでも、ヨークシャーなどイングランド北部には、パーキンというオートミールと糖蜜を使ったジンジャーブレッドがあり、ガイ・フォークス・ナイトに食べる習慣があ』り、『アメリカ合衆国では冬、特にクリスマスの前後に家庭で作って食べることが多い』とある。

「生麪(なまこ)」「なまめん」。「生麺」「生麵」に同じ。麺生地を延ばし細く切った状態のまま加熱や乾燥などの処理をしていない麺を普通は言うが、原文は“and with a knife scooping out drops of it”とあって、この“it”は前の「薑パンかお菓子をつくつた後の容器」に残っているところの、まだどろりとした(だから“drops”)捏ね残った生地のことを指している。]

耳嚢 巻之八 狂歌贈答滑稽の事

 狂歌贈答滑稽の事

 

 淺草邊、輕き町人にて狂歌を好み詠(よみ)て、狂名つむりの光(ひかる)といへるありしが、文化三年四月のころ、時鳥を聞(きく)とて端居して夜深くなりしに郭公は音信(おとづれ)なく、蚊のなのる聲さるされければ蟵(かや)つらんとせしが、釣手の釘なかりしゆゑ鐡鎚(かなづち)をさがして釣手の釘を打(うち)しに、隣の者これを聞(きき)て、夜深く何をなすやと聲かけし故、しかじかの譯かたりければ、御身兼て好(このめ)る狂歌にてもあるべしと、いゝけるまゝに、

  郭公待夜に蟵を釣初て柱の釘はしかときいたか

と申(まうし)ければ隣なるをの子、われも詠(よみ)たるとて

  かなづちのおとなり故におこされて壁にも耳の郭公かな

と答けるとか。隣のをのこいと面白く覺へしと、泰翁かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。狂歌譚シリーズ。

・「つむりの光」狂歌師で浮世絵でもあった岸文笑(きし ぶんしょう 宝暦四(一七五四)年~寛政八(一七九六)年)。一筆斎文調の門人で名は誠之。俗称は宇右衛門。狂歌名は桑楊庵やここに出た頭光(「つぶりのひかる」又は「つむりのひかる」)・巴人亭など。日本橋亀井町の町代であった。参照したウィキの「岸文笑」によれば、『若い時(明和期)に、一筆斎文調の門に入り、黄表紙の挿絵を描いて、名を現した。中年の頃から狂歌を詠み、後に、大田南畝の門人になり、狂歌師となり、伯楽連に属した。酒を好み、頭が早く禿げたために、頭光と称した。巴人亭の号は、南畝より受け、四方側の判者となり、名声高く、門人は大勢いた』。

 ほとゝぎす自由自在に聞く里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里

の一首が良く知られている。代表作には天明七(一七八七)年編著の「狂歌才蔵集」、天明九(一七八九)年刊の「絵本譬喩節(えほんたとえのふし)」、寛政四(一七九二)年刊の「圃老巷説菟道園(ほろうこうせつうじのその)」などがある、とある。

・「文化三年四月」不審。文化三年は西暦一八〇六年で十年前に『つむりの光』こと岸文笑は亡くなっている。因みに「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏である。伝承の誤りというよりは、亡き狂歌師のために後代に作られた都市伝説の一種のように私には感じられる。そもそもがこの『つむりの光』の町屋の壁際の会話というシチュエーションは、「源氏物語」の知られた夕顔の宿の明け方の景の匂いづけがなされているように私には思われるからでもある。

・「さるされければ」底本では右に『(尊經關本「うるさければ」)』と注する。これで訳した。

・「郭公待夜に蟵を釣初て柱の釘はしかときいたか」は、「ほととぎす まつよにかやを つりそめて はしらのくぎは しかときいたか」と読む。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

 郭公待(まつ)夜に蟵を釣(つり)そめて柱の釘はしかときいたり

となっている。私は本底本の疑問の終助詞による終止の方が遙かに優れていると思う。何故かと言うと、岩波版で長谷川氏が注で指摘されているように、「しかときく」とは『釘が確実に撃ち込まれて有効に働くことをきくという。それと時鳥の声を確かに聞くというのとを掛けた』のであるが、この「きいたか」のヴァリエーションを示され、『時鳥の声は「ホゾンカケタカ」「テッペンカケタカ」というから「きいたか」とするのがよいか』と記されているからである。なお前者の音写は、「本尊懸けたか」(本尊を心にかけて祈っているか)という意味である。訳す必要はあるまい。

・「かなづちのおとなり故におこされて壁にも耳の郭公かな」「おとなり」は「音鳴り」と「御隣り」を掛け、「壁にも耳の郭公かな」は「壁に耳あり」という諺に掛けて、実際に壁越しに隣りから郭公(ほととぎす)のことを聴いたことを述べると同時に、更には釘打ちの音を時鳥の木を敲く音に擬えた風流の贈答でもある。これも訳す必要を感じさせない。

