橋本多佳子句集「海燕」 昭和十二年 聖母学院
聖母學院
見さくる野黄なりここなる園も枯れ
枯園に聖母(マメール)の瞳碧をたたへ
ただ黑き裳すそを枯るる野にひけり
枯園に靴ぬがれ少女達を見ず
學び果てぬ日輪枯るる園に照り
[やぶちゃん注:「聖母學院」現在の大阪府寝屋川市美井町にある私立女子校、大阪聖母女学院中学校・高等学校であろうが、多佳子との関係は年譜上の知見では不詳。多佳子のいた大阪帝塚山とは直線距離でも二十一キロメートルを越えるので近隣ではない。学校法人聖母学院は大正一〇(一九二一)年にフランスの「ヌヴェール愛徳及びキリスト教的教育修道会」より創立者メール・マリー・クロチルド・リュチニエはじめ七人の修道女が来日、大正12(1923)年に大阪市玉造に於いて聖母女学院を創立、同年四月に開校、大正一四(一九二五)年開校の聖母女学院高等女学校は昭和七(一九三二)年の大阪府寝屋川市校舎(現在、香里(こおり)キャンパスと呼称)の落成によってここに移転、また同年四月には聖母女学院小学校開校していた(聖母女学院中学校の発足は戦後の昭和二二(一九四七)年の学制改革による。以上は「学校法人聖母学院」公式サイトの「沿革」に拠る)。同公式サイトの「建物について」によれば、『香里キャンパスの校舎の建築は、一九三一年三月十二日、創立者メール・マリー・クロチルド・リュチニエの「鍬入れ」に始まり、翌年(一九三二年)の年明けに完了しました。設計に当たったのは、軽井沢夏の家(現ペイネ美術館)、東京女子大学、聖アンセルモ教会など、多くの名建築を日本各地に残し、日本の近代建築の発展に大きく寄与したことで有名な建築家アントニン・レーモンド氏です』。『当時、レーモンド氏は自ら、東京から汽車に揺られて何度もこの地に足を運び、この小高い香里の丘の上に、アーチを多く使った、この白く華やかな校舎を完成させました』とあって、現在、国登録文化財(有形文化財建造物)に指定されているとある。行ったことも見たこともなく、句には枯れたその庭園のみが描かれるのであるが、かの多佳子(当時三十八歳)を歩まするに如何にも相応しい景観という気がする。
「見さくる」「見放(さ)く」(他動詞カ行下二段活用)は、はるかに見る・遠く見やる・みはるかすの意の万葉以来の古語。
「マメール」フランス語“Ma mere”。「私の母」。]