図―297
先日河に沿って歩いていたら、迫持(せりもち)の二つある美事な石の橋があった。その中央の橋台には堅牢な石に亀が四匹、最も自然に近い形で彫刻してあるのに気がついた(図297)。
[やぶちゃん注:この橋不詳。挿絵もあり、橋脚の亀の彫刻といい、特徴的である。知っておられる方は是非、御一報を。]
汽船は十一月五日に出帆することになっている。私は送別宴や、荷づくりや、その他わ仕事の渦の中をくるくる廻っている。学生の一人は荷物を汽船へ送る手伝いをし、松村氏は私が米国へ生きた儘持って帰らねばならぬサミセンガイの世話をやいてくれた(これは生きていた)。私の同僚及び親愛にして忠実なる学生達は、停車場まで送りに来てくれた。横浜で私は一夜を友人の家で送り、翌日の午後は皇帝陛下の御誕生日、十一月三日を祝う昼間の花火の素晴しいのを見た。これは色のついた煙や、いろいろな物が空中に浮び漂(ただよ)ったりするのである。大きな爆弾を空中に投げ上げ、それが破裂して放射する黄、青、緑等の鮮かな色の煙の線は、空中に残って、いろいろな形を現す。その性質と美麗さとは、驚く可きものであった。夜間の花火は昼間程珍しくはなかったが、同様に目覚しかった。港の船舶は赤い提灯で飾られ、時々大きな火箭(ひや)が空中に打上げられて、水面に美しく反射した。
[やぶちゃん注:「皇帝陛下の御誕生日、十一月三日」天長節。当初は旧暦九月二十二日であったが、明治六年の改暦以降は新暦に換算した十一月三日となっていた。但し、当時は休日ではない。後の昭和二(一九二七)年三月四日に当時の休日法「休日ニ関スル件」が改正されて祝祭日に設定された。
「花火」ウィキの「花火」によれば、『打揚花火は、1751年(宝暦元年)に開発されたとされている。それ以前の花火は、煙や炎が噴き出す花火であったと考えられている』とあり、この伝統的な古い花火がこのモースの「昼間の花火の素晴し」さと一致する。また『明治時代になると、海外から塩素酸カリウム、アルミニウム、マグネシウム、炭酸ストロンチウム、硝酸バリウムといった多くの薬品が輸入され、それまで出せなかった色を出すことができるようになったばかりか、明るさも大きく変化した』とはあるものの、これらの物質の輸入開始は明治一二(一八七九)年から明治二〇(一八八七)年にかけての時期に『段階的に行われ、日本の花火の形は大きく変化した。これ以前の技術で作られた花火を和火、これ以後のものを洋火と言い分けることもある』とあるから、今のようなカラフルな花火をイメージしてはいけない。]
我々は十一月五日に横浜を出帆し、例の通りの嵐と、例の通りの奇妙な、そして興味のある船客とに遭遇した。然しこれ等の記録はすべて個人的だから略す。ただここに一つ書いて置かねばならぬことがある。船客中に、支那から細君と子供達とを連れて帰る宣教師がいた。この家族はみな支那語を話す。私は「ピース・ポリッジ・ホット」を子供達とやって遊び、彼等の母親から支那語の訳を習って、今度は支那語でやった。もう一人の宣教師は、立派な支那語学者で、私に言葉の音の奇妙な高低を説明してくれた。上へ向う曲折はある事柄を意味し、それが下へ向くと全然別の意味になる。我々は――すくなくとも私は――正確な曲折を覚えることが出来なかった。そしてこの宣教師は「ピース・ポリッジ・ホット」が、我々式の発音では次のような意味になるといった。
頭 隠気な 帽子
{苦痛が多い
頭 隠気な{ぶるぶる 振える
{同じこと
頭 隠気 歩く
古い 時の 竈(かまど)
[やぶちゃん注:「{」は底本では三行に渡る大きな一つの「{」括弧である。]
彼はそこでそれを漢字で書き(私はそれをここへ出した。図298がそれである)、私には判らなかった曲折の形式を、漢字につけ加えた。
図―298
私は一人の日本人に「ピース・ポリッジ・ホット」を訳し、彼等の文章構成法に従って漢字を使用してそれを書いてくれと頼んだ。次にそれを別の日本人に見せ、済みませんが英語に訳して下さいと頼んだ結果、以下の如きものが出来上った。
Pea juice is warm
And cold and in bottle
And has already been
Nine days old.