・「横田泰翁」「耳嚢 巻之七 養生戒歌の事」に「横田泰翁」の名で既出。底本の同話の鈴木氏注に、『袋翁が正しいらしく、『甲子夜話』『一語一言』ともに袋翁と書いている。甲子夜話によれば、袋翁は萩原宗固に学び、塙保己一と同門であった。宗固は袋翁には和学に進むよう、保己一には和歌の勉強をすすめたのであったが、結果は逆になったという。袋翁は横田氏、孫兵衛といったことは両書ともに共通する。『一宗一言』には詠歌二首が載っている』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  狂歌贈答の滑稽の事

 

 浅草辺りの軽い身分の町人にて、狂歌を好んで詠み、狂名を『つむりの光(ひかる)』と称した者が御座ったが、文化三年四月の頃、時鳥(ほととぎす)を聴かんものと、縁に出でては深更に及ぶまで待って御座ったものの……――テッペンカケタカ――という時鳥の訪れは、これなく専ら……ブーンブーン――と申す、蚊の名乗りの声のみが五月蠅ければ、仕方のぅ、蚊帳(かや)を釣らんと致いたところ、蚊帳の釣り手の釘が抜け落ちてのぅなって御座ったによって、金槌と釘を探し出だし……コココンコココンコココンコン――と釣手の釘を柱に打ちつけて御座ったところ、隣に住まう者、これを聞き、

「……お隣さんよ! この、夜更けに、一体、何をしとるんじゃ?!」

と声かけたによって、光、

「いやさ。相い済まぬことで御座った。時鳥の声を聴かんものと、夜遅うまで待ったものの、音づれもこれなく、蚊の声のみ五月蠅ければ、蚊帳を吊らんと致せしところ、蚊帳の釣り手の釘の抜けて御座ったによって、かくも打ちつけて御座った由。失礼仕った。」

との答え。と、それを聴いた隣りの主(あるじ)、

「……一つ御身、かねてより好めるところの狂歌にても、そのことを詠まるるがよかろう。」

とのたっての望みを壁越しに告げたによって、言わるるままに、光、

  郭公待夜に蟵を釣初て柱の釘はしかときいたか

と一首ものしたところ、隣なる男は、

「……我らも一首――詠んで御座る。」

とて、

  かなづちのおとなり故におこされて壁にも耳の郭公かな

と応えたとか。…………

 

「……いや、この隣りの男が知り合いで御座っての。彼はこの時のことを、『大層面白う覚えて御座る』とよく、申しておりました。……」

と、狂歌好きの横山泰翁(たいおう)殿の語って御座った。

耳嚢 巻之八 剛氣の者又迷ひ安き事

 剛氣の者又迷ひ安き事

 

 此(この)笠原與市は、剛氣の上(うへ)甚だ氣丈なる性質(たち)にて、主人の家へ立入(たちいり)し上野の律院を甚(はなはだ)信仰ありて、彼(かの)院にある何經とかいふ經を萬部讀誦する事、出家にも希にて、古しへより弘法大師こそ萬部の讀誦せしといひけるを、氣丈なる太田氏、我(われ)讀誦なさんとて律院より右經文を取寄せ、庭に有之(これある)學問所へ閉(とぢ)籠りて粥抔を食し、七日に讀誦のつもりにて取懸りしに、三日目に鼻血出て家内家來も諫め止めける故やめたりしが、さるにても經卷を取寄(とりよせ)、事不逐(とげざる)といわんも無念なり、家來の内誰渠(たれかれ)といふ内、與市こそ可逐(とぐべし)とて申付(まうしつけ)られしに、畏(かしこま)り候(さふらふ)迚(とて)、彼(かの)一室に籠りて主人に代り讀誦せしが、晝夜無間斷(かんだんなく)、遂に四五日にて不殘(のこらず)讀(よみ)終りければ、主人も大きに怡(よろこ)び、我等は不快にて事を不遂(とげず)とも、召仕某(めしつかひぼう)、我に替りて讀終りぬと、律院に申(まうし)遣しければ、律僧大に驚き、むかしより右の日數にて一萬卷讀誦せしは弘法の外無之(これなし)と傳へ承りぬ、誠に與市は弘法の化身なるべし、俗にてあらんはいかにも惜むべし、我弟子に給(たまは)りなば、出家の身分にて上(うへ)もなき幸福本懷をも得んと、志摩守へ申(まうし)ける故、與市へしかじかの事かたりしに、可憐(あはれむべき)は剛氣朴質の生(うま)れ、一途に弘法の化身の心になり、いかにも出家なさんと主人父母へも願ひしが、一人の男子ゆゑ兩親とも何分得心せず、品々異見を加へしに曾て承引せざれば親もこまり入(いり)て、兼て師匠一帆齋が異見を尤(もつとも)に聞(きく)まゝ、密(ひそか)に一帆齋に異見を賴み、かく心決せし上は一帆齋へも暇乞(いとまごひ)旁(かたがた)た參るべしと申付(まうしつけ)ける故、與市儀(ぎ)一帆齋方へ來りて、しかじかのわけかたりければ一帆齋、武士より出家するの腰拔(こしぬけ)なる事、主親(しゆうおや)へ對しても不相濟(あひすまざる)次第を厚く諫め、兼て流儀執心にて世話いたし、拵(こしらへ)させし大刀小刀とも我方へ返し給へと切に諫め、憤りを生ずれば、出家する心にて憤るいはれ有(あり)やと段々教誡なしければ、得心してやがて思ひ止(とどま)りしゆゑ親大いに歡び、早速妻などむかへける。弘法の再誕、女房を持(もち)し始末、可笑(おか)しき事也と、其頃一帆齋かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:一帆斎の、無骨の高弟与市と、そのぶっ飛びの主君太田資同(すけあつ)の思い出第二話。諸注は前の「剛氣朴質の人氣性の事」を参照のこと。

