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2014/01/02

耳嚢 巻之八 剛氣の者又迷ひ安き事

 剛氣の者又迷ひ安き事

 

 此(この)笠原與市は、剛氣の上(うへ)甚だ氣丈なる性質(たち)にて、主人の家へ立入(たちいり)し上野の律院を甚(はなはだ)信仰ありて、彼(かの)院にある何經とかいふ經を萬部讀誦する事、出家にも希にて、古しへより弘法大師こそ萬部の讀誦せしといひけるを、氣丈なる太田氏、我(われ)讀誦なさんとて律院より右經文を取寄せ、庭に有之(これある)學問所へ閉(とぢ)籠りて粥抔を食し、七日に讀誦のつもりにて取懸りしに、三日目に鼻血出て家内家來も諫め止めける故やめたりしが、さるにても經卷を取寄(とりよせ)、事不逐(とげざる)といわんも無念なり、家來の内誰渠(たれかれ)といふ内、與市こそ可逐(とぐべし)とて申付(まうしつけ)られしに、畏(かしこま)り候(さふらふ)迚(とて)、彼(かの)一室に籠りて主人に代り讀誦せしが、晝夜無間斷(かんだんなく)、遂に四五日にて不殘(のこらず)讀(よみ)終りければ、主人も大きに怡(よろこ)び、我等は不快にて事を不遂(とげず)とも、召仕某(めしつかひぼう)、我に替りて讀終りぬと、律院に申(まうし)遣しければ、律僧大に驚き、むかしより右の日數にて一萬卷讀誦せしは弘法の外無之(これなし)と傳へ承りぬ、誠に與市は弘法の化身なるべし、俗にてあらんはいかにも惜むべし、我弟子に給(たまは)りなば、出家の身分にて上(うへ)もなき幸福本懷をも得んと、志摩守へ申(まうし)ける故、與市へしかじかの事かたりしに、可憐(あはれむべき)は剛氣朴質の生(うま)れ、一途に弘法の化身の心になり、いかにも出家なさんと主人父母へも願ひしが、一人の男子ゆゑ兩親とも何分得心せず、品々異見を加へしに曾て承引せざれば親もこまり入(いり)て、兼て師匠一帆齋が異見を尤(もつとも)に聞(きく)まゝ、密(ひそか)に一帆齋に異見を賴み、かく心決せし上は一帆齋へも暇乞(いとまごひ)旁(かたがた)た參るべしと申付(まうしつけ)ける故、與市儀(ぎ)一帆齋方へ來りて、しかじかのわけかたりければ一帆齋、武士より出家するの腰拔(こしぬけ)なる事、主親(しゆうおや)へ對しても不相濟(あひすまざる)次第を厚く諫め、兼て流儀執心にて世話いたし、拵(こしらへ)させし大刀小刀とも我方へ返し給へと切に諫め、憤りを生ずれば、出家する心にて憤るいはれ有(あり)やと段々教誡なしければ、得心してやがて思ひ止(とどま)りしゆゑ親大いに歡び、早速妻などむかへける。弘法の再誕、女房を持(もち)し始末、可笑(おか)しき事也と、其頃一帆齋かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:一帆斎の、無骨の高弟与市と、そのぶっ飛びの主君太田資同(すけあつ)の思い出第二話。諸注は前の「剛氣朴質の人氣性の事」を参照のこと。

・「律院」律宗は戒律を守り実行することを教義とする一派で中国の道宣が広め、日本へは天平勝宝六(七五四)年に唐僧鑑真が伝え、南都六宗の一つとなった。唐招提寺を本山とする。戒律宗。室町時代には一時衰退したが、江戸時代には明忍・友尊・慧雲が出て、再度、戒律復興を唱えた。但し、僧の言葉や反応を見るとこれは真言律宗である。こちらは奈良西大寺を総本山とする宗派で宗祖は弘法大師空海、派祖は興正菩薩叡尊。真言宗の教義に基づいて小乗戒・三昧耶(さんまや)戒の大小乗戒を遵守することを本旨とする。岩波版長谷川氏の注に、『上野に近い湯島の霊雲寺が真言律宗であるが、ここにいう寺不詳』とある。ウィキの「霊雲寺」によれば、この寺は元禄四(一六九一)年に柳沢吉保の帰依を受けた浄厳律師覚彦により創建された寺で、時の将軍徳川綱吉から現寺地を得、霊雲寺を開創した。元禄六(一六九三)年には多摩郡上図師村(東京都町田市)に百石の寺領を得、元禄七(一六九四)年には関八州の真言律宗の総本寺とされた。『江戸幕府から朱印状を受けるなど幕府の保護を受け、関東における真言律宗の中心的な寺院であった。関東大震災、第二次世界大戦の戦災で堂宇を焼失し、現在の堂宇は戦後復興されたものである』とあって、本話柄には打って付けの名刹ではある。

・「誰渠(たれかれ)」は底本のルビ。

・「旁(かたがた)」は底本のルビ。

・「主親(しゆうおや)」の読みは岩波版長谷川氏のそれに基づいた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 剛毅の者はまた迷いやすいという事

 

 この笠原与市は、剛毅の上、はなはだ気丈なる性質(たち)で御座って、主人太田資同(すけあつ)殿の家へ親しく立ち入っておられた上野にある真言律宗の寺院を、これ、はなはだ信仰致いて御座った。

 かの寺院には、何とか経とか申す、有り難い経文があったが、この一万部に及ぶ大経を読誦することが出来た者は、出家の中にても稀で御座って、古(いにし)えよりは弘法大師のみが、その一万部の読誦を達成し得たとか、伝えられて御座る由。