[やぶちゃん注:最後の英文は前とバランスをとるため、前後を一行空きとした。この段落最後には底本では石川氏による以下の割注〔 〕で附されてある。
*
ピース・ポリッジ・ホットとは、
Pease Porridge hot,
Pease Porridge cold,
Pease Porridge in the Pot
Nine Days old
云々と、意味のないことをいって遊ぶ子供の遊戯の一である。
*
これはマザーグースの古い童謡であり、日本の「せっせっせーのよいよいよい」のような手合わせ遊びの歌でもある。遊び方は英文ウィキの“Pease Porridge Hot”に詳しく、メロディも聴ける。サイト「ミント音声教育研究所」の「Pease porridge hot」によれば、一例として以下の様な歌詞があるので引用させて戴く(訳文と解説は諸星蝸牛氏)。
《引用開始》
Pease
porridge hot
豆のシチューがあったかい
Pease
porridge cold
豆のシチューがつめたい
Pease
porridge
豆のシチューがなべの中
Nine
days old.
9日古い
Some
like it hot
ある人は好きあったかいのが
Some
like it cold
ある人は好きつめたいのが
Some
like it in the pot
ある人は好きなべにあるのが
Nine
days old.
9日古い
[やぶちゃん注:以下は、「解説」パート。]
日本の「せっせっせ」のような、手合わせ歌です。
だんだん速く歌いながら手を叩き合って、寒さを吹き飛ばしたそうです。
Pease
昔の言葉で pea えんどう豆 の複数形です
Pease
porridge hot
いまでもイギリスでは寒い冬の朝に食べるおかゆで、燕麦の粉を水やミルクで煮て作る濃いスープで、トロットしています
アメリカで言う
オートミール のことです
Nine
days old
一度作っておいて、食べるときには、暖め直します
1週間以上もつのですね!?
《引用終了》
「言葉の音の奇妙な高低」中国語の四声。
『そしてこの宣教師は「ピース・ポリッジ・ホット」が、我々式の発音では次のような意味になるといった。……』この部分、原文を以下に歌詞も含めて示して、ちょっと考察してみたい(括弧の用法は本文と同じ)。
……and the missionary said it conveyed the following meaning to him: —
Head murky hat
{ Painful
Head murky { shaky
{ all the same
Head murky walk
Old time furnace
これはちょっとわかり難いが、ネィテイヴの英語の発音を中国語として聴くと次のように言っているように聴こえる、ということではなかろうか? 二行目の三つの並列は奇妙でこれは“cold”が三様に聴こえたことを意味しているものと思われる。
例えばこれは全くの私の推測であるが、試しにそれらしい語を捜して現代中国語の拼音(ピンイン)と漢字表記を以下に示してみたい(中国語の出来ない私が暴虎馮河で中日辞書をひっくり返して思い付いたことでしかないのでご注意あれ。但し、以上に述べた如く、二行目と三行目を読み換えて考えて見た)。
“Pease”は“pītóu” (「劈頭」:副詞で「真っ向から」「いきなり」の意。)とかに
“porridge”は“píqi yīnyù”(「脾气阴郁:「性格が陰鬱な」の意。)とかに
“pot”は“mào”(「帽」:「帽子」の意。)とかに
“cold”は三様に聴こえて
“kǔ”(「苦」:形容詞「苦しい」「つらい」の意。)のようにも
“dǒu”(「抖」:動詞「震える」の意。)のようにも
“tóng”(「同」:形容詞「同じ」。訳は名詞節化してあるが、英文を見る限り問題ない。)のようにも
“in the pot”は、この一語で“xíngzǒu”(「行走」:動詞「歩く」「通る」の意。)とかに
“Nine”は“niánmài”(「年邁」:形容詞「老齢の」「高齢である」の意。)とかに
“Days” は“diǎn”(「点(點)」:名詞で「定められた時刻」の意がある。)とかに