・「律院」律宗は戒律を守り実行することを教義とする一派で中国の道宣が広め、日本へは天平勝宝六(七五四)年に唐僧鑑真が伝え、南都六宗の一つとなった。唐招提寺を本山とする。戒律宗。室町時代には一時衰退したが、江戸時代には明忍・友尊・慧雲が出て、再度、戒律復興を唱えた。但し、僧の言葉や反応を見るとこれは真言律宗である。こちらは奈良西大寺を総本山とする宗派で宗祖は弘法大師空海、派祖は興正菩薩叡尊。真言宗の教義に基づいて小乗戒・三昧耶(さんまや)戒の大小乗戒を遵守することを本旨とする。岩波版長谷川氏の注に、『上野に近い湯島の霊雲寺が真言律宗であるが、ここにいう寺不詳』とある。ウィキの「霊雲寺」によれば、この寺は元禄四(一六九一)年に柳沢吉保の帰依を受けた浄厳律師覚彦により創建された寺で、時の将軍徳川綱吉から現寺地を得、霊雲寺を開創した。元禄六(一六九三)年には多摩郡上図師村(東京都町田市)に百石の寺領を得、元禄七(一六九四)年には関八州の真言律宗の総本寺とされた。『江戸幕府から朱印状を受けるなど幕府の保護を受け、関東における真言律宗の中心的な寺院であった。関東大震災、第二次世界大戦の戦災で堂宇を焼失し、現在の堂宇は戦後復興されたものである』とあって、本話柄には打って付けの名刹ではある。

・「誰渠(たれかれ)」は底本のルビ。

・「旁(かたがた)」は底本のルビ。

・「主親(しゆうおや)」の読みは岩波版長谷川氏のそれに基づいた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 剛毅の者はまた迷いやすいという事

 

 この笠原与市は、剛毅の上、はなはだ気丈なる性質(たち)で御座って、主人太田資同(すけあつ)殿の家へ親しく立ち入っておられた上野にある真言律宗の寺院を、これ、はなはだ信仰致いて御座った。

 かの寺院には、何とか経とか申す、有り難い経文があったが、この一万部に及ぶ大経を読誦することが出来た者は、出家の中にても稀で御座って、古(いにし)えよりは弘法大師のみが、その一万部の読誦を達成し得たとか、伝えられて御座る由。

 さてもまた、かの与市に輪をかけて気丈であられた太田殿は、

「我ら、その万部の経、読誦なさんとぞ思う!」

とて、かの律院より右の経文一万部を取り寄せては、かねてより庭に設えて御座った学問所へ閉じ籠もらるるや、粥なんどばかりを食して、七日で読誦完遂の積もりで取り懸られたものの、さても――三日目に鼻血を出だされ、御家内(ごかない)御家来衆らが挙って諌め言を申し上げ、

「どうか! 一つ! これはもう! お止め下さりませぃ!」

と懇請致いたゆえ、お止めになられはしたものの、

「……それにしても……わざわざ経巻を取り寄せておいて……読誦逐ぐること叶わなんだと申して返すは……これ、如何にも無念!……そうじゃ! 誰(たれ)か、家来の内に、これ、我らに代わって遂ぐること出来る者はおらぬか!?……」

