橋本多佳子句集「海燕」 昭和十年 春日若宮御祭 二句
昭和十年
春日若宮御祭
枯芝に萬歳樂は尾をひけり
陵王に四方の庭燎のもえさかる
[やぶちゃん注:「春日若宮御祭」は奈良市春日野町春日大社で年間に亙って行われる水神を祀る行事。以下、参照した春日大社公式サイトによれば、現在は「おん祭」と表記する。この二句はその「おん祭」の中のクライマックスである十二月十七日に行われる「お渡り式」の嘱目吟である。お渡りとは神霊が多くの供奉を従えて御旅所の行宮へ遷する行事であるが、「おん祭」の場合は神霊の行列ではなく、既に行宮へ遷られた若宮神の元へ芸能集団や祭礼に加わる人々が社参する行列のことを言う。
一句目の「萬歳樂」はその日の午後二時半頃に始まる「お旅所祭」の奉幣・祝詞奏上・拝礼の後、午後三時半頃から神楽が舞われ、その後に田楽・細男・猿楽(能楽)・舞楽などが午後十一時近くまで奉納されるが、その後半の舞楽の中の左舞で舞われる萬歳楽(まんざいらく)を指す。この左舞は中国・印度支那方面から伝えられたもので赤色系統の装束を着用する(対する右舞は朝鮮・渤海国等から伝えられたもので緑色を基調とした装束で舞われる。左舞は唐楽、右舞は高麗楽とも呼ばれて演奏は通常は左舞・右舞を一対(番舞と呼ぶ)とし、その何組かが舞われるが、「おん祭」では五番十曲が舞われるとある)。公式サイトの「舞楽その1」によれば、万歳楽は『隋の煬帝が楽正自明達に作らせたもので、鳳凰が萬歳と唱えるのを舞に表したものといわれている。慶賀の際には必ず舞われる荘重閑雅、気品の高い曲である。舞人は四人、赤の常装束に鳥甲を冠っている』とある(別の日の春日大社での萬歳楽の動画映像)。
二句目の「陵王」は雅楽の曲目の一つ「蘭陵王」。左舞(唐楽)に属する一人舞で、華麗に装飾された仮面を被る勇壮な走り舞。番舞の右舞は納曽利(なそり)。林邑(現在のベトナムにあったチャンパ王国)の僧仏哲が本邦に齎したとされ、中国風の感じが残ると言われる美しい曲である。北斉の蘭陵武王高長恭の逸話に因んだもので眉目秀麗な名将蘭陵王が優しげな美貌を獰猛な仮面に隠して戦に挑み、美事大勝、兵らが喜んでその勇士を歌に歌ったのが由来とされる。武人の舞らしい勇壮さの中に、絶世の美貌で知られた蘭陵王を偲ばせる優雅さを併せ持つ(ここまではウィキの「蘭陵王(雅楽)」に拠る)。公式サイトの「舞楽その2」によれば、『舞人は竜頭を頭上にし、あごをひもで吊り下げ金色の面をつけ、緋房のついた金色の桴をもち、朱の袍に雲竜を表した裲襠装束をつけて勇壮に舞う』とある。こちらの
todorokinooka
氏の撮影になる同祭(平成二〇(二〇〇八)年)の陵王の舞は、全体が暗いものの、本句の多佳子の感じた雰囲気をよく伝えるもののように感じられる。なお「庭燎」は「にはび(にわび)」と読み、庭火で庭で焚く火、特にこのような神事の庭や宮中の御神楽(みかぐら)で焚く篝火を指し、柴灯(さいとう)とも言う。冬の季語でもある。]