“old” は“huǒlú”(「火炉」:「ストーブ」「炉」の意。)とか“lúzi”(「炉子」:「竈」「ストーブ」の意。)とかに
に聴こえる、というようなことなのではなかろうか? ネット上のネイティヴ発音の音声なども参照にしたが、もっと相応しい語もあるであろう。また、私のこの部分全体の解釈方法そのものに対する疑義や反論もあろうかとは存ずる(但し、この注作業の中で私のコンセプトは恐らく正しいという自信は得られた気がする)。大方の御助言と御批判を俟つものである。現在、中国語に堪能な教え子とともに新たに仕切り直して再考証中。ちょっとだけ述べておくと、どうもこれは、モースたちの下手な中国語ではこういうトンデモない意味になってしまいますよ、ということなのではなかろうか?(これこそ真のピース・ポリッジ・ホットだ!)しばしお待ちあれかし!
「彼はそこでそれを漢字で書き(私はそれをここへ出した。図298がそれである)、私には判らなかった曲折の形式を、漢字につけ加えた。」原文は“Then he wrote it in Chinese characters, which I have appended (fig.
298), with the form of inflection, which I did not understand, marked on the
character.”。後の「漢字」は「文字」(アルファベット)の誤りである。現在の拼音のそれのように附してあるということである(現在の拼音は一九五八年の中華人民共和国の制定になる漢語拼音方案によって生まれた)。
「図―298」を電子化しておく。但し、モースが附した四声染みた記号は形が判然としない(しかもどうも当該文字に示すのではなく、語全体に附している感じがして記号そのものの意味が明確でない)ので省略した。モースの筆記体は非常に読み難い。教え子の手を借りて、とりあえず以下のように判読した。
豆粥熱 Dau chuk it
豆粥凍 Dau chuk dung
豆粥响煲 Dau chuk heung bo
九日老 Kau yat lo
「煲」(とろ火で長時間煮るの意)は元画像では「保」+「灬」であるが、表示可能な字体で示した。なお、今のピンインとは全く一致しないので要注意。例えば現代中国語普通話(北京語)の「豆」は“dòu”、「粥」は“zhōu”で、「熱」は“rè”、「凍」は“dòng”である。「响」は「響」の異体字で“xiǎng”(アルファベット綴りがやや近い。但し、これだと何だか意味が通じないのだが)である。試みに現代中国語普通話(北京語)拼音で示して見る。
豆粥熱 Dòu zhōu rè
豆粥凍 Dòu zhōu dòng
豆粥响煲 Dòu zhōu xiǎng bào
九日老 jiǔ rì lǎo
以下、現在、教え子がさらに考証中で、少し述べておくと、このモースの写した発音記号は北京語ではなく、広東語の由。今、暫くこちらもお待ちあれかし!
【二〇一四年二月十日追記開始】
以下は中国語に堪能な教え子が非常な苦労をして考証して呉れた一部始終である(一部表記に変更を加えたが、殆んど元のメールのままである)。モースの本記載について、ここまで分析した人物は恐らく今までにいないものと私は考える。そうして殆どの人々(日本人のみならず世界中の本書を読んだ人々)がどこか曖昧なままに読み過ごしてきたこの箇所を目から鱗で日本語で解説してくれた教え子に私は心から快哉を叫びたい。
《引用開始》
先生、私なりの解答です。
まず、これは間違いなく広東語です。熱をit(北京語はre)、日をyat(同ri)と発音していることから明白です。
さて、もうひとつの大きな論点。
『そしてこの宣教師は「ピース・ポリッジ・ホット」が、我々式の発音では次のような意味になるといった』
という文章の意味がどうにも取りにくいことです。一体「我々式」とは何のことでしょう。英語を母語とする人々のことなのか……。
いや、どうもしっくり来ません。その時はたと気づいたのです。
「モース先生式の下手な発音では、こんな意味の中国語に聞こえてしまうよ。」
と宣教師がたしなめたのではなかったか?
