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2014/01/05

耳嚢 巻之八 火爐の炭つぎ古實の事

 火爐の炭つぎ古實の事

 

 文化五卯年春、例の通(とほり)勅使院使參向あり、別段の御禮として、聖護院宮(しやうごゐんのみや)も參向(さんかう)にて〔此(この)聖護院宮は今上の御實弟也。〕二月廿九日御饗應の御能(おのう)ありしに、勅使廣橋(ひろはし)千種(ちぐさ)兩亞相(あしやう)の前へ出せし火鉢の炭、殊の外流れけるを、つぎ候樣にとの沙汰にて、中奧御番(なかおくごばん)〔山本平六郎 黑川左京〕其役を請(うけ)て、炭をもちて手をもてつぎたりしを、兩卿旅館に歸り給ひし其あくる日、京都にて親しふ參りし塙檢校(はなはけんげう)といへる法師、傳奏(でんさう)屋敷へ至り起居(ききよ)を訪ひし頃、廣橋殿申されしは、關東にも古實等はよくよく御糺(おただし)も有(あり)ける也(なり)、此程能見物の節、火鉢の炭流れしを、繼(つぎ)かへし候ものゝ立(たち)ふるまひ、炭つぎ方營中にての式にちがはず、手してつぎかえし事感心せしと被申(まうされ)けるを、彦介立歸りがけ堀田攝津守の許へよりてかたりしを、攝津守聞(きき)給ひて、右中奧の名前、並(ならびに)炭つぎし人を尋(たづね)給ひしゆゑ、いかなる失(しつ)や有(あり)しと中奧にては驚きしが、以來ともつぎかへ候筋は此度(このたび)の通り心得候へと沙汰有(あり)しにて、いづれもあんどなせしとなり。此事を、和學詠歌抔にて人の知る横田袋翁、糺しける事有しと書(かき)て見せぬ。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

徒然草〔普通本二百十二段〕

御前の火爐に火を置く時は、火ばししてはさむ事なし。かはらけよりたゞちにうつすべし。さればころびおちぬ樣に心得て炭をつむべきなり。德治三年後字多法皇八幡御幸に供奉(ぐぶ)の人、淨衣(じやうえ)をして手にて炭をさゝれければ、ある有職(いうそく)の人、しろき物着たる日は、火ばしを用(もちゆ)るくるしからずと申されけり。

めのとのさうし

むかしさる御方に、今まいりの女房の、みぐるしげにてさし出たるが、御前の火鉢に炭を火箸にておかれ候を、御主も傍輩も、御前の炭は手にておくものにて候、はしにてはおかぬものと申候得ども、火ばしにてをきて立のきて、炭のあしく候ほどにと申(まうし)て、その儀御いとま申ける。此人はおさなきより、修明門院(しゆめいもんゐん)の御かたはらにさむらひける人となん聞(きこ)へし。實(げに)も御前の炭はよくのごひてひきて、油をぬりておくなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:武辺古記録から有職故実記録で連関。三つ前の横田泰翁直談話としても連関。

・「火爐」「くわろ(かろ)」と読み、火鉢・囲炉裏などの類い。なお、最後に掲げられた古書からの引用例二つは、この故実の正統性を補強するものでなくてはならない。さればそのような方向性で訳の一部に敷衍を施してある。特に後者の訳は実はとんでもない誤訳なのかもしれない、と注記するほどに自信がないことを告白しておく。是非とも識者の御教授を乞うものである。

・「古実」故実。古くは「こしつ」とも読んだ。儀式・法制・作法・服飾などの古い規定や習慣。

・「文化五卯年」文化五(一八〇八)年は戊辰(ちちのえたつ)であるから誤り。卯年ならば前年の文化四年丁卯(ひのとう)。因みに「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、直近の話柄である。訳では文化五年辰年と訂した。

・「勅使院使」底本鈴木氏も岩波長谷川氏も文化五年のそれを記す。これは以下の担当者からの判断によるものである。この時の勅使ら公卿は、

〇広橋前大納言伊光(ひろはしこれみつ  延享二(一七四五)年~文政六(一八二三)年))。彼は尊号事件〔寛政元(一七八九)年に光格天皇が実父の典仁親王に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとして幕府老中松平定信から皇位に就いていない人物への皇号は先例がない(事実は必ずしもそうではない。ウィキの「尊号一件」を参照されたい)として拒否されるも、寛政三年に天皇が群議を開き、大方の公卿の賛意を得て、尊号宣下の強行を決定した事件。結局、尊号宣下は行われなかった。〕での首謀格として寛政五年に謹慎が命ぜられて二十日間に渡って参朝を停められた人物でもある。当時、満六十三歳。