と仰せられたによって、重臣の一人が、

「……かの与市なれば……逐ぐること出来ましょうほどに。……」

とて、早速に与市、召し出だされ、万部読誦を申し付けられたところが、

「畏(かしこま)って候う。」

とて、かの学問所の一室に籠り、主人に代わって万部読誦を始めたと申す。

 昼夜を分かたず、一度として途切れることものぅ――則ち、一睡たりとも一食たりともせずに――遂に四、五日にて、残らず一万部を読み終わりってしもうた。

 さればこそ、主人も大きに悦び、

「――我らは体調を崩したるによってことを遂げざれども、召し仕うておる某(なにがし)が、これ、我らに代わって、美事、万部、読み終えて御座った。――」

と、律院に申し遣わしたところが、住持の律僧、大きに驚き、

「……む、昔よりたった四、五日の日数(ひかず)にて一万巻(いちまんがん)総てを読誦なされたと申すは……こ、弘法大師様の外には、これ、ない、と伝へ承って御座る!……さればこそ……ま、まことにそれを遂げられた与市なる御家来衆と申すは……こ、これ――弘法の化身――に違い御座らぬ!……いやはや! 俗人にてあらんことは、これ如何にも惜しむべきことじゃ! 我らが弟子として賜わったなれば、出家の身分に於いては、この上もなき地位と幸福なる本懐をも得らるること、これ、間違い御座らぬッ!」

と、志摩守殿へとたって申して参ったによって、志摩守殿は直々に与市に向かい、

「……いや……という、そなたも信心なす、かの律院の……これ、まあ、たっての望みと申して参ったのじゃが……」

と訊いたところが、

「ああっ! 何とまあ!……哀れむべきは、我ら、殺生をこととする剛毅朴訥の武士の生まれ!……されば、これより――一途に弘法の化身の心となり――如何にも出家を致さんと存ずる!」

と、二つ返事で請けがって、主人や父母へも正式に、かの律宗の寺にて出家入山を願ったと申す。

 しかし、与市が家は彼一人男子なればこそ、両親ともにいっかな得心せず、いろいろと異見をも加えてみたものの、与市は、これ、いっかな、承知致さざれば、親もすっかり困り果て、そこで、かねてより師匠一帆斎の異見には、与市、これ、必ず素直に従(したご)うて参ったものであったによって、事前に密かに一帆斎方へ出家を断念さするような御異見をどうか宜しゅうにお願い申すと頼みおいて、父なる者、やおら、

「……かくも心を決したる上は師一帆斎殿が方へも、これ、暇ま乞い方々、参らねばなるまいぞ。……」

と申し付けたによって、与市儀(ぎ)、一帆齋が方へ参り、

「――しかじかの訳にて――拙者武士を辞めて僧と相い成ることと決しまして御座る。」

と報じたところが、一帆斎は、

「――武士であった者がそのような訳によって出家致すという申すこと、これ聞いたことがない、わ!……これは――腰抜けの――やることじゃ、の!……いいや! 主(しゅう)や親へ対しても、これは、如何にも相い済まざることじゃ、の!……」

といったような語気強き次第を語り始め、諌めつつ、最後には、

「……かねてより拙者が流儀への殊の外の執心なればこそ……世話を致いて……また……拵えもさせては……流儀伝授の証しと致いて渡いたところの――そこに差し於けるところの大刀脇差ともに! 今直ぐに! 我が方へ返し給われ! 腰抜けにその名刀の太刀は不似合ッ! 悍(おぞ)ましいばかり! さ! かえせ! かえせ! かえさんかぃ! コ、シ、ヌ、ケ、侍(さむらい)がッ!」

と捲くし立てては、理不尽極まりなき罵詈雑言を述べ立てたところ、流石の与市も堪忍袋の緒(おお)が切れ、

「――師匠とは申せど! 慮外なる仰せ! かくも侮辱なさるるとは! これ、許せませぬッ!!」

と憤りを生じたによって、一帆斎すかさず、

「――出家すると決定(けつじょう)致いた心にて……憤るという謂われ……これ、有りやッツ?!」

と一喝なした。

 かく喝破されてギュウの音ものぅ、おし黙ってしまった与市に向かい、後は穏やかに一帆斎、だんだんと教誡(きょうかい)なしたるところ、与市も流石に素直に得心致いて、そのまま出家の儀は、これ、思い止まったと申す。

 されば親も大いに歓び――喜悦序でに――凡そ再び出家なんどを口に出さぬ先に、と――早速、妻なんどまで迎えさせて御座ったと申す。……

 

「……いやはや……弘法の再誕なる者が、これ……即座に女房を持ったと申す顛末……おかしきことにて……御座いましょう?……」

と、夭折致いた与市の思い出話として、かつて一帆斎殿が我らに語って呉れた物語で御座る。

萩原朔太郎 短歌四首 明治三六(一九〇三)年十二月

相似たる人か木精(こだま)かひそみきて呼べば應(こた)ふる日なるが如し

ひよ鳥の啼くや朝雲寒うして人とすなほに別れけるかな

しら露におもひ消ぬべき心地して母なぐさめて摘む秋の草

夕月のさせば武藏の母もきてありし昔の夢さそふ夜や

[やぶちゃん注:『明星』卯年第十二号・明治三六(一九〇三)年十二月の「金鷄」欄に「萩原美棹(上野)」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十七歳。]

