『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 明治館 / 鵠沼の部~了
●明治館
明治村にあるを明治館と爲す。旅館なり。藤澤驛を距る十餘町株式の組織にして、宏大なる二層樓、今年七月新築落成開業式を行へり。
地勢高きに據れるを以て、眺望甚だ佳なり、一帶の川流(せんりう)迂曲して其前を過ぐ、川の前面は松林を隔てヽ稻田綠を湛へ、其盡る所又一帶の松樹(せいじゆ)を以て之を界し、海波其外に渺漠なり、大山の翠髻蜿々(えんえん)相連り、伊豆の大島は樓の正面に當り、遙かに指點すべく、江の島は稍(やや)東位(とうゐ)に在りて、松林海を蔽ひて見えず、故に恰も一山の觀なり、其間、近くしては農夫の籠を荷ふて林間を過るさま、遠くして、白帆の徃來するやう、眞に一幅の畫圖なり。
江の島鵠沼邊に遊ばヽ明治館にも一泊せよ、此樓の誇るべきものは涼風にして、欄干に恁(よ)れば颯々として衣を弄し、飄々として羽化せんとす。井水の淸冷(せいれい)にして飮用に適すれば、避暑療養二(ふたつ)なから宜きを得、其海岸を距(さ)ること七八町なるを以て、川流を利用し、之に小舟を浮べて、客を海水浴場に送る。
開館以來其日未だ淺ければ充分なる準備に至らず、今後の計畫は、前面に釣堀を鑿ち、後背に大弓場(だいきうば)を設け、四邊に梅櫻桃李を植え込み、大に面目を新たにし、自然私設公園地の趣を成すといふ
[やぶちゃん注:以下、本文一行字数を底本に合わせた。「藤澤停車場前」の部分は「ふじさわていしやばぜん」とルビがある。]
因に、當明治館、並に鵠沼の東屋に投宿せんとする客の爲
めに告ぐ、藤澤停車場前に、三笠亭と稱する茶店あり、乘
客の荷物を預り、休憇所として夏は氷など商ふ店なるが、
特約を結びて前記旅館の客と聞けば、親切に取扱ふといふ。
[やぶちゃん注:と強烈なタイアップ広告記事である。しかも東屋・明治館と三笠亭のタイアップも示されていてなかなか凄い。「親切に取扱ふ」とはどんなことをして呉れたんだろう?……つまらないことが気になる、私の悪い癖……
「明治館」不詳。不思議なことにネットを管見しても一向に見当たらない。直ぐに廃業してしまったものか? それでも「藤澤驛を距る十餘町」(ニキロ弱ととる)、「其海岸を距ること七八町」(七六四~八七三メートルほど)、しかも「地勢高きに據れるを以て、眺望甚だ佳な」る場所で、「一帶の川流迂曲して其前を過ぐ」という描写から、この旅館が引地川河畔に建っていることが分かる。この引地川の「川流を利用し、之に小舟を浮べて、客を海水浴場に送る」という海水浴場は現在の湘南海岸公園の引地川を挟んだ西側の鵠沼海水浴場と考えてよいだろう。但し、この後の関東大震災によって恐らくは地盤沈下が起っているし、その後の海岸線整備事業によって、この距離は現在はもっとあると考えてよい。ここに記された藤沢駅からの距離で見ると、せいぜい引地川の右岸だと現在の鵠沼河岸六丁目北附近、もしくは左岸の長久保公園・都市緑化植物園が限界である。そこで本誌を繰ってゆくと、「逗子」の部分のとんでもない箇所(当該誌二十頁と二十一頁の間)にこの明治館の山本茂三郎松谷描く「明治村明治館の圖」が挿入されていることに気づいた。この図を見ると、明らかに引地川の左岸のそれもかなり奥に建っていることが分かる(引地川の河口近くでの東へ大きく廻る蛇行部分がかなり向こうの海岸近くに描かれている)。館の右手にはかなり高い小山があり、その山頂には四阿が設えてあるところをみると、これも明治館の付属施設のように見受けられる。この小山が大きなポイントになるはずなのだが、現在、私が候補地としている周辺は宅地化が進んでおり、この山を発見出来ない。しかし、この絵図によって私はほぼ間違いなく引地川右岸の現在の辻堂太平台二丁目にある長久保公園及び都市緑化植物園周辺が旧明治館の跡地なのではなろうかと踏んでいる(リンク先はグーグル・マップ。但し、ここから海岸線までは現在は1・8キロメートルもある。前掲の事情を考慮しても「其海岸を距ること七八町」という表現とは齟齬する。但し、絵を見ても海岸線までは、とても一キロ未満とは感じられないことからも、私はこの「七八町」は実は正確ではなのではないかと疑っている)。郷土史研究家の方の御教授を是非とも乞うものである。
「翠髻」「すゐけい」と読む。「髻」は「もとどり」で髪を頭上で束ねたもの。緑なす黒髪の謂いであるが、ここは大山の美しい緑を指す。
「恁(よ)れば」はママ。「恁」は音「イン」で思う、かくのごとく、の意で「よりかかる」の意はない。「凭」の誤字か誤植である。
「三笠亭」不詳。前の明治館とタイアップで、基、一緒に御教授下さると嬉しい。]
« 生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 五 分裂 イソギンチャクの分裂/ノウサンゴ | トップページ | 北條九代記 鎌倉軍勢上洛 承久の乱【十四】――承久の乱【十四】――院使推松、京都に帰さる。その報を聴きし後鳥羽院、恐懼す »