〇千草前中納言有政(寛保三(一七四三)年~文化九(一八一二)年)。議奏(朝廷の職名。天皇の側近として口勅を伝え、上奏を取り次いだ。清華(せいが)・羽林(うりん)の両家から四、五人が選ばれた。千草家は羽林家の家格を有した。)や武家伝奏(朝廷の職名。諸事に亙って武家との連絡にあたる役。江戸時代には定員二名で関白に次ぐ要職であった。伝奏。)を務め、朝廷の重職を担った。彼は後に大納言になっている。

の勅使二名、院使は、当時、満六十四歳。

〇梅小路前大納言定福(寛保三(一七四三)年~文化一〇(一八一三)年)。思文閣「美術人名辞典」によれば、『儒学を重んじ、余暇に経典を学び、道徳を論じたという』とある。

で、鈴木氏注によると、『三月朔日江戸着、二日登城、五日饗応の猿楽が催された。二月二十九日は誤り』とある。当時、満六十四歳。

・「聖護院宮」盈仁(えいにん)法親王(明和元(一七六四)年~文政一三(一八三一)年)。閑院宮典仁(すけひと)親王第七王子。後桃園天皇の養子で、天台宗聖護院門跡の忠誉入道親王の弟子。天明元年に親王となり、翌年に出家した。後、園城寺長吏・聖護院門跡となった。俗名は嘉種(よしたね)(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。当時、満四十三歳。

・「今上」光格天皇(明和八(一七七一)年~天保一一(一八四〇)年)。ウィキの「光格天皇」によれば、『傍系であった閑院宮家出身のためか、中世以来絶えていた朝廷の儀式の復興に熱心であった。実父慶光院と同じく歌道の達人でもあった。朝廷の権威の復権に努め、朝廷が近代天皇制へ移行する下地をつくったと評価されている。江戸幕府第10代将軍徳川家治の御台所倫子女王は実の叔母(実父の妹)にあたる(つまり、光格天皇は倫子女王の甥にあたり、徳川家治の義理の甥でもある)』とある。

・「亞相」丞相に亜(つ)ぐの意で大納言の唐名。

・「炭、殊の外流れける」儀式の時間内を燃え続けるように置いた炭が、予想に反して燃え尽きてしまって灰がちになったことを言っているようである。

・「中奧御番」「中奥」は江戸城の表と大奥の間にあった、将軍が起居して政務を執った建物。そこの番士。

・「山本平六郎」岩波版長谷川氏注によれば、山本邑良(むらよし)で安永四(一七七五)年に中奥番士となっているとあるから、この時、そんなに若くはない。五十は有に越えていよう。

・「黑川左京」岩波版長谷川氏注によれば、黒田正明(まさあきら)で天明八(一七八八)年に中奥番士となっているとあるから、「山本平六郎」よりかなり若い可能性が高いように思われる。

・「塙檢校」国学者であった検校塙保己一(延享三(一七四六)年~文政四(一八二一)年)。幼名寅之助・辰之助。江戸へ出てから千弥・保木野一と称し、後に保己一と改める。号は水母子。家号を温古堂という。武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市)の農家荻野宇兵衛・きよ夫婦の長男として生まれたが、七歳で失明、十五歳の時に江戸に出て、雨富検校須賀一の門に入った。保己一は音曲や鍼・按摩の修業をしたが不器用で物にならず、寧ろ、強く学問を志した。雨富検校の隣人の松平乗尹の紹介で歌学者萩原宗固に入門、また垂加神道を川島貴林に、故事考証を山岡浚明に学んだ。二十一歳の時、父と西遊して北野天満宮を守護神と定めた。二十四歳で賀茂真淵に入門した(但し、半年後に真淵は逝去している)。安永四(一七七五)年、三十歳で勾当に進み、須賀一の本姓を襲って塙を姓とした。同八年には全国に散在する国書を収集刊行する大事業を発起、その実現を北野天満宮に祈誓して「般若心経」百万巻読誦を発願した。三十八で検校となり、同年中に日野資枝・閑院宮典仁親王・外山光実の各門に入って堂上歌学を学ぶ。四十にして立原翠軒の推薦で水戸藩主徳川治保に謁見、後に「大日本史」校正に参画した。寛政五(一七九三)年、和学講談所と文庫創設を願い出て認められ、やがて林大学頭の支配下で幕府の財政援助を受けることとなった。保己一畢生の大事業は国書大叢書「群書類従」六百七十冊の編纂と刊行(文政二(一八一九)年)及びその続編である「続群書類従」の編纂と言える(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

・「傳奏屋敷」武家伝奏又は勅使の宿所として江戸に設けられた邸宅。

・「起居を訪ひし」岩波長谷川氏注に、『見舞う』とある。

・「關東」幕府方(同義として将軍をも指す)。

・「彦介」不詳。文脈からは塙保己一であるが、彼の呼び名にこのようなものを確認出来ない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『撿挍立帰り掛(が)け』とある。「塙殿」で訳した。