橋本多佳子句集「海燕」 昭和十年 春日若宮御祭 二句

  昭和十年

 

   春日若宮御祭

 

枯芝に萬歳樂は尾をひけり

 

陵王に四方の庭燎のもえさかる

 

[やぶちゃん注:「春日若宮御祭」は奈良市春日野町春日大社で年間に亙って行われる水神を祀る行事。以下、参照した春日大社公式サイトによれば、現在は「おん祭」と表記する。この二句はその「おん祭」の中のクライマックスである十二月十七日に行われる「お渡り式」の嘱目吟である。お渡りとは神霊が多くの供奉を従えて御旅所の行宮へ遷する行事であるが、「おん祭」の場合は神霊の行列ではなく、既に行宮へ遷られた若宮神の元へ芸能集団や祭礼に加わる人々が社参する行列のことを言う。

 一句目の「萬歳樂」はその日の午後二時半頃に始まる「お旅所祭」の奉幣・祝詞奏上・拝礼の後、午後三時半頃から神楽が舞われ、その後に田楽・細男・猿楽(能楽)・舞楽などが午後十一時近くまで奉納されるが、その後半の舞楽の中の左舞で舞われる萬歳楽(まんざいらく)を指す。この左舞は中国・印度支那方面から伝えられたもので赤色系統の装束を着用する(対する右舞は朝鮮・渤海国等から伝えられたもので緑色を基調とした装束で舞われる。左舞は唐楽、右舞は高麗楽とも呼ばれて演奏は通常は左舞・右舞を一対(番舞と呼ぶ)とし、その何組かが舞われるが、「おん祭」では五番十曲が舞われるとある)。公式サイトの舞楽の1」によれば、万歳楽は『隋の煬帝が楽正自明達に作らせたもので、鳳凰が萬歳と唱えるのを舞に表したものといわれている。慶賀の際には必ず舞われる荘重閑雅、気品の高い曲である。舞人は四人、赤の常装束に鳥甲を冠っている』とある(春日大社動画映像)。

 二句目の「陵王」は雅楽の曲目の一つ「蘭陵王」。左舞(唐楽)に属する一人舞で、華麗に装飾された仮面を被る勇壮な走り舞。番舞の右舞は納曽利(なそり)。林邑(現在のベトナムにあったチャンパ王国)の僧仏哲が本邦に齎したとされ、中国風の感じが残ると言われる美しい曲である。北斉の蘭陵武王高長恭の逸話に因んだもので眉目秀麗な名将蘭陵王が優しげな美貌を獰猛な仮面に隠して戦に挑み、美事大勝、兵らが喜んでその勇士を歌に歌ったのが由来とされる。武人の舞らしい勇壮さの中に、絶世の美貌で知られた蘭陵王を偲ばせる優雅さを併せ持つ(ここまではウィキ蘭陵王雅楽に拠る)。公式サイトの舞楽の2」によれば、『舞人は竜頭を頭上にし、あごをひもで吊り下げ金色の面をつけ、緋房のついた金色の桴をもち、朱の袍に雲竜を表した裲襠装束をつけて勇壮に舞う』とある。こちらの todorokinooka 撮影平成二〇(二〇〇八年)は、全体が暗いものの、本句の多佳子の感じた雰囲気をよく伝えるもののように感じられる。なお「庭燎」は「にはび(にわび)」と読み、庭火で庭で焚く火、特にこのような神事の庭や宮中の御神楽(みかぐら)で焚く篝火を指し、柴灯(さいとう)とも言う。冬の季語でもある。]

矜恃ある 風景  八木重吉

矜恃ある 風景

いつしらず

わが こころに 住む

浪(らう)、 浪、 浪 として しづかなり

2014/01/01

カテゴリ「橋本多佳子」始動 / 句集「海燕」 昭和十年以前 八句

[やぶちゃん注:カテゴリ「橋本多佳子」を創始する。ここでは橋本多佳子の全句電子化(一部に評釈を附す)を目指す。底本は一九八九年立風書房刊「橋本多佳子全集」を用いるが、彼女は戦前から活動した作家であることから、私の特に俳句のテクスト化ポリシー(この理由については俳句の場合、特に私には確信犯的意識がある。戦後の句集は新字採用のものもあるであろうが、それについては、私の「やぶちゃん版鈴木しづ子句集」の冒頭注で、私の拘りの考え方を示してある。疑義のある方は必ずお読み頂きたい)に従い、恣意的に一部の漢字を正字化して示す。藪野直史【2014年月1日始動】]

 

