橋本多佳子句集「海燕」 昭和十一年 涼しき地下
涼しき地下
地下涼し炎日の香は身に殘り
電氣時計(シンクロン)涼しき地下の時を指す
[やぶちゃん注:「電氣時計(シンクロン)」は少し手間取ったが、神戸大学附属図書館のデジタルアーカイブの「新聞記事文庫 機械製造業」の『中外商業新報』昭和九(一九三四)年十二月の記事に漸く発見出来た。その「(下ノ一) 掛時計から置時計へ 需要層は拡大する」によれば(恣意的に正字化して引用した。それ以外はママ(歴史的仮名遣ではない点)である)、大正一四(一九二五)『年頃から早くも東京電氣時計會社では横山氏發明の交流式電氣時計を製造して斯界に先鞭をつけ、同時計をシンクロンと名附けたのである、しかし當時は復興事業に追われ、停電も多いので兎角不正確となり勝であり、宣傳も不十分であったので世人の認識を喚起するまでには至らずその進歩も遲々たるものであり、同社もやや經營の困難を感ずる始末であった、また一方それに前後してアメリカのG・E製品たるテレクロンを輸入發賣していた東京電氣も同品の國産化を實現せんと計畫していた、しかし昭和六年東京電燈は率先してタイム・サービスを企圖し發電所にマスター・クロックを設備して周波數の統制を期したので交流式電氣時計進出の機運を漸く熟成し得たのである、かくて先ずこれに呼應したのがシンクロンである』。『他方東京電氣でも前述せるテレクロンの日本國内における製造販賣權の讓渡を受けてから同品をマツダと改稱して國産化を實現した、さて純國産と誇るシンクロンの製造會社たる東京電氣時計は東京電燈の助力を得て着々とその製品の充實を期し、シンクロン、マツダの兩電氣時計は逐次その需要層を開拓したのだ、昭和七年春には周波數も關西六十サイクル、關東五十サイクルと統一したことは既述せるところであるがこれに依って發展の基礎工作が全く成り一層その進出を早めた譯である、斯界の舞臺にも兩電氣時計を初めとして三菱のサイクロン(目下製造中止)日本周波電氣時計のニホン周波電氣時計、次いで八年十一月には精工舍のA・B式電氣時計が發賣される等陸續として交流式電氣時計が登場し、更に來春早早には東京時計製造會社もこれに一枚加わろうとしているからますます斯業は前途多事である』『またこの東京時計の進出は手捲き時計製造家の注目するところであって如何に同品への製造熱が横溢しているかが窺えよう、しかも最早世人は電氣時計の眞價を認め、その需要は逐年増加を示しかつ從來の掛時計に止まらず更に置時計をも各社競って製造して家庭内にもその需要を擴大せんの勢いである、目下市場活躍している製品は
東京電氣時計會社(東電電氣商品會社)=シンクロン・バイクロン
東京電氣會社(本社直賣)=マツダ電氣時計
日本周波電氣時計會社(日本電氣會社)=ニホン周波電氣時計
精工舍(服部時計店)=セイコー(括弧内は販賣會社名)
等である』とある。また、この記事の前の部分で名称の「シンクロン」は当時(一九三〇年代)既にアメリカで普及していた同期式電気時計“synchronous clock”(シンクロナス・クロック) とアメリカのジェネラル・エレクトロニック社製の“Telechron”(但し、この名は一九一二年にヘンリー・ウォーレンが造った電気時計会社が濫觴である)を捩ったネーミングであることも推測される。]
走輪去り地下響音を斷ちて涼し
[やぶちゃん注:存在を確認出来ないが、私はこの電気時計を備えた地下室は「櫓山荘」にあったものと確信するものである。]