そうに違いありません。
では宣教師の耳に聞こえたモース先生の中国語の歌を漢字で書き起こすことに挑戦してみます。細かい検証は後にし、まず先に私の結論を示します。
頭濁役
頭濁(痛・動・同)
頭濁向歩
古日爐
それでは説明いたします。宣教師の書き残した漢字による歌詞は次のようなものです。
豆粥熱
豆粥凍
豆粥响[注1]煲
九日老
[注1:これは「呴」と読めなくもないが、そうだとしたら広東語の読みは「ホーイ」、最後にn音が現れないため手書きの発音記号と大きく異なり、無理が生じてしまうのです。]
では、広東語の発音を書き記します。広東語に不案内な私は以下に記す広東語発音提供サイトで読みを自分の耳で聞きました。そしてアルファベットによる発音表記と、実際に耳で聞いた場合の聞こえ方には、かなりの違いがあることに驚きました。そこで読み方を音としてイメージしやすいように、敢えてカタカナで表現してみます(発音が複数ある場合にはそれらのひとつを私の判断で採用しました)。(参考サイト:http://humanum.arts.cuhk.edu.hk/Lexis/lexi-can/)
dau6
zuk1 jit6 ダウ ジョッ イッ
dau6
zuk1 dung3 ダウ ジョッ ドーン
dau6
zuk1 hoeng2 bou1 ダウ ジョッ ヘーン ボーウ
gau2
jat6 lou5 ガウ ヤッ ローウ
モース先生自身による英語の記述によれば、宣教師はモース先生の下手な中国語発音だと次のような意味なると言ったとのことです。
Head
murky hat
Painful
Head
murky shaky
all the same
Head
murky walk
Old
time furnace
さて、ここからが頭の体操となります。上記の英語の意味を持ち、且つ先に示した発音に近い広東語を特定させていく作業です。以下、補足が必要な箇所だけ説明を加えます。
murkyは「薄暗くて陰気な」という意味がありますが、これを表わす漢字で「ジョッ」に近い発音を持つものは見つけられませんでした。そこでmurkyのもうひとつのニュアンス「どんよりと濁った」で物色すると、まさに「濁」に出会いました。発音はzuk6です。
Hatは「帽子」ですが、これを意味する漢字で「イッ」に近い発音を有するものは見出せません。そこでhatの別の意味である「仕事、職業、役職」で探すうち、「役」を見つけました。発音はjik6です。
shakyですが、その意「震える、揺らぐ」では解決しません。そこで頭を柔らかくして「揺れる、動く」というニュアンスで見つけたのが「動」です。発音はdung6です。
Walkは「ヘーン ボーウ」にあたる部分です。件のサイトで同じ発音を有する字を検索し、そこから見出したのが「向歩」。発音はhoeng3 bou6。
では最後にもう一度、私の解答を示し、その発音記号、そして耳で聞いた場合のカタカナ表記をお示しします。
頭濁役
頭濁(痛/動/同)
頭濁向歩
古日爐
tau4
zuk6 jik6 タウ ジョッ イッ
tau4
zuk6 (tung3/dung6/tung4) タウ ジョッ (トーン/ドーン/トンー)
tau4
zuk6 hoeng3 bou6 タウ ジョッ ヘーン ボーウ
gu2
jat6 lou4 グー ヤッ ロー