句集「海燕」

(昭和一六(一九四一)年一月十日交蘭社刊。昭和二(一九二七)年から同十五年までの作品四百十七句を収録する。序文は山口誓子。誓子の序文は著作権存続中のため、省略する)

 

  昭和十年以前

 

   春日神社蹴鞠祭

 

公卿若し藤に蹴鞠をそらしける

 

[やぶちゃん注:「春日神社蹴鞠祭」不詳。この普通の書きぶりからは奈良の春日大社としか思えないが、調べた限りでは春日大社に現在、蹴鞠祭と称する祭はない。また蹴鞠祭で最も知られている奈良県桜井市多武峰の談山(たんざん)神社は春日神社とは言わない(因みに談山神社の蹴鞠祭は現在は毎年四月二十九日の「昭和の日」と十一月三日の「文化の日」に行われている)。識者の御教授を乞う。本句はこの位置から見て、大正一四(一九二五)年夏以前の句である。]

 

曇り來し昆布干場の野菊かな

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年の恐らく八月、当時の樺太の国境直近にあった炭鉱の村、西柵丹村(にしさくたんむら)安別(現在のロシア連邦サハリン州ボシュニャコヴォ)での句。[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年の恐らく八月、当時の樺太の国境直近にあった炭鉱の村、西柵丹村(にしさくたんむら)安別(現在のロシア連邦サハリン州ボシュニャコヴォ)での句。橋本多佳子(明治三二(一八九九)年一月十五日~昭和三八(一九六三)年五月二十九日)満二十六歳。

 この句は一読、北原白秋の知られた一首、

 

 いつしかに春の名殘となりにけり昆布干し場のたんぽぽの花

 

を想起させるが、実は何と、この句をものしたその時その場には白秋本人がいた。底本年譜によれば、この年、夫豊次郎の仕事(土木建築業大阪橋本組北九州出張所駐在重役。この当時は満三十七歳頃。)の関係で小倉にいた多佳子は七月末より八月にかけて約二週間、鉄道省主催の「樺太・北海道旅行」に身重(四女となる美代子。十二月十五日生。)の身で夫とともに参加、客船高麗丸で安別・敷香(しすか:現在のロシア連邦サハリン州ポロナイスク市附近)・海豹島(現在のチュレーニー島)等に旅した(以下の引用で見るように同行者の中には北原白秋と吉植庄亮(よしうえしょうりょう:後注参照。)がいた。船中の音楽会で多佳子が白秋作詞の「あわて床屋」をピアノを弾き、白秋は殊の外満悦で親交が深まったという)。本句について多佳子は、『俳句』(昭和三三(一九五八)年一月刊)に載せた「自句自解」の冒頭で以下のように語っている(底本全集第二巻を用いたが、ここは発表年を考え、新字のママとした)。

   *

 昔、日ソ国境だつた樺太安別の作。

 前夜から海は荒れてゐましたが、上陸するときになつても、雨が横なぐりに降つてゐて、本船からランチに乗り移るのに暇がかかり、甲板に集つた私達は、(北原白秋、青梅庄亮氏もその中にゐました)これから登る国境標のある丘を眺め、上陸の順番を待つてゐました。

 安別の町は、荒涼として校倉造りの郵便局が印象的でした。数へるほどの家並の尽きた所に、骨を組立てたやうな柵が幾段も見えましたが、近づくと、それが昆布干場でした。

 雨後の照つたり曇つたりする昆布干場には、樺太蟹の真赤な殻などが打寄せられてゐて、それこそ北の渡の風景でした。思ひがけずそこに咲いてゐた野菊を見て、この句はするする出来ましたが、北原白秋の「昆布干場のタンポヽの花」の歌の影響が多分にあります。

 この句を見ると、多くの故人の顔が浮みます。亡き夫の長身、北原白秋の太い丸い背など。

   *

当時、白秋は四十歳。吉植庄亮(明治一七(一八八四)年~昭和三三(一九五八)年)は歌人で政治家。東京帝国大学法科大学経済学科卒業後は父の経営していた中央新聞の記者となった。号は愛剣。明治三九(一九〇六)年から金子薫園に師事、大正一〇(一九二一)年に歌集「寂光」を刊行、翌十一年には歌誌『橄欖(かんらん)』を創刊した後、大正十二年には北原白秋・田夕暮・古泉千樫・石原純・木下利玄らとともに歌誌『日光』を創刊した。大正十四年から十年間、父の遺志を継いで千葉県印旛沼周辺の開墾に従事、当時としては画期的な大型トラクター導入による農業の機械化や有畜農業を進め、その生活を詠った歌集「開墾」を発表した。この後の昭和一一(一九三六)年に衆議院議員となった(当選三回。政友会)。戦後は公職追放を受けて農地改革により所有する農園をも失った。後、印旛沼・手賀沼の土地改良区設立運動に携わって、昭和二六(一九五一)年になって追放解除となった。白秋とは特に親しかった。以上は講談社「日本人名大辞典」及びウィキ吉植庄亮に拠った。彼の短歌数首を示しておく。

