耳嚢 巻之八 實情の歌は見る所有事
實情の歌は見る所有事
岡野瀧四郎は、予が地方(ぢかた)奉行せし頃は普請役なりしが、昇進して支配勘定をなん勤(つとめ)しが、不幸にして早く身まかりぬ。其子形彦〔岡野次郎兵衞〕は、物書(ものかき)畫かきなどして予が許へも來りぬ。母は屋代弘賢がはらから也。瀧四郎が手植せし八重梅を、形彦が母、夫の七廻りの忌に當りければ、
春來れはうぐひすきなく梅はあれど植にし人のなきぞ悲しき
とよみて形彦に見せければ、其はしに言葉書(ことばがき)して形彦のよめる、
梅の花うつし植にし父まさで我のみ聞も鶯の聲
とよめる由。其叔父なる弘賢ふところにして見せぬ。形彦が歌よむと言ひ、かの母の此道に志有(あり)といふ事も聞(きか)ざれど、其情の思ひ出る所は、かく有(ある)べきと爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。二つ前の「白川侯定信屋代弘賢贈答和歌の事」の和歌譚と屋代弘賢談話で直連関。
・「岡野瀧四郎」不詳。
・「地方奉行」本来は江戸幕府初期にしかなかった職名で幕府直轄地の民政を取り扱ったが、ここは「地方」を「遠国」と同義で用い、遠国奉行として根岸が務めた佐渡奉行のことを言っている。根岸は天明四(一七八四)年三月十二日から天明七(一七八七)年六月まで佐渡奉行を勤めた。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、凡そ二〇年前である。
・「普請役」勘定所詰御普請役。享保九(一七二四)年設置され、延享三(一七四六)年には、主に関東の四川(しせん:鬼怒川・小貝川・下利根川・江戸川)流域の普請を担当する四川用水方御普請役と、十五ヶ国幕領の河川及び用水管理特に東海道五川(大井川・酒匂川・天竜川・富士川・安倍川)を専管する在方(ざいかた)御普請役、及び諸国臨時御用を勤める勘定所詰御普請役に分課された(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。
・「支配勘定」勘定奉行に所属し、幕府の財政・領地の調査を掌った。奉行―勘定組頭―勘定―支配勘定の序列。
・「春來れはうぐひすきなく梅はあれど植にし人のなきぞ悲しき」読み易く書き直すと、
春來れば鶯來鳴く梅はあれど植えにし人のなきぞ悲しき
・「梅の花うつし植にし父まさで我のみ聞も鶯の聲」読み易く書き直すと、
梅の花移し植えにし父坐さで我のみ聞くも鶯の聲
で、下句「うくひすのこへ」の「うく」は「憂く」(憂し)を掛けて、私独りだけで聞くのも春を告げると申すに鴬の声は何故か憂いもので御座います、と掛ける。音韻的にもこの両首を合わせて詠ずると、ウ音が対照的に反射するように広がってすこぶる美しい。
■やぶちゃん現代語訳
真心から詠ぜられた歌は見所がある事
岡野瀧四郎殿は、私が佐渡奉行を勤めて御座った頃は普請役で御座って、昇進致いて支配勘定をも勤めて御座ったれど、不幸にして早(はよ)うに身罷られた。
その子息形彦殿(岡野次郎兵衛と申す。)は、物書きや絵描きなどを得意と致いて、暫らくは私の元へもよく参ったものであったが、彼の御母堂はまた、我らが知己の屋代弘賢殿と御姉弟でもあられた。
瀧四郎殿が生前手づからお植えになられた八重の梅を、形彦殿の御母堂、夫の七回忌に当たるとて、
春来れはうぐひすきなく梅はあれど植にし人のなきぞ悲しき
と詠んで形彦殿に見せたところ、その歌の脇に書き添えて形彦殿が唱和致し、
梅の花うつし植にし父まさで我のみ聞も鴬の声
と詠まれらと申す。
その叔父なる弘賢殿が、それを大事に残しおいたによって、先日、私にも見せてくれた。
形彦殿が歌を詠むと申すも、また、かの御母堂が歌道に志しのあったと申すも、これ、とんと聞いたことはなきことなれど、その真情の思ひ出でたるところの歌というものは、これ、かくも美しきものならんと感じ入ったればこそ、ここに記しおくことと致いた。
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