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2014/01/13

北條九代記 大炊渡軍 付 御所燒の太刀 承久の乱【十五】――官軍、尾張河の各渡しに兵を分散配備す

      ○大炊渡軍 付 御所燒の太刀
一院は、關東大軍にて攻上(せめのぼ)る由聞召(きこしめさ)れ、「京都の内へ入來(いりきた)らば惡(あし)かりなん。出向うて追散すべし。先(まづ)宇治勢多の橋をや引きて待べき。尾張河へや向へらるべきしと評定あり。「尾張河まで走(は)せ向うて、若敵強くして、味方破れたらん時にこそ、宇治勢多にても防がるべけれ。尾張河には九瀨(こゝのせ)あり。手分して、瀨々(せゞ)に遣し防がれん」とて、大炊渡(おほひのわたり)へは駿河〔の〕大大判官、糟屋(かすやの)四郎左衞門尉、筑後〔の〕太郎左衞門尉、同六郎左衞門尉、に西面の者ども二千餘騎を差副へて遣さる。鵜沼渡(うぬまのわたり)へは美濃の目代帶刀(たてはき)左衞門尉、神土(かんづちの)蔵人入道父子三人に一千餘騎を差副へて向へられたり。板橋渡(いたはしのわたり)へは、朝日〔の〕判官代、海泉(かいせんの)太郎その勢一千餘騎をむかはせらる。氣瀨渡(きせのわたり)へは富來(とみきの)次郎判官代、關〔の〕左衞門尉一千餘騎、大豆途渡(まめどのわたり)へは能登守秀康、平九郎判官胤義、下總前司盛綱、安藝(あきの)宗内左衞門尉、同藤左衞門尉これをはじめとして、都合一萬餘騎にて向ひたり。食渡(いひのわたり)は阿波〔の〕太郎入道、山田左衞門尉五百餘騎にて馳せくだる。稗島渡(ひえじまのわたり)は矢野(やのの)次郎左衞門尉、長瀨〔の〕判官代五百餘騎、墨俣河(すのまたがは)へは河内判官秀澄、山田〔の〕次郎重忠一千餘騎、市河前(いちかはまへ)の渡(わたり)は、加藤伊勢〔の〕前司光定五百餘騎、以上一萬七千五百餘騎なり。敵の人數に比ぶれば、十が一にも及ばざるに、しかも是を分遣(わけつかは)し小勢にて大軍を防ぐ其謀(はかりごと)はありもぞすらん、先(まづ)は拙(つたな)き軍謀(ぐんばい)かなと、心ある人は思ひけり。
[やぶちゃん注:〈承久の乱【十五】――官軍、尾張河の各渡しに兵を分散配備す〉ここも各パートで分離して示す。標題は「「おほひのわたりいくさ つけたり ごしよやきのたち」と読む。
「尾張河」諸注は現在の境川の古称とするが、以降の叙述を見る限りでは現在の境川を含め、木曽川及び長良川の流域を包括的に指すと認識した方が理解し易いように私には思われる。
「大炊渡」美濃国可児郡土田大井戸郷(現在の岐阜県可児市)にあった渡し。以下の同定は岩波新古典文学大系版「承久記」の本文(慈光寺本)の脚注を参考にした(但し、慈光寺本では表記や配された武将に「北條九代記」が拠った古活字本とは異同が見られる)。
「鵜沼渡」慈光寺本では「賣間瀨(うるませ)」とある。美濃国。現在の岐阜県各務原市の木曽川北岸にあった旧鵜沼村辺り。
「神土蔵人入道父子」慈光寺本は「神地殿」で「かうづち」とルビを振る。脚注に、『神地頼経。美濃国武芸郡上有知(こうずち)庄(現、岐阜県美濃市)より起こる。清和源氏』とある。武芸とは「むげ」と読むようである。
「板橋渡」美濃国加茂郡。鵜沼下流直近の、現在の各務原市鵜沼小伊木町附近か。
「氣瀨渡」慈光寺本の「伊義渡(いぎのわたり)」。美濃国。生瀬ともいったと脚注にある。
「大豆途渡」慈光寺本「大豆戸」。別の箇所の脚注に、摩免戸・前渡とも書き、山名の渡しとも呼称した旨の記載がある。美濃国、現在の各務原市。
「食渡」慈光寺本は「じきのわたり」とルビし、注に『美濃国。印食ともいった』とあって、別の注で現在の『岐阜県羽島市岐南町。かつての木曽川の氾濫原だった』とある。岐南町は「ぎなんちょう」と濁る。
「稗島渡」不詳。
「墨俣河」美濃国。現在の岐阜県安八郡墨俣町附近。そもそも墨俣川は現在の長良川の古称である。
「市河前の渡」不詳。
 以下、「承久記」(底本の編者番号36のパート)の記載。
 先、討手ヲ可ㇾ被ㇾ向トテ、「宇治・勢多ノ橋ヲヤ可ㇾ被ㇾ引」、「尾張河ヘヤ向ルべキ」、「尾張河破レタラン時コソ、宇治・勢多ニテモ防レメ」、「尾張河ニハ九瀨アンナレバ」トテ、各分チ被ㇾ遣。大炊ノ渡へハ駿河大夫判官・糟屋四郎左衞門尉・筑後太郎左衞門尉・同六郎左衞門尉、是等ヲ始トシテ西面者共二千餘騎ヲ被二差添一。鵜沼ノ渡へハ美濃目代帶刀左衞門尉・神土藏人入道親子三人、是等ヲ始テ一千餘騎ゾ被ㇾ向ケル。板橋へハ朝日判官代・海泉太郎、其勢一千餘騎ゾ向ハレケル。氣瀨ハ富來次郎判官代・關左衞門尉、一千餘騎ニテゾ向ケル。大豆途へハ能登守秀康・平九郎胤義・下總前司盛綱・安藝宗内左衞門尉・藤左衞門尉、是等ヲ始トシテ一萬餘騎ニテゾ向ヒケル。食ノ渡へハ阿波太郎入道・山田左衞門尉、五百餘騎ニテ向フ。薭島へハ矢次郎左衞門・長瀬判官代、五百餘騎ニテ向ケリ。墨俣へハ河内判官秀澄・山田次郎重忠、一千餘騎ニテ向。市河前〔へ〕ハ賀藤伊勢前司光定、五百餘騎ニテ向ケル。以上一萬七千五百騎、六月ノ晦、各都ヲ出テ、尾張ノ瀨々へトテゾ歩セケル。]

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