 小波(さざなみ)を見てゐるよりも忙(せは)しなき小禽(ことり)の頭みなみな啼き居り

 あしひきの山のきはらのゆふつく日光となりてちる木の葉あり

 開墾機(トラクター)エンヂンとどろかし過ぎにけり働きてゐる大地をゆする

 新墾(あらき)田の四五十人の一隊の打つ鍬先に光があがる

 あかあかと股の下より照りかへす夕日の光顏にあつしも

 むら肝の心をゆする土の香のみなぎらふ野となりにけるかも

 ありがたく飯(いひ)いただきてあけくるるいまのおのれを思い見ざりき

 ひとつ潰れひとつ癒りて掌(てのひら)にかたまりのこる肉刺(まめ)のあと五つ

 いささかの傷には土をなすりつけて百姓われの恙もあらず

引用はネット上の信頼し得る複数サイトより。但し、恣意的に正字化してある。]

 

わが行けば露とびかかる葛の花

 

硬き角あはせて男鹿たたかへる

 

鹿啼きてホテルは夜の爐がもゆる

 

わがまつげ霧にまばゆき海燕

 

[やぶちゃん注:本第一句集の標題句である。「海燕」という場合、通常は鳥綱ミズナギドリ目ウミツバメ科 Hydrobatidae に属する鳥を指す。全ての和名が「〇〇ウミツバメ」の形をとるが、スズメ目ツバメとは近縁ではない。参照したウィキの「ウミツバメ科」によれば、全長は十三~二十五センチメートルで上面は暗褐色や黒色の種が多く、嘴の上に管状の鼻が目立つ。嘴は鉤状に尖っている。非繁殖期は海上で過ごし、『海面すれすれを飛びながら、海面近くの小魚やイカなどの軟体動物、プランクトンなどを嘴でつかみとって捕食する』。『コロニー(集団営巣地)を形成して繁殖する。地上に1個卵を産み、抱卵期間は4050日である。卵は体に比べて大きい(雌の体重の25%にも及ぶことがある)』とある。グーグル画像検索「ウミツバメ」をリンクしておく。但し、「後記」(後掲)には、『「海燕」は、夫との最後の旅行となつた上海行の途次、霧に停船してゐる宮崎丸にあまたの燕が翼を休めたことが忘れ難く、それを句集の名としたのである』とあり、この叙述から見ると、これは真正のスズメ目ツバメ科ツバメ Hirundo rustica の南方での越冬からの帰りとも思われる。]

 

海彦のゐて答へゐる霧笛かな

 

[やぶちゃん注:「海彦」船旅の際の夫橋本豊次郎を喩えたもの。後に「海彦」は多佳子の第四句集(昭和四〇(一九六五)年刊)の書名ともなる。]

 

アベマリア秋夜をねまる子がいへり

……いいですか……何處で誰かに繫つてゐると思へないのなら……私といふ存在はないのですよ……

中島敦 南洋日記 十一月二十四日

        十一月二十四日(月) 晴、一時曇

 朝七時過又、タタッチョに向ふ。八時公學校着、一時間授業見學。直ちにソンソンに歸る。チャモロ部落入口の墓地を覗くに、十字架の群の中央に一基の石碑あり、バルトロメス庄子光延之墓とあり。日本人にして加特力教徒なる者の墓なり。か。裏を見れば、昭和十四年歿、九歳とあり。枯椰子十字架にかけし花輪どもの褐色に枯れしぼみたる。枯椰子の實の海風にはためける。濤聲の千古の嘆を繰返せる。すべて、もの哀しきこと限りなし。

「なみ音の古き嘆きぞ身には沁むロタのチャモロが奧津城どころ」、

 午後、國民學校に行き、校長と語る。郵船に行き漸く切符を購む。四時半乘込。前田氏あり、東京出張の由、清峯君、航空便のたかの手紙を持つて來てくれる。サイパン丸は燈火管制にて暗し。夜、將棋。