 さてもまた、かの与市に輪をかけて気丈であられた太田殿は、

「我ら、その万部の経、読誦なさんとぞ思う!」

とて、かの律院より右の経文一万部を取り寄せては、かねてより庭に設えて御座った学問所へ閉じ籠もらるるや、粥なんどばかりを食して、七日で読誦完遂の積もりで取り懸られたものの、さても――三日目に鼻血を出だされ、御家内(ごかない)御家来衆らが挙って諌め言を申し上げ、

「どうか! 一つ! これはもう! お止め下さりませぃ!」

と懇請致いたゆえ、お止めになられはしたものの、

「……それにしても……わざわざ経巻を取り寄せておいて……読誦逐ぐること叶わなんだと申して返すは……これ、如何にも無念!……そうじゃ! 誰(たれ)か、家来の内に、これ、我らに代わって遂ぐること出来る者はおらぬか!?……」

と仰せられたによって、重臣の一人が、

「……かの与市なれば……逐ぐること出来ましょうほどに。……」

とて、早速に与市、召し出だされ、万部読誦を申し付けられたところが、

「畏(かしこま)って候う。」

とて、かの学問所の一室に籠り、主人に代わって万部読誦を始めたと申す。

 昼夜を分かたず、一度として途切れることものぅ――則ち、一睡たりとも一食たりともせずに――遂に四、五日にて、残らず一万部を読み終わりってしもうた。

 さればこそ、主人も大きに悦び、

「――我らは体調を崩したるによってことを遂げざれども、召し仕うておる某(なにがし)が、これ、我らに代わって、美事、万部、読み終えて御座った。――」

と、律院に申し遣わしたところが、住持の律僧、大きに驚き、

「……む、昔よりたった四、五日の日数(ひかず)にて一万巻(いちまんがん)総てを読誦なされたと申すは……こ、弘法大師様の外には、これ、ない、と伝へ承って御座る!……さればこそ……ま、まことにそれを遂げられた与市なる御家来衆と申すは……こ、これ――弘法の化身――に違い御座らぬ!……いやはや! 俗人にてあらんことは、これ如何にも惜しむべきことじゃ! 我らが弟子として賜わったなれば、出家の身分に於いては、この上もなき地位と幸福なる本懐をも得らるること、これ、間違い御座らぬッ!」

と、志摩守殿へとたって申して参ったによって、志摩守殿は直々に与市に向かい、

「……いや……という、そなたも信心なす、かの律院の……これ、まあ、たっての望みと申して参ったのじゃが……」

と訊いたところが、

「ああっ! 何とまあ!……哀れむべきは、我ら、殺生をこととする剛毅朴訥の武士の生まれ!……されば、これより――一途に弘法の化身の心となり――如何にも出家を致さんと存ずる!」

と、二つ返事で請けがって、主人や父母へも正式に、かの律宗の寺にて出家入山を願ったと申す。

 しかし、与市が家は彼一人男子なればこそ、両親ともにいっかな得心せず、いろいろと異見をも加えてみたものの、与市は、これ、いっかな、承知致さざれば、親もすっかり困り果て、そこで、かねてより師匠一帆斎の異見には、与市、これ、必ず素直に従(したご)うて参ったものであったによって、事前に密かに一帆斎方へ出家を断念さするような御異見をどうか宜しゅうにお願い申すと頼みおいて、父なる者、やおら、

「……かくも心を決したる上は師一帆斎殿が方へも、これ、暇ま乞い方々、参らねばなるまいぞ。……」

と申し付けたによって、与市儀(ぎ)、一帆齋が方へ参り、

「――しかじかの訳にて――拙者武士を辞めて僧と相い成ることと決しまして御座る。」

と報じたところが、一帆斎は、

「――武士であった者がそのような訳によって出家致すという申すこと、これ聞いたことがない、わ!……これは――腰抜けの――やることじゃ、の!……いいや! 主(しゅう)や親へ対しても、これは、如何にも相い済まざることじゃ、の!……」

といったような語気強き次第を語り始め、諌めつつ、最後には、

「……かねてより拙者が流儀への殊の外の執心なればこそ……世話を致いて……また……拵えもさせては……流儀伝授の証しと致いて渡いたところの――そこに差し於けるところの大刀脇差ともに! 今直ぐに! 我が方へ返し給われ! 腰抜けにその名刀の太刀は不似合ッ! 悍(おぞ)ましいばかり! さ! かえせ! かえせ! かえさんかぃ! コ、シ、ヌ、ケ、侍(さむらい)がッ!」

と捲くし立てては、理不尽極まりなき罵詈雑言を述べ立てたところ、流石の与市も堪忍袋の緒(おお)が切れ、

「――師匠とは申せど! 慮外なる仰せ! かくも侮辱なさるるとは! これ、許せませぬッ!!」

と憤りを生じたによって、一帆斎すかさず、

「――出家すると決定(けつじょう)致いた心にて……憤るという謂われ……これ、有りやッツ?!」

と一喝なした。

 かく喝破されてギュウの音ものぅ、おし黙ってしまった与市に向かい、後は穏やかに一帆斎、だんだんと教誡(きょうかい)なしたるところ、与市も流石に素直に得心致いて、そのまま出家の儀は、これ、思い止まったと申す。

 されば親も大いに歓び――喜悦序でに――凡そ再び出家なんどを口に出さぬ先に、と――早速、妻なんどまで迎えさせて御座ったと申す。……

 

「……いやはや……弘法の再誕なる者が、これ……即座に女房を持ったと申す顛末……おかしきことにて……御座いましょう?……」

と、夭折致いた与市の思い出話として、かつて一帆斎殿が我らに語って呉れた物語で御座る。

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