・「堀田攝津守」堀田正敦(ほったまさあつ 宝暦八(一七五八)年~天保三(一八三二)年)。若年寄。近江堅田・下野佐野藩主。摂津守。仙台藩主伊達宗村の八男として仙台で生まれ、天明六(一七八六)年に堅田藩主堀田正富の養子となって翌年に家督相続、寛政元(一七八九)年に大番頭、翌二年に若年寄・勝手掛となって、寛政の改革の財政を担当した。文化四年にはロシア船来航を受けて蝦夷地に赴いてもいる。文政九(一八二六)年に下野佐野に転封、天保三(一八三二)年に七十五歳で致仕するまで四十三年の長きに亙って若年寄の職にあった。この間、「寛政重修諸家譜」編纂を総括するなど、幕府の系譜編纂事業に寄与し、屋代弘賢(後注参照)・林述斎・大槻玄沢・谷文晁といった多くの学者文人と交わって彼らの学問芸術の庇護者ともなった。自らも博物学者として近世最大の鳥類図鑑「観文禽譜」を編纂している。(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「横田袋翁」再注すると、「耳嚢 巻之七 養生戒歌の事」に「横田泰翁」の名で初出する。底本の同話の鈴木氏注に、『袋翁が正しいらしく、『甲子夜話』『一語一言』ともに袋翁と書いている。甲子夜話によれば、袋翁は萩原宗固に学び、塙保己一と同門であった。宗固は袋翁には和学に進むよう、保己一には和歌の勉強をすすめたのであったが、結果は逆になったという。袋翁は横田氏、孫兵衛といったことは両書ともに共通する。『一宗一言』には詠歌二首が載っている』とある。本話に塙保己一が出るのもこれで頷ける。

・「徒然草〔普通本二百十二段〕」「普通本」とは流布本、一般に最も普及している版本という謂いであろう。特に現在しられた「徒然草」の本文の異同はないが、一応、以下に「徒然草」の流布版本の最初である慶長初年(一五九六年)に板行された古活字版を示しておく(但し、そこでは段数が二百十三段である。ただ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は正しく『二百十三段』とあるので単なる誤写と思われるので、訳では訂した)。底本は川瀬一馬校注版(講談社文庫昭和四六(一九七一)年刊)を用いたが、恣意的に正字化し、ルビの一部は省略した。

   *

    第二百十三段

 御前の火爐(くわろ)に火をおく時は、火箸(ひばし)してはさむことなし。土器(かはらけ)より、ただちに移すべし。されば、轉(ころ)び落ちぬ樣にこころえて、炭を積むべきなり。

 八幡(やはた)の御幸(ごかう)に供奉(ぐぶ)の人、淨衣(じやうえ)を着て、手にて炭をさされければ、ある有職(いうそく)の人、「白きもの着たる日、火箸を用ひる苦しからず。」と申されけり。

   *

●「御幸」平安以降、これを「ごかう(ごこう)と音読みした際には、天皇の「行幸(みゆき)」に対して上皇・法皇・女院の外出を指す。但し、古くは「みゆき」でもこれらの人々の場合にも用いた。

・「德治三年後字多法皇」前文の引用でお分かりの通り、これは一種の割注がそのまま本文に出たものである。これについて岩波版注で長谷川氏は、本話のこの「徒然草」「めのとのさうし」二書の引用部分が、大田南畝作の「一話一言」(安永四(一七七五)年~文政五(一八二二)年執筆)に、屋代弘賢の考証として載るものと酷似している旨の記載があり、ここはその『弘賢所引の『徒然草』の傍注を本文にくりこんだ語句』とされておられる。但し、「德治三年」は西暦一三〇八年で今上帝は後二条天皇及び花園天皇、その四代前が後字多天皇で長子であった後二条天皇のこの徳治三(一三〇八)年まで院政を敷いていた(その後、不仲であった実子後醍醐天皇の即位と台頭によって表舞台を去ってゆく。この父子の力関係は未だ複雑で判然としない)。

・「八幡」石清水八幡宮。

・「淨衣」神事仏式の潔斎の際に着用する白い服。

・「有職の人」有職故実(ゆうそくこじつ:先の故実と同じい。朝廷や公家の礼式・官職・法令・年中行事などの先例や典故)に詳しい人物。

・「めのとのさうし」南北朝以前に書かれたと思われる婦女の心得・宮仕の故実等を記した教訓書。作者不詳。

・「今まいり」新たに出仕すること、又は、その新しく出仕した者。新参者。

・「修明門院」後鳥羽天皇の寵妃藤原重子(寿永元(一一八二)年~文永元(一二六四)年)の院号。順徳天皇母。藤原南家高倉流藤原範季の娘で、母は平家一門平教子(清盛の異母弟教盛娘)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 火炉(かろ)の炭継ぎの故実の事

