『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 逗子
●逗子
逗子は相模國三浦郡にあり、田越村(たごしむら)に屬す、新編相模國風土記には、都士牟良、逗子村に作る。又古より村に傳ふる、天正十八年北條氏の文書には、豆師に記し、正保(しやうほ)の改には豆子と載す、北條氏の臣山中上野某氏康に仕へ、三浦厨子城を預り、後氏康の命に依り、美濃守氏規の家老となると、家譜に見ゆ。厨子の唱同じければ、此地なるべし、今土人其城跡を傳へず云々、しかるに近年無比の海水浴場として、逗子海岸海濱の譽れ俄かに高まりしより、田越村の一小部分たりし逗子の、いつしか田越村全體はをろか、左に、
{逗子、小坪、久木、山ノ根、
田 越 村{
{池子、沼間、櫻山、
{堀内、長柄、一色、下山口、上山口、
葉 山 村{
{木古庭、
中西浦村{秋谷、蘆名、佐島、長坂}
葉山、中西浦村に亘りて、此名の総稱せらるゝに至れり。氣候夏は凉しく冬は暖かなり、暑中も華氏寒暖計八十五度を超ゆることなく、寒中は四十度内外なり、四季共に健康を養ふの最大良地なり。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「●」。村名箇条書部分の田越村と葉山村の「{」の部分は底本では三行に亙った「{」でその下位のクラスは実際には中央の空行は存在しないし、誤読をさけるために入れた一行空きもない。逗子は本誌刊行九年前の明治二二(一八八九)年四月一日の市町村制施行により、桜山村・逗子村・山野根村・沼間村・池子村・久木村・小坪村が合併して三浦郡田越村(たごえむら)として発足、同年六月十六日には官設鉄道(横須賀線の前身)は開通して逗子駅が開設されている。この後、大正一三(一九二四)年四月一日に田越村が町制を施行して逗子町と改称、昭和五(一九三〇)年四月一日には湘南電気鉄道(京浜急行電鉄の前身)逗子線が開業し、湘南逗子駅(新逗子駅の前身)が開設された。昭和一八(一九四三)年四月一日には横須賀市へ編入されたが、昭和二五(一九五〇)年七月一日、横須賀市より久木・小坪・山野根・新宿・逗子・桜山・池子・沼間の各地区(旧逗子町域)が分離独立して三浦郡逗子町が再置され、四年後の昭和二九(一九五四)年四月十五日には単独市制を施行して逗子市となって現在に至る(以上はウィキの「逗子市」に拠った)。
「天正十八年」西暦一九五〇年。
「正保の改」よく分からないが、ネット上でも各所にこの言葉は出る。察するに正保年間(一六四四~一六四七年)に行われた全国規模の(正保元年に幕府は諸大名に国ごとの地図である国絵図の作成を命じている)行政区画再編及びインフラの整備(道路整備・架橋など)が行われたことを指すように思われる。
「華氏寒暖計八十五度」摂氏二十九・四度。
「四十度内外」摂氏四・四度前後。これと前の暑中最高気温を足して割ると摂氏十六・九度になる。因みに現在の逗子市の平均気温は公称十五・九度であるから、これ、なかなか、いい線いってる。]