[やぶちゃん注:このバルトロメス庄子光延君の墓は今もあるのだろうか?……訪ねたい気がしてくる……。

「バルトロメス」バルトロマイ(ギリシャ語:Βαρθολομαίος)。新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。日本正教会では現在、「ワルフォロメイ」と転写される。皮剥ぎの刑で殉教したといわれ、ミケランジェロの「最後の審判」にも剥がれた自分の皮とナイフを持った姿で描かれている(この皮の顔はミケランジェロの自画像になっている)。バル・トロマイという名の語義は「タルマイの子」である。記念日は八月二十四日とされる。参照したウィキの「バルトロマイ」に拠れば、『共観福音書の弟子のリストではバルトロマイとしてあらわれるが、他に記述はみられない。上述のバルトロマイの語義から、彼の実名ではなく、父親の名前に由来する呼び名と思われること、ヨハネによる福音書の弟子のリストではバルトロマイの名前はなく、代わりにナタナエルという人物があげられていることから、伝統的にバルトロマイの本名がナタナエルであるという見方がされてきた』。『バルトロマイは、伝承ではタダイとともにアルメニアに宣教したとされ、この地方では篤く崇敬される。アルメニア使徒教会の名は、「タダイとバルトロマイによって建てられた教会」を自負するところから来ている』とある。無論、ここではカトリックの洗礼名である。]

萩原朔太郎 短歌十四首 明治三六(一九〇三)年十二月

ああ無道ヽヽヽヽそこに幾日を住みわびつヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽれば世人の我も安けき○○○○○○ヽ○○○

その香ゆゑにその花ゆゑに、人は老を、泣きぬ泣かれぬ、こきべに椿。

うれし身は虫の鳴くごとうたふごと、かごとの宵ぞうつりけらしな。

草にふして美し人は泣きもやまずヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ別れもあへずヽヽヽヽヽヽ野はくれせまるヽヽヽヽヽヽヽ

わざはひは野ゆく山ゆく君により吾によれども淋しともなし。

淋しけれど人は恨まじなげくまじヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽおのが世なればやせもしてまし○○○○○○○○○○○○○○

こほる月にむせぶか千々の草の花。露のさゞめき悲しげなるに。

よろこびに今ぞわがごとがへ虫。地に歌たりし幸や秋。

賴りつつむくろは地にながらへよヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽうら淋しきに靈はほろびよヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

この戀よ、亂れて末は知らなくに、おどろにまとふ紅づたのごと。

うれたくも思はかれつ名はうせつ。吾に笑めとやせまる戀歌。

初秋や雁やそら行く中空に、みつる光は靈のきざしよ。

たゞひとり世をば讚へし子が門に榮えよ、さかえよ花緋木蓮

くらやみに動くものあり﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆日はしらで﹆﹆﹆﹆﹆いたち﹆﹆﹆もぐらのによべる如く﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆

[やぶちゃん注:『文庫』第二十四巻第六号・明治三六(一九〇三)年十二月に「上毛 萩原美棹」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十七歳。圏点は選者服部躬治(既注済)によるもの。一首目の「れば世人の我も安けき○○○○○○ヽ○○○。」の部分はママ。底本筑摩書房版全集の校訂本文では、「慣」の「な」のルビを誤りとし、「なる」として「なるれば」と『校訂』しているが、従わない。
 『文庫』は明治二八(一八九五)年九月創刊の投稿文芸雑誌(明治四三(一九一〇)年八月終刊。通巻二四四冊)。明治二一(一八八八)年創刊の『少年園』から分かれた『少年文庫』が前身だが、小説・評論・詩・短歌・俳句などの新人育成の場として勢力を持つようになり、特に詩人や歌人にはこの雑誌を登龍門として後に一家をなした者の数は夥しい。『文庫派』の別称を持つ河井酔茗・伊良子清白・横瀬夜雨・塚原山百合(後の島木赤彦)らを初めとして北原白秋・窪田空穂・三木露風・川路柳虹らの大家を輩出した雑誌であった(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

龍舌蘭  八木重吉

    龍舌蘭

 

りゆうぜつらん の

 

あをじろき はだえに 湧く

 

きわまりも あらぬ

 

みづ色の 寂びの ひびき

 

 

かなしみの ほのほのごとく

 

さぶしさのほのほの ごとく

 

りゆうぜつらんの しづけさは

 

豁然(かつぜん)たる 大空を 仰(あふ)ぎたちたり

 

[やぶちゃん注:「きわまり」はママ。]

鬼城句集 冬之部 袴着

袴着    袴着や老の一子の杖柱

[やぶちゃん注:「袴着」幼児が初めて袴を著ける儀式。古くは数え三歳、後世では五歳または七歳に行い、次第に十一月十五日の七五三の祝いとして定着した。着袴(ちゃっこ)とも呼ぶ。]

謹賀新年

今年もサイト「鬼火」ともども宜しくお願い申し上げる。



自己拘束のための覚書――

残すところ、289話となった――「耳嚢」全1000話完全電子テクスト化オリジナル訳注附――を今年中に完成させることを目標の一つとして年頭に掲げておきたい――

加えて――

新たなプロジェクトとして、

貝原益軒「大和本草」中の水族の部の全注釈附電子テクスト化を目指すブログ・カテゴリ『貝原益軒「大和本草」』

及び、

電子化版橋本多佳子俳句全集を目指すブログ・カテゴリ「橋本多佳子」

を創始、始動する――

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