如何でしょうか? 正確な歌詞の発音と、モース先生が口にしたと思われる発音、両者のカタカナ表記はとても似ています(先の広東語発音提供サイトで実際に発音を耳にしてみて下さるともっと明確にその近似性が感じられるものと思われます)。なお、広東語の発音は実に難しいです。モース先生が正確に発音出来なかったことは、決してモース先生のセンスのなさが原因ではなかったように思えます(追記:広東語の促音。イッとかジョッなど……。唐代中原地方の中国語にも促音があったそうです。おそらく宋代もその影響が濃厚であったと思われます。その後北京を首都とする元朝や明朝、北方異民族支配による清朝を経て、現在の北京官話が形作られましたが、いつの間にか声調は四つだけに減少し、促音は消え去るという単純化が進んでしまいました。北京語を学んだ僕は広東語の発音が好きになれないと以前書きましたが、もしかしたら、古典詩を朗読した際に際立つその発音の美しさを自分が決して真似できないという嫉妬心が、そんなことを僕に言わせるのかもしれません)。
《引用終了》
モース先生がこれを読んだら、どんなにか喜んだろう! これこそがモース先生も望まれた、真に純粋に学究的な態度というものだと私はしみじみ思うのである。なお、ブログ版では私のトンデモ誤釈を抹消線で残し、貧しい私の愚劣さを記念(かたみ)として永く記しおくこととする。【二〇一四年二月十日追記終了】]
春、メットカーフ氏と一緒に日本へ来た時、我々はサンフランシスコに数日いたので、案内者をつれて支那人町を探検した。我々はこの都会の乱暴な男女の無頼漢共と対照して、支那人の動作に感心し、彼等が静な、平和な、そして親切な人々であるということに意見一致した。今や、半年を日本人と共に暮した後で、私は再びこの船に乗っている三百人の支那人を研究する機会を得たのであるが、日本人との対照は、実に顕著である。彼等は不潔で、荒々しく、これ等の支那人は、行儀の点では、サンフランシスコや支那にいる同階級の人々よりも、ずっと優れているのであるが、生活の優雅な温良に関しては、日本人の方が支那人より遙かに優秀である。
[やぶちゃん注:「メットカーフ氏」“Mr. Metcalf”。ウィリアム・ヘンリー・メトカーフ(William Henry
Metcalf 一八二一年~一八九二年)。ミルウォーキーの実業家にして旅行家でアマチュア写真家。どうも、こちらのLuke Gartlan 氏の英文論文“Japan Day by Day? William Henry Metcalf, Edward Sylvester Morse and Early
TouristPhotography in Japan”を読む限り、モースの日光旅行にも彼は同伴していたらしい。
磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、モースの一時帰国は『来日前に契約していたアメリカ各地での講演を行ない、また東京大学のために大学用の書籍や雑誌、標本類を集め、あわせて妻子を日本に連れてくるため』であったが、他にも東京大学から依頼されていた物理学と経済学の教授探しもあった(物理学教授にはトマス・メンデンホールを選び、経済学は畑違いの御存知フェノロサを推挙した(彼は当時ハーヴァード大学及び大学院で哲学を修し、当時はボストン美術学校に通っていた)。彼の日本近代美術史への貢献は言わずもがなながら、山口静一氏の研究によればフェノロサの日本美術への激しい傾倒の動機はモースの陶器蒐集に触発されたものだとも言われる。モースの影響力、恐るべし!)ここに出た帰国の旅の道連れたるシャミセンガイは、彼が江ノ島で採集した五百個体の一部で、帰米後の『十二月十九日のボストン博物学会例会などで展示した。八月二十日以来海水を二度取り替えただけなのに、死んだ個体は一匹もいなかったという。この動物は非常に生命力が強いので有名なのである』……そんな青森県以南に棲息する、かつては江の島で五百匹も採取出来たシャミセンガイ……あなたは見たことがありますか?……海岸生物フリークの私でさえ……最早、自然の彼等を見たことはないのです……]
*
これを以って「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚」の全注釈を終了した。