 

 文化五年辰年の春、例の通り、勅使・院使参向(さんこう)これあり、格別の御礼儀として、聖護院宮(しょうごいんのみや)も参向なされて〔この聖護院宮と申すは今上の帝の御実弟であらせられる。〕、二月二十九日、御饗応の御能(おんのう)が催されて御座ったところ、勅使広橋殿・千種(ちぐさ)殿両元大納言の御前(おんまえ)へお出し申し上げて御座った火鉢の炭が、何故か、すっかり燃え尽きてしまったによって、

「炭を継いでたもれ。」

との御沙汰があったによって、中奧御番(なかおくごばん)〔山本平六郎及び黒川左京。〕がその御役をお請け申し上げ、手ずから炭を持って火炉へと継ぎ換え申し上げた。

 さて、その両公卿殿が旅館にお帰り遊ばされた、その明くる日のこと、京にて御二方と親しくし申し上げて御座った塙(はなわ)検校と申さるる法師が伝奏屋敷へと参り、ご機嫌伺い致いた際、広橋殿の申されたことには、

「……関東方にても故実などはよくよくお糺しもこれあらっしゃるのおじゃるのぅ。……この度、御能見物の折節、火鉢の炭の消えたを、継ぎ加えて御座った者の、その立ち居振る舞いや炭継ぎ方……営中にてのその式に違わず……素手を以って継ぎ換えを致いたること、まっこと、感心しておじゃる。」

と申されたを、検校殿、伝送屋敷よりの帰りがけ、堀田(ほった)摂津守正敦(まさあつ)殿の許へ立ち寄られ、そのことをお語りになられたと申す。

 摂津守殿はこれをお聴きになられたによって、後日(ごにち)、かの折りの中奧御番の者の名前、并びに、炭を継いだ者は誰(たれ)か、と係りの者にお尋ねになられたと申す。

 されば、そのこと、小耳に挟んだ者が伝えたによって、

「……い、一体、如何なる失態、これ、御座ったものか?!」

と中奧にては一同、驚愕恐懼致いて御座ったところへ、お上より、

「――向後とも、炭継ぎ換え候う仕儀は、この度の通りと心得るが宜しい。」

との御沙汰があったによって、孰れも安堵致いたとのことで御座った。

 このことにつき、和学や詠歌などに詳しく、有職故実の方面にては人も知るところの、かの横田泰翁殿が、

「――我ら、その謂われにつき、糺いたことが、これ、御座る。」

と申され、以下のように書いて見せて呉れた。

   △

一、「徒然草」〔流布本の二百十三段。〕に載る本件故実を裏付ける例外的措置記載例――

 貴い御方の御前(おんまえ)辺りの火炉に火を入れ置く時には、炭を火箸を以って挟むことは決して、ない。土器(かわらけ)より直接に移さねばならぬ。それゆえ、炭火が転び落ちぬよう、よくよく注意を致いて、炭を積まねばならぬ。

 石清水八幡宮へ上皇さまがお出ましになられた折り〔これは徳治三年の後字多法皇の御事蹟であらせられる。〕、御供の者が、白き浄めの浄衣(じょうえ)を着し、素手にて炭をお継ぎ申し上げたところ、さる有職故実に詳しきお方が、

「白き着物を着したるこのような特別なる祭事の日には、まあ、例外的に火箸を用いても差し支えは御座らぬ。」

と申された、とのことである。

   △

一、「めのとのそうし」に載る本件故実の正統性を裏付ける積極的な記載例――

 昔、さる高貴な御方に、新参者の女房で、如何にもみっともない仕草を致いた女房が、御前(おんまえ)辺りにあったる火鉢に、平然と火箸を以って継ぎ炭を置き申し上げようとしたところが、御主(おんあるじ)もかの女房の傍輩(ほうばい)どももともに、

「――御前辺りへの炭継ぎは、これ、素手にて置くものにて御座る。――おぞましくも火箸にては決して置いてはならぬものなので御座いますぞ。」

と咎め申しましたところが、それを聴き及びながらも、かの女房、結局、そのまま火箸にて炭を継ぎ終えてしまい、御前を退いた後、

「……そやかて何としても、炭が穢のうて。……」

と弁解申したとのことで御座いました。

 されば、この女房の御前への伺候は以後、お差し止めになった、とのことで御座います。

 この高貴なる御方とは、幼き折りより後醍醐天皇の妃であられた後の修明(しゅめい)門院重子さまの御側近くに、親しゅう伺候なさっておられた御方とお聞き及んでおりまする。

 まこと、御前辺りに差し申し上ぐるところの炭は、これ、事前によくよく綺麗に拭(のご)っておき、素手にて継いで後もまた、速やかに火の移るよう、薄く油を塗っておくものなので御座いまする。

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